「われわれ」の形成

たとえば、「もはや戦後ではない」と日本国内で言われ始めた前後に、軍人恩給は復活し(1953年)国家行事として行う全国戦没者追悼式は「戦争に倒れた国民の尊い犠牲によって今日の平和と発展がもたらされた」ことを記念するためだと、閣議決定され、同時に千円札の肖像画が聖徳太子から伊藤博文に変更される(1963年)。こうした動きは、1964年に戦没者受勲が天皇誕生日に「再開」したことに顕著に表れているように、日本国が戦後、戦争をなんらかの形で国民のあいだに継承させようとする意志に貫かれている。

(岡野 p172 同書)

戦死者の半分は餓死者である。つまり彼らは兵士として(戦い)死んだわけではなく、国家の当然の義務としての糧秣供給を怠ったことによる死、短く言えば日本国家に殺されたと言える。などなどといくら言っても、軍人恩給制により金が出されればそれを拒否しようと思って実行する人はごくわずかしかいないのは当然だ。そこに思想的な課題があり注目すべきだと力説する思想家政治勢力も存在しなかったわけだからね。

(参考 http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050913#p2

60年掛けてジッリジジッリ力ずくで成立させてきた日本(戦前)=日本という同一律。どうあしらったらよいものだろう?

もう一つの「女王の教室」

「女王の教室」終わりました。ちゃんと見てないけど。面白かったんですが、結論は新自由主義かい! みたいな思いもあり・・・

ところで、田島先生は、かっこいいね!

http://blog.livedoor.jp/easter1916/archives/50073630.html ララビアータ:希望

 経験のある人には実感できると思うが、ホームパーティをうまく主催するためには、ある種「女性的」といってもいいような高次の感覚が必要となる。多方面に注意を張り巡らし、パーティに出ているどの人にも疎外感を感じさせず、それぞれの持ち味を引き出すように、さりげなくエンカレジせねばならない(これは、多くの皿を回し続ける皿回しの技にちょっと似ている)。どの参加者にも、内に引きこもっているよりも、自己を(できればエレガントに)表現するほうが楽しいという気分になってもらわねばならない。また、参加者のつたない自己表現からも、その最も面白く美しい部分を掬い取り、そこに光をあてるような上演をせねばならない。知らず知らずに自己(のより美しい部分)を表現し、受け入れられ、また受け入れられたことに気付いて、あるいはそうした新しい自分に気付いて、帰途に着いてもらうようにせねばならないのである。

オペラ座の正面階段を上るにつれて、心の中が音楽の予感に、シャンペンのように泡立つ――そのような祝祭的気分がかもし出されなければ、とても社交とは言えない。(同上)

(引用しなかった部分に「女王の教室」を思わせる部分が有ったのです。)

人間とは

人間とは繕(つくろ)う動物である。*1

             (エリザベス・スペルマン)

*1:「繕いのフェミニズムへ」岡野八代 p87現代思想9月号isbn:4791711408

応答可能性と政治的正義

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050918 の続き

責任/応答可能性という発想は、岡野八代においては政治的正義実現のための一つのステップとして現れる。

私の人生がこんなになったのは日本のせいです。日本は私たちに補償をして、このことを歴史に残さなければなりません。今の日本や韓国の若者は、こんなことがあったことを知らないので、事実を教えてあげなくてはいけないと思っています。(元従軍<慰安婦>金学順)

「責任」を考える場合に、わたしたちは、在る行為を自らが「自由」になしたからこそ、その行為に対する「責任」が生じる、と考える。だがしかし、呼応関係においては、「かつて自らが自由になした行為については、今その責任がある」といった<責任に先立つ自由>といった考え方が覆される。なぜなら、<わたし>がいま、金学順さんの言葉を聞いた時点で、すでに否応なく彼女の声に応えることが要請されており、聞いてしまった時点でわたしには、いかなる自由もなく、すでにその声に応える責任/応答可能性のなかに巻き込まれてしまっているからだ。そして、その後に、その声に応えるか否かの自由に開かれることになる。*1

責任とはまず無限責任なのだ。そして無限責任であるかぎりその責任を<わたし>は果たしえない。そんなことは不可能なのだ。p248同上

わたしたちは、ある意味で偶然出会う個別のひとびとからの呼びかけを個別の受信者として聞き取ることしかできないのである限り、あらゆる人からの無限の責めとしての倫理的責任は、ある限定した範囲の中で果たされるしかない。つまり、実際に彼女たちに正義が回復されるためには、わたしたちは、誰にどれだけの正義を返すのか、という限定的な正義の範疇や正義を回復するためのルールを確定しなければならない。(略)

そうではなく、倫理的責任は無限責任であることを意識しながらも、なお限界を問い返しながら責任を取ろうとする積極的正義が存在していることを意味しているのだ。p269同上

岡野はこの正義を「政治的正義」と呼ぶ。これは(アリストテレスからロールズに至る)現代正義論の立場、即ち「配分的正義論を正義の通常モデルとする正義論の立場に立てば、日本政府が従軍<慰安婦>問題に対して無責任であっても、正義に悖ることがないという結論が導かれる*2」そのことに対する批判として、なされる。

*1:p246 岡野八代『法の政治学』isbn:4791759699

*2:同上p265

パソ音痴

昨日からインターネット接続の調子が悪く、メールも繋がらなかった。いつも1時間くらいで直るのに今回は半日以上続くので困った。ルータをリセットしてみたら直った。デフォルト・ゲートウェイにpingして100%lossとは、ルータと繋がっていない、という意味ですか?

おばさん/金比羅

 おばさん、といえば金井美恵子ですね。『おばさんのディスクール』という本を書いたとき、彼女はおばさんと呼ばれておかしくない年齢だったのに、自己=おばさんという規定から自分は先験的に逃れている存在だと思っていて、恥をかいたのでした。まあ彼女は天才少女作家(詩人)としてデビューして、そのままの自意識で書き続けてきたわけでしょう。わたしというものは主体でしかありえないものですからそれは当然であると言えます。

 ある人は笙野をもう一人の三島であると言っています。三島は天才としてデビューし天才として死んでいった(みたい)ですから、この比較はひどく場違いにも見えます。

 笙野がおばさんであるとはいったいどういうことなんだろうか。よく分からない。『金比羅』だってもっと面白い小説にすることはいくらもできただろうにそうしてないのは何故か。

 神であることの退屈。作家は作品に対し絶対者であり神である。読者は気付きようがないが作者であればこのことは自明の与件である。したがって作者はその万能感を薄めてシュガーコートすることでエンターテイメントという商品をつくることができる。私小説だと逆に「私」は世界に虐められマゾヒズムに沈み込むしかない。笙野は「神であることの退屈」から逃れるために、私小説を取り込もうとし、またオバサンであり続けようとする。

 それとは別に、笙野は彼女の<神>を持っている。これも日本人として“ふつう”のことではある。わたし(や他のインテリ諸君)の理解が及ばないだけだ。

わたし/ナルシズム

--私は偶然に助かったんです。運がいいわけでもない。誰のおかげでもない、ふふんふふーん、私は科学の子だ。ふんふんふんっ。

 というような人がいるかもしれません・あーあ、ねーえ。*1

の「ふふんふふーん」「ふんふんふんっ」って一体何なんだ。わたしはサラリーマンです、とかわたしは主婦です、とかのありふれた自己紹介にもこの「ふふんふふーん」「ふんふんふんっ」はくっつけることができる。わたしは私をニュートラルに記述することはできず、そうできたと思っているときは、普通よりより深いレベルでナルシズムを育ててしまっている。笙野はそう言いたいのか。

*1:p14『金比羅』笙野頼子 isbn:4087747204

ふふんふふーん・2

ところで『金比羅』図書館で借りて、もう2週間はとっくに過ぎているので明日は返さないといけない。もう少し引用しておこう。

小説冒頭部分でこの擬音語でも擬態語でもない奇妙な「ふふんふふーん」系の言葉(文字列)は次のところに集中して現れる。

(p11)

 ふふん!

 みっつというのはなんという都合のいい数でしょう。三と言っただけで愚民はもう全てを網羅し、可能性を調べ尽くしたと思ってくれるのですから。

 いやいや、しかし皆さんのような反権力・非愚民がそんな単純な事で騙されるはずはない。だって私だって別に騙そうとも思ってないんだから。へっへー--。

(p14)

--私は偶然に助かったんです。運がいいわけでもない。誰のおかげでもない、ふふんふふーん、私は科学の子だ。ふんふんふんっ。

 というような人がいるかもしれません・あーあ、ねーえ。*1

(p23)

あなた方などは神について語ってはいけない。たかが人間がね、何も知らない癖に。おや、今むっとしましたね。はっはっはっは、ふん。だけれども私達神が聞こえる神が見えるものと、あなた達人間とは違うのですよ。ですからね、今こそね、その違うということを思い知りなさい。ふん、ふうん、けーっ。ほっほー。

もう一度列挙すると次の通り。

  1. ふふん!
  2. へっへー--。
  3. ふふんふふーん
  4. ふんふんふんっ。
  5. ・あーあ、ねーえ。
  6. はっはっはっは、ふん。
  7. ふん、ふうん、けーっ。ほっほー。

この小説は、私が私について語る一人称小説である。そしてまた私が語り手となって、読者に向かって饒舌に語りかける、というスタイルを取る。それだけなら良いのだが、この「私」は実は人間ではない。金比羅だ。私達=神が聞こえる神が見えるもの、である。当然、あなた達人間とは違う。しかし神に近いものがそこらへんのおばちゃんのように自分のことをどんどんしゃべり始めてものだろうか。神に近いものは当然人間からは高慢に見える。しかし、半神はそもそもそんなことすら気にしない者ではないのか。人間の常識の範疇を超えているはずだ。しかしそれでは人間と関係を持てない。笙野の金比羅は一面、べたべたのおばちゃんであり相手の顔色を見ながら自分のことをどんどんしゃべり続けるのだ。

と言うことは、金比羅は高慢と媚びという二面を持つ。

1.高慢 2.媚び 3.4.高慢 5.媚び 6.高慢 7.媚び。このように考えると、この種の文字列がなぜ、数個づつ固まって現れるのかの説明が付く。

しかし上記のように二面に分けるのはかなり無理矢理だ。文字列たちは、身も世もなく身をくねらせるかのように、多彩で多様である。半神とただの人間との落差を埋めるための装置であり変幻自在でなければならないのだ。

(9/26追加)

*1:p14『金比羅』笙野頼子 isbn:4087747204

「けっ」でしかない私

(p15)

 なぜ、あるはずのないそんな灯を見るのか、それは当人が助かりたいと思っているから。

 普遍的私の普遍的運命、それは結局自分だけでもうまい事して助かりたいという、個別の自我を核とした普遍的希望により選び取られるのだった。そしてそういう発生故にまたこの普遍的私は、いわゆるひとつの「ひとごとではない大層なお大事な私」に、つまりは他者から見たら「けっ」でしかない私になり果ててもいるのでした。

この断片も引用しておく必要がある。ただし、この断片は上記3つとは少し違う。登場する文字列が「けっ」一つだけである。けっには「」が付いている。それだけでなくこの小説では異例の哲学的文章(普遍的が4つもある)による解説的文章である。

追加されるサンプル

 8.けっ

私は高慢たりえない?

とここまで書くとまた新たな疑問が湧いてきた。

(1)金比羅は高慢である。また長編小説作家はその限りにおいて全能なので当然高慢である。ということは一般人は高慢たりえないということであろう。

ところが、「3.ふふんふふーん」の場合はどうか。この場合、一般人が「科学の子」と自称しているだけであるのに、高慢である。

 ここで多少説明的になる。誰かが海で遭難するとき、助かりたいと思っていると海上に突然灯がともる。灯は神様の灯だ。この灯を見る人についての説明が上記の断片p15だ。ところが非常に例外的に神様の灯を否定する人がいる。それが断片p14の科学の子だ。

「あるはずのないそんな灯を見る」「当人が助かりたいと思っているから」というのが、日本人の神であり尊いことなのだ。という側に作者は立っているように思える。したがってそれを否定する「科学の子」は一般人として許されざる傲慢であると。でもそうであれば、金比羅=高慢を強調することは話を分かりにくくしているのではないか?