憲法1条廃止しよう

 衆院選広島6区に無所属で立候補しているライブドアの堀江貴文社長は6日、東京都内の日本外国特派員協会で講演し、天皇制について「憲法が『天皇は日本の象徴である』というところから始まるのには違和感がある。歴代の首相や内閣が(象徴天皇制を)何も変えようとしないのは多分、右翼の人たちが怖いから」などと指摘した。

http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/feature/news/20050907k0000m010016000c.html

MSN-Mainichi INTERACTIVE その他

 「郵政民営化」の論点化という小泉のデマゴギーを推進した点で堀江は許せない、と思っていた。だがこの発言は良い。天皇は(明治)憲法ができるずっと前から天皇だった訳で、伝統を尊重するなら1条廃止論に反対する必要はない。19世紀ドイツ起源の軍国主義=国家主義的なものは現在日本にも、排外主義その他として根強く復活しようとしているが、日本の伝統でもないし美しくないし、ひどい失敗をしたばかりだ。憲法1条から8条は削除すればよいと思う。

天皇制を論じてはいけない、という意見?

http://d.hatena.ne.jp/antonian/20050907/1126104535 で、あんとに庵さんがほりえもんの同じ記事を引いている。インタビュー現場の雰囲気の分かる記事もある。それはありがたかったのだが、どうもこの方は「天皇制」をタブーにし続けたいようだ。何故そう思うのか不思議だ。

・・・ですので報道記事はいささかニュアンスが異なるにせよ、根底には「そういう意味のない存在は無駄」的な思考が垣間見えるわけです。なんというかやはり芸術家の敵だな。こいつわ。三位一体論とか実体変化とか理解できないししたくもなさそうな人だと思う。

 三位一体に敵対する神学的テーゼを立てることと、そうした問題領域自体に敵対することは違う。堀江もんは「憲法見ると、天皇は日本の象徴であるというところから始まるのは、僕らにとっ てはものすごく違和感を感じますよ」と条文の文言について発言している。したがって後者ではなく(テーゼはたてていないが)前者である。あんとに庵さんはそれを後者であると歪曲している。

ところで、天皇制と国体というのは伝統的に日本では一致して来たわけですが、その辺りの解体をもくろむならそれなりの理論武装をしないとまずいのでしょうが、彼の場合は単純に「無駄」「有用」という価値で判断されているようです。

何を神秘化しているのですか。「天皇制と国体というのは伝統的に日本では一致して来た」というのは間違った理解です。問題は憲法1条をどうするかだけで、憲法改正が国民の権利であることは憲法に書いてあり国民の常識です。タブーを作りたい一部の勢力がいるだけです。

人というのはなんらかの共同体に属したりするわけでそれは土地だったり、国だったり、思想団体、宗教団体もそうですが、それによって形作られる人格というのがあり、また属するものへの拡大的な皮膚感覚を持ったりするものですが、それがないタイプというのは珍しい。

堀江氏はただ、「憲法1条は不要だ」と意志表示しただけですよ。その意見に反対したいなら、彼の意見を歪曲するのではなく、貴方自身の思想で行ってください。

だいたいタイトルも「ホリエモンの舌禍」だし、自分が言論の自由に敵対していると言うことが分かっていないようですね。

(突然、攻撃的TB失礼しました。)

内田樹の靖国問題

内田樹が靖国問題について書いた新聞記事を、友人がコピーしてくれたので読んでみた。*1

彼は「死者は言葉を持たない」と強調する。それを強調するのは正しい。

共同体をめぐるほとんどの対立は「死者のために/死者に代わって」何をなすべきかを「私は知っている」と主張する人々の間で交わされている。

しかし、靖国問題とは、死者の正しい服喪はどうあるべきか?という問題だったのだろうか。個々の戦死者たちはすでに親族によってそれぞれの墓に祀られている。死後の霊はその墓の近くにいると考えても良い、と篤胤も言っている。東京大空襲の死者たちはどんな国家的祭祀も受けていないけれども、“戻ってきて災いをなす”ことなどできていない。

靖国問題には二つの歴史的位相があり、新しい位相はA級戦犯合祀で画される。がやおきのりの路線にも反する後者は、戦前の軍国主義一切を免罪しようとする極右勢力によって為された。“国のために死ぬことは名誉だ”として押し進められた戦争への動員(による死)は、英霊として讃えられるべきだという思想。「先の戦争」は間違っていたのかどうか、という問いに答えられず、間違っていたと答えない方向にしか向うことができない哀れな日本は、彼らの極右思想が作り上げた現在である。

このように靖国とは死者を過剰に国家が取り込む装置である。しかし、内田はそのようには見ない。靖国で行われているのは極めて特殊な形での「服喪」であるのにそれを、服喪一般に拡散させて論じているからだ。

*1:2005.8.30朝日新聞夕刊「生者は儀礼決められぬ--言葉を持たない死者に権利」

小林万里子久しぶり!

▼「反戦ミュージックat京大西部講堂2005」

2005年9月10日(土)11日(日)京大西部講堂

入場無料

公式ホームページ

http://www.antiwar-music.com/index.htm

▼講堂前広場特設野外ステージにてライブ

9月10日(土) 14:30~21:00

クラワンカ、楽団モラトリアム、ヤブレカブレ、ISSIN、井上卓、ハチワレ天満宮、ジェロニモレーベル、ピカリンス、Lucky Lips、アジビート

9月11日(日) 15:00~21:00

LOVEDLOVED、ファルソス・ヒターノス(にせジプシー)、軍鶏礼賛、あうんさん・すうじぃ、SANPACHI、AUX、Mademoiselle

Fleur、小林万里子、吉田一平

▼反戦デモ

「小泉戦争内閣ぶっつぶせ!自衛隊イラク派兵と戦争国家化を許さない9.11反戦ミュージックデモ」

9月11日(日)

12:00 三条河川敷集合

13:00~15:00 デモ(三条河原~京大西部講堂)

▼広河隆一さん写真展

西部講堂内にて広河隆一さん写真展を開催。

▼京大西部講堂:京都市左京区、百万遍交差点より東大路を南へ徒歩すぐ

 京阪出町柳駅下車、徒歩15分

 市バス百万遍下車、徒歩3分(3、17、31、65、102、201、203、206系統)

 市バス京大正門前下車、徒歩5分(31、65、201、206系統)

▼駐車場

会場に駐車スペースはございません。最寄りの駐車場をご利用ください

最寄りの駐車場

100円パーキング(京都市左京区田中西樋ノ口町)

100円パーキング(京都市上京区信富町)

京都市駐車場公社(京都市上京区青龍町)

▼期間中のみ西部講堂内および講堂前広場にてテント泊可能

ご利用の方は事前にご連絡ください。

▼スタッフ募集!

仕込み、本番、撤収など、それぞれご都合のよい時間でお手伝いをしてくださるボランティアスタッフを募集しています。汗まみれ、泥だらけになりますが、きっと形にならない大切なものに出会うことができるでしょう。

▼下記連絡先までお気軽にご一報ください

antiwar-music@hotmail.co.jp(吉田一平)

総選挙はアメリカの支出する広告費によって支配されようとしている

http://b.hatena.ne.jp/entry/http://www.pluto.dti.ne.jp/~mor97512/C02040.HTML より

米国通の友人H氏から、『ウォールストリート・ジャーナル』2005年8月8日号のインターネット版記事の一部が送られてきた。

 『ウォールストリート・ジャーナル』は「郵政民営化法案は廃案となったが、これは手取りの時期が少し延びたに過ぎない。ほんの少し待てば、われわれは3兆ドルを手に入れることができる」との見方を述べている。

 3兆ドルとは、国民が郵政公社に預けている350兆円のことである。ウォール街は、9月11日の総選挙で小泉首相が勝利し、総選挙後の特別国会で郵政法案を再提出し、成立させると信じているようである。

 H氏によると、これを確実にするため、ウォール街は、多額の広告費を日本に投入し、日本のテレビを動員して、日本国民をマインドコントロールして、小泉首相を大勝利させる方向に動いている。(……)NHK以外の在京の全地上波キー局が小泉自民党の宣伝機関になり、小泉ヨイショ報道に狂奔している。これにより日本国民をして小泉を支持させて、小泉を英雄にし、独裁者にしようと狙っている。独裁者になった小泉が郵政を民営化し、350兆円の郵貯・簡保の金をウォール街に流してくれると考えている」とのことだ。 郵政民営化はウォール街のためか:2005年森田実政治日誌

http://www.pluto.dti.ne.jp/~mor97512/C02040.HTML

もうひとつ、antonianさんのコメント欄から toxandoriaさんの力作コメントの一部をコピペしておきます。

http://d.hatena.ne.jp/antonian/comment?date=20050821#c

http://d.hatena.ne.jp/antonian/20050821#c1124628324

(略)

もう一つ懸念されるのは(これは想像が半分ですが)、今行われつつある“劇場型政治”は「政治の民営化」が進んでいることの現われではないかという点です。

米国の巨大な広告会社と提携した国内最大手の広告会社D社は、ここ10年位で日本国内における市場占有率を急速に高めており、今や約6~7割の寡占となっています。

現代の広告会社は、選挙のみならず政策全般に関するアドバイザー(シンクタンク)的な仕事を請け負うようになっており、その分野でもD社が占めるシェアは格段に大きいようです。

また、D社の強みは番組スポンサーとなる企業広告を仲介する立場でテレビ・新聞などマスメディアに対する絶対といえるほどの優越的地位を確保していることです。

特に、テレビについてはD社が100%出資する某視聴率調査会社が市場を独占する立場にあるため(この1社しか存在しない)、スポンサー群をバックにする優越的立場ゆえに、事実上、D社が殆どのテレビ局を支配下に置いたような構図となっています。

しかも、販売部数減から広告収入に頼らざるを得なくなっている新聞社も、事実上D社に支配される立場となっています。

このように見てくると、マスメディアを総動員した政権主導の“劇場型政治”がD社などの演出で、きわめて効果的に演じられていることが想像できます。

このような国民一般の目に見えない影の世界で「郵政改革PRは、老人、女性など、“ちょっとIQの低い人々中心」という企画が作られたことは、まことに怪しからぬことでああり、我われ国民を小バカにしているうえに民主主義政治の根本(主権在民)を否定することだと思います。

アメリカでは、すでに「民営化」(privatization)が、軍事・医療などの分野まで浸透して(市場の社会的深化が進んで)いますが、日本がひたすらこのようなアメリカを追い続けることに大きな疑問を持っています。

およそ政治倫理上の常識が許さない。

 丸山真男に『戦争責任論の盲点』という短い文章がある。(思想の言葉、「思想」昭和三十一年三月号、岩波書店)というから、1956年、50年ほど前に書かれた文章だ。みすず書房「戦中と戦後の間、1936-1957」の596ページから601ページにある。

下記のurlで、ほぼ全文が読めます。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/maruyama.htm 丸山眞男、戦争責任

天皇の戦争責任について述べた処を抜粋して見る。

この二点に注意しながら、我が国の戦争責任とくに政治的な責任問題の考え方をふりかえってみるとき、そこに二つの大きな省略があったことに思い至る筈である。一つは天皇の戦争責任であり、他は共産党のそれである。この日本政治の両極はそれぞれ全くちがった理由によって、大多数の国民的通念として戦争責任から除外されて来た。しかし今日あらためて戦争責任の問題を発展的に提起するためには、どうしてもこの二者を「先験的に」除外するドグマを斥けねばならぬ。

 天皇の責任については戦争直後にはかなり内外で論議の的となり、極東軍事裁判のウェッブ裁判長も、天皇が訴追の対象から除かれたのは、法律的根拠からでなく、もっぱら「政治的」な考慮に基づくことを言明したほどである。しかし少くも国内からの責任追求の声は左翼方面から激しく提起された以外は甚だ微弱で、わずかに一、二の学者が天皇の道義的責任を論じて退位を主張したのが世人の目を惹いた程度である。実のところ日本政治秩序の最頂点に位する人物の責任問題を自由主義者やカント流の人格主義者をもって自ら許す人々までが極力論議を回避しようとし、或は最初から感情的に弁護する態度に出たことほど、日本の知性の致命的な脆さを暴露したものはなかった。

 大日本帝国における天皇の地位についての面倒な法理はともかくとして、主権者として「統治権を総攬」し、国務各大臣を自由に任免する権限をもち、統帥権はじめ諸々の大権を直接掌握していた天皇が――現に終戦の決定を自ら下し、幾百万の軍隊の武装解除を殆ど摩擦なく遂行させるほどの強大な権威を国民の間に持ち続けた天皇が、あの十数年の政治過程とその齎した結果に対して無責任であるなどということは、およそ政治倫理上の常識が許さない。事実上ロボットであったことが免責事由になるのなら、メクラ判を押す大臣の責任も疑問になろう。しかも、この最も重要な期間において天皇は必ずしもロボットでなかったことはすでに資料的にも明らかになっている。にも拘らず天皇についてせいぜい道徳的責任論が出た程度で、正面から元首としての責任があまり問題にされなかったのは、国際政治的原因は別として、国民の間に天皇がそれ自体何か非政治的もしくは超政治的存在のごとくに表象されて来たことと関連がある。

 自らの地位を非政治的に粉飾することによって最大の政治的機能を果たすところに日本官僚制の伝統的機密があるとすれば、この秘密を集約的に表現しているのが官僚制の最頂点としての天皇にほかならぬ。したがってさきに注意した第一の点に従って天皇個人の政治的責任を確定し追及し続けることは、今日依然として民主化の最大の癌をなす官僚制支配様式の精神的基礎を覆す上にも緊要な課題であり、それは天皇制自体の問題とは独立に提起さるべき事柄である。(具体的にいえば天皇の責任のとり方は退位以外にはない。)天皇のウヤムヤな居据りこそ戦後の「道義頽廃」の第一号であり、やがて日本帝国の神々の恥知らずな復活の先触れをなしたことをわれわれはもっと真剣に考えてみる必要がある。

 天皇の戦争責任は(残念ながら)(法的には)(政治的には)あるとは言えない。という“無かった”の上にわたしたちの戦後は成立し今に至っている。沖縄住民集団「自決」問題の責任が(彼に)<無かった>という事実が法的に確定していくとすれば、それは天皇において起こった事がその末端においても確認されるということで、当然のことにすぎない。

 丸山は「天皇が、あの十数年の政治過程とその齎した結果に対して無責任であるなどということは、およそ政治倫理上の常識が許さない。」と言った。私もそう思う。朱子学の大義名分論の二種類の過激化として、水戸学と平田派国学があり、明治維新の思想的根拠はそれだった。45年8月まで日本を支配した狂気(一億玉砕)にもそれらは深く流れていた。

政治倫理上の常識、と丸山が言うときそれは儒教的あるいはカントヘーゲル的な常識と考えていいだろう。では、水戸学と平田派国学的な常識から考えれば、天皇は無罪になるのだろうか。断じてそんなことはない。無罪を導こうとすればそれは「奴隷の神学」から、だけだ。

直(なお)さ、健やかさ

よりよき社会を求めるためには一切の中世的なものを否定して、古代日本の民族性に見るような直(なお)さ、健やかさに今一度立ち返りたいと願う全国幾千の平田門人らの夢

『夜明け前』島崎藤村第二部第四章四

平田派には精緻な正義論などない。しかし、直(なお)さ、健やかさを絶対的に希求する自らの夢を貫こうとするものだ。既存の国家への忠誠をその思想の核心にするものではもちろんない。敗戦後、裕仁が退位しなかったことは、彼らの美学的正義感に適うはずがない。

(9/23追加)

江ノ島に行って来た

嘘神道研究家野原は江ノ島に一泊し朝日を見てきました。

江ノ島は、辺津宮(へつのみや) 中津宮(なかつのみや)奥津宮(おくつのみや)の三社からなる神社です。祭神は

田寸津比賣命(たぎつひめのみこと)

市寸島比賣命(いちきしまひめのみこと)

多紀理比賣命(たぎりひめのみこと)

この三神はもちろん、アマテラスとスサノヲの「うけひ」のとき、スサノヲの剣を取って噛むことによりアマテラスが誕生させた三神です。

この部分は、いつもコピーしている下記サイトの真福寺本古事記のテキストには省略(と考えられる部分)がかなりあります。西郷信綱『古事記註釈・2』により補って(いいかげんに)下記に引いておきます。

http://www.neonet.to/kojiki/seikai/sinkoji-set.html 『真福寺本古事記』影印

故(かれ)爾(ここに)各中置天安河、而宇氣布(うけふ)時、

天照大御神、先(まず)乞度*1建速須佐之男命(の)所佩(はける)十拳劔(を)打折三段而。奴那登母母由良邇此(ぬなとももゆらに)、振滌(ふりすすきて)天之眞名井而、佐賀美邇迦美而(さがみにかみて)、*2亦御名謂奧津嶋比賣(おきつしまひめ)命

次、市寸嶋比賣(いつきしまひめ)命、亦御名謂狹依毘賣(さよりびめ)命、*3多岐都比賣(たきつひめ)命。

たぎつひめ  =たきつひめ 邊津宮 たぎつ=水流が激し流れる  

いちきしまひめ=いつきしまひめ 中津宮  「神霊をいつき祭る島」

たぎりひめ  =たきりひめ 奧津宮   霧の神

とほぼ正確に一致している。

(続く)

*1:「乞取」乞ひ取りて:西郷信綱説

*2:「吹き棄(う)つる気吹(いぶき)の狭霧に成れる神の御名は、多紀理比賣(たきりびめ)命」が抜けている。:西郷説

*3:「次」が抜けている:西郷説