責任

「責任」という言葉を使いたくない、よく分からないみたいなことをこの数週間考えています。

http://kujronekob.exblog.jp/i7 評論誌「カルチャー・レヴュー」Blog版

で、黒猫氏が、仲正昌樹『日本とドイツ 二つの戦後思想』などを読みながら書いおられる。

ちょっとコメントしてみたのだが、(わたしの番で)応答が途切れていた。

(戦争)責任とは何か?

★しかし、所与の事実性(先験的選択)とその関係をすでに生きてしまっていることは、相続放棄するように原理的には解消できません。それは言い換えれば、所与の歴史性に如何に応答するか、如何に他者の声に耳を傾けるか、という課題(応答責任)でもあると思います。先の高橋哲哉の「恥じ入り続ける」という言い方の真意も、またその課題の表明でしょう。(黒猫)

応答責任にどう応えるか?というのは、わたしの倫理の起源であるかもしれない。がどうもよく分からない。

神はいないとする無神論を自覚的に選択した私にとって、「他者の声に耳を傾けるか、という課題」とは、神をそこに措定しようとする未練な思想的態度に見える。

★斎藤純一は次のように言います。「どのような自発的行動によっても解消しえない」のは、国家への帰属(citizenship)そのものではなく、被害者との間にあるこうした歴史的関係にほかならない。私たちを「日本人」と呼ぶとき他者が名指しているのは、私たちの生のこうした歴史的位相であり、いかに自らを「非-国民」として定義しようとも、そうした生の歴史的位相を消し去ることはできない。(同上)

「被害者との間にあるこうした歴史的関係」をいわば形而上化しようとするのは、倫理の原資を他から借りてくる態度であり良くないのではないか。

日本というネイション(日本人)が中国侵略したと認めよう。わたしたちは無自覚であったとしてそこに関わっていただろう。多様な力の交錯のなかにわたしがあったのだとしても、「侵略」という大きな磁場からわたしは自由ではなかった。

 それを認めるとしても、「「どのような自発的行動によっても解消しえない」のは、、被害者との間にあるこうした歴史的関係にほかならない。」という発言には問題がある。20世紀前半は帝国主義の時代であり、すべてはその中で起こった。したがって“なんらかの責任”を負うことは当然であるとして、それがどのような“責任”であるのか、誰が誰に問うているのかといった点を細かく問うていかなければならない。

日本というネイション(日本人)が中国侵略したと認めよう。歴史的に成立していた磁場の中で抑圧関係に棹さしてわたしが生きていたとしても、ひとりのわたしが被害者との間にすでに歴史的関係を成立させていたと言えるのか。日本人が加害者であり中国人が被害者なのか。大ざっぱに言えばそう言っても良いだろうが、厳密にはなるべく言わない方がよいと思う。

磁場がある以上、存在の受けていた内圧の違い“なんらかの責任”は認めても良いが、そのとき「日本人の責任」というフレーズを成立させることは強力過ぎるのでなるべくやめた方が良い。

この意味で、「「国民」という抽象的な集合体がまとまって罪を負っているかのような語り方をすれば、国民を構成する各個人がそれぞれ異なった仕方で、異なった重さで負っているはずの罪の具体的な中身がかえって曖昧なものになってしまう。各個人が、自分の罪について主体的に考えるべきだ[1]」というヤスパースの意見に賛成です。

「仲正昌樹は先の新書で、戦後世代に戦争責任があるのは親の遺産を相続する際に、負の遺産も一緒に相続しなければならないのと同じ理屈だと書いていますが、不適切な比喩だと思います。」そうでしょうか、財産と同時に債務も放棄することは認めても良いような。国籍と(国語を)捨て、日本人でなく生きていくのなら、その人に責任があると立論する必要はないと思う。(野原)

「つまり相続放棄なら簡単に出来るが」という前提がおかしいと思う。わたしは日本語を捨てて生きることはできない。日本語を捨てて生きるとまで決意した人間に対して、なおかつ何を何語で語りかけるのか? そしてその効果は何か。

例えば不作為によって生じる「不正義」は、それによって損害や不利益を被った者によってはじめてそこに「不正義」があることが能動的に問れ、その問いかけに応じることが「応答責任」です。

あらかじめの「正義=法」によって、「責任がある/ない」」ことを限定する正義感(観)よりも、不正義感のほうがより根源的に<正義>を問いただしていると思います。(黒猫)

と言われるのであれば、この不正義感は斎藤より仲正に近いのではないか?

以上、私的メモであり応答になっていないが、とりあえずUPしておく。

すみませんが

9/4に、なんと古事記について小さな発表をしなければいけないのに、準備が全くできてない。

というわけで、、

黒猫さん 及び amoさん 応答 しばらく休止することになると思います。

集合体の罪という発想 のメリット

集合体の、多数個人各々が、

みんながやっていることを、自分もやって何が悪い、という

集団心理、責任を擦り付け合えると思うことによって、

個人一人であればできなかったようなひどい事をやってしまった場合には、

その責任は、集合体が背負う事によって

集団心理の責任の擦り付け合いをしても、

やはり、結局は代償は払わなければならないものになるという

罪をなす事のリスクが、確定するのだと思う。

自分が、腹を切って自決してお詫びして、居なくなって(逃げて)しまっても

自分達の子孫に罪が受け継がれると思ったら

そういうひどい事は、あらかじめ、しないようにしようと思う理由のひとつになると思う。

http://amo-ya.blogspot.com/

∵◇◆blog d’amo◆◇∵
******mi sento come fossi 線香花火*****

=集合体に、その時点と、それ以降に加わる個人は全てその罪を背負っている

かもしれないしそうじゃないかもしれないし、責任の所在も、特定しようとすれば

もにゃもにゃしているが、確実に重たい。

=だから、せめて、この重たいものをそれ以上増やすのはやめないか、と。

罪が集合体というひとつの存在によって

繰り返されているものと考えて、

痛い思いをしながらなお繰り返しているという

その愚かさを認識する   (同上)

太初に日神があって、

イザナキ、イザナミが国生みをしたのは天神の命を受けてであるという要素は、古事記と日本書紀の一書一に出てくる。

これは新しい追加要素だと思う人もいるかも知れない。けれども、このような要素は沖縄の創造型神話にもあるのだ。

p75 大林太良『日本神話の起源』徳間文庫 1990年

オモロ「昔始めからのふし」に、次のような話があるという。

 太初に日神があって、伏して下界を見ると、島のようなものがあったので、アマミキヨ、シネリキヨの二神に詔して、これを治めしめることにした。二神は天降って数々の島をつくり、日神はさらに詔して、そこに天つ民をつくらずに国つ民をつくらせた。(同上)

次に、新井白石は次のようなアイヌ神話を記録している、ということのようだ。

 蝦夷島の世のはじめに、老夫婦が来たり住み、食物が乏しいので苦しんでいた。夢に神が現れ、二人に、これをもって海をかきさぐって食物を獲よと教えた。目が覚めて、かたわらをみると、舟のかいがあった。教えに従って、それで海をさぐると、白く泡立つ下から魚がかずかず浮かび出たので、捕らえて食物としたのが始まりで、今の世までその魚が主な食料となった。ニシンがそれである。老夫婦の子孫がふえて、今日のエゾが島の人々になり、二人はその住んでいた江刺の地に神としてまつられ、老夫を恵比須といい、老婦を姥の神という。

(p76 同上)

アイヌ神話とはいっても、これは日本から入ったものだろう。「日本のオノゴロジマ神話の異伝あるいは派生物とみられる。というのが大林さんの見解。生活苦のリアルさみたいな話になっているのは作られた時代が新しいからだろうか、興味深い。

於是天神諸命以(天神の命を以て)

二神が 立天浮橋而 指下其沼矛以畫者 鹽許袁呂許袁呂迩畫鳴而 引上時、 自其矛末垂落之鹽累積 成嶋。是淤能碁呂嶋。

つまり、この三つの話においてはいずれも、「天神」とそれに命じられる神との関係は存在する。だが「海をかき回して」「島を作る」の、前半だけはアイヌにあるが、後半は古事記にしかない、ということになります。

クラミツハとかクラオカミ(9/4追加)

に興味を持っている人がいた!(別のおとなり日記)

78.於尿成神名 彌都波能賣神(みつはのめ) 水の霊 罔象女(罔象は中国の水の精)

  「水(み)つ早(は)」の意か?

90.闇淤加美神 クラオカミ  「オカミは蛇身で、下級の水の神、主に沼や淵や泉などに棲む。 クラは幽谷。(西郷)」

91.闇御津羽神 クラミツハ 男神クラオカミと対の女神

参考:http://www.h4.dion.ne.jp/~sa-ya/html/mukashi/shinnmei/shinnmei-3.html 記憶の森~昔が原~神名釈義3

もっとも、ワタツミ、オカミ、ミツハ、それにミツチ等、水の霊たちの性格、分掌の連関がどうなっているかは、よく分からない。というよりそれは一種雑然たる併存えあったように見える。(略)

ここに*1水の神が出てくるのは唐突のように見えて、そうではない。蛇体もまた剣や雷電などと同じ範疇の神話的映像であったからだ。

p223 西郷信綱『古事記註釈・1』isbn4-480-08911-X

*1:カグツチ神を斬った血からタケミカズチ(雷電の神)などが成るシーン

わが岡のオカミ

103 わが里に大雪降れり 大原の古りにし里に落らまくは後

天武天皇

104 わが岡のおかみに言ひて落らしめし 雪の摧(クダ)けし 其処に散りけむ

藤原五百重娘

万葉集です。

天武が 大雪が降ったぞ!と自慢すると、藤原の夫人はまたうちの岡の雨龍に降らせた雪がそこまで散っていったのでしょう、と子どものように言い返すという歌、折口によれば。

4冊の本

えーっ、今日は友人宅で、

『古事記』の

天地初發之時、於高天原成神名 から

次洗右御目時所成神名月讀命次洗御鼻時所成神 名月讀命次洗御■時所成神建速須佐之男命須佐二字以音 までの部分の読書会のレジュメ提出者を友人宅でやりました。そのあとアルコールを飲んで10時ごろ自宅に帰り着きました。

駅から自宅まで自転車です。10分ほどかな、駅には図書館と大きな本屋が在るのですがこの時間はもちろんしまっています。駅から数分のところにもう一つM書店がありここは空いていました。でそこに寄って買ってしまった。何を買ったかと言うと。

水木しげる『神秘家列伝』isbn4-04-192911-3

チラとみると天狗小僧寅吉、柳田国男とかあったので、息子も読むかも知れないと思い買ってみた。

で次、エクセルデータベースとか、旧パソコンの有効活用とかいう見出しに引かれPCmodeなんていう雑誌630円を買った。次

児童書を見ると、井上洋介の『ムシムシエホン』というのがあった、380円なので買った。

脇を見るとなんだかポルノマンガ雑誌が一面にあり、手に取ってみると、

やたら胸の大きな母親と息子の話が載っていてまあ面白いかもと思い買った。『comic真激』500円。

さてこの文章のポイントは勿論、最後のポルノマンガを私が買ったという点にあります。

憲法1条廃止しよう

 衆院選広島6区に無所属で立候補しているライブドアの堀江貴文社長は6日、東京都内の日本外国特派員協会で講演し、天皇制について「憲法が『天皇は日本の象徴である』というところから始まるのには違和感がある。歴代の首相や内閣が(象徴天皇制を)何も変えようとしないのは多分、右翼の人たちが怖いから」などと指摘した。

http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/feature/news/20050907k0000m010016000c.html

MSN-Mainichi INTERACTIVE その他

 「郵政民営化」の論点化という小泉のデマゴギーを推進した点で堀江は許せない、と思っていた。だがこの発言は良い。天皇は(明治)憲法ができるずっと前から天皇だった訳で、伝統を尊重するなら1条廃止論に反対する必要はない。19世紀ドイツ起源の軍国主義=国家主義的なものは現在日本にも、排外主義その他として根強く復活しようとしているが、日本の伝統でもないし美しくないし、ひどい失敗をしたばかりだ。憲法1条から8条は削除すればよいと思う。

天皇制を論じてはいけない、という意見?

http://d.hatena.ne.jp/antonian/20050907/1126104535 で、あんとに庵さんがほりえもんの同じ記事を引いている。インタビュー現場の雰囲気の分かる記事もある。それはありがたかったのだが、どうもこの方は「天皇制」をタブーにし続けたいようだ。何故そう思うのか不思議だ。

・・・ですので報道記事はいささかニュアンスが異なるにせよ、根底には「そういう意味のない存在は無駄」的な思考が垣間見えるわけです。なんというかやはり芸術家の敵だな。こいつわ。三位一体論とか実体変化とか理解できないししたくもなさそうな人だと思う。

 三位一体に敵対する神学的テーゼを立てることと、そうした問題領域自体に敵対することは違う。堀江もんは「憲法見ると、天皇は日本の象徴であるというところから始まるのは、僕らにとっ てはものすごく違和感を感じますよ」と条文の文言について発言している。したがって後者ではなく(テーゼはたてていないが)前者である。あんとに庵さんはそれを後者であると歪曲している。

ところで、天皇制と国体というのは伝統的に日本では一致して来たわけですが、その辺りの解体をもくろむならそれなりの理論武装をしないとまずいのでしょうが、彼の場合は単純に「無駄」「有用」という価値で判断されているようです。

何を神秘化しているのですか。「天皇制と国体というのは伝統的に日本では一致して来た」というのは間違った理解です。問題は憲法1条をどうするかだけで、憲法改正が国民の権利であることは憲法に書いてあり国民の常識です。タブーを作りたい一部の勢力がいるだけです。

人というのはなんらかの共同体に属したりするわけでそれは土地だったり、国だったり、思想団体、宗教団体もそうですが、それによって形作られる人格というのがあり、また属するものへの拡大的な皮膚感覚を持ったりするものですが、それがないタイプというのは珍しい。

堀江氏はただ、「憲法1条は不要だ」と意志表示しただけですよ。その意見に反対したいなら、彼の意見を歪曲するのではなく、貴方自身の思想で行ってください。

だいたいタイトルも「ホリエモンの舌禍」だし、自分が言論の自由に敵対していると言うことが分かっていないようですね。

(突然、攻撃的TB失礼しました。)