Tさま
3/3付けのお手紙に返事をしておらず、すいませんでした。
長雨は、衝撃的だったし、古本屋でおまけで付いてきた2冊もそれなりに面白かったです。
内戦、とにかくそういうどうしようもない暴力が荒れ狂うなかで、南北対立が家族内部の論理/わが子可愛さで、特異な形に歪められたなかで、二人の祖母の「凄み?」があざやかに描かれます。田坂さんのおっしゃるとおりですね。
和解の前に、ある日に叔父が帰ってくると(祖母が)信じたこと、そしてそれを他のひとたちも信じこんでしまう。そのことが興味深かったです。日本では民衆の必死の思いというのはこんなふうには結晶しないように思います。ずっとモダンな雰囲気の「驟雨」でも同じような場面はありました。そして、大蛇が現れたときにそれは叔父の化身と理解されてしまう。それに敬意を持って接し、それを送り出すということを外祖母はやってのける。みながシャーマニズム的心性にひたされていないとありえないことだが。
この大きなできごとによって、(不明瞭ではあるが)「叔父の死ないし行方不明」を家族は受け入れることができるようになる。
それはなによりも、祖母の一生を掛けた〈表現〉だった(周りの人の協力もあることによって成立した)。その短い時間によって、祖母は自ら「誇らしく幸福に満ちた時間」を手に入れる。そして付随的に、祖母とぼくの和解もやってくる。
まあこのような話だったでしょうか。
さて、朝鮮戦争とはイデオロギー対立、地政学的利害によって起こった戦争なのでしょうか。であるとして、「長雨」を読むのにそれが関係あるでしょうか?
南北対立とはイデオロギー対立、地政学的対立だという理解は、結局のところ、AとBという国家、あるいは国家群の対立にものごとを帰着させて理解してしまうことですね。「広場」の感想文で私が書いた〈反帝反スタ〉というユートピア志向は存在余地がなくなります。
コピーしていただいた、青野さんは、イデオロギー対立だけでは語れないが逆にその要素を無視しようとするのもダメなのかと言いたいのかな、と思いました。韓国ではむしろ、すべてをイデオロギー対立に還元するような理解が一般的だったのかもしれない。日本の左翼でもそうです。この場合、地政学を強調する「リアリズム」は南・資本主義のイデオロギーの一種とみなされることになるのかも。この辺は勉強不足でよく分かりません。
とにかくお手紙ありがとうございました。お返事遅れてすみませんでした。
19日楽しみにしています。
野原燐