では隣人とは誰か

# N・B 『 あまり考えてませんが一つだけ、ナショナリズムもレイコフによる家族のメタファーの国家への適用も、枠の問題だと考えるべきなのだとは思います。キリスト教の文脈で言えば、「では隣人とは誰か」ということです、「共約不可能なもの共生の前提」の問題も「愛国心」に代わるものの問題もそれでくくれると思います、パトリオティズムに私がやや否定的なのは枠の問題が抜けるからなのです。ちなみに、「リベラル」のモラルの最大の矛盾点は「相手が望むことなせ」という「リベラル」の黄金律が、「リベラル」が「保守」の「モラル」を受け入れなければならないという結論に至ることです。「保守」にはこの矛盾がありません。これが枠という問題とも絡むと思うのですが。どうも自分の意見がはっきりしませんですいません。』 (2005/03/26 08:11)

3/25コメント欄より

「考えが甘い」のはあなただ。

考えが甘いと思うけど。

ネットワークにおける言論は、newsgroupやパソコン通信のSIG、フォーラムの時代から淘汰圧が非常に高く、かつ玉石混淆なのが特徴で、少数意見を唱えるのであれば多数派を説得しうる高い論理的整合性を主張しなければ袋叩きにあうのは、私の過去15年来の経験に照らしても、(ネットワーク界においては)自然なことです。

azamikoさんの行動は突飛である(段階を踏まずにいきなり最終手段を取っているような感じ)と私には思えます。極端な行動は心理的な反発を受け易いものですし、たとえ目的が正当でも手段に問題があればやはりそれは問題です。

目的の正当性を信じるのであれば、より手段の妥当性にも拘るべきで、それらを失すれば非難を受けるのは致し方ないと思います。

そして前述したとおりネットワークにおける言論の淘汰圧は非常に高いので、小倉弁護士の命名する所の「コメントスクラム」なる状態に陥るのは当然だと思います。

これらのことを弁えずにblogを書いているのであるとしたら、覚悟不足としか言いようがないかと。

小熊善之

http://terutell.at.webry.info/200504/article_2.html

多数の一般人が少数の一般人をたたくブログ界隈 てるてる日記/ウェブリブログ

2005/04/07 17:51)のコメント欄より

ネットで「少数意見を言いたければ」死ぬ気でやれ、とでもいいたいのでしょうか?あまりにも不愉快なのでコピペ。

「手段の妥当性にも拘るべき」ってどういうことだ。

「手段に妥当性がない」という貴方の主張を「コメントスクラム即ち、言論の力ではない暴力」以外の方法で立証できるのか。

「自己=多数派」という前提だけに依拠した自己!!

靖国参拝反対

保守本流の意見。4/23の朝日新聞に自民党の加藤紘一氏の意見が載っていた。

 靖国参拝問題の本質は、神社にまつられている14人のA級戦犯をどう見るかということに尽きる。

 ナチスにすべての国内的、国際的な戦争責任を帰したドイツと違って、日本は国内的な戦争責任についての論議ができず、極東軍事裁判の判断をサンフランシスコ講和条約で受け入れた。そうである以上、私は靖国問題は、講和条約という国際的約束を、日本が守り続けられるかどうかの問題だと思っている。A級戦犯がまつられている靖国神社に、たとえ私人としてでも首相が参拝すれば、日本に講和条約を守ろうという意思があるのかどうかが疑われる結果になるのは当然だ。

 簡明だが、「日本は国内的な戦争責任についての論議ができず」ことにも触れており、とても優れた文章であると思う。日中関係がさらにこじれれば「米国としても首相がサンフランシスコ講和条約を踏みにじっていると指摘せざるを得なくなるかもしれない」とまで指摘している。日本が戦後対アジア敗戦責任を非常に軽く済ますことができたのは、アメリカの力による。そのような構図(冷戦構造)が失われても、アジア人差別だけは持続、再強化しているのが現在の日本だ。有害無益なナルシズムからは脱却しなければいけない。

下記も参考。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050203#p1

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050331#p2(宮台真司の引用)

(削除予定)メモ

旧い計算式A4をaとします。  a=+D3+C3 

D3=+A3-B3-C2 なので、 a=A3-B3-C2+C3 です。

新しい計算式A4をaaとします。 aa=+B3

A3=B3*2+C3 ですから a=B3*2+C3-B3-C2+C3=B3+C3*2-C2 になり

aとaaの差 a-aa=C3*2-C2 になる、と思いましたが、ここが間違いです。

つまり、新しい計算フォームでのB3(一般にBn)(区別のためにβと呼ぶ)と旧い計算フォームでのB3(一般にBn)は一致しません。

(以下考え中)

 うちの玄関ドアの外側の枠の土台から数センチのところに緑色の蛹があってこんなところでは無事には育つまいと思っていたら。今家族のものが羽化しているのを発見。まだ羽が広がっていないが無事に飛び立つだろう!

ひめゆり/白梅 (7/23追加)

 まして、年齢こそ「学徒兵」より多少上とはいえ、少女たちを突然戦場に駆り出して、看護助手という名の下に自分たちを守らせる軍人たちの神経には、ほとほとあきれて言葉もない。たとえ本人たちが望んでも断るのが軍人たる者のプライドだろうに。(略)

 そして現在。前庭に美しい植え込みや花壇があって、館内には実物大だという壕の模型もある「ひめゆり平和祈念資料館」と、通りから引っ込んだところにひっそりとたたずむ「白梅の塔」(塔といってもやや大きめの石垣の上に立てた墓石というのが実態である)。ひめゆり隊は旧府立高等女学校に属し、白梅隊は私立の女学校の生徒たちだったせいばかりではない。ひめゆりは映画にもなってあまりにも有名だし、一種のエリート校で同窓生にそれなりに有力者が多くこうした事業の運営にも慣れている。一方、白梅隊の出身母体である学校は戦中に公立に吸収されてしまったため、事業の母体となる組織のメンバーを集めること自体むずかしかったのだという。その上、戦場において軍人たちの彼女たちに対する扱いもかなり異なっていたらしい。白梅隊の隊員たちは軍が陣地を撤退する時傷病兵の「処理」に直接関与させられたため、自責の念から白梅隊に属していたという事実についてさえ、戦後長い間沈黙を守っていたのだという。

 問題はさらに続く。戦後60年もたった現在でさえ、この二つのグループの間には目に見えない壁があって一緒に行動することはないのだという。私たち沖縄外の人間が当時従軍させられた少女たちはひめゆり隊だけのように思い込みがちなのは、こうした事情にも原因があるらしい。現在の私の目から見れば、(白梅隊よりは)「優遇」されたというひめゆり隊の経験だってずいぶん過酷だったのだから、少なくとも悲しみを共有することからでも始められないものかと思うのだけれど。

http://homepage3.nifty.com/medi/sakusaku/5_1.htm 沖縄紀行

… … …

これを三点リーダ というのでしょうか。

わたしはトロワポワン(trois-points)というのだと思っていた。

今辞書を引くと、trois-pointsというのは、フリーメーソンの印で、…ではなく、数学の「故に」のように3点を三角形に並べたもののようだ。…

中国政府が孟子像を贈呈

(7月22日)日本の立命館大学に対し孟子像が中国政府から贈呈された。「立命館」という校名が、孟子の「身を修(おさめ)め、以(も)って命(めい)を立つ」という言葉から取ったものである、事に因むもの。これは、中国政府が外国に贈呈する最初の孟子の彫像であるとのこと。

http://www.china.com.cn/japanese/185601.htm

国務院新聞弁公室の蔡名照副主任の挨拶より

孟子が生きた戦国時代は、動乱の不安定な時代で、年々戦乱が打ち続き、民衆は生活の手立てを失いました。孟子は「済世救民」を己に任じ、仁愛と平和を追求し、社会正義を探求し、「君(きみ)を軽(けい)とし、民(たみ)を貴(き)とする(すなわち君よりも民を第一に考える)」仁政学説を提起しました。そして彼は仁政の理想実現のために奔走し、呼びかけました。彼は20余年の長きにわたり各地を遊説し、貧困のためさすらい歩いても志を変えませんでした。そうすることによって、高尚な人としての節操と、高い精神的境地を表したのでした。

孟子の言葉に「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず」という名言があります。この言葉の核心は「和」にあります。中国の伝統文化は一貫して「和」の思想に貫かれています。孔孟以来の大多数の思想家たちもみな、「和をもって貴しとなす」を提唱しています。「和」の思想は、中華民族が普遍的にもっている価値観と追求すべき理想となっていて、今日でも、中国人民の生活、仕事から内政、外交など各方面にわたり、広く、深い影響を及ぼしています。中国人民はこれまでも一貫して、人と人との間の、また国と国との間の誠意ある相互信頼と平等な待遇、平和と友好、礼節ある往来を重んじてきました。

先哲のこうした教えから、私たちが次のような啓発を得ることができます。それは、平和は人と人との交際の最高の境地であり、国際的な往来の最高の境地でもあるということです。

中日両国は一衣帯水の関係にあり、中日の文化は、水と乳のようによく融け合っています。中日両国人民の友好往来は、地理的に優位性を持ち、歴史的にも深い淵源があります。両国が長期的に安定した友好関係を樹立することは、両国人民の共通の願いと根本的利益にかなうばかりではなく、アジアと世界の平和と発展にとって有利であります。

 儒教の中でも「人民の為の」を最も強調するのが孟子です。だからといって、少し前までは中国政府が儒教を肯定することはなかったのに中国も変わったものだ。*1

 「中日両国は一衣帯水」というフレーズはかって大東亜共栄圏建設時に日本側が高唱したスローガンだ。中日の間に存在する国境という高い障壁を低くしてしまえば、当時優勢だった日本の国力が(具体的には軍隊が)中国国内になだれ込むことができる、という情勢において唱えられ、そのプランどおり日本軍は大陸になだれ込んで行った。現在は全く情況が違う。安くて優秀な中国製品の日本へのなだれ込みはすでに起こっている。中日の間に高い障壁はすでに無い。しかし小泉首相を中心とした勢力はA級戦犯を祀った靖国神社に参拝し、軍国主義化への道を歩もうとしている。先日の反日デモにより一定の歯止めは掛けられた(ようだが)予断は許さない。そこで孟子を先頭に立てて「文化攻勢」に取り組んできているわけだ。

 そう考えると上記の文章は興味深い。「和をもって貴しとなす」に攻撃のポイントを絞っている点が鋭い。というのは、儒教、仏教など日本のハイカルチャーはすべて中国からきたものだ*2。しかし、右翼ナルシストはそれを認めたくないので、聖徳太子*3を、日本の独自性の原点として押し立てる。その中心が「和をもって貴しとなす」である。皇国史観のとき高唱された楠正成等々の人物は戦後凋落してしまい、再アイドル化はすぐには難しそうである。その点聖徳太子は戦後も一貫して高い人気を誇っている。わたしを含めた従来の左翼は、「和をもって貴しとなす」に対し、普遍性*4への参照を欠いた平板な共同体至上主義として批判的に捉えていた。今回の中国政府の見解は、肯定的に捉え、なおかつそれを“日本的なものではなく儒教的なもの”とする点で、論壇に対する新しい介入であり得ている。

 1945年8月の敗戦はある人によって*5革命と呼ばれた。靖国論争や沖縄戦をめぐる議論の根拠にも、815の断絶*6をどう捉えるかという問題がある。これはもちろん国民一人一人に問われているのだ。

 革命は「万世一系」の対立語として使用すること。このような「革命」という言葉は勿論フランス革命やロシア革命と無関係だ。むしろ孟子の「革命」説として江戸時代を通じて論じられたものだ。*7

 中国政府は数千年の文の国としての歴史を賭けて、文化攻勢に討って出来てきているようだ。扶桑社などひとたまりもない??

*1:「2002年師走の新聞紙上に、「孔子精神中国で再興」との大きな見出しが掲げられた。記事は北京の人民大学で11月30日「孔子研究院」の創立式典があったこと、最近の中国で経済発展とともに「中華民族」が強調され、「中華文化の復興」が唱われていることを報じたものだった。ちなみに、人民大学のキャンパスには高さ3メートル半もの孔子像が建てられたという。」p3森紀子『転換期における中国儒教運動』isbn:4876986479

*2:仏教の場合は経由だが

*3:イエスを思わせるその名も厩戸うまやど

*4:「天」や「道」や「理」

*5:宮沢俊義

*6:あるいは連続

*7:野口武彦氏の本があるが未読。

約800人の沖縄県民が日本軍の手で殺害された。

 1982年、沖縄戦に関する教科書検定が最初に大きな問題となった。81年度の検定で江口圭一愛知大学教授が教科書原稿にはじめて、《6月までつづいた戦闘で、戦闘員約10万人、民間人約20万人が死んだ。鉄血勤皇隊・ひめゆり隊などに編成された少年少女も犠牲となった。また、戦闘のじゃまになるなどの理由で、約800人の沖縄県民が日本軍の手で殺害された。》と記述したことに対し、検定意見は「数字の根拠は確かでない」、「日本軍の手で殺害されたということ自体疑義がある」、「出典の沖縄県史は一級史料ではなく、回顧談や体験談を集めたもので、学者の研究書ではない」などの理由で日本軍による住民殺害の事実を否定したために、《6月までつづいた戦闘で、軍人・軍属約94000人(うち沖縄県出身者約28000人、鉄血勤皇隊・ひめゆり部隊などに編成された少年少女をふくむ)一般住民約94000人が犠牲となった。県民の死者は県人口の約20%に達する。》と修正し、検定をパスした。

 この「県民殺害」の削除に対し、日本中で大きな抗議運動が起こり、9月4日には沖縄県議会は、「県民殺害は否定することのできない厳然たる事実であり、特に過ぐる大戦で国内唯一の地上戦を体験し、一般住民を含む多くの尊い生命を失い、筆舌に尽くしがたい犠牲を強いられた県民にとって、歴史的事実である県民殺害の記述が削除されることはとうてい容認しがたいことである」という全会一致の意見書を採択して抗議した。(略)

沖縄戦について文部省は住民殺害の事実は認めたものの、その後の教科書検定で住民殺害の記述に検定意見をつけない代わりに、「集団自決」を書くように強制するようになった。

「集団自決」の記述の強制は、「沖縄県民の犠牲のなかには、日本軍のために殺された人も少なくなかったことは事実であるが、集団自決が一番数が多いのであるから、集団自決の記述を加えなければ沖縄戦の全貌がわからない」というものであり、

http://www.joy.hi-ho.ne.jp/byakuya/334.htm

このブログでも便宜上、「沖縄住民自決問題」と「自決」という言葉を使っているが、「自決(集団自決)」というのは問題のある言葉のようだ。

第三に、「集団自決」を書くことを強制するのは、「集団自決」はあくまでも住民が自らの意思で命を絶った事件であり「日本軍のために殺された」犠牲には入らないという認識が前提となっている。「集団自決」について、「崇高な犠牲的精神の発露」として強調・強要するところに、検定の思想審査的意図が現われている。》(同上)

「自決」というのは、「みずからの意思で、責めを負うて命を絶つ」ことである。乳幼児が自決をすることはできないし、肉親を自発的に殺す者もいない。(略)

「天皇の軍隊によって強制・誘導された住民の「集団死」を、「集団自決」と表現することは不適切であり、ことの真相を正しく伝えることを妨げ、誤解と混乱を招くものである。文部省の主張は、住民殺害等の天皇の軍隊の残虐行為を免罪にし、県民の戦争被害者の多くは自らの意思で死んでいったのだと強弁するものである。(同上)

小選挙区制の不合理

http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20050914#1126636755

によると、今回の小選挙区の得票数は万票単位で次のようになるそうだ。

小選挙区

      今回(2005年)   前回(2003年)     増 減

自民党   3252     2609      643

民主党   2480     2181      299

公明党     98       89        9

共産党    494      484      10

社民党   100      171      △71

国民新党   43      -          43

新党日本   14       -       14

諸派・無所属  326     417     △91

合計      6807      5950         857

自民党の得票率(得票総数に対する割合)をみると、前回43.8%に対して今回47.8%と、3.9%上がっている。しかし当選者は219/168と30%も上がっている。

小選挙区制は1位と2位の差も拡大する制度だ。*1政権党に有利な制度であり、政権交代が希な日本には適さない制度だと言える。

*1:2位の民主党が減ったせいもある、下に書いたように0.23%減。