「人権擁護法案」

下記の福島みずほのところの意見に賛成

今月中旬、2年半前に廃案となった「人権擁護法案」が国会にふたたび上程されます。

この法案では人権委員会を法務省の外局として設置することが提案されており、さらにメディア規制の規定は当面凍結するものの、削除されないこととなりました。

人権委員会は行政から独立したものでなければならず、法務大臣の所轄に属するという今回の法案には大きな問題があります。国連が難民と認定したクルド人を強制送還(1月18日)するという法務省に人権救済を託してもいいのでしょうか。日本政府に対し、独立した第三者機関の人権委員会を設けるよう勧告した国連規約人権委員会の決定、またパリ原則にも反するものです。

http://www.mizuhoto.org/01/02.html

信仰の自由/思想信条の自由

# index_home 『なんだか私が混乱させてしまったみたいで申し訳ありません(^^;

えーと、なんだか私の方が読み違えたようです。野原さんが「個人の魂と国家を結びつける重要なメディア」と規定されたのかと思ってしまいました。それとは反対の立場なんですよね?誠に申し訳ないです。

私は、たぶん「信仰の自由」というよりは、普通に「思想信条の自由」ということでいいような気がします。日の丸君が代を「各個人の魂と国家をむすぶ重メディア」だと規定付けられるという「思想信条」。その思想信条自体に、自分は反対する立場であると。それを認めるか認めないか…が「寛容」の話になっていくのかな。と。ただそれを「思想信条に類する問題ではない。国家の構成員としての問題である。」として「思想信条」ではないとする人たちへの論理として、ロックの論が応用できるということなのでしょうか。

「信仰の自由」で解くなら、むしろ靖国問題のほうかなと。あれは単純に神道だから云々というよりは、その存在の歴史的経緯や祀られている神を神として崇めることを肯定できるか出来ないか、肯定しないものを排除する論(しばしば『非国民』とでもいいたげな言説が登場しますよね)は、どういうことかというような話だと思うので。と、話が飛躍してしまいますね。うーん。』 (2005/03/20 23:25)

# hal44 『はじめまして。

ロックが異教徒に対する寛容及び信仰の自由を説いたのは、‘信仰は個人に於ける魂の本質であり、外部からの強制によって転向を促すのは不可能である。転向するものは魂に嘘をついているのであり真の転向というのはあり得ない。よって宗教弾圧は無駄である。下手に弾圧をして敵意を増大させるより、異教徒には寛容に対処することが社会的に得策である’というの議論が根底にあってのことでした。

つまりロックおいて信仰心とは外部から変えることの出来ない本質的なものでありそれが故に社会的な規制は及ばないという理屈ですから、この手の本質主義を教育問題でのあるところの君が代日の丸問題に持ち込むのは、かなり危ない議論に成りかねないと私は思います。愛国心が信仰心と同価に扱われ、本質化されることになるからです。

私が興味を持ったのは、実はHikaruさんが言う、国家が「幻想の共同体」であるということを前提としてどのような議論が愛国心に関して可能かということです。ロックが想定した本質普遍的な人間主観ではなく、日々日常の中で、日の丸や君が代によって「愛国心」なるものを刷り込まれることにより、そのような「愛国心あふれる」人間に成る可能性が大である文化的構築物としての人間主観を想定した議論が必要ではないでしょうか? 

そのためには、「愛国心」について、考えなければなりません。

個人的には愛情の対象として国家を選ぶというのは、アニメ美少女でオナニーするくらい虚しい行為だと思うのですが、そういう人も確かにいるからよくわからない。失礼。』 (2005/03/21 03:56)

(野原燐)

hikaruさん こんにちは

hal44さん はじめまして

「それを「信仰や思想信条に類する問題ではない。国家の構成員としての問題である。」として」(生徒に対してだけではなく父兄にたいしても)強制することが、日本中で行われてきた。もちろん「強制ではない」という言い訳の下に。これに対してどのような論理で対抗していくのかという問いに出会ったわけです。

 この問題の出発点は、あくまで野原が子どもの卒業式に出たところ、式の冒頭「起立」「国歌斉唱」という命令/時間にであった、という事実にあります。一人の市民としては、君が代とかに批判的な考えを持っていたとしても、なんのこっちゃと思いまあその時間さえやり過ごせば、「わが子の卒業を祝う」という本来の目的に添って卒業式を体験することが出来るわけですからまあ大抵はそうするでしょう。わたしの場合は、たまたま2年ほど前から「反ひのきみ」というMLを取っていて、そこの人々の思想に近いというわけでも必ずしもないのですが、君が代とかを強制したがる公務員というものに強い敵意をもっていました。そこで、君が代の時は、「座る(もちろん歌わない)」という態度を取ろうと行く前からだいたい決めていました。あるグループにおいてある反応の仕方を学習していたのでそのとおりにした、といえます。そうしたところで、生徒やましてや教師に比べると、なんてことないわけですから。君が代拒否は一定の形に形成されてきた文化であるわけですね。

 1945年3月段階でさっさと降伏していればよかったのにそうしなかった責任を今からでも追及しなければならない、というようなことをこの間、書いてきた手前もあり「座る」ことにしてみました。

 今日はスワンさんの文章をはじめいろいろ読んでみたけれど、うまく意見がまとまりません。

 続きはまた書きます。

君が代百年戦争とは?

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050329#p1 で「日の丸君が代百年戦争」というタイトルを使ったが、意味を説明していなかった。

文部省は、一九五八年一〇月一日、小学校の新学習指導要領(新たに文部省告示として公示)に法的拘束力を付与するとともに、「音楽」のなかで「『君が代』は…児童の発達段階に即して指導する」とし、

http://www.asahi-net.or.jp/~si8k-nmmt/98-08-07kanagawa.htm#%87V 

当てずっぽうに50年と思っていたのだが正確には48年前に、学習指導要領に「君が代」が登場した。そしてそれ以来文部省と日教組及び他の反対派との間で、熾烈な(時には緩慢な)闘争が継続されてきた。

幾つかの画期*1を経て、現在「教師側」が完敗の状態になった。

 しかしながら、君が代の問題は教育問題ではない。当然ながらナショナリズム、国家への感情の問題である。現在多い目に見ると「君が代の強制」に反発する市民は約半分。上手くいけば十年でこれを数人にすることができるだろう。そうなってはじめて、「諸外国と同じように」君が代は皆で大きな声で唱われ、わたしたちは同一性を確認できるだろう。

 それとも「君が代の強制」に対する国民の反発は意外と根強く、毎年行わざるを得ない卒業式は「反対派」が最小の努力で最大の効果を上げうるパフォーマンスの場になるだろう。

 中に何も入っていないきらびやかな空虚な箱=国体、に対する絶対的畏敬というおかしな信仰を普遍として持たざるをえないという攻撃的民俗宗教(東アジアのシオニズム)はその無理を暴かれ崩壊して行くであろう。数十年後には。どちらを選ぶかは国民の意志と感覚による。

*1:1990最高裁伝習館判決、1999国旗国歌法

直ぐに首差延べて

神籬(ひもろぎ)伝授の人と云は、譬えは君が我を無罪に殺そうと仰せらる時に、天命是非に及ばず、君なれば何分にも、畏こまらいではなどと云うは、本のことで無い、殺そうと仰せらる声の下から、はっと畏まり、私を御殺御腹がいて御慰に成る者ならば、とくとく御切り御切りと、にこにことほほえみ、直ぐに首差延べて、あたまから渡して掛かる合点が無ければ、本の伝授の人とは申されまいぞ。そりゃ平生夫程の思入れが大事ぞ。

玉木正英『潮翁講習口授』

p160『近世神道と国学』前田勉 から孫引き

 神と人を比べると、神は無限大ですから人はゼロになります。逆に言うと無限大は人には見えませんから、人=ゼロとすることにより、無限大を暗示することができる。天皇に対するマゾヒズムとか言って、左翼はヒステリックに批判しそうだが、まあよくある思想(秘密の教えとして一般人には隠されている)かもしれない。

 ただ特異なのは、神=普遍性という前提を意識的に拒否している点。「天命是非に及ばず」というのは、神=普遍性という思考によった理屈だがそれを否定している。

 ところで、デリダの「アブラハムがイサクを捧げる話」を思い出す。

わたしたちが「近親者や息子に対する忠実さを選ぶためには、絶対他者を裏切らなければならない。*1

「それを神と呼んでもよい」とデリダは言っているが、日本ではそれを天皇(象徴天皇)と呼ぶべきだろう。

イサクの犠牲は毎日のように続いている。*2アル・アクサーの大モスクの近くで。

*1:p143『死を与える』デリダ

*2:同書p145

愛国無罪とは

 五四運動に引き続く学生や市民、農民、労働者の愛国的運動がネイションを建設したのだ、という中華人民共和国の根本を意味するだろう。

民主主義とは何か、に対しては色々な答え方がある。旧体制とのラディカルな切断という点では、フランス革命以後繰り返し起こったパリのバリケード~市街戦のイメージは鮮烈である。*1

上野英信の『天皇陛下万歳--爆弾三勇士序説』という本。ちくま書房、1972年。を読んでのノートから。

(野原燐)

 1931年9月日本は満州事変を引き起こした。続いて、その翌年1月28日には、上海事変を引き起こします。満州事変は、特派員エドガー・スノーによれば、「単なる鬼ごっこと占領」だった。上海事変についても「他の人と同様に私もまた中国人は闘うまいと思っていた。」しかし、実際には“ほんものの戦争”になった。「いままで、ほんとうの戦争などやれない傭兵だと、大抵の外国人から思われていた中国将兵の実力を、私はこの戦争ではじめて知った。」とスメドレーも言っている。

 日本軍と闘ったのは、蒋介石の統帥下の第一九路軍、蔡延[金皆]軍でした。約三万五千の歴戦の精鋭にわずか1,500の水兵で挑んだ海軍の塩沢提督の無謀を批判するひとは多い。だが意外にも、この本の著者上野英信は塩沢の判断には合理性があったとする。その根拠はこうだ。一九路軍は疲れ切っていた、ちの給料は10月以来ほとんど支給されていなかった、兵士た部に対する不信と敵意は非常に高い。したがって一旦戦端が開かれるや、彼らは内部矛盾をさらに高め瓦解していくだろう。

 ところが、彼らは蒋介石の徹底無抵抗と迅速な撤退という命令を無視し 闘いはじめ、そしてあらゆる困難を乗り越えて闘い続けた。そこには別のファクターが働いたのだ。

 上野は葛琴という無名作家の『総退却』という作品から引用する。

 刻一刻、絶望的な懐疑と焦躁にとらわれてゆく兵士たちを、なおかつ歩一歩、前進させていった力は、いったい何であったのか。上海の市民--それも彼ら兵士たちと同じように黄色くしなびて貧しい労働者や失業者、それに学生たちであった、と説かれている。

「体を蛇のようにくねらせ、銃の上で手をびくつかせながら、寿長年は、大勢の人が自分の後から突き進んで来ていることを、鋭敏に感じとっていた。ただそれは久しく起居を共にした、同じ部隊の仲間たちではないようだった。彼らの力強い感動的な喚声には、聞きなれない方言が含まれており、紛れもなくそれはこの地元の方言だった。それこそ、上海の失業労働者たちの革命義勇軍だったのである」

「“ドド、ドドド”寿長年は身をよじって、その響きに目を注いだ。きわめて重量感にみちたものが、飛ぶように通過していった。それは上海の学生、労働者と市民たちの救護隊だった。彼らは熱烈にこの戦争を支持し、昼となく夜となく、砲火の中に立ち現われるのだった」

「この数十里に及ぶ長い防衛線の背後には、なおひきもきらずに新しい労働者たちが集まって来ていた。誰一人として、自発的に戦闘参加を希望しない者はいなかった。彼らがこれほど毅然としていることは、かつてなかった。彼らの雇い主であるボスに逆らって志願し、頑強にこれらのボスと闘ったあげく、漸くの思いで数百里の道を歩いて来たのである」 (以上、同書99~100から引用)

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ここを読んでなんだかパリコミューンを思い出してしまった。 武器を持たない市民、労働者、ルンペンプロレタリアートが抗日の志のままに、19路軍の下層兵士たちを直接支援していったのだ。もちろん、その後13年以上中国ほとんど全域を荒らし回った日本皇軍は結局敗北し、その後“人民の海”から生みだされた毛沢東たちが統一を勝ち取ったこと、は誰でも知っている。いまでは、資本主義化する現在の上海の様子を聞くにつけ、“人民の海”なんていう古くさい言葉によりかかった言説は無効になった、と誰もが言うだろう。だが、上記の引用から見る限り、<コミューンの一瞬の立ち上がり>というものがそのとき存在していたことは確かなようだ。私意識からは、十九路軍が赤軍でなかったことは返って好都合である。

http://otd9.jbbs.livedoor.jp/908725/bbs_plain?base=13&range=1

 ヴィクトル・ユーゴー的民主主義理解においては中国の愛国無罪は普遍的とみなされる。

*1:先日テレビでやっていたフランス産テレビ番組レ・ミゼラブルの終わりの頃にもその映像が出てくる

地は円(まろ)にして、虚空(そら)に浮べる

 国学の勉強しているとか言いながら、「三大考」も知らなかったという大馬鹿もののわたしですが、これは著者は服部中庸ですが宣長の『古事記伝』の付録であり、表紙だけつるつるにして再版されている岩波文庫全四巻の最後にもちゃんと付いていることを今発見した。(購入は数ヶ月前。)

近き代になりて、遙かに西なる国々の人どもは、海路を心にまかせて、あまねく廻(めぐ)りありくによりて、この大地(おおつち)のありかたを、よく見究めて、地は円(まろ)にして、虚空(そら)に浮べるを、日月は其(その)上下に旋(めぐ)ることなど、考え得たるに、

服部中庸『三大考』p255 日本思想体系50*1

(岩波文庫p385)

この文章は1791年頃書かれた。地球球体説が日本で画期的だったかというと全然そんなことはない。それより二百年ほど前マテオ・リッチにより中国にもたらされたもの。

地球という用語はマテオ・リッチが「坤輿万国全図」を作成したとき(1602年)に中国人が発明したものであると書物にある。」というものである。

http://www.kcat.zaq.ne.jp/aaagq805/girisia/tikyuu.htm

http://www.hatena.ne.jp/1117028139 経由

「地球は蛮人りまとう(原文では漢字・マテオリッチ)これを作る。」と認識していた渋川春海は1800年頃地球儀をたくさん製造していたらしい。

ところでそれまでの日本人の宇宙論はどんなものだったのか確認しておくと。

日本書紀冒頭の「混沌」説。

1:古に天地未だ剖れず、陰陽分かれざりしとき、

2:其れ清陽なるものは、薄靡きて天と為り、重く濁れるものは。淹滞ゐて地と為る (故天先ず成りて地後に定まる)

「これは、淮南子などの中国の文献に見える考えかたである。」とのこと

http://www.kcat.zaq.ne.jp/aaagq805/girisia/tikyuu.htm

次に「奈良時代には、中国から天円地方説が導入される。」

当時から明末まで中国の宇宙論はこの天円地方説である。

その系譜には、

1)蓋天説:平らな地面の上を平面の天が回転しているというもの。

「周髀算経」は3世紀の蓋天説の解説書である。

2)渾天説:後漢の張衡の「渾天儀」中に渾天は鶏卵であり、

天は丸く、地は黄身の様なものであるとしている。(同上)

他に「仏教宇宙観」がある。*2

仏教伝来後は仏教宇宙観が導入され、

たとえば、須弥山などが紹介された。 (同上)

以上、「三大考」を読み始めるための準備メモ。

ていうか「三大考」て読むに値する文章なのかどうかを考えたい。

*1:平田篤胤 伴信友 大国隆正

*2:こっちの方がポピュラーか

続報

poppo-x 『http://www.asahi.com/life/update/0617/005.html

「新・国民の油断」回収に 過激な性教育批判で話題の本

2005年06月17日19時23分

 「ジェンダーフリー」や「過激な性教育」を批判した本「新・国民の油断」(西尾幹二、八木秀次著)の記述内容に問題があったことがわかり、出版元のPHP研究所が回収を始めた。

 同社によると、HIVや性教育に詳しい岩室紳也医師の写真が本人に無断で掲載されたほか、岩室氏にかかわる記述に誤解を招きかねない点があったことなどがわかり、今月上旬に回収を始めたという。同社は、修正の上、8月中旬をめどに再度出版するとしている。

 岩室氏は「書き方に問題があり、肖像権も侵害された。大変迷惑しており、抗議した」と話している。

 この本は1月の出版後、約1万3000部を発行。「過激な性教育」や「ジェンダーフリー」を批判的に取り上げた自民党のシンポジウムなどで引用されている。』(2005/06/18 19:33)

正確な情報ありがとうございました。

対米戦争は侵略戦争?

id:noharra:20050629#p2 の続き。

対中戦争が侵略戦争である。ものの見方がここまで違うとなかなか対話は困難だね。

上記引用文の原典にもあるように、日華事変は、中華民国が戦争計画に基づいて日本軍を攻撃した第二次上海事変から始まった。通説のように盧溝橋事件が発端だとしても、銃撃したのは共産党だというのが今では知られている。いずれにしても、日本が中国の戦争に巻き込まれたというものなので、日本がしかけた侵略戦争である太平洋戦争とはまったく性格の異なる戦争である。

http://d.hatena.ne.jp/spanglemaker/20050630/p1

聖徳太子はフィクションではないのか?

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050621#p5

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050621#p2

以下で書いたのですが、一昨日ある集まりでもハードコピーを何人かの方に渡しました。

ブログだとどんなことでも書けるが、紙を渡すとなると気のおけない仲でもひどく“恥ずかしい”。こうしたメディアが表現内容に及ぼす影響といったものも興味深い。

 テーマは、扶桑社教科書が騒がれているが、現行の指導要領に従った普通の教科書も、一部に見逃し得ない問題が問題がある! というものです。

聖徳太子はフィクションではないのか?

(1)子供の小学校教科書を見て、聖徳太子が大きく取り上げられているのをみて、疑問に思った。

「偉人としての聖徳太子」の存在は歴史学においてはほぼ否定されている。(参考:大山誠一『聖徳太子と日本人』角川ソフィア文庫など。

「憲法17条と『三経義疏(さんきょうぎしょ)』が聖徳太子の作品でないということは今日の古代史学会の常識に属することであるし、聖徳太子の実在を証明するものと考えられてきた天寿国繍帳も後生のものであることは間違いないのである。p36」)

 それに反し、教科書(私が見たのは大阪書籍H17年2月発行(3大書 社会613))では、「聖徳太子はどのような願いをもっていたのだろう」という問題意識のもとに彼の17条憲法をはじめとする業績が紹介されている。

小学校学習指導要領解説に次のようにあるので、このような聖徳太子の紹介は文部科学省の指導をそのまま実現したものである。

 “「天皇を中心とした政治が確立されたことが分かる」とは,聖徳太子の政治や大化の改新によって政治の仕組みが整えられたことや,奈良時代に天皇を中心とした政治が確立されたことが分かるようにすることである。(略)

 実際の指導に当たっては,例えば,聖徳太子の肖像画やエピソードなどからその人となりを調べる学習,大仏の大きさから天皇の力を考えたり,大仏造営を命じた詔から聖武天皇の願いを考えたりする学習,(略)などが考えられる。”

 聖徳太子は日本の基礎をつくった偉人であると日本書紀に描き出され、またそれだけでなく民衆の大きな信仰の対象でもあった。しかしいずれもそれは7世紀初めの歴史的現実ではなく、8世紀以降に作り出されたものであった。事実でない人物を登場させて彼の「願い」を小学生に理解させようとすること、これが子どもが日本人になるためにどうしても必要な第一歩なのだろうか。非常に疑問に思う。

(2)<願い>とは何か?

この教科書でおかしいと思ったところは、日本史のパート2「貴族の政治とくらし」で、飛鳥・奈良と平安時代を教えるのだが、ページ数は前者が10頁(最初の平城京の見開き2頁鳥瞰図を含めて)、後者が3頁である。私の大学受験歴史の感覚では当然後者の方が比重が大きいと思っていたので意外に思った。しかし飛鳥・奈良時代が“くにの始まり”の時代であり、歴史やアイデンティティのためには枠組みが必要であり、それを与えることなしには何も始まらないという発想もありうるだろう。かりにそれを認めたとしてもこの教科書の描き出す飛鳥・奈良時代は余りにも偏向しているのではないか。

飛鳥・奈良時代は、p18-25なのだが、p18に、「聖徳太子はどのような願いをもっていたのだろう」という問いかけがある。p20-23は大仏建立が主題。p21に「わたしは仏教の力で国じゅうが幸せになることを願っている(略)」という聖武天皇の願いが8行にわたって記されている。p22には「多くの農民にしたわれる行基」が大仏づくりに協力したと述べられる。p25では、「教えのためには命をおしんではならない」とした鑑真が、5回渡航に失敗したのちやっと日本に着いたことが記される。8頁を通して“命を惜しまないほどの強い願い”でもって国造りを押し進めるといったイメージが与えられる、とも読める。わずか134頁で日本の歴史の全てを語りきらないといけないから大変なわけですが、この8頁だけが特別に精神性が高いように感じた。

(3)

歴史学者が科学の名に於いて、教科書からの聖徳太子の抹消を主張しても、大衆はけげんに思うだろう。右派がちょっと扇動すれば抹消反対が絶対多数になるだろう。わたしたちはどうしたらよいだろうか。とりあえず、飛鳥・奈良、平安時代をたった13頁で分かりやすく小学生に伝えるにはどうしたらよいか、自分なりの日本史像を造り、教科書を試作しようとしてみるべきかもしれない。もちろん、指導要領に囚われず、自由な立場で。その場合「日本史」である必要はないわけだが、ではどうするのかが問われる。

(2005.7.16 noharra  )

参考:指導要領   http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050621#p7

   指導要領解説 http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050621#p8

降伏禁止は民間人に強制されたか?

3)

住民に対し「生きて俘虜の辱めを受けず」というフレーズが強調されたかどうかは分かりません。

そのため沖縄では「一木一草」にいたるまで戦力化することがはかられ「軍官民共生共死」がうたわれた。つまり軍に全面的に協力し、軍が玉砕するときには県民も一緒に死ねということだった。

http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper40.htm

一方、主陣地のあった地域を見ると、佐真下のジルーヒジャグワーガマには日本軍が入ってきて、少尉が日本刀を振りかざし、「米軍の捕虜は絶対に許さない。捕虜となる者はこの刀で切り殺す」と住民を脅した。

http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper11.htm

 本島中部の状況を見ると、日本軍がいなかったり、すぐにいなくなった地域では、米軍にすみやかに占領され、住民は集団で投降して助かり犠牲者が少なかったケースが多い。その際に移民帰りが投降を指導した場合がいくつか見られる。一方、日本軍陣地があり、軍民が混在していた地域では、集団で投降することは許されなかった。そのため米軍が接近し砲火のなかを南部に逃げ、そのなかで多くの犠牲者を出した。壕に残っていると、日本軍と一緒ならば米軍の攻撃を受けて犠牲になり、あるいはスパイ視されて日本軍に殺された。ただ南部という逃げ場が残されていたので「集団自決」にはいたらなかったと見られる。(同上)

以上により、降伏は許さない、という強い圧力を皇軍がかけ続けたのは事実だ。