性を、一旦破棄して考える(続き)

えーと。(11/27訂正版UP)

「男性/女性/中性など、生理の規範としての性を、一旦すべて破棄して考える こと」について考えてきたのでした。

松下の文章は4頁(4部分)からなる。要約すると以下の通り。

1.わたしたちの知っている抽象とは全く別の軸における抽象のあり方がかって存在した。

2.「性別を区分する意識を生物としての人間の歴史の原初に与えた何かの呪縛から私たちは脱していない」

「男と女を相互に反対概念として把握するのは、当然ないし自然な認識の態度ではなく、与えられ、強いられた態度である」

3.胎児の段階でヒトは男女に分化するが、性というものを自意識において捉え返すことは、幼児~思春期までなされない。

「性別の存在と性別の意識は不均衡~非対称である。」

4.性行為を複素数空間において考察すること。

(2)

 反対概念というのは奇妙なもので、<明るい/暗い><高い/低い>など、反対概念の和は全体であるかのようにイメージされてしまう。目の見えない人は<明るい部屋/暗い部屋>の差異が理解できない。明るさを直接把握することはできないのだ。しかしながらすべての文章のうちから<明るい又は暗い>が付くフレーズを集めれば、それがどんな時につかわれる言葉なのか、どういう雰囲気をもった言葉かが分かるだろう。それと同時に、<明かるさ>をあらかじめ知っている人たち(わたしたち)には普通理解できないあることにも気付くのだ。つまり(Aと│Aを包括する範囲ないし軸)がどこにあるのかが分かる。

 「それに君たちは大学はすでに解体しているというが、ちゃんと建物も立っており、」というセリフはとても滑稽な印象を与える。大学に対し反大学というものしか頭のなかに描くことができず、つまり広い意味での大学(知的世界)だけが世界であると思っている自分を知らず知らずに白状してしまっているからだ。

 さて、「大学はすでに本質的に解体している」とはどういうことだろうか。知の体系が存在するためには、〈(考察し研究する)主体-対象〉という構図が必要である。〈大衆団交〉が実現可能だったことは、その構図が崩れたことを意味する。〈死者の声は聞き取ることができる〉〈サバルタンは語ることができる〉というアプリオリから出発するのが、松下のスタイルである。サバルタンの声を想定することはサバルタンでないものがサバルタン性を表象代行する事であり犯罪的である、という批判の可能性がある。しかしその批判が成立するかどうかは、わたしがどこに立っているかによる。大学の中のインテリとして発言することと、それと対極的な場で発想することは違うのだ。〈現場ないし法廷でいつでも国家の秩序や法と闘う準備のあるレベルでid:noharra:20040721〉語る場合とは。

(3)

 たしかに、むき出しの性器の写真ではあるのだが、それらの器官と〈私〉の器官が出会う必然の回路を法廷は決定しえない。その回路をえらぶかどうかについても。

松下は何を言っているのだろう。ポルノ写真の性器とわたしの器官が出会う回路とは?毎日送られてくるスパムメールには美女の写真付きの物もたぶんあり、その場合その女性に出会うべき回路も指示(または暗示)されているのだろうが、そういう場合を除けば、ポルノは出会えない可能性においてポルノであると思われるのに松下は違うという。その写真をどのような眼差しで見るのか、スケベオヤジの視線でか、商品としての視線でか、少年の無垢な好奇心か、失われた横田めぐみさんを見るようにか、そのような視線のあり方を言ってるだけだろう。読者の性器写真への眼差し(回路)の在りようは多様であり、それを一概に「猥褻」「オヤジの眼差し」と決めつける根拠は裁判所にはない、と松下は主張する。

ところで女性にとってなぜポルノか?<具体的に股開いて金稼いでない人は、自分の変わりに誰かが股開いて生きている、という一瞬(へ?)というしかないような構造で世界が成り立っているということを肝に銘じておこう*1>といった発想がおそらく山本氏にはあったのだろう。ポルノ写真を一枚一枚見ながら松下はその裏側に<世界を転倒せずには生きられないが、同時にそうした文に決してたどり着くことのない>性器たちの静かな叫びを聞き続けたのだろう。

ただ、そのような理解ではまだ不足だろう。叫んでいない性器たちから無音の叫びを聞くとは、性器を〈サバルタン〉と位置づけていることだ。あるひとがサバルタンであるとはその人との回路が非対称的である、つまりわたしが主体でありサバルタンは客体であるという関係がどのようにしても動かしえないことを意味する。しかしながら松下は断言する。非対称性は欲望も刺激しないし、性的本質と敵対すると。*2

「多くの人々が、これまで行なってきたと自ら思い込んでいる性的行為は、たとえ生殖の経験を経ている場合でさえも、性的本質とは無関係であり、敵対している。この視点を疎外する位置にある場合には。*3

ポルノを見てオナニーしたりあるいは娼婦を抱くといった行為は本物にたどりつけない人のための不完全な偽物だと一般に思われているが、いわゆる本物の性行為に対し松下は、性的本質に敵対するものだ、と断言する。それでは性的本質とは何なのだ?

(4)

成熱した男と女の自然な行為として〈性〉行為を考えることを松下は批判する。「むしろ、何らかの理由で〈成熟〉概念に達しない、ないし、はみ出している身体相互の関係において、器官の結合を実数軸とする場合の不可能性を虚数軸として設定しつつ、この複素数領域に広がる相互の幻想過程の一致やズレをもたらす要因~止揚条件から考察を始めるべきではないのか。」というのが松下の主張である。正常な器官の結合を基準とする直線的価値観を廃棄し、未成熟~はみ出した身体同士の接触の多様性平面を想定しそれにさらに幻想過程という次元が追加されたn次元において、ズレだけでなく一致も存在しうることの驚きを展開していく、といったイメージだろうか。

「〈成熱〉概念に達しない、ないし、はみ出した存在が、生命~幻想の発生に関わる身体知としての組織論を相手と共有しつつ対幻想とエロティシズムについて考察~実践し、それを現代文明の対象化~転倒の試みと連動させつつ展関する作業」こそが求められている。

ダンテはベアトリーチェを誉めたたえることにより性愛の幻想が「社会秩序や存在の根拠を揺るがせる質をもちうること」を描いた(予感した)。*4性愛の器官的実践を含む多様な幻想的~器官的実践と考察が、あくまで現代文明(既成概念)の対象化~転倒の試みを基軸として試みられなければならない。と書いたが「……しなければならない」とは松下は書いていない。そうではなくて現代文明につきまとう当為というモードこそ、解体されなければならないものに含まれる。←この文章もまたパラドックスになった。「これまでの〈性〉に関する多くの論議には、共通の欠損としての共通の前提」として、目標に向かって進む(目標が実践的なものであれ否定神学的なものであれ)というモードがあった。とも言って良い。松下の思想が、現在の文法では語り得ない目標に向かっていることを、彼の文体の分かりにくさが示している。何重にも留保し、結論を繰り延べ、かと思うと急に過剰に断言するといったスタイル。

*1http://d.hatena.ne.jp/chimadc/20041111のコメント欄 のchimadc発言

*2:〈男〉はいつもサバルタンを抱いてきた。        非対称性とは何か?「股開いて金稼いでない人」とは?それはつまり典型的には、USAならWASP、日本では有名大学卒業有名企業就職男子という存在様式を持ちながら、なまじインテリで左翼で善意を持ち、セックスワーカーなんかに手をさしのべる存在。と彼らの知の対象であるサバルタン存在。(詩人たちはいつでもサバルタンを必要とした。学問がこのレベルに到達したのがポスト構造主義ないしポスコロの時代だったと考えることができる。)インテリ/サバルタンという構造を、ブルジョア/プロレタリアにならって社会全体に押しひろげることができる。と稚拙に描かれた構図がふつうに具体化している現実があったとき、ひとは「一瞬(へ?)というしかない」! (だが、「一瞬(へ?)というしかない」その一瞬に「へ?」と言えるのはサバルタンの側であろう。反サバルタンは鈍感であることによって定義される。) 即ち、善意の左翼インテリである野原燐(男性)は、「鈍感である」という自覚において辛うじて左翼たりうる。ここには越えられない溝があり、その深さに無自覚であれば“一生幸せに生きていく(他者を殺しながら)”ことしかできない。

*3:野原が文章を少し縮めています

*4:ダンテのことは分かりません。

わたしは否応なしにアジア人だ。

日本人は東洋人であるということは歴史が否応なしに日本人に教えてくれたんだ、とこの水村の文章は述べている。

【「もう遅すぎますか?」--初めての韓国旅行 水村美苗】、をもう一度読んでみよう。

引用した部分の骨格は次のようだ。

韓国人と日本人は似ている。であるのに日本人は欧米人と日本人の類似性にばかり目を向け、韓国人と日本人の類似性に気付かない。

しかし、それにすぐ続けて水村は言うのである。「今となってはなんと旧い世界観かと人は言うであろう。すべてはここ十五年ほどで音を立てて変わってしまった。ことに、中国という国が世界市場の中央舞台に躍り出たのが決定的であった。」ソウルの高級ホテルのラウンジの隅に座って、三人の若い女の人たちが演奏するグローバル・ミュージックを聞きながら、水村は言う。

「人口十三億以上と言われる中国が世界市場に参加し、その破格な規模での経済成長がこの先いかに人類の運命を左右するかが見えてきてから」日本人の脱亜意識も変わった。21世紀の半ば、日本は巨大な「環中国圏」の一部でしかなくなるだろう(溝口雄三氏の意見)。わたしたちはこの圧倒的な「中国の衝撃」を間近にしている。このとき

南北統一という途方もない課題を抱えているといえども、この日本にどこまでも似た韓国こそ、日本が受けねばならない『中国の衝撃』を最も深く共有できる国なのである。日本という国が、空々しくも図々しくも、今となって急にそんな兄弟がいたことを懐かしく思うようになったとしても不思議はない。兄弟が出世してくれ、りゅうとした格好をしているのだからなおさらである。日本のテレビの画面には、韓国の寒村の花嫁の代わりに、韓国のまばゆいばかりの美男が次々とめまぐるしく登場するようになった。日本は片思いする女のように、派手に、甘ったるく、押しつけがましく、韓国に身を擦り寄せるようになった。大国、中国・アメリカと今後どうつきあうかは相手の出方やその時の世界情勢によるであろう。だが、歴史の荒波をくぐり抜けるのに、これだけ近い韓国とは肩を寄り添わせていかねばならぬという気持ちは日本の方にはある。

 なんともげんきんな日本だと韓国は言うかもしれない。(同上p341)

わたしたちはある高揚感に頬を染めながら息せき切ってアジア人になり、ヨンさまのもとに駆け寄る。客観的に見ればそれは「もう遅すぎる」ところの五十女の勘違いと言われてしまう可能性が高い。だが、相手には理解できないだろう問題設定を身勝手にも相手も理解しうることが当然と勘違いしうる恋と呼ばれる特権が、他人との境界を越えうることもまた事実だ。

「ここ数年「不定愁訴」に悩まされ続けている私は、ともすればかんたんに世の中に絶望した(同上)」。簡単な絶望、あるいはそこからくる他者への裁断が全く不毛な物であることは言うまでもない。

 日本から抱えてきた問いは、宙ぶらりのままである。

 夜は更け、三人の若い女の演奏家はすでに楽器をしまってどこかへ消えてしまった。

 三十年前の私は、自分が若いことを知らなかったが、今、若い人に、あなたは自分が若いのを知らないと、そんなことを教えても無駄である。三十年前の私は自分が東洋人であるとも知らずにパリを歩いていたが、今、それは、歴史が否応なしに日本人に教えてくれるようになった。残るは、その歴史が教えてくれたことを、いかにこの身に引き受けるかであり、それは、いかにこの先歴史にかかわっていくかということである。(p347)

この水村の14頁の文章は繊細なガラス細工のように巧妙に作成されている。若いがゆえの無知(自分が若いことをしらない)と「自分が東洋人である」ことを知らない(歴史的に形成された)無知。認識の裏側にあるエロス性を丁寧に滲ませることで、二つの無知をみごとにシンクロさせていく。(まあ考えてみれば最初から事実なんだからと言ってしまえば身も蓋もないのだが)そのような狡知をたどり読者はやっと「自分が東洋人である」ことを否応なしに納得する。

試みとしての女性国際戦犯法廷

 「東京裁判史観」という概念がある。*1

 女性国際戦犯法廷というものは揶揄にしか値しない存在だ、と信じて疑わない者たちは、と東京裁判史観というパラダイムを乗り越えようと全身で試みたことのない人たちだ。ということは確かだ。

 それだけでなく、それ無しでは生きることができない正義を求めざるをえない情況におかれ、国家が設置している法廷では自分の求める正義がとうてい得られそうもないことに絶望し抜いた経験も持たない、おめでたい人たち。

私ではない誰かが裁き、そこに自分が正義と感ずる物が実現されるべきだと考えているのかいないのか、とにかく「裁く」ということはわたしの仕事ではないことになんの疑問も持たない、そのことは、民主主義という言葉の意味を知らないといことになるのではないのか。

ある矛盾や苦痛の根源は世界規模の共通性を帯びており、従って世界規模の人々の対等な審理によって解決へ接近しうることはいうまでもない。そのような回路の設定はインターネットの転倒的応用によって既に技術的には可能なはずである。その設定を現在の技術パターンと国家群が阻止しているだけであり、(松下昇)

http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/tokyo4.html#kyokuto

 このような問題意識に立ったとき、ひょっとしたらその実現された形には多くの問題点を指摘しうるのだとしても、「女性国際戦犯法廷」は未来を開く試みとして高く評価されるべきである。

 女性国際戦犯法廷の全記録は公開されている。したがってその判決に不服がある者は、しかるべき証拠を提示すれば、再審請求できるはずである。このような開かれた審理システムを予感させるのが、その可能性であろう。

*1:それは、第二次世界戦争に関して日本がおこなった行為に対する戦勝国家による裁判の権威と判決の正当性を認め、それによって戦争だけでなく戦後の全ての問題の評価軸とする歴史観である、とひとまず規定しておく。 松下昇http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/tokyo4.html#kyokuto

foursue発言(1回目)

# foursue 『何がどう恥ずかしいのか説明いただけますか?

納得できる回答が無い場合あなたのダイアリーにおける私の文章の引用をやめていただきたい。』

# foursue 『引用ではなく無断転載か』

(野原)

「その突然の世界からの宣告はまさに不条理だ。」何を甘ったれた事を言っているのだろう。満州国を建設しそこから退かないという決意は「国際社会」に対する大きな挑発である。「国際社会」は承認しないとしても、全面戦争まではやる決意は持たないだろうというのが石原莞爾の賭けだった。それは間違っていたと立証される機会を持たなかった。その後日本はずるずると中国大陸における戦線を延長し続けた。すでに「南京大強かん」を起こしてしまったのでそれは大々的にキャンペーンされ、開戦を国民に納得させる手数は大幅に省かれた。そのような条件下で「その突然の世界からの宣告」はなされたのだ。小学生でも騙されないような事を書かないでください。(引用外の部分、2/4朝追加。)

どういう法廷を創るのか

松井やよりさんの名前のブログができている。

Yahoo!ジオシティーズ – 「女性国際戦犯法廷」とは何か -松井やよりー

http://geocities.yahoo.co.jp/gl/matsuiyayori/

以下ちょっとだけ紹介。

「「法廷」を開くといっても、どういう法廷か、非常に議論がありました。」というようなところから率直に書いている。

処罰よりも和解を中心にする南アフリカ方式か、刑事裁判形式かで後者を選んだ。「この法廷を開く最大の目的は「慰安婦」制度が犯罪であるということを明らかにすることにある。」からである。

そして、そのためには、法廷の憲章(Charter)をつくって、どういう法廷を開くのか、どのような犯罪を対象にするのか、誰を訴追するのか、などを盛り込む、つまり、規則をつくらなければならないわけです。

それで、VAWW-NETジャパンがまず、法律家など専門家の意見を聞いて、何回もみんなで議論をして草案をつくった。そのときに参考にしたのは東京裁判憲章、旧ユーゴとルワンダの国際戦犯法廷規程(statute)、それと国際刑事裁判所の規程です。それをもとにしてつくったんですけども、何回も何回も練り直して様々な議論がありました。

参加者の内訳

海外からの参加者は、被害国からだけで390人で、被害者は8カ国から64人(韓国が220人のうち被害者が21人、北朝鮮が11人、そのうち被害者が2人、台湾が63人で被害者が12人、中国が28人のうち6人が被害者)ということで、

「戦時の性暴力に関してはこれまでも日本の「慰安婦」問題が裁かれなかっただけではなくて、世界の他の地域での武力紛争や戦争でも、性暴力は不処罰だったんですね。」という常識を打ち破ったのが、「旧ユーゴ国際戦犯法廷」だったと。

そこで、「アフリカ系黒人のアメリカ人で旧ユーゴ国際戦犯法廷の所長さんを一昨年までやっておられたガブリエル・カーク・マクドナルドさん」に裁判長を頼んだと。

下記 VAWW-NETジャパン のサイトとブログより読みやすいので、継続していってください。熱湯浴さんがさかんに宣伝してくれてるし。

http://www1.jca.apc.org/vaww-net-japan/index.html

http://blog.livedoor.jp/vawwnetjapan/

追記:「やより」さん下記にて継続している。(3/5追加)

http://blog.goo.ne.jp/yayori2005/

次世代メディア「やぐら」

 京都大学の一部が不法占拠されているらしい。

http://diary5.cgiboy.com/0/jagr/index.cgi?y=2005&m=2#9 2005,2,1

京大の百万遍の石垣に、やぐらが立っているのだ。

(略)

うん。確かにダサいのは否定できない。いまどきヤグラなんて・・・・と思う人もいるだろう。「次世代メディアヤグラ」とか書いた垂れ幕も、正直かなり「馬鹿やん」と思ってしまう。けども、それでも、ああいった空間を作り出すことに意義があるのだ。

 次世代メディア「やぐら」、は笑ってしまった。わたしたちもじつは京大の一部を不法占拠~開放していた*1ことがあった気がする!(参考:http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/a367.html)

 とにかく国民の大学ですから市民に開放されるべきです。どのような回路とヴィジョンが有効かは問われます。当局と言われるものが、開放への問いに自らをさらしているのかが最大の問題。

 もうなくなっているのかな?

*1:教養部A367教室

教育の質や平等の保証

# spanglemaker 『難しくありません。教育内容に強制力を行使できないならどうやって教育の質や平等を保証するんですか?』

# swan_slab 『>教育の質や平等を保証

その要請はどこから導かれるものでしょうか。』

# spanglemaker 『憲法第26条です。』

swan_slab 『憲法26条の「教育を受ける権利」の中身の理解として、教育”内容”面の保障を含むかについては争いがあります。私は含むと考えます。結論としては

> 国家の強制によって教育を良くすることができる

場合がありうると考えています。

その端的な理由は、かつてフランスにおいてジュール・フェリーが公教育の無償化・義務化を訴えたのとほぼ同じ理屈です。共和主義のイデオロギーを日本国憲法の理念に置き換え、民主主義を加えて強調すれば、だいたい国家の教育権的要素は肯定的に評価できると思います。すなわち等しく公民的能力を確保する国民全体の利益がありうる。

しかし、それは憲法26条の一解釈です。それに尽きるものとも考えることはできません。

spanglemakerさんはいかがお考えでしょうか。』(2005/03/19 21:42)

spanglemaker 『>>国家の強制によって教育を良くすることができる

あり得ますね。公教育では、国家が教育内容にまで強制力を行使できてはじめて、児童が平等に教育を受ける権利が保証されると言えましょう。なお、強制を受けるのは児童ではなくあくまで教師です。彼らは公務員なのだから当然です。

教育は国民の共同事業です。使えるものは何でも使うべきです。国家権力は使わない、というのは合理的ではありません。教育の最低限の質と平等を保証し得る最も確実な方法は国家権力を使うことです。

>>それは憲法26条の一解釈です。それに尽きるものとも考えることはできません。

何事も疑ってかかることは大事でしょうけれど、「教育の平等を保証しなくてよい」という解釈は珍説だと思います。主観ですけど。』(2005/03/20 21:13)

swan_slab 『”平等”とは何かについても争いがあるのですが、いかなる状態を平等とお考えでしょうか。』(2005/03/20 21:58)

spanglemaker 『「平等」とは何か、という問題と国家は権利を平等に保証すべし、という問題は別の問題です。』(2005/03/20 22:13)

swan_slab 『>国家は”権利”を平等に保証すべし

という命題はどこから導かれますか。』(2005/03/20 22:33)

swan_slab 『>教育の最低限の質と平等

というのは具体的にどういう質が目指されるべきで、平等とはその質の平等も含むのでしょうか。ということです。』(2005/03/20 22:56)

spanglemaker 『>>という命題はどこから導かれますか。

日本国憲法です。

>>というのは具体的にどういう質が目指されるべきで、平等とはその質の平等も含むのでしょうか。ということです。

質とは何か、平等とは何かという問題と「教育の質と平等を国家は保証すべし」という問題は別の問題です。論点そらしにはつきあいません。』(2005/03/21 19:53)

swan_slab 『>日本国憲法です。

つまり、spanglemakerさんご自身の憲法規範の解釈をお聞きしているわけなんですが。』(2005/03/21 20:40)

(野原燐)

 教育とは(少なくとも小学校の教育)とは、ちっぽけな子どもたち一人一人が主人公である。上の文章には全然書きませんでしたが、わたしの子どもを送り出してくれた卒業式には、(君が代日の丸はあったが)その基本線がしっかり貫かれており、良かったと思います。

一片の法律や通達で教育を良くすることなど出来るはずがなく、現場の先生たちが生徒とともに試行錯誤するのを、父母も協力するなかでおおらかに見守っていく方が良いと思います。実際、テレビでは、法律や規則などを逸脱気味の「ごくせん」や「金八先生」などの(ちょっと時代遅れかなみたいなテイストの)ドラマが大人気です。

 国家の強制によって教育を良くすることができる、ということはないでしょう。

2 法律に定める学校の教員は、全体の奉仕者であって、自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない。このためには、教員の身分は、尊重され、その待遇の適正が、期せられなければならない。

(教育基本法第6条2)

公立私立を問わず非常勤講師などの不安定雇用の比重が増えています。非常勤講師の時間当たり労働単価は正規職員の1/4位のこともめずらしくありません。その待遇の適正にも配意していただきたいものです。

訂正あり/根拠は?(4/3追加)

(大東亞南米共榮圏は私の理想であって、歴史事実ではありません)

http://d.hatena.ne.jp/DaI/20050327#1111939474

で、「 根拠は?」と聞きましたら答えが返って来ました。

 ~あ~

数十行もある。

読みたくないが、質問した以上読まねばならぬ。

1, 香港占領期間中、多くの朝鮮人が日本の軍服を着ていたが、一般の日本人よりも背が高く、日本の正規軍よりももっと凶暴だった。このとき民家に乱入して婦女暴行を働いたのは、ほとんど日本人の手先となって悪事を働いていた朝鮮人であった。当時香港住民は日本軍に対するよりももっと激しい憎悪の念を彼らに抱いた。」(謝永光著「日本軍は香港で何をしたか」社会評論社より)

謝永光という人は、(日本軍による香港占領を体験した香港人鍼灸医)らしい。

2、 ・アメリカの経済援助と引き換えにベトナムに侵攻し、略奪暴行放火殺人の限りを尽くす。

3、 そして朝鮮の警官は殆ど朝鮮人だった!

尋問をするのは言葉や地理に詳しい朝鮮人警官である!

朝鮮人は捕虜をリンチ、占領地では住民を強姦。

4,高麗軍が2度に亘り元軍の先鋒として日本に侵攻してきた(4つとも同上)

 悪い(外国人を迫害した)朝鮮人くらいいくらもいるだろう。

ハンドルも壮大なDaIさんが、基本的に分かっていないことは、国民国家成立以前から朝鮮人/日本人という確固たる不変の実体があったみたいな単純な発想をしていること。大東亜共栄圏の思想をもっとよく勉強してください。

 さて上記が事実としても、いずれも、朝鮮人が誰かの部下として悪いことをした例ですね。どちらかといえば朝鮮人より、上官の誰かの方が悪かったことになるでしょう?

 大東亜戦争でも強姦した日本兵はたくさんいたでしょう。今となってはまず、東条英機以下の責任を追及、確立していくべきだと思います。

種差を類に代えてもよい

 スコラ哲学では、類と種差によってものは定義されると言います。

例えば肉食である(種差)恐竜(類)=肉食恐竜。また、正多角形という類において角の数が4である物は正方形です。ところで、

類が種差に種差が類に変化させられ得るのもしばしばである… 例えば、正方形は四辺をもった正図形であるか、あるいは辺が同じ長さの四辺形であるかです。*1従って、類と種差とは実詞(名詞)と形容詞の違いでしかないようです。人間は理性的動物であると言う代わりに、人間は動物的な理性的存在者… ということも言語は許しているように。

ライプニッツ『人間知性新論』(原著1703年)みすず書房p278 isbn:4622017733

 女性の運動部員と言おうと、運動部員である女性といおうと同じことである。ということですね。ところでわたしはスコラ哲学のことを全然知らないのだが、やはりライプニッツの言うようなことはスコラ哲学は許さないのではないか。世界とは神の秩序であり、あるもの(種)は一つ上の段階である類に収束する。そのあり方は一つしかない。そう考えないとヒエラルキー的秩序は乱れてしまうから。

 ところで、<存在>という種の類とは何か?いくつかの*2類を想定できる。そうしたものが<存在>なのではないか。女性であるわたし、運動部員であるわたしなどなど…

 愛国心とは、<存在>に対しむりやり「日本人」という類を強制するものだ。と思われる。

*1:分かりますか?類として正多角形をたてるか四辺形をたてるかの違い。

*2:あるいはいくらでも多くの

甘ったれに未来はない

ただし、ドイツがはっきり謝ってきたのは、ユダヤ民族の抹殺という人類史上まれな行為に対してである。しかもすべてをナチスの罪として葬り去ることができた。日本とはいささか条件が異なる。

(若宮啓文)20050425朝日新聞

なんて甘ったれたことを言っているのか。アウシュビッツが現在まで「人類史上まれな」決して許されざる行為であり続けているのは、行為のひどさが客観的尺度で測って、皇軍の行為よりひどかったからではない。ユダヤ人たちが団結しその知力と財力を傾けてそのような認識を世界に定着させ続けているからである。一方、日本軍が蹂躙したのはアジア人たちでしかなかった。彼らは基本的には(この十年ほどの)中国と韓国を除けば、国際的力関係においてものの数ではなかった。だから日本は今までろくに反省せずともやってこれたに過ぎない。小泉首相はボタンを掛け違え、修復に成功していない。わたしたちはこのツケを払うのにあと50年は*1掛かるかもしれない。

*1:いやもっと