まだ出現していない何かの媒介であり、その何かを共闘的に作り出していくための不可欠の条件である
松下昇の表現のあんぱん(違う)断片より。
まだ出現していない何かの媒介であり、その何かを共闘的に作り出していくための不可欠の条件である
松下昇の表現のあんぱん(違う)断片より。
わたしが何よりもおどろくことは、世の人がみな、自分の弱さにおどろくことがないという点である。だれもが、まじめくさって行動し、めいめい自分の分を守っている。しかも、そうするのは慣わしでもあり、自分の分を守るのが実際によいことだからというのではなく、まるでだれもが、道理や正義がどこにあるかをまちがいなく心得ているというふうである。
パスカル『パンセ』 断片374
みんな、あたかも自分のやってることに自信を持っているかのように「まじめくさって行動している」。口にする言葉といえば「・・・が自然だ」「・・・は当然だ」、だが本当には自信なんか持っいやしない。
一月半ぐらいして、私たち初年兵全員が東南角広場に集められました。初年兵が整列した前に立木が二本あり、各々に中国人が後ろ手に括られていました。その一〇メートルくらい手前に、二列に初年兵を並ばせて、小銃の先に着剣させ、「今日は人間を刺し殺す。人を刺す感覚をお前らの手と、体で覚える教育をする」と、言われました。いくら軍隊でも、「生きてる人間を殺すのか」と、一瞬ドキッとしました。「突け!」と号令され、二名ずつだだーっと走って左胸、心臓を突き刺した。生きていた人間を突き刺す、ということで、最初は足がふるえていましたが、七番目か八番目ぐらいに、私の番になると、もうそれは消え去って、私も同じように「突け!」と言われて走り、突き刺したんです。その感触は本当に豆腐を箸で突き刺すように、簡単にすっと入っちゃったんですね。人間の体というのは、銃剣で突くと、ほんとに柔らかく、すっと入るもんだないう、ただそれだけの感触で、可哀想だとか、人を殺した罪の意識というのは全然頭の中にはないんです。
刺突訓練のあとしばらくして、今度は首切りの実演がありました。
同じ東南角広場に集められると、今度は土下座した中国人が二人、後ろ手に括られていました。教官は准尉でしたが、その人が日本刀を持ってかけ声をかけて、さっと振り下ろしたんですが、首が完全に切れずに三分の一ぐらい繋がったままで前へ倒れたんです。血がバーッと吹き出した。その倒れた人を日本刀で、鋸のように引きながら胴体と切り離した。二人目は下士官の人が、中国の青龍刀という刀を持って同じようにやーっと振り下ろした。これはすぱっと切れました。生首がコロコロっと二、三メートル前へ転げ落ち、胴体がべたっと前へ倒れました。
それを見せつけられても、さっきまで生きていた人間が胴と首と離れて死んでしまい、死というものは案外簡単なものだなと思ったぐらいでした。だから死に対する抵抗感や殺すという行為に対しても段々無感覚になっていったと思います。初年兵の肝試しということと、チャンコロ殺すのに罪の意識があっては戦闘ができないということで、教育され、豚や鶏を殺すのと同じ意識に変えられていったのです。刺突訓練も首切りを見せたのも、目的はそこにあったのかなと考えます。これは私たちの隊だけではないらしく、北支では初年兵に対して、やはりあちこちでおなじようなことをやったと、後年読んだ本にも書いてありました。
(p56 近藤一『ある日本兵の二つの戦場』isbn:4784505571)
今日本屋へ行って『BC級戦犯裁判』というのを買って帰ろうと思ったら出口のところで沖縄特集をやっていて、『ある日本兵の二つの戦場』というのがあった。良い本のようなので買ってみた。今p38-92だけ読んだが、とても良い本だと思う。
上記の部分が最も印象的というわけではない。現在靖国問題が語られるが、その前提には、私たちの近い先行者が行った“支那事変~大東亜戦争”とはどういうものだったのかというイメージと評価がある。
戦争は悪ではないという意見もある。大東亜戦争自体は国際法違反ではなかろう。であるとしても、1937年から皇軍が中国大陸で行った“支那事変~大東亜戦争”の実体は、どうひいき目で見たとしても、アジア解放といった美しいスローガンの正反対の、最低最悪のものだった。
それが事実だ。
すでに南太平洋戦線では、日本は米軍の圧倒的な物量を前に、真っ向勝負ができる状態ではありませんでした。日本軍は、ゲリラ化して戦っていました。ゲリラとは、要するに非戦闘員のような振りをして実は戦闘員である存在、とここではざっくり定義させて頂きます。そして、米軍もそのゲリラ攻撃に、サイパン以外の各所で苦しんでいました。このことから、米軍に素直に白旗を挙げても、米軍がおいそれと信用してくれるかどうか、となると、これは恐らく米軍は信用しなかったと思います。だから、非戦闘員たるサイパン島の日本人住民は、結局自決する以外に道がなくなってしまったわけですね。
7/24コメント欄より
(削除)
noharra 『突然のTB失礼しました。
野原は「戦争を美化するな。」、という主張はしていません。
(1)「しかし自虐一色に染まる」とはどういうことでしょうか?わたしが参照先として示した、林博史氏の論文「「集団自決」の再検討」 http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper11.htm の記述は「自虐的なもの」なのでしょうか?
(2)「同じ轍を踏むと思ってます。」
同じ轍はすでに踏んでいるのでは。イラクに復興支援のために自衛隊を出したが、現在のイラクは内戦状態で復興支援ができる状態ではない。ある条件のもとに出兵したが、事態がその条件に反すようになったのに兵を返せない。これは「支那事変」の泥沼化において見られたのと同じ事態です。
(3)
戦争をもう一度したいのだったら、今度は「南京大虐殺」と「沖縄における住民虐殺(あるいは虐殺への示唆)」みたいなことは一切しません、との強い信頼感を国民に与えることが必要でしょう。
「歴史は繋がってます。そこには戦争をせざるを得ない考えに至った理由があります。そこの部分をないがしろにして「悪行だから反対」と切り捨てていては」
「戦争をせざるを得ない」という主張をあなたがしているという前提で聞いているのです。「大虐殺」及び「住民虐殺(あるいは虐殺への示唆)」も「せざるを得なかった」ものだとあなたは主張しているのですね? と。』 (2005/07/26 07:31)
神戸家庭裁判所というのはひどいところだな。
抗議先
〒652-0032 兵庫県神戸市 兵庫区荒田町3-46-1
電話番号等 Tel:078-521-5221 Fax: 078-521-8011
神戸家庭裁判所 永井 ユタカ 所長
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韓国籍理由、弁護士の調停委員選任を拒否…神戸家裁
神戸家裁が、韓国籍を理由に調停委員の候補として兵庫県弁護士会から推薦された弁護士の選任を拒否していたことが30日、わかった。推薦を受けた弁護士が選任されないのは極めて異例。同家裁は「調停委員は『公権力』を行使する国家公務員で、外国人は選任できない」としているが、同弁護士会は「話し合いの仲介が『公権力』と言えるのか」と反発。問題を重視した近畿弁護士会連合会(近弁連)も、近くシンポジウムを開いて市民と意見交換する。外国人の司法参加のあり方について今後、議論が高まりそうだ。
調停には、隣人同士のトラブルなどの民事調停と、離婚や相続などの家事調停があり、事案ごとに裁判官1人と調停委員2人以上で作る「調停委員会」のもとで話し合いが行われる。
調停委員は、「豊富な知識、経験を有する」人らを家裁などが最高裁に上申し、2年の任期で任命される。弁護士は委員の資格があり、最高裁規則は、欠格事由として、弁護士として3年以内に懲戒処分を受けた者など7点を挙げるが、国籍条項はない。
兵庫県弁護士会によると、神戸家裁の依頼で、2003年10月、韓国籍の梁英子弁護士(47)を推薦したが、同家裁から「最高裁に上申しない」と通告された。
最高裁によると、調停委員らが作成に関与する「調停調書」は確定判決と同じ効力を持つほか、関係者を呼び出したり、行政罰を科したりする権限を持ち、国家公務員扱いとされる。
最高裁は「公権力を行使する公務員は日本国籍が必要」とする内閣法制局の見解に基づき、「調停委員に外国籍の人は任命できない」としている。
これに対し、近弁連側は「調停委員は話し合いがまとまるように取り仕切る立場にすぎず、調停調書も当事者の合意がなければ結べない」と疑問を投げかけ、梁弁護士も「家事調停に関心があり、調停委員として、さらに理解を深めることができると思っていたのに残念です」と話している。
最高裁は1977年、司法修習生の採用要項にあった国籍条項について、「相当と認めた者を除く」とのただし書きを設け、実質的に司法試験合格の在日外国人を修習生として採用。現在、全国で約50人の在日外国人弁
護士がいる。
近弁連のシンポ実行委員会委員長の吉井正明弁護士は「在日外国人のトラブルも調停に持ち込まれ、今後さらに増加するのは必至。外国人の調停委員も必要になるはずだ。最高裁が扱いを変えるよう働きかけていきたい」
と話している。
シンポジウム「外国人の司法参画」は、9月10日午後1時から大阪市北区の大阪弁護士会館(電話06・6364・0251)で開かれる。
(2005年07月30日 読売新聞 関西本社版)より
http://d.hatena.ne.jp/antonian/20050907/1126104535 で、あんとに庵さんがほりえもんの同じ記事を引いている。インタビュー現場の雰囲気の分かる記事もある。それはありがたかったのだが、どうもこの方は「天皇制」をタブーにし続けたいようだ。何故そう思うのか不思議だ。
・・・ですので報道記事はいささかニュアンスが異なるにせよ、根底には「そういう意味のない存在は無駄」的な思考が垣間見えるわけです。なんというかやはり芸術家の敵だな。こいつわ。三位一体論とか実体変化とか理解できないししたくもなさそうな人だと思う。
三位一体に敵対する神学的テーゼを立てることと、そうした問題領域自体に敵対することは違う。堀江もんは「憲法見ると、天皇は日本の象徴であるというところから始まるのは、僕らにとっ てはものすごく違和感を感じますよ」と条文の文言について発言している。したがって後者ではなく(テーゼはたてていないが)前者である。あんとに庵さんはそれを後者であると歪曲している。
ところで、天皇制と国体というのは伝統的に日本では一致して来たわけですが、その辺りの解体をもくろむならそれなりの理論武装をしないとまずいのでしょうが、彼の場合は単純に「無駄」「有用」という価値で判断されているようです。
何を神秘化しているのですか。「天皇制と国体というのは伝統的に日本では一致して来た」というのは間違った理解です。問題は憲法1条をどうするかだけで、憲法改正が国民の権利であることは憲法に書いてあり国民の常識です。タブーを作りたい一部の勢力がいるだけです。
人というのはなんらかの共同体に属したりするわけでそれは土地だったり、国だったり、思想団体、宗教団体もそうですが、それによって形作られる人格というのがあり、また属するものへの拡大的な皮膚感覚を持ったりするものですが、それがないタイプというのは珍しい。
堀江氏はただ、「憲法1条は不要だ」と意志表示しただけですよ。その意見に反対したいなら、彼の意見を歪曲するのではなく、貴方自身の思想で行ってください。
だいたいタイトルも「ホリエモンの舌禍」だし、自分が言論の自由に敵対していると言うことが分かっていないようですね。
(突然、攻撃的TB失礼しました。)
ところで『金比羅』図書館で借りて、もう2週間はとっくに過ぎているので明日は返さないといけない。もう少し引用しておこう。
小説冒頭部分でこの擬音語でも擬態語でもない奇妙な「ふふんふふーん」系の言葉(文字列)は次のところに集中して現れる。
(p11)
ふふん!
みっつというのはなんという都合のいい数でしょう。三と言っただけで愚民はもう全てを網羅し、可能性を調べ尽くしたと思ってくれるのですから。
いやいや、しかし皆さんのような反権力・非愚民がそんな単純な事で騙されるはずはない。だって私だって別に騙そうとも思ってないんだから。へっへー--。
(p14)
--私は偶然に助かったんです。運がいいわけでもない。誰のおかげでもない、ふふんふふーん、私は科学の子だ。ふんふんふんっ。
というような人がいるかもしれません・あーあ、ねーえ。*1
(p23)
あなた方などは神について語ってはいけない。たかが人間がね、何も知らない癖に。おや、今むっとしましたね。はっはっはっは、ふん。だけれども私達神が聞こえる神が見えるものと、あなた達人間とは違うのですよ。ですからね、今こそね、その違うということを思い知りなさい。ふん、ふうん、けーっ。ほっほー。
もう一度列挙すると次の通り。
この小説は、私が私について語る一人称小説である。そしてまた私が語り手となって、読者に向かって饒舌に語りかける、というスタイルを取る。それだけなら良いのだが、この「私」は実は人間ではない。金比羅だ。私達=神が聞こえる神が見えるもの、である。当然、あなた達人間とは違う。しかし神に近いものがそこらへんのおばちゃんのように自分のことをどんどんしゃべり始めてものだろうか。神に近いものは当然人間からは高慢に見える。しかし、半神はそもそもそんなことすら気にしない者ではないのか。人間の常識の範疇を超えているはずだ。しかしそれでは人間と関係を持てない。笙野の金比羅は一面、べたべたのおばちゃんであり相手の顔色を見ながら自分のことをどんどんしゃべり続けるのだ。
と言うことは、金比羅は高慢と媚びという二面を持つ。
1.高慢 2.媚び 3.4.高慢 5.媚び 6.高慢 7.媚び。このように考えると、この種の文字列がなぜ、数個づつ固まって現れるのかの説明が付く。
しかし上記のように二面に分けるのはかなり無理矢理だ。文字列たちは、身も世もなく身をくねらせるかのように、多彩で多様である。半神とただの人間との落差を埋めるための装置であり変幻自在でなければならないのだ。
(9/26追加)
*1:p14『金比羅』笙野頼子 isbn:4087747204
不勉強でよく分からないのですが、共謀罪には反対しなければならない!
http://tochoho.jca.apc.org/index.html
共謀罪をもう一度廃案にしよう! 盗聴法に反対する市民連絡会
「神の死」「ドストエフスキー」についてグーグルしたら下記のような頁を見つけた。Seigoさんと言う方の充実したドストエフスキーサイトの1頁。
この頁では、ドスト氏の小説の中の登場人物に二つの極端な類型を発見できるとする。即ち、
「人神思想」
(人神(じんしん)=神のような人。「神」に対抗して、自ら「神」たらんとする人物。)
ラスコーリニコフ(『罪と罰』)、キリーロフ(『悪霊』)、イヴァン、大審問官(『カラマーゾフの兄弟』)、
「神人思想」
(神人(しんじん)=人のような神。「神」の意志を体現した、「神」への謙虚な信仰や他者への同情と博愛に生きる人物。)
ソーニャ(『罪と罰』)、ムイシュキン公爵(『白痴』)、チーホン僧正(『悪霊』)、マカール老人(『未成年』)、ゾシマ長老、アリョーシャ、マルケル、イエス(以上、『カラマーゾフの兄弟』)
http://www.coara.or.jp/~dost/26-4.htm ドスト氏の小説における「人神思想、神人思想」の系譜
キリストにも神にも興味がなかった十代の私が何故「神の死」というテーマに囚われたかといえば、まさにここでいう、人神思想、人は神になれるという思想に惹かれたのであろう。修行もしないで神になれる!のだからこんなスゴイ事はない!
過去を振り返るとき「~に過ぎなかった」と言い切ってしまうのは簡単なことだが錯誤である。過去の錯誤を指摘する現在が過去より上位にある保証などどこにもないのにその疑問なく指弾は発せられる。全共闘運動への総括などに特徴的に見られる傾向だ。
人は神になれない、というのは錯誤だ、と言ってみる。例えば、死刑執行人。人は人を殺せない。人を殺すためにはひとは獣になるか神になるしかないわけだが、戦場と違い死刑執行人は獣であることはできない。したがって、死刑執行人はすでに幾分か神でなければならない。
特攻隊員は自己に死を与える。国家は既に敗北しており、自己の死は無駄になるだけだ。彼らは自己の死を全きゼロと交換することを強いられた。彼らは自ら神になることによってしか自らに死を与えることはできなかった。
他人のことはよい。わたしは神ではない。ただ私というものがどのように規定されようがわたしにはその規定をアプリオリにはみ出す何かがあることは私には自明だと思われる。