一読者 『>ノーモア

>ずいぶんと「上から見た物言い」ですね。

おやおや先に上から見た物言いをされた方が逆ギレですか。

>そういうあなたは歴史学者か何かなのでしょうか。

いいえ。歴史以外の分野の学会に所属しているだけですよ。いわゆる在野ですけど。

>ではぜひどの史料の解釈がどのように間違っているのか、具体的にお答えください。でなければあなたの発言は単なる誹謗中傷です。

また人のコメントを歪曲をする。間違ってるとは一言も言ってないでしょ?強引だと言っただけで。それに、引用部分以前の言説は実証主義的資料研究の枠内にとどまろうと努力する言説だと一定の評価をしていることがお分かりにならないのでしょうか?

私のこの問題についての基本的考えは秦氏と大体同じですから、そこから類推してください。具体的に聞いてくれれば、秦氏と違う部分は違うと言いますが。

でも、あなたが私の引用部分とそれ以前の資料分析部分との間に論理の飛躍があると思われなかったとしたら、素人レベルの論理的分析すら怠っているか単にイデオロギー的な同調共感をしているだけだと思いますよ。

>平成3年8月27日参議院予算委員会での外務省の答弁です。

「これは日韓両国が国家として持っております外交保護権を相互に放棄したということでございます。したがいまして、いわゆる個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものではございません。」

おお、これは感謝します。私の考えは古い日本政府見解(正確には消滅ではなく放棄でした)だったのですね。ただ、締約当時の交渉文書では、日韓両政府とも私と同じ考え方だと思ったので、締約当時の公式解釈では日韓両政府とも個人請求権の放棄と解していましたよね?条約の効力の解釈は締約当時の公式解釈によるのが原則ですが、時を経て両国の公式解釈が変遷して奇しくも再び一致したという訳ですか。こういう場合変遷後の公式解釈に変わるのかな?詳しければ教えてください。

でも、日本の裁判所で個人請求権を行使しても、大審院判例(国家無答責)か消滅時効か除斥期間で結局認容されませんよね?

そうすると、外交保護権の放棄に行き着いて、結局法的責任は追求できませんね。河野談話を踏まえて公式謝罪した複数の首相の誰もが法的責任の履行はできないからこそ、アジア女性基金で道義的責任を果たすことになったのではないですか?

>「考慮されなかった」ことはお認めになりますね?

はい。

>で、その原因についてですが「慰安婦は当時の戦勝国や韓国の法意識では犯罪ではないと考えられていたと思います。」などと勝手な解釈を付け加えるならそれこそソースをお願いします。

冤罪すら処罰された。証拠不十分でも処罰された。いわんや行為当時の犯罪をや。戦犯法廷に告発されればほぼ処罰された状況で告発されなかったのは、犯罪とは意識されなかったからと考えるのが常識的推論。私の勝手な法社会学的な解釈なので、反対されるのはご勝手です。

ただ、私の考えと似た考えとして、先週末の田原耕一郎氏司会のテレビ討論番組で櫻井よし子氏が、いわゆる白馬事件に言及して、同事件の関係者が処罰されたということは同様の事件があれば処罰されているはずで処罰されていないのは同様の事件が無かったからだと思うという趣旨のコメントをされていました。

>私が記事を見た限りでは「謝罪」を勧告するというものしか見当たりませんし、日本政府も「決議されても謝罪はしない」としか言っていないので個人補償について法的責任があるといった決議ではないと思いますが。

決議案の内容については、私も再度調べますが、あなたもお調べください。

日本政府が謝罪の否定しかしないのは、決議に法的拘束力が無いから決議案の内容になっていたとしても個人補償まで言及する必要が無いと判断したからだと思いますが。

>具体性の無い誹謗するばかりで議論から逃げるだけじゃないですか。

ん?そもそもあなたの元コメントからして具体性もないし、クワラスミレポートとか上記サイトとか引用だけでしょ?反対の意見の学者の立場から見たらあなたのコメントも単なる誹謗だけですよ?

>「関与していないと思う」ことと「事実として関与していない」ことは全く違うんですよ。もう少しまともな議論が出来ませんか?

ん?当然そんなこと分かってますから、私は断言してないんですよ。それがまともな論理的な議論です。専門家ですら見解が分かれることを断言しちゃうあなたの方が傲慢です。私は政府機関が主体的には関与していないと思うが、あなたは主体的に関与していると思っている。のみならず、あなたは一学者の見解をもとに多数の反対説もあるのに関与していると客観的事実のように断言してるでしょ?全く次元の違うことを意識的にか無意識的にか知りませんが混同させてまともでない非論理的な議論をしているのはあなたの方ですよ。

>まず各国の慰安婦制度の実態がいかなるものかをきちんと述べてそれで比較検討してもらわないと。理論的可能性に固執するのは結構ですが、現段階では妄想の域をでていません。机上の空論です。裏付けをどうぞ。

裏づけはいらないでしょ?あなたがどう思いますかと私に「意見」を聞いたので、私も意見を言っただけですよ。どちらの考え方がより客観的かを争ってはいないんですから、論理的推論のみで足りるでしょう。妄想とは、客観的にありえない非現実的な想像ですから、論理的推論とは別物ですね。これも誹謗の一種だと思いますよ。私はあなたのように一方的にレッテル張りはしませんけどね。

>あなたの反論ですが、こちらにソースをソースをと要求する割には、御自分はほとんどソースをお示しにならないという見事なまでのダブスタです。お気楽なことで。

あなたのように色々と歴史資料を調べていれば、私が依拠しているだろう資料なんか簡単に想像がつくのではありませんか?ほとんど素人レベルの一般的な資料に依拠してる発言に一々ソースなんか要求しないし自分も示しませんよ。あなたのコメント中でソースをつけなかった資料についても、私が知っている資料については私が自分から言及してるでしょ?それまでの自分の知識から外れている資料について聞いただけですよ。ダブスタと感じられたのはあなたの単なる主観ですね。私は、お互いの共通認識となっているソースがあると思われればソースを要求しないという基準でどちらにも対応してるだけです。あなたもそうだと思っていたのですが、私の買い被りだったようですね。

それと、事実や資料についてはソースを常に念頭に置くべきですが、ロジックにはソースはいりません。理論的かそうでないかのみが問題です。ヴィトゲンシュタインの著作にはほとんど引用やソースはありませんが、高く評価されていますよね。

>なるほど現在の公安委員会は業者に風俗営業を請け負わせているんですね。業者を通じて売春婦を募集したりしているわけですか。「公安慰安所」なんて聞いたこともありませんが。

まあ、この点は、解釈の相違ですね。軍が請け負わせたといえるか、主体的に業者を通じて売春婦を募集したといえるか、あなたと私では解釈が違うんだからしょうがない。』

ゆーき ゆーき 『>現在の公安委員会と風俗営業者の関係とどこが違うのか理解に苦しむ実態を、いきなり奴隷制度にワープですか。

国家による消極的関与と積極的関与は別物でしょう。』

ゆーき ゆーき 『上記のコメントは一読者氏宛です。』

ノーモア ノーモア 『>おやおや先に上から見た物言いをされた方が逆ギレですか。

逆ギレとは珍妙な。あなたは歴史学者の論文に対して「強引な解釈」といういかにも知ったかぶった物言いをしたのですよ。それが「上から見た」ものでなくてなんなのですか?そこまで仰るのであれば当然具体的指摘が出来るわけですよね?まあ今回のコメントもその意味では一切具体的なソースもなく新味に書けたものだったわけですが。で、この論文にケチをつけたのはあなたであって秦氏ではありません。「強引な解釈」と評した責任は秦氏ではなくあなたが取るべきでしょう。秦氏の言説に逃げ込むのではなくてあなたが具体的に「強引な解釈」箇所を示し具体的に反論ください。ちなみに私は「軍の主体的関与」を示す目的で当該論文を提示しました。で、軍の主体的関与に関する部分においては当該論文は実証的であったとお認めになったんですね?

>そうすると、外交保護権の放棄に行き着いて、結局法的責任は追求できませんね。

だから私は「それが認められるかは別の問題だ」と書いておいたはずですが。

>冤罪すら処罰された。証拠不十分でも処罰された。いわんや行為当時の犯罪をや。

とことんソースを示して実証的に語るということが出来ない方なんですね、あなたは。他人に実証性云々を偉そうに言う資格はゼロですな。しかも推論が穴だらけではないですか。あなたの言う常識的推論によると有罪判決の数=犯罪の数なのですか?ちなみに白馬事件が発覚した背景についてはこちらをご覧ください。

http://www006.upp.so-net.ne.jp/nez/ian/#kyosei

白馬事件以外の犯罪的行為は存在しなかったという「常識的推論」が穴だらけであることはお分かりになりましたでしょうか。

また戦犯裁判のイメージにも偏りがあるのではないでしょうか。あなたはどうも犯罪は「全て」裁かれ、裁かれるべきでないものまで裁かれたと思い込んでいらっしゃいませんか?戦犯裁判はそのような単純なものではないことはあなたのお好きな秦氏も本に書かれているわけですが。

http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20060912/p4

>決議案の内容については、私も再度調べますが、あなたもお調べください。

http://www.sankei.co.jp/ronsetsu/seiron/070311/srn070311000.htm

あなたのお好きな秦氏が述べられていることから推測するにやはり個人補償についての法的責任云々の話はないようです。つまり今のところ日韓条約云々の話はあなたの単なる先走りだと思われます。

>クワラスミレポートとか上記サイトとか引用だけでしょ?

引用もソースも示さず穴だらけのロジックしかないのを開き直られる方に言われる筋合いはありません。私が「誹謗した」というのなら具体的な御指摘を願います。

>あなたは一学者の見解をもとに多数の反対説もあるのに関与していると客観的事実のように断言してるでしょ?

見解の相違でお逃げになるのなら結構です。つまりあなたはご自分の見解の方が優位であることを示せなかったということですから(上記のサイトは少なくとも「良い関与説」&「民間業者主導説」を論破していますから、それに対して説得的な再反論が出すべきです)。つまりあなたは「軍に主体的な関与があった説」にも一定の説得力があることを暗に認めたことになります。少なくとも私はあなたの「思っただけ」の議論に付き合う必要はありません。しかも軍による主体的な関与があったと述べている学者は上記の論文を書いた学者のみではありません。例えば彼は吉見氏の議論を「補強」しているわけです。で、軍による軍慰安施設の設置し売春婦を業者に集めさせたことががなぜ主体的関与でないのか。説得的な御説明は出来ないということでよろしいですね。解釈の違いといってもあなたはその解釈の元となる史料をお示しにならないので話にならないのですよ。

>ヴィトゲンシュタイン…

無茶苦茶なことを言い出しますね。ヴィトゲンシュタインは歴史学者だったのですか?私は一度もそう思って読んだことが無いのですが。で、歴史学の議論をするのに論理的可能性のみで史料に基づかない議論をやって評価された人の例をお教え願いたいのですが。私たちは哲学の議論をしているわけではありません。ちなみに妄想と論理的可能性は両立しますよ。論理的にはありえても現実にはありえない(=妄想)なんていくらでもあります。論理的可能性を指摘したところで裏付けが無ければ妄想ですな。

>まあ、この点は、解釈の相違ですね。

最後まで逃げるんですね。で、「公安」は「慰安所」を作ったのですか?ちなみに風俗業者をなぜ公安が取り締まるのか私にはさっぱり分からないわけですが(笑)』

考えてみれば、人間の数だけ、死は存在する。

(養老孟司 11月16日毎日新聞書評欄より)

落書き

「風、強力な流れ、強大な大洋が征服され開拓される。そういうものに遠慮しないこと--個別的なものにすがりつく哀れな感傷性。」(ヘーゲル1805~06年講義録欄外の書き込み)*1

 哲学書に突然意味不明の詩的文章が出てきたので面白く思っただけ。えーと。たった一人で大洋を渡ったとすると、それは自然の合法則性、必然性、因果関係に対する人間の意志力の勝利のように思えるがそんなことはないでしょう、といっている。

*1:ルカーチ『若きヘーゲル下』p186

政治でも哲学でもなく

自分の思惟を言表せんとしたわたしは、どうしても哲学様式をとるほかなかった。だからと言ってわたしは、哲学者たちに語りかけているのではない。*1

巨大な“革命を怒号する騒乱”であった全共闘運動期に<何をどのように変革するのか、自分一人で表現せよ>と小さな声で語った松下昇は、造反教官とか革命者とか呼ばれもした。活動家や政治家のようにみえたとしてもそれは彼にとって“強いられた仮装”だったにすぎない。それが真に新しいものであるなら既成の政治や哲学の文法では語り得るはずもない。“あらゆる詭計、術策、擬態”を持ちいて書いたバタイユと、彎曲という言葉や<>という記号を用いて書いた松下は、意外にも近いものを追求していたのかも知れない。

*1:バタイユ「瞑想の方法」『内的体験』の「沈思の方法」のことだろう。デリダp191『エクリチュールと差異下』から孫引き

外務副大臣はファルージャへ

外務副大臣はファルージャへ行き、惨状をちゃんと見てくれ! ということが解放条件に付け加えられた。これはアルジャジーラで一時伝えられたが現在公式なものではないとされているらしい。どちらにしても、日本はイラク復興のために兵を出しているのだから、イラクの現在の悲惨を外務副大臣が自分の目で確認し打開策を考えることは必要なことであろう。人質に成る可能性が強いというのなら自衛隊員を数人連れて行けばよい。

 解放すると伝えられてから、「テロとの闘い」というスローガンがまったく空疎なものであることが明らかになりつつあることに危機感をいだき、「テロとの闘い」をヒステリックに叫ぶ当局者(及びマスコミなお)が急に増えている。彼らの発言は3人の命を危険にさらすものだ。

岡山大学学友会

坂本守信でグーグルしたら、http://www.m-n-j.com/medianetjapan/ousc/link1.htm 「岡山大学学友会の起こりと変質」という23頁もある長い文章が出てきた。

ちょっと読んでみると、80年代に入り「そして学友会が決める一つ一つの規程、規約に坂本氏の思想・考え方が反映されていった。」云々。「学友会は坂本氏の思想に傾倒し一般学生の願いや希望を全くかえりみない組織に変質していたのである。」云々と書いてある。

http://www.erde.co.jp/~masaru/okayama/238/5.html  こちらには、「’78大学祭基調--大学祭実行委員会アピール」というのがある。この時点では、坂本氏を含む多くの学生が「新しい共同性を目指す流れをもつ大学祭を創り出すため」という当為でもって運動を作り上げようとしていたようだ。

ふつうの理解は支配者に賛同する

常識的な、そして伝統的に固定した見方からすれば、日常生活の流れ、ひいては人間の歴史は、正常な連続の過程であるが、それは支配者の安定した立場からの、あるいは支配者の立場に賛同する(意識的であれ無意識的であれ)人々の立場からの理解の仕方である。ひとたび被支配者の位置にたち、視線を上方に向けると、日常生活そのものがつねに不連続であり、毎日がいわば危機であり、非常事態であることがわかる。*1

わたしとはのべたらで空疎な連続であり、不連続、危機などというものは実感できないというひともいるだろう。被支配者というところで例えば、被拉致者(例えば地村夫妻)を思い浮かべても良いだろう。彼らの場合はたった一度の不連続により、越境が強いられた。そして日常が流れ子供が産まれた。生まれた子供は朝鮮人として育てられたのか(良く知らないのだが)。ここで「彼らは本来日本人であり朝鮮人でない」という断言は上記で言う「支配者の立場」のものだ。地村氏たちが本来の日本人性を強く主張し続けたら、彼らは北朝鮮の地で生き続けることはできなかったかもしれない。彼らが存在しているのは「北朝鮮国家の思想」を部分的にではあれ承認したからだ。地村氏たちは帰ってきた。そうすると今度は地村氏家族は子供を含め「本来日本人だった」という真理へ回帰することが求められる。朝鮮に生まれそこに二〇年生きた子供に対し、きみの今までの人生は仮のものだ、これから真実の人生が始まると告げるのだ。安物の宗教みたいなものだ。存在丸ごとを国家に包括しようとする力学。自由なはずの日本社会が北朝鮮と同じような全体主義国家であるというおかしさ。わたしも実は地村さんの息子と同じなのだ。「日常生活そのものがつねに不連続であり、毎日がいわば危機であり、非常事態である」とはそういうことなのだと思う。皇軍兵士の息子に生まれいまは退廃US文化だけを裸身にまとったわたしたちだ。

前に地村氏に触れた文はここ。http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040601#p1

*1:p116 今村仁司『ベンヤミン「歴史哲学テーゼ」精読』

新しいものを認識する

私たちの思考において本質的なことは、新しい素材を古い範型のうちへと組み入れるはたらき(=プロクルステスの鉄床)、新しいものを同等のものにでっちあげるはたらきである。(ニーチェ)*1

 「抑(そもそ)も意(こころ)と事(こと)と言(ことば)とは、みな相(あい)称(かな)える物にして、上つ代は、意(こころ)も事(こと)も言(ことば)も上つ代、

後の代は、意(こころ)も事(こと)も言(ことば)も後の代、

漢国は意(こころ)も事(こと)も言(ことば)も漢国なる」*2

私たちは私たちが予め持っている範型(パースペクティブ)によって、考え言葉を使っている。そこで宣長がいうように、古代とか外国のような他の文化、あるいはニーチェが言う<新しいもの>はわたしたちの持っている何かに直ちに翻訳されてしかわたしたちのもとにやってこない。アポリアですね。

*1:p40『権力への意志・下』ちくま学芸文庫 原佑 訳

*2:本居宣長 『古事記伝』一之巻・総論p26岩波文庫