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「モヒカン族的には」
上のアーティクルのタイトルは「モヒカン族的には」だったけれども、必ずしも適当ではないので、訂正する。
(7/25 朝7時)
怨親平等 (8/6追加)
というのはちゃんとキーワードになっている。
靖国神社の中には鎮霊社という「靖国神社本殿に祀られていない方々の御霊と、世界各国すべての戦死者や戦争でなくなられた方々の霊」を祀った摂社があるとのこと(摂社とは本社に付属し本社に縁故の深い神をまつった神社の称)。(略)
たしかに靖国神社は軍人軍属を中心に祀ってはいるが、神社全体としては民間人も敵もあわせて祀っている事にはかわりないのだから、これこそ日本の伝統に沿ったものである根拠の一つにはなるだろう。
そして上記のように、鎮霊社という社の存在を以て、靖国神社を弁護しようとする勢力も存在する。
136年前からの靖国神社の歴史を考えれば、それが言い訳でしかないことはすぐ分かるわけですが。
わが岡のオカミ
103 わが里に大雪降れり 大原の古りにし里に落らまくは後
天武天皇
104 わが岡のおかみに言ひて落らしめし 雪の摧(クダ)けし 其処に散りけむ
藤原五百重娘
万葉集です。
天武が 大雪が降ったぞ!と自慢すると、藤原の夫人はまたうちの岡の雨龍に降らせた雪がそこまで散っていったのでしょう、と子どものように言い返すという歌、折口によれば。
応答可能性と政治的正義
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050918 の続き
責任/応答可能性という発想は、岡野八代においては政治的正義実現のための一つのステップとして現れる。
私の人生がこんなになったのは日本のせいです。日本は私たちに補償をして、このことを歴史に残さなければなりません。今の日本や韓国の若者は、こんなことがあったことを知らないので、事実を教えてあげなくてはいけないと思っています。(元従軍<慰安婦>金学順)
「責任」を考える場合に、わたしたちは、在る行為を自らが「自由」になしたからこそ、その行為に対する「責任」が生じる、と考える。だがしかし、呼応関係においては、「かつて自らが自由になした行為については、今その責任がある」といった<責任に先立つ自由>といった考え方が覆される。なぜなら、<わたし>がいま、金学順さんの言葉を聞いた時点で、すでに否応なく彼女の声に応えることが要請されており、聞いてしまった時点でわたしには、いかなる自由もなく、すでにその声に応える責任/応答可能性のなかに巻き込まれてしまっているからだ。そして、その後に、その声に応えるか否かの自由に開かれることになる。*1
責任とはまず無限責任なのだ。そして無限責任であるかぎりその責任を<わたし>は果たしえない。そんなことは不可能なのだ。p248同上
わたしたちは、ある意味で偶然出会う個別のひとびとからの呼びかけを個別の受信者として聞き取ることしかできないのである限り、あらゆる人からの無限の責めとしての倫理的責任は、ある限定した範囲の中で果たされるしかない。つまり、実際に彼女たちに正義が回復されるためには、わたしたちは、誰にどれだけの正義を返すのか、という限定的な正義の範疇や正義を回復するためのルールを確定しなければならない。(略)
そうではなく、倫理的責任は無限責任であることを意識しながらも、なお限界を問い返しながら責任を取ろうとする積極的正義が存在していることを意味しているのだ。p269同上
岡野はこの正義を「政治的正義」と呼ぶ。これは(アリストテレスからロールズに至る)現代正義論の立場、即ち「配分的正義論を正義の通常モデルとする正義論の立場に立てば、日本政府が従軍<慰安婦>問題に対して無責任であっても、正義に悖ることがないという結論が導かれる*2」そのことに対する批判として、なされる。
*1:p246 岡野八代『法の政治学』isbn:4791759699
*2:同上p265
「なぜ人を殺してはいけないか」再考
(1)
Qなぜ人を殺してはいけないか?
A国家が、正当な殺人を独占しているから。つまり、国家が、それ意外のものが殺人をしようとすることを押さえ込んでるんだよ。
http://blog.lv99.com/?eid=311232 こどものもうそうblog | 「なぜ人を殺してはいけないか」再考
その通りだと思う。なんとなく、この方のブログをはじめて覗き、上記の表題を見つけたので(失礼ながら)どうせ大したことは書いてないだろうと思いながら読んでみるとそんなことはなくて非常に素晴らしいのでビックリした。
萱野稔人『国家とはなにか』を最初だけ読んだ。エキサイティングな本の予感。
マックス・ウェーバーの『職業としての政治』を引用し、
国家とは、正当な(合法な)物理的暴力(破壊や殺傷、拘束、監禁といった具体的な暴力)行使を独占し、もし、他の個人や集団が物理的暴力を行うならば、国家はその暴力を上回る暴力によって実際に押さえ込むもの、といった内容(乱暴な要約で難しげになってるかもしれないけどね)が最初の20ページで展開される。(同上)
というヒントから生まれたものだという。
わたしは前から、死刑と戦争を肯定している社会に住みながらつまり間接的には殺人を肯定しながら、それとは無縁に「なぜ人を殺してはいけないか?」という問いを考えることができると思っているようなインテリやマスコミ関係者に深い疑問を感じていた。
(2)
ここでは、たまたま読んでいた『戦争責任と「われわれ」』という本のなかにあった中岡成文の文章の一部を批判したが、ちょっと強引すぎるかもしれないので一旦削除します。
神の死について
近代において、共同体内存在であった個が自由になり個人になった。ここで自立した諸個人による交流の場市民社会が形成されればよいが、実際は上手くいかないことも多い。市民社会から排除された女性や犯罪者からの異議申し立てが起こる。
また市民社会を形成しうるのは教養ある市民であり、教養とは国家と神への信頼である、と考えられる。
しかし<神は死んだ>。
ここで対応法は3つ。
α.一つは神は死んでないとがんばる。
β.一つは神無しで生きる。
γ.一つは「神の代わりを出現させようとして狂う」*1。である。
βは一番スマートのようだが、結局世界にある圧倒的な不正義に目をつむり自分たちだけの権益を守る思想とつながるのではないか。
α、神が死んだとしても、神という名前だけは残る(例えば「皇高皇宗」)その名前とイデアへの尊敬を絶やさないような私個人の思いをなんとか拡げていけばいいのだ。このように考えると否定しなくともよいようにも思える。
神がない以上、わたしたちはいつも狂気の淵にさらされている。そう考えるとαβγは余り違わないところに収束してくかもしれない。しかし、体制派のひとは既成の権力関係をそのまま神の代わりに信仰せよと迫ってきたりするのだ。侮蔑し唾を引っかけてやれ。
祇園に行きました
一昨日。四条河原町から観光客用の窓がずっと並んだ道を少し行ってつき当たりに階段があり登ると祇園さんです。最初に蘇民将来の社がある。手を合わせた。*1行灯の沢山灯ったところの向こうにメインの神社がある。ここの祭神は牛頭天王だったな、と思って説明書きを見るとスサノオになっている。あとから考えるに、これはやはり明治の廃仏毀釈期に訳の分からない神を記紀の神に整理し直した影響だろう。その向こうは円山公園。戦争と基地強化のための日米首脳会談反対! 11・15-16京都行動 というのに参加するためわざわざ電車に乗ってきたのだ。誰からも誘われず誰にも言わずに。京都15日(火): 午後6時30分~ 場所 円山公園 ラジオ塔前 というメモだけをたよりに。時計を持っていなかったがまだ予定の時刻より1時間近く早いかなと思って行くと灯りのまわりにそれらしき人々が十数人居た。公園が広いので人数少ないなあという印象。自販機の灯りをたよりに本を読みながらそこでじっと待っていたがかなり寒くなってきた。月がとてもきれいだ。…やっと始まる。沖縄や座間、韓国など現地の反基地運動との連帯のアピールが主だった。鳴り物を鳴らしているのが面白い。デモ出発。人数がだいぶ増えている。数が多かったせいか、一列3人とか4人とかの規制はされずいい加減に広がって歩く。わたしは大きな横断幕の端を持つことになった。通行人の反応は余りないが良かった方だろう。デモとは歩くことと怒鳴ることだ。アーンポ フンサイ、トーウソウショウリとシンコペートする二拍子はジグザクデモの時か。まあそれの変形が主流だが単調になりがち。ここは開発の余地が大いにあると思った。
<反ブッシュ>の意志表示をしました。という報告。
*1:八坂神社の境内摂社である疫神社は、疫病除けの神、蘇民将来を祀っている
結城浩さんて
今読んでいた、「結城浩のWiki入門」isbn:4844319159の作者じゃないか。
今(1/28)に気づいた。日本に数あるWikiクローンの母体となったYukiWikiの作者である。YukiWikiの直系のPukiWikiを私も一週間ほど前から使い始めたばかり。まだどうなるか分からないが、非常に自由で使いやすいことは確かだ。
IT関係者はみなホリエモンのように敬虔さから最も遠い人ばかり、というイメージを持っていました。そうじゃないのですね。(1/28記)