事故の核心にあるのは、専門職への尊敬を失った社会という問題です。
(冷泉彰彦)
カテゴリー: idea
地球の人口をこえて
http://d.hatena.ne.jp/dempax/20050512#p1
「10億人の小人」問題を解いてみた. → #9,2625,8177 が最後に残る.
(野原)
1000億の場合、 62,561,046,529人目に成りますね。
1兆の場合、 350,732,558,337人目。
10兆の場合、 2,407,813,955,585人目。
百兆の場合、59,262,511,644,673人目。
千兆は、311,150,139,736,065 。(?)
次は、1,985,601,490,518,020 !!ここでエラー。偶数になっている。
1,985,601,490,518,017 でしょうか?
紅旗征戎わが事にあらず
「紅旗征戎わが事にあらず」(藤原定家)
冒頭にこの定家の名言が引いてある。(略)
「紅旗破賊非吾事」
たしかに定家の言として有名ですが、これは、白氏文集から。
ふーん、そうなんだあ。
ちなみに「紅旗征戎吾が事に非ず」と定家が日記(名月記)に記したのは、1180年9月、19歳の時、らしい。
ところで「 「名月記」は漢文、して、古事記も漢文。漢文とは日本語。」結論に賛成する。ということは漢文とは、「中国語の文法で書かれた文」と「それが日本風に崩れたもの」を併せたものだと理解できる。ここで、古事記については如何でしょうね。あそこまで崩れた「漢文」は以後書かれていないと思う。漢文じゃないからどうだということではないですが。
歌を唄いながら空気の撹拌を
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050624#p1 の続き。
近藤さんは1940年、20歳の徴兵検査で即入営となり、戦争が終わるまでの四年間を独立歩兵第十三大隊の兵隊としてずっと戦場で過ごした。最初、中国大陸の山西省に送られ、1944年山西省を離れ転戦しながら大陸を南下し上海から沖縄へ向かう。沖縄では中部戦線の嘉数高地に配置され、1945年4月の米軍上陸直後から戦闘に入る。
戦闘で、負傷した近藤一さんは野戦病院に運ばれる。
野戦病院といっても自然壕を掘り足しただけのものだ。壕の中には川が流れていた。六十二師団の野戦病院壕は、首里のナゲーラというところの本院と、今の小学校の所につくった小さいのとがありました。
壕の中は真っ暗で、手術するところに蝋燭の明かりがあるだけです。戸板をずらっと敷き詰めた上に毛布を敷き並べてその上に怪我人が寝かされているだけでした。(略)
軍隊の靴を拭く保革油の缶に木綿の布を垂らして火を点けたのが唯一の明かりで、その油煙で、まるで炭坑夫のように真っ黒けになりました。壕の中の空気は四○度近くにもなって湿気もものすごく、息苦しくて仕方ない。おまけに糞尿の臭いと血や膿の臭いが、死臭と混じり合ってものすごい臭いでした。そんな中で働いていた女子看護隊は第六十二師団に配属された首里高女の瑞泉(ずいせん)隊と昭和高女の梯梧(でいご)隊でした。彼女たちは看護だけでなく、水くみに、死体の始末にと、それこそ命がけで働いていました。また一時間か二時間おきに、毛布を各自が持って、二、三組になってかけ声をかけあい、歌を唄いながら空気の撹拌をしてくれました。歌は「うさぎ追いし、かのやま」などの、童謡だったと記憶にあります。本当に心が癒され、子どものころのことや、家にいたときのことが思い出されました。
それでも私は最初の頃でしたから、中に入れてもらったんですが、三、四日するともう中に入れる余地がないということで、重傷者と手術するやつだけを中に入れて、軽傷者は入り口に置いたままにしてあったと聞いています。
治療、手当といっても、薬はほとんどない、注射器もない。(略)
我々が寝かされたところもすし詰めで、一日の食料は小さい玄米の握り飯です。最初は一日に二個でしたけど、しまいは一個もあたるかあたらないかくらいになりました。食事はそれだけで、一番欲しいのは水なんです。外の水たまりとかいろいろな所へ女子看護隊や、沖縄の防衛隊の人が砲弾の降っているなかを、合間を見ては命がけで水を汲んでくるという状況で、ほんとうに水は貴重品でした。枕元に小便用の缶詰の空き缶が置いてあり、それで小便をして半分くらい溜まると、看護婦さんに捨ててくださいと頼むんですが、いよいよ水も行き渡らなくなるとその枕元にある小便を、飲んでしまうんです。そういう地獄みたいな状況の野戦病院は、病院と名が付くだけでした。負傷者が多いのと、始めての体験で、軍医も看護隊もてんてこ舞いというか、どうしようもなかったと思います。
こうした野戦病院の中でも差別があった、ということは戦後初めて聞きました。負傷者が入ってくると軍医が「お前は本土出身か沖縄出身か」と聞くのだそうです。それで沖縄出身だと言うと、それは後回しにしたということを、戦後に女子看護隊の方から間いてびっくりしました。白分としてはほんとに驚いたのですが、沖縄の人への差別が戦争の中でも持ち込まれていたということは事実なんでしょう。
以上p112-115 近藤一『ある日本兵の二つの戦場』isbn:4784505571)
真っ暗な壕のなかで、毛布で空気を撹拌する。そうしないと壕の奥の方はたちまち酸素が足りなくなり死に至る。そうした切迫に満ちた行為だが、うら若い女性たちが歌を歌いながら、緩やかに空気を撹拌する、というイメージに、わたしたちはいつも痛いほどの郷愁を感じる。
「うさぎおいしかのやま」。そうした歌が歌われた。ポスコロ的には沖縄しか知らない少女たちにとってそのときどんなパトリ(源郷)のイメージが立ち上がっていたのか、も興味があるところだ。
この文章を記録文として支えるのは、そこが首里のナゲーラ壕だったという場所の確定と、そこで出会った学徒隊が瑞泉隊と梯梧隊だったという三つの固有名である。
読者にとってはある意味どちらでもよいことである。だが仮に裁判とかいうことになれば最大の問題になる。事実とは何か。兵士はたいていの場合、(仮に生還できたとしても)最も切実な体験をした場所がどこか、再確認することなどできない。近藤さんも1982年以後何度も何度も沖縄へ通った*1が、2004年2月にナゲーラ壕跡に入って確認するまで、二つの壕のうちどちらなのか決定できなかった。
また、学徒隊についても、近藤さんは戦後ずーっと自分たちが世話になった学徒隊は有名な「ひめゆり学徒隊」だと思っていた。実際は、ひめゆり隊は南風原陸軍病院に配属され、初めのうちは後方で上記のような地獄のなかで過ごしたわけではない。
同じ戦場で、しかもはじめから一番の最前線で本当に苦労したずいせん隊やでいご隊の人たちが隠れてしまって、ひめゆりばかりが語られるのは、一種の差別じゃないですか。私らには耐えられないことです。(p115同上)
わたしたち無知な読者からすれば、ずいせん、でいごもひめゆりも本質は一緒じゃないか、ひめゆりの方が音の響きがきれいなだけアピール度が高かろう、なんて思ってしまいがちだ。しかし固有の臭い固有の場所で人は死んでゆくのでありわたしはたまたまいま生きのびているだけなのであるから、そうした把握が間違いであるのはいうまでもない。
*1:なんと50回以上、だという!
人々を幸せにする力があると考えます。(7/13追記)
更に言えば、僕はもしリンクについて管理人と対話して、リンクを拒否された場合にも、きちんと深く考えて本当にそのリンクによって生じる不利益より利益の方が多かったら、例外的にリンクして良いと言ってるのです。何故か?結局殆どの人間は、例えどんなに自分で「真剣に考えた」と言っても結局一人で考えているときはその思考は浅い水準に留まります。しかしリンク先と直接対話することによって、自分がやろうとしているリンクは本当に人々を幸せにするのか等のことを深く考えられるのです。これはむしろ研究者、いやリンクを含む様な記事を書こうとする全ての人にとっては天啓であると言っても良いでしょう。その意味で、僕はむしろ「無断リンク禁止」という言葉には対話を促進させ、人々を幸せにする力があると考えます。
rir6さん、はじめまして。無断リンクTB引用します。
申し訳ないけどrir6さんの文章斜めに読んだだけです。またわたしにモヒカン族というものが分かっている訳でもありません。したがって、あなたはモヒカン族を批判しているがモヒカンというものは本来そういうものでは全然ない、などと言おうとするわけではありません。
ただモヒカン族は「たくさんの人がハッピーになれるエレガントな方法を見つける」ことを目標にしており、rir6さんはある発想には「人々を幸せにする力があると考えます」と述べておられます。文章の内容を問わずに形式だけ見るととても似ている。しかもあからさまにポジティブで関係構築的志向を持っている。
そういうところはとても(両者とも)良いのではないか、と思った。
上では野原は、ドゥルーズを借りて“コミュニケーションなるもの”への懐疑を書き留めた。ここでrir6さんは、むしろ〈話が通じないという体験〉をすることが、思想を深めることがあると言っている。とても興味深いと思った。
語り得ないものを教える
レイプだけが語り得ない、というわけではない。隣で戦っていた戦友がふと気付くと死んでいたとか、肉親の破壊された身体を見たといった体験もやはり核心は語り得ない。したがって平和教育というものは本質に矛盾を孕むものだ、と私には思える。あまりに生々しい悲惨は人の目を背けさせることができるだけだが、だからといってそれ以外に何が必要なのか。
わたしは平和教育を受けたことがない。広島、長崎、沖縄本島に行ったことがない。60年間平和教育のために費やされた努力というものがどういうものかまるで分かっていない人間がこんな発言をするのは許されないことなのでしょうが・・・
Aさんの名誉回復したければ勝手にすればよい
(http://www.nomusan.com/~essay/essay_31_tokasikijima.html経由で)
http://www.kantei.go.jp/jp/sihouseido/dai34/34gijiroku.html 第34回司法制度改革審議会議事録
というところで、曾野綾子が自作について語っているので、ちょっと読んでみよう。
最初にいままで何が事実とされていたか、を彼女は述べる。
3月下旬のある日、米軍はこの島を砲撃後上陸を開始し、それを恐れた約三百人の村民は軍陣地を目指して逃げましたが、陣地内に立ち入ることを拒否され、その上、当時島の守備隊長だった赤松嘉次隊長(当時25歳)の自決命令を受けて次々と自決したというものでした。自決の方法は、多くの島民が島の防衛隊でしたから、彼らに配られていた手榴弾を車座になった家族の中でピンを抜いた。また壮年の息子が、老いた父や母が敵の手に掛かるよりは、ということで、こん棒、鍬、刀などで、その命を絶った、ということになっております。
ところで曾野氏が論点として掲げるのは次の点だ。
これらの著書は、一斉に集団自決を命令した赤松大尉を「人非人」「人面獣心」などと書き、大江健三郎氏は「あまりにも巨きい罪の巨塊」と表現しています。
Aさんという方がどの程度悪人だったかどうか、にみんなが興味があったわけではなかろう。
Aさんという方がどの程度悪人だったかどうか、というトリヴィアルな話題にわざわざ本土からやって来て食いついたのが、曾野綾子だ。もちろん文学者がどのような点に注目するかは彼女の勝手である。ある点に注目することで彼女はどのような文学的テーマを展開してくれるのであろうか。だが彼女が語るのは次のような言葉だ。
赤松隊に所属した人々の心を深く傷つけていたのです。
Aさん及び彼の隊の人に対し、無条件に寄り添おうとしているかに見える。大江のような平和主義に染まった文学者が「犠牲者」とされた人に無条件に寄り添おうとするそのことにより事実が少し偏向された形で表現されていく、そのことを批判したいのではないのかね。自分も(右と左が違うだけで)同じ形の思想なら、批判は成立しない。
本土では赤松隊員に個別に会いました。当時守備隊も、ひどい食料不足に陥っていたのですから、当然人々の心も荒れていたと思います。
大変だったと思う。そして死者たちにはどういった回路で会ったのか。作家の本質はそこでこそ問われる事をまさか知らない訳でもあるまい。
途中経過を省いて簡単に結果をまとめてみますと、これほどの激しい人間性に対する告発の対象となった赤松氏が、集団自決の命令を出した、という証言はついにどこからも得られませんでした。第一には、常に赤松氏の側にあった知念副官(名前から見ても分かる通り沖縄出身者ですが)が、沖縄サイドの告発に対して、明確に否定する証言をしていること。また赤松氏を告発する側にあった村長は、集団自決を口頭で伝えてきたのは当時の駐在巡査だと言明したのですが、その駐在巡査は、私の直接の質問に対して、赤松氏は自決命令など全く出していない、と明確に証言したのです。つまり事件の鍵を握る沖縄関係者二人が二人とも、事件の不正確さを揃って証言したのです。
しかしこういう風評を元に「罪の巨塊」だと神の視点に立って断罪した人もいたのですから、それはまさに人間の立場を越えたリンチでありました。
「Aさんが、集団自決の命令を出した、という証言はついにどこからも得られませんでした。」それで? Aさんの名誉は回復されるべきだと、ふーん、勝手に回復すれば、としか言いようがない。
日本民族の運命に関わる巨大な悲劇に遭遇しながら彼女は、文学にも悲劇にも興味がないようだ。Aさんの名誉にしか。
ボヤンヒシグ
今日、朝日新聞の夕刊に内モンゴルの詩人ボヤンヒシグのことがでていた。数年前に読んだなと思い、検索してみると00/10/19 07:00付けで引用だけしたのがでてきた。
非日常性
ボヤンヒシグ
二羽の白い鳩が
小さな部屋の窓に
度々 現われる
その都度 僕のペン先から
一つの危険なコトバが
滴ろうとした
何年かの後
雨が降った
二羽の鳩は黒ずんで
いつしか僕の双眼となり
僕はもう 部屋を出ていた
窓ガラスに裂け目がいくつ
空が痛むほど きれい
部屋は
すべてを知っているかのように
それからずっと空っぽだった
-------------------
『懐情の原型』ボヤンヒシグ 英治出版 より
書き留めておきたくなったので書いておきます。
「窓ガラスに裂け目がいくつ/空が痛むほど きれい」という文をどう解釈したらよいのか、分かるわけではないのです。
二羽の白い鳩は恋あるいは愛の象徴であり、「一つの危険なコトバ」というのがそういった言葉なんだとすると解釈は一応つきます。ただ、この作品の持つ異様な緊張感と恋あるいは愛というものとは合わないように思われます。だがそれは日本人の感覚で、異国人(の異国人との)愛の場合はそうではないのか。
そう解釈せず、なぞめいたままにしておいても充分魅力的な詩だと思う。
ジェンダーフリーとは?
「ジェンダー」使用禁止令!!!!ノォォ━━(゜∀゜)━( ゜∀)━( ゜)━( )━( )━(゜ )━(д゜ ;)━(゜д゜;)━━━ッ!!!!
http://seijotcp.hp.infoseek.co.jp/genderfreeQandA.html
seijotcpさんが作られた、とても分かりやすいジェンダーフリーとは?です。
近くに自民党があるのでプリントアウトして持っていってみようかと思いました!(が、・・・しないでしょう)
戦没船員の碑
天皇、皇后両陛下と紀宮さまは、11日午後帰京した。帰路、戦後60年に当たることから、横須賀市の県立観音崎公園内にある「戦没船員の碑」に立ち寄った。
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/photojournal/archive/news/2005/10/11/20051012k0000m040056000c.html MSN-Mainichi INTERACTIVE 社会
ということがあったらしい。
「戦没船員」については、下記のHPがある。
報われることなく海底に眠る戦没船員の御霊を慰めるとともに、二度と戦火のない海洋永遠の平和を祈念するため、昭和44年海運・水産界の関係者によって、慰霊碑建立のための財団法人戦没船員の碑建立会が設立されました。
http://www.kenshoukai.jp/senbotuhi/senbotuhi.htm
戦没船員の碑
皇后陛下御歌
かく濡れて遺族らと祈る 更にさらにひたぬれて 君ら逝き給ひしか
この皇后の歌だが、どうだろう?強引な詠い振りに、作者と「君ら」を貫く真実(悲しみ)を表現し得ている。と評価できる。
戦没船員の数は数えられている。60,607人。
もっとも気になったのは「軍人の損耗率を上回る」を証明するデーターだった。これによると、同時期の軍人の損耗率は、陸軍20%、海軍16%となっているが、船員は43%。 戦没船員の多くは軍に協力させられた輸送船団の乗組員、そのため兵士でもないのに多くの戦死者を出している。
http://plaza.rakuten.co.jp/kazenotabibito/diary/200510230002/ ☆戦禍の海に消えた命、60,607人の戦没船員
敗戦が目に見えていた昭和19年~20年の戦死者が約4万7千人、全体の戦死者の8割に相当する。さらに「戦没船員の年齢別分布」を見ると、口では言い表せない怒りを感じる数字がある。14歳から19歳までの少年船員の死者数が全体の3割以上を占め、その数1万9千人余り。
(同上)
船員でありながら戦地に上陸を余儀なくされ、軍からも差別されたケースもある。
なかでも、かろうじてガ島に着いた輸送船は、兵員等の揚陸のため強行擱座を命じられ、船員は船を捨ててガ島に上陸した。上陸後の船員は、軍からも邪魔者扱いされ、飢餓とマラリアなどの悪疫に苦しみ、2月初めに強行された撤退作戦で帰還できた船員は、同島に上陸した267名の中で僅か27名にすぎなかった。
以上、上記のおばけうさぎさんのブログの紹介に触発されて書いて見てました。(というかそのブログの(歪曲された)要約です。)
下記二つは同じ方のブログのようだ。これで下の方にTB送れるでしょう。
http://plaza.rakuten.co.jp/kazenotabibito/diary/200510230002/ ☆戦禍の海に消えた命、60,607人の戦没船員
http://d.hatena.ne.jp/milkbottle/20051023 NEWS GARAGE【カバ式会社おばか通信】 – 戦没船員の碑
で基本的なことが分かっていないが、彼らの遺族は遺族年金は貰っている。そして彼らは靖国神社には祀られていない。ということでいいのかな?