プロクルテスの寝台

 行政の目的はこの場合、目の前にいる人々に福祉を与えることである。担当者の仕事は福祉の質と量を改善していくことである。しかし福祉の質というものは目に見えない場合が多い。

 一方担当者に可視的に求められていることは、予算の削減である。同じ仕事に対し対前年比9割しか予算が付かない。あるいは仕事の量が増えているのに予算額は増えない。担当者がいくら騒ごうが予算は増えないのであって、この場合福祉の量あるいは質を落とすしかない。例えば同じ広さの施設に対し定員の2割り増しの人々を詰め込むとか。あるいは入所基準を厳格化し対象者をフルイにかけるとか。

 いずれにしても担当者は板挟みにあい苦しむことになる。しかし苦しみから逃れる方法はある。予算削減自体を神にしてしまうのだ。名前を“(沈黙の)納税者”という。

 まず、公務員は全体の奉仕者であるのに、全体概念は納税者というより狭い概念にすり替えられる。福祉の対象者は実際にはいつでも一部の人たちであるという事実がことさらに強調される。このようにして、福祉とは本来削減されるべきものであるのに、仕方ないからやっておくものになる。

 予算が限られているからといって、限られた予算でできる限りの福祉を実現しようとする熱意は無視される。目に見えないものである福祉の質というものに対する感受性を持たないことがむしろ推奨される。目の前にいる対象者に愛をもって接するよりも、来月条件が変われば相手を切らなければならない覚悟をいつでもしておくことが優先される。

 ここにはもちろん安易な答えなどない。したがって少なくもと、“フリーライダー(つまり本来行政が面倒をみるべきでない不良市民)とそれを見逃していた怠惰な先輩公務員たちが、問題を作っている”といった安易な図式は排されるべきであろう。(11/27)

1989年天安門のハンストの書

 この光まばゆい五月、われわれはハンストを行う。このもっとも美しい青春のときに、われわれは一切の生の美しさを後に残していかざるをえない。だが、なんと心残りで、不本意であることか!

 にも拘わらず、物価が高騰し、役人ブローカーが横行し、強権が掲げられ、官僚が汚職している状態に国家がたち至り、多くの志をもつ人々は海外へ流浪し、社会の治安が日増しに悪化している。この民族存亡の瀬戸際にあって、同胞たちよ、すべての良心ある同胞だちよ、どうかわれわれの呼びかけに耳を傾けてほしいI・

 国家はわれわれの国家であり、

 人民はわれわれの人民であり、

 政府はわれわれの政府である。

 われわれが叫ばずに、だれが叫ぶのか?

 われわれがやらずに、だれがやるのか?

 たとえわれわれの肩はまだ柔らかく、死はわれわれにとってはまだ重すぎるとしても、それでも、われわれは行く。行かざるをえないのだ。歴史がわれわれにそう求めている!

 われわれのもっとも純潔な愛国の情が、われわれのもっとも優秀な無垢の魂が、「動乱」だと言われ、「下心がある」と言われ、「一部の人間に利用されている」と決めつけられた。

 われわれはすべての誠実な中国公民に請い願いたい。ひとりひとりの労働者、農民、兵士、市民、知識人、社会の著名人、政府の役人、警察官とわれわれに罪名を与えた人に請い願う。

 あなたがたの手を胸に当てて、良心に問いかけてみてほしい。われわれになんの罪があるのか? われわれは動乱なのか? われわれが授業をボイコットし、デモを行い、ハンストし、身を捧げるのは、いったいなんのためなのか? だが、われわれの感情は再三にわたって弄ばれた。われわれが飢えを忍んで真理を求めても軍警察に打ちのめされ、学生の代表がひざまずいて民主を求めても無視され、平等の対話を要求しても再三延期され、学生リーダーは身を危

険にさらしている……。

 われわれはどうしたらよいのだ?・

 民主は人生でもっとも崇高な生きる感情であり、自由は人が生まれながらにさずけられた権利だ。しかしこれらはわれわれ若い命と引き換えにしなければならないとは、これが中華民族の誇りなのか?

 ハンストはやむをえず行い、行わざるをえないのだ。

★ 生と死の間で、われわれは政府の顔つきを見てみたい。

★ 生と死の間で、われわれは人民の表情を探ってみたい。

★ 生と死の間で、われわれは民族の良心をはたいてみたい。

 われわれは死の覚悟をもって、生きるために闘う!

 しかし、われわれはまだ子供だ。まだ子供なのだ! 母なる中国よ、あなたの子供たちをしっかりと見つめてほしい! 飢えが無情にも彼らの青春をむしばみ、死がまさに近づくとき、あなたはまだ手をこまねいていられるのか?

 われわれは死にたくない。われわれはしっかりと生き抜きたい。

 なぜならわれわれはまさに人生でもっとも素晴らしい年齢なのだ。われわれは死にたくない。しっかり勉強したいのだ。祖国がいまだこのように貧困であるとき、われわれは祖国をおいて死ぬ理由はない。死は決してわれわれの求めるものではない!

 だが、ひとりの死か一部の人間の死で、さらに多くの人々がよりよく生きられ、祖国が繁栄するならば、われわれには生き長らえる権利がない。

 われわれが飢えるとき、父母よ、どうか悲しまないでほしい。われわれが命と決別するとき、おじさん、おばさん方、どうか心を痛めないでほしい。われわれの望みはただひとつ。それはあなたがたにより良く生きてほしいのだ。われわれの願いはただひとつ。どうか忘れないでほしい。われわれが求めるのは決して死ではないのだということを!民主は数人のことではなく、民主的事業も一世代で完成するものではないのだから。

 死が、もっとも広く永遠のこだまとなることを期待する!

 人将去矣 其言也善

 鳥将去矣 其鳴也哀

 (人のまさに去らんとするや、その言や善し。鳥のまさに去らんとするや、その鳴や哀し)

 さらば、仲間たち、お身体をお大切に! 死者と生者は等しく誠実である。

 さらば、愛しい人、お身体をお大切に! 心残りだけれども、別れを告げなければならない。

 さらば、父母よ! どうぞ許してください。子供は忠と孝を両立させることはできない。

 さらば、人民よ! このようなやむをえない方法で忠に報いることを許してほしい。

 われわれが命をかけて書いた誓いの言葉は、かならずや共和国の空を晴れ上がらすであろ

                              北京大学ハンスト団全学生

 *1

*1:p214-217 譚璐美『「天安門」十年の夢』isbn:4105297031 より

平和

いまある戦争の不在を絶対化してはならない。現在の国家バランスの中でも「独裁制度と奴隷制度、圧政と異説排除」はおおいに存在する危険性がありしたがってそれらと闘っていかなければならない。排外主義を排し平和を守り、よりよい平和をつくって行かなければならない。そう読めばよいと思った。

ケチは地球を救う

「人間の欲望の絶対量はたかが知れており、そう持っていたいとは思わないのだが、生産・所得と人間の価値とがつなげられていることによって、持つことの意味が肥大していくし、人はそれに下属することになる。」*1

その通りだと思う。例えばステーキ食べるにしても一人で2枚食べればせいぜいだ。旨い魚を食いたければ産地まで行けば倍もしない値段で良いのが食える。車はコンパクトカーの方が運転しやすいので楽だ。それ以上のものに「ステータス」とやらを感じるという文化によって辛うじて支えられているにすぎない。百チャンネルもあるテレビを契約したって一体何チャンネル見れるというのだ。パソコンも十万円ほど出せばしたいことは全て出来るようになった。消費が更新しないのも無理はない。一方でホームレスはどんどん死んでいく。分配は可能だから「してあげる」のではなく、「することに決めてしまう」のが良い。と立岩は言っている。

*1:p148『自由の平等』

デモとか好きなわけじゃないが

「私にはテロと戦う覚悟など一切ありません。万一、わたしの家族や親友がテロの犠牲になったらどんなことがあっても、小泉さんあなたに復讐します。イラク戦争はテロリズムの危険を増大させるだけだと、最初から分かっていたのに、あえて支持したのは小泉さんの責任ですから。」

http://www4.ocn.ne.jp/~tentmura/tentoHP-topB.htm

反戦ビラ入れで起訴、糾弾! 3月19日付で、反戦ビラ入れで弾圧を受けた3名の逮捕者が全員起訴されました。

野原でも言及したhttp://d.hatena.ne.jp/noharra/20040228

上記の件で、3人とも起訴というのはさすがにびっくり!! 日本はこのままいくと表現の自由とか政治活動の自由とかひょっとすると、数年でなくなる可能性もあります。皆さんも声をあげてください。

はい、デモに行って声をあげてきました。

「自己責任」論批判

http://www1.jca.apc.org/aml/200404/38896.html に小倉利丸さんからの「自己責任論」批判がでています。2ちゃんねらーに悪のりした形で、政府や一部マスコミは「自己責任」論を唱えている。要するにこれは、ヴォランティアやジャーナリストを「戦争遂行」という目的に対するノイズとしてまずもって捉える、という戦争主義の言説である。例としては、「自己責任の自覚を欠いた、無謀かつ無責任な行動が、政府や関係機関などに、大きな無用の負担をかけている。深刻に反省すべき問題」(読売社説)など。

一部引用します。

わたしたちは、イラクにおける人質事件以降、政府および一部のマスコミが今回の人質事件の原因を危険なイラクに出向いた被害者たちやその家族にあると批判しはじめていることに大きな憤りを感じています。このような「自己責任論」による世論形成が、人命を軽視した安易な武力行使にむしびつき、今後のNGOなどによる海外での活動を大きく制約しかねないという危機感を大変強く持っています。政府や一部マスコミの主張する自己責任論は間違っています。

ところでわたしは自衛隊員が死んでもそれは自己責任だから国民は悼む必要はない、と主張している。自衛隊派兵は合法性の元に行われた。しかし非戦闘地域が無くなった今活動を続けるのは、違法である。*1また、その法律自体正当性が疑わしいものであって、今回の派兵には正義は存在しない。正義に沿わない職務遂行は形の上で「公務」であるだけだ。

海外における邦人保護について、彼/彼女が戦争遂行に沿わない行為を取っているときに差別的取り扱いをすることには反対である。

*1:「イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法」2条3項 対応措置については、我が国領域及び現に戦闘行為(国際的な武力紛争の一環として行われる人を殺傷し又は物を破壊する行為をいう。以下同じ。)が行われておらず、かつ、そこで実施される活動の期間を 通じて戦闘行為が行われることがないと認められる次に掲げる地域において実施するものとする。 テロ対策特別措置法と間違えていた。

安田、渡辺インタビュー

いまさらですが、安田、渡辺両氏のインタビュービデオをみた。何げなく見始めたら実は約1時間もある長いもの。見応えがあった。二人が自然体で、あったこと感じたことをしゃべっていて良かった。渡辺氏は「反日で何が悪い!」と発言。わたしのごとき“あいまいな反日派”にとっては励まされる発言だった。

○安田純平さんと渡辺修孝さんの27日の外国特派員協会の会見の映像(ノーカット版)

http://www.videonews.com/asx/fccj/042704_detainee_300.asx

人質航空運賃裁判

http://www.mkimpo.com/diary/2004/wattan_fund.html

「 5月13日、外務省邦人保護課は、渡辺修孝さんに対し今回の「拉致・拘束」に関して下記のような請求をしてきました。

1、バグダッド―アンマン間の航空運賃165ドル                

2、3、(略) 総計229ドル13セントを至急支払え。」

この渡辺修孝さんの支払い拒否と提訴を支持し、裁判を支援する意思を表明しておきます。