直ちに其の神に成る

えっと折口を読もうとしていたのに宣長まで出してきたので話が別の方向へ転回しわけがわからなくなってきたぞ。

我が国には古く、言霊の信仰があるが、(略)

それよりも前に、祝詞には、其の言語を最初に発した、神の力が宿っていて、その言葉を唱える人は直ちに其の神に成る、という信仰のあったために、祝詞が神聖視されたのである。そして後世には、其事が忘れられて了うた為に、祝詞には言霊が潜在する、と思うに至ったのである。

だから、言霊という語の解釈も、比較的に新しい時代の用語例に、あてはまるに過ぎないものだ、と言わねばならぬ。

(p165 折口信夫「神道に現れた民族論理」『全集3巻』)

 たかだか8世紀前半にまでしか遡れない古事記の言語をもって「古の(こころ)=事(こと)=言」がそこにある、とする宣長の方法論には明らかに無理がある。当然、「それよりも前」の時代の人々は違う論理で生きていたはずだからである。

 神がもっと身近にいた太古を折口は自身に近づける。「直ちに其の神に成るという信仰」云々と折口は言うのだが、それは畢竟彼の詩的直感による構成物ではないのか。であれば凡人にはなかなか近づけなくとも当然か、という感想が起こる。

 どうも話が全然まとまらないのですが、少し分かってきた。

<古(いにしえ)>を読む、再現前させる二つの方法があると。

一つは、昔からの一定の伝統的な解釈にそのまま乗っかって「すらすらと平気に」語る方法。

もう一つは、宣長、折口それぞれやり方は違うが、常人離れした努力の果てにどこかで神懸かり的に、いまここに直接<古(いにしえ)>が降りてくるというパフォーマンスを行うこと。

この二つの異質な物をむりやり同一化したものが「靖国」的な、日本=日本の同一律であり、それは最強であり最悪だ、と。

神さま、助けてください。

結城浩さん という方が次のように書いて居られる。

(まあ信仰者ならだれでもこんなふうに、言うものなのかもしれないのですが。)

<祈り>というのは生活のなかにだけあり、自分の心や身体から降りてゆくことが価値でありその逆ではない、というのは興味深い。

自我を捨てること=共同幻想に己を捧げること、と捉えて否定するのが戦後の常識だった。だが本来、祈ることは自我を捨てることではあっても、共同幻想に己を捧げることではない。

ところで神が居なくとも、わたしたちは<祈り>を学ぶべきなのか?そうかもしれない、と私は思う。

http://www.hyuki.com/dig/prog.html

プログラミングを身につけるには / 生きた信仰の第一歩

聖書も同じだ。

いろんな聖書の解説書や聖書に関する本が売っている。

教会でも牧師さんが聖書の講解説教をやってくださる。

けれどもそれだけではだめだ。

自分で聖書を読み、自分でよく理解し、自分の口で祈り、

自分自身の生活の中に適用していかなくては、

聖書は身につかない。

自分で適用しようとしてみなければ、

聖書の厳しさも、神さまの愛も本当にはわからない。

自分の心の中の深いところは他の人にはわからない。

自分の心の奥深いところ、

誰にも見せず、誰にも開いていない扉を開くのは

その人本人にしかできない。

 祈り方もわからず、聖書も読んでいませんが、

 自分が自分の力ではもうだめだということはわかります。

 神さま、助けてください。神さま、ゆるしてください。

 イエスさま、どうぞ私の心に、今、来てください。(同上)

削除記事(2009.10.11)

負けるケンカはしない方がよかったのでは。(訂正前)

youtubeのビデオでは9割以上の支持を(おそらく)獲得しながら、わざわざ対抗デモを企画し、1/10程度しか動員できなかった。動員数について下のブロガーの認識が正しいなら、企画としては失敗だったということになるだろう。権力を相手にしたたたかいなら少数でも意思表示することに意味がある、と言える。しかし、民間対民間で、わざわざ相手に満足を与えるような企画をしてしまったのは愚かと評価される。問題はそうであってもどうしても行うべき他の要因があったかどうかだが、そんなものはなかったと思う。

6.左翼の反対派、可哀想なくらい参加者が少ない。

たぶん、在特会(300人くらい?)の10分の一程度(30名程度?)。

左翼の反対派より警備していた警官の方が多かったかも知れない。 

それに、正直、何を主張したいのか分かり難い感じ。

あれでは歩行者に何も伝わらなかっただろうな。

7.左翼団体の参加者、全共闘崩れというか…運動家の成れの果て?みたいな50-60代のオジサンばかり。

服装も、ちょっとヤバそう。

正直、あれじゃ、逆効果だろう…

拡声器で言ってる内容は、在特会の方が酷いが、見た目では、左翼団体より在特会の方が相当マシ。

心は錦、ってことなのかも知れないけど、あれじゃ駄目だろうなぁ…

何か伝えたいなら、服装も含めて戦略を練ったほうが良いのでは?という印象。

 うーん、服装についてですが世間の人はこういう風にみているのか。私も服でも買おうか。

(10/11記)

160 資料:建国記念日の祝い方 野原燐 2003/02/11 23:33

建国記念日というのがどういうものなのかよく分からないまま文章を

書いたので、後からnet検索してみると次のような文章が見つかりました。

2年前に熊本の女子高校生が書いたものらしいが良く書けている。

引用させてもらいます。

http://www.senyu-ren.jp/SEN-YU/01032.HTM

皆さんご存知のように、我が国は今年で建国二千六百六十一年を迎えました。そ

して、今日この日は、我が国最初の天皇、神武天皇が御位(みくらい)につかれた

日であります。この日本国建国にあたっての神武天皇のお気持ちは、『日本書紀』

にこう記されています。

「今、私はこの橿原(かしはら)の山林を開いて慎んで天皇の位につく。これから、こ

の国の民が心安らかに住める平和な世の中にしたいと思う。この国が神の住まい

にふさわしい清らかな所となり、他の国もそうなったならば、世界は一軒の家のよ

うに仲むつまじく、平和な世界となるだろう。それは、なんと素晴らしいことではない

か。」

このことから分かるように、日本民族国家の建国精神というものは、決して、自国

のみを愛し他国の衰亡を願うというような侵略精神ではなく、この日本国は「世界

総国家の大調和」の理想をもって建国されました。つまりこのご宣言は、世界の各

国すべてが家族として、家庭の一員として、仲良く繁栄する国家群となるための礎

として、この日本国を建てるという意味を持っているのです。私は、日本の長い歴

史の中でこの建国の理想が途絶えることなく、第百二十五代にあたる今上陛下に

も受け継がれていると思うと、感銘を受けずにはいられません。

神武天皇の和名はかむやまといはれびこの命。

彼はあるひめと寝たとき歌を詠んだ。

葦原のしけしき(汚い)小屋に 菅畳 いやさや敷きて わが二人寝し

高校の運動部のエースが汚い小屋で彼女と寝てそれでもすごく嬉しいみたいな良い歌だ。

ところで、世界が「仲良く繁栄する国家群となるための礎」には日本国が必要だと。要は世界の中心は日本=天皇なわけで、それが普遍的である為には

もういっかい世界戦争するしかないことになりますね。

               野原燐

生命

長谷川訳のヘーゲルをちょっと引用してみよう。

まわりの生命界から栄養を奪いとって自己を保存し、自己統一の感情に浸る個体は、この行為によって、自分の自立の根拠たる他との対立を克服する。自己統一を自覚することが、まさしく、他との区別を流動化することであり、形態が一般的に解体することである。が、個の自存状態の破棄されることが、逆にそれがうみだされることでもある。というのも、個の形態の本質たる生命界の全体と、自立した生命体とは、もともと単一の存在であって、生命体が自分とは別のものをとりこめぱ、この単一の本質が破れて分裂が生じるのだが、こうして、無差別の流動状態に分裂の生じることが、まさに、個が形成されることにほかならないのだから。このように、単一の生命界は、分裂してさまざまな形態をうみだし、と同時に、自存する区別を解体していく。分裂の解消がさらなる分裂と分化なのだ。運動全体のうちに区別される二つの側面--自立した共通の媒体のうちに静止して共存する形態と、生命の過程--がたがいに浸透しあっていて、過程が形をなすとともに形をこわしていき、形は形で、こわれたかと思うとまたできあがっていく。流動する場というとらえかたは生命の本質を抽象化したもので、形をなすときはじめて生命は現実の生命となる。そして、それが部分にわかれるということは、部分がさらに分裂することであり、部分の解体にほかならない。まさにこうした循環過程の全体が生命をなすのである。*1

例えば、我々自身も生物の自立した一個体でありながら、他の生物を食べることつまり、<生命界>との連続性を確認することによってしか生き延びられない。生命界は絶えざる分裂と分化でありまたそれと同時に、「生命の本質は、すべての区別を克服していく無限の、純粋な回転運動--静止しつつたえまなく変化する無限の運動--」でもある。生命界における多様な力の葛藤が総体としてある均衡において一つの世界として語りうるものになる、という思想は儒学的だ。儒学においては生命界におけるエコロジー的絶妙なバランスがむしろ人間社会の理想モデルになる。<生命>はヘーゲルにおいては体系の最初の方に出てきて、つぎに出てくる<自己意識>によってあっさり否定される。この二つのカテゴリーは王陽明の「心即理」に似ている(もちろん「理=生命」「心=自己意識」)が、王陽明にとって「理」が最終のカテゴリーとしての権威を失うことはなく、唯一の我が心はなるほど全肯定されるのだが聖人のそれと同一として理の側に引きつけられた上で肯定されるにすぎなかった。前項「食欲」で書いたように日常生活のなかの些細だけれどえげつないと言えば言える否定性みたいなところに執着するというのは哲学者ヘーゲルの偉大なところだ。

*1:p125『精神現象学』長谷川宏訳作品社(isbn4-87893-294-5)

同一性の論理に抗して

 デリダ『マルクスと息子たち』という本は、デリダ『マルクスの亡霊たち』(未訳)という本への批判への応答である。言い訳であり、繰り返し丁寧に書いている。あの大デリダにしてなお、これだけ完璧に誤解されるのかという感想をもってしまう。

例えば、「デリダは階級、階級政治を拒否している」とアフマドは語る。デリダは弁明する。「階級闘争の概念が標的にしていたものに関心を持つこと、社会的諸力間の抗争を分析することに関心を持つことは今もなお絶対に不可欠であると思います。」*1しかしながら、「社会階級とはそれがそれであるところのものであるという考え、つまり、社会階級が「究極の支持体」として、自らと同質であり、自らに現前しており、自らと同一であるという考え」に対してはデリダは反対する。「支配する者とされる者という単純な対立」という図式も疑問だ。つまり公式マルクス主義によって歴史を前進させる本当の主体として保証されているそのもの、現実の社会に生きているというよりむしろ論者の頭の中にある特権的カテゴリーとしての階級、というものに対しては疑問を持つと、デリダはいう。

 これは当たり前のことのようだが必ずしもそうではない。日本では、階級というものをすこしずらした、憲法9条、平和主義あるいは「(平和を希求する、被害者である)国民」といったものが、「究極の支持体」となっていた。去年ぐらいから急速に勢力を失ってきていますが。「自己に対するある種の差異とか、社会的力の中のある種の異質性といったもの」を平和主義者たちや日本共産党は抑圧してきたといえます。したがって<差異>に敏感であり、「階級、国籍、市民性に依拠してはならない」と語りうるわたしたちが、社会的闘争の運動にたちあがらなければいけないのです。

とは言っても「わたしたち」は圧倒的に少数派だし、元気もでないし困ったなあ。

この本のポイントは<メシアニズムなきメシア的なもの>にある。(キャッチコピーとしては分かりにくく最悪ですが。)メシアニズムとは、要するに 出来事であるはずのものを、プログラム可能なもの、プログラムされていたものとみなす思考、のことである。将来において必ず救済されると予定されている立場に依拠して考えるといった態度と考えてもいいだろう。それに対して、メシア的なものとは「到来する誰か(何か)という出来事に向けて張りつめられた」現実主義的で無媒介的な憂慮である、とされる。「それは最も具体的で、また最も革命的でもある緊急性である。」「それは事物や時間や歴史がいつものように流れているその流れの中断を今ここで命じてくるのだ。*2

<メシアニズムなきメシア的なもの>についてはこの本を読むだけではわかりずらい。でもわたしは(誤解かもしれないが)、何かをそこに読みとり希望を掛けることにした。

*1:p63『マルクスと息子たち』

*2:同書p91

わたしの日とあなたの日(金時鐘メモ3)

 日日という言葉は普通は「日々」と書くが、この点でだけ、金時鐘は日本語の正書法に従わない。「その日を生きる。/日本を生きる。/おれらが朝鮮を/創って生きる。」*1という行もある。日は日本の日でもある。そして日本は分断されていないのに、日日という文字列どうり上下に分断された朝鮮。*2「朝鮮」を背負って日本で生きるという逆説の上に成立する日々は、日々という即自性を持たない。日と日の間に目に見えない分断があるそうした日日を朝鮮人たちは生きていくのだ。

「日日」をタイトルに含む詩は上に部分引用した『光州詩片』に一つ、『猪飼野詩集』に三つある。そのうちの「日日の深みで(3)」から最初の3連を引用したい。*3「日」という文字は箱のようにも見えるところからも発想されたのかもしれない詩。

   日日の深みで(3)

それは箱である。

こまぎれた日日の

納戸であり

押しこめられた暮らしが

もつれさざめく

それは張りぼての

箱である。

箱のなかで

箱をひろげ

ロがな一日箱を束ねては

箱に埋もれる。

箱は催足される

空洞であり

追いまくられて吐息のいぶる

うつろなよすぎの

升目である。

立方状に仕切られてあるものに

生活があり

忍耐はいつも

長屋ごと升目にかかるので

夜を日についだ稼ぎですら

ねぐらが埋まる程度の量(かさ)でしかない。

*1:p277同書

*2:彼の本は普通と同じくすべて縦書きで組まれている。

*3:p194

新たな拘束

http://www.jvja.net/  安田さんと渡辺さんの拘束について、日本ビジュアルジャーナリスト協会から「イラクの友へのメッセージ」が上記に載っています。

「 4月14日、イラクでフリーランスのフォトジャーナリスト安田純平(やすだじゅんぺい)さん(元信濃毎日新聞記者、イラクでの「人間の盾」活動に参加)と、渡辺信孝(わたなべのぶたか)さん(「自衛隊派兵に反対するホットライン」所属)が、拘束されました。」

拷問か虐待か?

虐待を行った兵士の一人、○○○・フ○○○○○はアブ・グレイブ刑務所に配属されていた数ヶ月のあいだ、こんな手紙を故郷へ送っていた

「軍の情報部が励ましてくれ、『よくやった』と言ってくれている」「尋問のときは他人を同席させないのが常だけど、俺が刑務所を運営するやりかたを気に入ってくれたので、俺のことを例外にしてくれたんだ」「俺たちのやり方で、奴らがしゃべりやすいようにしてやるんだ・・・俺たちのやり方でかなりの奴らを落とすことができる。たいてい、数時間で落ちるんだ」

http://blog.livedoor.jp/awtbrigade/archives/493286.html

「反戦翻訳団」の記事より

現在、虐待と言う言葉が使われているが、当局者にとっては、必要な情報を得る方法としての拷問であったようだ。満州でまた中国で日本軍がやった水攻めなどの拷問と同じようなものか。「疑わしき人物」を大量逮捕し彼らに人権を認めず、何ヶ月も何年も留置するというイスラエル・スタイルの一環として行われているものだろう。

 単なる単発的虐待で、話を終わらせてはならない。

http://d.hatena.ne.jp/kitano/20040430#p3 に教えてもらいました。感謝します。