4/1 最初にだましたのは誰か?

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20070401#c1175470452

ebizoh ebizoh 『海老蔵中道右派です。

>最初にだましたのは誰か?中国まで連れて行ったのは誰か?は映画で描かれていません

最も可能性として高いのは、朝鮮人の女衒が親か本人を騙して中国に連れて行ったのでしょうね。それで日本軍に騙されたことになってしまうのは、冤罪ですね。

野原さんも被害者の証言を冷静に見ることができるようになって、良かったですね。』

ebizoh ebizoh 『ついでに、以前の積み残しの返答をさせていただきます。

元エントリが容量オーバーのため。

>--あなたの「証拠を出せ」ゲームに乗るつもりはありません。

もう、私と野原さんの間では、証拠を出せゲームとやらは、ほぼ終わっているのでは?

議論のフェーズは、お互いのほぼ共通の事実認識がある(ここに齟齬があれば、また証拠を出せゲームとやらが復活?)ことを前提に、その事実がどのような法的意味を持っているのかを考えることに移っているでしょう。

>--あなたの「証拠を出せ」ゲームを仮に前提とした場合、ミッチナ報告の読みの点であなたは矛盾を犯している。

>これを認めてください。

おそらく、証拠を出せゲームの次のフェーズである法的評価ゲーム?のことを言われていると思われますが、矛盾はありません。

1、私は、ミッチナレポートは要約部分しか読んでいないので、そこに明記してあった、レポートの調査対象となった慰安婦の平均年齢が25歳ということ、実態は戦地売春婦であること、しか知りませんでした。この事実認識からは、実態としても違法性を基礎付ける事実はなく、日本の国家としての法的責任は生じません。

2、野原さんのご紹介のサイトによれば、対象慰安婦には未成年の者がかなりの割合で存在したそうですね。しかし、当該サイトはその下段に示した参照書籍の内容を要約したものなので、サイトの筆者と参照書籍の筆者という2者の主観を経ています。つまり、2回も主観的間違いが混入する可能性があるので、原典であるミッチナレポートの本体の該当部分を確認することが本来は必要です。

3、原典確認は一端脇に置くとして、未成年者が一定割合いたことを事実と考えても、朝鮮人台湾人占領地の現地人については除外規定があるため違法ではありません。日本人の未成年者がいれば違法でしょうが。

4、そして、日本人未成年者という違法な実態を基礎付ける事実があったとしても、日本が国家責任を負い得るのは、その日本人未成年者に対してだけですね。』

noharra noharra 『○○最も可能性として高いのは、朝鮮人の女衒=日本軍の依頼を受けた三下=下級ヤクザですね。

>>>それで日本軍に騙されたことになってしまうのは、冤罪ですね。

と思うのは、旧皇軍の親族だけでしょう。

>>>野原さんも被害者の証言を冷静に見ることができるようになって、良かったですね。

なめたような口をきかれるんですね!海老蔵さまは』

noharra noharra 『エビゾーさん

>>>1、私は、ミッチナレポートは要約部分しか読んでいないので、そこに明記してあった、レポートの調査対象となった慰安婦の平均年齢が25歳ということ、実態は戦地売春婦であること、しか知りませんでした。この事実認識からは、実態としても違法性を基礎付ける事実はなく、日本の国家としての法的責任は生じません。<<<

「この事実認識から」ってあなた!!

あなたの「証拠出せゲーム」は「わたしの心の内の事実認識」なんてものを一旦出発点に立てるのですか??

何のための「証拠出せゲーム」か、意味不明ですね。

>>>2、野原さんのご紹介のサイトによれば、対象慰安婦には未成年の者がかなりの割合で存在したそうですね。しかし、当該サイトはその下段に示した参照書籍の内容を要約したものなので、サイトの筆者と参照書籍の筆者という2者の主観を経ています。つまり、2回も主観的間違いが混入する可能性があるので、原典であるミッチナレポートの本体の該当部分を確認することが本来は必要です。<<<

ミッチナレポートの本体の該当部分を確認することを誰がするのですか?

>>>3、原典確認は一端脇に置くとして、<<<

この論点についてだけは「証拠出せゲーム」は一旦中止するのですね。

その根拠は?

>>>>未成年者が一定割合いたことを事実と考えても、朝鮮人台湾人占領地の現地人については除外規定があるため違法ではありません。日本人の未成年者がいれば違法でしょうが。<<<

違法かどうかなど、私の論点ではありません。

正しい福岡県民*1なら「朝鮮人台湾人占領地住民を日本人と差別扱いする」ことなど考えられない、というのが私の主張です。

>>>4、そして、日本人未成年者という違法な実態を基礎付ける事実があったとしても、日本が国家責任を負い得るのは、その日本人未成年者に対してだけですね。<<<

そういう人はいなかったとでもお思いですか?』

ebizoh ebizoh 『>>>最も可能性として高いのは、朝鮮人の女衒=日本軍の依頼を受けた三下=下級ヤクザですね。

>>>それで日本軍に騙されたことになってしまうのは、冤罪ですね。

>と思うのは、旧皇軍の親族だけでしょう。

いえ。私の先祖には旧皇軍に参加した者はいないのですが、日本軍は違法な募集は止めさせるよう努力してたでしょ?漏れたのもいたかもしれませんけど。

>なめたような口をきかれるんですね!海老蔵さまは

いえ。本心でございますよ。野原様。

>「この事実認識から」ってあなた!!

>あなたの「証拠出せゲーム」は「わたしの心の内の事実認識」なんてものを一旦出発点に立てるのですか??

いいえ。だって、野原さんは、ミッチナレポートの内容をどう評価するかと質問されたので、正直に答えたまでですよ。

>ミッチナレポートの本体の該当部分を確認することを誰がするのですか?

議論している以上、私と野原さんの両方ができればベストですね。

>>>3、原典確認は一端脇に置くとして、<<<

>この論点についてだけは「証拠出せゲーム」は一旦中止するのですね。

>その根拠は?

その先のことを野原さんが聞きたいだろうと思ったので、仮定の話として議論に応じただけですが。

>違法かどうかなど、私の論点ではありません。

>正しい福岡県民*2なら「朝鮮人台湾人占領地住民を日本人と差別扱いする」ことなど考えられない、というのが私の主張です。

野原さんは福岡県民なのですか?私は東京都民です。

というか、差別扱いしたのは過去の日本政府ですから。

私は現在であれば人種差別はしない誇り高い日本人のつもりですが(天皇機関説が妥当と考えるので右翼ではないかも)、ただ当時の法によれば違法ではない、という当然のことを区別して言ってるだけです。

>>>4、そして、日本人未成年者という違法な実態を基礎付ける事実があったとしても、日本が国家責任を負い得るのは、その日本人未成年者に対してだけですね。<<<

>そういう人はいなかったとでもお思いですか?

いたとしたら、政府や軍の管理不行き届きは責められるべきですが、日本人慰安婦って誰も国家責任追及してないんですよね?してる人がいたらぜひ教えてください。』

4/9コメント欄

*1:あるいは正しい右翼なら、少しは誇りを持つ日本人なら

*2:あるいは正しい右翼なら、少しは誇りを持つ日本人なら

一読者 『>ゆうき様

>消極的関与と積極的関与とは別物

ごもっともです。私も逆方向にワープしてますね。

整理のため大雑把にまとめると以下のような感じですか。

1、消極的関与・・・現在の公安委員会など

2、積極的関与その1・・・売春婦的実態の軍慰安婦制度(ベトナム戦争時のものなど)

3、積極的関与その2・・・性奴隷的実態の軍慰安婦制度

私が上記サイトを読んで感じたのは、現在の主な論争が2と3の論争であることを前提に、3の立場を論証しようとしているが、十分には成功していないということですね。

資料分析部分で検証していない内容を、私の引用した部分では所与のものとしていくつか取り込んでまとめていることには、お気づきになりますよね?

>ノーモア(敬称略)

まず最後の質問については、上記回答でかえさせてください。

私とあなたの解釈の相違は、1と2・3ではなく、2と3の相違でした。

で、逃げる(あなたは罵倒がお好きですね)と言われたままなのは癪なので、具体的分析については時間をとって別途しようと思いますが、その前にまずあなたのその他のコメントにお答えします。

>「強引な解釈」といういかにも知ったかぶった言い方をした

これはあなたの主観ですね。私の主観では、素人から見た素朴な感想ですよ。上から見てはいませんね。軍の主体的関与の有無についての私の感想は、ゆうき様への回答のとおりです。実証的と感じたと言ってもその程度のものです。

>「それが認められるかは別の問題だ」と書いておいた

ええ、ですから、あなたの立場に立ったとしても法的責任追及はできないことには変わりが無いでしょうと言いたいだけです。これも、補償要求条項が慰安婦決議案に含まれていたとしても法的レベルでそれに対応するのは政府として無理だから、決議案の条項として含まれていようと、引用された秦氏の論説で言及されていないことから推測されたとおり含まれていなかったとして可決後に決議に従い新たに公式謝罪をしたら別途要求される可能性があるだけであろうと、補償の要求は無理な横車であるということを言いたいだけですね。

決議案の内容確認も別途するつもりですが、ここでは一旦後回しにさせてください。

なぜこの点に先走りと言われながら私がこだわるかというと、裏取引で賠償請求はしないから慰安婦の名誉のために強制性を認めてくれと韓国側に言われて河野談話を出した後で、挺隊協が賠償請求をやめないだけでなくアジア女性基金からの受け取りを妨害し、韓国政府がそのことをいさめないどころか新たな日本政府の補償の必要性の検討を大統領が言明したという背信的な前科があることがまず第一です。政治的決着のつもりが決着にならず新たに法的請求の根拠に援用されるなんて、自縄自縛です。

第二は、あなたもご存知であろうNYT他一紙(もしかすると数紙?)の記事で、単なる記者の意見かもしれませんが、速やかな公式謝罪と公的補償をすべきであると書かれていたからですよ。有力紙数紙でそういう世論が作られたら、たとえ今の決議案の条項に含まれていなかったとしても、決議後に新たな補償要求がなされることは十分ありえます。

白馬事件の背景と、秦氏の戦犯裁判分析に言及した各サイトの紹介は感謝します。

両者及び野原氏の別エントリの内容に共通する要素の1つとして、現地人ないし朝鮮人台湾人に対する犯罪はあまり追及されていなかったという実態分析があるのですね。

ただ、これは戦犯裁判の主体となった連合国が中国を除いては欧米人だったという要因もあるでしょうね。その当時の国際法意識の主体が欧米人であるためにそれら非欧米人の被害が裁判として俎上に載せるに際して考慮されにくかったとしたら、それもまた行為時の西欧人の法意識及び非西欧人被害者の無知の限界の反映とも考えられる訳ですよ。その法意識は、ベトナム戦争時の慰安婦についての法的責任がほとんど問題となっていないこと、奴隷貿易や黒人奴隷制度などの法的責任がほとんど問題となっていないことと同様、不平等であっても法の限界でしょう。そして、主として法的責任が問題となっている以上、条約で解決済みなのに責任追及するのは、ごり押しでしょう。

日本が仮に決議案に従い新たに謝罪したとして(賠償は条約で解決済み)、それに続いて欧米が過去の非欧米への侵略その他の行為当時は合法でも現代的法意識から見れば犯罪的な行為について全て検証し謝罪し賠償するというのなら、劇的な政治的パラダイムの変化として、欧米の搾取した財貨の非欧米への還元の第一歩として、私も肯定しますが、そんなことはありえませんよね?欧米だけが近代法の諸原則のバリアーを主張して、日本だけそれが許されないのは、それこそ不公平です。

さて、一応確認しておきますが、ここまではソースの提示の必要な資料は無いですね?全て恐らくあなたがとっくにご存知であろうと思われる資料に依拠したことしか述べていませんが、ご存知で無い点があればお知らせください。』

真実や静止状態それ自体が解放的である訳ではない。

 アントニオ・ネグリとマイケル・ハートの『帝国』5600円がベストセラーに、

なりつつあるらしい。うちの近くの三つの大きな本屋では売り切れのようで、より大きな都市に行ったらあったので思わず買ってしまった。

やっと200頁ほど読んだが、もちろん資本論に比肩するほどの本ではない。

だけど、20年前のベストセラー『構造と力』に比べると5倍ぐらい役に立つ、

かどうかは分からないが、思わずそう言いたくなるような図太い力がある。

『構造と力』は結局のところオタクのための本でしかなく、『存在論的、郵便的』なんか

恥ずかしいほどそうなのに比べて。

 分かりやすい。例えば、貧者、貧乏人といったことばは誰にでも分かる。

「横断的で遍在的でさまざまな差異をもった移動する主体」なのである、貧者は。

とこの本は語る。p205

つまり、「横断的で遍在的でさまざまな差異をもった移動する主体」というフレーズは

、一部のインテリ、ポストモダン業界のジャルゴンにすぎない。だけど、

貧者、貧乏人という言葉はそうじゃない。もう一つ「プロレタリアート」という言葉がある。

これは庶民の言葉と特殊インテリの言葉のあいだ、普通の(イデオロギー)用語

である。このように、この本は言葉の生きるいくつかの地層を勇敢に横断し、

言葉と思想を開いていこうとしている。

次の例。 ポストモダニズムって「支配的な語りへの攻撃と、真実に対する批判」

でないこともないらしい。でもそれってどういうことだろう。

「たとえば、エルサルバドル内戦の終結時に結成された真実究明委員会の使命や、

あるいはラテンアメリカや南アフリカで一独裁以後や全体主義体制以後に確立された

同様の制度の使命を考えてみよう。国家によるテロルや瞞着の文脈においては、

真実という概念を第一に考えしっかりと手離さないことは、強力かつ必然的な抵抗

の形式でありうるのだ。近い過去の真実を確定し公にすることーー特定の行為

について国家の公務員たちに責任を帰し、場合によっては懲罰を課すことーーは、

ここではどんな民主的な未来にとっても不可避の前提となる。〈啓蒙〉の支配的な

語りはここではとくに抑圧的なものとは思えないしー真実の概念は変わりやすく

不安定なものでもないーーその逆なのだ! 真実は、この将軍があの組合指導者

の拷問と暗殺を命じ、この大佐があの村の虐殺を指揮した、ということである。

これらの真実を公にすることは、近代主義の政治の模範的な〈啓蒙〉のプロジェクト

であるが、こうした文脈でそれを批判することは攻撃されている体制の欺瞞的かつ

抑圧的な権力を助けることにしかならないだろう。」p204

 日本でも従軍慰安婦を巡って、上野千鶴子と鈴木祐子が論争した。上野が

ポストモダン派で鈴木が真実派。だがこの本は上野の側を一方的に否定してる訳ではない。

「本当はあれかこれかの問題ではないのだ。差異、異種混交性、移動性それ自体

では解放的ではないが、真実、純粋性、静止状態もまた同じことである。

真に革命的な実践は、生産のレヴェルに差し向けられるものである。真実が

私たちを自由にするのではなく、真実の生産のコントロールがそうするのだ。

移動性や異種混交性が解放的なものなのではなく、移動性と静止状態、純粋性と

混合性の生産のコントロールが解放的なものなのである。」p205

 「生産」という言葉がまだ分からないので、結局レトリックで誤魔化してる

だけちゃうん?という疑問は残る。でもとにかく、クリアーな対立を取り上げ、

具体的な分かりやすい例を短い文章で説明し、「本当はあれかこれかの問題ではない」

と明確な結論を出している。分かりやすい文章、と言うことはできるだろう。

野原燐

他者

他者といっても自己と全然別のものではなく、本質的には自己と同じものなのです。*1

『精神現象学』は面白くないこともないのだが、読むのに時間がひどく掛かるのが困りもの。長谷川宏訳作品社(isbn4-87893-294-5)で、読んでます。なんとか読了したい!すこしずつメモをつけてみようと思う。

 他者が自己と同じ、だなんてそんなことを言われても日常感覚としては納得できない。だがまあ儒学では、世界は<理>であり自己の根拠も<理>であるのだから同一性が支配している。それに比べると、ヘーゲルでは他者~否定性が最後には消滅する(のだろう)が、この分厚い本を通じてずっと大活躍し続ける。というか儒学では二千年経っても、仁、理、気、性など十いくつかの言葉があるばかりで、カテゴリーのダイナミズムやドラマがほとんどない。この本は同じく同一性の勝利に終わるはずなのに、まったくそう思わせない、むしろハラハラドキドキこれでもかいわんばかりに葛藤が出てくる。これは、なまなましい他者との葛藤をあつかった戯曲、小説たちが(ある変容を施しただけで)そのまま哲学として、取り上げられていること、からくるのだろう。アンティゴネ、ヴィルヘルム・マイスター、ファウスト、群盗、ドン・キホーテ、ラモーの甥、あるいは革命、ナポレオン、イエス・・・

*1:金子武蔵『ヘーゲルの精神現象学』p128 isbn:4480082905

代理母の場合

 わたしたちの世界は所有権を不可侵のものとしているがこれはおかしい。例えば、世界的な美術品などを私有して破壊してしまうといった行為が許されないのは当然だ。同様に人間を私有することも許されない。しかし、現在日本でも過労死などはよく起こっている。これは実質的にその人間が私有された結果だと捉えられるのではないか。それに対し、基本的に分配可能なものは分配すれば良い、と立岩氏は言う。

 分配不可能なものはどうか。例えば、代理母が産む赤ちゃん。当初は子宮を貸すビジネスとして割り切れると思っていたがそうはならず、“そのもの”(赤ちゃん)とわかれられない。これが、「分けること、どちらかに帰属先を決めることが必要な場合もある。世界が既にあり、その中のあるものを私も欲しいしあなたも欲しい。」*1一つを半分に分けることはできない。そうした場合である。

 どちらに与えるか?実母(子宮提供者)に優先を与えると、ドゥルシラ・コーネルは言い立岩も賛成する。ただその理由は違う。実母に子供を手放せということは、「自らの性に関わる存在を表現する権利」を奪われることだ、とコーネルは言う。それに対し、立岩は「自らが作っていくその子との関係において、関係に対して自ら表現するものが権利性を規定するのだとすれば、親であろうとしている二人に区別はないのではないか。」

「その理由は、その人に対して、人との関係において、その人が接してしまった、既に会ってしまったことにある」だろうと立岩は言う。「そのこと自体においては自由なあり方ではない。」関わり自体は全くの偶然だったかもしれない、としてもその出会いをやり過ごすことが出来ず、出会ってしまった。「その存在に接する人、接してしまう人がそれについての権利を付与される」と考えるべきだろう。権利といっても、「それは決定できる権利ではなく、むろん処分できる権利ではなく、そのもとにいること、留まることについての優先を与えられるという権利である」が。

「ここで起こるのは、私の期待や願望が途絶し挫折すること、あるいはそんなたいそうなことは起こらないまでも、期待や願望と別のところに別の存在がいてしまうことを感じてしまうこと、そのことに伴って、そのものが存在し続けることに関わることを引き受けざるをえないと思う、そのような出来事である。*2

 ハイデガーはなぜ死についてなんか思索したのだろう、死ではなく誕生の方が微細に観察可能であり思索も深まるはずだと思った人は多いはずだ。21世紀になり立岩はついにその課題を達成しつつある、と言っても決しておおげさではないと思う。*3

*1:p267 isbn:4000233874 金銭を介した代理母契約は無効、とコーネルも立岩も言う。民法でもそうですね。ただ金銭を介さない場合、コーネルは認める。

*2:同書p270

*3:『私的所有論』の時から書いてたような気もするが。

『新潟』メモ1

金時鐘氏の長編詩集『新潟』*1の一部を読んでみよう。

この長い長い詩に作者は様々なモチーフをぶち込んでいるが、そのなかでも最も重く深い(表現不能性の方へ沈んでいく)モチーフの一つは、「1948年4月3日*2に火の手を挙げた済州島人民蜂起事件」*3だろう。その事件の無惨な敗北は、作者によって“やみくもにふくれあがった風船の中で自己の祖国は爆発を遂げた。”と言葉少なく語られるだけだ。だが祖国とは何か。祖国とは金時鐘にとって、済州島73,000人の死をその背後に張り付かせたものだ。

なぜ祖国は終戦とともにだけあったのか?!自己の少しもかかわりあわないところで生き返ったという祖国をみんなはどうしてそうもたやすく信じたというのだ?!少なくとも祖国は与えられるべきものではない。*4

 確かに大日本帝国は滅んだ。しかしたちまち、アメリカとソ連という二つの新たな勢力が朝鮮半島(この作品では形の類似から食用兎(ベルジアン)と呼ばれている)を分断するに至った。われわれのものである祖国は、終戦という瞬間において、確かに存在した。存在したとわれわれは信じた。だが失われた今となっては自らの闘いによって勝ち取ったものでもない祖国が本当にそこにあったのかも少し不安になる・・・そのような意味を読みとることもできるだろう。祖国への思いは今も金時鐘を呪縛している。

*1:isbn4-651-60048-4『集成詩集・原野の詩』 p299-478

*2:1953年と誤記していたので下記の指摘を受けた

*3:「済州島 人民蜂起 事件」をグーグルすると例えば下記が出てくる。http://www.dce.osaka-sandai.ac.jp/~funtak/papers/introduction.htm というかよくみると野原のも3つ目に出てくるのだ。間違ってはいけない(自戒)。

*4:p404同書。これらの詩行は本当は、16行に行わけされているのだが、むりやりくっつけてみました。http://noharra.at.infoseek.co.jp/2004/niiga04.htm に縦書きで行分けした元のかたちを(前後をちょとだけ追加して)UPしてみた。

ブッシュ大統領の入植地容認発言を糾弾する!

http://www.mainichi-msn.co.jp/kokusai/mideast/news/20040415k0000e030062000c.html

毎日新聞によれば、「 米国はイスラエルがガザ地区からの撤退を約束する代わりに、ヨルダン川西岸について、イスラエルが必ずしも1949年の休戦ライン(第3次中東戦争の占領地外)まで撤退する必要はない、との言質を与えた。」とのことである。

入植地は今まで一貫して国際社会から違法とされてきたものだ。イスラエルはイラク国内を無茶苦茶にした責任の一部を負っているのにかかわらず、なぜこの時期にご褒美を貰えるのか?中東の平和に永続的な危機を与える、今回の容認発言を直ちに撤回せよ!

闘争

「詩というものが無数の表現方法をとるように、闘争にも無数の方法があると思いますから、*1」わたしたちは「闘争」という言葉につまずく。わたしは闘争主体に成ることができるのか?闘争主体として生きていくとはどういうことだろうか?闘争主体であることと「まともな就職」は背反する。闘争主体であることはこの社会がその上で成立しているルールに敵対することではないのか?わたしたちは資本主義なしに生きられない。わたしたちは国家無しに生きられない。であれば少なくとも、資本主義を否定する論理、国家を否定する論理を口にすることは思想的に潔い態度とは言えない。まず仙人になってから言うべきだ。このような気分は20年ほど前から社会を覆っている。そしてついに、自民党の柏村武昭・参院議員(広島選挙区)が、4/26日「そんな反政府、反日的分子のために血税を用いることは強烈な違和感、不快感を持たざるを得ない」と、反体制的発言をする人自体を非国民としてバッシングする事態に至っています。闘争主体であることは可能なのか?

 まあ落ち着いて考えてみよう。最後の柏村発言について言うと、これは間違っている。現在「自衛隊撤退」の方が国益にかなう可能性は充分ある。その可能性に対し、「撤退」派を非国民と呼ぶことで日本は戦争から引き返せなくなって悲惨な目にあった。柏村氏は国会議員として日本の歴史に責任を持つ態度から逸脱している。次ぎに、国家や資本主義を否定する言説はどうか。国益を土台にする言説とは土俵が違う。土俵が違うだけのことで、前者が禁じられなければならないということではない。それに、国家や資本主義への否定といっても、わたしたちは「否定」を提起しえたことは一度もない。わたしたちは大学を占拠した。占拠の根拠に「否定」即ち革命があったわけではない。それは錯誤であり、そう信じた者たちの一部は連合赤軍事件で自滅した。占拠は不法、不当なものとされたが、それは情況の推移に応じてそうなっただけのことで最初からそうきまっていたわけではない。学生は大学に存在する。存在することはSEXすることや出産することでもあるが、通常それは授業の場としての大学の範疇からはずれるものとして指弾される。しかし存在することはつねに逸脱であるのだ。わたしたちはロボットではない。したがって忙しく仕事しながらも仕事以外のことをしょっちゅう考えていたりする。そうであることを禁圧することは、とりあえず雇用者の利益になると考えられる。しかしそれを完全に禁圧することなどできないし、そう考えられるだけのことでそうと決まった訳のものでもない。

 つまり、難しく考えなければ「わたしは闘争主体になれるのか?」というのは、「わたしはいつの日かSEXパートナーを獲得できるのか?」というもてない君の嘆きとほとんど同じ物にすぎない。後者の問いだって「わたしは話も上手くないし、収入も少ないし、根性もない」云々と列挙していけば、答えは限りなくゼロに近づく。うーん、ところで「闘争」って何だ?

*1:松下昇「わたしの自主講座運動」より http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040222#p2

金日成の肖像画

 水滸伝のような講談で、在日朝鮮人戦後史を語るなら、この大きな金日成の肖像画の登場が丁度真ん中辺に当たる。そして後半はひたすらうっとうしく本国からの指令と組織内の権力闘争だけがチマチマと続いていくことになる。以下はまあわたしの勝手な妄想なのだが、わたしたちは戦後約60年間を間違ったパースペクティブにおいて見ていたのではないか。戦後の最初の十年は飢えと暴力に表象される混乱期だった、と切り捨てられてきた。確かに飢えと暴力の時代だっただろう。しかしその裏面には真実の希望(日本人においては反省)もあった。五十五年体制。反体制派が社会においてそれなりの地位を占め慣性力を得たということは、「金日成の巨大な肖像画」に相当するものを自己のうちに育て始めたということなのだ。九十年代から左翼が退潮し右傾化したと言われているが本当は、五十五年の金日成の肖像画が歴史の転換点でそれ以後その<肖像画>は目に見えず、すり切れながら執拗に存在し続けてきたのだ。(6月11日追加)

「対話概念を変換し…」

 松下昇は、概念集5のp7「批評概念を変換し…」で次のようなことを言っています。

批評、とかいっても文学というものがあり批評というジャンルがどこかに存在するわけではない。

批評とは「任意の位置ないし関係相互の間における発想や存在の様式の矛盾を止揚する原則を模索する」そうした行為の総体を指す概念 である。

「一瞬ごとの呼吸や排泄のように身体化されるレベルで、また料理のように自分のやりうる範囲で批評の根拠ないし原初形態は常に出現している」その動きや方向の無意識性を対象化していくということが大事な課題である。*1

日常でも掲示板などでの対話でも、自分があたりまえだと思っていたことが相手にとってはそうでなかったと気付くことはよくあることです。発想の差異は、論壇においてはいくつかの座標軸によってきれいに分布しているかのように表象されます。しかしわたしたちが日常で出会う他者はそうした場(テーブル)に存在しているわけではありません。たとえば相手が小学生であればいくら正しいことを言ってもそれが「意見である」と検討されることすらふつうはありません。AとBとの自由で理性的対話によって民主主義の基礎が形成される、それは肯定すべきでしょう。しかし私たち日常の対話は性別とか役割、年齢など、位置~関係~存在様式の差異によって大きく左右される。インターネットは一般論として、誰でも参加できまた、各参加者間の形式的平等が保証されているというおどろくべき長所を持っているように見える。それは嘘ではないし長所は活用していくべきだ。ただここで指摘された「存在様式の差異」といった問題は残っている。忘れられているとすればいっそう何かを抑圧していることになる。

さて各主体間に存在様式の差異が存在したとして、それが矛盾であり止揚されるべきものだ、とアプリオリに決めつけるのはおかしいのではないか、と読者の大半は(読者がいたら)思っただろう。(差異という言葉こそポスト・モダン情況の指標の一つであり、それは矛盾、止揚や闘争というタームの忌避を伴っていた。)だがわたしたちの存在様式が分断されており、そのせいで対話ができないなら、その矛盾が解決されなければ対話は開始できない。

意見を言うとはどういう事態なのか?それは知識を持つ者だけに許された特権的な価値のある行為なのか。そういう側面があることは否定できない。例えば自分がある意見を持っているとしてそれを1枚のビラにして見ろと言われればかなりの勉強と労働が必要になる。だがそうしたあるレベルを越える勉強というハードルを越えないと意見を言ってはいけないのか。断固としてNOと応えたのが全共闘だろう。

言説を精緻化することは敵の土俵に乗ることであることが多いし、そのことに無自覚であると敵の論理に巻き込まれていってしまう。そうではなく、他者からは幼くナイーブに見えたとしても「わたしの怒りの原点」といった初発性を忘れずに耕していくことの方が、困難で貴重な営為である。<69年性>といったものをそのようにパラフレーズしても良いのだろうか。

わたしたちは誕生から死滅の瞬間まで言葉と言説にまみれて生きている。「一瞬ごとの呼吸や排泄のように身体化されるレベル」において批評の根拠ないし原初形態が常に出現している、という把握はさすがだと言わなければいけない。「また料理のように自分のやりうる範囲で」というフレーズは分かりにくいが、料理が苦手な人がそれでも料理をした場合なんだか変で美味しいとはとうていいえないものができあがるがそれでも食べられないことはないのだ、みたいな感じか。

言説といったものを考える場合、フーコーのエピステーメーみたいに全体的に考えるか、それとも個々の差異に注目するかのどちらかになりがちだ。この隘路を抜け出すためにエージェンシー(行為体)への注目(バトラー)などがなされた。松下も“批評の根拠ないし原初形態”を原点として持ち上げるのではなく、その近傍を含んで把握しさらにそれ自体ではなく〈その動きや変容〉(とそれが無意識のうちに起こっていること)にこそ注目すべきだ、と考える。

わたしたちは、まいにち他者に出会いながらそれをなんとかやりすごして日々をおくっている。まあ生きるとはそうしたことなのだろうが、対話(に似たこと)をしている以上はわたしたちはいつでもそれをもっと深めることはできるのだ。

参考 http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/hihyo.html#hihyo

*1:以下、『概念集・5』より原文を引用しておく。「私にとっては批評という概念は基本的に、概念集3の〈批評と反批評〉の項目が引き寄せる領域で揺れ動いており、より厳密にいいなおすと、任意の位置ないし関係相互の間における発想や存在の様式の矛盾を止揚する原則を模索する時に対象とする概念として論じようとした。どこかに批評というジャンルがあるのではなく、一瞬ごとの呼吸や排泄のように身体化されるレベルで、また料理のように自分でやりうる範囲で批評の根拠ないし原初形態は常に出現しているのであり、その動きや方向の無意識性の対象化こそが各主体にとって不可避の課題であるということは、六九年情況を潜った私にとって自明であった。私が一連の資料の刊行を私が書いた批評集ではなく、私について書かれた国家(α)やマスコミ(β)や文筆業者(γ)による批評の集成から開始した契機は、このような把握からの必然であったし、この試みは段階や度合の差異はあるにしても、任意の人によって、いや、まずプロの批評家によってやってみる価値のある作業であると確信している。」