アジア主義の否認は、それ自身のうちに止揚しがたい矛盾を孕んでいる。アジア主義を否定することは日本そのものを否定することになる。*1
何の信仰も超越も持っていないが故に日本を最終審級とする(哀れな/素直な)奴らを、ナショナリストとか右翼とか呼ぶのは間違いだ。彼らはただ(哀れな/素直な)だけだ。
*1:「神の否認は、それ自身のうちに止揚しがたい矛盾を孕んでいる。神を否定することは知識そのものを否定することになる。」p170啓蒙の弁証法 のパロディ
関係としての指数・対数性 |
1 |
二つの反日処刑 |
8 |
夢屑 |
10 |
不条理 |
11 |
歌集「不条理」を媒介して |
12 |
歯磨き粉 |
15 |
当事者 |
17 |
余事記載 |
19 |
プロテスト |
20 |
制圧 |
21 |
非対称の性 |
23 |
第n次作品 |
27 |
註 |
30 |
twitter の下記記事を10月12日19時30分ごろ削除しました。
http://twitter.com/#!/noharra/status/123898355607805952
@Hideo_Ogura ネットを利用した誹謗中傷については、被害者には「裁判制度を通じた救済」を受けさせないということですね。>あなたね、公開された発言をなめてませんか? 私はそんなことを言っていませんよ。議論のルール違反ですね。あなたの信用は下がった。posted at 10月12日 08:10:44
3月15日コメント欄
3)では、安息日の規定など当時のユダヤの律法に対してイエスが批判的だったことが語られる。p333
ヘーゲルは強引にも、ユダヤの律法道徳にカントの法則道徳を重ね合わせて批判するのだ。そして(全一な生)に基づく<愛の道徳>としてのイエスの道徳を顕彰する。
一方仏陀は、<慈悲の心を持たねばならぬ>と同時に<自他に対して根本的には無関心の態度を取る心を持て>とも言っており、戒律にはより遠い、ようだ。
わたしは村上一郎の本を数冊持っている。だいたい30年近く前に買った物でそれ以来読み返していない。昨日キーワード「村上一郎」と「mkimbaraの読書録」を読んで、本を出して見た。1962年に書いた「ルソオの日に」という短文を読んだら、引用したくなったのでしてみます。
六月二八日に、ぼくたちは、ジャン=ジャック・ルソオの生誕二五〇年記念日を迎える。
五〇年前、間もなく年号が明治から大正に移るという年の同じ日に、ぼくたちの父や祖父はルソオの生誕二〇〇年を迎えたわけだが、この、大逆事件被告処刑直後の年に、ルソオを記念する行事が、いかに困難な状況のもとに行われたか。--それは、多くの日本民主主義・社会主義の先達にのこされている。また、その困難な行事に参加した、うぶな青少年が、行事を機に、どのような“回心”を体験(エアレーベン)したか、それも記録に残っている。それらの人たちの後半生は情ない末路をたどったかもしれぬ。が、ぼくはこの年の困難な精神のいとなみを尊かったと思う。
五〇年を経て(略)・・・天下泰平のうちに、書く人も読む人もふくめて、ぼくらはルソオの日を迎えるのだ。ぼくらは、たいした戦いもなく、何びとの血も流さずに、この日を迎えるのである。だがこのようにして得た「民主」の世を、ぼくは、にがにがしく思う。(略)
そして数行のあと、かれはこうした情況への内心の思いを吐き出す。
沌沌。悶悶。そして愚劣。ぼくは「死語する死霊達」に唱和しないではいられない。*1
村上の文章は適当につまんで引用することができない。一見平明な言葉面の背後に手に負えないほど強く複雑なリズムが潜んでいる。
ところで、1962年が天下泰平だったとすれば、この30年間は一体何だったのか。天下泰平の自乗か三乗ぐらいか。わたしたちは民主主義あるいはルソオを自明のものだと思っているわけではない。ただの飾り言葉だと思っている。私たちにとって政治とはと問いを発しても、投票に行くか行かないかあるいはどの政党が良いかなどといった愚劣な問いに回収されてしまう。だが本当はそうではないことをわたしたちは知っている。わたしたちの職場でも町内会でも薄笑いの裏に血は流れている。戦わないものには見えないだけだ。だからといって、ルソオや民主主義のうらに、必ず<血>や<デモオニシなもの>の存在をかぎ取らないといけないのか。平和で豊満な日常に常識を持って生きていこうとするだけで充分ではないか。もちろん出発点はそれでいい。だが戦前の大逆事件以降の弾圧や正義無き大東亜戦争の死者たちの圧倒的存在感を察知するやすばやく遠ざかり、イノセントを(無意識のうちに)装ってしまう性癖をわたしたちは持っている。といってもまんざらはずれていないのではないか。
*1:p265『日本のロゴス』国文社 1970
「日本は日本である」といった同一性の神話に対して闘い続けた偉大な先達である、網野氏は、私にとって。哀悼の意を表したい。
といっても不勉強なわたしは彼の本をよく読んでいるわけでもありません。『日本中世の民衆像』という岩波新書が出てきた。冒頭で、日本人単一民族説と「日本人の生活の中心は水稲耕作だ」二つの考えを挙げ、それは「やや極端にいうならば(略)この日本列島に住み生活をしてきた庶民にとって決して真実とはいいがたいの ではないか」と書いています。
いくらいってもわたしたちは日本とか朝鮮(あるいは韓国)という、たった一つの言葉でありながら世界を僭称する共同幻想以上のもの、から逃れられない。だから同一性の神話とは絶えず闘い続けなければいけない。
古田博司氏は「私は儒教が好きである。」と言った上で、次のような言葉を挙げる。「長幼の序」「父子に親あり」「朋友に信あり」「夫婦に別あり」。*1「朋友に信あり」には反対しないが、それ以外はどうも嫌だなと思ってしまう。要するに儒教が大事にするものは、家族、親族、小共同体といったものであるが、わたしはそれらから離脱した単独者でありたいと思っているのだ。
一方欠点として「労働蔑視、職業差別感、身内偏愛、女性蔑視などは儒教が本来的に背負うものであり」が挙げられる。このうち面白いと思うのは「労働蔑視」である。西欧近代は、立岩氏が格闘したように労働(と所有)を価値の源泉とみなしてきた。今日それは金銭、ヴァーチャルマネーとして最後の形態を迎えている。ギャンブル資本主義に明日がないのは自明であり、次の時代を支える思想が要求されているが未だ至らない。それを考えるヒントになるのではないか。
*1:p134『東アジアの思想風景』
イスラエルの暴虐に抗議しよう!
http://www.asahi.com/international/update/0418/003.html
イスラエル軍、ハマス最高指導者ランティシ氏殺害
パレスチナ自治区ガザ市で17日夜(日本時間18日未明)、イスラム過激派ハマス最高指導者ランティシ氏が乗った車にイスラエル軍の武装ヘリがミサイルを発射した。車は爆発し、パレスチナ自治政府筋によるとランティシ氏と側近2人の計3人が死亡した。イスラエル軍による殺害作戦とみられる。
ランティシ氏はハマス政治部門の最強硬派。3月23日に、イスラエル軍に前日殺害されたハマス創始者で最高指導者のヤシン師の後継に就任したばかりだった。
先日UPした、「わたしの自主講座運動」については原本が二つある。一つは1971年1月に北川透氏が刊行した『あんかるわ別号≪深夜版≫2 松下昇表現集』である。もう一つは、『~1988・8~ 表現集 〈 〉版』、神戸市灘区赤松町1-1松下 が連絡先になっている。後者は前者のコピーを更紙にリソグラフ印刷したもので、前者より読みにくい。ただ松下自身による誤字訂正がいくつかある。その訂正個所を最後に追加しておいた。
わたしの松下氏の表現のテキスト化はOCRでまずやっています。この方法はミスがあっても見つけにくい。そこで、(今回テキスト化により追加された誤りがあるはずです、気がついたら指摘していただければ嬉しいです。)とも書き加えておいた。
すると今晩、畏友黒猫氏から丁寧に校正をしたものをFAXしてもらった。わたしにとってとても嬉しいことできごとでした。早速、バリケードがパリケードになっているなどのミスを訂正した。ただ訂正仕切れなかったところもある。(スローガンを荷う については「担う」は普通だが荷うも辞書にある。)
追求という言葉。1)追求→追究 2)追求→追及 にすべきでは?という意見だった。 利潤を追求する/真理を追究する/責任を追及する、と使い分けるみたいだ。1)については、理想追求に近い意味ということで、追求でいいだろう。責任追求という言葉は、国語の試験なら間違いになるだろう。しかし松下は、他者に対する糾弾みたいな追及も、例えば「自己が叫び声をたてざるを得ない根拠を追求」するという大きな営為の一部として行われるものと理解していたのだろう。そのような意味で「追求」で通した松下を追認しておくことにした。