怨親平等 (8/6追加)

というのはちゃんとキーワードになっている。

 靖国神社の中には鎮霊社という「靖国神社本殿に祀られていない方々の御霊と、世界各国すべての戦死者や戦争でなくなられた方々の霊」を祀った摂社があるとのこと(摂社とは本社に付属し本社に縁故の深い神をまつった神社の称)。(略)

たしかに靖国神社は軍人軍属を中心に祀ってはいるが、神社全体としては民間人も敵もあわせて祀っている事にはかわりないのだから、これこそ日本の伝統に沿ったものである根拠の一つにはなるだろう。

http://d.hatena.ne.jp/drmccoy/20050728

そして上記のように、鎮霊社という社の存在を以て、靖国神社を弁護しようとする勢力も存在する。

136年前からの靖国神社の歴史を考えれば、それが言い訳でしかないことはすぐ分かるわけですが。

わが岡のオカミ

103 わが里に大雪降れり 大原の古りにし里に落らまくは後

天武天皇

104 わが岡のおかみに言ひて落らしめし 雪の摧(クダ)けし 其処に散りけむ

藤原五百重娘

万葉集です。

天武が 大雪が降ったぞ!と自慢すると、藤原の夫人はまたうちの岡の雨龍に降らせた雪がそこまで散っていったのでしょう、と子どものように言い返すという歌、折口によれば。

応答可能性と政治的正義

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050918 の続き

責任/応答可能性という発想は、岡野八代においては政治的正義実現のための一つのステップとして現れる。

私の人生がこんなになったのは日本のせいです。日本は私たちに補償をして、このことを歴史に残さなければなりません。今の日本や韓国の若者は、こんなことがあったことを知らないので、事実を教えてあげなくてはいけないと思っています。(元従軍<慰安婦>金学順)

「責任」を考える場合に、わたしたちは、在る行為を自らが「自由」になしたからこそ、その行為に対する「責任」が生じる、と考える。だがしかし、呼応関係においては、「かつて自らが自由になした行為については、今その責任がある」といった<責任に先立つ自由>といった考え方が覆される。なぜなら、<わたし>がいま、金学順さんの言葉を聞いた時点で、すでに否応なく彼女の声に応えることが要請されており、聞いてしまった時点でわたしには、いかなる自由もなく、すでにその声に応える責任/応答可能性のなかに巻き込まれてしまっているからだ。そして、その後に、その声に応えるか否かの自由に開かれることになる。*1

責任とはまず無限責任なのだ。そして無限責任であるかぎりその責任を<わたし>は果たしえない。そんなことは不可能なのだ。p248同上

わたしたちは、ある意味で偶然出会う個別のひとびとからの呼びかけを個別の受信者として聞き取ることしかできないのである限り、あらゆる人からの無限の責めとしての倫理的責任は、ある限定した範囲の中で果たされるしかない。つまり、実際に彼女たちに正義が回復されるためには、わたしたちは、誰にどれだけの正義を返すのか、という限定的な正義の範疇や正義を回復するためのルールを確定しなければならない。(略)

そうではなく、倫理的責任は無限責任であることを意識しながらも、なお限界を問い返しながら責任を取ろうとする積極的正義が存在していることを意味しているのだ。p269同上

岡野はこの正義を「政治的正義」と呼ぶ。これは(アリストテレスからロールズに至る)現代正義論の立場、即ち「配分的正義論を正義の通常モデルとする正義論の立場に立てば、日本政府が従軍<慰安婦>問題に対して無責任であっても、正義に悖ることがないという結論が導かれる*2」そのことに対する批判として、なされる。

*1:p246 岡野八代『法の政治学』isbn:4791759699

*2:同上p265

「なぜ人を殺してはいけないか」再考

(1)

Qなぜ人を殺してはいけないか?

A国家が、正当な殺人を独占しているから。つまり、国家が、それ意外のものが殺人をしようとすることを押さえ込んでるんだよ。

http://blog.lv99.com/?eid=311232 こどものもうそうblog | 「なぜ人を殺してはいけないか」再考

その通りだと思う。なんとなく、この方のブログをはじめて覗き、上記の表題を見つけたので(失礼ながら)どうせ大したことは書いてないだろうと思いながら読んでみるとそんなことはなくて非常に素晴らしいのでビックリした。

萱野稔人『国家とはなにか』を最初だけ読んだ。エキサイティングな本の予感。

マックス・ウェーバーの『職業としての政治』を引用し、

国家とは、正当な(合法な)物理的暴力(破壊や殺傷、拘束、監禁といった具体的な暴力)行使を独占し、もし、他の個人や集団が物理的暴力を行うならば、国家はその暴力を上回る暴力によって実際に押さえ込むもの、といった内容(乱暴な要約で難しげになってるかもしれないけどね)が最初の20ページで展開される。(同上)

というヒントから生まれたものだという。

わたしは前から、死刑と戦争を肯定している社会に住みながらつまり間接的には殺人を肯定しながら、それとは無縁に「なぜ人を殺してはいけないか?」という問いを考えることができると思っているようなインテリやマスコミ関係者に深い疑問を感じていた。

(2)

ここでは、たまたま読んでいた『戦争責任と「われわれ」』という本のなかにあった中岡成文の文章の一部を批判したが、ちょっと強引すぎるかもしれないので一旦削除します。

神の死について

近代において、共同体内存在であった個が自由になり個人になった。ここで自立した諸個人による交流の場市民社会が形成されればよいが、実際は上手くいかないことも多い。市民社会から排除された女性や犯罪者からの異議申し立てが起こる。

また市民社会を形成しうるのは教養ある市民であり、教養とは国家と神への信頼である、と考えられる。

しかし<神は死んだ>。

ここで対応法は3つ。

α.一つは神は死んでないとがんばる。

β.一つは神無しで生きる。

γ.一つは「神の代わりを出現させようとして狂う」*1。である。

βは一番スマートのようだが、結局世界にある圧倒的な不正義に目をつむり自分たちだけの権益を守る思想とつながるのではないか。

α、神が死んだとしても、神という名前だけは残る(例えば「皇高皇宗」)その名前とイデアへの尊敬を絶やさないような私個人の思いをなんとか拡げていけばいいのだ。このように考えると否定しなくともよいようにも思える。

神がない以上、わたしたちはいつも狂気の淵にさらされている。そう考えるとαβγは余り違わないところに収束してくかもしれない。しかし、体制派のひとは既成の権力関係をそのまま神の代わりに信仰せよと迫ってきたりするのだ。侮蔑し唾を引っかけてやれ。

終戦の詔勅

詔書

朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ収拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク

朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ

抑々帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所曩ニ米英二國ニ宣戰スル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庶ノ奉公各々最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ残虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所真ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯クノ如クムハ朕何ヲ似テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムニ至レル所以ナリ

朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ開放ニ協力セル諸連邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪へ難キヲ堪へ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス

朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク擧國一家子孫相傳へ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ発揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ

御名御璽

昭和二十年八月十四日

http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/syuusenosyou.htm

道義観に悪影響

(裕仁退位問題の続き)

率直なところ、現在のように日本人に「道徳観念」が欠如し、「責任感や、けじめ」のない国になった大きな要因として、「国家のトップ」が敗戦後の自らの「出処進退」を回避して来た事が大きいと感じている。

「宣戦布告書」にご署名もされ、「そのお方の為」として、何百万人もの人が命を落としたと言うのに、生涯その地位から引退もされずに座り続けられた事が、その後、如何に日本人の「道義観」に悪影響を及ぼした事か。

http://d.hatena.ne.jp/okamakoto/20051118

okamakotoさんのブログから引用させていただく。

okamakotoさんはなんと70代の方のようだ。最近は高齢者の方が現在の社会情勢の歪みに敏感で、時代に危機感を持っておられる方が多いようだ。彼の平明で偏見のない文章は、わたしたち(戦争を知らない世代!)に強い灯りをおくっている。