天のウズメの胸乳

 むかし、神が天から下ってこようとした時、天のやちまたに一人の異形の地神*1が居た。何ものだと従の神に聞かせようとしたが、皆位負けして問えない。天のうず女に命が下る。「天のうず女*2、すなわちその胸乳を露わにかきいでて、裳帯(もひも)を臍の下に仰(おした)れて、咲(あざ)わらいて向きて立つ。*3」有名な天の岩戸の前のパフォーマンスとほぼ同じである。*4しかし、天の岩戸の時の、神々が観客として大勢いて、天のうず女のパフォーマンスに「八百万の神ともに笑いき。」という、みながショーを楽しんでいるといった配置とは今回は全く違う。どんな敵が潜んでいるかしれない未知の領域に入ったとたん、強そうな異貌のものが立ちふさがっている。どちらかというと闘って力でねじ伏せて進んでいくしかないとシシュエーションにいきなり裸に近い女が登場するのは、21世紀風の趣味にはひょっとしたら合うかもしれないが、古代にふさわしいことなのか、と疑問がふくらむ。

 だが、白川静の『字統』などによれば、濃い化粧をした巫女(ふじょ)の呪祝の力は古代において非常に重視されたもののようだ。*5天のウズメのエロティックなパフォーマンスは、エロティックなものとしてあったのではなく、敵を倒す呪いの力を持つものであったのだ。したがって「胸乳かきいで」云々というフレーズは、後者の闘いのシシュエーションに置かれていたテキストの方が古いのではないか。現代人にも分かりやすいストリップショーの喜びという場面は、古事記の時代の人によって新たに作られたものでそれほど古くないのではないか。

*1:猿田彦大神

*2:天鈿女、あるいは天宇受売

*3:p134岩波文庫『日本書紀』

*4:古事記では、「胸乳をかきいで、裳緒(もひも)をほとに忍(おし)垂(た)れき」。p51新潮日本古典集成

*5:『字統』の媚、蔑などの項目参照。

(7)反フェミ/フェミの水掛け論(10/26追加)

10/26までに三人の方からコメントいただきました。ありがとうございます。

(1)

# 通りすがり 『匿名失礼します。上記1~3のような反フェミ/フェミの水掛け論は耳にタコの世界ですね。もっとこう、プラグマティックで議論の土台になりうる、「遺伝的に違ったらどうなんだよ。抑圧しても差別してもいいのかよ」という、止揚を目指した議論が(一般に)広まることを期待します。』

(2)

# dennouprion 『統計的に男女差があっても個人差があるわけだから、差別は正当化できないはず。遺伝的なさがあるかないかを議論しても無意味だと思います。http://www3.ocn.ne.jp/~gthmhk/dskrmnc.html#kagaku

上記で紹介いただいたサイトから一ヶ所だけ引用すると次のようです。

だから私には、仮に女性の方が男性よりも生物学的適性により子育てとか家事に有意な差において適しているという証拠がいくら「科学的」に提出されたところで、果たしてそれが女性に子育てと家事を担当させることを正当化する理由にはならないと思うのです (*)。

http://www3.ocn.ne.jp/~gthmhk/dskrmnc.html#kagaku

男女に統計差があるなら役割分担すべきか

(3)

# Cman 『統計的な男女差が人為的な差別によるものかどうかを識別するために、遺伝的な要因があるかないかが問題なのだろうに。』

以上、野原は(1)(2)の方の意見に賛成です。(3)の意見は山形さんに近いのかな。

(3)の問題設定は、(1)(2)及び野原に理解されていないし、理解すべきかどうかという問題意識すらないようだ。したがってCmanさんは、もし議論したいなら、その問題設定の妥当性を私たちに対し教育しなければならないみたいだ。

カウンタ

祝!

1,107(20040307~)親サイト

10,160(20040805~)ここ

この日記にはタイトルに反し日常が一切ない、頭で書いた(コピペした)文章ばかりじゃないか、つまらん!という声が聞こえてきた。

プロナタル・アンチナタル

11/18に続き、今度は『概念集・10』に、松下昇氏の(性というよりも)出産に関わる文章があったので、掲載します。

id:noharra:20040905で関曠野氏の文章をかなり引用しましたが、この松下の文章は1992年に出版された関氏の文章をきっかけにして書かれたもの。

        プロナタル・アンチナタル

 プロナタルは出産を奨励し、妊娠中絶を否定する主張、アンチナタルは妊娠や出産を女性主導でおこなおうとする主張。関曠野氏によれば、今後の世界情況における最大の対立点になると想定されており(このぺージ右に主要部分を転載する。)、左翼ー右翼の図式を転倒する争点の提起と共に、その指摘はユニークであるが、疑問点を提出すると、

①アンチナタルは一見、正当な根拠をもっているようであるが、この立場にある人、特に女性は、妊娠~出産だけでなく、売春や性的暴行の根源を存在論のレベルで包括しつつ女性の直面してきた困難さを歴史的かつ生理的に提起し、かつ政治機構の改革(例として議会の男女同数議席)のプログラムを提起してほしい。これが徹底的になされるならば、男性主導社会~文明への〈爆弾〉になりうることは確実である。この包括性がない場合には、いかに妊娠~出産とエロスの分離という主張をしても、あらかじめ生理的に分離され、歴史的に立場を補強している男性主導社会~文明を爆破しえないであろう。また、男性主導社会~文明の裏返し的な頽廃を育成してしまう危険もある。

②妊娠~出産だけでなく、異性との出会い~性的交渉における女性主導という場合、その主張の主体は、受胎するまでの関係性と、受胎した場合の生命が軸であり、受胎した女性は補助的な判断主体にしかなりえないことを明確にすべきである。そして、もし、受胎した生命を中絶(抹殺)するとしても、受胎に関わる異性との関係を中絶(抹殺)することが前提である。これは過酷な提起であろうか。胎児や、受胎に関わり得なかった異性は決してそう判断しないであろうし、この判断が優先されなければ、存在の最低限の対等性は維持できないのではないか。

③前記の①~②の論点に交差しない存在(異性に出会う回路~意思を持たない、あるいは子どもを生めないか生まない生理~位置にある人々)にとっての対等なテーマを相互に確認し共同で追求していく関係のレベルにおいてのみ、プロナタルの主張もアンチナタルの主張も、未来情況への意味をもちうるであろう。そして、この共同の追求を阻害する全ての力と対決していく過程は、人間存在の深い根拠を照らし出し再構成するであろう。そのような過程にこそ、この世界に生誕してくる意味や、他者、とりわけ異性に出会う意味に関する論議は生命を持つはずである。新たな図式=プロナタル・アンチナタル論議の限界を超えよ!

註ー胎児の生命を尊重する視点からのプロナタル的な立場に対しては、少くとも死刑制度や軍隊・讐察などの暴力装置の廃絶と共に主張せよ、という反論を対置していくのが原則である。いまプロナタル的な立場にある者も、人口・環境問題の切迫からアンチナタル的な立場へ移行するか利用してくるのは自明であり、その安易さや支配者性をあらかじめ批判しておくためにも。一方、異性との出会い~性的交渉の意味を先験的によいこと、必然の欲求とみなすアンチナタルの立場は、ラディカルな装いをまとっていても信じるに値しない。自らの立場が、もしかしたら最も安易な、遅れた質を内在させているかもしれないと自己対象化しえた後でのみ主張は力を持つであろう。

松下昇『概念集・10』~1994・3~ p19

金文紹介のサイト

http://e-medicine.sumitomopharm.co.jp/e-medicine/komiti/

金文(青銅器などに刻まれた古代中国の漢字)甲骨文などを画像付きで親しみやすく解説しているサイトでとても面白い。

例えば、懼の字。この甲骨文のように鳥が目を左右にくるくる回して天敵の襲来を恐れる形。白川静系。

http://e-medicine.sumitomopharm.co.jp/e-medicine/komiti/kokoro_2/main.html

(提供、住友製薬らしい)

スキャンダラスな女たち

 イスラエル女性たちがヨルダン川西岸地区を勇敢にも行進し、命を落としたパレスティナの男性や女性たちのために黙祷を捧げるとき、ニューヨークのイスラエル女性たちのグループが痛ましくプラカードを掲げて、過去五年間で殺されたパレスティナ人の六ニパーセントが二一歳以下の子供たちであることをわたしたちに思い知らせ、彼女たち/かれらと母親たちのために嘆き悲しむとき、彼女たちは、裏切り者、売女、レズビアンと蔑称される。なぜなら、彼女たちは、人間である彼女たち/かれらのために哀悼することを通じて、敵とされる者たちを想像し得る限りの最悪の野獣として扱うことを拒んでいるからである。

「フェミニストの想像力」ドゥルシラ・コーネルp138現代思想200301月号

 イスラエル国家がパレスチナ民衆を抑圧し殺害しているのであってその逆ではないことについては過去何度も書いたつもりだ。アメリカのユダヤ人にもイスラエル国家の過剰な暴行に心を痛める多くの人たちがいる、それを知ることも大事だ。ただ言いたいことは、「敵とされる人たち」というのとはだいぶ違うが、かって「日本人でも白人でもない」「女性」であるという理由で沈黙に押しこめられていた人々が語り始めたとき、わたしたちは何かの理由を付けてそれを聞こうとしなかった。そこにはやはり(歪んだ?)ナショナリズムが造った境界線があろう。

 今、従軍慰安婦を主題にした「裁判」をめぐる事件が大きな話題になっているが、誰も従軍慰安婦を直視しようとはしていない。非国民と名指されるのを怖れているからであろうか。それとも最も安易な言説を行使する者という汚名を怖れているからであろうか。

「合衆国市民であるラディカルなフェミニストたちはあえて政治的に汚名を被るべきである。*1

 わたしたちは天皇の有罪を求めているのではない。わたしたちは「慰安婦」たちの意を迎えようと思っているわけではない。ただ過去の事実*2にできるだけ素直に接近しようとし、慰安婦たちの主張を聞きその上で、判断しようとしているだけだ。下に掲げるような時効を理由にした門前払いはわたしたちに何も教えてくれない。わたしたちは他者からの申し出に対し対等な者として対応する。裁判官が不当な判決を出せば再審請求するだろう。

 従軍慰安婦を直視しようとしないひとたちに対し、いくらソフィストケイトされた理由を口にしようと、スキャンダルの臨界を越えないという無意識に従っているのではないか、という疑いを野原は持ってしまう。

*1:コーネル、同上p139

*2:日本軍の犯罪的行為の膨大さ

何かの力に言葉を使わされていて、

  チェチェンとかイラクとか憲法とか、そういったものにコミットせよと言いたいのではない。私たちは自分の言葉を発しているつもりでいても、何かの力に言葉を使わされていて、また何を言ってもどこかに回収されてしまう、という情況に置かれていることを強く意識しないまま小説など書いても、それは読み物慰み物にしかならない。

http://www.hoshinot.jp/diary0410.html 星野智幸の日記0410月1日

星野さんという方はすごくシャープですね。思わず引用したくなる。

ビラをまく自由

 投票に行くことより、デモをしたりビラをまいたりする方が有効な政治的行為だと思っている、わたしは。

 去年くらいに駅構内でビラをまいてはいけないという通知がJRの各駅長宛出たという噂をきいた。

 2月24日、東京のある高校前で、ある大学生がビラを配っていたという理由で、その高校長が警察に通報した、という事例があるようだ。

 また次のような噂もある。

  また、式典会場及びその周辺においてビラまきなどがなされた場合には、「住居侵入罪」「道路交通法違反」を活用して警察力を導入せよとの校長宛指導がなされているとの情報もあり、

 道路でビラをまくことについて、警官に嫌がらせをする権利があるかどうか、前から気になっていたので、道路交通法を見てみた。

第76条 

4 何人も、次の各号に掲げる行為は、してはならない。

1.道路において、酒に酔つて交通の妨害となるような程度にふらつくこと。

2.道路において、交通の妨害となるような方法で寝そべり、すわり、しやがみ、又は立ちどまつていること。

3.交通のひんぱんな道路において、球戯をし、ローラー・スケートをし、又はこれらに類する行為をすること。

4.石、ガラスびん、金属片その他道路上の人若しくは車両等を損傷するおそれのある物件を投げ、又は発射すること。

5.前号に掲げるもののほか、道路において進行中の車両等から物件を投げること。

6.道路において進行中の自動車、トロリーバス又は路面電車に飛び乗り、若しくはこれらから飛び降り、又はこれらに外からつかまること。

7.前各号に掲げるもののほか、道路又は交通の状況により、公安委員会が、道路における交通の危険を生じさせ、又は著しく交通の妨害となるおそれがあると認めて定めた行為

 これを見る限り、「道路交通法」ではビラ撒きは禁止されていない。公務員が法的根拠なく市民の政治的自由を制限してはいけない。

もう一つの固有名

だが、ここで突然出現した「心臓」という語。わたしはそれが気になって仕方がない。南条あやの心臓、それはいったいどんなものなのだろう。南条あやの心臓を想起すること、それは許されることなのだろうか。許されるとして、それはどのように想起すべきことなのだろうか。

http://d.hatena.ne.jp/irogami/20050310 materia:materia

おとなり日記4%から唐突に引用。(引用させていただきます)

南条あやとはネットにおけるメンヘラーの中でもアイドル的存在だったが、すでに自殺しているひとらしい。政治的被抑圧者、(の代わりに死んだ)アクティヴィスト、を考える際に必須のサバルタン、といったテーマ系とは無縁の場所で死んでいった女性。わたしにはうまく考えられないのだから引用もすべきではないのだが、わたしに無縁とは言い切れないので引用しておきたい。

 ところで引用先には次のような文もあった。

ついでに言うなら、自分はアドルノやレヴィナスに与して、真に問われるべき問いは、存在の意味への問いではなく、存在者の側に、存在者という他者への問いを否応なく終わりなく呼びかけるものの側にこそあるという考えである。

 レイチェル・コリー、桧森孝雄という二つの固有名は虐殺されたもの、あるいは死を賭けたその代理人である。死んだという衝撃を政治的効果に換算するために、政治的メッセージとしてヘッダに掲げられている(はずだ)。ひとは政治的に死ぬことはできない。全体的存在の果たされていない約束でありながら死ぬことしか可能ではない。最終的に死は臓器の死であるが、臓器を想起する方法もまたわたしたちは持っていない。政治的言説は豊かな現実の錯綜する関係性を平板化するものとして昨今評判が悪い。現実の帝国主義や国家の側がひとを死に追いやっている事実は重視しないのが洗練された生き方のようだ。だが、一つの死は単に政治的ではないより大きな死であったが為に、政治的メッセージにもなる。

難民とアイドル

# hal44 『またちょっと書きました。

http://d.hatena.ne.jp/hal44/20050325

基本的なところでは異議があるわけではありません。

ただ、相互の思想の差異を確認するために少し書いてみます。

では、いかなる状況において、「愛国心」は実現されるのでしょうか?ご存じのように、日本人とは何であるかを規定する他者が、「敵」として現れた場合です。

(野原)

 現在多くのプチウヨとかが口にするのは、被害者としての「横田めぐみ」です。日本人少女めぐみさんが無垢な被害者であり、彼女に対する加害者として「敵」=金正日一派=北朝鮮国家が名指されます。このような排外主義は私にとっても不快なものです。ですがそこで思考停止して良いのでしょうか。このごろ思うのは、めぐみさんというのは「日本人」というより「難民」である、ということです。彼女が失踪してから20年近く、少しは気付きながら日本国(外務省)は、国家と国家のつき合いを重んじて、一人の日本人の運命に深く関わっていこうとはしませんでした。それが数年前から家族会、救う会とかができて、少しづつ世間の注目もあつまり、ようやく現在のような(そういう言葉を使うことが許されるとしたら)国民的アイドルに成ることができたのです。世界中でひどい目にあっている女性たちはたくさん居り、めぐみさんにだけ注目することが正しいわけでは無いのは言うまでもありません。しかしいまでは有名になった「めぐみさん」自身たった2,3年前までは国民的レベルでは誰も知らない、見捨てられた存在であったわけです。めぐみさんを見捨てたまま知らん顔を続けるのが正しいわけではない、と言うことには同意いただけるのではないでしょうか。とすると、次の問題は、「めぐみさんに多くの人の関心を集める方便としてナショナリズムに訴えること」の是非です。これは例えば、韓国人慰安婦某女にできるだけ多くの人の関心を集める方便として韓国人ナショナリズムに訴えること、とパラレルな問題です。

 わたしはこのような方便を肯定すべきだと力説したいわけでは別にないのですが、全く無視すべきだと言うことにもならないと思っています。

またこのブログはいまヘッドに「米国人のレイチェル・コリーさんがイスラエル軍に轢殺されました。」という文を掲げています。パレスチナ人は毎日のように殺されているのに、何故パレスチナ人ではなくたまたま殺されたアメリカ人の名前を掲げるのか、という問題とも関わる問題にもなってきます。

 以上の話は、狭義のナショナリズムには関係ありません。ナショナリズムに類似のアイドル利用の大衆動員方法みたいなことをどう評価するかという問題です。