それより偉大なものが何も考えられない何か

Yさん、毎日暑いですが、だいじょうぶですか?

「それより偉大なものが何も考えられない何か」について、何か書きたいと思います。しかし、難しいので返信が遅れました。

「神はその卓越性のゆえに、いみじくも「無」と呼ばれる。」というエリウゲナの言葉があります。つまり、それはむしろ「語りえないもの」の近くにある。そして、「ある、esse」という言葉も微妙なところがあるようなんですね、じつは。

トマスも神を定義してはいけない、と言っています。

「神はその本質を通してこの世のわれわれには知りえず、ただ被造物を通してのみ認識されるから、従って被造物を通してのみ名付けられる。決してその名が神の本質を表現するような仕方では名付けられない。」

それゆえ、主よ、あなたはそれより偉大なものは考えられないものであるばかりでなく、考えられうるよりも偉大なあるものです。このたぐいの何ものかが存在することは考えられうることですから、もしあなたがこのものでないならば、あなたよりも偉大な何ものかが考えられうることになります。
しかし、これはありえないことです。アンセルムス プロスロギオン15章

あるものBは「考えられうる」よりも大きなあるものだ。このようなものが存在するのは充分あり得る。世界は人間の知より大きいのだから。しかしその場合、B>A(神)とするなら、それはありえない。
したがってBは神であるか、それとも存在しないかだ。(しかし後者についてアンセルムスは言及していない。)
私たちに問われているのはまず、「考えられうるよりも偉大な」と名指される領域に対する感受性です。私たちは「考えられえない」領域について考えないという習慣を持っている。「考えられえない」領域について考えても、意味のある文章はでてこないからだ。しかしその場合の「意味のある」という定義はまた近代的前提に立っているので、アンセルムスを読んだり批判したりするには訳に立たない。
それより大事なことは、「考えられえない」領域について考えないという習慣に無自覚になることで、「考えられえない」領域についてあたかもないかのような錯覚に陥っている危険性が高いということだ。

1、「それより偉大なものが何も考えられない何か」が「もし少なくとも理解のうちにだけでもある」。
2.一般に、何かが人間の理解の内にあるだけではなく、実際に(現実に)存在する方が、より大きいと言える。
3.もしもそのような存在が人間の理解の内にあるだけで、実際に存在しないのであれば、背理法により、おかしなことになる。
3-2だから、「実在としても存在する」ことになる。
4 ところで、「それより偉大なものが何も考えられない何か」とは私たちの神だ。そこで、神は真に存在する。

という感じかな。

2については、「(被造物は)それ自体ではそれ自身の本質を通して存在しているが、私たちの認識のうちでは、それらの本質としてではなく、それらの形似として存在している。それゆえ、創造されたものは、わたしたちの認識のうちに存在するよりもそれ自身のうちにおいてより真に存在する。」、まあこれは被造物についてで、神についてではないですが。
認識のうちのウサギより、実際に生きているウサギの方が、ウサギの本質を、多く持っているみたいな話ですね。

「概念+実在」と言ってしまうと、おかしな感じがするのはもちろんですが、そこらへんを解きほぐすのはなかなか困難です。

まとまりませんが、とりあえずの応答まで。

ちなみに、アンセルムスを勝手に敷衍した文章を添付します。

ここで、それより偉大なものが何も考えられない何か、とは何だろうか? 神という言葉はこの文章で一箇所、愚か者の言葉の中にしか出てこない。したがってここで言われているのは、社会的歴史的にあり続けたキリスト教の神とは別のものだと解釈する。わたしたちが信じ、そして愚か者たちが信じないものとは、例えば〈希望〉である。わたしたちの一年分の人生がたかだか数百〜千万の金銭と等価であるかのような等式を信じるふりをすることでこの社会はなりたっている。アンセルムスが「信じています」とそれだけを語っているのに対し、私たちは「信じないこと」を資本主義から強制されているのだ。であるがゆえにわたしたちは、自らを見失い脱出を夢見ている。そのときわたしたちはアンセルムスが信じていたことを知る。その〈希望〉は理解することができる。理解したことは、たとえそれが存在することを理解したのでないとしても、私の理解の内にある。〈希望〉とはあなたと私の魂の関係の再編に他ならない。そうであるところの〈希望〉は理解することができることにより、徐々に実在としても存在することになる。

『プロスロギオン』はスコラ哲学の父と言われるアンセルムス(1033年-1109年)の著作。西欧哲学とはこの神の存在の形而上学の脱色化の歴史だとも考えられる。野原はここで脱色化ではなく、それを横跳することを考えた。(野原燐 2016.4.8)

哲学を包囲する

ところで話は変わりますが、西欧哲学の読書会をしようと思っています。
下記のように全12回とします。(いかにも平凡なラインアップっぽい?)
西欧哲学を学ぶというのではなく、わたしたちを支配している常識のなかに埋め込まれている西欧哲学から自由になるために、といった趣旨です。

タイトルは「哲学を包囲する」です。
全12回で、西欧哲学の骨格/輪郭の偏差を、各自がそれぞれ自分なりに体感することを目的とします。

最初は12冊 こんな感じで選びました。
1,ソクラテス以前 >プラトン 
2,プラトン >アリストテレス
3,アリストテレス >スコラ哲学
4,キリスト教 >マイスター・エックハルト 
5,デカルト >スピノザ(9/29、10/18)
6,スピノザ >ライプニッツ (11/24)
7,カント >ロック (1/26)
8,ヘーゲル >カント (2/23)
9,マルクス >ヘーゲル (3/23) 
10,ニーチェ
11,キルケゴール
12,ハイデガー
( > の後ろは実際に行ったもの)

続いて、東洋篇
1,論語
2,墨子
3,孟子
4,荀子
5,荘子
6,朱子
7,王陽明
8,藤原惺窩
9,山崎闇斎
10,伊藤仁斎
11,荻生徂徠
12,新儒家

いかにもお勉強しますという感じのリストになっている。ほんとうの趣旨は、私が死んでいくにあたって、知的世界(書物)との自分なりの関係を再確認しておきたい、という極私的なものです。

Sくんへの手紙

Sさま

昨日は、わざわざ走って帽子を届けてくれてありがとう。
と昨日手紙を書き始めましたが、書き続けられず、2日後になってしまいました。

いま現在窮状にあるあなたがたにとって、問題解決していけるように、という問題意識をもって、Tさんの6/20付け「声明」「経過報告」「要求」を読んでみます。
(K.Eさんが送ってくれたものです。苦労してfacebook偽名でアカウント作成しましたが、この「声明」にまで辿り着かず。)

といっても、私の基本的視線は「批判的」なものかもしれないです。わたしたちが自分の常識と信じているものは絶対的なものではなく、別の形でもありうるはずだと私は信じています。
わたしたちを縛っている常識の最大のものは、いうまでもなく「仕事をし賃金を得なければならない」というものです。そのような常識を拒否しようとする試みとして、〈弁当屋〉の活動がありました。

弁当屋の人的構成を、次のようにまとめることができます。
α.運動をリードしてきた、F(H氏を含めるかどうか議論がある)の思想
β.弁当作り、店員の作業をになってきた、6人(くらい)(お祖母様、Aちゃんを含む)の熱意
γ.周辺の若者の手伝い+K.E、近隣住民某ほかの大きな興味 (オーナー、や地域住民の好意、客がついたこと)

「紛争」のきっかけは、H氏が書いた「HとFがゆかいななかまと作りかけているちいさな食堂のプロジェクト」というフレーズでした。
「HとFとゆかいななかまたち」とは「言い換えればF・Hがいなければ何もできないような構造のコミュニティへと前進してしまう事になる。」と言って、F氏は自己批判しました。しかしそれは無理やり書かされたものだとして、また彼は撤回することになります。
しかし一旦は彼は「今後、共同体の自由と豊かさの発展のためには、上記のような認識に基づき、これまで個人の名前や力をよりどころにしている、自分たちの考え方を反省し、行動を改めなくてはならない。」と書いたわけです。これはひるがえって考えるならば、「今後、共同体の自由と豊かさの発展のためには,自分の使用者としての甘えを反省し行動を改めなくてはならない。」とも読み替えることができるはずの文章ではないのでしょうか?

共同体の対等な構成メンバーの一員として共同体を支える、という権利と義務と誇りがそこにあったはずです。それに反する事態が起こった時、その理想の高さに立って倫理的に他のメンバーを糾弾するといった姿勢を支える根拠は、そのような理想の高さから来る以外に考えられないからです。

この「理想の高さに立って倫理的に他のメンバーを糾弾する」というスタイルが、連合赤軍的なものだという指摘が、K.Eさんからあったわけです。(私も基本的には同意します。)
しかし、私のあなたがたへの批判は、むしろこの「理想の高さ」といったものをあなたがたが維持し続けなかったことにあります。

最初の段階で、早くも「技術的な人々がより豊かに生きるために共有や贈与、社会関係を基盤とする組織、(もう少し広い意味で捉えるならば)関係のネットワークを含めた集団を指す」と言いながら、「観念や理想のレベルで存在しうるものではなく、あくまで」という分かりにくい保留を付けている。「彼らは、無償労働によるコミューン形成という理想に、疑問や留保があったとしてもやはり自分の決断として賭けたのだという事実を、無いものにしようとしている」と私は批判しました。

6月10日付けの要求では、
A「事業は「共同体」という宣伝で人を集めながらも運営実態は、藤野氏の指揮監督の下、メンバーに住み込みで労働に従事させるものであった。実質的に労使関係にありながら、名目的には共同体のメンバーということで無給で労働搾取が行われた。」と事実認定が行われている。
「共同体」というのは宣伝でしかなく、じぶんたちは使用者である藤野に搾取された哀れな労働者だった、というわけです。ここには、私が確認しようとした〈権利と義務と誇り〉が一切ありません。

B「20万以上の余剰が派生するとして、相当な使途不明金があると思われる。どのような用途で共同体資金を使ったのかも含め、全容を明らかにすることを求める。」
Aでは、自己を使用者によって搾取された労働者と位置づけながら、ここでは利益は共同体資金だったとされる。じぶんたちが、Fによって使用されていたのか?共同体の為に働いていたのか?を、まずはっきりさせるべきでしょう。

どうして、こんなことになってしまったのでしょうか?
それは、わたしたち(というより西欧社会)が二百年かかって洗練させてきた交渉などのスタイル「労使交渉」の枠組みに、あなたがたが乗ってしまった点にあると思います。

出発点は共同体の対等な一員を目指したものであったはず、つまり自他の交換可能性であったはずなのに、それが、自他の非和解性、敵対性の持続拡大によって解決を求めるというスタイルに変わってしまったのです。
これは、敵=資本家は強大ではあるが、社会的名誉も企業活動継続による日々の利益もまた大きく、ストライキによって後者が損なわれることを嫌がるという理由で、解決がもたらされるものです。しかしながら、今回の敵=ふじのについては、強大でもなく金もなく、社会的名誉さほどなく、企業活動継続による日々の利益もまた小さい、といったのが実情でした。したがって解決がもたらされる可能性はないわけです。

以上が、とりあえず私が言いたいことです。

具体的には、あなたがたが何かを得ようとするなら、次のように考えた方が良いのではないか?
「F氏には当事者の納得のない限り引き続き中津での全活動の停止を求めていく」といった恫喝的語法を止めた方が良い。
逆に、「「一定の合意」さえ獲得すれば、H・Fが中津で安心して活動継続することを(いやいやでも)承認していきます」、と宣言した上で、「一定の合意」を勝ち取るべきだと思う。

2016.6.25 野原燐
noharra あっとまーく 666999.info に返信もらえれば嬉しいです。

参考:
とても残念なこと

訴状

訴状
原告 野原燐
被告 兵庫県
損害賠償事件
請求の趣旨
1,週3日(一日7時間15分)の勤務形態を認めず、
週4日(一日6時間)の勤務形態に就かせたことを、期待権に反した、不利益変更であることを確認する。
2,右記不利益変更にともなう、実際の拘束時間増にかかる経費 (金 円)の金員を支払え。
3,訴訟費用は被告の負担とする。
との判決を求める。

請求の理由
1,私は1975年22歳で兵庫県に就職して以来、38年間(2013年2月末まで)兵庫県職員として勤務してきました。定年後はいままでの週5日に代わり週3日で勤務する制度が長い間あったため、その制度を利用して、雇用延長してもらうつもりでした。ところが、2013年4月からの兵庫県による「被災地支援任期付職員」の募集がありそれに応募、合格したため、2013年4月から2014年3月まで東北大震災被災地(宮城県塩竈市)において市役所職員として勤務しました。2014年4月からは退職職員の「再任用制度」で雇用して貰えるとの内諾は東北に行く前に得ていました。「被災地支援任期付職員」においても雇用者は兵庫県、窓口は人事課であり、「再任用」と同じです。塩竈市にいた時に「再任用の申込書」を提出しました。2013年4月からの「再任用」においては存した「週3日(一日7時間15分)の勤務形態」が、用紙ではなくなっており、「週4日(一日6時間)」を選択するようになっていましたが、様式を二重線で消して週3日(一日7時間15分)と書き入れて採用希望しました。しかし塩竈市役所に兵庫県(復興支援課)から電話があり、「週4日(一日6時間)」しかだめだからそう直しておくと強く言われ、再検討を願いましたが、ダメと言われたので、しかたなく「週4日(一日6時間)」を受け入れ、2014年4月から再任用として働き始めました。4月1日から勤務開始で、当日兵庫県職員労働組合に再加入し、当日所長との断交を分会長(池上氏)とともに行ないました。しかし所長からはその要求には答えられないと回答がありました。
2014年年末にも申込書を、「週3日(一日7時間15分)」と書いて提出したところ、人事課から電話があり「週4日(一日6時間)」と書き直し申込書を再提出するように指示があり、しかたなく従いました。その結果2015年4月からの1年間雇用週4日(一日6時間)が決まりました。

2,以上のようにこの2年間、契約に従い週4日(一日6時間)で勤務してきました。しかしその契約において私の意志(希望)が週3日(一日7時間15分)であり週4日(一日6時間)でないことは明らかであり、雇用者(兵庫県人事課)もまたそれを知っていたものです。したがって、これは「心裡留保」の法理により無効なものです。

3,したがって、3日勤務を4日勤務に不利益偏向したことによる、拘束時間の増加(通勤時間1時間半×2、および昼休み1時間、計4時間)に相当する金員を支払え。

4,政府が平成19年に定めた「仕事と生活の調和(ワーク・ライフ・バランス)憲章」には次のような文章があります。「働き方や生き方に関するこれまでの考え方や制度の改革に挑戦し、個々人の生き方や子育て期、中高年期といった人生の各段階に応じて多様な働き方の選択を可能とする仕事と生活の調和を実現しなければならない。」
現在、60歳ないし65歳で定年(あるいは雇用延長の終了)を迎えそれ以後は労働しないといった生き方が主流であるようです。しかしこれからの高齢化社会においては、報酬を貰える貰えないに関わらず、定年後も働く、学ぶ、教える、介護する、家事する、農業するなどの社会的活動を積極的に行って行くべきと、憲章は考えていると読み取れます。週のうち3日しか雇用しないことは、労働を中心とする世界観においてはマイナスであり、(賃金さえ貰えれば)4日も5日も働きたいという方が多かったでしょう。しかしワークライフバランスを重視する社会に変化させて未来を開いて行くためには、週のうち2日(週休日と合わせて4日)を上記のような現役時代の延長の労働以外の営みに積極的に費やしていくことが必要とされていると思います。
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以上、訴状VER1.0 です。差し替え予定。

Hello world!

1,12/27 はてな「弯曲していく日常」の最初の1/3をインポート。
ところで、編集した文章を確定するボタンがわからない。ああ「更新」か。

バカ親のバカ息子

今日は8月31日です。今頃うちの息子は二人机に向かって真剣に何かしています。・・・

ところで、31日って thirty-first でいいのか、11日はeleventhだよね、英語は難しい。

細菌兵器開発のため人体実験を繰り返した旧関東軍防疫給水部

731部隊長名のノート発見 元側近宅から2冊

2005年08月04日07時08分

 細菌兵器開発のため人体実験を繰り返したとされる旧関東軍防疫給水部(731部隊)の部隊長・石井四郎軍医中将の署名が表紙に記された未公開ノート2冊が、側近だった夫妻の自宅から見つかった。石井氏は戦後、連合国軍総司令部(GHQ)に資料を提供し、戦犯の訴追を免れたが、これまで本人の手記は見つかっていない。直筆ノートならば、GHQにも明かさなかった終戦後の足跡や内面を記した貴重な一次史料ということになる。

 A5判の大学ノート。表紙に鉛筆で「1945―8―16終戦当時メモ」「終戦メモ1946―1―11 石井四郎」と記され、終戦直後に書き留めた備忘録とみられる。在米ジャーナリストの青木冨貴子さん(57)が東京都内の元側近宅でノートのことを知った。

 元側近の妻によると、石井氏は戦後まもなくこの元側近宅を訪れ「アメリカ人が来て没収すると困るから」とノートを預け、59年の死去まで返還を求めなかったという。

 青木さんは米国立公文書館の文書をもとにノートを分析し、「ごく少数の関係者しか知らない部隊幹部の住所など、本人でないと知り得ない事実が書いてある」ことから直筆ノートと判断。石井氏が部隊を創設し、戦後に訴追を免れるまでの経緯を5日発売の著書「731」(新潮社)にまとめた。

 ノートは略語や隠語を多用した断片的なメモの羅列のため、青木さんは当時の史料とつき合わせて解読を試みた。

 ■「1945」メモ

 記述は敗戦翌日から始まる。ソ連が対日参戦し、8月9日に旧満州に侵攻すると、石井氏は東京から駆けつけた司令官に、一切の証拠物件を雲散霧消させるよう命令を受けた。ノートには〈新京(現長春)に軍司令官当地訪問/徹底的爆破焼却、且、徹底防諜を決定す〉と記されている。

 しかし石井氏らは大量の病理標本や浄水機などの機械類、ワクチンなどを持ち帰った。ノートには〈抽出持込〉〈搬出積込〉と記され、命令を受けた直後から資料を持ち出す作業に取りかかったことになる。

 石井氏の帰国経路をうかがわせる記述もある。8月16日、〈新京 停車場貴賓室に徹夜〉。そこから釜山に到着し、貨物船を手配。〈26/8 医務局〉とあり、8月下旬に東京に戻り、26日に陸軍省医務局を訪れたようだ。

 ■「1946」メモ

 石井氏が自宅蟄居(ちっきょ)中に書いたとみられる。

 〈連合国20/11招待時の買出し一覧表〉と記され、GHQ詰めの米国人将校の名前がある。青木さんは「石井が45年11月20日に将校6人を自宅に招き会食したと考えればつじつまが合う」と語る。

 会食時の米軍将校らの会話の内容とみられる個所もある。〈ミスター・イシイを知っているか まだ満州にいて帰らぬ〉などとある。「GHQの一握りの幹部は45年秋から石井の所在を知っており、会食にまで応じながら、尋問のため石井を探し回っていたGHQの調査担当者には隠していたのではないか」と青木さんは推測する。

http://www.asahi.com/national/update/0804/TKY200508030366.html?ref=toolbar2

asahi.com: 731部隊長名のノート発見 元側近宅から2冊 – 社会

関連資料なのでここにコピペしておきます。

解答(7/20)

金貨を40,00,01,02,03、10,11,12,13,20,21,22,23  とする。

(a-1)10位4つと20位4つを比べ、前者が軽いとする。

(b)00位他5つと、10,11,20,21,22を比べる。

後者が重かったら、20と21を比べ重い方が偽。イコールなら22が偽。

後者が軽かったら、10と11を比べ軽い方が偽。

   イコールなら、12+23と例えば00+01を比べる。

      前者が軽かったら、12が偽。

      前者が重かったら、23が偽。

      イコールなら、13が偽。(軽い)

(a-2)10位4つと20位4つを比べ、イコールの場合。(8つは正)

b)00+01と02+10(例えば)を比べる。

   イコールなら03と10を比べる。

      イコールなら40が偽。そうでないなら03が偽。

   前者が軽いとき、00+02と例えば10+11を比べる。

      前者が軽ければ、00が偽、軽。

      前者が重ければ、02が偽、重。

      イコールなら、01が偽、軽。

(以上)あっているかな?

 神と人とが入れ替わる

サイパンで神と人とが入れ替わる

  吉田茂松

朝日川柳 6/30より。

天皇の人間宣言のことを言っている。なぜ人間宣言が出てくるかというと、日本はただの戦争をしていたわけではない。日本は神国であるという絶対にゆるがせに出来ぬイデオロギーがあり、従って降伏や投降はありえないという強固な建前があった。民間人がなぜ大量に死ななければならなかったのかといえば、神=天皇に背くことである投降はあってはならないことだとされたからである。死者の時間は動かない。したがって、彼らは、神の前で崖から飛び降りた、その少し後の姿で凍り付いたまま戦後60年間を過ごしたのだ、と考えられる。いま天皇が彼らの前に立つことにより彼らの凍り付いた時間はようやく少しづつ動き出すことができよう。だがいま彼らは天皇に何を言いたいだろう・・・