わが岡のオカミ

103 わが里に大雪降れり 大原の古りにし里に落らまくは後

天武天皇

104 わが岡のおかみに言ひて落らしめし 雪の摧(クダ)けし 其処に散りけむ

藤原五百重娘

万葉集です。

天武が 大雪が降ったぞ!と自慢すると、藤原の夫人はまたうちの岡の雨龍に降らせた雪がそこまで散っていったのでしょう、と子どものように言い返すという歌、折口によれば。

人間とは

人間とは繕(つくろ)う動物である。*1

             (エリザベス・スペルマン)

*1:「繕いのフェミニズムへ」岡野八代 p87現代思想9月号isbn:4791711408

克己復礼

克己復礼というのは儒学では特に重んじられたスローガンらしい。

克己復禮爲仁。一日克己復禮。天下歸仁焉。

http://kanbun.info/keibu/rongo12.html 論語・顏淵第十二(Web漢文大系)

顔淵(がんえん)、仁を問う。子曰く、おのれに克(か)ち、礼に復(か)えるを仁となす。一日、おのれに克(か)ちて礼に復(か)えらば、天下仁に帰(き)せん。(同上)

(内に)わが身をつつしんで(外は)礼(の規範)にたちもどるのが仁ということだ。一日でも身をつつしんで礼にたちもどれば、世界中が仁になつくようになる。(金谷治訳 岩波文庫p225)

ところで素直に読むとこれはかなりおかしい。わたしが身をいかに慎んだところで、天下に直ちに影響を与えるような大物である筈がない。つまり、「克己復禮」とは本来、王に求められる徳であるわけである。最高権力者は当然権力を自分の思うままに使いたくなるが、それを絶対制御しないといけない!という教えである。

上の孟子にある、人民の状態は君主の徳の関数であるといった思想がここにも読みとれる。つまり儒教は本来、王あるいは宰相クラスの人に徳を求めるものであった。それが士大夫に広がり、ついには「国民全体」に一律に期待されるに至った。だからといって、上のいうことには従えといった奴隷道徳と解釈される余地はない。*1

 ところで、10月15日から梅田で子安宣邦先生の新講座「荻生徂徠・弁名を読む」が始まりました。徂徠講義の後の時間に、子安先生は「克己復禮」について詳細に話してくださいました。ここに書いたことは、そのとき聞いたことの一部です。「克己復礼」というたった四字が、それぞれの時代のそれぞれの論者によってさまざまな表情をみせるのには驚きます。

この文章はわたしのオリジナルではまったくない。がしかし子安氏の講義の紹介でもない、わたしなりの切り取り方をしたものです。

(10/16追加)

*1:愛国心や日の丸が好きな人は、奴隷道徳が好きな人であるように私には思える。

祓え給え、清め給え

神道というものは

ただ、祓え給え、清め給え、といえばよい。

というものなのだろうか。山田孝雄は「それに相違ないのである」と言っているようだ。(同書p98)

日本書紀の中の今申したように、腹がへってたまらぬという御心が凝って客観化して食物の神さまになる。禍津日神も穢を憎んで、それを去らなければ禍を下されるが、それは善人に禍を下す神さまではない。穢れを承知しない神様である。穢れがなくなればそれでいいという神様である。

欠如=ある徳への希求が凝って<神>になる。いま自己を圧迫してくる悪に対し、ひたすら「祓え給え、清め給え」と祈る、そうすると穢を憎む神が悪人に禍を与えてくれる。ということだろうか。

しかしそれには可能の原理がなければならぬ。その祓いの可能の原理がこの荒魂の活動にやどる。それが私の見た所に於いての平田先生の神道の神髄である。

「神が悪人に禍を与えてくれる」とまでは篤胤も孝雄も言っていないだろう。ただそういう方向の可能性はあるくらいか。

確かにAという人間を捉えて悪人であると規定することは、人間存在の広大さに対し人知でもってさかしらに規定することになり、出来ないことだと宣長はいうだろう。

本居先生の神道の考え方は要するに善悪二元論である。禍津日神となおびの神が両立しておいでになる。さうして(略)禍福は糾える縄の如しいうような説明をして居られるのである。(同書p85)

でもってこれを救済しようとするこの頃の*1日本主義者は、ヘーゲルをもってこれを解釈する、と。

それに対し篤胤は、二元論ではなく、一元論になる。

悪は祓いうる。つまり悪は本質的な物でないから祓いうるのだ。したがって神道は一元論でなければならない、と。なるほど。

ところでこの『平田篤胤』という本は、字が大きく百頁ほどでしかも内容が極めて平易である。面白い本だと思った。昭和17年という出版時点でこの表題ではひょっとして無茶苦茶国粋主義的なのではと思ったがそうしたところはなくとてもほのぼのした感じ。

「平田先生の一番力を籠め、殆ど命を打ち込んでやられた一番重要な点」が現在全く理解されていない、となげきながらも!

*1:S17年頃

直ちに其の神に成る

えっと折口を読もうとしていたのに宣長まで出してきたので話が別の方向へ転回しわけがわからなくなってきたぞ。

我が国には古く、言霊の信仰があるが、(略)

それよりも前に、祝詞には、其の言語を最初に発した、神の力が宿っていて、その言葉を唱える人は直ちに其の神に成る、という信仰のあったために、祝詞が神聖視されたのである。そして後世には、其事が忘れられて了うた為に、祝詞には言霊が潜在する、と思うに至ったのである。

だから、言霊という語の解釈も、比較的に新しい時代の用語例に、あてはまるに過ぎないものだ、と言わねばならぬ。

(p165 折口信夫「神道に現れた民族論理」『全集3巻』)

 たかだか8世紀前半にまでしか遡れない古事記の言語をもって「古の(こころ)=事(こと)=言」がそこにある、とする宣長の方法論には明らかに無理がある。当然、「それよりも前」の時代の人々は違う論理で生きていたはずだからである。

 神がもっと身近にいた太古を折口は自身に近づける。「直ちに其の神に成るという信仰」云々と折口は言うのだが、それは畢竟彼の詩的直感による構成物ではないのか。であれば凡人にはなかなか近づけなくとも当然か、という感想が起こる。

 どうも話が全然まとまらないのですが、少し分かってきた。

<古(いにしえ)>を読む、再現前させる二つの方法があると。

一つは、昔からの一定の伝統的な解釈にそのまま乗っかって「すらすらと平気に」語る方法。

もう一つは、宣長、折口それぞれやり方は違うが、常人離れした努力の果てにどこかで神懸かり的に、いまここに直接<古(いにしえ)>が降りてくるというパフォーマンスを行うこと。

この二つの異質な物をむりやり同一化したものが「靖国」的な、日本=日本の同一律であり、それは最強であり最悪だ、と。

神さま、助けてください。

結城浩さん という方が次のように書いて居られる。

(まあ信仰者ならだれでもこんなふうに、言うものなのかもしれないのですが。)

<祈り>というのは生活のなかにだけあり、自分の心や身体から降りてゆくことが価値でありその逆ではない、というのは興味深い。

自我を捨てること=共同幻想に己を捧げること、と捉えて否定するのが戦後の常識だった。だが本来、祈ることは自我を捨てることではあっても、共同幻想に己を捧げることではない。

ところで神が居なくとも、わたしたちは<祈り>を学ぶべきなのか?そうかもしれない、と私は思う。

http://www.hyuki.com/dig/prog.html

プログラミングを身につけるには / 生きた信仰の第一歩

聖書も同じだ。

いろんな聖書の解説書や聖書に関する本が売っている。

教会でも牧師さんが聖書の講解説教をやってくださる。

けれどもそれだけではだめだ。

自分で聖書を読み、自分でよく理解し、自分の口で祈り、

自分自身の生活の中に適用していかなくては、

聖書は身につかない。

自分で適用しようとしてみなければ、

聖書の厳しさも、神さまの愛も本当にはわからない。

自分の心の中の深いところは他の人にはわからない。

自分の心の奥深いところ、

誰にも見せず、誰にも開いていない扉を開くのは

その人本人にしかできない。

 祈り方もわからず、聖書も読んでいませんが、

 自分が自分の力ではもうだめだということはわかります。

 神さま、助けてください。神さま、ゆるしてください。

 イエスさま、どうぞ私の心に、今、来てください。(同上)

生命

長谷川訳のヘーゲルをちょっと引用してみよう。

まわりの生命界から栄養を奪いとって自己を保存し、自己統一の感情に浸る個体は、この行為によって、自分の自立の根拠たる他との対立を克服する。自己統一を自覚することが、まさしく、他との区別を流動化することであり、形態が一般的に解体することである。が、個の自存状態の破棄されることが、逆にそれがうみだされることでもある。というのも、個の形態の本質たる生命界の全体と、自立した生命体とは、もともと単一の存在であって、生命体が自分とは別のものをとりこめぱ、この単一の本質が破れて分裂が生じるのだが、こうして、無差別の流動状態に分裂の生じることが、まさに、個が形成されることにほかならないのだから。このように、単一の生命界は、分裂してさまざまな形態をうみだし、と同時に、自存する区別を解体していく。分裂の解消がさらなる分裂と分化なのだ。運動全体のうちに区別される二つの側面--自立した共通の媒体のうちに静止して共存する形態と、生命の過程--がたがいに浸透しあっていて、過程が形をなすとともに形をこわしていき、形は形で、こわれたかと思うとまたできあがっていく。流動する場というとらえかたは生命の本質を抽象化したもので、形をなすときはじめて生命は現実の生命となる。そして、それが部分にわかれるということは、部分がさらに分裂することであり、部分の解体にほかならない。まさにこうした循環過程の全体が生命をなすのである。*1

例えば、我々自身も生物の自立した一個体でありながら、他の生物を食べることつまり、<生命界>との連続性を確認することによってしか生き延びられない。生命界は絶えざる分裂と分化でありまたそれと同時に、「生命の本質は、すべての区別を克服していく無限の、純粋な回転運動--静止しつつたえまなく変化する無限の運動--」でもある。生命界における多様な力の葛藤が総体としてある均衡において一つの世界として語りうるものになる、という思想は儒学的だ。儒学においては生命界におけるエコロジー的絶妙なバランスがむしろ人間社会の理想モデルになる。<生命>はヘーゲルにおいては体系の最初の方に出てきて、つぎに出てくる<自己意識>によってあっさり否定される。この二つのカテゴリーは王陽明の「心即理」に似ている(もちろん「理=生命」「心=自己意識」)が、王陽明にとって「理」が最終のカテゴリーとしての権威を失うことはなく、唯一の我が心はなるほど全肯定されるのだが聖人のそれと同一として理の側に引きつけられた上で肯定されるにすぎなかった。前項「食欲」で書いたように日常生活のなかの些細だけれどえげつないと言えば言える否定性みたいなところに執着するというのは哲学者ヘーゲルの偉大なところだ。

*1:p125『精神現象学』長谷川宏訳作品社(isbn4-87893-294-5)

「*p4*醜悪な、そして血塗られた何か」初稿

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20061220#p4

「*p4*醜悪な、そして血塗られた何か」初稿

1 アメリカは約束しましたか?

約束しました。

われわれは以下のことを行う

* 人間の尊厳という妥協の余地のない要求の侵害に対しては、国際機関における発言権と投票権を行使して率直に発言し、自由を促進する。

* 自由を促進し、自由を求めて非暴力的に闘う人々を支援するために我々の対外援助を用いる。そして、民主主義の実現に向かおうとする国家は、その段階に応じて報われることを保証する。

* 二国間関係においては、自由と民主的機構の発展を主要なテーマとする。人間の権利を否定するような政府に対し、よりよい未来へ向けて変革するように圧力を加え、同時に、他の民主主義国家からの連帯と協力を求める。

* 宗教と良心の自由を促進し、抑圧的な政府による侵害からその自由を守るために、特に努力をする

われわれは、人間の尊厳という大義を擁護し、これに敵対するものに対抗する。

http://www.itoh.org/kagurazaka/bushdoc/bush2.html

ブッシュドクトリンII

2 イラクの情況はどうですか?

とてもひどいです。

この数十年、イラクの状況が今ほど悪いことはなかった。占領は失敗だ。親米、親イランのイラク政府はどれもこれも失敗した。新しいイラク軍は救いがたい冗談となっている。2006年11月5日 日曜日

http://www.geocities.jp/riverbendblog/

Baghdad Burning

 アルジャジーラが入手した新たな調査情報によると、イラク国民の90%以上が今のイラクは2003年の開戦前より悪くなったと確信している。

http://geocities.yahoo.co.jp/gl/uruknewsjapan2006/view/20061215/1166188887

3 米軍が撤退するなら暴力・武力事件は減るでしょうか?

おそらく減るでしょう。

 イラク国民を対象にした調査では、回答者のほぼ66%が、もし米軍が撤退するなら暴力・武力事件は減ると考えていた。

 38%は、マリキ首相にイラクの現状を改善する能力を「信じない」と回答し、ほぼ90%が政府の約束と実行力はひじょうにお粗末だと述べた。

 政府系の治安部隊では国をコントロールできないと感じている者は36・5%に昇った。

http://geocities.yahoo.co.jp/gl/uruknewsjapan2006/view/20061215/1166188887

4 米軍は虐殺しましたか?

虐殺はあったと思われます。

 昨年11月、アメリカの海兵隊によるハディッサ攻撃で家族7人が殺された。生き延びた家族の1人イマン・ワリドさん(10歳の少女)がビデオで証言する。

http://geocities.yahoo.co.jp/gl/uruknewsjapan2006/view/20061223/1166840373

Yahoo!ジオシティーズ – <イラク情勢ニュース URUK NEWS> 速報&コメント 2006.10~

 ロイター通信(12月8日、ティクリート発)によると、イラク警察と地元住民は子ども6人、女性8人を含む32人の市民が8日の米軍空襲で殺害された。だが米軍は、女性2人を含むアルカイダ戦士20人を殺害したと発表し、子どもの死亡については否定した。 Iraqis say US raid killed 32, including 6 children

http://geocities.yahoo.co.jp/gl/uruknewsjapan2006/comment/20061209/1165640397

Yahoo!ジオシティーズ – <イラク情勢ニュース URUK NEWS> 速報&コメント 2006.10~

5 米軍増派に効果はあるか?

ないと思われます。

 だが米軍が過去にアンバル州で実行した掃討作戦の経験では、掃討作戦によって一時的にその場所ではレジスタンスの姿が消えても、米軍の大部隊が去るとまた戻って来るという繰り返しであり、掃討作戦の効果を疑う現実論も軍内部に強くある。そのうえ、米軍全体の兵力にその余力はもはやないとみる司令官もいる。

 ベーカー委員会でも勧告をまとめる過程でこの「増強後に撤退」を選択肢として検討したが、結局は同じような議論を繰り返したのち選択肢から排除された。浮上しては消え、消えてはまた再浮上する背景には、それでも何らかの軍事的対策が必要であるという米軍上層部とイラク戦争・侵略を強硬に主張したタカ派勢力のアセリが見え隠れしている。それはまさしく、ブッシュ政権が軍事的攻勢もとれず、かといって駐留米軍の大規模な削減もできないまま現地情勢を泥沼化させてきた過程と重なる。

http://www.geocities.jp/tomesannew/uruknews-shiro_yamamoto_1217-2006.html

第12回 2006年12月17日

6 米軍はイラクを安定化できるか?

できないと思われます。

他方、CBSのテレビ番組に登場したパウエル元国務長官は17日、イラクにおいてアメリカは敗北しつつあり、米軍の増強では情勢は転換できないと述べた。そして来年2007年半ばまでに米軍撤退を開始すべきだと主張した。 Powell Says U.S. Losing in Iraq, Calls for Drawdown by Mid-2007

 彼はさらに、バグダッドを安定させるため夏に米軍を増強したが失敗しており、これ以上はどんな試みも成功しそうにない、と述べた。「もし誰かが追加派兵を提案ししたとして、仮に私がまだ統合参謀本部議長だったら、私が最初に質問するのはこうだ・・・その部隊が達成すべき任務は何なのか? それは本当に達成できるのか? そしてそれを達成するのに十分な兵力がわが国にあるのか?」。

 彼は軍に関わった自分の経験から判断して、陸軍が既に破綻寸前にあると指摘し、イラク以外でも陸軍と海兵隊を増やさなければならないと説明した。

http://geocities.yahoo.co.jp/gl/uruknewsjapan2006/view/20061219/1166508021

Yahoo!ジオシティーズ – <イラク情勢ニュース URUK NEWS> 速報&コメント 2006.10~

7 なぜ暗殺が続いているのか?

内紛をかき立てているのはイスラエルなのかもしれない。イラクが永遠に不安定で有り続けることはイスラエルの利益であろうから。

断定はできない。

 暗殺チームの目的は、イラクの潜在的な指導者を抹殺することにあり、米軍が去るとき、そしてイスラエルが傀儡勢力を築くとき、レジスタンスを根こそぎにしておくことにある。アメリカはスンニ派を権力から追放し、警察を指揮する内務省をシーア派に担当させた。彼らはスンニ派の寺院を爆破してはシーア派のせいにし、そして今度はシーア派の警察署を自動車爆弾で襲う。双方が互いに非難しあうようになれば、それが基盤となって内戦が近づく。

 そして内務省の本当の指揮権は(イスラエルの)モサドにあり、その主要な上層部はイスラエルとその傭兵に握られている。

http://geocities.yahoo.co.jp/gl/uruknewsjapan/view/20060929/1159538505

Yahoo!ジオシティーズ – <イラク情勢ニュース URUK NEWS> 速報&コメント 2006年2~9月

8 アメリカはなぜ撤退しないのですか?

なんら影響力も権益も残さない撤退をアメリカがしたくないからです。

 他方、アメリカがレジスタンス組織と接触・交渉を持とうとしていることは事実であるが、これまでのところ主要なレジスタンス組織の対応は一貫している(※)。それは交渉を拒否しないが、交渉の前提として米軍が無条件かつ全面的にイラクから撤退をすること、レジスタンスを前政権を継承するものとして正統性を認めこと等である。

 この場合、アメリカは撤退後のイラクになんら影響力も権益も保持できないことは明らか。つまり、いずれにしても米軍が追いだされないかぎり、アメリカの模索する撤退戦略はイラクへの権益確保の策略でしかありえず、イラク国民が満足できるものではない。

http://www.geocities.jp/tomesannew/uruknews_Shiro_Yamamoto.html

解放のゆくえ--イラクは今

9 レジスタンスは勝利しつつあるのですか?

そういう見方もあります。

防御段階の側面から見るとさらにこの傾向ははっきりしていて、ファルージャとナジャフの戦いは典型的な住民による都市防衛戦として行われたことです。

この戦いの意義はゲリラ戦士と住民の結合した抵抗が、大兵力を擁する米軍に十分対抗しうることを証明し、占領軍はこのふたつの攻勢によって一気に抵抗を鎮圧し、イラク人民を屈服させると言う目的に失敗したことです。

さらに占領軍にとって重大なことは、この戦いによってそれまで何らかの期待や好意をもっていた住民の中の一定の層を一挙に失い政治的に敗北したことであろうと思います。(12/2 NK)

http://6528.teacup.com/uruknews/bbs

放電盤 <<<< イラク情勢ニュース

中道右派 『

>>>>アメリカ軍人もハワイで第二次大戦中に軍用慰安所を設置したそうですね。相手によっては、未来永劫無知カードを突きつけてくるでしょう。私はしませんが。

>--無関係な例が2行目に出てくるのが議論に負けている証拠。

負けてませんよ。以下は、対象コメントの私の元コメント

>>☆白馬事件の総括方法 について

>>エリート軍人が白昼堂々慰安所を開設した行為が、個人犯罪であるはずもない。組織による犯罪である。

>個人犯罪と国家犯罪の本質的違いを理解していないことの証拠を自白して下さり、ありがとう。

慰安所の設置自体は、同時期の各国(アメリカ含む)の軍でも行われていたことで、犯罪性はない。つまり、慰安所を開設しただけでは国家責任は問えないので、野原氏のあげた日本エリート軍人の白昼の慰安所開設というのが、そもそも事例として不適切。ただし、性奴隷派には、開設・設置だけで国家責任が生じると誤解しているかのような記述があるため、野原氏も同じ誤解をしているかと思って、まず他国でそれに対応する米軍慰安所の設置事例を出して試してみた。すると、野原氏は、米軍慰安所開設は犯罪性とは『無関係な例』であることを指摘し、同じ誤解はしていないことを示せた。それなら日本エリート軍人の慰安所設置も無関係な事例であることに気づかねばならない。

犯罪性を問題とするなら、慰安所の『管理・運営』に軍が関与するに際して、慰安所の運営実態が性奴隷的なものだったか、その状態について国家責任を負うにはどのような関与が必要か、国家の正当な権限に基づいて強制連行してきたかなどの点に尽きる。具体例を出すなら、白馬事件の違法な強制連行の事例だろう。私の、個人犯罪と国家犯罪の違い云々のコメントは、強制連行ケースが事例としてあげられて初めて意味を持つ。そして、この点にもおそらく野原氏は気づいたため、あえて引用時に私のコメントの1行目を落としたのであろう。そこまで引用すると、そもそも自分が元コメントで挙げた事例が不都合な事例であることが明らかになってしまうから。

>>>>なぜこのような分かりにくい説明がはびこったかを、時系列に従って説明していくと、吉見氏の研究者としての不誠実さが浮き彫りになっていきますから。

>--根拠を提示しない中傷。

その根拠は、これから説明しますが、野原氏も薄々気づいているのでは?

当初は詐話師吉田と朝日新聞歪曲報道などの影響で奴隷狩りの有無が焦点だった議論が、奴隷狩りの証拠が白馬事件以外にないので、いつのまにか性奴隷状態など広義の強制説が吉見氏の『資料集』で登場。資料集でも述べていたかは大分前なので忘れたが、新書版『従軍慰安婦』では、借金での拘束は債務奴隷だ、人種差別だ、など、どんどん違法な運営の実態の内容が拡大されていく。しかし、これらの内容はベトナム戦争時の米軍慰安婦にも見られるそうなので、行為時の行為地の実効的法規範によれば、違法とはいえないものが多いようである。

このような不誠実さを、ノーモア氏は論点のすり替えと批判しないのであろうか?

>--ですから「ご自分の手法の不道徳さ」って何ですか?根拠を提示しない中傷。

その根拠を呈示しましょう。このブログで、自白されてるでしょ?

なかった派というレッテル貼り自体が相手を悪質化する印象操作(慰安婦の存在自体は争い無く認められており、争いは実態が売春婦か性奴隷かという点にあるから)、なかった派を最小限の労力で怒らせよう(笑)、彼らの一定の敗北、レイシスト、その他罵倒挑発的言辞が多い。ご自分でも過剰の攻撃性を自白しておられる。

摂津堂氏のブログでも、相手の方々にムカツキ感覚を味あわせており、お互い無用の感情的対立を生じてるでしょ?まあ、私もやられたらやり返しちゃう方なんで、全く未熟で人のことは言えませんが、なぜに左翼の方はこういう手法がお好きなのだろう?

>「日本の成功は軍事的なものというより政治的なものであってことに注目しよう」とミヤーズという人は言っているそうです。「この日本の成功を支えたものは、アジアと南洋の人々の受動的なもしくは能動的な協力だった」と。p349『神聖国家日本とアジア』こういう話が好きなんでしょう。

はい。

>問題は膨大な被占領アジア人との日本人の関係、それを支えた思想です。アジア人に武器を与え彼らが独立の主体として強くなることを心から希望した人も少数ながらいました。1942年からマニラで活動した望月重信中尉がその例です。しかし彼は少数派として死んでいったに過ぎません。日本軍はフィリピンに独立を与える気など毛頭なくその行動はアジア人蔑視に貫かれていたからです。その顕著な例がフィリピン人「慰安婦」たちですね。フィリピンの場合は「もはや慰安婦ともいえないような」拉致~監禁~継続強姦の例が非常に多いのです。

それは残念なことですが、個人犯罪です。多くは処罰されているのでは?フィリピンでも戦犯裁判ありましたよね?命をもって贖ったでしょう。賠償も無関係の日本国民の血税から出してますし、それとは別の経済援助もしている。根底に贖罪意識があるから、一般の日本人は政府の行う賠償や援助に貧しい時代でも文句を言わなかったのでは?

韓国の慰安婦のように、請求権協定や亜細亜女性基金の取組があったのに、同じ事項で3回目の責任追及を蒸し返すのは、一事不再理の理念に反します。

>大東亜共栄という思想が、アジア連帯なのは表面だけでその実体は「日本は欧米並みに偉い」「日本は神国だから偉い」というアジア人蔑視そのものであったという事実。しかもそれだけならまだしも“なかった派”は21世紀にもなってその〈恥ずかしさ〉を拡大再上演しているのですからもう存在自体が恥ずかしい!

そういう人もいるかも知れませんが、単に行為当時の法に従った処罰を求めている私のような者もいることは、理解してください。

>>>>Q3-2:印象操作やレッテル張りをするなら、もっと正確に、売春婦派と呼んではいかがか?性奴隷派の野原さん。という提案です。

>---売春婦と呼ぶための条件は、

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20070321#p10 の第三項にも明示しています。その条件をクリアーしていることを立証してください。

立証は不要です。私は、その不利益な印象を伴う事実を認め自白しますから、売春婦派というレッテルなら受け入れます。

しかし、なかった派については自己へのレッテルとして認められません。

Q5:では、あなたは、なかった派というレッテル内容を立証できますか?

慰安婦自体がいなかったと主張する人は、ほとんどいないのでは?

>多くの元慰安婦たちの証言に向き合ったとき、あまりためらいもなくその真実性を否定できるあなたの根性は一体何なんでしょう。それがレイシズムでないとすれば。

法の道徳に対する比較優位の思想でしょうな。

法とは、一般に最低限度の道徳とも言われ、比較的広く一般の者に受け入れ可能な最大公約数的な道徳的価値判断を含む利益調整のルールです。

韓国や中国の方は、よく道徳的優位性とかいう言葉がお好きなようで、道徳を前面に押し出されるが、道徳などは諸民族諸文化で大きく違い、調整不可能な問題も多い。

日本より純化された単一民族国家の韓国内のみなら通用するかもしれませんが、多様な民族・文化が繁栄するアジア諸国の利益調整には不向きでしょう。

そのため、アジア諸国の利益調整においても、比較的価値中立的な法による支配が最善と考える次第です。

9・11事件も、イスラムの道徳ではアメリカの道徳や行動は許せないことが原点にあると思います。

>「ある日本軍「慰安婦」の回想 ―― フィリピンの現代史を生きて ――」

http://www.iwanami.co.jp/.BOOKS/00/1/0000690.html

からもそうした印象を受けました。アジア連帯に興味があるなら一度読んでみてください。

ご紹介有難う。

ノーモア氏の宿題に答えるための資料渉猟のついでに読ませてもらいます。

Q1-3:コミンテルンの対日テーゼには洗脳されましたか?

Q2 -3:野原氏は、近代法の諸原則の本質を理解していないが、法解釈をするということは尊重はしたいのだろう。でも、まだ共産革命を夢見ているのでしょうか?それとも、比較的多数の世界一般の国民に受け入れられる、法の支配に代替可能な利害調整ルールの私案がおありですか?道徳はダメですよ。

Q4 -3:奥様から家事労働の利益を全面的に搾取している自覚のある(あった?)野原氏(自白済み・河野談話をより強化しようとする野原氏は自己の道徳的罪を自覚しているのであろうか?それとも愛ゆえに正当化できるという考えか?)は、アンチフェミニズムで性奴隷制的夫婦制度の支持派なのですか?そうでないとしたら、社会主義を標榜しながら資本主義的快楽をむさぼる金正日と同様の偽善者と呼ばれる危険もありますよ。』(2007/03/25 15:31)

* 中道右派 『Q4-3は、もし未来にフェミニズムが世界を支配して社会体制もそうなったら、野原氏は今の考え方のままだと、家事奴隷性奴隷制的夫婦制度の責任者として、処罰されかねないことを示唆しています。

野原氏のように、行為時における売春婦の実態を無理やり性奴隷と曲解して、責任追及を求めると言うことは、そういうことです。』(2007/03/27 13:30)

159 天地初発之時、於高天原成神名 野原燐 2003/02/11 23:03

さて、今日は建国記念日だったにちがいありません。

建国記念日とはなんぞや。戦前天皇制的なものであり、これからの時代を

切り開いていけるものではないように思います。

天地初発之時、於高天原成神名、天之御中主神。

古事記の冒頭の一行はこうなっているということだ。

子安宣邦氏の『方法としての江戸』p260の“「やまとことば」の成立”

という章にそうあった。

これはどう見ても漢文である。ただ正調の漢文ではなく極めて和臭の強い

漢文ということだろう。今風に言えば、クレオールな(ピジンな)漢文で

ある。ドルゥーズふうに言えば、ハイブリッドな異種混交性が

わが日本の起源にはある。

ところがそのことは隠蔽される。

「天地初めて発(おこ)りし時、高天の原に成りませる神の名は、」

といった読み下し文があたかも原文であるかのように、思われている

(のではないか)。

最初の天地にしてもこれは天地(てんち)ではない、あめつちだ、

と執拗に主張したのが宣長である。

宣長こそが古事記を日本の聖典にしたのであり、その構築は現在まで

揺らいでいないのだ。

子安氏のその論文の結論は、「民族の言語的自己同一性の理念」というのは

神話でしかない、というものです。

そのとおりですね。

ところで日本の数百万、建国記念日のお好きな方も、

天地初発之時、於高天原成神名、天之御中主神。

なんていう起源は忘れておられるのでは。なにしろすぐに

「独神と成りまして、身を隠」された方だから。

四人目には「うましあしかびひこぢの神」というのがでてくる。

檜垣立哉さんの『ドゥルーズ』p100には「たまほこりかび」

というのがでてくるが、そっくりですね。

「さまざまなかたちをとるタマホコリカビの、あるべき個体などは

どこにもない。変幻自在に姿を変え、自己の単位すら危うく生きる

タマホコリカビは、しかしそれぞれが独自な個体、特異な個体である。

純粋で本物であるタマホコリカビを追求することなど、誤りでしか

ありえない。それは、潜在的に多様なタマホコリカビの、生の力を

肯定しない転倒である。」

ところで天之御中主神とは、闇斎によれば儒教の基礎概念である「中」に

ほかならなかったのでした。中もあり黴もあり古事記もなかなか面白い。

だけど、建国記念日なんて面白くなかろう。

                 野原燐

(今日は知人の絵を見に行った。最近アフリカ音楽にインスパイアされた

とのことで、画風が変わっていた。)