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【転載・転送大歓迎】
パレスチナの平和を考えるトークカフェ in 新世界 第二弾!
パレスチナ難民の声を聞く ― 「日本人フェミニスト」の視点から ―
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日 時●9月19日(月・休) 16:30~18:30(16:00開場)
会 場●cocoroom(フェスティバルゲート4F、tel:06-6636-1612)
http://www.kanayo-net.com/cocoroom/
地下鉄「動物園前駅」5番出口/JR「新今宮駅」下車すぐ
南海「新今宮駅」下車5分/阪堺電鉄「南霞町駅」下車すぐ
ゲスト●清末愛砂(ジェンダー法学/同志社大学政策学部嘱託講師/
アジア女性資料センター運営委員)
参加費●1000円(1ドリンク付)
主 催●パレスチナの平和を考える会 www.palestine-forum.org
連絡先●090-9273-4316、ysige@ysige@hotmail.com(やくしげ)
* * *
今年2度にわたってヨルダンのパレスチナ難民キャンプを訪ね、そ
こに暮らす女性たちの声を中心に聞き取りをされてきた清末さんに
現地の映像を交えながら話をしていただきます。
「ガザ撤退」の報道のなか、中東和平について多くが語られるよう
になってきていますが、パレスチナ難民の状況が省みられることは
ほとんどありません。そうしたなか、彼女/彼らの声に今あらため
て耳を傾けることの意味について、参加者一人ひとりの視点から考
え、深めることができれば思います。
カテゴリー: idea
今何か変なことを書いただろうか。
村田さん コメントありがとう。
「ふんふんふんっ」などについて、問題提起してみたものの自分では答えがうまく見つからず書けずにいました。
(1)
Panzaさんの「神である叙述者(作者ではなく)のナルシシズムを相対化するための自己ツッコミである。」、村田さんの「自らツッコミを入れることで語り手=主人公を相対化したり複数にしたりする力」は正しいような気がします。「叙述者-読者」という関係において、叙述者が独走し読者が付いて来れなくなるのを避け、一方読者にこれは普通の平板な小説ではないよという警告を与え小説を立体化するという効果を果たす、という感じでしょうか。
(2)
「私はヒトだ。」という文に対し、「私はヒトだ。そうだよ、ね、ね。」という文の差異を考えましょう。前者のメッセイジは文の意味がそのままききとられるであろう平静な事態を想定しているのに対し、後者は私がヒトではない充分な可能性(危険性)を持つとする冷たい聞き手を前にしているという危機感を表している。語り手と場の空気との関係を表現するものが、「ね」とか「けっ」というかいう文末の直後に付く間投詞であるわけです。「ふふんふふーん」もその類だと理解しました。『金比羅』は小説ですから“語り手と場の空気との関係”と言ったときの、「場」とは小説に描き出された場でしかないはずです。作者はどんなに変幻自在な妖怪を暴れ回らせる自由もありますがそれは作品の中のことであり、読者には1mmも近づくことができません。
結局ここでわたしは躓いているので、「ここ」とは小説の読解に必要なところではなく、わたしがインスタントにでっちあげようとした「理論」が、素人が椅子を作ろうとしたときのように足がまるまる一本足りないことに気づいたは良いがそれの是正の仕方が分からず立ち往生している、といった状況です。で上手く説明できないしそもそも説明する価値のあることでもないような気がするのですが、しないと抜けられないので、します。
(3)
つまり、(1)では「叙述者-読者」という関係が語られているのに、(2)では「作中人物-作中の場」という関係が語られている。文の構造分析みたいな視角からは、(2)しか語り得ず、(1)は飛躍があるような気がするのです。
(4)
『S倉迷妄通信』p141などでは、
「今何か変なことを書いただろうか。」という文が現れる。
実はルウルウだけが通力のある化け猫だったのだ。(略)
今何か変なことを書いただろうか。(略)p141
四日後ドーラは走り回り、日に何度もカリカリを貪り喰った。ただ自分が人を殺したという感触だけは残った。(略)でも本当を言うと、私は殺してない。--今何か変なことを書いただろうか。(略)p137
猫を愛する平凡きわまりない日常から血みどろの殺害シーンへ、という位相差を飛躍としてでなく連続として笙野は描きたかった。だが、平凡な日常から血みどろの殺害へを連続的に描くことはできてもそれでは<連続>を描くことにはならない。読者の意識の中にある日常と殺害の絶対的断絶というものに働きかけるにはどうしたらよいか。その方法の模索として、殺害シーンに読者が感じているであろう異和感を、隠蔽するふりをしてかえって励起させるために、「今何か変なことを書いただろうか。」という文が挿入される。
これは、小説は最後の頁の最後の1行まで小説の中の世界を描くという小説のルールの侵犯だ。劇中から観客に向かって物を投げてくるようなものか。
(5)
「野生の金毘羅の鳴き声」であるところの「ふんふんふんっ」はまた、劇中で観客に向かって投げられる物、とも規定できる。
体験を語りうる戦争
ニューヨークの芸術家の街グリニッチ・ヴィレッジの若い人ばかりのあるパーティーに、どうしてもお前に会わせたい奴がいるといってつれて行かれた。パンチをすすりながら古ぼけたピアノのそばでひき合わされたのは、見上げるような長身の青年だった。郊外の小さな新聞を一人でやっている有能なジャーナリストという紹介であった。
パンチのグラスをカチッと合わせると、「十六回、十六回もやったのだ」といって彼は微笑した。精悍な額と涼しい眼が印象的だ。彼は第二次大戦の若い学生パイロットの一人で、沖縄作戦にも参加し、大和を轟沈するまで、空母との間を十六回も往復してアタックを続けたという。
あんな素晴しい戦艦は見たことがないし、一機の援護機もない孤軍奮闘ぶりも実に見事だった。ああいう巨艦の乗員名簿に名前をつらねることのできたお前は実にラッキーな奴だと言いながら、しまいには私の肩を抱きかかえるようにした。サッカーか何かの試合のあとでユニフォームを脱ぎながら、敵の選手から「今日はシュートを十六回もしたんだぞ。全く苦労させやがる」というようなことをいわれているゴールキーパー、私の気持はそれに近かった。執拗な攻撃をくり返したという報告は、恨み言でも詫び言でもなく、お互いに苦労したという共感につながる愉しい思い出話にすぎない。アイムソリーという言葉も、そんな素振りすらもなかった。
だいいち彼だけが私に謝らなければならないという理由はない。彼は私のまわりに爆弾を雨あられと降りそそぎ、そのあげく大海の中にほうり出したが、われわれの機銃弾も数限りなく彼の愛機をかすめたはずだから、あいこというわけだろう。私は荒海を何時間も漂っている絶望感を、できるだけ即物的に話してやった。彼は面白い世間話に対するようにそれに聞き入っているだけで、特別の反応を示さなかった。わが艦隊は弱かったから潰滅したのだし、海に棄てられた私は、いのちのある限り泳ぎつづけるのが当然で、それ以上の関心の持ちようがないというところかもしれない。
ほかの青年がわれわれの間に割り入んでくると、彼はさりげなく日本映画の評判に話題をかえた。話題への関心の重さも、戦争の話と変わりがないというような屈託のなさであった。もしまた将来われわれが戦うことがあるとしたら、彼も事もなげにタフなアタックをくり返すだろうし、そしてまた再会の折があったら、同し調子で肩を叩くだろう、私はそんなことを考えつづけた。
吉田満「異国にて」*1
戦後保守派は一貫して普通の国あこがれ続けてきた。皮肉にも小泉の勝利は、普通の国路線の敗北になった。なにしろ東条無罪ですからね(笑い)。
健全なる男子が屈託なく軍務に就き、それを生涯誇りにして生きていく、そのような兵士というものも現実にいるのだ、ということを私たちは知らなければならないのだろう。*2
戦争ができる国に成ることは絶対悪ではない、とわたしたちは言わなければならないのかもしれない。しかしながら、自国民を何百万殺そうが原理的に反省できない、靖国という無限の寛容は、絶対悪である。
1959年段階での戦犯観
http://d.hatena.ne.jp/nenecoconeneco/20051103
(仮)日記 – 木曜日
連合国によりBC級戦犯とされ刑死した旧軍幹部らの靖国神社への合祀(ごうし)をめぐり、旧厚生省(現厚生労働省)が一九五九年四月、各都道府県に公表を控えるよう求める文書を出していた
(略)
「部外(多数の一般戦没者遺族を含む)」からの神社側への投書などに表れた意見に照らし「重大な誤解を生じ、ひいては将来の合祀にも支障を起す恐れもある」との懸念が記されていた。
BC級戦犯というと、冤罪であった(と思われる)ケースが強調される。
例えば、マレー半島のネグリセンビラン州でのパリッティンギ村というところで、約600人の村民が集団虐殺された。I中尉が責任を問われた。ほか二人とともに処刑された。I中尉について冤罪説がある。*1I中尉の遺族にとっては彼の名誉に関わる大きな問題であろう。しかし、I中尉の遺族でもその軍の関係者ないものが「冤罪である」と強調するのは如何かね。われわれに関係があるのは、日本軍による村民の集団虐殺の存否という問題である。その点について否認説は存在しない。したがって冤罪云々は別に強調されるべき論点ではないはずだ。冤罪を指摘することは、BC級戦犯全体に対する同情的イメージを再確認することになるが、そのようなイメージ自体、<殺されて省みられない者たち>から見た場合犯罪的であるだろう。
BC級戦犯=同情されるべき犠牲者、というイメージに同意しない人々が国民の間に無視しえない割合で存在したのだ、1959年当時は。ということを証す貴重な記録である。
*1:参考:p123『BC級戦犯』isbn:4004309522
2005-11-28
id:noharra:20051129 という表現が転写されることへの註釈
概念集シリーズへの索引 (テーマ別)
1100-12-25
4/1コメント欄
一読者 『>ノーモア
>ずいぶんと「上から見た物言い」ですね。
おやおや先に上から見た物言いをされた方が逆ギレですか。
>そういうあなたは歴史学者か何かなのでしょうか。
いいえ。歴史以外の分野の学会に所属しているだけですよ。いわゆる在野ですけど。
>ではぜひどの史料の解釈がどのように間違っているのか、具体的にお答えください。でなければあなたの発言は単なる誹謗中傷です。
また人のコメントを歪曲をする。間違ってるとは一言も言ってないでしょ?強引だと言っただけで。それに、引用部分以前の言説は実証主義的資料研究の枠内にとどまろうと努力する言説だと一定の評価をしていることがお分かりにならないのでしょうか?
私のこの問題についての基本的考えは秦氏と大体同じですから、そこから類推してください。具体的に聞いてくれれば、秦氏と違う部分は違うと言いますが。
でも、あなたが私の引用部分とそれ以前の資料分析部分との間に論理の飛躍があると思われなかったとしたら、素人レベルの論理的分析すら怠っているか単にイデオロギー的な同調共感をしているだけだと思いますよ。
>平成3年8月27日参議院予算委員会での外務省の答弁です。
「これは日韓両国が国家として持っております外交保護権を相互に放棄したということでございます。したがいまして、いわゆる個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものではございません。」
おお、これは感謝します。私の考えは古い日本政府見解(正確には消滅ではなく放棄でした)だったのですね。ただ、締約当時の交渉文書では、日韓両政府とも私と同じ考え方だと思ったので、締約当時の公式解釈では日韓両政府とも個人請求権の放棄と解していましたよね?条約の効力の解釈は締約当時の公式解釈によるのが原則ですが、時を経て両国の公式解釈が変遷して奇しくも再び一致したという訳ですか。こういう場合変遷後の公式解釈に変わるのかな?詳しければ教えてください。
でも、日本の裁判所で個人請求権を行使しても、大審院判例(国家無答責)か消滅時効か除斥期間で結局認容されませんよね?
そうすると、外交保護権の放棄に行き着いて、結局法的責任は追求できませんね。河野談話を踏まえて公式謝罪した複数の首相の誰もが法的責任の履行はできないからこそ、アジア女性基金で道義的責任を果たすことになったのではないですか?
>「考慮されなかった」ことはお認めになりますね?
はい。
>で、その原因についてですが「慰安婦は当時の戦勝国や韓国の法意識では犯罪ではないと考えられていたと思います。」などと勝手な解釈を付け加えるならそれこそソースをお願いします。
冤罪すら処罰された。証拠不十分でも処罰された。いわんや行為当時の犯罪をや。戦犯法廷に告発されればほぼ処罰された状況で告発されなかったのは、犯罪とは意識されなかったからと考えるのが常識的推論。私の勝手な法社会学的な解釈なので、反対されるのはご勝手です。
ただ、私の考えと似た考えとして、先週末の田原耕一郎氏司会のテレビ討論番組で櫻井よし子氏が、いわゆる白馬事件に言及して、同事件の関係者が処罰されたということは同様の事件があれば処罰されているはずで処罰されていないのは同様の事件が無かったからだと思うという趣旨のコメントをされていました。
>私が記事を見た限りでは「謝罪」を勧告するというものしか見当たりませんし、日本政府も「決議されても謝罪はしない」としか言っていないので個人補償について法的責任があるといった決議ではないと思いますが。
決議案の内容については、私も再度調べますが、あなたもお調べください。
日本政府が謝罪の否定しかしないのは、決議に法的拘束力が無いから決議案の内容になっていたとしても個人補償まで言及する必要が無いと判断したからだと思いますが。
>具体性の無い誹謗するばかりで議論から逃げるだけじゃないですか。
ん?そもそもあなたの元コメントからして具体性もないし、クワラスミレポートとか上記サイトとか引用だけでしょ?反対の意見の学者の立場から見たらあなたのコメントも単なる誹謗だけですよ?
>「関与していないと思う」ことと「事実として関与していない」ことは全く違うんですよ。もう少しまともな議論が出来ませんか?
ん?当然そんなこと分かってますから、私は断言してないんですよ。それがまともな論理的な議論です。専門家ですら見解が分かれることを断言しちゃうあなたの方が傲慢です。私は政府機関が主体的には関与していないと思うが、あなたは主体的に関与していると思っている。のみならず、あなたは一学者の見解をもとに多数の反対説もあるのに関与していると客観的事実のように断言してるでしょ?全く次元の違うことを意識的にか無意識的にか知りませんが混同させてまともでない非論理的な議論をしているのはあなたの方ですよ。
>まず各国の慰安婦制度の実態がいかなるものかをきちんと述べてそれで比較検討してもらわないと。理論的可能性に固執するのは結構ですが、現段階では妄想の域をでていません。机上の空論です。裏付けをどうぞ。
裏づけはいらないでしょ?あなたがどう思いますかと私に「意見」を聞いたので、私も意見を言っただけですよ。どちらの考え方がより客観的かを争ってはいないんですから、論理的推論のみで足りるでしょう。妄想とは、客観的にありえない非現実的な想像ですから、論理的推論とは別物ですね。これも誹謗の一種だと思いますよ。私はあなたのように一方的にレッテル張りはしませんけどね。
>あなたの反論ですが、こちらにソースをソースをと要求する割には、御自分はほとんどソースをお示しにならないという見事なまでのダブスタです。お気楽なことで。
あなたのように色々と歴史資料を調べていれば、私が依拠しているだろう資料なんか簡単に想像がつくのではありませんか?ほとんど素人レベルの一般的な資料に依拠してる発言に一々ソースなんか要求しないし自分も示しませんよ。あなたのコメント中でソースをつけなかった資料についても、私が知っている資料については私が自分から言及してるでしょ?それまでの自分の知識から外れている資料について聞いただけですよ。ダブスタと感じられたのはあなたの単なる主観ですね。私は、お互いの共通認識となっているソースがあると思われればソースを要求しないという基準でどちらにも対応してるだけです。あなたもそうだと思っていたのですが、私の買い被りだったようですね。
それと、事実や資料についてはソースを常に念頭に置くべきですが、ロジックにはソースはいりません。理論的かそうでないかのみが問題です。ヴィトゲンシュタインの著作にはほとんど引用やソースはありませんが、高く評価されていますよね。
>なるほど現在の公安委員会は業者に風俗営業を請け負わせているんですね。業者を通じて売春婦を募集したりしているわけですか。「公安慰安所」なんて聞いたこともありませんが。
まあ、この点は、解釈の相違ですね。軍が請け負わせたといえるか、主体的に業者を通じて売春婦を募集したといえるか、あなたと私では解釈が違うんだからしょうがない。』
ゆーき ゆーき 『>現在の公安委員会と風俗営業者の関係とどこが違うのか理解に苦しむ実態を、いきなり奴隷制度にワープですか。
国家による消極的関与と積極的関与は別物でしょう。』
ゆーき ゆーき 『上記のコメントは一読者氏宛です。』
ノーモア ノーモア 『>おやおや先に上から見た物言いをされた方が逆ギレですか。
逆ギレとは珍妙な。あなたは歴史学者の論文に対して「強引な解釈」といういかにも知ったかぶった物言いをしたのですよ。それが「上から見た」ものでなくてなんなのですか?そこまで仰るのであれば当然具体的指摘が出来るわけですよね?まあ今回のコメントもその意味では一切具体的なソースもなく新味に書けたものだったわけですが。で、この論文にケチをつけたのはあなたであって秦氏ではありません。「強引な解釈」と評した責任は秦氏ではなくあなたが取るべきでしょう。秦氏の言説に逃げ込むのではなくてあなたが具体的に「強引な解釈」箇所を示し具体的に反論ください。ちなみに私は「軍の主体的関与」を示す目的で当該論文を提示しました。で、軍の主体的関与に関する部分においては当該論文は実証的であったとお認めになったんですね?
>そうすると、外交保護権の放棄に行き着いて、結局法的責任は追求できませんね。
だから私は「それが認められるかは別の問題だ」と書いておいたはずですが。
>冤罪すら処罰された。証拠不十分でも処罰された。いわんや行為当時の犯罪をや。
とことんソースを示して実証的に語るということが出来ない方なんですね、あなたは。他人に実証性云々を偉そうに言う資格はゼロですな。しかも推論が穴だらけではないですか。あなたの言う常識的推論によると有罪判決の数=犯罪の数なのですか?ちなみに白馬事件が発覚した背景についてはこちらをご覧ください。
http://www006.upp.so-net.ne.jp/nez/ian/#kyosei
白馬事件以外の犯罪的行為は存在しなかったという「常識的推論」が穴だらけであることはお分かりになりましたでしょうか。
また戦犯裁判のイメージにも偏りがあるのではないでしょうか。あなたはどうも犯罪は「全て」裁かれ、裁かれるべきでないものまで裁かれたと思い込んでいらっしゃいませんか?戦犯裁判はそのような単純なものではないことはあなたのお好きな秦氏も本に書かれているわけですが。
http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20060912/p4
>決議案の内容については、私も再度調べますが、あなたもお調べください。
http://www.sankei.co.jp/ronsetsu/seiron/070311/srn070311000.htm
あなたのお好きな秦氏が述べられていることから推測するにやはり個人補償についての法的責任云々の話はないようです。つまり今のところ日韓条約云々の話はあなたの単なる先走りだと思われます。
>クワラスミレポートとか上記サイトとか引用だけでしょ?
引用もソースも示さず穴だらけのロジックしかないのを開き直られる方に言われる筋合いはありません。私が「誹謗した」というのなら具体的な御指摘を願います。
>あなたは一学者の見解をもとに多数の反対説もあるのに関与していると客観的事実のように断言してるでしょ?
見解の相違でお逃げになるのなら結構です。つまりあなたはご自分の見解の方が優位であることを示せなかったということですから(上記のサイトは少なくとも「良い関与説」&「民間業者主導説」を論破していますから、それに対して説得的な再反論が出すべきです)。つまりあなたは「軍に主体的な関与があった説」にも一定の説得力があることを暗に認めたことになります。少なくとも私はあなたの「思っただけ」の議論に付き合う必要はありません。しかも軍による主体的な関与があったと述べている学者は上記の論文を書いた学者のみではありません。例えば彼は吉見氏の議論を「補強」しているわけです。で、軍による軍慰安施設の設置し売春婦を業者に集めさせたことががなぜ主体的関与でないのか。説得的な御説明は出来ないということでよろしいですね。解釈の違いといってもあなたはその解釈の元となる史料をお示しにならないので話にならないのですよ。
>ヴィトゲンシュタイン…
無茶苦茶なことを言い出しますね。ヴィトゲンシュタインは歴史学者だったのですか?私は一度もそう思って読んだことが無いのですが。で、歴史学の議論をするのに論理的可能性のみで史料に基づかない議論をやって評価された人の例をお教え願いたいのですが。私たちは哲学の議論をしているわけではありません。ちなみに妄想と論理的可能性は両立しますよ。論理的にはありえても現実にはありえない(=妄想)なんていくらでもあります。論理的可能性を指摘したところで裏付けが無ければ妄想ですな。
>まあ、この点は、解釈の相違ですね。
最後まで逃げるんですね。で、「公安」は「慰安所」を作ったのですか?ちなみに風俗業者をなぜ公安が取り締まるのか私にはさっぱり分からないわけですが(笑)』
死
考えてみれば、人間の数だけ、死は存在する。
(養老孟司 11月16日毎日新聞書評欄より)