またビラ撒き逮捕

前回の野津田高校で逮捕された2名は6日に釈放されたのですが、

3/8、農産高校卒業式でビラ撒きをしていた人が1名逮捕され

ました。

野津田高校事件に関し、地裁八王子支部が、検察の勾留請求のための準抗告を棄却決定した文章の一部。

 しかしながら、一件記録によれば、被疑者らが立ち入った上記高等学校の敷地部分は、同高等学校の門塀等物的囲障設備の外側に存在する土地であり、これを建造物侵入罪の客体である『建造物の囲繞地』と評価することは困難である。

刑法の精神を明白に逸脱した逮捕だったことが分かります。

日本は変だと思う

 N・Bさんの下記の発言には驚きました。場違いだなあと思いながらも「日帝自立論」を引用しておいてよかったなと思った。わたしたちのころは高校か大学で新左翼的なものに近づくとまずそうした論理(政治的ジャーゴン、セクト間の差異の主張)を教えられたものです。

私はむしろ、野原さんが3/20に書かれていたように、左翼ですら日本の「自立」を前提にしていた時代と、むしろ従属(ということは私たちには「主体性」が無い)だと考える時代の落差は大きいと思います、つまりバブルの崩壊以降ですが(私は「自立」の感覚はまるでないのです)。

自分というものがコンビニエント*1な環境から離脱できないことと、日本の対米従属の問題を無意識のうちにくっつけて考えている人が多すぎるのではないか。理屈で言えば、仮にもジャパンアズNo1と言われた国力があるのだから、例えばカナダやメキシコよりはずっと自立の幅は大きいはずと思えますけどね。

 というか、中国や韓国に何か言われるとすぐ内政干渉だというくせに、日本の主権がアメリカによって犯される(ている)危険についてのリアルな観察や批判というのは非常に少ないと思う。そのような情況において、「古今のナショナリズムには一定の存在の必然があるし、」といわれても、どうかなあ~としか感じません。

spanglmakerさんが「論点そらし」だと最後に書き込みましたが、ブログを見る限りでは彼はネイションの一員としての教育を施すことは自明の前提だと認識しているようです。(略)

ネイションの一体性が絶対に確保されるべきという前提を強くjuluxさんが持っていることを読み取れなかったのではないでしょうか。

申し訳ないが、上の二人のような方に対しては、悪い冗談であるかのようにしか思えないのです。日本/大日本/日本という歴史を思えば、そんな安易な論理を振り回す気にはならないはずだと思ってしまう。ブログとか読んでみるとそれなりにまじめに考えておられる方のようなのですが。(すみません。)*2

 幕末から1945年までの人にとって、思想の如何を問わず、日本及び日本人が危機という状況にあるということは自明の前提でした。*3日本人がアジア人であるということも、もちろんです。戦後の日本はこの「日本人がアジア人である」という事実を隠蔽、忘却していると言いうるのであって、非常に変だと思う。

*1:convenient 綴りが分からなかった

*2:同一性の論理を高唱する限り、わたしにとってかのおおやさんという方も同類項にしか思えず、ただ体力知力が抜群の方みたいだったので、絶対に近づきたくないと思ったのでした。

*3:大正期などの安定期には薄らいでいたでしょうが。

わが国固有の伝統文化とは何なんだ?

あるブログから勝手に孫引きしますが、毎日新聞だそうです。

衆院憲法調査会:最終報告書 改憲の説得力乏しく

 過去5年間にわたる議論を集約した衆院憲法調査会(中山太郎会長)の最終報告書が15日、決定した。多数意見に該当したテーマは「現状維持」を含め計29点に上る。焦点の9条に限らず、新しい人権や地方自治など幅広い分野に及んでおり、

(中略)

 しかし、29点のうち現行憲法で明確に対応不可能なのは「わが国固有の歴史、伝統、文化を明記すべきだ」など前文関連の2点や「憲法裁判所の設置」などごく一部。(毎日新聞)

 最近改憲に賛成の方も読みにきているみたいですが、お聞きしたいです。わたしが心配している「生きて俘虜の辱めを受けず」という奴隷道徳の受肉と、「わが国固有の歴史伝統文化」は全く違うものなのでしょうか?戦後史の何時何処でその切断はなされたのでしょうか?答えていただきたいものです。

ところで「我が国に非固有の歴史」なんてものがあるのかね。どこの国にも通用する歴史法則(マルクス主義とか)への反発を表現したいのだろうが、固有だ固有だと言いつのるばかりでは無理性の泥沼に陥る危険性もあるだろう。

誇り

事故の核心にあるのは、専門職への尊敬を失った社会という問題です。

(冷泉彰彦)

小骨派ブログ宣言

学ぶとは、例えて言うならば「小骨がのどに刺さった」状態が続くことです。わからない、だから、わかりたい。この思いがどこかにひっかかっていると、人間は無意識のうちに「わかる」ために役立ちそうな情報に反応し、集めるようになります。ちょうど、小骨を溶かすために唾液の“強度”が上がっていくみたいな感じ。

(内田樹)*1

 このブログは引用が多い。上記を読んで良い言い訳を見つけたと思った。わたしはわたしにとって“ひっかかる”異和感を感じる小骨を集めているのだ。普通ひとは自分が好きな自分に身近な文章を集める、だから解説も的確で分かりやすく安心して読める。うちのブログはその反対なので、自分でもどうコメントして良いか分からず、まして読者はどう読んでいいのかとまどう。(すいません)(まあそうではない引用もあるが)

 最近では「三大考」というテキストがまさにそれで、どのような地平で受け取るべきか分からない。まあその分からなさを楽しんでいるのだ、とも云えるが、どちらかというと“小骨”であり異和感を持続的に感じているのだ。

 「8人の小人」という短い算数の問題を5/8にUPしたときもそうだった。その問題の問題性をわたしが汲み尽くしていないことがはっきり分かり、かなり苦労した。11/13の「囚人の帽子」のときもそうでしたが、数学の問題の場合、“小骨”に出会い易い。数学以外だと突っ込まれても、おそらくその論理を構成している言葉の意味を少しづつ変えたりしていくことにより、自己の破綻を(かならず)回避してしまうものなのかもしれない。

 (読者には迷惑でしょうが)これからも“小骨派”ブログとして精進していきたいものです。

*1:学び1 朝日新聞20050530

歌を唄いながら空気の撹拌を

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050624#p1 の続き。

 近藤さんは1940年、20歳の徴兵検査で即入営となり、戦争が終わるまでの四年間を独立歩兵第十三大隊の兵隊としてずっと戦場で過ごした。最初、中国大陸の山西省に送られ、1944年山西省を離れ転戦しながら大陸を南下し上海から沖縄へ向かう。沖縄では中部戦線の嘉数高地に配置され、1945年4月の米軍上陸直後から戦闘に入る。

 戦闘で、負傷した近藤一さんは野戦病院に運ばれる。

野戦病院といっても自然壕を掘り足しただけのものだ。壕の中には川が流れていた。六十二師団の野戦病院壕は、首里のナゲーラというところの本院と、今の小学校の所につくった小さいのとがありました。

 壕の中は真っ暗で、手術するところに蝋燭の明かりがあるだけです。戸板をずらっと敷き詰めた上に毛布を敷き並べてその上に怪我人が寝かされているだけでした。(略)

 軍隊の靴を拭く保革油の缶に木綿の布を垂らして火を点けたのが唯一の明かりで、その油煙で、まるで炭坑夫のように真っ黒けになりました。壕の中の空気は四○度近くにもなって湿気もものすごく、息苦しくて仕方ない。おまけに糞尿の臭いと血や膿の臭いが、死臭と混じり合ってものすごい臭いでした。そんな中で働いていた女子看護隊は第六十二師団に配属された首里高女の瑞泉(ずいせん)隊と昭和高女の梯梧(でいご)隊でした。彼女たちは看護だけでなく、水くみに、死体の始末にと、それこそ命がけで働いていました。また一時間か二時間おきに、毛布を各自が持って、二、三組になってかけ声をかけあい、歌を唄いながら空気の撹拌をしてくれました。歌は「うさぎ追いし、かのやま」などの、童謡だったと記憶にあります。本当に心が癒され、子どものころのことや、家にいたときのことが思い出されました。

 それでも私は最初の頃でしたから、中に入れてもらったんですが、三、四日するともう中に入れる余地がないということで、重傷者と手術するやつだけを中に入れて、軽傷者は入り口に置いたままにしてあったと聞いています。

 治療、手当といっても、薬はほとんどない、注射器もない。(略)

 我々が寝かされたところもすし詰めで、一日の食料は小さい玄米の握り飯です。最初は一日に二個でしたけど、しまいは一個もあたるかあたらないかくらいになりました。食事はそれだけで、一番欲しいのは水なんです。外の水たまりとかいろいろな所へ女子看護隊や、沖縄の防衛隊の人が砲弾の降っているなかを、合間を見ては命がけで水を汲んでくるという状況で、ほんとうに水は貴重品でした。枕元に小便用の缶詰の空き缶が置いてあり、それで小便をして半分くらい溜まると、看護婦さんに捨ててくださいと頼むんですが、いよいよ水も行き渡らなくなるとその枕元にある小便を、飲んでしまうんです。そういう地獄みたいな状況の野戦病院は、病院と名が付くだけでした。負傷者が多いのと、始めての体験で、軍医も看護隊もてんてこ舞いというか、どうしようもなかったと思います。

 こうした野戦病院の中でも差別があった、ということは戦後初めて聞きました。負傷者が入ってくると軍医が「お前は本土出身か沖縄出身か」と聞くのだそうです。それで沖縄出身だと言うと、それは後回しにしたということを、戦後に女子看護隊の方から間いてびっくりしました。白分としてはほんとに驚いたのですが、沖縄の人への差別が戦争の中でも持ち込まれていたということは事実なんでしょう。

以上p112-115 近藤一『ある日本兵の二つの戦場』isbn:4784505571

 真っ暗な壕のなかで、毛布で空気を撹拌する。そうしないと壕の奥の方はたちまち酸素が足りなくなり死に至る。そうした切迫に満ちた行為だが、うら若い女性たちが歌を歌いながら、緩やかに空気を撹拌する、というイメージに、わたしたちはいつも痛いほどの郷愁を感じる。

 「うさぎおいしかのやま」。そうした歌が歌われた。ポスコロ的には沖縄しか知らない少女たちにとってそのときどんなパトリ(源郷)のイメージが立ち上がっていたのか、も興味があるところだ。

 この文章を記録文として支えるのは、そこが首里のナゲーラ壕だったという場所の確定と、そこで出会った学徒隊が瑞泉隊と梯梧隊だったという三つの固有名である。

 読者にとってはある意味どちらでもよいことである。だが仮に裁判とかいうことになれば最大の問題になる。事実とは何か。兵士はたいていの場合、(仮に生還できたとしても)最も切実な体験をした場所がどこか、再確認することなどできない。近藤さんも1982年以後何度も何度も沖縄へ通った*1が、2004年2月にナゲーラ壕跡に入って確認するまで、二つの壕のうちどちらなのか決定できなかった。

 また、学徒隊についても、近藤さんは戦後ずーっと自分たちが世話になった学徒隊は有名な「ひめゆり学徒隊」だと思っていた。実際は、ひめゆり隊は南風原陸軍病院に配属され、初めのうちは後方で上記のような地獄のなかで過ごしたわけではない。

 同じ戦場で、しかもはじめから一番の最前線で本当に苦労したずいせん隊やでいご隊の人たちが隠れてしまって、ひめゆりばかりが語られるのは、一種の差別じゃないですか。私らには耐えられないことです。(p115同上)

 わたしたち無知な読者からすれば、ずいせん、でいごもひめゆりも本質は一緒じゃないか、ひめゆりの方が音の響きがきれいなだけアピール度が高かろう、なんて思ってしまいがちだ。しかし固有の臭い固有の場所で人は死んでゆくのでありわたしはたまたまいま生きのびているだけなのであるから、そうした把握が間違いであるのはいうまでもない。

*1:なんと50回以上、だという!

人々を幸せにする力があると考えます。(7/13追記)

更に言えば、僕はもしリンクについて管理人と対話して、リンクを拒否された場合にも、きちんと深く考えて本当にそのリンクによって生じる不利益より利益の方が多かったら、例外的にリンクして良いと言ってるのです。何故か?結局殆どの人間は、例えどんなに自分で「真剣に考えた」と言っても結局一人で考えているときはその思考は浅い水準に留まります。しかしリンク先と直接対話することによって、自分がやろうとしているリンクは本当に人々を幸せにするのか等のことを深く考えられるのです。これはむしろ研究者、いやリンクを含む様な記事を書こうとする全ての人にとっては天啓であると言っても良いでしょう。その意味で、僕はむしろ「無断リンク禁止」という言葉には対話を促進させ、人々を幸せにする力があると考えます。

http://d.hatena.ne.jp/rir6/20050713/1121198432

rir6さん、はじめまして。無断リンクTB引用します。

申し訳ないけどrir6さんの文章斜めに読んだだけです。またわたしにモヒカン族というものが分かっている訳でもありません。したがって、あなたはモヒカン族を批判しているがモヒカンというものは本来そういうものでは全然ない、などと言おうとするわけではありません。

ただモヒカン族は「たくさんの人がハッピーになれるエレガントな方法を見つける」ことを目標にしており、rir6さんはある発想には「人々を幸せにする力があると考えます」と述べておられます。文章の内容を問わずに形式だけ見るととても似ている。しかもあからさまにポジティブで関係構築的志向を持っている。

そういうところはとても(両者とも)良いのではないか、と思った。

上では野原は、ドゥルーズを借りて“コミュニケーションなるもの”への懐疑を書き留めた。ここでrir6さんは、むしろ〈話が通じないという体験〉をすることが、思想を深めることがあると言っている。とても興味深いと思った。

語り得ないものを教える

 レイプだけが語り得ない、というわけではない。隣で戦っていた戦友がふと気付くと死んでいたとか、肉親の破壊された身体を見たといった体験もやはり核心は語り得ない。したがって平和教育というものは本質に矛盾を孕むものだ、と私には思える。あまりに生々しい悲惨は人の目を背けさせることができるだけだが、だからといってそれ以外に何が必要なのか。

 わたしは平和教育を受けたことがない。広島、長崎、沖縄本島に行ったことがない。60年間平和教育のために費やされた努力というものがどういうものかまるで分かっていない人間がこんな発言をするのは許されないことなのでしょうが・・・

Aさんの名誉回復したければ勝手にすればよい

http://www.nomusan.com/~essay/essay_31_tokasikijima.html経由で)

http://www.kantei.go.jp/jp/sihouseido/dai34/34gijiroku.html 第34回司法制度改革審議会議事録

というところで、曾野綾子が自作について語っているので、ちょっと読んでみよう。

最初にいままで何が事実とされていたか、を彼女は述べる。

 3月下旬のある日、米軍はこの島を砲撃後上陸を開始し、それを恐れた約三百人の村民は軍陣地を目指して逃げましたが、陣地内に立ち入ることを拒否され、その上、当時島の守備隊長だった赤松嘉次隊長(当時25歳)の自決命令を受けて次々と自決したというものでした。自決の方法は、多くの島民が島の防衛隊でしたから、彼らに配られていた手榴弾を車座になった家族の中でピンを抜いた。また壮年の息子が、老いた父や母が敵の手に掛かるよりは、ということで、こん棒、鍬、刀などで、その命を絶った、ということになっております。

ところで曾野氏が論点として掲げるのは次の点だ。

これらの著書は、一斉に集団自決を命令した赤松大尉を「人非人」「人面獣心」などと書き、大江健三郎氏は「あまりにも巨きい罪の巨塊」と表現しています。

Aさんという方がどの程度悪人だったかどうか、にみんなが興味があったわけではなかろう。

Aさんという方がどの程度悪人だったかどうか、というトリヴィアルな話題にわざわざ本土からやって来て食いついたのが、曾野綾子だ。もちろん文学者がどのような点に注目するかは彼女の勝手である。ある点に注目することで彼女はどのような文学的テーマを展開してくれるのであろうか。だが彼女が語るのは次のような言葉だ。

赤松隊に所属した人々の心を深く傷つけていたのです。

Aさん及び彼の隊の人に対し、無条件に寄り添おうとしているかに見える。大江のような平和主義に染まった文学者が「犠牲者」とされた人に無条件に寄り添おうとするそのことにより事実が少し偏向された形で表現されていく、そのことを批判したいのではないのかね。自分も(右と左が違うだけで)同じ形の思想なら、批判は成立しない。

本土では赤松隊員に個別に会いました。当時守備隊も、ひどい食料不足に陥っていたのですから、当然人々の心も荒れていたと思います。

大変だったと思う。そして死者たちにはどういった回路で会ったのか。作家の本質はそこでこそ問われる事をまさか知らない訳でもあるまい。

 途中経過を省いて簡単に結果をまとめてみますと、これほどの激しい人間性に対する告発の対象となった赤松氏が、集団自決の命令を出した、という証言はついにどこからも得られませんでした。第一には、常に赤松氏の側にあった知念副官(名前から見ても分かる通り沖縄出身者ですが)が、沖縄サイドの告発に対して、明確に否定する証言をしていること。また赤松氏を告発する側にあった村長は、集団自決を口頭で伝えてきたのは当時の駐在巡査だと言明したのですが、その駐在巡査は、私の直接の質問に対して、赤松氏は自決命令など全く出していない、と明確に証言したのです。つまり事件の鍵を握る沖縄関係者二人が二人とも、事件の不正確さを揃って証言したのです。

しかしこういう風評を元に「罪の巨塊」だと神の視点に立って断罪した人もいたのですから、それはまさに人間の立場を越えたリンチでありました。

「Aさんが、集団自決の命令を出した、という証言はついにどこからも得られませんでした。」それで? Aさんの名誉は回復されるべきだと、ふーん、勝手に回復すれば、としか言いようがない。

日本民族の運命に関わる巨大な悲劇に遭遇しながら彼女は、文学にも悲劇にも興味がないようだ。Aさんの名誉にしか。