門の外でも建造物侵入?

参考  http://www2u.biglobe.ne.jp/~hyakuman/

http://www.asahi.com/national/update/0305/TKY200503040374.html

都立高敷地内でビラ配布、2人逮捕 建造物侵入容疑 – asahi.com : 社会

東京都町田市の都立高校の敷地内で卒業式の前に、「日の丸・君が代」に反対するビラを配ったとして、警視庁は4日、建造物侵入の疑いで、60歳前後の男2人を現行犯逮捕した。いずれも黙秘しているという。

 町田署の調べでは、2人は4日午前8時45分ごろ、ビラを配るため、同校の敷地内に侵入した疑い。2人は学校の正門前だが、敷地内にあるバス停留所付近で生徒や父母に配っていたという。教員が注意したが立ち去らなかったため、同署に通報。退去を求めた署員にも従わなかったという。

 都立高校の今年の卒業式をめぐっては、日の丸・君が代に反対するビラ配りが校門周辺で行われ、校長が警察に通報する例が相次いでおり、都教委は「すべては把握していないが、4、5校から報告があった」としている。 (03/05 01:32)

指導要領の法的拘束性

# swan_slab 『【指導要領の法的拘束性については、教育法学説上争いがある。代表的な学説として、①大綱的基準説、②外的教育条件説、③学校制度的基準説をあげることができる。①によると、学校教育法の委任による教育課程に関する国の法規命令事項は「ごく大綱的な基準」に限られるとされ、指導要領は大部分が委任の限界を超え、法的拘束力を有しないが、指導助言文書としては適法であると考えられている。②では、教育行政は教育内容、方法に介入することは許されず、指導要領は、大綱たると細目たるとを問わず、教育内容、方法に関する限り、指導、助言の効力しか持ちえないとみなされている。③は現在の通説であり、学校教育法が立法化を予定しているのは「学校制度的基準」をなす各学校段階の教育編制単位である教科目等の法定に他ならないとし、したがって、指導要領は助言指導的基準としてのみ適法であると説いている。】憲法判例百選第四版143【伝習館高校事件判決】P-302

なぜ国家が教育内容に強制力を行使できるか、というのは難しい問題ですね。』

(野原燐)

 スワンさん コメントありがとうございます。

最高裁の判断の一部に、「困ったね」という点があっても、それが常識につまり憲法に違反するものであれば、是正されていく可能性はあるということですね。

 それと、学習指導要領はあくまで学校教育法の下部の通達(みたいなもの)にすぎず、その法の範疇内でしか拘束力を及ぼしえないと。学校教育法というのは基本的には学校というものをどういう風に設置していくのかを規定したつまらない法律に過ぎない。教育の方向性とか愛国心とかの話は教育基本法の範囲になるだろう。

 そこで、憲法と教育基本法さえ変えたら、わたしのような?不満分子はぐうの音もでない、ということになる、というストーリーで世の中は動いていくのでしょうか。

 ところがこのストーリーには無理がありすぎます。最初に「日の丸」「君が代」というつまらないものがあり、それを守るために憲法を変えてしまうことになる。戯画化されたアサヒ岩波知識人の悪夢に合わせて世の中は動いていくのですね。PKディックみたいですが、アメリカも実際にそうなのだし、前の大戦のように日本中が焦土になるまで引き返せないことにならないよう祈るのみです・・・

大東亞南米共榮圏

 日中戦争は、つまり大東亞南米共榮圏の一部なのですが、その理念は白人の有色人種国家の植民地化、奴隷化による白人中心世界を打破するものであり、現地で朝鮮人も軍人として、給与を与え、仕事を与えました。

その朝鮮人が婦女暴行などを行った事実はスルーですか。

私は、唯一、白人社会と戦った有色人種である祖先を罵倒する精神が理解できません。

http://d.hatena.ne.jp/DaI/20050327#1111939474

中国大陸で、皇軍兵が婦女暴行などを行ったと。でその皇軍兵には朝鮮人が多かったという主張でしょうか? 根拠は?

日本の「構造改革」

下記ブログの、シリーズ「民主主義のガバナンス」を考える(1/4)~(4/4)は大変勉強になった。ありがとう。

http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050327/p1 toxandriaの日記

日本国民は、その実態が「官から民へ」どころか第二次世界大戦後の約60年間に営々と築かれてきた「絶対的官僚優先社会」の基盤が更に一層強化されてきたことを知り愕然とするはずです。

ここには明らかに一般国民に対する欺瞞があります。「官から民へ」という耳障りが良いキャッチ・フレーズの下で行われているのは、国民一般の反官僚意識を巧みに誘導して、高級官僚と財界トップの主導による「政・官・財の談合癒着構造」を巧妙に深化させることです。

「構造改革」という大義名分の下で「巨大資本の行動の自由化」と「公的業務(公共)の市場化・企業化」(民営化路線)の推進ということです。その派生的な弊害として、就労機会の拡大やアウトソーシングなどの美名を冠せられた「雇用差別の奨励」という深刻な事態が発生しています。これは、「オランダ・モデル」の象徴とされるタイム・シェアリング政策などとは程遠い、陳腐で黴が生えた「下請業務の外注化」(昔懐かしい?“女中さん”方式の働かせ方)の手法に過ぎないのです。

一方、日本の財政赤字の根本原因は、主に政治家及び行政府と官僚たちによって積年に及び遣りたい放題に食い荒らされてきた「壮大な税金(国民の血税)の無駄遣い」です。しかも、日米両国の財政は「もたれあいの構造的癒着」の絆を一層強めつつあるのです。それを日本から見れば、アメリカの財政赤字を補填する仕巧妙な仕組みの中に一方的に取り込まれているという意味で、まことに隷属的な日米関係です。

http://d.hatena.ne.jp/toxandoria/20050328/p1

このような状況下で、特に

「②国民一般における政治的無関心層や無党派層の拡大

③主権意識の喪失と選挙権を安易に放棄する傾向の拡大」といった状況下で、

それを補完する形で、「愛国的言説」「現状肯定主義」が出てきていることを確認しておいた方がよいでしょう。

神~測り

私たちは、そうではなくて、ある他の測りを持っています。すなわち、神の子、まことの人間という測りです。彼こそが、ほんもののヒューマニズムの測りです。あるときまるで流行の波ようにやって来る信仰は「大人」ではありません。大人であり、熟した信仰は、キリストとともにある友情のなかに深く根ざしているのです。この友情が、すべての良いものに向けて私たちに開かれ、正しいか間違いかを、また欺瞞か真理かを識別するための基準を与えてくれるのです。

(コンクラーヴェ開始のラッチンガー枢機卿によるミサ説教より引用。)

http://d.hatena.ne.jp/karpos/20050420#p1

 ラッチンガーさんが新教皇になられたそうです。わたし、キリスト教にもカトリックにも全然知識も関心もありません。自分に遠い領域にも出会えるのがネットのおもしろさですね。*1

 ただ上記の文章を読んでなんとなく引用してみたくなりました。「真理が存在する」という命題をポスト構造主義は批判したわけです。*2一方、「真理あるいは正義は存在しない」=なんでもあり! という風潮に対し激しくあらがっていかなければいけない。(ここでわたしが、あらがわなければいけないと考えているのは、宣長から小泉首相に受け継がれた“言挙げを馬鹿にし、結局ナルシスティクな国家主義に帰着する”思想です。)*3

*1:karposさんにはご寛恕を請うしかないが。

*2:ほんとか?

*3:わたしが上の文章をまったく誤読している可能性も高いのですがそれはいつものことだから言い訳はしない。

天地の始は今日を始めとする理なり。

北畠親房『神皇正統紀』p83(岩波日本古典文学大系)

小学校学習指導要領

http://www.mext.go.jp/b_menu/shuppan/sonota/990301/03122601/003.htm

小学校学習指導要領(平成10年12月告示、15年12月一部改正)-第2章:各教科-第2節:社会

(1) 我が国の歴史上の主な事象について,人物の働きや代表的な文化遺産を中心に遺跡や文化財,資料などを活用して調べ,歴史を学ぶ意味を考えるようにするとともに,自分たちの生活の歴史的背景,我が国の歴史や先人の働きについて理解と関心を深めるようにする。

ア 農耕の始まり,古墳について調べ,大和朝廷による国土の統一の様子が分かること。その際,神話・伝承を調べ,国の形成に関する考え方などに関心をもつこと。

  イ 大陸文化の摂取,大化の改新,大仏造営の様子,貴族の生活について調べ,天皇を中心とした政治が確立されたことや日本風の文化が起こったことが分かること。

ウ 源平の戦い,鎌倉(かまくら)幕府の始まり,元との戦い,京都の室町に幕府が置かれたころの代表的な建造物や絵画について調べ,武士による政治が始まったことや室町文化が生まれたことが分かること。

7/03(1)への応答

#drmccoy 皇国・皇軍が「強制」したとおっしゃいますが、具体的にどのような方法で強制したんでしょうか?

(野原)住民の半数が米軍に“保護され”生きのびています。皇国・皇軍の「強制」がなかったのなら、彼ら(死んだ方の半分)はなぜ死ななければならなかったのでしょうか。

自殺した以上そこには自己の意志という契機が存在している。つまり「一種のマインドコントロール」の下にあったのだ、と(スワンさん発言の援用して)野原は主張しますが、だからといって幾ばくの自己責任が存したことは否定しません。

彼らの死が百パーセント強制によるものと言えるのか?とマッコイさんは論を立てているようですが、彼らの死の原因をたずねた場合、それが共同体の常識だったという意味を含めた強制が大きく作用していたといいうる、というのがわたしの主張です。

サイパン島の崖の上から

     崖

           石垣りん

戦争の終り、

サイパン島の崖の上から

次々に身を投げた女たち。

美徳やら義理やら体裁やら

何やら。

火やら男だのに追いつめられて。

とばなければならないからとびこんだ。

ゆき場のないゆき場所。

(崖はいつも女をまっさかさまにする)

それがねえ

まだ一人も海にとどかないのだ。

十五年もたつというのに

どうしたんだろう。

あの、

女。

(「表札など」『石垣りん詩集』ハルキ文庫p89)

責任の欠如・強制の欠如というイデオロギー

isbn:4480857621 『南京大虐殺は「おこった」のか』筑摩書房  1998

クリストファー・バーナード著

という本が図書館にあったので借りて読んでみた。

以下メモ。(ちゃんと説明するのに手数の掛かる本なので、分かりにくいままですまぬ。)

まとめ

日本の歴史教科書(特に日本史)は偏向している。

この偏向は責任の欠如や強制の欠如というイデオロギーを表明している。

このイデオロギーは日本国の権力保持者の面子を守ろうと努めている。*1

この本は、日本の高校で1995年に使われた全88種類の歴史教科書を全部比較したものです。

取り上げたのは、いつも論点になる、南京大虐殺、真珠湾/パールハーバー、815など4点*2

テーマは書いてあることは事実か、という問いではない。文体レベルの微細な差異によって、受ける印象はずいぶん変わってくる。そのような差異を扱っている。

 幸い、日本とほぼ同時期にドイツ・イタリアも開戦し、敗戦した。したがって、ドイツ等の記述と日本に対する記述を比較できるわけである。

教科書からのサンプル1

 ドイツはオーストリアを併合し、1939年には独ソ不可侵条約を結んだのち、9月ポーランドに侵入した。p80

教科書からのサンプル2

日米交渉はゆきずまり、12月8日未明、日本軍はイギリス領マライに奇襲攻撃をおこなうとともに、ハワイの真珠湾に空から奇襲攻撃をかけ、アメリカ・イギリス・オランダに宣戦を布告した。これが太平洋戦争のはじまりである。p76

上では「侵入した」という攻撃を示す動詞が最も強調されている。

このような(広い意味の)「攻撃」が本動詞になっている場合が、日本の場合は9%だが、ドイツの場合は40%になっている。

後者の場合、前者と違い、国家ではなく軍が行為主体となっている。

軍が行為主体となっている率は、日本が49%、ドイツは19%である。

ポーランドに侵入した」という切迫した文章に対し、「これが太平洋戦争のはじまりである。」という文章は説話的である。「ストーリーを語ることから一歩下がって、時間を超越した全知の観察者の立場にたち、すでにおきたことについて論評しているのである。」*3

つまり、日本国や日本軍何れに対しても攻撃の責任はさほど明確に与えられていないし、攻撃は「主たる話」にはなっていない。p82

責任の欠如とよべるイデオロギーに結びついた用法のパターンが教科書に見られる。p82

(以上 メモ)

*1:p142同書

*2:もう一つはなんだったかな

*3:p76