およそ政治倫理上の常識が許さない。

 丸山真男に『戦争責任論の盲点』という短い文章がある。(思想の言葉、「思想」昭和三十一年三月号、岩波書店)というから、1956年、50年ほど前に書かれた文章だ。みすず書房「戦中と戦後の間、1936-1957」の596ページから601ページにある。

下記のurlで、ほぼ全文が読めます。

http://www2s.biglobe.ne.jp/~mike/maruyama.htm 丸山眞男、戦争責任

天皇の戦争責任について述べた処を抜粋して見る。

この二点に注意しながら、我が国の戦争責任とくに政治的な責任問題の考え方をふりかえってみるとき、そこに二つの大きな省略があったことに思い至る筈である。一つは天皇の戦争責任であり、他は共産党のそれである。この日本政治の両極はそれぞれ全くちがった理由によって、大多数の国民的通念として戦争責任から除外されて来た。しかし今日あらためて戦争責任の問題を発展的に提起するためには、どうしてもこの二者を「先験的に」除外するドグマを斥けねばならぬ。

 天皇の責任については戦争直後にはかなり内外で論議の的となり、極東軍事裁判のウェッブ裁判長も、天皇が訴追の対象から除かれたのは、法律的根拠からでなく、もっぱら「政治的」な考慮に基づくことを言明したほどである。しかし少くも国内からの責任追求の声は左翼方面から激しく提起された以外は甚だ微弱で、わずかに一、二の学者が天皇の道義的責任を論じて退位を主張したのが世人の目を惹いた程度である。実のところ日本政治秩序の最頂点に位する人物の責任問題を自由主義者やカント流の人格主義者をもって自ら許す人々までが極力論議を回避しようとし、或は最初から感情的に弁護する態度に出たことほど、日本の知性の致命的な脆さを暴露したものはなかった。

 大日本帝国における天皇の地位についての面倒な法理はともかくとして、主権者として「統治権を総攬」し、国務各大臣を自由に任免する権限をもち、統帥権はじめ諸々の大権を直接掌握していた天皇が――現に終戦の決定を自ら下し、幾百万の軍隊の武装解除を殆ど摩擦なく遂行させるほどの強大な権威を国民の間に持ち続けた天皇が、あの十数年の政治過程とその齎した結果に対して無責任であるなどということは、およそ政治倫理上の常識が許さない。事実上ロボットであったことが免責事由になるのなら、メクラ判を押す大臣の責任も疑問になろう。しかも、この最も重要な期間において天皇は必ずしもロボットでなかったことはすでに資料的にも明らかになっている。にも拘らず天皇についてせいぜい道徳的責任論が出た程度で、正面から元首としての責任があまり問題にされなかったのは、国際政治的原因は別として、国民の間に天皇がそれ自体何か非政治的もしくは超政治的存在のごとくに表象されて来たことと関連がある。

 自らの地位を非政治的に粉飾することによって最大の政治的機能を果たすところに日本官僚制の伝統的機密があるとすれば、この秘密を集約的に表現しているのが官僚制の最頂点としての天皇にほかならぬ。したがってさきに注意した第一の点に従って天皇個人の政治的責任を確定し追及し続けることは、今日依然として民主化の最大の癌をなす官僚制支配様式の精神的基礎を覆す上にも緊要な課題であり、それは天皇制自体の問題とは独立に提起さるべき事柄である。(具体的にいえば天皇の責任のとり方は退位以外にはない。)天皇のウヤムヤな居据りこそ戦後の「道義頽廃」の第一号であり、やがて日本帝国の神々の恥知らずな復活の先触れをなしたことをわれわれはもっと真剣に考えてみる必要がある。

 天皇の戦争責任は(残念ながら)(法的には)(政治的には)あるとは言えない。という“無かった”の上にわたしたちの戦後は成立し今に至っている。沖縄住民集団「自決」問題の責任が(彼に)<無かった>という事実が法的に確定していくとすれば、それは天皇において起こった事がその末端においても確認されるということで、当然のことにすぎない。

 丸山は「天皇が、あの十数年の政治過程とその齎した結果に対して無責任であるなどということは、およそ政治倫理上の常識が許さない。」と言った。私もそう思う。朱子学の大義名分論の二種類の過激化として、水戸学と平田派国学があり、明治維新の思想的根拠はそれだった。45年8月まで日本を支配した狂気(一億玉砕)にもそれらは深く流れていた。

政治倫理上の常識、と丸山が言うときそれは儒教的あるいはカントヘーゲル的な常識と考えていいだろう。では、水戸学と平田派国学的な常識から考えれば、天皇は無罪になるのだろうか。断じてそんなことはない。無罪を導こうとすればそれは「奴隷の神学」から、だけだ。

老人介護問題

http://med-legend.com/mt/archives/2005/09/post_665.html 医学都市伝説: 老人介護を楽になる方法

「痴呆老人を介護する家族の苦労というのは並大抵のものではな」い。どう向きあったら良いか?

上記ブログでは、「言語的コミュニケーションを重要視するな」と提唱している。

したがって、その対応は非言語的なレベルでの受容というものが中心になるべきで、もっと簡単にいえば、「説教せずに、相手のいうことはハイハイと受け入れ、主にボディコンタクトなどを介して行動を導く」という単純な手順だけで、痴呆老人の問題行動のかなりの部分は軽減する。もちろん、しつこい非現実的要求が続くことはあるが、それを言語的説得しても意味はない。あえていえば、「とにかくその場はゆったりとごまかす」という対応で十分だ。何しろ相手はぼけているのである。このアドバンテージさえ自覚すれば、いくらでもごまかせる。

その意味では、痴呆老人への対応のエキスパートはそこらの医療福祉関係者ではなく、リフォーム詐欺などを生業にしている連中であろう。非言語的レベルで相手の不安をうまく和らげれば、言語合理性のレベルでは無理とも思える消費行動に引き込むことも出来るのだ。医療福祉関係者はこのテクニックを、何としても学ぶべきであると思われる。

老人介護のことは何も分からない。ただ「非言語的レベルで相手の不安をうまく和らげ」るというのは、どんな場合でも大事なことなのだろう。わたしにはできないが*1・・・

*1:居直らない!

22日20時

事件発生後、4日以上経ってようやく「Warning!!」の怖い壁紙を消すことができました。もちろん主に友人の力によってですが。

さて、Firefoxにでも乗り替えるかな。

(ところで、怖い壁紙に脅かされながら、デリダとか致死性とかゴタクを並べるってちょっと変ですね。今回ウイルスにやられたのはうちの奥さんので、私のは大丈夫だったのです。だからデリダとかの文章はその壁紙とは離れた場所で書いたのです。)

教育勅語

教育ニ関スル勅語

朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國軆ノ精華ニシテ教育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ徳器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壌無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顕彰スルニ足ラン

斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ挙挙服膺シテ咸其徳ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ

明治二十三年十月三十日

   御名御璽

昭和23(1948)年 国会で排除・失効確認を決議

最悪の「天皇制支持者」たち

http://blog.livedoor.jp/yuichi_fkd/archives/50126247.html

なにものかのひとりごと:紀宮結婚を騒ぎ立てる日本列島の薄気味悪い空気を感じて

最悪なのはもちろん、上記記事の筆者フクダユウイチ氏ではなく、下記のようなコメントを付ける奴ら。

なさけない。

フクダユウイチくん

ついに超えてはいけない一線を越えてしまったね。

Posted by あ~あ at 2005年11月16日 18:56

日本の禁忌に触れないほうがよろしいかと。

Posted by 天皇家は日本の禁忌の一つです。 at 2005年11月16日 19:04

あーあやっちゃったね・・。

荷物まとめてどこかに逃げた方がいいよ。

しかし本当に頭悪いんだね。

Posted by ここの閉鎖も時間の問題 at 2005年11月16日 19:11

ところで、裕仁氏は「皇祖皇宗に対し、又国民に対し、責任をおとり被遊、御退位被遊が至当なり」であったのに退位しなかった。もはや憲法1条を廃棄するしかわたしたちの倫理の根源を救うことはできないのではないか、と思わないでもない。参考 http://d.hatena.ne.jp/noharra/20051109

(11/22追加)

大学闘争

00318/00319 VYN03317 野原燐 大学闘争(概念集の一項目から)( 1) 00/07/24 08:04 00310へのコメント

以下に、1989・1 松下昇概念集・1 から、p22「大学闘争」という項目を転記する。

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    大学闘争

 この概念を見掛けの狭さから、どれだけ広いテーマ領域へ解き放つことができるか、によって、この概念を論じる人の情況論や表現論の水準は明らかになるだろう。具体的な大学闘争が殆ど存在しないようにみえる現在こそ、そういってよい。

 前記の水準への指標として、次の規定を掲げておく。

「大学(闘争)は、階級闘争が最も幻想的に展開される空間(における)闘争である。」(69・12・l4都立大学解放学校における発言ーー表現集に収録)「ある事件とされるものの現実過程と、それに交差する幻想過程の比重が、ほぽ拮抗し、あるいは後者が前者をのみこみつつある世界(史)的な段階、それがいわば大学闘争なるものを生み出した情況の本質ではないか。(75・l1・20同志社大学EVEにおける発言ーー発言集に収録) 文書として発表したものでは、~198l・7・29~付けの神戸地裁あて{最終意見陳述書}(表現集・続編に収録)の全文を読んでいただきたいが、とりわけ、7・大学闘争とは何か、の項が重要である。

「大学闘争は、たんに、虚偽にみちた大学の機構や当局者たちだけを批判してきたのではない。もっと巨大で、無意識のうちに私たち全てをつつみこんでいる矛盾の総体と格闘してきたのである。これまでのあらゆる革命運動が見落としてきた領域を、現在まで人類史が累積してきた諸幻想領域との関連で把握し止揚の道を切り開くこと。大学闘争の個々の参加者、政治党派の思い込みとは別の位相でこの方向性は存在し続けている。(・・・) 根本的なところでの勝者があるとすれば、それは、この闘争(裁判をふくむ)においてだれが最もよく、時間、空間、関係性を包括し、その方法を世界に開示しえているかという基準で測らねぱならないであろう。この点においては、私たち、仮装被告団こそが勝利してきたといえる。しかしこれは、たんに誇っていうのではなく、やり残した課題について自己批判的に、また、未来における共闘者への、ある~的なあいさつとしていうのである。(註ー原表現の~の部分には「この表現をうけとった人が任意に記入してください」というエンピツの書き込みがある。

時の楔通信第〈九〉号からも、次の二ヵ所を引用しておく。

 「{ }公判過程とは、大学闘争の提起したテーマ群の対象化に要する時間性が、人間の生涯より長いこと、また、対象化を要する空間性が眼前の社会総体を占拠し、かつはみ出していることを否応なしに前提とせざるを得ない過程なのである。」(3ページ) 「~70~年の深淵と仮装性の本質をかいまみたものは、法的に被告であろうとなかろうと、出会ったテーマが、おそらく言語の発生から現在までの全時間の関係性に対応していることを直感している。」(35ページ) このように概念規定したこと、せざるをえなかったことが<私>の不幸かも知れない。

(G1-22)---------------------------------

bogus-simotukare 発言に、切れてしまった

id:bogus-simotukare 曰く

2012/03/10 06:17 id:noharra

ブクマとトラバを送ったのだから応答したらどうかね?。ツイッターの質問大歓迎というのは嘘だったわけかね?。

オーセルとか言う女は俺は「死んだ方がいいバカ女」「いっそ中国共産党がぶっ殺してくれないか、その方が世のためじゃないか」とすら思うが、君はどう思う?

http://d.hatena.ne.jp/noharra/comment?date=20120310#c から削除。

poppo-x 『↑まずは、この問題に関する日本政府の対応の「一次資料」中の「一次資料」である『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』を読むべきでしょう。

pdfで下記サイトから全文読めます。

http://www.awf.or.jp/program/index.html

noharra 『poppo-xさん

お久しぶりです。

たしかにこれが基礎資料ですね! ただ

http://www.awf.or.jp/program/pdf/p001_005.pdf

p001_005.pdf (application/pdf オブジェクト)以下はともかく、

http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_1.pdf

ianfu_1.pdf (application/pdf オブジェクト)以下は、だいたい約500~600頁の本が5冊ですか?

膨大すぎてわたしのような怠け者にはちょっと辛いですねえ。どこかにまとめとか感想とかあればまた教えてください。』

noharra 『ああそうか。 上が下のまとめなのか。だからまず上を読めば良いと。なるほど。』

松下昇への接近

全ての問いを、その極限まで展開しうる状態の中に存在せしめよ!

…… 告発し、占拠する、関係としての原告団をつくろう!

上記から入れる1969年に書かれた「情況への発言」というビラ(あるいは貼り紙)表現から1行引こう。http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/matu1.htm

  〈神戸大学教養部〉の全ての構成員諸君!  

このストを媒介にして何をどのように変革するのか、そして、持続、拡大する方法は何か、について一人一人表現せよ。(松下昇)

26年後、松下も野原も六甲大地震に出会う。カタストロフ。このカタストロフを媒介にして何をどのように変革するのか、そして、持続、拡大する方法は何か、について一人一人表現せよ。という文章を作ることができる。911も同じである。わたしたちはまあ実際のところ大樹のように大地にしっかり根を下ろしているわけではない。わたしたちはすぐにふとしたことで根拠を見失ってしまう。松下はそれを逆に祝福と考える。出世のためとか学問のためとかあるいは革命のためとかいった目的をもった人生がきしみを感じる。<わたし>が情況のうねりのなかで何かを感じているのだ。それに気付いても正確に言葉に出来た人は少ない。<何をどのように変革するのか、そして、持続、拡大する方法は何か、について一人一人表現せよ!>という命令はその希有の例であるだろう。

(酔っぱらい)マンガ日記

 職場の新年会で酔っぱらってしまった。というかわたしは弱いのに別に酒嫌いでもないから自制しない限り酔っぱらいます。人と会うのが苦手なので、人がいるところでは。

 会合はすばやく終わり、わたしは一人で「マンガ喫茶」に行きました。マンガ喫茶とかもっと行っても良いのになぜかなかなか行けません。店の過半のマンガをざっと見渡したて、「やっぱり」の大友と(名前がどうしても出てこずにグーグルしてやっと分かった)岡崎京子を一冊づつ読んだ。岡崎は“Take it easy”というの、大友は王、仁、惨、吾、岩、なんていう名前の付いたボスたちが活躍するSFみたいなの。ググールしてもなかなかでてこずやっとわかった「ナンバーファイブ(吾)」という作品。(酔っているから記憶力がないのか。)ある方が「これが文字通りの傑作。」と書いてますがわたしも同意見です。粗筋と登場人物の異様さはワンピースに少し似てるが、でも比べられないほど大友の方が取っつきにくい。一方岡崎のは、(云々と昨日書いたが読み返すと嘘なので削除)やっぱり名作には違いない。

 TUTAYAに寄ってから帰ってテレビを見た。なぜか今頃ブッシュ再選をテーマにした番組で、藤原帰一氏が出てた。ブッシュとアメリカの大衆は、911とフセインが関係あると思っているが、プロから見ればなんだそりゃ、と言うしかないようなもんだ。ブッシュとアメリカの大衆は、世界の一般的感覚からどんどんずれて行ってるのに気付かずにこのまま行きそうだ。でも日本だけはアメリカに付いて行ってるのかも。という話で、ネクラな反米左翼にも受け入れやすい話だったが、視角がまったく違って新鮮だった。あの女性はなんというのだろう。切り込みが鋭く感心した。それでもそれでもブッシュ再選可能性は55%以上あるんだと・・・日本人なら小泉の心配をしろ、という意見が正しいが。