敷島のやまとにしき

ふみわくる深山紅葉(みやまもみじ)を敷島のやまとにしきと見る人もがも

みだれ世のうき世の中にまじらなく山家は人の住みよからまし

草まくら夜ふす猪(しし)の床とはに宿りさだめぬ身にもあるかな

         亀山 嘉治

 幕末、尊皇攘夷の動きが高まり遂に幕府と戦うに至ったのは長州藩ですが、同じ頃(1864年(元治元年)3月)*1水戸天狗党(水戸藩の尊皇攘夷派)も筑波山に挙兵したが(藩内内戦)敗北し藩領を脱出、京を目指し中山道を進んだ。

参考 http://www1.ocn.ne.jp/~oomi/tokusyu4.htm

その天狗党に参加していた、ある平田派国学者の詠んだ(行軍中に)歌です。といっても、小説『夜明け前』からですからフィクションなのでしょう。

「木曽山の八岳(やたけ)ふみこえ君がへに草むす屍(かばね)ゆかむとぞおもふ」、という歌もありこれは「海ゆかば」と同趣旨ですね。

尊皇の至誠というものが<美>でありえた時があった。なんて言ってしまうとお前は右翼か!と批判されるでしょう。尊皇の至誠というものが<美>でありえる、のは、尊皇が絶対権力=国家と結合しない時だけだ、ということは確かだと思われます。

秩序に反する者を非国民、テロリストと言って恥じない者は<至誠>の対極に存在する者たちだ。

*1:同年の年表では「水戸天狗党の筑波挙兵、松平定敬・京都所司代に、池田屋事件、禁門(蛤門)の変、第一次長州征伐、天狗党降伏」となります。

内田樹の靖国問題(続き)

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050907#p1 の続き

下記コメント欄で、kuronrkobousyuさんとcharisさんの議論が、継続中です。

http://d.hatena.ne.jp/charis/comment?date=20050910

下記に一部だけ抜き書きし、野原の感想を書きます。誤解を与えてしまうといけないので、ぜひ全文を読んで欲しい。

charis

「英霊は<心ならずも>戦争に動員されたのではなく、<自らの意思で>行ったのだ」というのが、靖国派の主張ですから、「英霊の心が一番分るのは自分たちだ」と思い込んでいる。だから、内田氏の主張は、靖国派にとって「大いに不愉快」なものである可能性もあります。

「英霊」と呼ばれる人たちはたとえ自らの強い意志で参戦しようとも、彼らの人生を中断されたわけだ。狭義の自衛戦争ならともかく倫理的にいかがわしい戦争において。したがって彼らは絶対的な国家からの被害者である。*1(野原)

内田は「死者の気持ちは分りようがない」と主張する。

反靖国派の「英霊は国家の犠牲者」論を「英霊は<心ならずも>戦争に動員された」という英霊の気持ち論に縮小してそれを否定している。

(charis)

反靖国派のあるべき視点は、「英霊の気持ちを代弁する」のではなく、「彼らが英霊になったという<出来事>の意味に向き合う」ことにある。だから、内田氏の主張とは矛盾しないのです。

(野原)

「死者は語れない」は正しい命題だ。そして死者の声を表象代行することに恥じらいがないのが、左右のイデオローグであることも内田の言うとおりだろう。(死者は表象代行されたとたんどっかへ行ってしまい、死者の腐臭は失われる。)

「 共同体をめぐるほとんどの対立は「死者のために/死者に代わって」何をなすべきかを「私は知っている」と主張する人々の間で交わされている。(内田)」「私は知っている」と主張する者たちを否定するのはよい。しかし死者が死んでいったその一瞬の意味に接近しようと考え続ける努力は必要なのではないか。

結局のところ「大東亜戦争」をどう評価するのかという問いは避けて通れない。私は竹内好にならった二面論者だ。対中国侵略戦争、対米帝国主義戦争。前者は倫理性から遠く離れたものであり、その限りにおいて「大東亜戦争」総体も否定される。敗戦、戦後日本は「反省」し戦前と断絶することにより新国家となった。したがって国家による慰霊はなされるべきではない。

敗戦を認められないのはファシズム国家であり、それは今再生したみたいですね。

*1:もちろん被害者でありながら加害者でもたいていの場合あった。将校の場合戦争を遂行した責任をより強く問われるのは当然

今朝の神さま

大名持神 大洗磯前社

少彦名神 酒列磯前社   以上 常陸両社*1 

大洗礒前薬師菩薩(明)神社[オホアライソザキノヤクシホサツノ](名神大)

大洗磯前神社[おおあらいいそざき]「大己貴命、少彦名命」創建は由緒書きよりもっと古く、荒吐神の姿が見える神社である。茨城県東茨城郡大洗町磯浜町字大洗下6890 

酒烈礒前薬師菩薩神社[サカツライソザキノ・・](名神大。) リンク 酒列磯前神社

酒列磯前神社[さかつらいそさき]「少彦名命、大己貴命」斉衡三年。

茨城県那珂湊市磯崎町4607

http://kamnavi.jp/en/hitati.htm 延喜式神名帳 東海道 常陸国hitati

ところで、平田篤胤と平行して笙野頼子『S倉迷妄通信』を読んでいるのだが、彼女の場合は神が直接夢に出てきたりするらしい。

  前の担当 ○ルタヒコ

  今の担当 ○クナヒコナ  同書p96より*2

ちなみにガイドブックみたいなもので調べた限りでは、この神は各県の一の宮などの主要神社の、どこにも「単品」では祀られていない。*3

というのは少彦名のことだが、笙野は酒列磯前社を主要神社に数えていない。しかし、延喜式神名帳の名神大社だし、篤胤も重視しているということから主要神社と言えると思う。

 私は神社訪問などもほとんどしたことはないのだが、能登半島の羽咋、気多大社に先日行って気付いたことは、岬ほど尖ってないが陸が海に向かって大きく張りだした丘があり、海が180度以上大きく見渡せる場所だ、ということだ。地図で見る限り、酒列磯前社も同じような地形の所であるようだ。ましてひたち、日立ちの国、日の出を拝むには最良の場所の一つであっただろう。神が海から来たというよりも、ひとが海を見ることの感動が神を生んだのではないかと思った。

ちなみにいまの神社から海は見えないのかもしれないが、数百年前まではそうではなかったらしい。「この古社地は、現社地の西方の海に望んだ場所(鳥居の辺り)であり、」と下記にあった。

 http://www.genbu.net/cgi-bin/mapindex.cgi?index=8&target=place

*1:玉襷の解説より p655 日本思想体系50

*2:「それでも一字欠いたのはやはり国民的神話のとはまるで違う夢や何かのなかの極私的存在だから。」笙野

*3:同書p104

ソクラテスの死の原因

ソクラテスは市囲の知者たちを訪ねては、その無知性を暴き出し、そのためにまた、「知者」を自認する多くの人々反感を買い、ついに、メレトスやアニュトスらによって「無益なことに従事し、悪事をまげて善事とし、かつこれを教授するだけではなく、国家の信じる神々を認めず、新しいダイモニア(神・力)を信じて、青年たちを腐敗させる者」という理由で告発されています。

告発の中心は、「国家の神々を信じない」というところにあったようです。

http://homepage.mac.com/berdyaev/kierkegaard/sokuratesu/main_mails/main3.html ソクラテスとは誰か(2)

であるにもかかわらず、彼は死刑判決を受容し死んでいった。

刊行リスト

  1. 松下 昇(についての)批評集 α篇1(88年5月)
  2. 松下 昇(についての)批評集 α篇2(89年6月)
  3. 松下 昇(についての)批評集 α篇3(95年6月)
  4.  ~        …α系は国家による批評 
  5. 松下 昇(についての)批評集 β篇1(87年9月)
  6. 松下 昇(についての)批評集 β篇1更新版(94年9月)
  7. 松下 昇(についての)批評集 β篇2(88年9月)
  8. 松下 昇(についての)批評集 β篇2更新版(94年9月)
  9. 松下 昇(についての)批評集 β篇3(94年9月)
  10. 松下 昇(についての)批評集 β篇4(94年9月)
  11.  ~        …β系はマスコミによる批評 
  12. 松下 昇(についての)批評集 γ篇1(87年11月)
  13. 松下 昇(についての)批評集 γ篇2(87年11月)
  14. 松下 昇(についての)批評集 γ篇3(87年11月)
  15. 松下 昇(についての)批評集 γ篇4(88年3月)
  16. 松下 昇(についての)批評集 γ篇5(88年11月)
  17. 松下 昇(についての)批評集 γ篇6(93年9月)
  18. 松下 昇(についての)批評集 γ篇7(93年9月)
  19.  ~        …γ系は個人による批評 
  20. 表現集1(88年8月)(註1)
  21. 表現集2(88年12月)
  22. 表現集3(94年4月)
  23.  ~        
  24. 発言集1(88年9月)
  25. 発言集2(88年12月)
  26. 発言集3(94年5月)
  27.  ~        
  28. 神戸大学闘争史 -年表と写真集-(89年5月)
  29.        〃        (その後さらに更新中)
  30. 神戸大学闘争史 -別冊1(93年4月)
  31. 神戸大学闘争史 -別冊2(93年4月)
  32.  ~        
  33. {3・24}証言集 上(89年12月)
  34. {3・24}証言集 下(90年1月)
  35.  ~        
  36. 菅谷規矩雄追悼集(90年10月)
  37.  ~        
  38. 救援通信最終号(91年5月)
  39.  ~        
  40. <6・20討論の記録-不確定な断面からの出立->(91年10月)
  41.  ~        
  42. 正本<ドイツ語の本>(77年9月)
  43. 五月三日の会通信1~26(70年7月~81年12月)
  44. 訂正リスト(93年5月)
  45. 時の楔-< >語に関する資料集-(78年10月)
  46. 時の楔への/からの通信(87年9月)
  47. 時の楔通信<0>~<15>~号(78年10月~86年7月~)、
  48. 訂正リスト(93年5月)
  49. 概念集1 (89年1月)
  50. 概念集2 (89年9月)
  51. 概念集3 (90年5月)
  52. 概念集4 (91年1月)
  53. 概念集5 (91年7月)
  54. 概念集6 (92年1月)
  55. 概念集7 (92年3月)
  56. 概念集8(92年11月)
  57. 概念集9 (93年11月)
  58. 概念集10(94年3月)
  59. 概念集11(94年12月)
  60. 概念集12(95年3月)
  61. 概念集 別冊1-オウム情況論-(95年10月)
  62. 概念集 別冊2-ラセン情況論-(96年5月)
  63.  ~ 
  64. 概念集シリーズへの索引と註(96年1月)
  65. 概念集シリーズへの補充資料(96年1月)
  66. 序文とあとがきから見た既刊パンフのリスト
  67.        〃            2
  68.  ~ 

闘@争 あるいは妄想戦士ルサンチマン

争とは何か? Panzaさんの造語のようである。@(主体の位置を示す)がたまたま闘争のなかに居ることを示している、ということか。

★妄想が闘争を支えている。

★妄想とは「夢を中核として鍛え上げた闘争に向けた言葉」

http://d.hatena.ne.jp/Panza/20051126/p1

 妄想という言葉に躓き、彼女は辞書を引く。「正しくない想念。みだりな思い。」である。想念というものは思想や理念に比べればとりとめのないものである。したがって「正しい/正しくない」という弁別以前の領域にたゆたっているのがむしろ普通である。であるのになぜ妄想に限って「正しくない」と言われるのか。おそらく妄想というのは〈平気ではみ出してくる〉という性格を持っているからであろう。

 「「妄」という字の構成も「亡き女」「亡んだ女」である。」「妄」という一つの字を通してわたしたちは、東アジア数千年の文化、歴史が女性差別的に構成されたものであることを知ってしまう。

もし現実に嬲られたら絶対やり返す。でも相手が漢字では怒っても怒りの向け先がはっきりしない。言葉をはじめ表象物のほうが恐ろしい。

ひとつひとつは些細でも降り積もれば人を厭世観の固まりにしてしまう。

(同上)

 わたしたちは文化総体の歪みから自由になることはできない。しかし文化とは何か。個々のパーツの歪みを周到にまとめ上げ、普遍とか国家の同一性の勝利を結論するシステムが文化なのか。であるとすれば、ぶさいくな肉体でありたゆたう想念である〈わたし〉は、文化総体の歪みから自由であることしかできない。とも言えるのではないか。

相手がどれほどの権威であってもワタシ一人の骨の髄からの感覚を信じることが大事。

嫌なことから逃げたって逃げ切れるものではない。

これからは嫌な言葉は分解して別のものにしてしまおう。(同上)

たぶん、骨の髄からの感覚もやはり、小さな小さな闘いの持続を通して生まれてくるものだと思う。

笙野頼子さんとPanzaさんガンバレ!

私も何かしら自分の出来る事で闘うぞぉ(^○^)

というわけでわたしも声援に声を合わせよう。

NIFTY-Serve 現代思想フォーラム名誉毀損事件裁判 判例

●東京地裁判決(1997.5.26)

http://pie-net.jp/shiryo/saiban/1shin.html

http://www.isc.meiji.ac.jp/~sumwel_h/doc/juris/tdcj-h9-5-26.htm

●東京高裁判決(確定)

現代思想フォーラム事件 東京高裁平成13年9月5日判決

http://www.netlaw.co.jp/hanrei/gendaishisouforum_130905.html

       主   文

1 控訴人Aの控訴を棄却する。

2 原判決中,控訴人B及び控訴人ニフティの各敗訴部分を取り消す。

上記各取消部分に係る被控訴人の控訴人B及び控訴人ニフティに対する請求をいずれも棄却する。

3 被控訴人の附帯控訴をいずれも棄却する。

4 訴訟費用は,控訴人Aと被控訴人との間においては,控訴費用及び附帯控訴費用をそれぞれ各自の負担とし,控訴人B及び控訴人ニフティと被控訴人との間においては,第1,2審を通じて,被控訴人の負担とする。

(5)当裁判所の判断

 当裁判所は,控訴人Aの本件発言(一)から(五)までのうち,一部は名誉毀損又は侮辱に当たると認めたが,脅迫に当たる発言があるとは認めず,控訴人Aに対し原審の認容額と同じ50万円(但し,慰謝料40万円,弁護士費用10万円)及び平成9年5月27日から完済まで年5分の割合による遅延損害金の支払を命じる限度で相当であるものの,その余の部分及び謝罪広告請求は失当で,控訴人B及び控訴人ニフティについては,発言削除義務違反等の責任は認められず,損害賠償の責は負わないと判断した。

つまり、控訴人Aは負けましたが、控訴人B及び控訴人ニフティは負けていません。

AとはLEE THE SHOGUNさん  被控訴人はCookieさん。

従軍慰安婦・朴永心の証言

『女性国際戦犯法廷の全記録・ 第5巻 日本軍性奴隷制を裁く-2000年女性国際戦犯法廷の記録』http://www.ryokufu.com/books/ISBN4-8461-0206-8.html

〔朴永心被害証人ビデオ証言]

--どのようにして日本軍「慰安婦」として連行されたのですか。

朴証人:私は四人兄弟の三番目です。上に兄が二人、下に妹が一人いました。幼い頃母を亡くし継母に育てられました。家はとても貧乏でした。一四歳のとき南浦に行き洋服店の女中として働きました。

 一七歳のときでした。一九三八年三月だったと思います。ある日、日本の巡査が軍服に帯剣のいでたちで洋服店に現れました。彼はいい金儲けの口があるが行かないかというので、そのままついて行きました。そうして私は日本軍の性奴隷になったのです。

--「慰安婦」として連れ回された経路について。

朴証人:はじめ、ほかの娘と一緒に平壌に連れて行かれました。二二歳の女性でした。車に乗せられしばらく走り続けました。数日後着いてみると見たこともない所でした。最初に連れられて行ったのが南京でしたが、そこの「キンスイ楼」に入れられました。私はそこで歌丸という日本名で呼ばれました。そこで三年ほど性奴隷の生活を強要されたと思います。

 たしか一九四二年頃だったと思います。ある朝、表へ呼ばれました。出てみると七名の別の女性たちもいました。皆朝鮮女性たちでした。一緒に行こうと言うのでしたが二名の日本人兵士がいました。その二名が私たちを監視しながら慰安所を後にしました。別の慰安所に行くというのです。

 私たちは南京で汽車に乗りました。上海に行きました。船に乗り換えシンガポール経由でビルマのラングーンに着きました。ラングーンからラシオにある「イッカク楼」へ行きました。慰安所の名前です。そこでまた性奴隷の生活をすることになりました。慰安所の〔経営者が私に名前を付けました。若春という日本名でした。ラシオには二年ほどいました。私がその時相手をしていた二名は今でも名前を憶えています。オオタミノルという将校とタニという軍曹です。

 一九四三年〔正しくは四四年〕春だったと思います。日本軍は私たちを再び車に乗せビルマと中国の境にある拉孟(ラモウ)へ連れてゆきました。日本軍はそこを松山と呼んでいました(中国側の呼称が松山)。その時から連合軍の捕虜になるまでそこにいました。日本軍の性のなぐさみものとしてだけ生かされました。

 松山に来て間もなく猛攻撃が始まりました。連合軍の爆撃でした。私たちがそこで相手をさせられたのは日本軍第五六師団でした。主に歩兵と戦車兵の相手をさせられました。毎日数十名の日本軍から性行為を強いられました。その合間を縫っては握り飯を作り、爆撃の中を運びました。日本軍の戦闘壕へ運んで行ったのです。そこには初め一二名の朝鮮女性が連れられて来ましたが、八名が爆撃で死に私たち四名が残りました。

--その後、生き残った「慰安婦」たちはどうなったのですか。

朴証人:私たちは……日本軍が日本国民を乗せるということを[……]。日本が敗れたのです。日本軍は、戦争に敗れると何の知らせもなく自分たちだけで逃げました。私たち朝鮮女性四名は、怖くなって防空壕に隠れましたが、中国軍にみつかりました。それで外へ出ましたが、私たちを取り調べたのは米軍将校でした。米将校があれこれと質問しました。

--ここに一九四四年九月三日、米軍が朝鮮人「慰安婦」を捕虜にしたという写真があります。ここにあなたはいますか。

朴証人:これが私です。この服装で裸足で、……髪も編み下げ〔おかっぱのことと思われる〕にして、確かに私です。連合軍の捕虜になった時、妊娠していました。

--捕虜になった後どうなりましたか。

朴証人:トラックに載せられ昆明の収容所へ行きました。収容所で捕虜として扱われました。そこには日本軍捕虜がいました。収容所にいってから、おなかがカチカチに張ってきてとうとう出血しました。収容所内の病院に入院しました。中国人医師が注射をし手術しました。妊娠した後も日本軍に絶えず性行為を強いられたのが原因だったと思います。胎児が死んだのです。

 収容所には一年ほどいたと記憶しています。

黄検事

今ビデオ証言をした朴永心さんがこの会場においでです。朴永心さんです。

〔拍手〕

(p65-67 同書 2000.12.8つまり法廷一日目の記録より)

【第2文】Government is a sacred trust of the people,

政府は人民による神聖な委託物(信用貸し付け)である。

 原文、国民とあったが人民と変えた。the people というありきたりのことばに対し、国民はあくまで国家あっての国民という語感が強くするので嫌だ。大東亜戦争の終結自体、「国体の護持」を護持するという意志において行われたものである。したがってこのpeopleを国民と読んでしまえばすべては元の木阿弥だろう。

the peopleというものはいまだなかったのにそれがあるかのように文章が成立しているのがおかしい。いやそんなことはないか。国民は立派に存在した。いまだ方向性は明確ではないものの訓育程度の高さを誇る日本国民というものはあった。国家は国民の権威によるという思想もあった。

 でも人民という言葉はいかにもこなれない。スターリニズムの匂いさえする。そもそも憲法とは国民を成立させるための文章だろう。であれば国民という言葉を使うのは当然だ。問題は敗戦国をどういう論理で否定するか、にある。「独裁制度と奴隷制度、圧政と異説排除」ととらえてそれを否定した。それがおかしいわけでもなかろう。問題は、「このpeopleを国民と読んでしまえばすべては元の木阿弥だ」とするわたしの感じ方にある。

論旨のない文章を書いたのは久しぶり。とりあえずメモしておこう。