夢の浮き橋

春の夜の夢の浮き橋とだえして嶺に別るる横雲の空

(藤原定家)

塚本邦雄さんの本が一冊だけあったので、引用してみた。

「ぴたりときまつたゆるぎのない夢幻の定着」と彼は評している。

「この歌は完璧な形而上学であり」とも。(p165『定家百首』河出文庫)

立ちのぼるみなみの果に雲はあれどてる日くまなき頃の虚(おほぞら)

(藤原定家)*1

不思議な歌である。大きな空がすべて日光に覆われている夏である。だが邦雄の読みは「これは鈍色一色に塗りつぶされ、一点白い太陽が輝いているだけの、重い一首」となる。ふむ。

*1:同書p42

間違いは訂正すればよい!

モヒカン族とやらが流行っているという。世捨て人が流行りものに手を出すのも恥ずかしい。だけどまあ面白いかもしれないので引用して見よう。

http://mohican.g.hatena.ne.jp/keyword/%e3%83%a2%e3%83%92%e3%82%ab%e3%83%b3%e5%ae%a3%e8%a8%80

モヒカン族 – モヒカン宣言

■ 宣言

1. 発言者の社会的地位を気にせず、言説だけに注目する

2. 事実のやりとりに、余計な装飾語はいらない

3. 間違いは、きちんと認めて修正すればいい

だいたい賛成です。特に3. 「余計な装飾語はいらない」というのが理想ですが、私は意味なく相手の気分を害していることが多いのではとも思う。

■ モヒカン族5つの価値

校正

間違いを訂正してくれる人を我々は尊敬して評価します。よけいな裏読みをして「人格攻撃している」とは思いません。

共有

アイディアに校正の機会を与えることが生みの親の義務です。「理由が無いけど、これはこれでいいんだ」というエレガントではない開き直りはくだらない。

ツッコミビリティ

校正、反論しやすいエレガントな言説が価値ある言説です。その為には、冗長にならない範囲で、ソースと推論過程を明確化し他へ示します。

(1項目略)

差異

お互いの違いを確認することで、我々はつながります。「自分らにとって良いから他の人にも良いはずだ」とは思いません。(同上)

正しい、というか反論しにくい。あえて言えば、読みとりにくい文体で書かれた文章をどう評価するか、という問題が考察されていない。

文学的には、文章とは伝達可能性と不可能性のバランスにおいて成立する。文章を書くとき、ツッコミビリティを高めるという意識を持って書くべきだというのは賛成だ。だが一方では他者には“全然分からない”といわれるそうした文章を書く権利も人は持つ。それは「詩」であり、文章(論説文)は自ずから別だろう、と言われるかも知れないが私はそうは思わない。例えば磯部浅一のように反逆罪で訴えられたらそれに対する反論は、論理=合法性を離れ詩に近づくだろう。だからといってそれを揶揄することしかできないものは、自らえらんだわけではない東条英機を許しながらあと千年生きることになる。

「その為には、冗長にならない範囲で、ソースと推論過程を明確化し他へ示します。」わたしの文章にはソースの提示はあるが推論過程の提示がないな…

ちなみに、<野原燐 気付 自主ゼミ実行委員会>の原則は下記の通り。

1.公開。

2.参加者の自由な討論ですべてを決定する。

3.このゼミで討論され考察の対象となった事柄は、参加者が各人の責任において、以後あらゆる場で展開していく。

考えてみればわたしたちの社会も、すべての市民の「自由な討論ですべてを決定する」というラディカルな原則を“原則としてだけは”とっくの昔に採用していたのだった。その場合、モヒカン宣言に類する心構えは当然必須ということになるべきだったろう。モヒカン宣言なるものがけっこう新しく見えるのは、「自由な討論ですべてを決定する」を真面目に押し進めようとする勢力がごく少なかったことを意味しよう。したがって、上記のような留保は付けつつも、モヒカン宣言に賛成し発展を祈りたい。

価値の根拠はある

しかしマルクス主義に続いて、丸山的な市民社会主義も捨ててしまうとすれば、日本に生きる批判的知識人が、最後に拠って立てるような「批判」のための理論的基盤がなくなる。西欧産の「国民国家」イデオロギーに汚染されていない日本に固有のアイデンティティを探求し始めれば、自由主義史観と変わらなくなる。

(P237仲正昌樹『日本とドイツ 二つの戦後思想』)

日本に固有のアイデンティティなんて、探求したって他国人には通用しないのだから一文の価値もないよね。ただ、それほど厳密に考えなければ、日本の伝統の中に理論的基盤の<根源>を求めることはできる。例えば「終戦の詔勅」の「皇祖皇宗の遺範」でもよい。天皇中心主義は本来、儒教*1や朱子学*2と基本的に違ったものではない。北畠親房や儒家神道だけではない。*3したがって、「皇祖皇宗の遺範」というのも朱子学で言う「理」に近いものと受け取って良いのだ。

ただ可笑しかったのは、天皇裕仁が退位しなかったこと。そのせいで日本は価値の根源が不明になった。最近のプチウヨはサイパンの崖の上から何回でも飛び降りますと、永劫回帰主義者になりかっこいいが、大衆は誰も付いてこないと思うぞ。

*1:<天>が中心

*2:<理>が中心

*3:例外は宣長と一部の国学者だけだ。国学者でも、鈴木雅之(id:noharra:20050710#p2)のように宋学との親近性が明らかな人もいる。

約二百万人の日本人死者への責任は?

おとなり日記から

本来平和主義者で戦争回避論者だったが、東條英機をはじめとする強硬派の主張に引きずられ、あくまで立憲君主としての中立的立場に固執するあまり、戦争への流れを止められなかった、基本的には軍部の被害者であった昭和天皇。

そういう一般的な昭和天皇のイメージは、近年の公開史料に基づいて書かれたハーバート・ビックスの『昭和天皇』が提示する驚くほど好戦的な昭和天皇像によって根本的な修正を迫られている。

http://d.hatena.ne.jp/motoski/20050815 もとすき日記

逆に言えば、昭和天皇の判断が誤っていたから、約200万人の死者が余計に失われたのである。

この事を普通の日本人が当たり前の歴史的事実として受け入れるまでに、果たしてあと何年かかるだろうか。はっきり言えるのは、たとえ何年かかろうとも、この問題を解決しない限り、日本人にとって「戦後」は終わらないということだ。

敵が中国や韓国や東京裁判なら戦いは容易である。左翼やリベラルが敵でも同じこと。

臆病で優柔不断で好戦的で保身的で日和見的でずる賢い自国の天皇が本当の敵だったと分かったとき、私たち日本人は一体どのように戦うのか。決戦の日は刻々と迫っているように思われる。

(同上)

 日本人ははたして自己決定を望んでいるのか。自己決定せずに何かに引きずられていき、ひどい目にあっても「やむを得なかった」といって納得して死んでいくのが好きなのではないか?

日本人の血

ところで、小林秀雄は『夜明け前』についてこう言っている。

作者が長い文学的生涯の果てに自分のうちに発見した日本人という絶対的な気質がこの小説を生かしているのである。個性とか性格とかいう近代小説家が戦って来たまた藤村自身も闘って来たもののもっと奥に、作者が発見し、確信した日本人の血というものが、この小説を支配している。

少し後に「日本的という観念」という言葉もある。小林は何を言っているのだろう?日本人はすべて狂死すべきだとでも言いたいのか。

予定

 デリダの『死を与える』を読んだので、特攻隊員が<死を与える>に至った思考過程を、デリダの考察とを照らし合わせて考えようと思いました。

・・・難しそうでくじけそうなので、予定だぞ、やるぞ、という決意表明をしておきます。

松下昇についてどこから語ることができるか?

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=2887146*1

松下昇についてどこから語ることができるか?

まず遺書を引用する。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/11000101

として遺書を引用しました。

ですがちょっと思い直して削除しました。

どうも文体がぶっきらぼうで、読者に語りかける方向性が

はっきりしないからです。

どうしたらいいかな?

坂本さんの文章も、自閉的な他人に開かれていない難解な文章と

一般的には評されるだろうと思いますが、

Uさんはそれほど異和感はなかったですか?

どうもこのMIXIという場の性格もよく分からない。

今まではインターネットに繋ぐことさえ出来れば見れるサイトやブログを作ってきました。

インターネットは世界に広がっている、誰でも対等とかオプティミスティックに言う人がいますが、実際にはそこに前提されている文化を共有しないと入れないわけで、少なくとも最低限の知力と資力がないものは排除されています。おそらくそのような排除された者たちを目の前にいる者たちより重視する(しようとする)のが松下の方法論だった、とも言えるように思います。

そこでネット一般よりさらに限定された場で展開することの意味は何か?と考えるとすぐには答えが見つかりません。

・・・

どうも消極的ですみません。

*1:入会希望者はメールください。