艾未未氏 RT;@liuweilawyers: 16日、陳光誠のために集まった唐吉田、江天勇、滕彪は警察に連行されたが、5日午前、唐氏は東北の郷里に送還された。他の江氏と唐氏については消息不明。RT @aiww :
RT @liuweilawyers: 2011年2月16日为陈光诚聚餐后,唐吉田、江天勇、滕彪先后被北京市公安局带走。3月5日上午,唐吉田已经被北京市局送回东北老家。江天勇和滕彪至今没有任何的消息。
posted at 3月8日10:07:39
(2011.3.8追記)
艾未未氏 RT;@liuweilawyers: 16日、陳光誠のために集まった唐吉田、江天勇、滕彪は警察に連行されたが、5日午前、唐氏は東北の郷里に送還された。他の江氏と唐氏については消息不明。RT @aiww :
RT @liuweilawyers: 2011年2月16日为陈光诚聚餐后,唐吉田、江天勇、滕彪先后被北京市公安局带走。3月5日上午,唐吉田已经被北京市局送回东北老家。江天勇和滕彪至今没有任何的消息。
posted at 3月8日10:07:39
(2011.3.8追記)
3月20日から作ってるなら、さっさと教えてくれればいいのにw
まず感想を言わせてもらえば、誤解曲解印象操作が多すぎて、どこがどう間違えているかをこれから一々説明しなければならないとは、今後費やす時間のロスに気が遠くなる思いです。
しかし、これもあなたに売られた喧嘩を買ってしまった私の不徳の致すところ、誠意をもって対応せねばなりますまい。
もうすぐ休暇も終わり、母校の後輩の指導や本来の業務で余暇が大幅に減ってしまう(今でも雑務は多くてそんなに実質的な余暇の時間はないのだが)私ですが、可能な限り対応させていただきます。
とりあえず、私への呼称で厚顔氏(つい自称してしまいましたが)とか歴史修正主義者とか浅薄とかその他レッテル貼りや罵倒語は極力減らしていただきたいものです。お互い本筋の議論以外の感情的軋轢は減らしましょう。海老ちゃんくらいなら許します。』(2007/03/30 19:55)
* 海老蔵中道右派 『一部訂正
×3月20日
○3月19日』(2007/03/30 19:58)
* 海老蔵中道右派 『ノーモア氏のブログはあまりにも間違いや印象操作のための自分に都合のいい歪曲編集が多いので、とりあえずウェブ魚拓を取っておいて後ではてなIDを取得して一つ一つ間違いを指摘して説明しようと思った訳ですが、まず、風俗営業法を検索して、該当部分を原文を残した上で訂正することをお勧めしますよ。罵倒語を使ったことが全部ご自分にブーメランのように跳ね返ってきますから。』(2007/03/31 00:50)
* 海老蔵中道右派 『ノーモア氏のブログはあまりにも間違いや印象操作のための自分に都合のいい歪曲編集が多いので、とりあえずウェブ魚拓を取っておいて後ではてなIDを取得して一つ一つ間違いを指摘して説明しようと思った訳ですが、まず、風俗営業法を検索して、該当部分を原文を残した上で訂正することをお勧めしますよ。罵倒語を使ったことが全部ご自分にブーメランのように跳ね返ってきますから。』(2007/03/31 01:06)
トラックバック – http://d.hatena.ne.jp/noharra/20070319
1.図書館に行く(書店、古書店に行く)
2.本を読む
2-2.引用、感想を掲示板などにカキコする。
3.図書館に本を返す
からなっています。
村上一郎という名前をテレビで聞く、何かの犯人らしい。それはそれで問題なのだろうが、私は別の村上一郎を思い出す。思い出したのは、最近北海(http://bbs9.otd.co.jp/908725/bbs_plain)で、山中智恵子の短歌を引用したのだが、わたしは山中のことを知らず、村上が論じている人としてだけむかし知っていたのでした。それと三島の決起について論理的でなくシンパシーを寄せる文章が二つほどあって(hatena周辺に)、批判してやりたいと思ったときも村上のことを思いだしました。で今日村上一郎がちゃんとはてなのキーワードになっていることを知り嬉しく思いました。
http://d.hatena.ne.jp/mkimbara/20031227 mkimbaraさんは村上の軍隊論とか社会科学系に興味を持っておられるようだ。わたしは歌人、短歌評論家としての村上にもわからないなりに興味を持つ。検索したら村上の短歌を引用した文章があったので、無断引用してみよう。
冥らかに思想の鞍部見さけつつけふをいのちと旅果ててゆけ
村上一郎『撃攘』
この頃、しきりに村上一郎のことが思い出される。私は彼の作品の良い読者ではなかったし、あの壮絶な自死から何年経ったのかさえ今では朦であるほど彼についてのディティールに乏しい者であるが、村上一郎が常に抱えていた絶望の感覚は、現在の私たちの前にある索漠とした不安に繋がっているような気がしてならない。 昭和十六年極月、対米開戦の前夜に。
憂ふるは何のこころぞ秋の涯はからまつも焚け白樺も焚け
ひとひらの雲ながるる夜さらされし屍をおもむろにめぐり去るもの 昭和二十年八月二十一日夜半、一切に挫折。
たまきはる曠野のいのち夏草をおほいて遠く果てきいくさは
遅れなく立たむと記すたまづさに涙か汗かしとど滲みゐし
「六十年安保」殿戦の歌。
いっさいのことば死に果て夜は白み己れを責めることしげきかな
野のはてにわが葬棺を曳かしめて或る日は越えむかげろふの丘
初版一九七一年六月二五日の『撃攘』には、(私たちの知らないところの)さまざまな日本の節目における、いかにも「国風」の短歌が収められている。虚妄としての「党」や虚飾としてのイデオロギーをすべて剥ぎ取られたところから書かれているこれらの作品をあらためて読みなおしてみれば、私たちの歌壇から失われた短歌の極北の姿を示していると言ってもいい。 村上一郎は、戦争と「党派」と安保という、まさにその背後に虚無の立ち現れる時代を生き、それらがすべて失われた、いかにも平穏な時代に死んだ。そして、私たちは、それらがあらかじめ失われてしまった時代を生きている。
感想とかをもう少し書くべきだとは思うが、いまはできません。せめて村上の文章を1行引用しておこう。
人間にとって、自身の底にある一貫性は、首尾、理路を有するはずでありながら、それをただ“感じる”ほかにないもどかしさ、--短歌は長くその憂悶と期待とを伝えてきた。p10『日本のロゴス』
「近代の超克」とは、昭和17年7月(日米開戦の半年後)に文学者・哲学者などで行われた座談会である。それに先立ち、S16.11.26(日米開戦の直前)、いわゆる京都学派の4人の学者*1が集まって「知的な饒舌をもってしゃべりまくった」のが、「世界史的立場と日本」である。
「東洋は近代というものをもたない。ところが日本が近代をもったということが、東亜に新しい時代を喚び起こす、それが非常に世界史的なことだ」(鈴木)*2
彼らは現状をこう認識する。「日本はアジアにおいて唯一例外的にヨーロッパ近代の受容に成功し(略)西洋先進国に伍しうる強国となった」。日本が近代化したなら、それは普遍的な立場に近づいたということで結構なことじゃないか、戦後的にはこう考える。近代は自明の前提となりそこで思考は終わり、近代は問い返されない。 彼らの座談会に特徴的なことはヨーロッパという言葉が頻出することだ。自明の前提であるがゆえに対象化不可能である「ヨーロッパあるいは近代的なもの」を、目の前に見据え語りきろうとしている。といえばサイードの遙かな先輩とではないかと言えば、決してそうではないと決まった訳ではない。
世界史とは「ヨーロッパの膨張」によって世界が一つになったことを指す。すると、次ぎに来るべき「世界史の転換点」を展望するためには、「ヨーロッパ的なもの」とは別の文化原理が必要になるはずだが彼らの議論はその点では弱い。*3(彼らの議論自体に当たっていないから断言できないが。)「アジアにおける日本の近代国家化の事実は世界史的意義を有する重大な事件であると評しなければならぬ。(高山岩男)*4」とそればかりが強調される。教師に与えられた価値観によってのみ「優等生」であるものがそのプライドによって教師に反抗しても敗北は必至である。・・・つまるところ、東アジアと太平洋地域を席巻したあの大戦はそう総括されるべきものだ。と言うことになる。というか、戦後日本の右翼というものの根本にもこのパラドックスがある。小泉首相において大きく開花している。
対抗原理としては次の二つがあげられる。(1)総力戦において、市民的、資本主義的秩序そういう構造をもった国家が崩潰する。近代の世界観が崩潰する。*5(2)共栄圏を建設するとか世界に新しい秩序を建てるとかいうこと。 これが本当かどうかは、当時続いていた<支那事変>によって良くも悪くも検証される。そのことは彼らにもよく分かっていた。
(西谷)今までの支那に対する行動が、外観的には或る程度やはり帝国主義的に誤り見られる外形で動いていた。政策的にもそういう風に見られる形をとっていたかも知れないが……
(鈴木)つまり不透明さがあったんですね。
(西谷)一種の不透明があったと思う。*6
事実は帝国主義であった。つまり共栄圏の実質は存在しない。「そう認めたくない」という気持ちだけが良く現れているこの対話からはそれがよく分かる。
詩集『新潟』を読むはずが全然進んでいません。でも3月25日に3行だけで処理した詩行たちに、いまではもっと親しめるようになった、とは言えます。
第2部「海鳴りのなかを」は、「河口に土砂に埋まった丸木船がある。」*1という挫折を確認するところから始まる。故郷へ海を渡ることを強く思いながら、それはついにかなわないものとしてあるのだ。「海をまたいだ船だけがぼくの思想の証ではない。またぎきれずに難破した船もある。」*2「ぼくが沈んだ幻の八月を明かそう。」*3 ここで、<挫折>は“更に深く穴ぐらを掘らねばならない”そういった営為だと言われる。 ところが比喩だったはずの<穴ぐら>は、「ひしめきあいせめぎあったトンネルの奥で盲いた蟻でしかなくなった同胞が出口のない自己の迷路をそれでも掘っていた。」*4と日本の戦争中の実際の穴ぐら掘りに転換する。ここには註がないが、(約七千人が動員されたという)松代大本営の掘削のことをイメージして良いだろう。「山ひだを斜めに穿ち蛇行する意志がつき崩すショベルの先に八月は突然と光ったのだ。」*5「なんの前触れもなく」輝かしい解放が突然やってきた。その輝かしい八月の光の裏には、原爆の光も焼き付いているだろう。「人が流れとなりはやる心が遠い家郷目ざして渚を埋めた。」*6故郷への熱い大きなベクトルが描かれる。だが「袋小路の舞鶴湾を這いずりすっかり陽炎にひずんだ浮島丸が未明。夜のかげろうとなって燃えつきたのだ。」*7日本の敗戦の直前二五〇万人近くいた朝鮮人のうち半数以上が帰国した。だが浮島丸事件のように帰国の意思が無惨にも中断させられた人々もいた。<ぼく>は彼らと同じように海の底でうずくまったままだ。*8
2章。「常に故郷が海の向こうにあるものにとってもはや海は願いでしかなくなる。」*9 ところが次ぎに転換がある。「待ち侘びて渚に彫像となった少年のものうい記憶へ終日波がくずれる。」*10海辺で佇んでいる少年は済州島に居るようなのだ。<海の底でうずくまったまま>という比喩が再度現実化される。「測りようのない底へにうずくまる父の所在へ海と溶けあった夜がしずかに梯子を下ろす。」*11「黄ばんだ網膜に古いネガとなって生きている父。数珠つなぎにしばられた白衣の群があぎとを開いたままの上陸用船艇へ間断なく呑まれてゆく。帯のないバジを両手で合わせもち動くコンベアーにでも乗せられたような父が背のびし振り返りそのつどつんのめりつ船艇へ消える。」*12おそらく押さえつけるような沈黙の中で、白衣の群は少しづつ船艇に呑まれてゆく。そして沖へ運ばれる。「日が暮れ日がたち錘の切れた水死人が胴体をゆわえられたまま群をなして浜に打ち上げられる。」*13「この期間虐殺された済州島民の数は73,000人を越える」といわれる被害者たちだ。「潮は満ち退き砂でない浜の砂利が夜をついてごうごうと鳴る。」*14「亡霊のざわめきにもふやけた父を少年は信じない。二度と引きずりようのない父の所在へ少年はしずかに夜の階段を海へ下りる。」*15蜂起とか内戦とかテロリズムとかいくらどぎつい言葉を連ねても足りないほどの動乱。作者は実際その渦中に在った。だが体験したことは書けない、と金時鐘は言う(かもしれない)。金石範が書けるのは体験してないからだ、とは言っていた。金時鐘が書くのはすべてが終わった後の屍体、海の底から浮かびあがり夏のせいで相貌さえ定かでないほど速やかに腐乱してゆく屍体たちだ。だが阿鼻叫喚はない。すべては無言のうちにすすむ。ところで<梯子>(あるいは階段)とは何か?海深く沈められたのは屍体だけではなく、対象化しきれずにその血の滲む肌を無理矢理幾重にも梱包し意識の奥深くに抑圧した時鐘自身の記憶たちである。魔法の階段を通らなければそこにはたどり着けない。
坂本守信でグーグルしたら、http://www.m-n-j.com/medianetjapan/ousc/link1.htm 「岡山大学学友会の起こりと変質」という23頁もある長い文章が出てきた。
ちょっと読んでみると、80年代に入り「そして学友会が決める一つ一つの規程、規約に坂本氏の思想・考え方が反映されていった。」云々。「学友会は坂本氏の思想に傾倒し一般学生の願いや希望を全くかえりみない組織に変質していたのである。」云々と書いてある。
http://www.erde.co.jp/~masaru/okayama/238/5.html こちらには、「’78大学祭基調--大学祭実行委員会アピール」というのがある。この時点では、坂本氏を含む多くの学生が「新しい共同性を目指す流れをもつ大学祭を創り出すため」という当為でもって運動を作り上げようとしていたようだ。
訂正中。一時消去。
常識的な、そして伝統的に固定した見方からすれば、日常生活の流れ、ひいては人間の歴史は、正常な連続の過程であるが、それは支配者の安定した立場からの、あるいは支配者の立場に賛同する(意識的であれ無意識的であれ)人々の立場からの理解の仕方である。ひとたび被支配者の位置にたち、視線を上方に向けると、日常生活そのものがつねに不連続であり、毎日がいわば危機であり、非常事態であることがわかる。*1
わたしとはのべたらで空疎な連続であり、不連続、危機などというものは実感できないというひともいるだろう。被支配者というところで例えば、被拉致者(例えば地村夫妻)を思い浮かべても良いだろう。彼らの場合はたった一度の不連続により、越境が強いられた。そして日常が流れ子供が産まれた。生まれた子供は朝鮮人として育てられたのか(良く知らないのだが)。ここで「彼らは本来日本人であり朝鮮人でない」という断言は上記で言う「支配者の立場」のものだ。地村氏たちが本来の日本人性を強く主張し続けたら、彼らは北朝鮮の地で生き続けることはできなかったかもしれない。彼らが存在しているのは「北朝鮮国家の思想」を部分的にではあれ承認したからだ。地村氏たちは帰ってきた。そうすると今度は地村氏家族は子供を含め「本来日本人だった」という真理へ回帰することが求められる。朝鮮に生まれそこに二〇年生きた子供に対し、きみの今までの人生は仮のものだ、これから真実の人生が始まると告げるのだ。安物の宗教みたいなものだ。存在丸ごとを国家に包括しようとする力学。自由なはずの日本社会が北朝鮮と同じような全体主義国家であるというおかしさ。わたしも実は地村さんの息子と同じなのだ。「日常生活そのものがつねに不連続であり、毎日がいわば危機であり、非常事態である」とはそういうことなのだと思う。皇軍兵士の息子に生まれいまは退廃US文化だけを裸身にまとったわたしたちだ。
前に地村氏に触れた文はここ。http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040601#p1
*1:p116 今村仁司『ベンヤミン「歴史哲学テーゼ」精読』
私たちの思考において本質的なことは、新しい素材を古い範型のうちへと組み入れるはたらき(=プロクルステスの鉄床)、新しいものを同等のものにでっちあげるはたらきである。(ニーチェ)*1
「抑(そもそ)も意(こころ)と事(こと)と言(ことば)とは、みな相(あい)称(かな)える物にして、上つ代は、意(こころ)も事(こと)も言(ことば)も上つ代、
後の代は、意(こころ)も事(こと)も言(ことば)も後の代、
漢国は意(こころ)も事(こと)も言(ことば)も漢国なる」*2
私たちは私たちが予め持っている範型(パースペクティブ)によって、考え言葉を使っている。そこで宣長がいうように、古代とか外国のような他の文化、あるいはニーチェが言う<新しいもの>はわたしたちの持っている何かに直ちに翻訳されてしかわたしたちのもとにやってこない。アポリアですね。