中道右派 『>で、「一部の軍人論」に対する反論は下記のとおりだ。

>この事件の重要な点は、「強制連行」の事実が陸軍省まで伝わったにもかかわらず、慰安婦の幽閉処置を解除しただけで、軍としては何等処分を行わなかったことです。日本軍内ではだれも軍法会議にかけられていません。

現在の世界各地での米兵レイプ事件でも、見逃しは多数あるようだが。

行為時の正当な権限がない以上、個人犯罪。

後で処罰されたか否かとは、別問題。

Q1:現在の米兵レイプを批判するより先に、時効という法原則に逆らい過去を告発する歪んだ情熱の生じた原因は?コミンテルンの対日テーゼに洗脳されましたか?

少なくとも違法状態を解除した点で、よい関与説の証拠の1つ。

>連合軍のバタビア裁判では、この件で人道上の罪として、死刑1名を含む11名の有罪が宣告されています。組織的犯罪に対する裁判ですから命令されて強制連行に加わっただけの兵士は罪を問われていません。

ヒント:一事不再理。消滅時効。

>日本軍では慰安婦の強制連行を罪悪とする考えが無かったのです。女性や土人(現地人)を蔑視し、命を捨てる覚悟の皇軍は何をしても許されれと思い上がり、略奪をなんとも思わぬ教育がなされていました。戦争中、女性を虐待して慰安婦にした罪で処罰された人はいません。これは、そのような事をした人がいなかったのではなく、白馬事件の例で見るように、いても処罰されなかったのです。

これも単なる仮説なので、実証しないとノーモア氏に妄想と批判されてしまう訳だが。

> で、ここで確認しておきたいのは、上記のような安倍首相のあからさまなチョンボに対して日本のマスコミも大衆も批判の声を挙げていないことである。「中道右派」氏や(日本の前途と歴史教育を考える会)もそうである。

事実誤認あり。私は、一部批判のコメントを貴ブログにて数回している。

>すべての慰安婦たちを、白馬事件とそれ以外と二つに分けるなどという常識は日本人にも誰にも存在しないのだから。

近代法の諸原則を常識として理解している相手に説明すれば、納得はしないまでも、それも1つの説ですね、と朴一氏のように理解はしてもらえる。

> 「狭義の強制連行は存在しない」は安倍首相によって3人に対して言われた。撤回されていない。

> このことは少なくとも上のロジック(全慰安婦を二つに分けてから無罪化を企てるロジック)は通用しないことを明らかにしている。

この誤解の原因を問いたい。

安倍首相の説明の下手さは説明したはず。

正確に説明すれば、近代法を理解していれば通用するロジック。

Q2:野原氏は、近代法の諸原則を理解していないのですか?理解はしていても尊重したくないだけですか?私はよく知らないが社会主義法制ではそれを合理化するロジックがあるのですか?それとも、しばしばふみにじられる不完全なものとはいえ、国際法秩序が更に乱れてカオスが到来し、共産革命が到来することをいまさら夢見ているのでしょうか?最も成功した社会主義国は過去の一時期の日本という説もあるのに。

> 3人の元慰安婦のうちの一人に対し、「君にはすでに謝ったはずだ」と言うことは、残りの二人に対し差別的取り扱いをする根拠を問われることになる。

オランダ人については、日蘭請求権条約と戦犯裁判と一事不再理と消滅時効。

韓国人については、日韓請求権協定とアジア女性基金と一事不再理と消滅時効。

法の下の平等の範囲内の単なる合理的区別。

> しかし1990年代に韓国人から提起されたこの問題に当時の国際法の植民地住民差別的規定でもって応えることは、日本政府が大東亜戦争時と同じく今も植民地住民差別的(レイシズム)であると批判されることになる。

ヒント:行為時法適用の原則、法の不遡及の原則。

>  1990年代以降日本国内に拡がった“なかった派”はレイシストであり、〈戦後〉の国際社会の最低基準をクリアーしておらず、「国境」を一歩も出ることができない!*5

罵倒、嘲笑、印象操作、レッテル張り。ブサヨの特徴の具体例の一つですね。

Q3:正確に、売春婦派と呼んではいかがか?性奴隷派の野原さん。

残念ながら、今まで世界50ヶ国以上を訪れ、ほとんどの国で、リベラルですね、と言われてしまった。日本の中道右派は、国際基準ではリベラルらしい。

Q4:私は、外国人の妻にはそんなに家事しなくていいよと言われるが、奥様から家事労働の利益を全面的に搾取している自覚のある(あった?)野原氏は、アンチフェミニズムで性奴隷制的夫婦制度の支持派なのか?そうでないとしたら、矛盾する言動も人間らしいが、偽善者と呼ばれる危険もある訳で。

>日本の安倍内閣が「従軍慰安婦(性奴隷)の強制連行はなかった」という驚異的な内容の答弁書を作成した件に素早く反応した、オランダの MaximeVerhagen外務大臣は、オランダ駐在の小町恭士・日本大使を呼び、強い不快感と憂慮の念を伝えた。外務大臣は、他の諸国(米国や旧植民地インドネシアなどを指すのか?)と連繋して日本のやりくちに対処していく方針も示唆した。

>☆Dutch government seeks explanation from Japan on coercion of ’comfort women’ (AP通信→インドネシアの英字紙「ジャカルタ・ポスト」)

Q5:白人や他のアジア人の外圧を借りるのは、大アジア主義にシンパシーを寄せる私を含む日本人の多くを脱亜論と自主防衛派に向かわせる危険性があることをご存知か?

>「強制連行が在ったのか」と言って彼らは問題を極小化しようとします。ただ次の定義によれば「強制連行」と言えるものも多かったでしょう。

>◆強制連行とは・・・連行形態云々と共に、目的地での扱い方(強制労働)が基本問題 。

> 本人の自由意志に反した、肉体的・精神的強制による連行をいう。民間業者による詐欺、拉致、甘口、官憲による強要・脅迫などを含む。「この概念は遅くとも19世紀末には国際的に、20世紀初頭には国内的に確立されていた」。(日弁連勧告・報告書)

>そして、強制連行という言葉には、強制連行された土地での強制労働と民族差別が含まれる

>(「朝鮮人戦時強制動員」山田昭次・古庄 正・樋口雄一共著・岩波書店)。

日弁連勧告は広義の強制説。

概念の確立時期については、おそらく独自説。

左翼系が主流派のようなのでやむなしか。

私見では、広義の強制説が出た以降に確立させようと努力しているだけ。

現在でも詐欺や借金から風呂に沈められる可哀相な女性はいる。

山田氏らの説は最広義の強制説とも呼ぶべきか。

ヒント:行為時法適用の原則、法の不遡及の原則。

WWⅡ以後でも、民族差別が違法でない国は多かったし、強制の有無とはそもそも別問題なのにこじつけて説明するから、平均的日本人の反感を買う。

>*5:米国のイラク占領もレイシズムであり弁護できないが、力が強いので一部の奴隷(日本)は支持している。

Q6:あまり中韓ロビーが米国の外圧を利用すると、奴隷もささやかな抵抗として自主防衛派・改憲派が増える危険性をご存知か?』(2007/03/19 14:25)

* 中道右派 『何か別エントリで書き込めなくなってますけど、アク禁しました?こっちのミスかな?』(2007/03/20 03:04)

正義の最後の声

サイードの悲報の直後に行われた、イスラエル軍によるガザ地区への大規模な侵攻は、まるでこの世界から正義の最後の声さえ失われたと宣言するかのごとく、暴虐の限りをつくすものだった。ラファから届くレポートのすべてに、過去にも類を見ないほどの破壊の様相のすさまじさとともに、「世界はなぜ沈黙しているのか?」という痛烈な問いかけが書き込めれていた。(浜邦彦)*1

*1:p118 現代思想サイード特集

「きみたちの国だ」について

 私の文章は読者に何かを訴えるだけのものですから、そしてわたしがわたしに何か訴えてもしかたないのですから、「わたしたち」から「わたし」を引いた「きみたち」に対して訴えてもなんら意味は変わらない、とも言える。

「国民の一人」として発言するという立場は、発言者に発言の権利と義務を与える。自分の意見を人に受け容れて貰おうとするとき、この「義務」は有効に働く。イラク派兵についてわたしはこう思うが君の意見はどうなんだ、まさか意見がないとは言うまいねといったふうに。しかしこうした日記とかで発信する場合はどのような立場、文体をとろうが勝手だ。ただ読者に対し説得力を(あるいは魅力を)持たなければ見放されるだけだ。

わたしは日本語しか話せなず日本に生活圏を持つが、だからといって日本という運命共同体に属しているとは思っていない。「北朝鮮が攻めてきたらどうする」と言われたときに、それはやっぱり困るなという反応が、現在の国民の保守的空気(軍事的なものの許容)を作ってきた。しかし北朝鮮がかりに日本に上陸したらそれは金正日政権の崩壊にしか繋がらないのは自明だと私には思われる。国難とか言いたい人が危機をあおり立て日本という共同幻想が立ち上っている。しかしもちろんそれだけではなく日本は悠久の昔からあり、国家を越える原理かもしれなかった仏教や儒教は衰退した。そして軍国主義に反対し普遍への信仰であった戦後民主主義も敗北している。日本人は宗教を持たないから「日本」を大事にするしかないのだ。哀れな!(ほんとうは日本には神道があるのにそれが近代国家に反するものであることをきみたちはしらない。)

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040201 の私の文章の「きみたちの国だ。」に対して、次のようなコメントがあった。『「きみたちの国」じゃなくて、「わたしたちの国」です。あなたが日本人ならば。』わたしは日本語しか話せなず日本に生活圏を持つが、だからといって日本という運命共同体に属しているとは思っていない。このコメントは現在有る日本政府とか日本人の集合とかいった存在ではなく、日本という共同幻想への内属を野原に強要している。そうではなく、書くことは共同幻想の外側から書くことであるべきだ、むしろわたしはそう思う。

野原燐は戸籍名(仮名)YGのハンドルネームなのですが、YGは日本人だったりそうでなかったりするが、野原もそれと同じものなのかという問題があります。野原は勤労してないし現実の世界に生きているわけでもない。わたしがコギトとして宇宙のなかの一点として存在しているのに気付いたとき、そこから書くときのとりあえずの署名として「野原」はある。だから野原にとってYGが日本語しか使えないのは偶然にすぎない。わたしというものは世間の関係性や文化的影響や欲望によって制限された存在だが、なおかつ余剰がある。その余剰の方へ比重を掛けたいというベクトルが野原という名前にはこもっている(かもしれない)。

現在自衛隊イラク派兵という<戦後の終わり>といういうべき時代の転換点であるにも関わらず、去年のブッシュの戦争反対に比べても数分の一しか反対運動は盛り上がっていない(らしい)。派兵反対率はアンケートでは下がり続けている。それに対し「それは困る」と思った。でももちろんどこへ文句を持っていくこともできない。言論の自由も集会の自由も保障されている。「民主主義だからしょうがない」。

ところで民主主義とは何か。国の進路の大変換期に数割の反対があるのに、主要都市で目立ったデモがない、といったものが民主主義だろうか。きみたちは「日本は民主主義国だ」と教えられそう信じているが、それは違うだろう。デモ一つ出来なくては時流に押し流されて行くだけだ。

わたしたちの生活は軍(自衛隊や米軍)によって守られている、というのは錯誤だ。

投票さえしてたら民主主義だというのは、錯誤だ。

きみたちの国が何処へ行こうが私の知ったことかとは言わない。きみたちの国なんだからきみたちがよく考えろよ、と言っていも、結局の所、考えないものきみたちの勝手だが。

ここで、何故「きみたちの国」であり私の国ではないのか、という問いは答えられないままだ。だが国などどうでもよいではないか。わたしたちの社会は、世界=天下として成立している。世界は単一の原理では概観できない。そうであるからこそ問題は世界である、ことは強調されなければいけない。天下をすぐに論じられないからとりあえず、より狭い範囲を考えるが、国家をすこしでも特権化する思考はお断りだ。それと、この間明らかになったのは、「世界」もまた、帝国主義的に歪められたイメージでわたしたちに与えられているということだ。イスラエルは北朝鮮と同じように歪みきった弱小国家にすぎない(がそれが是正されるのは北朝鮮と違って数十年かかるだろう)。ここでもイスラエルや北朝鮮について発言する権利が野原にあるのか、という問いがある。その問いも開かれたままだ。

一般経済学?

ほんとに出来が良くはないので公開したくもない。などと言い訳はよそう。デリダの「限定定経済学から一般経済学へ--留保なきヘーゲル主義--」について、今日ささやかなレポートをした。そのために作ったレジュメ。htm化したので読めるかどうか?

http://noharra.at.infoseek.co.jp/2004/bat.htm

消したり書いたり

4/11日の記事に下記の2項目を書いたが、一旦削除しました。高遠さんたちがかえってきてから再UPしようと思ったのですがまだですねー。

馬鹿であることが最高の価値であるというバタイユ的価値転倒の立場に立った文章ですのでご容赦ください。という註釈付きで再UPしておこう。ご迷惑おかけしました。

善意にもとずく運動

http://www.ac-net.org/honor/ という頁が最近出来たようだ。「イラクで人質になった方々の活動に敬意を表し、これらの方々への非難・中傷を直ちに止めるよう訴え」ている。人質5人に対するバッシングには反撃すべきだと私も思う。  でもね・・・ 一応書いておくと、下記のような表現は、私には違和感がある。善意のひとによって善意の人に呼び掛けられている。政治的発言とは「敵/友」の分割線を引き直すことではないのか。いくら善意だけで発そうが「自衛隊撤退要求」は政治的主張である。どんな動機で行こうがいまどきイラクへ行くことに対しては、自らの思いからは一方的と思える政治的な評価をさまざまな陣営から受けてしまうことになるのはしかたのないことだろう。(もちろん今回のように日本中に情報が浴びるように注ぎ込まれる状態は予想外であり彼らにとっては被害以外の何物でもないでしょうが。)善意ではなく、常識と知性に訴えかけていけばそれでよいと思う。

 しかし、5人の方々は戦禍のイラクの悲惨な事態に心を痛め、ジャーナリストとして、また草の根のボランティアとして、イラクの人々に人道支援の手をさしのべようとした若者です。

本名とは何か

地村夫妻という人たちがどういう方なのかさしたる興味はない。なら書かなきゃいいのだが。今日新聞の一面に載っていた。22歳から16歳のわが子に対し日本名を付けたという。いままでの名前は偽りのものだったのか。その子への愛情といままでの名前への愛情は切り離せるものなのか。親子を取り巻く政治的社会的関係が(今にして思うと)不本意なものであったとして、20年の歳月はリセットなどできない。今までの名前を変える必要などない。家庭内のことだから勝手にすればいいのだが、私が書いているのは、おそらく逆の作用(日本名に改名するのが自然だとする意見)が家族に働いた可能性があるに違いない、と思ったからだ。日本は北朝鮮に負けないぐらい不自由な国である必要はない。

根源的なものにたいして受動的

高島氏の本からのノート。丸山真男は山崎闇斎のことを「あまりに敬虔な朱子学者」と呼んだそうですが、高島氏によれば、朱子学と闇斎学は全然違う、ということになります。*1

例えば「天地の間は唯理と気のみ。しこうして神なる者は、理の気に乗りて出入りする者なり。」という文は朱子の文であり、闇斎の文でもある。しかし、同じタームを使って述べていても発想の根拠が違うのだ。違いを簡単にまとめると、以下の如し。

朱子学:

人は聖人となり、太極という天地の動きの根源そのものになると考えられている

主体性の極限へ向けての能動的な上昇の方向を持つ

闇斎学:

教えによって、この太極から流出する働きにひたすら随順することが思われている 

根源的なものにたいして受動的

天理はすでに人に与えられて内在するものであり、それを自覚にもたらすものが教えであり学問にほかならない

       で、ここから話は急に飛ぶが、

昨日NHKの広島をテーマにした番組「復興」というのを見て、市の中心部がすべて焼け跡になりわずかなビルの残骸以外文字通り何もないリアルな画像を見て、ショックを受けました。それがわずか数年で力強く復興していくのはやはり人類史に残る「復興の物語」として普遍的な力を持つものです。そしてアメリカの犯罪をあくまで追求するという方向をとらなかったことについても、追求することは正義を求めることであるがやはり憎しみを保存し場合によっては強化することであるので、少なくとも半ばは良かったと評価すべきでしょう。何もない荒野のイメージからの衝撃を持たずにヒロシマに言及してはいけないと、自戒しなければいけないと思った。

そして広島では今年も例の如く「平和の誓い」なるものが宣言された。いまグーグルで探したら適当なものがなかったので、だいぶ古いものを引用する。「広島平和宣言(昭和57年)

 燈燈無盡‐ヒロシマの平和の心は、すべての人々に受け継がれ、語り継がれなければならない。」http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/heiwa/hiroshima-j/etc/20040305org00m040995000c.html

ここでは、「ヒロシマの平和の心」というのがアプリオリに置かれている。ここには「天理はすでに人に与えられて内在するものであ」るのだという前提と、したっがって私たちがしなければいけないことは「それを自覚にもたらす」ことつまり平和教育、「教えであり学問にほかならない」という方法論がある。これって闇斎主義そのものではないか。とちょっと思った訳であります。

 わたしはこれまで戦後平和絶対主義を、宣長の思想や京都学派など色々なものと似ていると強弁してきました。わたしの主張は飛躍と矛盾ばかりだといわれるでしょうがもうちょっとがんばって材料を集め、数年がかりでなんとか話をまとめたいと思っています。

ところで、「ヒロシマの平和の心」とは何だろう。我が家を中心に都会がすべて荒野になったときひとは何を思うのだろう。一つは「戦争遂行は間違いだった」という思いだろう。NHKの番組に出てきた広島市の課長さんなどは当然国家の戦争遂行を下部で職務として支えていたわけだ。彼は私のしてきたことは間違いだったと娘に懺悔する。儒教的には政治は民の生きることを支えるためにあるのだから、彼の懺悔は当然だ。だが平和とは何か。国家は戦争する権利はないのか。そうだ国家は戦争する権利はないのだ、と彼は考えただろう。日本国家は戦争する権利がない。アメリカも中国も、そして日本人の少なくない部分もそう考えた。だが三者の考えたことは(もちろん?)三者とも全く違ったことであった。そして59年後、ヒロシマの中学生は何を「平和」といっているのだろう。わたしにとって平和とは何か?それは自衛隊と米軍に守られた欲望資本主義の現状のことではないのか。それとは違う何かがある、と私は言えない。だからわたしは「平和」という言葉を肯定的に使っていくつもりはない。

戦争の不在を求めることが、国家による国家に至らないエスニックグループや個人に対する抑圧を放置することを伴ってはいけない。対北朝鮮融和主義には反対しなければいけない。

*1:isbn4-8315-5043-9 同書p39-40

小さな神たち

 記紀で興味深いのは、理解できないような異様な音のつながりをもつ言葉(神の名前など)たちである。神話体系としては主神が誰でそれに次ぐものが誰なのかというヒエラルキーが不分明だ、と指摘できる。

古事記の最初の神々を木村紀子氏の整理により記してみよう。*1

1.天之御中主、天之常立神(とこたちのかみ)、国之常立神、

  ここだけにしか名がみえない抽象観念的な独神、三神。

2.高御産巣日神(たかみむすひのかみ)神産巣日神(かみむすひのかみ)

  別天神で「隠身」といわれながら、後に天照大神と並び高天原の神としての存在が語られる二神。

イザナギ(伊邪那岐)、イザナミ(伊邪那美)

3.ウマシアシカビヒコジ神

 ウヒジニ(宇比地邇)、イモスイジニ(妹須比智邇)

 ツノグイ(角杙)、イモイクグイ(妹活杙)

 オオトノヂ(意富斗能地)、イモオオトノベ(妹大斗之辨)

 オモダル(於母陀流)、イモアヤカシコネ(妹阿夜訶志古泥)*2

全く地上的で卑小な具象形容をもつ神名のグループ。

3のグループは名前が出るだけで何の活躍もしないのですが、高貴そうでない奇妙な名前は興味深い。

1.のグループは、3.の感覚とは全く違った高い抽象性を操る能力(中国由来のものだろうが)をうかがわせるもので、3.よりかなり後代に追加されたものだろう。富永仲基の「加上説」の好例だと思うが、そう主張したひとはいたのだろうか。

*1:p58『古層日本語の融合構造』平凡社 isbn:458240328X

*2:豊雲野神は例外とする