しかし、現実の獄にある人が〈獄〉の信奉者であるとは限らず、むしろ最深部からの爆破~解体をのぞみ、かつ武器として応用しつつ占拠する最短距雛に位置してもいるのである。
松下昇の表現の断片的引用。
カテゴリー: idea
小骨と「自己価値化」
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050530#p1 で、
内田樹の断片的文章を引用し、自分に引きつけて「小骨系ブログ宣言」までしてしまった。
自分で<小骨>を書こうと思って書けるものではない。自分でコントロール出きるものは<小骨>ではないからである。自分が書いた文章でも、自分の意図以外の<何か>があるような気がして、それが気になって考え続けなければならなくなる。これがわたしの言う<小骨派>の文章である。しかし、一定程度のレベル以上の文章でないとそんなことを言っても無意味のような気も(自爆!)
ところで、実はわたしは内田氏のファンというわけではない。引用した文章においても実は受け取り方の違いはあるわけで、内田氏は「小骨」を(最後には)溶解すべき物と捉えているのに対し、わたしにはそういう意識はないのだ。私にとっては自己否定あるいは(他者と相互の)自己変容が問題なのであって<小骨>はむしろその契機として歓迎されるべきものであり、溶解の対象ではない。
以上書いたのは、araikenさん(「祭りの戦士」)の次の文章、内田批判を読んだからでもあります。
http://araiken.exblog.jp/m2005-04-01/#1841994
希望格差社会
http://araiken.exblog.jp/m2005-04-01/#1893425
センセーそれはあんまりじゃございませんか………その1~その4
http://araiken.exblog.jp/m2005-05-01/#1958702
センセー、やっぱり違うと思います! その1~その3
わたしはaraikenさんの批判に全面的に同感してしまった。
内田先生の文章を読んでいないのだが。
話は山田昌弘氏『希望格差社会』を内田氏は評価することへの異和感から始まる。
それにしても、「過大な期待を諦めさせる」なんて言い方で教育について語る山田、内田、両氏のポジションはもう明らかに高みから若者を見下ろしたそれであり、人をコマのように配置する社会政策を云々するエリートの政治的な視点であることは確かだ。
それに対し、araikenさんが提示するのは「自らの存在の価値や意味を自分自身で創り出し」ていくことだ。
「競争を降りる」ということは、そのような競争原理内の「優劣」や「序列」に基づき、他者との比較によって自分の価値を推し量ろうとする一切の手続きとオサラバすること………まったく一面的で、おそらくは資本の生産性の増大に好都合なように人間を管理し、最大の労働力を発揮させるためにつくられた、業績主義的な優劣だけによって人間の価値を判断するシステムから身を引き剥がすことだ。
このような身の引き剥がしはシステムの外部への視線なしには敢行され得ない。つまり外部の異質なものに対する親和性が同時的に発生しているはずである。しかし内田氏らの言葉にはそのような親和性は見当たらず、あったのはむしろ異質なものへの排除の視線でしかない。
私たちはシステムから身を引き剥がした瞬間に、多様な形の「夢」や「欲望」が様々なベクトルをもって疾走し、交錯し、渦を巻いている空間の中に放り出されるだろう。そこには他者となんらかの比較をすることを可能にする基準もなく、物差しもないからだ。それゆえ私たちは自らの存在の価値や意味を自分自身で創り出し、発見してゆかなければならない。それが「自己価値化」そして「自己肯定」という言葉の正体なのだ。
憎悪せよ
6/23の朝日新聞社説に、「この地獄を忘れまい」とある。
23日は沖縄「慰霊の日」らしい。戦後60年。戦争体験者は死に絶えつつある。「だからこそこの悲惨な戦闘を後の世代に伝えていかなければならない。」
沖縄は本土決戦を引き延ばすための「捨て石」とされた。日本軍は住民を戦場に根こそぎ動員した。男性は子どもや老人までが防衛隊に駆り出され、女子生徒は看護隊に組み込まれた。
米軍は地形が変わるほど、空爆や砲撃を繰り返した。軍隊と住民が混在する島で、米軍が「ありったけの地獄」と呼んだ激しい戦闘が3カ月に及んだ。
亡くなった二十数万人のうち、住民の犠牲者が本土からやって来た兵士を大きく上回る。それが沖縄戦だった。
6/23朝日新聞社説
住民の悲劇は、敵の米軍によってもたらされただけではない。
ガマと呼ばれる洞穴に逃げ込んでいた住民が、敗走してきた日本軍に追い出され、砲弾の下をさまよった。
日本軍は住民が捕虜になることを許さず、「敵に投降するものはスパイとみなして射殺する」と警告していた。実際に、米軍に連れ去られて帰された少年と農民が日本兵に殺されるなど、スパイとみなされる住民が相次いだ。
そんな中で、米軍が上陸した慶良間列島などでは、追いつめられて肉親同士が殺し合う「集団死」が起きた。慶良間列島だけで犠牲者は700人にのぼる。
沖縄キリスト教短大の学長を務めた金城重明さん(76)はその生き証人だ。母親と妹、弟の命を奪った。
「『鬼畜米英』によって耳や鼻をそぎおとされ、女の人は辱めを受けると信じ込まされていた。それよりは、自らの手で愛する者の命を絶つことがせめてもの慰めという心理状況に追いやられた」
この世の地獄というほかない。(同上)
殺された沖縄住民は犠牲者である。誰の?という問いにわたしたちは「戦争」、と戦争を擬人化して答えてきた。
ヒロヒトも東条も「地形が変わるほど空爆や砲撃を繰り返す米軍」も、その罪を検証されることはなかった。
めでたいことである。
責任逃れ
# drmccoy 7/03(7)
>責任逃れ
誰の責任ですか?まさか私には過去の指導者の戦争責任を追及する責任があるとかおっしゃるんではないでしょうね?
(野原) バンザイクリフの死者たちは一方的な犠牲者だったと言われた。つまり今回のJR西事故の犠牲者なんかと同じですね。彼らのことを考え寄り添おうとすれば、何故彼らが死ななければならなかったのか、そうさせてしまった責任は誰にあるのか考えるのが普通でしょう。多くの自決者を出した原因として、「終わりを考えられない狂信的戦争観」が「生きて俘虜の辱めを受けず」という倫理を考えることができます。それに対してマッコイさんは同意しないが、反論もしていない。責任に対し「誰の責任」と特定されない責任は考えまいとする態度が、「責任逃れである」と思います。
サイパン島の崖の上から
崖
石垣りん
戦争の終り、
サイパン島の崖の上から
次々に身を投げた女たち。
美徳やら義理やら体裁やら
何やら。
火やら男だのに追いつめられて。
とばなければならないからとびこんだ。
ゆき場のないゆき場所。
(崖はいつも女をまっさかさまにする)
それがねえ
まだ一人も海にとどかないのだ。
十五年もたつというのに
どうしたんだろう。
あの、
女。
(「表札など」『石垣りん詩集』ハルキ文庫p89)
産土(うぶすな)=パトリへの忠誠
戊辰戦争においては多くの藩が、薩長側(天皇)か幕府かという選択を急に迫られ右往左往してたわけです。上記の奈倉哲三氏論文からもう一箇所引きます。
二本松藩は幕府軍側で戦うことに決定。7月29日、新政府軍と激しい交戦となる。
そのさなか、農兵司令官として出陣していた三浦権太夫は、勤王論者として王師(おうすい)(天皇の軍隊)へ弓を引くことはできぬとして交戦を拒否、阿武隈川東岸で空矢を放って自刃した。合祀年月は不明であるが、靖国に祀られている。*1
三浦氏は、(おそらく)うまれ育った故郷、その代表としての藩に対する忠誠と、自分が意識的に獲得してきた勤王イデオロギーの間で葛藤し、ついにどちらかに付くことは決断できず、自刃した。ところが靖国側は、その「勤王」の面にだけ注目し、靖国に合祀した。
これと同じ事は「大東亜戦争」でも、無数に起こっている。南の島で餓死に追いやられ、祖国に対し怨みしか持っていない死者も沢山居たはずだと思う。それでも形式的に「護国」ということにして合祀する。一方空襲の死者とかは急進的愛国者が仮にいても合祀の対象からは外れる。また今回の台湾「高砂族」などのように遺族が合祀から外してくれと請求しても応じない。
「国家の為忠奮戦死せし霊」だけを降ろし、神社に鎮座させるという*2選別装置。死者を選別するだけでなく、死者の内なる葛藤を拒絶し「国家の為」という面だけに光を当てる装置である、というわけだ。
憲法1条廃止しよう
衆院選広島6区に無所属で立候補しているライブドアの堀江貴文社長は6日、東京都内の日本外国特派員協会で講演し、天皇制について「憲法が『天皇は日本の象徴である』というところから始まるのには違和感がある。歴代の首相や内閣が(象徴天皇制を)何も変えようとしないのは多分、右翼の人たちが怖いから」などと指摘した。
http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/feature/news/20050907k0000m010016000c.html
MSN-Mainichi INTERACTIVE その他
「郵政民営化」の論点化という小泉のデマゴギーを推進した点で堀江は許せない、と思っていた。だがこの発言は良い。天皇は(明治)憲法ができるずっと前から天皇だった訳で、伝統を尊重するなら1条廃止論に反対する必要はない。19世紀ドイツ起源の軍国主義=国家主義的なものは現在日本にも、排外主義その他として根強く復活しようとしているが、日本の伝統でもないし美しくないし、ひどい失敗をしたばかりだ。憲法1条から8条は削除すればよいと思う。
わたし/ナルシズム
--私は偶然に助かったんです。運がいいわけでもない。誰のおかげでもない、ふふんふふーん、私は科学の子だ。ふんふんふんっ。
というような人がいるかもしれません・あーあ、ねーえ。*1
の「ふふんふふーん」「ふんふんふんっ」って一体何なんだ。わたしはサラリーマンです、とかわたしは主婦です、とかのありふれた自己紹介にもこの「ふふんふふーん」「ふんふんふんっ」はくっつけることができる。わたしは私をニュートラルに記述することはできず、そうできたと思っているときは、普通よりより深いレベルでナルシズムを育ててしまっている。笙野はそう言いたいのか。
*1:p14『金比羅』笙野頼子 isbn:4087747204
自慰史観派が外務省に圧力
★外務省HP 歴史コーナーの記述見直し検討
・町村信孝外相は十三日の参院外交防衛委員会で、外務省のホームページの
「歴史問題Q&A」と題したコーナーについて、「事実でなかったことをあたかも あったかのような印象を与えるような記述や、過大に妄想的な数字がなかったか どうか、よく検証したい」と記述内容を見直す考えを示した。山谷えり子氏(自民)への答弁。
ホームページには「首相の靖国神社参拝は過去の植民地支配と侵略を正当化するものではないか」「南京大虐殺をどう考えているか」などの設問が並び、平成七年の「村山談話」などを引用した回答が載っている。
山谷氏は「中国や韓国のホームページのような問題設定で、日本の立場を十分に説明していない。あえて誤解を招くような書きぶりもある」と指摘。「従軍慰安婦」など当時なかった呼称を使っていることなども「不適切」と批判した。
http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1129228260 【政治】”南京大虐殺、従軍慰安婦…” 「事実だったように思わせてしまう」→外務省HP、見直し検討
このQ&Aのこと。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/qa/index.html 外務省: 歴史問題Q&A
力を入れずに天地を動かし
上の文では、ローザ・パークスの非暴力直接行動に対し、日本には与謝野晶子の抒情しかないのか、と書いた。しかし考え直してみると、だがたかが抒情であっても捨てた物でもない。
「君死にたもうことなかれ」を改めて、読んでみた。長いので2連だけ掲げる。
http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/yosanoakiko.htm 与謝野晶子
堺の街のあきびとの、
老舗(しにせ)をほこるあるじにて、
親の名を継ぐ君なれば、
君死にたまふことなかれ。
旅順(りょじゅん)の城は滅ぶとも、
滅びずとても、何事ぞ、
君は知らじな、あきびとの
家のおきてに無かりけり。
あきびと=商人。あきんど。
商人による自由都市の伝統(伝説)、家のおきてを自己のよりどころとして持ち出している。「老舗をほこる」ことと国策に逆らうことは21世紀の現在も私たちに於いてはまったく結びつかない。しかし晶子の時代、つまり教育勅語ができたばかりの時代にはそうではなかったことに注意したい。明治維新も大阪の商人が金を貸したから成立したのだ。
それに貿易商だとしたら日本だけが栄えても商売は成立せず必ず相手国も必要だ。国内だけに基盤を持っているわけではない。(急に自分のことを思い出したが、私が赤ちゃんだった頃、父はオーストラリアに2年も単身赴任していた。戦後(オーストラリアは交戦国)まもなかったのに関わらず父はその地の方々にとてもよくしてもらったという。考えてみれば私が育つことが出来たのも幾分かはかの国のおかげなのだった。)
古今集のかな序で、紀貫之は、「力を入れずに天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあわれとおもわせ、(略)るは歌なり」と言っている。天地鬼神を動かすくらいだから政治を動かすくらいはわけなくできるはずだ。
批判されて反論した文章には次のようにある。
http://pegasus.phys.saga-u.ac.jp/Education/docs/hirakibumi.html
私が「君死に給ふこと勿れ」と歌ひ候こと、桂月様太相危瞼なる思想と仰せられ候へど、當節のやうに死ねよ\/と申し候こと、又なにごとにも忠君愛國などの文字や、畏おほき教育御勅語などを引きて論ずることの流行は、この方却て危瞼と申すものに候はずや。私よくは存ぜぬことながら、私の好きな王朝の書きもの今に残り居り候なかには、かやうに人を死ねと申すことも、畏おほく勿體なきことかまはずに書きちらしたる文章も見あたらぬやう心得候、いくさのこと多く書きたる源平時代の御本こも、さやうのことはあるまじく、いかがや。
ここで「畏おほき」と彼女は本当に感じていたのかもしれない。だからこそ、真実「畏おほき」ところの大君の御意志を私意によって振り回してそうであることの自覚を持っていない役人やマスコミというものに不信を感じたと。