ラファでの学童保育(中学生)

 学校では勉強しか教えない、と彼女は言う。(小柄だが内発するもののつよさに溢れた女性) 例えばお絵かきにしても、わたしはどうせ上手く書けないから止めておくとその子供たちは言う。遠慮しているのではない。日本人ならたぶん誰でも下手だとか上手だとかそんなことはどうでもいいのよ、とにかく書いてみましょうよ、と強く誘われた少年時代があるはずだ。でもこの国にはそうした文化がない。絵を描くことを楽しみ、演劇のまねごとをすることを楽しみ、スポーツを楽しむこと。彼らだって楽しむ時間を持つことが許されて良いはずだし、日々恐怖に怯えているかれらこそそうした時間を強く必要としているはずだ。そんなふうに思い、彼女寺畑由美さんはそこに出かけていった。世界でもっとも危険な町、ラファへ。

http://www4.dewa.or.jp/stageone/MP0521daiarytop.html

このサイトを見ると彼女のラファでの1年間の活動の概要が少し分かる。彼女に何が出来たのか。何もできなかったわけではない。彼女と二人のパレスチナ人スタッフは、子供たちと友だちになり彼らに楽しむ時間を与えることができた。

 彼女の講演会に行くことができた。普通の大なり小なり政治的な集会とはかなり違いがあったと感じた。微妙な差なのだが。つまり政治的集会はある方向性に聴衆を導こうとするベクトルにおいて成立している。そのベクトルに賛成するから行くわけだが、仮に同意できない点があってもそれについては反対すればいいだけで、困惑させられることはない。寺畑さんの場合、ラファで子供たちを相手にするときと同じようにできるだけ聴衆を巻き込んで快調に語りを進めていく。語らないと理解して貰えないことは膨大にあり話は溢れるように進む。だがこどもたちはどう生きて行けばよいのか。確かに(日本でいえば東大なみに)ガリ勉すれば彼だけは海外脱出できるかもしれない。でもそれ以外のこどもたちはどう生きていけばよい。大人になっても失業率は6割だ。住んでいる家は明日にでも壊されるかもしれない。*1一つの選択肢は、シャヒード、自爆攻撃者になることだ。その選択支はもちろん不可避ではないが、日本で考えるほど簡単に非難できるわけではないのだ。子供たちには夢が必要だ。彼女たちはわざわざ出かけていってもそれを与えることができない。どうしたらいいのか。わたしたちは困惑に放り出されたままだ。

*1:5月18日現在もそこでは家屋破壊が進んでいるらしい。

刑事被告人となった後に

松下昇 『概念集・5 ~1991・7~』から、p25「裁判提訴への提起」の前半部分を掲載する。これは過渡的な掲載です。

裁判提訴への提起

 解雇処分を受けた場合に地位確認の仮処分申請や解雇取消の請求を裁判所の民事部へ書面でおこない、法廷で処分の不当性を明らかにする方法をさすことが多い。もちろん裁判提訴の一般的な概念としては、警察ないし検察へ何かの事件の被害者として告訴したり、何かの不正を知った公務員として告発することを通じて刑事裁判を成立させることも広い意味で(かつ、身にしみて影響を受けてきた私としては特に)裁判提訴の範疇に入るし、民事においても、弁護士会などの無科法律相談に持ち込まれるテーマは離婚や交通事故が多数を占めており、これらのテーマが大衆にとっての裁判提訴のイメージに密接に関わっていることは確認しておいた方がよい。

 このような確認の範囲からすると、冒頭でのべた解雇処分などにおける裁判提訴は先進的かつ自明の対応と視えかねないけれども、六○年代末以降の闘争過程においては必ずしもそのように把握されてきていない。共産党は別として、闘争参加者の基本的な姿勢は、活動の全領域において裁判所を含む国家権力の介入や、それへの依拠を拒否することであり、この姿勢は処分に対しても、流血を伴う党派闘争においても維持されてきた。私自身も七○年の懲戒免職処分に対して取消請求の裁判提訴をこれまでおこなってはいず、それは前述の姿勢の根拠への共闘からであるが、しかし、だからといって他の人の処分に対する裁判提訴を否定的には判断していない。判断の基準は次のようである。

①裁判提訴が闘争の問題点を闘争現場を越える広い場へ拡大し、その波動を闘争現場へ還流させうる時には意味がある。(ただし、現在の裁判制度や裁判官の良心を無批判的に信頼して勝訴を期待するのは論外であり、結果的に勝つためにもこれは鉄則である。)

②〈民事〉への裁判提訴は、できれば自分が〈刑事〉事件の被告人となった後で(A)、法律の専門家である弁護士に依拠せずに(B)おこなうのがよい。(A)は時間的な前後というよりは、存在の仕方の前後でいっている。なぜなら、現場ないし法廷でいつでも国家の秩序や法と闘う準備のあるレベルでこそ、裁判提訴によって(さえ)闘争の意味を深化~拡大させうるからであり、(B)は、大学闘争の世界史性は専門のジャンルの解体を前提としつつ法の体系と秩序に立ち向かうことを不可避とするからである。(ただし、この意味を部分的にせよ共有する弁護士との共闘の可能性は残しておく。)

③大学闘争とよぱれるものの特性の中でこの項目と関連するものを指摘すると、問題点をとらえる方法自体の情況性や自らの関わり方を問題点に繰り込まざるをえない構造に出会ってしまうことと、発端の問題点を追求する過程が新たな問題点を作り出していくことである。従って、発端のレベルで裁判提訴に意味があるかどうかを固定的に判断するのでなく、裁判提訴を媒介~逆用して何を作りだしていくかということを常に構想している必要がある。この場合、波及効果の範囲を事件の幅だけでなく、可能な限り広く深い領域との関連で構想し、成果を開示していくことが望ましい。(なお、環境破壊、原発、選挙権などに関する共同訴訟の可能性と限界については直接討論したい。)

漢字の数

当用漢字というものは、1946年内閣から告示された1850字をいう(らしい)。今小学校では約千字習う、残りは中学で覚えなさいということか。ところで外国ではどうかというと、と中国と台湾はほぼ同じで、小学校約2500字、中学校約1000字である。台湾の方が漢字重視というイメージがあるが数は同じくらい。韓国は小学校ではなし、中学で約900とのこと。*1

漢字(あるいは漢字とコンピュータ)については下記参照。

http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~yasuoka/kanjibukuro/japan.html

日中台で、元は同じ字だったはずなのに今は違ってしまった場合にユニコードでどうなるのか疑問でした。下記で少し分かった。ユニコードは「元同じ字だったかどうか」は考えていない。似たような字体がある場合に同じコードをふる場合と違うコードをふる場合がある、ということか。

http://kanji.zinbun.kyoto-u.ac.jp/~yasuoka/kanjibukuro/unicode.html

*1:9/9朝日新聞夕刊「漢字めぐり国際シンポ」より

言葉にでも女にでも

 「私が何かを論じる」ということが大事なのでは、本質的にはない、と思っている。

 「ところで、概念とは、こちらが把握したい時に把握できるのではなく、或る瞬間、否応なしに、こちらを把握してくる本質を持つのではないだろうか。*1」と松下も言っている。

 論じる主体としてのわたしは、生きているわたしのごく一部の位相を占めるにすぎない。ふつうは睡眠をとり、仕事をし、食事をし、会話をし、すべて無自覚にとおり過ぎていくのだ。たまには一瞬息を止めるほど怒ったり感動したり行為したりもするだろう。いずれにしても「何かを論じる」という時間の過ごし方は、よっぽど余裕のある時にしかできないことだ。そうではない書き方もできるはずなのに、わたしはできていない。

 言葉にでも女にでもわたしは振り回されたい。?

*1:松下昇『概念集・1』p2

同一化という強迫

人類が「身元確認」同一化(イエンティフカツイオーン)という形で現に自分の身に加えられている強迫を逃れたいと思えば、人類は同時に人類の概念との同一性を獲得しなければならない。(略)

交換原理、あるいは人間的労働の平均的労働時間という抽象的普遍概念への還元は同一化原理と同根である。(略)

さりとて同一化原理を抽象的に否定しても、何物にも還元できない質的なものを大いに尊重して、もう万事を千篇一律に扱わないと宣言してみても、それは古い不法状態に戻るための口実を造り出すだけの話である。

p179 アドルノ『否定弁証法』isbn4-87893-255-4

わたしは最近、普遍とか(「天」とか)良く口にするが、それでいいのかという疑問もある。ただ「現に自分の身に加えられている強迫(=愛国心の強要)を逃れたいと思えば」、とりあえず、それは「普遍」ではないということは口にする方が良いと思われる。

性を、一旦破棄して考える

この日記ではなぜか、西尾幹二、山形浩生との激突というエピソードがあったわけですが、最近「ジェンダーフリー」ないしその使用法について広範な議論が巻き起こっているようです。ジェンダーという言葉がフリーという言葉と結びついて、正確な概念から離れつつ流行語になったこと。その背後には、女/男という概念はすでに〈拘束〉でありそこからの離脱を求める漠然とした気持ちが(フェミニストの想定を越えた広範さで)あった、ということは事実でしょう。上の松下の文章はそうした諸テーマを、早い時期にフェミニズムとは無縁の場所で表現したもの、と言えます。

 上記の松下昇の1991年のテキストを読んでみる。

江戸や明治に出された本に比べると遙かに読みやすい。人間が読みやすいだけでなくスキャナーでOCRにかける時も昔の本などはふりがなや返り点などが多すぎてまず駄目だし、漢字も異字体や正字が多く上手くいかないことが多い。*1松下氏の文章は、〈 〉や~が多いとして形式面でも難解とされたが、字体などという点では私たちの時代の標準に近い。ワープロで打ったものだから当然だが*2

 難解でとっつきにくいという感じを持ってしまった。タイトルにある「非対象」という概念が分かりにくい。とにかく読んでみよう。

 最初、言語における性(ドイツ語やフランス語など)が出てくる。性をジェンダーと言ったときにまず出てくるのがこの「性」であるのは承知の通り。*3「なんで女が中性なんだ!」といった理不尽を呪ったことは誰しもあるだろう。*4わたしたちはすでに言葉ができあがった世界に住んでいて言葉でしか考えられないのだから問えない。だがこの〈理不尽〉の向こう側に、物と言葉が初めて出会った情景の影があると想定してもよいだろう。言葉とは抽象であるわけだが、わたしたちの知っている抽象とは全く別の軸における抽象のあり方がかって存在した。

言葉というものは、人類の(あるいは全自然の)悠久の歴史をその背後に隠し持っている、わたしたちはそれを直接知ることは出来ないが直感によって感じとることは出来なくはない、そういった思想がある。*5松下の文章の背景にもそのような思想があるようだ。

a「言語の発生から血族社会内部での流通過程において、人々があらゆる対象を直接ふれたり評価したりできる〈もの〉として記号化し、かつ〈性〉的に区分する世界観(共同幻想)の中で相当長い期間を過ごした」という長い時間が想定される。しかしそうした時期は原初のユートピアではない。〈もの〉としての直接性であるかのように言葉が意識されていた、ということだ。

b「あらゆる対象を〈性〉に区分して認識する段階を越えても、慣性的な逆作用により、あらゆる対象を区分~交接可能な概念としての〈性〉質に区分~体系化しようとするヨーロッパ系言語の基底にある」志向は残った。社会的諸関係の拡大によりaという段階は終わるが、そのときの〈幻想的拘束〉は〈残像〉を残す。それが名詞における〈性〉である。

cさらに貨幣制度が導入され、社会的関係の拡大により〈もの〉に直接ふれうる度合はどんどん減少し、言語における〈性〉は消える。これは英語の場合にだけ観察しうるが、方向性としてa→b→cというベクトルを想定することは可能だろう、と言っているようだ。このベクトルに対し松下はそれを進歩とも堕落とも価値付けない。(11/20 7時追加)

*1:というか漢字というのはもともと多様性に富んだものだったのを日本の戦後の政策でむりやり簡略化したものである。だから現在の基準に合わせて昔の字を異字体だと評価するのはその評価自体が不当である。

*2:手書きのものは1行がよく2行に分かれて流れていく

*3:この15年間で誰もが知るようになった言葉がこのジェンダーだが、その経過は「失敗」だったとも言う。これについてはまた書こう。例:http://tummygirl.exblog.jp/857963/

*4:私はフランス語教室に何年も通ったが勉強しなかったので知らないが。

*5:吉本隆明『言葉からの触手』ISBN:4309407064 など。

日本軍管理下の従軍慰安婦は存在したか?

については、下記林博史氏の文章を読んでください。

http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper02.htm

一部引用する。

元サンケイ新聞社社長鹿内信隆は桜田との対談で、陸軍経理学校時代の話が「慰安所の開設」になったとき、次のように語っている。

「そのときに調弁する女の耐久度とか消耗度、それにどこの女がいいとか悪いとか、それからムシロをくぐってから出て来るまでの“持ち時間”が将校は何分、下士官は何分、兵は何分――といったことまで決めなければならない(笑)。料金にも等級をつける。こんなことを規定しているのが『ピー屋設置要綱』というんで、これも経理学校で教わった。」(桜田武・鹿内信隆『いま明かす戦後秘史』)

被害者意識はみっともない(訂正後)

  foursueの日記 の1月29日から

引用(コピペ)してたのですが、

foursueさんからの意見もあり、引用の表記方をすこし変えます。

あとタイトルも変えました。

http://d.hatena.ne.jp/foursue/20050129#p1 の一部

日本が戦争を起こしたのは日本人を狭い日本の国土が養いきれなくなったからであり、

(略)

そしてそれは黄色人種の勝利に終わったことは歴史上間違いない。

日本は負けたが黄色人種は勝った。

(訂正が遅れてすみませんでした。)

「ハマス停戦を破る」報道の虚偽

昨日の毎日新聞に 停戦合意後、初の死者 ガザ地区 という小さいベタ記事が載った。ガザのグッシュカティーフ植民地(入植地)付近で20歳のパレスチナ人男性がイスラエル軍に殺されたというものだ。*1

今朝の毎日新聞にはかなり大きい見出しで「ハマスがガザ地区で迫撃砲攻撃再開」という記事が載っている。(ウェブ版は数行だが、紙版は相当な紙幅を使っている)。ハマスが「停戦」を破り、迫撃砲をイスラエル植民地に放ったというものだ(建物への被害のみ)。よく読むと、イスラエル軍の攻撃でパレスチナ人の犠牲者が先だって出ていることがわかるが、パッと見の印象では「また、ハマスか!」と思わせられる。

http://0000000000.net/p-navi/info/news/200502111438.htm

P-navi info : 変わらない現実 ラファで青年殺される

*1:9日、パレスチナ人男性が入植地側からの銃撃で負傷し、その後、死亡した。