野暮で馬鹿な国

寄り道ですが、松岡正剛氏が紹介する荻生徂徠の日本観。

 それだけではなく、もともと「儒ノ道」と「侍ノ道」は同じものに近いはずだったろうが、中国には聖人が出て日本には聖人が出なかったから、日本は「侍ノ道」が「武ノ一方」へ偏ったのだとも書いた。そのため、中国のような「詩・書・礼・楽」の高度な「道」が日本に不足して、まるで武士道一辺倒の野暮な国や馬鹿な国になったというのである。 

http://www.isis.ne.jp/mnn/senya/senya1008.html 松岡正剛の千夜千冊『仁斎・徂徠・宣長』吉川幸次郎

ここでは、次のようになる。

a.「詩・書・礼・楽」の高度な「道」

b.まるで武士道一辺倒の野暮な国や馬鹿な国

えーと*1

*1:「子安宣邦 馬鹿」で検索を掛けてここに来た人がいた。その検索結果から上記の文章を見つけた。

永久の禍根

 長々と引用したが、要は、「我カ皇祖皇宗(略)徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ」の通りである。つまり、皇祖皇宗こそが徳(人間としての価値ある行為)を立てたのだ、ということ。

 さらに、教育勅語の起草者井上毅の論文「言霊」には次のようにある。「お治めになる」に相当する言葉が古事記には二つある。即ち、知らすと「うしはく」である。後者が単に領有するという意味であるのに対し、前者は占有とか支配といった意味はない。知らすとは「中の心が外物に対して「鏡の、物を照らす如く、知り明(あから)むる意」である。即ち、日本の「国家成立の原理」は「君民の約束(=契約)にはあらずして一つの君徳」にあることを示しているのが「知らす」という言葉。*1そして八木(やつき)によれば、この君徳とは単に中国風の「慈善の心」といったものをはるかに超えている。勅語の「宏遠」「深厚」ということばには人間的理解を超越するまでの原理の有り様を暗示しようとしているのだ。*2

 ところがその後天皇は戦争を始めてしまい、結果「終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スル」あるいはそれ以上ということになった。

「朕何ヲ似テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神霊ニ謝セムヤ」。この文章は当然、天皇自らの退位を(許される場合には)意味しよう。したがって冒頭の木戸幸一の伝言を受け天皇が退位を決意(再決意?)したのは当然である。

ところが退位は為されなかった。わたしたちは<徳の根源>を失ってしまったのだ。

*1:以上p127による。八木公生『天皇と日本の近代・下』isbn:4061495356

*2:八木、同書p151

フリーライダー

 彼らは社会がうまくまわっていかない原因をフリーライダーの増加に求める。彼らはフリーラーダーを憎み排除しようとする。しかし社会からフリーライダーを特定し排除するためには非常なコストがかかる。このコストを縮減するために監視社会が要請される。ブラックジョークのようだが、フリーライダーの排除のために政策が立案されるということが実際にあるようだ。

            遺書

                 1936年3月11日生

                 1992年3月11日~  松下昇 (印影)

1.死亡の時間を延長する措置は不要。

2.死亡の通知はどこへも不要。風のたよりに任せる。

3.死亡診断書を添えて火葬の手続きをし、死亡の場にいる任意の者が実行する。

4.密葬~公葬を含めて全ての葬儀はしない。

5.遺骨は墓地に埋葬しない。一部を希望者の保管に任せる他は廃棄~散布自由。なお、 未宇の眠る{B109}には野草以外のものは不要。任意の人の散歩の場所にする。

6.遺品は私の文書および口頭による指定のある場合を除いて譲渡、複写、刊行はせず、 基本的に廃棄してよい。

id:mujige発言続き

mujige 2010/12/06 09:00 id:noharra 氏、指摘されて「まずい」と思ったからツイートを削除したんでしょうが(名誉毀損が成立しておかしくないレベルですから)、それをわざわざ自分のブログに転載って、やってることが理解不能です。ブログが公的な表現物だということが分からないのでしょうか。

mujigeさんへ。

http://teri.2ch.net/korea/kako/986/986434444.html HANBoardについて考える PART12 投稿日: 2001/04/05(木) ~2001/05/21(月)

には、上記以外にも、米津篤八さん? に対する言及がたくさんあります。

ここのコメント欄あるいはどこかのブログで反論されたら如何でしょうか?

中道右派to野原氏 『

一部修正

>2-3.①2-1事件後の警察の対応

警察は要注意人物として大内に監視の目を光らせ、彼の勧誘を受けた周旋業者に説諭して、慰安婦の募集を断念させたが(山形県の例)、しかし和歌山のように婦女誘拐容疑で検挙することはしなかった。

②についての永井の解釈(以下、『大内事件処理の永井解釈』という。)

②の後に、①を挿入してください。

3月15日付けと3月19日付けの私の該当コメントを、『永井和論文の批判的検討』などといったタイトルで独立のエントリにしていただけると、うれしいです。』(2007/03/28 00:35)

213 今日も混沌未分なり 野原燐 2003/07/26 18:05

日本書紀冒頭にはこうある。

「 古(いにしへ)に天地(あめつち)未(いま)だ剖(わか)れず、陰陽(めを)

分(わか)れざりしとき、

渾沌(まろか)れたること鶏子(とりのこ)の如(ごと)くして、溟(ほのか)にして

牙(め)を含(ふふ)めり。」

http://www.meijigakuin.ac.jp/~pmjs/resources/bungo/02_nihonshoki.html

林羅山はこう書いている。『神道伝授』という本で。

「混沌は一気のまろきを云うなり。天地開けず陰陽未だ分かれざる時、コントンと

マンマロにして鶏子のごとし。その中に神霊の理 自ずから在りて未だ現れず。

その分かれ開くるに及んで天地の間に万物生ず。」

「また人の心にたとゆれば、まどかなる理の中に、動と静とを合わせて

念りょ未だ芽(きざさ)ざるは、コントンなり。既に動発して種々の思うこと

多く出来るは、天地開け万物生ずるに似たり。神は未分の内より備て、開闢の後に

あらわる故に、始まりもなく終わりもなし。人心も同理なり。

静にして虚なれば、今日も混沌未分なり。」

(p26 『近世神道論・前期国学』日本思想体系)

<太極にして無極>を宇宙の根源とする朱子の思想の焼き直しともいえるが、

混沌を直接肯定するのは儒教からは外れている(のではないか)。

今ここに在るわたしでも、<静にして虚なれば>、宇宙を開く混沌未分

という原理がそのうちにあるのだ、というのはちょっと良いと思った。

<静><敬><未発の中>などというのは宋学においていわば士大夫が

聖人になろうとする方法にすぎないともいえる。(そこにおいて、宇宙原理たる

理と一体化していかなければいけないのだが。)それをむりやり、

日本神話の原初の混沌に結びつけたのは大変な力技だと思える。

「マンマロニシテ」なんていう純日本語が出てくるところもおかしい。

「民は神の主なり。民とは人間のことなり。人有りてこそ神をあがむれ、

もし人なくば誰か神をあがむる。然からば民を治むるは神をうやまう本なり。

神徳によれば人も運命を増すべし。」p14

もう一つ引用してみた。儒者にとってはうまく民を治めるのが目標なのは当然

なのだが、神が出てくるのでなかなかおかしい。

というわけで、名前だけは高校教科書にしっかりでてくるが仁斎などと違い

著作は一冊も見たことがない林羅山先生の文章を引用してみました。

                     野原燐

岩波の日本思想体系は註は充実しているが現代語訳がついてないので、

わたしには難しいです。前から探していた『山崎闇斎学派』というのを見つけた

、翌日十冊ほどのこのシリーズを1,200円で店頭セールしていた。

『キリシタン書・排耶書』というのを選び、あともう一冊ぐらい買っとこうか

とこの本を選びました。スピヴァックやアレントであればマイナーとはいっても

興味を持つ人はいるわけですが、日本儒教になど誰も関心を示しさないでしょうね。

わたしも積読だけになってしまっては困る、そこでここで一人でむりやり書いて

みているわけです。

さて、羅山の文には「摩多羅神」なんてのもでてきた。なんだかいやらしそうな

神だなとグーグル検索してみたらいくつか記事が出てきた。

摩多羅堂という専門のサイトがあり正体不明のこの神について丁寧に紹介していた。

http://mataradou.hp.infoseek.co.jp/s1.html

人生は偶然か

・・有機体は、偶然のつながりのなかで生きているかにみえる。*1

見たところは偶然に見えるが、本当は「自己保存の必然性」という本質をもっている、とヘーゲルは言う。でもこれは現実が自分の理論に当てはまっていないのにむりやり理論を優先させて、レトリックで誤魔化しているところだ。

・・有機体が行うことは、一般的な概念の埒外にあり、その直接的内容からするとまったく法則性がないものである。だから、その行為には内容もなければ効力もなく、機械の働きにも及ばない。*2

ここはけっこうクリティカルな部分だ。一般に人間のやることは、機械や動物よりも偶然性やデタラメ性が強い。一面ヒューマニズムの代弁者であるはずのヘーゲルはしかし偶然性を許容できない。しかし機械の方がまし、と言ってしまえば、恐怖の全体主義国家主義者ヘーゲルになってしまう! フランス現代思想がjeuとかいうのはこういうところからきていたのか。ところで偶然とは何か?

ところで、AJさんへの応答と「主と奴」レジュメが遅れています、すみません。

*1:p181『精神現象学』

*2:p182

原則(松下昇の)

今後の討論~実践活動において踏まえておくぺき原則として…

自分が自明であると考えている発想を、いったん全て疑いなおしてみる。全社会・全文明の現状を最も抑圧された位置から、最大限に自由な視点で把握しなおしてみる。各人にとってこの作業がどのような差異と共通性をもっているかの確認と、活動への応用。(p3『概念集・10』~1994.3~より)

 デリダの<メシアニズムなきメシア性>あるいは<憑在論>に興味を覚え探求したいと思うと同時に、それは必ずしもわたしがしなければならないことではないと思った。わたしにとってデリダのそれらの概念は、なにより“松下昇の < >”を説明するために有力な助けを与えてくれるものと受け取られた。したがって、そのことを表現するためには、どこでも手に入るでデリダではなく、入手不可能な松下昇をまず説明しなければならない。だいたいからしてわたしがHPを立ち上げたのは、<松下昇への接近>が目的でした。松下昇氏はすでに亡くなっており、かなりの量のパンフレット類を残しています。したがってそれらの一部を電子テキスト化し、HPで紹介することは比較的容易に出来ることです。にもかかわらずその作業は遅々として進んでいません。もちろん原因は私の怠慢にあります。ですがそれだけではない。「松下昇は亡くなった」とは本当なのか。仮に(デリダ風に)松下が亡霊だったとしたら、「亡霊性とは、ここで、最もラディカルな政治化の形態であり、ノイローゼや強迫神経症のような反復の中に閉じこめられているどころか、エネルギッシュなまでに未来志向で能動的なものなのだ。」*1

私にとってもあなたにとっても、松下昇は固定された過去のテキストとしてコピー可能なものではなく、1行コピーすることが、世界大の不安を背負った飛翔であるような現在形~未来形の行為であるのだ。

*1:p29『マルクスと息子たち』より、ジェイムソンの言葉だがデリダもそのとおりといってる。

すでに日本は戦時下にあるのだ。

 Fumiiwaさんへ 問題を「誘拐者の要求に応えるのかどうか?」だととらえるとどうしてもテロリストをつけあがらせるな、というふうに流れてしまうかもしれません。そうではなく、「現在の自衛隊のイラクでの存在に正義があるかどうか?」が問題で、それは「米軍のあり方が正義を最終的にもたらすことができるものなのかどうか?」に依存します。少なくとも数日前のアブサドル一派との戦闘関係の開始以後、後者の答えは残念ながら限りなくゼロに近い。だから国益から判断すると「撤退」が良い。ということになります。わたしの根拠は意外と微温的なもので、左翼では全くない JMMの冷泉彰彦氏の意見とほぼ同じです。彼の意見は「第四の選択肢は撤兵です。今回の派兵はあくまで「戦後の破壊されたインフラを整備する人道支援」という目的のものです。その「戦後」が改めて「内戦」に事態が変わるのなら、そして今日付でイラク国内からの日本人民間人の退避勧告が出たように、人道支援などできる条件が失われたのなら、自衛隊は駐留を続ける理由すら失ったと言えるのです。」というものです。イラク人との血みどろの戦闘を戦い抜く決意も無しにイラクにいても無意味に人が死んでいくだけです。とにかく自己なりの正義の基準において、判断すべきだろう、どちらにしても人は死ぬのだから。そして明日私が死なない保証もない。

 「すでに日本は戦時下にあるのだ。」とマエストロ鏡玉という人が書いていましたが、いまならまだ1割、2割の隙間はあると信じたいものです。「戦時下としての判断」であれば、日本人でも劣化ウラン弾問題を叫びたがる活動家は利敵分子であり、助けてわざわざ英雄として迎えるなどとんでもない、ということになりますが。

 民俗クッ「済州島四・三事件」の紹介ありがとう。面白いかも知れませんね。できれば行ってみたいです。済州島旅行いいですね。わたしはたかだか一冊の本のわずかな頁を読んだだけなのに、金時鐘が語るその当時の海のなかの屍体の群がわりとリアルに感じられています。・・・