上野発言を弁護しようと思って

書いてみたが、弁護にならなかった。
この文章の趣旨は、
1,人口1億人の維持
2,出生率1.8の実現を 安倍氏は目的に掲げる
このことを、全力で否定するためにこの文章は書かれている。

1,人口を維持するためには、自然増と社会増。
自然増は見込めない(3)
移民の受け入れについて考える。
移民を受け入れると、社会的不公正に悩む国になる(4)
移民を受け入れず、人口の減少を受け入れて、衰退する(5)

4か5かを選ぶしかない。(5)を彼女は選ぶ。
安倍の掲げる1と2がいずれも空語であるのであるから、大量移民がなければ自動的に5を選ぶしかない。
「みんな平等に、緩やかに貧しくなっていけばいい。」(6)
問題はそんなことができるのか?である。現在生活保護をはじめとした福祉予算は増える一方、一方税収はどんどん減る。極端な再分配政策を取らなければ「みんな平等に、貧しくなる」ことなどできない。
(6)の文章は、みんなが貧しさを甘受する覚悟さえあれば可能であるかのようだ。しかしみんなが貧しさを甘受する覚悟があっても、ネオリベ思想を弾圧し極端な再分配政策を取る、ということがなければ、それは不可能だろう。
NPOなど、「協」セクターに期待するのはけっこうだが、再分配についての大きなデザインなしには、NPOにも何もできないだろう。

移民の流入が社会的不公正と抑圧と治安悪化をもたらすといった文言が批判されている。まあもっともだ。
ただ、移民を多少受け入れようとも「人口減少なら衰退」という常識を覆さない限りにおいて、「みんなが貧しくなる」といった結論は避けがたいのではないか。
人口の半分近くが餓死線上といった事態を避けたければ、再分配について正面から考える必要があるのではないか。

ただ、私も上野さんと同じでこの日本国家が極端な再分配政策を取る可能性はないだろうと考えている。であればどうするか?

追記:ツイッターから

「みんな等しく貧しくなる」というフレーズは面白いとも考えられますね。貧しい人は貧しいままで、大金持ち、金持ちが富を全部吐き出すという意味なら。
革命になります!

〈みんな〉〈平等に〉〈貧しくなる〉、を考えたい。上野とその異端の弟子ともいえるイダヒロユキはそれぞれ「ひとり」をタイトルにした本を出している。そのような「ひとり」を思想の根底から再検討することが必要。端的には自分がなぜ子供を持てなかったのか考える。
〈平等〉についてはものや関係を濃く共有していく、グレーバー(負債論)がいうコミュニズムが大事。〈貧しさ〉については、シェアルームのようにプライバシーを一部切り捨て別のものを獲得する方法が大事。〈みんな〉については国民国家のごく一部の人たち(貧者中心)が
連帯する仕組みを作りたい。
身体の脱資本主義化だがこれのためには途上国やイスラムに学ぶ必要がある。上野批判派が声高に叫ぶ「多文化共生」は観念的な理想論でしかなく敗北するしかない。そうではない自己身体の変容による〈多文化共生〉を、獲得するチャンスだ。(2/14)

『愛の労働 あるいは 依存とケアの正義論』について

エヴァ・フェダー・キテイの『愛の労働 あるいは 依存とケアの正義論』を読んだ。
これは大事な本だと思うので、紹介したい。丁度、その訳者である岡野八代、牟田和恵さんがキテイを日本に呼んでそのとき作られた本がある(下記J 同じ図書館にあったので借りてきた)。こちらを読みながら、抜き書きしてみたい。

この本は、「重度の障碍を抱える娘セーシャと共に歩んできたキテイの人生と、そのなかで哲学者としてのキテイが経験した葛藤から紡ぎだされた思想の書だ」、と岡野氏はこの本を語りだす。(p14 J) 

キテイは障碍者を育てる親であり一方、倫理や哲学を学ぶ学者だった。「人間の本性とは何か、善き生とは何かについて長きにわたって論じてきた哲学の伝統のなかで、セーシャのような存在は(略)社会的な存在として認められてもいない、という事実」に気がつく。人間の平等を深く考察しながら、障碍者のことは思考の対象にすらしていない、と。(p14 J)
自己にとっての二つの真実が矛盾していること、それを解消するために、キテイは、ロールズに至る西欧思想史の根幹である人権思想を組み替えるという作業を必要とした。

キテイは自らの論を、「依存批判」と名づけている。これを江原由美子氏の紹介の引用によって簡単に紹介する。

「キテイ氏は、フェミニスト理論において議論されてきたジェンダー平等のための批判の論理を、差異批判・支配批判・多様性批判・「依存批判」という四つの批判の仕方によって、把握する。差異批判とは、男女の差異を批判の焦点とし、差異と平等との関連性を問う論じ方を、支配批判とは差異ではなくヒエラルヒーと権力を批判の焦点とし、支配が差異に先行しているがゆえにジェンダー平等実現のためには支配と従属の関係の廃棄こそが求められるべきだ等の批判の仕方をいう。また多様性批判とは、女性同士や男性同士の差異を批判の焦点とし、ジェンダー平等の実現にはすべての多様性についての配慮が必要であるという批判をいう。」(p124 J)

キテイは、これまでのフェミニズム理論を3つに分けて押さえる。次に「依存」とは何か?
「ここにおける「依存」とは、「誰かがケアしなければ生命を維持することが難しい状態」にあることをいう。人間は誰もがすべて、その生涯において一定期間は「依存」の状態にある。また長期間あるいは一生にわたってその状態にある人もいる。」
赤ん坊は生まれたての時は24時間保護を必要とするし、その後も20年近く「育て」なければならない。また、高齢になれば介護を要する状態になったり、痴呆(認知症)になったりしやはり自立生活はできない。キテイの娘、セーシャのような場合はずっと保護を必要とする。

社会秩序の基本をなす人々の契約は平等に位置づけられ平等に権利をもつ諸個人の自発的な結びつきに由来する、というのが17,18世紀に確立した社会契約論であった。現在の西欧社会はその思想を継承している。キテイが具体的に批判するのはロールズであるが、ほかの人も同じである。
「不平等な状態が現にある」ことは否定できないが、そうした「不平等な状態は、「平等化施策」によって解消可能であり、それ以外の能力の差異も、社会的条件や偶然的な条件によって生じる「一時的なもの」とみなしうるとされていた。」(江原・p125 J) というのが彼らの論理だった。しかし、そうだろうか。

「それに対し、「依存批判」は、まず「依存」を、基本的な人間の条件としてみなすべきであると主張する。(略)その意味において「依存」とは、「たまたま生じたまれな状態」、「それゆえに無視してもかまわないような状態」なのではなく、私たち人間の基本的条件なのだと、「依存批判」は主張する。「依存」を人間の基本的な条件とみなすことは、「依存者」をケアする活動を行なうことをも、人間の基本的条件とみなすことを意味する。「依存者」は、その生命の維持を他者に依存している。すなわち、「依存者」はその生命維持のために、「被保護者の安寧の責任を負う活動」を行なう「依存労働者」の労働を不可欠とする。ゆえに、「依存」を人間の条件として認めることは、社会を「平等者の集団」とみなすのではなく、「依存者」「依存労働者」をも含む人々の集団としてみなすべきことを意味する。そうだとすれば、「平等」とは、能力において対等な「平等者の集団」の間で構想されればよいことなのではなく、他者のケアなしには生存できない「依存者」や、「依存者の生存の責任を負っている依存労働者」との間において、構想されなければならないことになる。」(江原・p125f J)

このような存在〜関係を、非本来的なものとして理論的考察の根本からは排除してもよい、とするのがいままでの学問だった。国家を「理性的存在」の結合として説明しなければ、国家は至上権を持てない、とする発想。
治者と被治者の同一性というのは確かに、強い魅力を持った形而上学ではある。しかし、社会の諸関係を素直に考えてみると、理性的主体間の契約のような合理的関係はごく少なく、社会はそのつど身近な人どうしの互酬的関係で成り立っている。家族内部の互酬的関係とされるものが抑圧的関係ではないか、と告発したのがフェミニズムである。しかしフェミニズムは、反フェミが攻撃するように互酬的関係を解体し日常を利害の損得計算に還元せよと主張しているわけではない。家族内部というだけで、すべて「互酬的」とされ、結果的に母親・主婦役割の女性に過重な負担が押し付けられている現実を糾弾しているだけである。

伝統的大家族においてはなんとかメンバー内で負担を分担してゆうずうしあっていた。(幼い子がさらに幼い子の子守をするなど)しかし「自立」を看板にする近代的核家族においては、皮肉なことに、これは(建前はともかく実質はすべて)主婦の負担になってしまった。それと同時に女性の社会進出も進み、「主婦」は過重な負担にあえぐことになる。にもかかわらず、それは、選択の自由、あなたには子供を産まない自由もあった、という論理で自己責任とされてきた。フェミニズムの論理の一部が悪用されたといった側面もあったわけだ。理不尽な話だ。しかしこれが現実であり、現在も出口はない。

個々人はそれぞれ別々に生きているわけではなく、つながりのなかで生きている。平等というものもそのなかで考えなければならない。
つまり第一にケアを必要とする者がそれを得ることができなければならない。次にケア提供者は自分の時間と配慮の大きな部分をケアのために使わざるを得ないので、報酬を得る仕事をしたり自分自身をケアすることにおおきな不都合を持つ。したがってそれについては第三の家族メンバーからさらに配慮とケアを受ける必要がある。
「依存者」をケアする必要を中心に(拡大される)家族、さらにはその外側の社会のなかである互酬関係が作られければならない。それによってケア労働者はドゥーリアの権利を得るだろう。

「人として生きるために私たちがケアを必要としたように、私たちは、他者ーーケアの労働を担うものを含めてーーも生きるために必要なケアを受け取るような条件を提供する必要があるのだ。これがドゥーリアの概念である。(p293 L)

しかし、依存ーケア労働者の関係を、単にケア労働者の負担、労働過重といった面でだけ語るのは一面的に過ぎない。それは存在と存在の最も深い関係である。

キテイの娘であるセーシャは話すことができない。外にも多くのことができない。

「セーシャの愛くるしさは表面的なものではない。なんと表現したらよいのだろうか。喜び。喜びの才能だ。おかしな音楽を聞くときのくすくす笑い。(略)キスをしてお返しに抱擁を受ける喜び。セーシャの喜びの表現はさまざまな種類・程度にわたる。」(P335 L)

ひとが生きることの原初の輝きがそこにはあるのだ。
 
ただ、それほど美しい話ばかりではない。わたしの知人Y氏も重度の障碍者の父親だった。娘さんの名前は天音という。

・・・彼女とて哺乳瓶で食事をとらないと生きていけない。天音が意思を伝える手段は大声で泣きわめく以外にない。こちらの都合など関係ない。呼吸困難で唇が白くなるまで泣き続ける。抱いてやるとぴたりと止むが、欲求が激しいと駄目である。して欲しいことを、泣くことで表現する。欲求といったところで、あとは眠たいから抱いてほしいとか、お腹の調子が悪いからなんとかしてくれとか、そして単に抱っこしてほしいとか程度の、実にささやかなものである。
泣き声に負けて抱いてばかりいると、家事も仕事もなんにも進まない。苛々がつのる。その親の焦りが伝わるのか、天音は抱かれているのに口を大きく開ける不満行動を頻繁に引き起こす。(p42 Y)・・・

Y氏の奥さんのH氏は「天音の知り合いに近況を知らせる手紙のような」ミニコミをずっと出しておられた。(わたしはその読者にもならなかったのだが。)天音ちゃんの介護という限りなく閉ざされた労働(苦役)を、社会の関係性の方に向かって開くこと、それを要求する権利が自分たちにはある、(キテイの文脈に添って言うならそう言えるわけだが)、そのような思いもあっただろうと思う。

L:エヴァ・フェダー・キテイ 『愛の労働 あるいは 依存とケアの正義論』 岡野八代,牟田和恵訳 白澤社(原著 1999年)
J:エヴァ・フェダー・キテイ 『ケアの倫理からはじめる正義論─支えあう平等』 岡野八代、牟田和恵編著・訳 白澤社
Y:山口明 『昼も夜も人の匂いに満ちて』 湯川書房
H氏とY氏のブログ http://amanedo.exblog.jp/19335267/

王力雄『黄禍』はすごい

王力雄さんの『黄禍』 横澤泰夫訳 集広舎 読んだ。これは大傑作だ。
半分までは、重く大きなテーマに真正面から取り組んだ未来ポリティカル・フィクションの傑作だ、と思った。しかし最後まで読むと、それをはるかに越えた、人類の権力と暴力、生と性、溢れることと滅びること、すべてを描いたすごい作品だと言える。

王力雄さんの『黄禍』はやたら分厚くて(値段は2700円と安いが)、はじまり「東京 新宿歓楽街」というところにたどり着くまで18頁も重苦しい文章を読まされる。私は飛ばして、後から読むが。「東京 新宿歓楽街」のとこもなんか通俗的な感じだ。そもそも、黄禍という言葉自体が重苦しく嫌な感じなのだ。元の小説は1991年に出た、つまりアクチュアルな近未来小説としては古くなっている。(「主な登場人物」はありがたいが、紹介にネタバレが含まれる。変えたほうが良いのでは。)
それでも私が読もうと思ったのは、王力雄さんが5年前日本に来た時お目にかかることができ、その時の彼の佇まいに強い印象を受けていたからだ。小柄だが強い意志を感じさせる、宗教的なオーラさえ感じた。
期待は裏切られなかった。読了して感動している。

「『黄禍』の登場人物はみなできうる限り理性的な選択を行おうとするのだが、最後には理性的な結末を完全に取り逃がす。p12」と著者は言う。
閉鎖的権力関係の内部でそれに埋もれることをよしとしなければ、極端に優秀であり、自分の真の目的を固く持ち続け、かつ自分の真の目的を隠す能力が必要だ。本書の登場人物たちはみなそうした性格であり、その意味で魅力的である。この小説のすぐれたところは、ストーリー上必要なだけの悪役がでてこないところ。権力欲の塊のような超人はでてくるが、そうした人物は中国ではもっともありふれた存在だろう。
初版では「物語を書くという企図はなく、…中国の情勢に関する議論、中国の前途に関する考察が多く語られていた」という。そうした議論小説としての骨格は残っている。(初版は翻訳されたヴァージョンの2倍ほどあり、縮めないと日本に翻訳できないといわれたせいもあり縮めたという。この是非については分からないが読みやすくななったのだろう。)

最初に出てくるのは、黄河の氾濫だ。「水害によって元来の社会組織が瓦解し、無一文になった中で、人々は新たな絆を作り、暫定的な分配制度、労働組織、秩序、さらには法律まで作って」いる例があるというエピソードが語られる。中国のグリーンムーブメントの指導者という著者を思わせる履歴を持つ登場人物によって。
より大きな危機がやってきた時、この理想は完膚なきまでに破られる、というのがこの小説の筋である。

「スコップで粟を放り上げる旅に、石戈(せきか)は自分が粟粒と同じように、すがすがしい風の中に飛び上がり、むらなく散開し、風に草の屑や糠そしてほこりを吹き払ってもらい、さっぱりした姿で、陽光の下きらきら光る収穫したばかりの粟の山に落ちていく感じがした。」主人公の一人石戈の存在の底にある宇宙的エロス感覚。
それぞれの主人公はそれぞれ強いられた目的の為に死にものぐるいで奮闘するが、その底にはたいてい中国的な(荘子的な?)〈無〉への何らかのかたちの志向があるようだ。この小説は表面的には美女と超人が入り乱れるスパイ小説もどきの終末論的SFでもあるのだが、それだけに終わらない一つの要素はこうした〈無〉への志向を孕んだ人物造形である。

さらに、小説の丁度真ん中で、わたしたちの知っている世界はあっけなく崩壊する。しかし小説は続く。暗澹とした話ばかりが続くわけではない。中国人はすべて飢餓線上にさまようはめになり主人公たちも例外ではないのだが、主人公たちは意外にも理不尽な世界を受け入れ、その中でなお、いままでどおり目的を遂行するために全力を尽くす。
「陳ハンと同列の石段に座っている数人の受講生は、今長城の煉瓦の上で干からびたアリの死骸を集め、少量の塩とまぜ、その味を味わいながら、別種の昆虫の味と栄養価値との比較をしているところだ。」近代小説はブルジョアないしプチブルのもので、飢餓線上の人を主体の問題として取り上げてる人は少ないように思う。甘やかされた現在日本人は特に、生活感覚の幅が非常に狭くなっているのではないか。

飢餓線上の難民の巨大なマス(大群)が国境を越える、近年ヨーロッパではこのような事態が発生しており、それのことの受け入れがたさに、いまだ困惑している。この小説はまさにそのテーマを現実にはるかに先駆けて提起していた。著者が言うのはまず、国境、主権の概念は人為的なフィクションのに過ぎないということ。それに対して国防上の理由があっても、大量の難民を虐殺するなどということは「現代の文明が許さない。」
地球の資源が豊富で、至る所に未開発の土地があった時代植民地主義者たちはほしいままに植民地を広げた。「地球上に人が充満し憂えるべき状況になり、資源が枯渇すると、逆方向の植民が始まりました。このような逆方向の植民は貧窮によるもので、往時の被植民者が今度は列強に謝金を取り立てたのです!」すでにトルコ国境近くまで来ている2億人の難民という圧倒的な存在の量を背景に、中国の新米の外交官は強弁する。

大量の核兵器を持ちその効果を振回すことができるのが現代文明の価値と能力なのか?それとも燃料がなくなったので権力機構がなくなった今無意味になった膨大な書類を燃やしながら暖を取り、それでも絶望せずに辛うじて生き延びあるいは死んでいくのか?
「各国に移動した中国人難民は明らかに安らかで平和な日々を送っていた。彼らは死ぬことを意に介しない、すでに一再ならず死んだとすら言ってもよかった。(略)飢餓は呼吸と同じように日常的体験となり、まるで先天的生理の構成部分になってしまったかのようだ。」p488
人類は辛うじて維持され再生してくだろうか、かすかな希望を暗示しながらも、この小説の最後は、どこにも救いの余地のないエピソードで終わる。

「歴史上、大文明の壊滅ということが何度か起こっており、中国の滅亡が絶対にあり得ないと信じる理由はない。」p13
それは確かなことだ、と読者は嫌でも納得するべきなのだと思う。(少なくとも自分の快適な生活と無邪気な対中国優越感を維持したままで「中国崩壊論」を楽しむなどということはありえないのだ。)

『黄禍』

スピノザ書簡32 オルデンブルグ宛

「部分と全体」 書簡32。オルデンブルグ宛 畠山尚志訳 岩波文庫 p171

 それから私は諸部分の連結ということを、単に或る一つの部分の法則や本性が他の部分の法則や本性と適合していてそれができるだけ相互に反発しないことになっている、ということとのみ解しています。また全体と部分の関係について申せば、諸物の本性が相互に和合していてそれらが出来るだけ互いに一致する限り、私はその諸物を或る全体の部分と見なし、これに反して、諸物が相互に調和しない限り、その各々はそれぞれ異なる観念を我々の精神の中に形成し、従ってそれは部分ではなく全体と見なされるのです。例えば、淋巴や乳糜の子粒(パルティクラ)の運動がその大いさや形状に関して相互に適合して、それらの粒子が相互に全く調和し、すべてが一緒に血液という一の流体を組成する限り、その限りにおいてのみ淋巴や乳糜は血液の部分として考察されます。しかし淋巴の粒子がその形状や運動に関して乳糜の粒子と調和せぬと考えられる限り、我々はこれらを部分としてではなく全体として考察するのです。

 今我々は、血液の中に一つの微細な虫が住んでいると想像しましょう。そしてこの虫は淋巴や乳糜の粒子を見分ける視力を持ち、また各々の粒子が他の粒子との衝突によって或いは反発したりあるいはこれに自己の運動の一部を伝えたりすることを観察し得る分別力をもっているとしましょう。この虫は、ちょうど我々が宇宙のこの部分に住んでいるようにこの血液の中に住んでいるでしょう。そして血液の各粒子を部分としてではなく全体として考察するでしょう。そしてこの虫は、すべての部分が血液の一般的本性によって規定されることや、すべての部分が血液の一般的本性が要求する通りに相互に適合しあうように強制されて一定の仕方でたがいに調和するようになっていることを知り得ないでしょう。ところでもし、我々が、血液の外部には血液に新しい運動を伝えるどんな原因も存在せずまた血液の外部には血液の粒子が自己の運動を伝え得る何らの空間、何ら他の物体が存在しないと想像するならば、血液は常に同じ状態に止まることになり、その粒子は血液の本性だけから、換言すれば、淋巴や乳糜の運動の一定割合から考え得られる以外のどんな変化をも受けないことが確かであり、そしてこのようにして血液は常に部分としてでなく全体として考察されねばならなくなるでしょう。しかし実際には、血液の本性の諸法則を一定の仕方で規定する極めて多くの他の原因が存在するのであり、またそれらは逆に血液によって規定されるのでありますから、この結果として、血液の諸部分の運動の相互的関係から結果される運動や変化だけでなく、血液の運動と外部の諸原因との相互関係から結果される他の運動・他の変化も血液の中に生じることになります。この点からすれば、血液は全体としての意味を失い、部分としての意味を持つのです。以上私は部分と全体について述べました。

 (略)即ち、すべての物体は他の諸物体によって取り囲まれ、かつ相互に一定の様式で存在し作用するように決定されます。しかもこの際、その全体においては、換言すれば全宇宙においては常に運動と静止の同じ割合が保持されているのです。この帰結として、すべての物体はそれが一定の仕方で規定されて存在する限り、全宇宙の一部であって、それはその全体と調和し、また残余の諸物体と連結するものと見られねばなりません。そして、宇宙の本姓は血液の本性と異なり、有限ではなく絶対に無限でありますから、宇宙の諸部分は、この無限な力の本性によって無限の仕方で規定され、かつ無限の変化を受けなければなりません。

長くなったが、血液という具体的例を上げているので、スピノザの思考の特徴がよく分かる文章だ。

1,諸物の本性が相互に和合していて互いの一致に至っている限り、それを「全体A」の一部でしかないと見なし、Aについてだけ考察していれば足りる。

2,これに反して、諸物が相互に調和していない場合、その各々に対する、それぞれ異なる観念を我々の精神の中に形成し、観察し、考察しなければならない。淋巴や乳糜の子粒について。

3,血液の外部には血液に新しい運動を伝えるどんな原因も存在せず、何らの空間、何ら他の物体も存在しないならば、全体Aについてだけ考察していれば足りる。

4,全体が結果として調和に至ろうと、それが各粒子の協力だけでなく抗争の合力である場合もある。スピノザは明示していないが「血液の本性の諸法則を一定の仕方で規定する極めて多くの他の原因が存在するのであり、またそれらは逆に血液によって規定されるのでありますから、」からはそれに近いことに気づいていたようだ。

5,「全体との調和」を強く強調しながら、それにも関わらず、それぞれの粒子に対する、それぞれ異なる観念を我々の精神の中に形成し、観察し、考察することに非常に熱心なのがスピノザだ。

すべての運動と静止は間接無限様態(自然全体)においてはひとつに組み合わさるかもしれない。が

エチカ レジュメ5

第5部 永遠

強さ: 不愉快なことも恨んだり気に病んだりしない:そういう力を最大に持っているのは障害者!

鈍感力 映画「さとにきたらええやん」 過剰に清潔化された「マイホーム」! 育児に対する期待水準が上がる 良い子でなければならない 空気を読む)に対するただ生きること(コナトゥス)

自由人は、自己以外のなんぴとにも従わず、自分が最も大事で最も欲することのみをよしとし、あれこれ非難する前に、直接よいことに赴く。 167

神への愛 人間のように喜んだり悲しんだりせず、無感動で、われわれを見守るまなざしすら持たない、そんな神をいったいどうやって愛せるというのか? 168

すべての事物が必然的である→感情に振り回されることが減少→受動から能動へ少し移行

5 定理一五 自己ならびに自己の感情を明瞭判然と認識する者は神を愛する。そして彼は自己ならびに自己の感情を認識することがより多いに従ってそれだけ多く神を愛する。 170

定理21〜42 異様な緊張 永遠

「これはそうであって、それ以外ではありえない」という真なる観念:神の永遠なる本性の必然性そのもの 172

1定義八 永遠性とは、存在が永遠なるものの定義のみから必然的に出てくると考えられる限り、存在そのもののことと解する。

説明 なぜなら、このような存在は、ものの本質と同様に永遠の真理と考えられ、そしてそのゆえに持続や時間によっては説明されないからである。「始めも終わりもないもの持続」と、われわれは混同しがちだが注意すべき。

必然的にかく存在することと考えられる限り、事物の現実がいまこんなふうにあるそのことが「永遠」である。 175

のべたらに続く時間軸のうえのある点で、という把握をすべきでない

アインシュタインもそう確信していたであろう。自然法則の存在を確信する理性は、それとは知らず、神の永遠に出会っている。 176

第一種の認識 意見もしくは表象的認識 あやふやな認識

第二種の認識 理性的認識 ratio

共通認識を洗練させた 自然法則の永遠

第三種の認識 直感知   個物の認識

わたしという個物 この私に即して神が唯一であることと別のことではないと直感する 178

未来永劫誰も私に変わることはできない。それは自分がそれであるところのその永遠真理を、いわば内側からじかに生きている。猫Aも同じ。 p179

5定理二二 神の中には、このまたはかの人間身体の本質を永遠の相のもとに表現する観念が必然的に存する。

5定理二三 人間精神は身体とともに完全には破壊されえずに、その中の永遠なるあるものが残存する。  死後の魂の存続と混同してはならない。 180

我々は我々の永遠であることを感じかつ経験する。なぜなら精神は、知性によって理解する事柄を、想起する事柄と同等に感ずるからである。つまり物を視、かつ観察する精神の眼がとりもなおさず我々が永遠であることの証明なのである。:同備考

第三種の認識 自分自身を永遠の相のもとに考える

自己の内なる永遠性と 神の永遠性 の一義性 181

精神はその身体の本質を永遠の相のもとに考える限りにおいてのみ物を永遠の相のもとに考える。したがって精神は(前定理により)永遠である限り神の認識を有する。:定理31証明

 定理三二 我々は第三種の認識において認識するすべてのことを楽しみ、しかもこの楽しみはその原因としての神の観念を伴っている。

定理三八 精神はより多くの物を第二種および第三種の認識において認識するに従ってそれだけ悪しき感情から働きを受けることが少なく、またそれだけ死を恐れることが少ない。

人間の根源的不安が「自分を認めてほしい、いや認めさせてやる」という欲望(名誉心)からやってくることを、スピノザはよく知っていた。しかしそれもおしまい。P190

絶対的な安心を人間が必要とするかぎり、神はそれを与えてくれる。

というのが、スピノザ・エチカの結論であるようだ。ところで安心は必要だろうか。宮沢賢治のように「おろおろ歩く」だけで終える人生もまた素晴らしい(辛いけど)。

どのようにしても与えて貰わなければならないものは、何人かの人間との信頼関係、あるいはそれの基礎と成るべき真理であろう。野原

エチカ レジュメ3・4

第3・4部 倫理

自由意志

余談:消費者主権(主流派経済学の根柢にある、消費者は自分の効用(満足度)が最も大きくなるように行動するという仮説)。ガルブレイスは企業が宣伝や広告などを通じて消費者の欲求を作り出す現象を「依存効果」と呼び、消費者主権に疑いの目を向けた。(日経新聞0925)

神にも人間にも自由な意志は存在しない 132 意志の主体をスピノザは認めない。

2定理四九 精神の中には観念が観念である限りにおいて含む以外のいかなる意志作用も、すなわちいかなる肯定ないし否定も存しない。

1,この説は、安らぎと最高の幸福を教え、正しい生き方がおのずとできるようになる効果をもたらす。

4,この説は、共同社会のために寄与する。

まとめると、自分を許す、社会を許す である。 134

4 定理二五 何びとも他の物のために自己の有を維持しようと努めはしない。

AであることはAであり続けようとすることだ、コナトゥス

4 定理一八備考:理性は各人が自己自身を愛すること、自己の利益・自己の真の利益を求めること、を要求する。 136

人間は与えられた間違った価値観により、名誉、金銭、性的対象を求めるものではないか?それに抗うためには、禁欲は有効なのでは? 野原

3定義二 我々自らがその妥当な原因となっているようなある事が我々の内あるいは我々の外に起こる時、私は我々が働きをなす〔能動〕と言う。これに反して、我々が単にその部分的原因であるにすぎないようなある事が我々の内に起こり私は我々が働きを受ける〔受動〕と言う。

喜び:喜びを精神がより大なる完全性へ移行する受動と解し、これに反して悲しみを精神がより小なる完全性へ移行する受動と解する。 3定理一一備考

よいものを求める欲望は、こんなふうに求めるべきものの認識がしっかりするほど強度を増し、コンスタントになる。140

4 定理二一 何びとも、生存し行動しかつ生活すること、言いかえれば現実に存在すること、を欲することなしには幸福に生存し善く行動しかつ善く生活することを欲することができない。

幸福にあるいは善く生活し・行動しなどなどの欲望は人間の本質そのもの、言いかえれば各人が自己の有を維持しようと努める努力そのものだからである。> 世捨て人願望はダメ  140

強盗に出会う 起こることは私がどう想像しようが必然的に起こる。

そう腹をくくるとき、期待と恐れに振り回されることは止む。144

余計な恐れを持たない自由人は、自由に闘うあるいは逃げる 恐れは無駄。

憎しみとは、外部の原因の観念を伴った悲しみにほかならない 146

 例えば人間が自らを自由であると思っているのは、(すなわち彼らか自分は自由意志をもってあることをなしあるいはなさざることができると思っているのは、)誤っている。そしてそうした誤った意見は、彼らがただ彼らの行動は意識するが彼らをそれへ決定する諸原因はこれを知らないということにのみ存するのである。だから彼らの自由の観念なるものは彼らが自らの行動の原因を知らないということにあるのである。:2定理三五備考

3定理二七 我々と同類のものでかつそれにたいして我々が何の感情もいだいていないものがある感情に刺激されるのを我々が表象するなら、我々はそのことだけによって、類似した感情に刺激される。

自由意志の幻想と感情の模倣、この二つが組み合わさって許せないでいる。

無理に許すのではない、自分の感情を自然現象として説明し理解してやる 147

理解は十全な観念による理性の能動。

悲しむべきとには正確に悲しんだ方がよいのではないか?野原

3定理51備考 その上憎む者に害悪を加え・愛する者に親切をなそうとする彼の欲望が私の躊躇するのを常とする害悪への恐れによって抑制されぬことを眼中に置くなら、私は彼を大胆と呼ぶであろう。次に私の軽視するのを常とする害悪を恐れる者は私には臆病に見えるであろう、その上もし彼の欲望が私のあえて躊躇しない害悪への恐れによって抑制されるということを眼中に置くなら、私は彼を小心と言うであろう。そして何びともこのようにして判断するであろう。

4定理五〇系備考 一切が神の本性の必然性から起こり、自然の永遠なる諸法則、諸規則に従って生ずることを正しく知る人は、たしかに、憎しみ、笑いあるいは軽蔑に価する何ものも見いださないであろうし、また何びとをも憐れむことがないであろう。むしろ彼は人間の徳が及ぶ限り、いわゆる正しく行ないて自ら楽しむことに努めるであろう。

無力のしるしでしかない否定的な感情から自分自身を救い出し、喜びと欲望だけからなる大いなる自己肯定へ向かうための、ゆるし。 149 (「謝罪」であっても、よい?)

エチカ は人間の感情と行動を説明するだけ、「〜すべし」とは言わない

説明そのものに ゆるしの効果がある (少なくとも事態は少しマシになる) 150

彼は自己ならびに自己の感情を認識することがより多いに従ってそれだけ多く神を愛する。5定理一五証明

スピノザは、強さと自己肯定を原理とする

系二 おのおのの人間が自己に有益なるものを最も多く求める時に、人間は相互に最も有益である。

人は他者とともに生きる

4 定理七一 自由の人々のみが相互に最も多く感謝しあう。

人間を結びつけてきたものは理性ではなく、感情だ。孤立への恐れは万人のうちにある。

ここから、人間たちはその本性からして国家状態を欲求する。 (国家論・岩波文庫)155

国家は、すべての人が、自発的にせよ力あるいは必要に強いられてにせよ、とにかく理性の指図に従って生活するように、制度化されなければならない。 156 国家の肯定

国家は本性上、服従を生産する巧妙な「術策」でしかありえないし、それで良い。157

恐怖によってではなく、「自分は導かれているのではなく自分の意向・自分の自由決定に従って生きているのであると思いうるようなふうに導かれなければならない」。国家論 157

政治を 倫理的な堕落として嘲笑・呪詛する憂鬱な思想 と手を切るべき! >現代的問題!

批判はすべきだが、嘲笑・呪詛は、ありもしない自己の倫理的高みを空想しているだけでありダメ。野原

4定理七三 理性に導かれる人間は、自己自身にのみ服従する孤独においてよりも、共同の決定に従って生活する国家においていっそう自由である。

そんなのは結局、現状是認にすぎない? いや違う。 158

欲望は実現してほしい事態を目的として思い浮かべる

哲学は、この目的を、完全な理想像としてはっきりさせることをすべき

最善の国家を造る 不完全だと批判するのはOK

不完全とは事物そのものに宿る性質ではない 比較する「思考の様態」にすぎない 159

AさんよりBさんの方が走るのが遅い しかしBさんの速度には必然性において生じているものであり(原因がある)、それに不完全・欠如と名付けるのは間違い 160

ところで、スピノザは早いほうが望ましいとは、言っていない(たぶん) 美しい方がよいとは言うが  内在的に最良であるために、ありったけの知恵は絞る。

だが、それ自身で見られれば、存在するどんなものも、そのつど完全である。161

エチカ レジュメ2

第二部 人間

人間:神あるいは自然の属性が、一定の仕方で表現される様態である スピノザ

デカルトの残した問題 107

1,観念と対象事物の一致が真 しかしデカルトにとっては主観的観念しかない

では真は どこに?

2,思考と延長は 共通点がない

精神と身体が一つになっている状態を考える ことができない 心脳問題

猫A身体 : 「猫A身体」の観念

並行論 同じものが 二つの形を もっている

(私が観念を持つ と考えると 私が猫Aを知らない場合、この等値はなりたたない)

延長属性のなかでは  因果連鎖・・・台風A

思考属性のなかでは  理由の連鎖・・・台風Aの観念 (われわれに分からなくても) 111

(このような発想のもとで、近代科学は進んできたのか)

2定理七 観念の秩序および連結は物の秩序および連結と同一である。 並行論

厳密に同等で並行しており、一方が他方に先立つということがない 創造説の否定 112

無限知性 思考属性の無限様態 すべての事物についての真なる考え

2定理三二 すべての観念は神に関係する限り真である。 真理空間

人間:人間精神は人間身体の観念あるいは認識にほかならない。:2定理19証明

2定義七 個物とは有限で定まった存在を有する物のことと解する。もし多数の個体(あるいは個物)がすべて同時に一結果の原因であるようなふうに一つの活動において協同するならば、私はその限りにおいてそのすべてを一つの個物と見なす。

人間精神は神の無限な知性の一部である。「人間精神がこのことあるいはかのことを知覚する」と言う時、それは、「神が人間精神の本質を構成する限りにおいて、神がこのあるいはかの観念をもつ」と言うのにほかならない。ここで読者は疑いもなく蹟(つまず)くであろう。:2定理一一系

下位レベルで物質諸部分が協同してある種の自律的パターンを局所に実現しているとき、その上に上位の個物ないし個体特性が併発している。 116

無数の階層

P→Q ものの真なる観念Qを理解・結論しているのは、近接原因のPである 118

思考の無限連鎖が自ら継起しながら思考している 116

無限知性は無限に多くの観念の連鎖からできており、そのどの部分をとっても前提→結論のようなつながり方をしている。

スピノザは考える主体を消去している、思考の無限連鎖が自ら継起しながら思考している 119

2 定理九 現実に存在する個物の観念は、神が無限である限りにおいてではなく神が現実に存在する他の個物の観念に変状(アフェクトゥス)した〔発現した〕と見られる限りにおいて神を原因とし、この観念もまた神が他の第三の観念に変状した限りにおいて神を原因とする、このようにして無限に進む。

いわば無限平面をびっしり這いまわる連鎖状の知性だけだ 121

ものBとの接触によって 身体Aに変状aが起こる

私の精神:身体Aの観念が自分の身体に生じている状態aを知る、非十全ながら 122

万有霊魂論

定理16〜47  コントラストがはっきりしている。

16〜19 人間精神は身体が受ける刺激

24〜31 は、非妥当 黒っぽい

32〜34 は、真である、白い

37〜40 「共通概念」が登場し、 真理に近づいていく

41〜47 「第一種の認識:虚偽〔誤謬〕に対して、反して第二種および第三種の認識は必然的に真」が確認され、真理に近づいていく

身体刺激を通じてわれわれが物体的事物をリアルに知覚する 2定理16系1 124

「外部の物体の妥当な認識ならびに人間身体を組織する部分の妥当な認識は、神が人間精神に変状したと見られる限りにおいては神の中になく、神が他の多くの観念に変状したと見られる限りにおいて神の中に在る。この認識は神が人間精神の本性を構成する限りにおいては神の中にない。ゆえにこの変状の観念は、単に人間精神に関連している限りは、いわば前提のない結論のようなものである。

言いかえればそれは混乱した観念である。 定理28証明 125

無限平面をびっしり這いまわる連鎖状の真理>真理しかないのになぜ誤謬が生じるか? 人間は局所だけ切り取っているから 126

表象(イマギナチオ):主観的認識モード

共通概念:

2定理三八 すべての物に共通であり、そして等しく部分の中にも全体の中にも在るものは、妥当にしか考えられることができない。

この帰結として、すべての人間に共通のいくつかの観念あるいは概念が存することになる。

われわれの身体と椅子は「座り」とでも言うべき中間項を共通なc として共有する 128

>だからといって神の思考になるのか? 共有、能動の度合いを少しずつ高めていく

感覚を通して知る、あるいは言葉から知る:第一種の認識。

共通概念から:第二種の認識(理性)

神のいくつかの属性の形相的本質の妥当な観念から事物の本質の妥当な認識へ進む:第三種の認識 定理40備考2 >5定理二五以降(最終部)で展開される

2定理四三 真の観念を有する者は、同時に、自分が真の観念を有することを知り、かつそのことの真理を疑うことができない。

われわれの知性には自分勝手に虚構できない真なる観念がいくつか与えられている。

知性はそのことを知っている、という前提があるのだそうだ。 72

現にいくつかの真理に到達しているわれわれの精神のようなものが、この世に存在するには、世界はどうなっていなければならないか、と問うのがスピノザ。

「生得的な道具としてわれわれの中に真の観念が存在しなければならない」知性改善論39節

 

スピノザ・メモ 1

・・・・・・
目を閉じなさい。
何もないと考えなさい。
でも、何もないとは考えられないですよね。
何かあると考えてもよろしい。
それは、「それ自身のうちに在るか、それとも他のもののうちに在るか?(公理1)」
前者にしましょう。実体と名づけましょう。
後者であれば、様態と名づけましょう。
・・・・・・

「エチカ」は、実体と「様態」という二つの言葉からはじまる。
この実体ー様態間の存在論的な関係が本質ー特質間の認識論的、原因ー結果間の自然的・物質的な関係と同一視される、エチカでは。これがスピノザ哲学の最も重要なポイントだ。とドゥルーズは述べる。
p200 実践の哲学

「こうして、およそあるかぎりのものは、そのありようそのものはまったくちがっていても、(属性において)一義的に〈ある〉と言われるのである。存在の一犠牲が貫かれる。」p201実践の哲学

直接無限様態:思惟のそれは無現知性。延長のそれは運動と静止。
間接無限様態:延長のそれは、無限に多様に変化しながら全体としてはひとつの恒常性を保つ全宇宙の相。思惟のそれは「真理空間」?

エチカ レジュメ 1

今日やった、スピノザのエチカ レジュメ。

エチカ  上野修「スピノザの世界」p72以降 を主に参照する。

第一部 神あるいは自然

エチカは定義が8つ公理が7つ、その後まず定理が11個 並んでいる。
序文も方法論も定義規則もない!(著者名すら) 国分功一郎 p297

何から始めるか? 何から始めるにしてもその言葉をさらに説明する必要がある。無限遡行が避けられない。そうした問題にとことん悩んだスピノザは、何もなしに書き始めた。

定義三 実体とは、それ自身のうちに在りかつそれ自身によって考えられるもの、言いかえればその概念を形成するものに他のものの概念を必要としないもの、と解する。
四 属性とは、知性が実体についてその本質を構成していると知覚するもの、と解する。
五 様態とは、実体の変状、すなわち他のもののうちに在りかつ他のものによって考えられるもの、と解する。
一 自己原因
二 有限 何か他のものによって限界つけられる
六 神 無限の本質を表現する属性からなる実体
七 自由
八 永遠性 時間と関係なく真理 ならそれは永遠

定義3 実体= それ自身において存在する、それ自身によって考えられる 81
リンゴ
定義5 様態= 実体の変状(変様)、他のものの内にあり、他のものによって考えられるもの
「公理一 すべて在るものはそれ自身のうちに在るか、それとも他のもののうちに在るかである。二 他のものによって考えられないものはそれ自身によって考えられなければならぬ。」により、ものは、実体か、様態かのどちらかだ。 82
リンゴのいろつや
定義4 属性= 知性が実体についてその本質を構成していると知覚するもの
リンゴ性 (知性、愛 がスコラ哲学では神の属性だったが、スピノザの場合、思惟と延長)
そういうものだとわかる表示 おのおのが神の永遠無限の本質を表現している p90

名目上の定義 (私は・・・と解する→読者はその前提を飲み込むしかない)

公理
三 原因がなければ結果はない
六 真の観念はその対象(観念されたもの)と一致しなければならぬ。 真理の定義ではない
定義を提示したならそれを有意味にするルールが自動的に要請されるそのルールが公理 国分303

定理一六 神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で生じなければならぬ。:それまではどうするのか?
すべての基礎であるはずの神の起源・原理・基礎を語ろうとすることは、無限遡行のアポリアに向き合うことだ。304

実体/属性/本質 三つ組 ドゥルーズ 316
実体は 属性によって自らの本質を表現する 316
実体:表現する側 属性:表現 本質:表現される側
属性は実体の本質を表現している/構成している 320

「神」 定義六 神は、おのおのが永遠・無限の本質を表現する無限に多くの属性から成っている実体、だ 怪人二十面相 91

ある実体 他のものからは生み出されえない
実体Aは他の物から生み出されることはない 自己原因 →存在する

神の存在論的証明
・・もし実体があるとすればそれは必然的に存在するとしか考えられない
・・だから必然的にそれは存在する 93
何かはある  何かを 神とするとすべては腑に落ちる 95

1 定理一四 神のほかにはいかなる実体も存しえずまた考えられえない。
1 定理一五 すべて在るものは神のうちに在る、そして神なしには何物も在りえずまた考えられえない。
1 定理一六 神の本性の必然性から無限に多くのものが無限に多くの仕方で(言いかえれば無限の知性によって把握されうるすべてのものが)生じなければならぬ。

個物は神の属性の変状、あるいは神の属性が一帯の仕方で表現される様態、だ 97
猫、台風、戦争、あなた、 すべて神が 属性ごとに 変状したもの( 様態)だ 97

神は製作者ではない。神の本性には知性も意志も属さない 99
自由:自己の本性の必然性のみによって存在し・自己自身のみによって行動に決定されるもの定義七

1定理一八 神はあらゆるものの内在的原因であって超越的原因ではない。 汎神論

現実のすべては必然的にこのようであり、別のふうではありえなかった 定理33
必然主義 103

isbn:4-06-149783-9

マルタとマリア

イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。
彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。
マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」
主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。
しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。」 ルカ10-38

つまり「主はマルタに「無くてはならぬものは唯一つのみ」と言い給うた。マルタよ、思い煩いなく純粋であろうと欲する者は唯一つのもの、すなわち離脱をもたなければならない、と。」
エックハルトは、被造物から離れるべきことを性急に説く。利益であれ報酬であれ内面性の深みであれ自分のものとして求めるすべてのものから直ちに離れるべきである、という。
つまり、日常の雑事に追われてせわしく立ち働いていたマルタという生き方を否定し、一途にイエスの足元に近づきそこに浸りきったマリアの生き方を良しとする、かのようである。ところがここで、エックハルトは大きな逆説を説き始める。

イエスはマルタを叱責したのではない、と。マルタは確かに雑事に追われ、「思い煩っている」。しかしそうしたすべての活動において、マルタは少しの惑乱もしていない。ただ事物のすぐ近くに立ち、それぞれの物事を手早く的確に処理し続けるだけである。そのような生き方は、「事物がお前の中にまで入り込んでいる」状態ではない。手段であるべき事物に魂を奪われてはおらず、マルタの魂は天に直ちに通じている、と。

エックハルトは、仕事について次のように言う。
秩序正しく、合理的に、そして意識的に働くようにつとめなかればならない。秩序正しくとは、いずれのところにおいてもまずもっとも身近なことに応答していくことである。合理的とは、その時その時の事に没頭してより善きものを考えないことである。意識的とは、つねに甲斐甲斐しく活動してその中に活発発地の真理が喜ばしく現前するのを覚知することである。
p286神の慰めの書

いささか乱暴に言えば、仕事とか生計とか将来とかいうものを私たちは、物神化、イデオロギー化している。そのようなあり方からは直ちに離脱しなければならない、というのが、エックハルトの考え方。
一方、わたしたちは、衣食住をはじめその時々の必要を満たしていかなければならない。そのためにいそがしく甲斐甲斐しく働くことは、神の前に神とは別の自己(思想)、自己満足を立ててしまうこととは全く違う。かえって神の前におのれを空しくしている状態であるのだ、ということのようだ。