不運を不正として想像し直す

えーと、現代思想2001年5月号p216の岡野八代「遅れる正義/暴力のあとで」は、次のようにはじまる。

2000年12月東京で行われた「女性国際戦犯法廷」の初日8日と9日の二日間、わたしは<その場>にいた。彼女たちの声を聞くために、そこで何が起こるのかを見るために。

それがどうした、とも思います・・・女性国際戦犯法廷というものは、窮極の被害者という絶対的他者を立ててしまうこと、つまり複雑多様な現実を非常に平面的な分かり易すぎる図式に還元してしまうことだ、といったイメージがある。わたしの中にもある。(イメージがあるので細部まで読まないのでイメージが保存される。)だが岡野氏の体験したそれは決して分かりやすい体験ではなかった。それは良いのだが、彼女の文章は逆に分かりにくすぎるのだった。

法の外にあると考えられてきた従軍「慰安婦」問題を、再度「法」の内部の問題として解決しようとした試み、と岡野は今回の問題を捉える。

  1. 法の限界
  2. 法外にあったものが法内に取り込まれる時の力関係
  3. 法と正義の関係

といった問題が露わになった経験として。

法システムによって排除されてきた者が、法システムに向かって異議を唱えるときには、法システムの言語・文法によって語らなければならない、そうでなければ、法は聞く耳を持たない、という困難に陥る。(同上p217)

例えば全共闘運動の後、「裁判闘争」というものの訳のわからなさに出会ったことのある者なら、はあはあと、(半身を引きながらも)耳を傾けることができる。ただまあ学生運動のような言葉から生まれた活動と、辺境のサバルタンたちはもちろん違う。

サバルタンは<聞く耳>と出会う事により語りはじめる(こともある)。*1

暴力があった、その後に沈黙を強いられてきたであろう女性たちが、今回東京にやって来るまでの文字通りの長い道のりのなかで、聞く耳を持つ人に出会った。そのことによって、彼女たちは苦痛に苛まれながらも、暴力がふるわれる以前に自分たちが作り上げてきた文脈を破壊した--その意味で、彼女たちにとっては脈絡のない--出来事を伝えようとし、切断された記憶を取り戻すようにして少しずつ、いったん破壊されてしまった文脈からなる世界をやっとの思いでもう一度構築しなおしてきたのだということは、想像に難くない。(同上 p218)

さて、そのように裁判は始まろうとする。一つの非人称の声から。

あなたは真実を語ることを誓いますか

これは証人いや原告・・・いやこれは刑事裁判に類似ものであるから彼女たちではなく検事が原告であり、彼女たちは当事者性を疎外され証人であるにすぎない。これは証人調べを始めるときの決まり文句に過ぎない。だが、それを聞いて岡野は驚く。上に書いたように、自身の力でやっと沈黙から抜け出しここまでやってきた彼女たちに対し、「何を語るべきであり、さらにその言葉がいかに聞き取られるべきかを予め決定してしまうような発言に接して、わたしは驚いてしまったのだ。」

 被害女性の一人、エスメラルダ・ボエ(東チモール)さんは叫ぶように言う。

なぜ私がわざわざ日本にまで来て嘘をつきますか!

裁判官の耳に届く言葉を発するための「儀礼」は暴力ではないか、と岡野は言う。彼女たちのことばを彼女たちの現在において聞くのではなく、「裁判官にとっての「現在」、遅れてやってきた裁判官にとっての既存の一つの文脈(適正法手続)へと埋め込もうとしているのだから。」

法はいつでもそうしたもの(すべてを法の普遍性の下に包摂しようとする)にすぎない、としたり顔の奴らは言うだろう。だがそれは少し違う。法は正義に訴えることを認める。その限りで法もまた試されるのだ。

以下、彼女の文章を歪めた形で断片的に引用しておく。

・・・

「不運を不正として想像し直すこと」を迫られる正義はつねにすでに遅すぎる。

遅れてくるがゆえに、つねに正義には責任が問われている。

・・・

彼女たちは責任を求める。これまでとは違う形での-未来における-<わたし>の応答可能性を。

・・・

不運/不正を区分しているのは、正義ではない。それは法の存在*2によるのだ。

・・・

「正義」「責任」「真実」といった言葉は男性中心的権威にともなう言葉だ。彼女たちに強制されてきた「彼ら」の言葉が、彼女たちの身体を通してもう一度発せられたとき、そうした言葉を「わたし」の言葉として紡ぎだすことで、自らの力で文脈からなる世界を創造しつつある女性たちを、わたしは見ていた。(同上 cf.p225-227)

*1:「何に対してわたしが無知であるのかは、そのことに無知でなくなったときにしか分からない、という認識上の限界」岡野・現代思想200112月号p183

*2:条文のありかたのことかな

黄色人種の戦い

foursue 『反論されている二点以外はこちらの意見に同意していただいたと見て良いのでしょうか?』

# noharra 『反論している二点以外もあなたの意見に同意していません。』

foursue 『では反論してください。』

foursue 『私がコメントしてからだいぶ時間も経っているのでそれ以外の反論があれば早めにすべてしてください。反論が無ければ同意と考えざるを得ません。もし反論が無いとしてもどの点が納得できないのか指摘してください。そうしなければこちらもこれ以上コメントを続けられません。』

(1)論点は最初の下記、についてです。

「太平洋戦争は歴史的に見れば白人に対する黄色人種の戦いであったとも見れる。」

他の論点については、この論点をある程度論じ合ってからでなければ、論じる意志はありません。

 逃亡したのなら御勝手に。

ナターシャさん母子の行方

 慰安婦問題をどのような視点から見ていくのかに関連して、現在*1の日本の底辺で売春機構に拘束され犯罪者となるに至ったある女性についての松下氏の文章を掲載する。

ナターシャさん母子の行方

 東南アジア、特にタイの女性が、仕事を求めて日本へ多数きているが、かなりの部分がパスポートを奪われたまま売春機構に拘束され、抵抗すると身体的な暴行を受け、売春を強要されている。日本社会はこの現実を構造的に作り出しているにもかかわらず放置している。しかし、無数の虐待の過程からタイの女性による反撃の行動が生起しつつある。このページ右に転載した記事は一例に過ぎないけれども、刑事事件になることを怖れない、というよりも、そのような配慮を超える切迫した行動によって、はじめて問題の重要性を私たちに広く認識させていくことになっている点を含めて、かの女らは意識している、いないにかかわらず、名づけがたい不可避の闘争の最前線の戦士たちであり、私たちは何らかの方法で支援~共闘していく責任があるだろう。

 大阪地裁においても、ナターシャさんが同僚のホステスを刺し殺したとして審理がおこなわれており、私も94年2月4日の公判で検察官・裁判官の質問と被告人の応答を傍聴した。いま私が痛感している問題点を列記してみると、

①多くの他の例と同様に、この事件も、加害者・被害者の双方がタイの女性である。いわば抑圧された女性同士の内ゲバであり、かの女らの怒りが真の敵に届かないままに味方を死なせていることが残念である。かの女らの情況は、経済的な侵略戦争における従軍慰安婦の位置である。本来ならば、かの女らにとってこそ反日闘争や(タイを含む)男性主導社会への闘争が必然であるにもかかわらず、少なくとも事件までは意識されてきていない経過の中に、この問題の真の悲劇がある。それは同時に、東アジア反日武装戦線の爆弾闘争の意味に共感しつつも、より存在的に複雑なこの問題へ引継ぎ応用していくことを直ちにはなしえていない私たちの悲劇でもある。

②言語の壁-ナターシャさんは、後半の一部の発言を日本語でおこない、次のぺージ右に転載したような日本語の文章を書くことができるようになってはいるが、これは2年近い獄中での学習の結果であり、取り調べや裁判や面会は日本語を強制されてきた。勿論通訳はいるのだが、それぞれの機関に属するか嘱託されている人であり、被告人の立場をくみとりつつ言語交通の媒介になるというわけにいかない。通訳の人員も研修も、法廷での休憩時間も不充分であり、公判を傍聴していたタイ語の判る人は、閉廷後に、通訳は要約・省略が多く、検察官の長すぎる文体の質問が、それを加重していた、と指摘していた。この状態に対する批判の声を裁判官は強権的に無視している。

③ナターシャさんは日本人男性との間に二人の娘(現在4才と2才)が生まれたが、父親に相当する男性の認知がないため無国籍のまま幼児院と養護施設で(年令区分により分離されて)過ごしてきた。弁護人の努力でタイ国籍がとれるようになったものの今度は不法滞在で強制送還されそうである。母親が(実質的にはせいぜい傷害致死、本質的には正当防衛であるが)殺人罪で裁かれ、長期の服役が予測されるので、今後ずっと出会うこと、まして一緒に暮らすことは不可能である。日本人の場合よりも何重にも困難な運命をしいられているにもかかわらず、これまでの東南アジアの人々への判決の先例は日本人に対するよりも重く、これは日本の支配層の差別政策を象徴している。

 私は、この問題を機関誌(例えば前ぺージに記事を転載した「救援」)によって知ることはできたが、実際に法廷まで出かける気にはなっていなかった。法廷まで出かけたのは93年末に〈ふしぎな機縁で出会った人〉の中にナターシャさん母子を支援する女性がいたからである。まことに、ふしぎな機縁であると思うが、そのようにして微かに関わり始めているに過ぎないことの自己批判をこめて、そう思うのである。私には私なりの関わり方しか今はできないとしても、その偏差自体にこめられている意味を正確に把握し、深めつつ応用していくつもりである。

 私なりの関わり方という場合、必ずしも前記の三点に示されているようなテーマとの格闘だけではない。より自由な視点、いや聴点を媒介していきたい。なぜ視点というよりも〈聴点〉がふさわしいか…。今年2月4日の法廷で初めて出会ったナターシャさんの発語の意味を私は全く理解できなかったが、発語や姿勢の総体からあふれてくる繊細な音楽性が印象的であった。これは勿論かの女の資質や、獄中での内省による成長にも関連しているであろうが、言語としての特性によることも、閉廷後に読んだタイ語の本から判った。

私は語学のセンスは乏しいし、ましてタイ語に関しては幼児以下であるが、それを前提として、あえてタイ語の特性を記すと、a-タイ語は韻および声調を基本としている。声域には(音楽の5線譜のように!)5段階あり、同じ表記でも高低の変化によって全く異なる意味をもつ。例えば maaは、高低なしに発音すれば「来る」、高い声域で発音すれば「馬」、低部から高部に移行する声域で発音すれば「犬」である。(日本語にも「ハシ」のように発音によって「橋・箸・端」などに意味を分岐させる例はあり、関東と関西でアクセントが逆になるのも面白いが、タイ語の場合は、より総体的な特性といえる。)b-タイ語は西欧の文法体系から判断すると語形の変化がなく、性・数・格・人称・時制を示す標識もなく、さらには品詞という概念さえない。(へブライ語の助詞には時制がなく、完了形と未完了形しかないことを預言の実現度との関連で印象的に聞いたことがあるが、タイ語はより徹底している。)aの韻および声調との関連における語順だけが判断の手掛りになると聞いて驚くが、タイ語を話す人々が、こういう文法体系の判断を越えて自由に意思を交通し合えていることに、もっと驚く。これは文法だけでなく文明の突破方向にも示唆を与えてくれる。

c-タイは〈微笑みの国〉といわれているが、言葉より(存在的な声を聴きとりうる他者への)微笑みの方が重視され、日本人のように無表情で形式的な美辞麗句をひけらかすことは失礼であるという。背筋が寒くなるような指摘である。

 これらのa~b~cを基軸とする特性から受ける衝撃を、ナターシャさん母子のテーマについてだけではなく、さまざまのテーマの追求に生かしたい。

註-ナターシャさん母子のテーマを普遍的に論じるとすれば、以上の提起で、とりあえずはよいといえるかもしれないが、この提起によってナターシャさん母子が具体的に力づけられることは殆どないであろう。むしろ、支援グループの人々とスケジュールを組んで、養護施設から子どもを連れていって面会したり、差し入れたり、タイの父親と連絡をとったり、判決が少しでも軽くなるように弁論を構想したりする方が、ずっとナターシャさん母子にとって具体的なプラスになるであろうことや、その作業に関わる人々こそが重要であり、不可欠であることは判っている。私も必要ならぱ、いつでもピンチヒッターになる用意はある。しかし、あくまで自分の不可避の闘いを展開する過程での空想上のピンチヒッターでしかないことを自覚しつつ以上を記してきた。その上で次のことを記しておきたい。

①〈タイ女性〉を媒介する刑事事件を把握する基本軸は多くの例について共通であるとして、個々の例は、より複雑な陰影をともなっているはずであり、とりわけナターシャさん母子の場合にはそういえるという気がする。あえていえば、この事件に関心をもつ全ての男性が自分をかの女と関係のある位置に置き、全ての女性がかの女の位置を生きていると仮定し、かの女らが日本で暮らした数年間に潜った条件や感覚の中で、どのように振る舞うかを考え、事件と対置してみる作業が必要であると考える。それによって事件を法的レベルで裁こうとする枠や、これまでの事件把握の傍観者性を突破しつつ、かの女らへの本質的な提起をなしうるのではないか。

②前項は、本文でのべた反日武装戦線レベルの方法だけでは真の反撃は不可能ではないかという内省にも関わる。東南アジアへの侵略企業は爆破される理由がある。しかし、買売春に関わる男(女)をどのように〈爆破〉するか。このいい方がいくらか短絡していると感じられるならば、原子力発電や家畜制度の粉砕の質の差を媒介させてみるのがよい。(*)これらは具体的な粉砕の現実的困難さだけでなく、自分の生活や存在が粉砕すべき対象に依拠し、同質の構造に組み込まれているという、より深い困難さを開示している。ナターシャさんたちの問題に限らず、各人が位相差はあるとしても日々無縁ではありえない内在性の問題との対決の方法が、今後ますます問われていくであろう。

③ナターシャさんの娘の他に、事件で死亡した女性にも娘がある。今は幼いこれらの娘たちが次第に成長していく段階で、自分の母と自分を軸とする世界把握をしていく場合の不安定さ~絶望をいかに支えうるか、という視点を今から準備しておく必要があるだろう。かの女らこそが、今回の事件の最大の犠牲者であり、それ故に最も審判者の位置にふさわしい。かの女らの行方を見守り、共闘する人々がたくさん現われること、それらの人々が、今回の事件を引き起こした全ての要因の爆破~解体へ突き進んでいくことを心から願う。

(*)武器~弾薬の製造・使用への反対、自衛隊・機動隊粉砕と、原発用燃料の輸送・使用への反対、授業・入試粉砕を比較してもよい。

参考:ナターシャさん自筆手紙(上)http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/Tai1.jpg

(下)http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/Tai2.jpg   「ナターシャさん母子を見守る会」通信第3号(93年4月)より

『概念集 10』(~1994.3~) p16~18 より

*1:10年前だが

ファロナルシスト石原のの事実摘示は嘘

  西宮の反フェミニストとして知られる?内田樹さんのブログhttp://blog.tatsuru.com/ 3/5に、

石原都知事が「フランス語は数を勘定できない言葉だから国際語として失格しているのも、むべなるかなという気がする。」と言ったと出ていた。

 あるフランス語学校経営者がそれに抗議している。

(1)貴殿が上記報じられた内容を発言したのは、真実ですか。

(2)「フランス語は数を勘定できない言葉」であるとの事実摘示が真実でないことを、貴殿は承認しますか。仮に承認できないとすると、貴殿は、いかなる根拠に基づき、具体的にいかなる事態を指して、かかる発言をしたのですか。

 プチウヨ、“なかった派”類似分子(石原を含む)は、アジアの隣国だけでなく欧米にも全く通用しない言説で自慰している有害分子である。

日本の自立/レイコフ

# N・B 『 なんかまた迷惑をかけてすいません今回は他の人まで巻き込んでしまって。

とりあえず、野原さんが最も違和感を覚えたと述べたところの釈明を、これは指摘されて気づいたんですが、私自身が確かに無意識に日本とアメリカと自分と身の回りの社会の関係を結び付けてました。どうも、自分の隠された動機を述べてしまったようです。

 ただ、日本の「自立」に関しては、メキシコのように国境のフェンス(農業労働などを行うために「不法」入国しようとして、今も数百万人が「不法」移民として働いてるそうです)が両国の歴史の反復であるかのように毎年多くの人の命を奪っている国では人々は嫌が上でも関係を意識せざるを得ません。やはり、日本では戦後の経済発展で受けた恩恵があまりに大きいので(もちろん、犠牲は別のところでら出たわけですが)忘れることが可能であったと思います。藤原帰一さんが「戦争を記憶する」でフィリピィンなどに比べた日本の鈍感さを指摘していたと思います。しかし、日本の経済や政治システムがどれほどアメリカから自立しているのかはまだ私にはよくわかりません(ヨーロッパに比べるとあからさまに行動は従属的ですが)。実は問題のエントリーについて書き込もうと最初はしたんですが。

 野原さんの「三者三様の矛盾」での推進派の矛盾が却って彼らの力になるという状況はある程度その辺りに理由があると思うのですが。もうひとつはスワンさんの指摘した「公共の福祉」に関する問題ですね(このあたりの皆さんの議論は大分参考になりました)。

>お互いにヘンな奴だと言い合うのは健全

 確かに何も見ようとしないよりは進歩だと思います。

>スワンさん

 ここに書き込むのがいいのか微妙ですが、とりあえずこのブログの文脈なので。えーと普通の意味での「モラル」にたいして、レイコフの「モラル」という概念は言語学者としての彼の人間の言葉の意味(メタファー)の理論に基づいて、私たちが政治的道徳的な思考や発言をするときに、大きくわけて二つの相容れないモラルのメタファーのシステムを持っている、それらは同じモラルを使うが優先順位の差によって違ったものになります、保守とリベラルであるというものです。そして、このシステム(モラル言語)に基づいて色々な同じ出来事や人物、議論に対する判断の違いが説明出来るというものです。レイコフは、90年代の保守の伸張などの論点に対する既存の(アメリカの)政治哲学や議論の無力と混乱を身にしみて問題の本を書いたそうです。レイコフの最近の情勢への分析は現代思想臨時増刊2001/10、「これは戦争か」で読めます。ただ、もちろん万能の理論でないことは前提ですが。

http://homepage2.nifty.com/nishitaya/intro4c12.htm

 第2節に、レイコフ理論の説明があります。

http://homepage.mac.com/biogon_21/iblog/B1604743443/C1028182794/E320095057/

 レイコフの考え方の革新性について私なんかよりずっとよく説明しています。

 スワンさんへの返事としては、法を成立させる過程、それを解釈する法廷、その運用の場面などで、レイコフのモラルは働いているのではないでしょうか、「実質的正義」とはまさにこれらの具体的場面で意見が分かれるとき「モラル」の違いが露出することではないかと思います。もうひとつ二つの愛国心については、どうも、二つの「モラル」の違いと対応しているのではないでしょうか。

 なるべく短くするつもりだったのですが、わかりにくい長文申し訳ありません。』 (2005/03/24 10:21)

身勝手なこと喚き散らして(4/4追加)

http://d.hatena.ne.jp/azamiko/20050312

きびをむく少女の指先傷つきてラムの琥珀酒カリブの海より来たる – 梅の花もほころび。

azamikoさんのコメント欄が大変なことに!

fantomeye 『親とか教師の人からしてみれば自分たちはいいことしている、間違っていないと考えているのかもしれませんが、私達生徒の思い出を作る場に土足で入ってきて身勝手なこと喚き散らしている以外のなにものでもないんです。国とかのやり方に文句があるなら役所でやってください。(略)

(野原)

fantomeyaさん はじめまして

「私達生徒の思い出を作る場に土足で入ってきて身勝手なこと喚き散らしている」のは、横山教育長の側か?、それとも処分された教師の側か?

「子供たちが主役の舞台」を勝手に変更して「日の丸を正面に据える」よう変更を命じたのは東京都にすぎません。

もし自分の子どもがあなたと同じような考え方だったらと思うと恥ずかしくて顔から火が出そうです!

女性国際戦犯法廷について(2)

上の続き。

コメントしたら返事をいただいた。

# noharra 『開催前から「天皇(裕仁)無罪」帰結を裏取引していた東京裁判よりは公正に近いと評価できる。』

# hizzz 『上記したように、自分好みを他者に押付ける=ポリティクスの発動(「やられたらやりかえせ」的視点)という点においては、「女性国際戦犯法廷」も「東京裁判」も同列でしかない。以前カキコしたように「道義的責任」を問うこの問題は「法」では決して解決しない。なせなら「やられたらやりかえせ」の限りない連鎖を呼ぶだけであり、現にそれを呼び起こしてしまったということにおいて「公平」を掲げるポリティクスとしても、結果は致命的ですらありましょう。』

(野原)

「なせなら「やられたらやりかえせ」の限りない連鎖を呼ぶだけであり、現にそれを呼び起こしてしまった」というのは、「天皇有罪」に対して(日本人の誇りを傷つけられたとして)憤激し慰安婦に対するセカンドレイプにはしったりする反応を引き起こしたことを言っているのでしょうか。 

 レイプという具体的な犯罪があった場合、それを裁こうとすることは、正義をもたらすことにより暴力(の連鎖)から世界を救うことになると思いますが。

右翼も左翼も、自分たち以外(制度外の第三者)という存在を喪失している。そして喪失しつづけてるが故に、なんとかしようとして居丈高になり、更なるお手付きを重ねて、パンピー(=イデオロギー的正義思想を持たない者=ウヨサヨ制度外の第三者)の支持を減らす。

http://d.hatena.ne.jp/hizzz/20050213#p3

(野原)

 これは少し当たっているような気もする。だがレイプの問題は本来イエオロギーの問題ではない。彼女たちは白人(オランダ人)でなかった、まともな国家を持たないアジア人女性にすぎなかったがために東京裁判の時点で裁判化されなかった。そこでアジア人と女性に対する差別が弱くなった50年後ようやく事実を事実として語りうるようになった。それをイエオロギー的言説であるかのように演出してしまっているのは、ナルシズムに汚染された日本の言説空間である。

貧乏人の連休の過ごし方

子ども二人家族4人、ふだんは多いとも感じませんが家族旅行にでも行こうものなら4万円単位でお金は飛ぶように出ていくので行けるものではありません。まして連休は混んでるし。だからといってべったり家にいても普段と同じではあまりにも単調です。どこかに日常性を離脱する契機が欲しいもの。“うちのおかあさん”はおとといからさっさと一人で友人宅に泊まりに行ってしまいました。家事労働全般を子どもと3人でやらなければいけません。ゴミ出し、洗濯物干し、食器洗い、ほんの少しでも普段はうちの子はやらない。今回も嫌がるので「やらないとおかあさんに(子どもの自立を助けるため)帰ってくるなと言うぞ」と脅して無理矢理やらした。

無意味

IP電話の調子が(最初から)悪いのを、苦情をいったら、光電話アアプタをF社に変えてみようか、と送ってきた。変えてみたが、電話全然通じず。しかたないので元に戻した。戻したらインターネットが繋がらない。しばらくごそそそしてやっとつながった。無意味なアーティクルですみませんが、書き込めるテストを兼ねて。愚痴!

(追記)駄目だったと言ったら、同じ製品をもう一度送ってくると言う。拒否できなかったが無駄だと思うが・・・

恥を知れ

え~っとう、だいぶ前から、id:drmccoy:20050518 マッコイさんに、応答しなければいけないと思いながら、気が進まずに後回しにしてきた。スミマセン

(本来複雑多様なものである現実を平板化した上で、テンプレート通りの言説を多量に繰り出してくる、といった印象をもった、ということかもしれない。)

ちゃんとした対話者でなくて申し訳ないが、わたしはまだマッコイ氏の文章を(関係部分)全部読んでいない。無視しているわけではない、と言うためだけにちょっとだけ(しかも全然斜めから)書いてみよう。

(1)

id:drmccoy:20050518でマッコイ氏は、わたしが紹介同意した加藤、宮台の主張などを次のようにまとめている。

 「A級戦犯をスケープゴートにして、極東国際軍事法廷(=東京裁判)を受け入れることで日本はサンフランシスコ講和条約(or 平和条約)を締結して国際社会に復帰した。A級戦犯を罪人として裁いたからこそ日本は国際社会に復帰できた。だからA級戦犯が祀られている靖国神社に首相が参拝すると、それを覆すことになってしまう」

上の文章の「日本」という主語を問題にする。(強引な批判である。)大日本帝国は戦争に負けた。唯の戦争ではない。プチウヨの諸君が自衛戦争なんていうのはみっともない。世界の帝国主義秩序を転覆しようとした攻撃的な戦争である。「大東亜の大義」なしに成立しえた戦争ではないのである。で負けた。負けたことをどう考えるか。A.負けた主体「皇国」を一部修正するだけで継続できるか。B.それとも負けた主体は倒産させて、新しい主体を立ち上げるか。

戦後日本がややこしいのは両方の面を持っていたからである。

A.ヒロヒトは退位しなかった。東京裁判はヒロヒトを訴追対象から除外した。戦後憲法の1条は天皇を保証している。

B.日本は天皇主権から国民主権に百%変わった。戦争放棄。戦力不保持。「恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚し*1」生まれ変わります。

戦後日本はAとBを適宜使い分けながら、戦後60年なんとかやってきた。その前提となったのは東アジアにおいて米国(米帝)がソ連などと対峙する冷戦構造において、日本が米国に従属する立場をとったことである。ここではA.対米軍事協力/B.平和主義となって、A.の枠の中でB.も主張することで日本は血を流すことなく繁栄を達成した(と言われる)。国共内戦、朝鮮戦争と戦後も戦火に見舞われた中国、朝鮮はいち早く回復を遂げた日本に国力において大きく後れをとり、日本は米国の後押しのおかげで戦争に対する補償なども極軽微に済ますことが出来た。日本は中国、韓国朝鮮に対する戦争責任の問題を、国民全体にが自ら答えなければならない巨大な問題として突きつけられることなく(幸か不幸か)60年やって来ることができた。

これは「対中国」「対韓国」などの問題ではない。日本は戦後60年そこそこ成功してやって来たにもかかわらず、その根拠がA/B と分裂したままだ。

そんな中で、米軍が上陸した慶良間列島などでは、追いつめられて肉親同士が殺し合う「集団死」が起きた。慶良間列島だけで犠牲者は700人にのぼる。id:noharra:20050623#p1

「生きて俘虜の辱めを受けず」なら、敗戦の途端に1億人は自決しなければならない。自決した人はほとんど一部だった。自決もしなかったものの子孫がいまさら「自衛戦争」なんてことを言い出す。恥を知れ、と言いたい。

*1:憲法前文