(削除予定)メモ

旧い計算式A4をaとします。  a=+D3+C3 

D3=+A3-B3-C2 なので、 a=A3-B3-C2+C3 です。

新しい計算式A4をaaとします。 aa=+B3

A3=B3*2+C3 ですから a=B3*2+C3-B3-C2+C3=B3+C3*2-C2 になり

aとaaの差 a-aa=C3*2-C2 になる、と思いましたが、ここが間違いです。

つまり、新しい計算フォームでのB3(一般にBn)(区別のためにβと呼ぶ)と旧い計算フォームでのB3(一般にBn)は一致しません。

(以下考え中)

 うちの玄関ドアの外側の枠の土台から数センチのところに緑色の蛹があってこんなところでは無事には育つまいと思っていたら。今家族のものが羽化しているのを発見。まだ羽が広がっていないが無事に飛び立つだろう!

ひめゆり/白梅 (7/23追加)

 まして、年齢こそ「学徒兵」より多少上とはいえ、少女たちを突然戦場に駆り出して、看護助手という名の下に自分たちを守らせる軍人たちの神経には、ほとほとあきれて言葉もない。たとえ本人たちが望んでも断るのが軍人たる者のプライドだろうに。(略)

 そして現在。前庭に美しい植え込みや花壇があって、館内には実物大だという壕の模型もある「ひめゆり平和祈念資料館」と、通りから引っ込んだところにひっそりとたたずむ「白梅の塔」(塔といってもやや大きめの石垣の上に立てた墓石というのが実態である)。ひめゆり隊は旧府立高等女学校に属し、白梅隊は私立の女学校の生徒たちだったせいばかりではない。ひめゆりは映画にもなってあまりにも有名だし、一種のエリート校で同窓生にそれなりに有力者が多くこうした事業の運営にも慣れている。一方、白梅隊の出身母体である学校は戦中に公立に吸収されてしまったため、事業の母体となる組織のメンバーを集めること自体むずかしかったのだという。その上、戦場において軍人たちの彼女たちに対する扱いもかなり異なっていたらしい。白梅隊の隊員たちは軍が陣地を撤退する時傷病兵の「処理」に直接関与させられたため、自責の念から白梅隊に属していたという事実についてさえ、戦後長い間沈黙を守っていたのだという。

 問題はさらに続く。戦後60年もたった現在でさえ、この二つのグループの間には目に見えない壁があって一緒に行動することはないのだという。私たち沖縄外の人間が当時従軍させられた少女たちはひめゆり隊だけのように思い込みがちなのは、こうした事情にも原因があるらしい。現在の私の目から見れば、(白梅隊よりは)「優遇」されたというひめゆり隊の経験だってずいぶん過酷だったのだから、少なくとも悲しみを共有することからでも始められないものかと思うのだけれど。

http://homepage3.nifty.com/medi/sakusaku/5_1.htm 沖縄紀行

… … …

これを三点リーダ というのでしょうか。

わたしはトロワポワン(trois-points)というのだと思っていた。

今辞書を引くと、trois-pointsというのは、フリーメーソンの印で、…ではなく、数学の「故に」のように3点を三角形に並べたもののようだ。…

中国政府が孟子像を贈呈

(7月22日)日本の立命館大学に対し孟子像が中国政府から贈呈された。「立命館」という校名が、孟子の「身を修(おさめ)め、以(も)って命(めい)を立つ」という言葉から取ったものである、事に因むもの。これは、中国政府が外国に贈呈する最初の孟子の彫像であるとのこと。

http://www.china.com.cn/japanese/185601.htm

国務院新聞弁公室の蔡名照副主任の挨拶より

孟子が生きた戦国時代は、動乱の不安定な時代で、年々戦乱が打ち続き、民衆は生活の手立てを失いました。孟子は「済世救民」を己に任じ、仁愛と平和を追求し、社会正義を探求し、「君(きみ)を軽(けい)とし、民(たみ)を貴(き)とする(すなわち君よりも民を第一に考える)」仁政学説を提起しました。そして彼は仁政の理想実現のために奔走し、呼びかけました。彼は20余年の長きにわたり各地を遊説し、貧困のためさすらい歩いても志を変えませんでした。そうすることによって、高尚な人としての節操と、高い精神的境地を表したのでした。

孟子の言葉に「天の時は地の利に如かず、地の利は人の和に如かず」という名言があります。この言葉の核心は「和」にあります。中国の伝統文化は一貫して「和」の思想に貫かれています。孔孟以来の大多数の思想家たちもみな、「和をもって貴しとなす」を提唱しています。「和」の思想は、中華民族が普遍的にもっている価値観と追求すべき理想となっていて、今日でも、中国人民の生活、仕事から内政、外交など各方面にわたり、広く、深い影響を及ぼしています。中国人民はこれまでも一貫して、人と人との間の、また国と国との間の誠意ある相互信頼と平等な待遇、平和と友好、礼節ある往来を重んじてきました。

先哲のこうした教えから、私たちが次のような啓発を得ることができます。それは、平和は人と人との交際の最高の境地であり、国際的な往来の最高の境地でもあるということです。

中日両国は一衣帯水の関係にあり、中日の文化は、水と乳のようによく融け合っています。中日両国人民の友好往来は、地理的に優位性を持ち、歴史的にも深い淵源があります。両国が長期的に安定した友好関係を樹立することは、両国人民の共通の願いと根本的利益にかなうばかりではなく、アジアと世界の平和と発展にとって有利であります。

 儒教の中でも「人民の為の」を最も強調するのが孟子です。だからといって、少し前までは中国政府が儒教を肯定することはなかったのに中国も変わったものだ。*1

 「中日両国は一衣帯水」というフレーズはかって大東亜共栄圏建設時に日本側が高唱したスローガンだ。中日の間に存在する国境という高い障壁を低くしてしまえば、当時優勢だった日本の国力が(具体的には軍隊が)中国国内になだれ込むことができる、という情勢において唱えられ、そのプランどおり日本軍は大陸になだれ込んで行った。現在は全く情況が違う。安くて優秀な中国製品の日本へのなだれ込みはすでに起こっている。中日の間に高い障壁はすでに無い。しかし小泉首相を中心とした勢力はA級戦犯を祀った靖国神社に参拝し、軍国主義化への道を歩もうとしている。先日の反日デモにより一定の歯止めは掛けられた(ようだが)予断は許さない。そこで孟子を先頭に立てて「文化攻勢」に取り組んできているわけだ。

 そう考えると上記の文章は興味深い。「和をもって貴しとなす」に攻撃のポイントを絞っている点が鋭い。というのは、儒教、仏教など日本のハイカルチャーはすべて中国からきたものだ*2。しかし、右翼ナルシストはそれを認めたくないので、聖徳太子*3を、日本の独自性の原点として押し立てる。その中心が「和をもって貴しとなす」である。皇国史観のとき高唱された楠正成等々の人物は戦後凋落してしまい、再アイドル化はすぐには難しそうである。その点聖徳太子は戦後も一貫して高い人気を誇っている。わたしを含めた従来の左翼は、「和をもって貴しとなす」に対し、普遍性*4への参照を欠いた平板な共同体至上主義として批判的に捉えていた。今回の中国政府の見解は、肯定的に捉え、なおかつそれを“日本的なものではなく儒教的なもの”とする点で、論壇に対する新しい介入であり得ている。

 1945年8月の敗戦はある人によって*5革命と呼ばれた。靖国論争や沖縄戦をめぐる議論の根拠にも、815の断絶*6をどう捉えるかという問題がある。これはもちろん国民一人一人に問われているのだ。

 革命は「万世一系」の対立語として使用すること。このような「革命」という言葉は勿論フランス革命やロシア革命と無関係だ。むしろ孟子の「革命」説として江戸時代を通じて論じられたものだ。*7

 中国政府は数千年の文の国としての歴史を賭けて、文化攻勢に討って出来てきているようだ。扶桑社などひとたまりもない??

*1:「2002年師走の新聞紙上に、「孔子精神中国で再興」との大きな見出しが掲げられた。記事は北京の人民大学で11月30日「孔子研究院」の創立式典があったこと、最近の中国で経済発展とともに「中華民族」が強調され、「中華文化の復興」が唱われていることを報じたものだった。ちなみに、人民大学のキャンパスには高さ3メートル半もの孔子像が建てられたという。」p3森紀子『転換期における中国儒教運動』isbn:4876986479

*2:仏教の場合は経由だが

*3:イエスを思わせるその名も厩戸うまやど

*4:「天」や「道」や「理」

*5:宮沢俊義

*6:あるいは連続

*7:野口武彦氏の本があるが未読。

クラミツハとかクラオカミ(9/4追加)

に興味を持っている人がいた!(別のおとなり日記)

78.於尿成神名 彌都波能賣神(みつはのめ) 水の霊 罔象女(罔象は中国の水の精)

  「水(み)つ早(は)」の意か?

90.闇淤加美神 クラオカミ  「オカミは蛇身で、下級の水の神、主に沼や淵や泉などに棲む。 クラは幽谷。(西郷)」

91.闇御津羽神 クラミツハ 男神クラオカミと対の女神

参考:http://www.h4.dion.ne.jp/~sa-ya/html/mukashi/shinnmei/shinnmei-3.html 記憶の森~昔が原~神名釈義3

もっとも、ワタツミ、オカミ、ミツハ、それにミツチ等、水の霊たちの性格、分掌の連関がどうなっているかは、よく分からない。というよりそれは一種雑然たる併存えあったように見える。(略)

ここに*1水の神が出てくるのは唐突のように見えて、そうではない。蛇体もまた剣や雷電などと同じ範疇の神話的映像であったからだ。

p223 西郷信綱『古事記註釈・1』isbn4-480-08911-X

*1:カグツチ神を斬った血からタケミカズチ(雷電の神)などが成るシーン

人間とは

人間とは繕(つくろ)う動物である。*1

             (エリザベス・スペルマン)

*1:「繕いのフェミニズムへ」岡野八代 p87現代思想9月号isbn:4791711408

克己復礼

克己復礼というのは儒学では特に重んじられたスローガンらしい。

克己復禮爲仁。一日克己復禮。天下歸仁焉。

http://kanbun.info/keibu/rongo12.html 論語・顏淵第十二(Web漢文大系)

顔淵(がんえん)、仁を問う。子曰く、おのれに克(か)ち、礼に復(か)えるを仁となす。一日、おのれに克(か)ちて礼に復(か)えらば、天下仁に帰(き)せん。(同上)

(内に)わが身をつつしんで(外は)礼(の規範)にたちもどるのが仁ということだ。一日でも身をつつしんで礼にたちもどれば、世界中が仁になつくようになる。(金谷治訳 岩波文庫p225)

ところで素直に読むとこれはかなりおかしい。わたしが身をいかに慎んだところで、天下に直ちに影響を与えるような大物である筈がない。つまり、「克己復禮」とは本来、王に求められる徳であるわけである。最高権力者は当然権力を自分の思うままに使いたくなるが、それを絶対制御しないといけない!という教えである。

上の孟子にある、人民の状態は君主の徳の関数であるといった思想がここにも読みとれる。つまり儒教は本来、王あるいは宰相クラスの人に徳を求めるものであった。それが士大夫に広がり、ついには「国民全体」に一律に期待されるに至った。だからといって、上のいうことには従えといった奴隷道徳と解釈される余地はない。*1

 ところで、10月15日から梅田で子安宣邦先生の新講座「荻生徂徠・弁名を読む」が始まりました。徂徠講義の後の時間に、子安先生は「克己復禮」について詳細に話してくださいました。ここに書いたことは、そのとき聞いたことの一部です。「克己復礼」というたった四字が、それぞれの時代のそれぞれの論者によってさまざまな表情をみせるのには驚きます。

この文章はわたしのオリジナルではまったくない。がしかし子安氏の講義の紹介でもない、わたしなりの切り取り方をしたものです。

(10/16追加)

*1:愛国心や日の丸が好きな人は、奴隷道徳が好きな人であるように私には思える。

祓え給え、清め給え

神道というものは

ただ、祓え給え、清め給え、といえばよい。

というものなのだろうか。山田孝雄は「それに相違ないのである」と言っているようだ。(同書p98)

日本書紀の中の今申したように、腹がへってたまらぬという御心が凝って客観化して食物の神さまになる。禍津日神も穢を憎んで、それを去らなければ禍を下されるが、それは善人に禍を下す神さまではない。穢れを承知しない神様である。穢れがなくなればそれでいいという神様である。

欠如=ある徳への希求が凝って<神>になる。いま自己を圧迫してくる悪に対し、ひたすら「祓え給え、清め給え」と祈る、そうすると穢を憎む神が悪人に禍を与えてくれる。ということだろうか。

しかしそれには可能の原理がなければならぬ。その祓いの可能の原理がこの荒魂の活動にやどる。それが私の見た所に於いての平田先生の神道の神髄である。

「神が悪人に禍を与えてくれる」とまでは篤胤も孝雄も言っていないだろう。ただそういう方向の可能性はあるくらいか。

確かにAという人間を捉えて悪人であると規定することは、人間存在の広大さに対し人知でもってさかしらに規定することになり、出来ないことだと宣長はいうだろう。

本居先生の神道の考え方は要するに善悪二元論である。禍津日神となおびの神が両立しておいでになる。さうして(略)禍福は糾える縄の如しいうような説明をして居られるのである。(同書p85)

でもってこれを救済しようとするこの頃の*1日本主義者は、ヘーゲルをもってこれを解釈する、と。

それに対し篤胤は、二元論ではなく、一元論になる。

悪は祓いうる。つまり悪は本質的な物でないから祓いうるのだ。したがって神道は一元論でなければならない、と。なるほど。

ところでこの『平田篤胤』という本は、字が大きく百頁ほどでしかも内容が極めて平易である。面白い本だと思った。昭和17年という出版時点でこの表題ではひょっとして無茶苦茶国粋主義的なのではと思ったがそうしたところはなくとてもほのぼのした感じ。

「平田先生の一番力を籠め、殆ど命を打ち込んでやられた一番重要な点」が現在全く理解されていない、となげきながらも!

*1:S17年頃

直ちに其の神に成る

えっと折口を読もうとしていたのに宣長まで出してきたので話が別の方向へ転回しわけがわからなくなってきたぞ。

我が国には古く、言霊の信仰があるが、(略)

それよりも前に、祝詞には、其の言語を最初に発した、神の力が宿っていて、その言葉を唱える人は直ちに其の神に成る、という信仰のあったために、祝詞が神聖視されたのである。そして後世には、其事が忘れられて了うた為に、祝詞には言霊が潜在する、と思うに至ったのである。

だから、言霊という語の解釈も、比較的に新しい時代の用語例に、あてはまるに過ぎないものだ、と言わねばならぬ。

(p165 折口信夫「神道に現れた民族論理」『全集3巻』)

 たかだか8世紀前半にまでしか遡れない古事記の言語をもって「古の(こころ)=事(こと)=言」がそこにある、とする宣長の方法論には明らかに無理がある。当然、「それよりも前」の時代の人々は違う論理で生きていたはずだからである。

 神がもっと身近にいた太古を折口は自身に近づける。「直ちに其の神に成るという信仰」云々と折口は言うのだが、それは畢竟彼の詩的直感による構成物ではないのか。であれば凡人にはなかなか近づけなくとも当然か、という感想が起こる。

 どうも話が全然まとまらないのですが、少し分かってきた。

<古(いにしえ)>を読む、再現前させる二つの方法があると。

一つは、昔からの一定の伝統的な解釈にそのまま乗っかって「すらすらと平気に」語る方法。

もう一つは、宣長、折口それぞれやり方は違うが、常人離れした努力の果てにどこかで神懸かり的に、いまここに直接<古(いにしえ)>が降りてくるというパフォーマンスを行うこと。

この二つの異質な物をむりやり同一化したものが「靖国」的な、日本=日本の同一律であり、それは最強であり最悪だ、と。