おばさん/金比羅

 おばさん、といえば金井美恵子ですね。『おばさんのディスクール』という本を書いたとき、彼女はおばさんと呼ばれておかしくない年齢だったのに、自己=おばさんという規定から自分は先験的に逃れている存在だと思っていて、恥をかいたのでした。まあ彼女は天才少女作家(詩人)としてデビューして、そのままの自意識で書き続けてきたわけでしょう。わたしというものは主体でしかありえないものですからそれは当然であると言えます。

 ある人は笙野をもう一人の三島であると言っています。三島は天才としてデビューし天才として死んでいった(みたい)ですから、この比較はひどく場違いにも見えます。

 笙野がおばさんであるとはいったいどういうことなんだろうか。よく分からない。『金比羅』だってもっと面白い小説にすることはいくらもできただろうにそうしてないのは何故か。

 神であることの退屈。作家は作品に対し絶対者であり神である。読者は気付きようがないが作者であればこのことは自明の与件である。したがって作者はその万能感を薄めてシュガーコートすることでエンターテイメントという商品をつくることができる。私小説だと逆に「私」は世界に虐められマゾヒズムに沈み込むしかない。笙野は「神であることの退屈」から逃れるために、私小説を取り込もうとし、またオバサンであり続けようとする。

 それとは別に、笙野は彼女の<神>を持っている。これも日本人として“ふつう”のことではある。わたし(や他のインテリ諸君)の理解が及ばないだけだ。

主体として生きぬいた

「ねじ曲げられた桜」つながりでたまたま見たブログの文章が、奇妙でどこか引っ掛かるので引用させていただく。

http://d.hatena.ne.jp/tabaccosen/20050721 tabaccosen – 小田実の「玉砕」について○

○戦中派なのだ。戦争に関して「聖なるもの」を叩き込まれた世代なのだ。その意味では、pureなのだ。これがかれらの世代の基底を形成している。「散華」に「特攻」の動機をもっていくのは、打ち込まれた思想の徹底性以外のものではあり得ない。しかしかれらは、主体としてそれらの問題を自分に引き戻しだ。それが「整理」の中身であり実体なのだ。<美しい>から救われるのではない。あくまで主体として考え生き抜いたのだと強弁することで己が保たれる。その認識が危険なのだ。

わたしは小田実を読んだことがないので分からない。

「著者である小田は、思想し抜いたとでも言わんばかりに、結語的に言う。」その結論に対して、tabaccosenさんは「自己を肯定せずにはいられない弁明性を根拠としているに過ぎない」という言葉を投げつける。

<皇祖皇宗>の効力

kuronekobousyuさんからいただいたコメントのうち次の部分について。

「天皇制」という言葉はもともと左翼が定義したものですがそれを保守派も現在は遣っているが、それはどうでもいいとして「千年以上続いた天皇制を守りたい、のではないのですか?」という問いは(誰に対するのか?)アイロニカルな物言いですよね? 念のため確認しておきましょう。

たしかに分かりにくい表現になっているので補足します。

「千年以上続いた天皇制を守りたい、のではないのですか?」という問いは右翼に対するものです。

(1)

憲法1条などの削除=天皇を憲法で規定することの否定、ですね。

歴史時間で考えると、

天皇を憲法で規定すること=明治憲法の期間(B)+戦後憲法の期間(C)

したがってその否定は=江戸時代以前的なもの(A)+未来的なもの(D) になります。

わたしの理解では、天皇制の根幹は<皇祖皇宗>という目に見えないものにあります。それが社会的に価値があるのなら、憲法から外してもそれは効力を発揮し続けるでしょう。

というかまずわたしたちの天皇は敗戦の禊ぎを済ましておらず、憲法から退くことによってその禊ぎを済ますべきなのです。話はそれからでしょう。

(2)

一方、戦前と戦後がきびしく対立しているという発想もあります。いわゆる右翼と左翼のひとはここに含まれます。

右翼というものは「千年以上(二千年以上?)続いた天皇制」を主張しながら、その千年以上に比べたらごく短い期間である明治憲法期にそれを代表させてしまうことに何の疑いも持っていないように思える。

「千年以上」続いた価値を真に考えるならば、「<皇祖皇宗>という目に見えないものが、憲法から外しても効力を発揮し続ける」という発想をとってはいけない理由はない、と思われます。

(3)

次に左翼のひと。

60年以上憲法1条を放置し、なおも護憲とかしかいわないで、なお天皇はただの羽根飾りのようなものと言い続けるのはおかしいでしょう。

人民主権なら天皇はいらない、と主張していくべきです。

黒猫さんはそういう立場だと了解しています。

(4)

アイロニカルな物言いをしているつもりはないのです。*1<皇祖皇宗>を信じているわけではないが、信じたいという気持ちもある。半分くらいかな。

<皇祖皇宗>は儒学の<理><天><民>にちょっと色を塗っただけのものですから基本的に国境は越えられると考えています。

*1:「脱構築」の試みである、と主張します。

どなってしまった

というわけで*1、今日は市役所に電話をしてどなり回してしっまったりもした。それによってなんと、(部分的ではあるが)市の出した文書には確かに不備があった、そのことにより市民に迷惑を掛けたことについての謝罪を口させることができた。もちろんそれは、今日気まぐれに初めて電話した私の成果ではなく、これまでの関係各位のいろいろな働きかけの成果なわけですが。でもわたしの人生で、どなって公務員に謝ってもらったのは初めての経験のような気がする。まあちょっとでも肯定的に評価し励みにして進んでいこう。

*1:どういうわけ?

松下昇の表現(オンラインで 読めるもの)

メモ:ストライサンド効果

ストライサンド効果:インターネットでは、理由なく情報が消されると余計広がること。(バーブラ・ストライサンドが痛い目を見たことに由来)

17 minutes ago

ストレイサンドかと思ってた。

中道右派to野原氏 『一部訂正

×3月15日付けと3月19日付けの私の該当コメント

○3月15日付けと3月19日付けの各エントリ中の私の該当コメント

なお、3月18・21・24・25日付けエントリにコメントしておりますので、お返事ください。

ノーモア氏によると、コメントに答えないと、逃げたと思われるので嫌だそうですよ。』(2007/03/28 07:28)

* noharra 『中道右派さんへ

ちょっといま、別のことで考えなければいけないことがあるので

応答は遅れます。

--あなたの「証拠を出せ」ゲームに乗るつもりはありません。

--あなたの「証拠を出せ」ゲームを仮に前提とした場合、ミッチナ報告の読みの点であなたは矛盾を犯している。

これを認めてください。』(2007/03/28 07:50)

* ノーモア 『野原氏のブログなので彼が認めるのであれば私に何も言う権利はありませんが、これほどの長い、しかも永井論文を単にまとめただけのものを貼り付けるなんて常軌を逸していると思いませんか?

御自分でブログを作って検証してトラックバックをすればいいんじゃないですか?しかもコメント欄で分割すれば読みにくさは倍増します。しかもはてなのコメント欄には容量に限界があります。少しはお考えになってはいかがでしょうか?

>3月15日付けと3月19日付けの私の該当コメントを、『永井和論文の批判的検討』などといったタイトルで独立のエントリにしていただけると、うれしいです。

厚かましいにもほどがありますな。

それからはてなの容量のことも調べずに「逃げた逃げた」と中傷したことについて言及は一切無しですか?とことん礼儀知らずの人ですね。』(2007/03/28 09:28)

345 八月の短歌

戦場の街の一つをそのままに持ってこなければわからないのか

(砂川壮一)

第九条創りし高き理想あり代うるにいかほど理想のありや

(諏訪兼位)

8月30日の朝日歌壇の馬場あき子氏の選より。彼女は「「原爆忌」が季語になっていく歳月を、記憶の風化を悲しみながら生きてきた」と言う。記憶とは何か、わたしには分からない。戦場の街が突然目の前にあっても分からないだろう。「反戦平和を祈る」というのは思想たり得なかった、と言って良いのか?結局のところ、“朝鮮戦争にもベトナム戦争にも心からは反対しなかった反戦”は捨て去るしかないだろう。*1

*1:何年の発言なのか不明、2004年か

言葉の上の正義

 大晦日、紅白かボブサップか暇人でもTVでも見てくつろいでいるというのに、わたしは(一応掃除とかもした後)孤独に面白くもないヘーゲルを読もうとしているのでした。でも紅白とか覗いてみたがヘーゲルより面白くないとはどういうことだ! p262ギリシローマ時代、徳性は民族共同体にしっかり根を下ろしていた。

 近代の徳性は、共同体をぬけだした本質なき徳性であって、実質的内容を欠く、観念とことばの上での徳性にすぎないのである。世間とたたかう徳のおしゃべりの空虚さは、その意味するところがはっきりすればすぐにも暴露されてしまうので、徳のいい草にはなんの新鮮味もないのだ。で、わかりきったことをいわなければならないとなると、あらたなものいいを工夫して熱弁をふるうか、心に訴えかけて、いいたいことを内心でつぶやいてもらうしかない。(略)そうしたいい草の山や、もったいぶった口調には、だれも興味をいだかなくなっている。退屈なだけの話が興味をかきたてないのは当然のことである。*1

 で急に話は二百年後の現在に飛ぶわけですが、今年、時代の変化を観察できたのはやはり、総選挙の社民党と共産党の退潮でしょう。わたしは今憲法九条の削除に反対です。イラク派兵にも反対、つまり民社党よりも「社民と共産」に近い(といえる)。ただ、「護憲」「憲法9条」とかが絶対の正義であるかのように声高に言う人に対してはわたしも異和感を持ちます。建前としての絶対平和主義は、本音としての米軍(安保条約)と自衛隊という現実、と表裏一体のものとして戦後五十年間日本の言説空間でメジャーだった。正義派のひとはそういう風には現実を見ない。自分たちは常に正義であるが、残念なことに悪であるところの世間が正義を押しつぶそうとする。私たちは苦しいがそれでもたたかい続けるという志は失わない。シニカルに言ってしまえば彼らにとって一番大事なものはナルシズムなのだ。で、上記のヘーゲルは、わたしには(わたしだけかもしれないが)そういった正義派の人への揶揄としてそのまま受け取れるのです。

 各個人が自分の為に行為しているとしてもその行為の総和は、善を現実にもたらすことになる(はずだ)、とヘーゲルは思っている。ブルジョアの自由が歴史を前進させた時代もずっと昔にはあったのね。ということなのか。「なりゆきまかせの個人は自分だけのために利己的に行動していると思いこんでいるかもしれないが、実は思いこみの上を行く存在であって、その行為は同時に潜在的な善を実現する共同の行為でもある。」 

*1:p262『精神現象学』作品社 ページ数よりもどの部分かの方が大事ですね。「5理性」は、金子氏によれば「観察/行為/社会」と分かれる。「B行為」は「快楽/心胸/徳」と分かれる。引用は「c.徳」の終わりの方からです。