ナショナリズムと昭和維新

# index_home 『ある程度同じ思想信条を持ち合わせているといっても、やはり個人個人で違う人間ですから、細かい部分では差異があるのは当然なのでしょうね。でも、それで意見を交わしていくとまたお互いの論を高めあうことができるような気がします。(例えば「君が代の強制に明確に反対」という論理を各人で磨きあうことができる…とか) 

ちなみに>「パトリオティスム/ナショナリズム」を違う物として考えて、前者を肯定し後者の現実の国家組織への忠誠という面を全否定する>という論理なら、私も近いかもしれません。また細かく検討すると差異があるのでしょうけど。』

(野原)

おっしゃるとおりだと思います。さて、

id:noharra:20050324#p5 で尊皇攘夷運動について触れましたが、昭和でそれに近いエトスを持った運動としては、226などの昭和維新運動があります。

 hikaruさんの文章を始めて読んだのは偶然で、3月の始めでした。226事件被告たちの「ご法事」に行かれて、磯部浅一のご遺族にも会われた文章が印象的でした。226事件被告たちはあっさり殺されてしまったのに、その後に展開した大東亜戦争の罪まで被せられて可哀相です。戦後左翼史観は彼らに対し偏見に満ちた評価しかできなかった、のではないでしょうか。

 昭和維新派について知識があるわけでも無いのですが、そういったことも含めて、ナショナリズムについて語り合いたいです。

知性の不在

http://d.hatena.ne.jp/spanglemaker/20050404#p1

意見が食い違わない範囲で「子どもたち一人一人が主人公」という認識なのか、単に高校生はもはや「教育」の「主人公で」はないのか。

「教育とは」「子どもたち一人一人が主人公である」と野原が書いたことと、わたしが fantomeyeさんの発言を否定したことが、矛盾していると、spanglemakerさんは指摘する。しかし、そうは思いません。

今回はfantomeyeさん個人の意見を問題にしているわけで、生徒会の決議でもなんでもない。「当局の指導する形の卒業式が正しく、それに反対するものは破壊者である」という論理は、「子どもたち一人一人が主人公である」と矛盾する。わたしだけでなく多くの人がそう思うだろう。

日本の中国に対する侵略行為は

http://d.hatena.ne.jp/dempax/20050419#p2さん経由

日本の報道関係者へ:

歴史在此沈思(History is Pondering Here)2005年4月14日

南京大虐殺の被害者数はいくらだったにしても, 戦争を直接指揮したのは天皇にしろ, 軍部にしろ, 日本の中国に対する侵略行為は自らが起こした国家犯罪として, 永遠に抹殺できない事実. 強制従軍慰安婦問題も被害者及びその子孫にとっては, 時間には決して癒されぬ深い傷. 我々が起こした一連の行動はまさに真実を知らない日本の人々, または真実を知りながらそれに直視できず, 敢えて隠そうとする政治家や右翼たちに知らせるためです.

「日本の中国に対する侵略行為」を、日本人はこれまで直視しようとしてきたのでしょうか。直視しようとすれば、(大東亜の大義という美辞とのあまりの落差に)恥ずかしくていたたまれなくなる、ものであった。

 事実は何か?わたしたちはわけのわからない戦争につれ回されひどい目にあった。だが中国人たちの受けた被害はそれどころではない、言語に尽くしがたいものがあった。認めたくないという気持ちは働くだろうが、それが事実だ。

8人の小人

こびと=小人って差別用語なのか、ATOKで出ないな。

8人の小人が輪になっていました。1~8と番号が付いていると考えましょう。妖怪ミツハノメ*1が来て一人おきに止まります。止まるとその子は消滅してしまいます。またたくまに2,4,6,8番は消滅。最後に誰が残るでしょうか?

また7人、9人、10人のときはどうなるでしょう?

*1:古事記No78

良いトンデモ/悪いトンデモ

# amgun 『どうも。色んなことで煮詰まっているamgunです。世の中まだまだ「と」な人たちがたくさんいますねぇ。中庸も篤胤も守部も現在の科学的見地?から見れば「と」な人たちなのでしょう。世界の中心で「トンデモ」を叫ぶ。なんかネタに出来ないかな?』 (2005/06/09 09:56)

noharra 『確かに、超愛国的トンデモと括ると、八木某と中庸、篤胤はおなじ括りに入ってしまうけど、私は後者には滑稽感、恥ずかしさは感じますがどこかで愛と尊敬も持っているのです。それに対し、八木某には困惑と侮蔑しか感じません。だいたい江戸時代の感覚では、男子直系相続でなければならない、も反ジェンダーフリーも国学的というより儒教的だし。そんなものを「伝統的」だと信じてたら宣長が怒るよ、と。

 宇宙論や救済論は本来神話などとシンクロしてるし、自然科学とは別の場所にあるので可笑しくても良いのです。イエスさまのお話なんかもそうですね。それに対抗できるような話をなんとか作ろうとすること自体は、試みるに値することだと思います。

 明治以来の日本が自然科学も社会、人文科学も欧米から取り入れそれを真理だとしてきたその根拠が、追いつき追い越せの時代の終わりとともにかなり揺らいでいる。そういった情況への反応が、恥ずかしいけれどなんとか自前で考えようとした「三大考」への関心を呼んでいるのでしょう。

八木秀次は馬鹿にだけしとけば良いみたいだが、政界では小泉、安倍、石原と中央を占拠してるから困ります・・・』 (2005/06/09 21:17)

サンフランシスコ講和条約第十一条

http://d.hatena.ne.jp/charis/20050609

サンフランシスコ講和条約第十一条:「【戦争犯罪】日本国は、極東国際軍事裁判所並びに日本国内及び国外の他の連合国戦争犯罪法廷の裁判を受諾し、且つ、日本国で拘禁されている日本国民にこれらの法廷が課した刑を執行するものとする。」

について、charis氏は次のように読む。

正しい、と思う。

サンフランシスコ条約以前は、占領状態であったから、極東軍事裁判の「裁く主体」は戦勝国である。日本国ではない。だが、サンフランシスコ条約の、「日本国は、・・・裁判(判決)を受諾する」という条文は、加害者の規定主体が、戦勝国から日本国へ移行したことを意味している。これが、日本国の「独立」の法的意味であり、つまり、日本国として、戦争への加害責任を全世界に対して公的に認めたのである。(同上)

一人十殺

 軍は「県民の採るべき方途、その心構へ」として「ただ軍の指導を理窟なしに素直に受入れ全県民が兵隊になることだ、即ち一人十殺の闘魂をもつて敵を撃砕するのだ」とし、この「一人十殺」という言葉を「沖縄県民の決戦合言葉」にせよ、と主張していた(前掲『沖縄新報』一九四五年一月二十七日)。(林博史)

http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper04.htm

 民間人が竹槍かなんかで重火器で武装した米兵を一人だって殺せるわけがなかろう。そう言うことを言って住民を叱咤しながら自分だけは生きのび、戦後素知らぬ顔で生きのびた奴ら。そういう人は60年経っても憎悪に値すると思う。違うかね?(こうしたスローガンを表明して恥じない奴らって今でもいる。)

もう1年早く終わらせるべきだった

2005年08月14日(日曜日)付朝日新聞社説です。 全面的に同意します。

なぜ戦争を続けたか 戦後60年に考える

 明日、60回目の終戦記念日を迎える。あの戦争は、もう1年早く終わらせることができたのではないか。開戦の愚は置くとして、どうしてもその疑問がわいてくる。

 犠牲者の数を調べてみて、まずそう思う。日中戦争から始まり、米国とも戦って終戦までの8年間で、日本人の戦没者は310万人にのぼる。その数は戦争末期に急カーブを描き、最後の1年間だけで200万近い人が命を落としているのだ。

 その1年に、戦線と日本の政治はどう動いたか。

●1年前に勝敗は決した

 44年6月、西太平洋のサイパン島に米軍が上陸した。日本はこの攻防と周りのマリアナ沖海戦で完敗した。もう攻勢に出る戦力はなく、この島から飛んでくるB29爆撃機の本土空襲を防ぐ手だてもない。軍事的な勝敗はここで決まった。

 同じころ、連合軍はノルマンディーに上陸し、日本が頼みとしたドイツの敗勢も明らかになっていた。

 軍の内部でも負けを覚悟する人たちがいた。大本営の一部の参謀たちは「今後、大勢挽回(ばんかい)の目途なし」と部内の日誌に書いた。そのうちのひとりは、参謀総長を兼ねる東条英機首相に終戦工作を始めるよう進言した。

 だが東条首相はこの参謀を更迭し、内閣改造で危機感を封じ込めようとした。陸相時代に「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓を発し、兵に降伏より死を求めた人物である。負けを認めることはできなかった。

 それでも、終戦を狙う天皇周辺の重臣たちが手を組み、逆に東条内閣を総辞職に追い込んだ。44年7月の政変である。

 だが、戦争は終わらず、日本の迷走は劇的な段階に入る。フィリピンでの敗走は50万人の死につながった。軍はついに特攻という無謀な戦術に手を染め、多くの若者に理不尽な死を強いる。軍隊として、国家としての自己崩壊としかいいようがない。

 ようやく45年2月、近衛文麿・元首相は「敗戦は遺憾ながらもはや必至」と昭和天皇に戦争終結を提案した。それでも当時の指導層は決断しなかった。

 せめてここでやめていれば、と思う。東京大空襲や沖縄戦は防げた。

 いったい、損害がふえるばかりのこの時期に、何をめざして戦い続けたのか。軍事史に詳しい歴史家大江志乃夫さんは「私にもわからない」と首をかしげる。

 いちばんの問題は、だれが当時の政権の指導者として国策を決めていたのか、東条首相が失脚した後の指導責任のありかがはっきりしないことだ。

●救えたはずの数百万の命

 政治家や軍人の証言をまとめた「終戦史録」などを読むと、重臣たちは互いの自宅で密談を重ねていたことがわかる。だが、戦争終結の本音に踏み込む勇気はなく、互いの腹の探りあいに終始したという。情けない限りだ。

 結局、当時の政府は、広島と長崎の原爆とソ連参戦という、だれの目にも明らかな破局の事態を迎えて初めて降伏を決める。これを決断と呼ぶとすれば、あまりに遅いものだった。

 政治家や軍人は戦後になって、「戦争は欲しなかった」と口をそろえた。

 手厚い待遇を受け、安全な場所にいる高官たちは、政策を決める会議で自ら信ずるところを発言する責任がある。それを果たさなかったという告白だ。そんな無責任な指導者のもとで命を落とした数百万の人たちはたまらない。

 つまるところ、指導層のふがいなさに行き当たる。あの無残な1年間の理由はそれしか考えられない。

 確かに、戦争終結への動きを憲兵がかぎまわり、軍部には負けを認めぬ狂信的な一団がいた。だが大臣や将軍たちにはそれを抑える権限と責任があったはずだ。ところが、行きすぎを本気でただした形跡はほとんど見つからない。

 検閲があったとはいえ、新聞も追従する紙面を作った。重い戒めとしたい。

 戦後、日本人自身の手で指導層の責任を問う機運はおきなかった。責任を追及していくと、自分もその一端を担っていたかもしれない過去に向き合わなければならないからだろう。

 終戦直後の東久邇稔(ひがしくになる)彦(ひこ)首相が呼びかけた「全国民総懴悔(そうざんげ)」の言葉は、人々の胸に落ちたわけではなかろうけれど、都合よくもあった。責任を突き詰めて考えるのにふさわしいときではなかったのかもしれない。

http://www.asahi.com/paper/editorial20050814.html

asahi.com :朝日新聞今日の朝刊-社説

原文はこのあと「●あの時代だけか」という段落がある。これももっともだがここでは省略する。

「いちばんの問題は、だれが当時の政権の指導者として国策を決めていたのか、東条首相が失脚した後の指導責任のありかがはっきりしないことだ。」そうであるとすれば、天皇裕仁自身の責任がこのような具体的文脈でもクローズアップされざるをえない。

「 いったい、損害がふえるばかりのこの時期に、何をめざして戦い続けたのか。」「国体護持のため」というのが当時の答えだった。そして実際に天皇は生き残った。裕仁が退位しなかった意味は何か。「戦後、日本人自身の手で指導層の責任を問う機運はおきなかった。責任を追及していくと、自分もその一端を担っていたかもしれない過去に向き合わなければならないからだろう。」というのは正しいだろう。

とすれば日本の戦後とは一体何だったのだろう。裕仁無罪から東条無罪へ。ふ。

charisさんへ(2回目)(9/15追加)

http://d.hatena.ne.jp/charis/comment?date=20050910#c

への応答です。

侵略戦争ではない戦争(例えば、ベトナム人民にとってのベトナム戦争)もあるから、国家による慰霊一般が不要だとはいえないのです。

戦争を論じる上で「侵略戦争ではない戦争がある」という指摘は大事だと思います。

国民が選んだ政府が戦争を始める場合、選んだ国民にも一定の戦争責任がある。従軍した兵士にも、民主主義国家における「意思決定の主体」としての責任があり、「心ならずも行かされた被害者」とだけ言うことはできない。

戦前の日本は民主主義国家ではなかったけれど戦争体制が確立するまでは一定の民主主義があったわけで、上記のような責任も薄くとも幾らかはあったと思います。

前の大戦の戦死者のほとんどが「侵略戦争の犠牲者」であるという認識は貴方と同じですが、そのように言えるのは、「戦争に負けた」という大前提の他に、軍部、天皇、ナチスなど、戦争責任を負わせられる「悪玉」がいたからです。

おっしゃっている意味がよく分かりません。すみません。

とにかくいろいろな種類の「戦死者」がいるわけですが、まず、餓死、それに近い病死などは「強度の犠牲者」と言えましょう。

「第二次世界大戦で日本の戦死者は中国での戦場をのぞくと約150万人。そのうち、約7割は餓死、または栄養失調の結果、病気を併発するというものだった。(秦郁彦)」特攻攻撃の死者などもそうです。

国際常識上、軍人として保証されるべき権利を自国から奪われて死んでいった、契約違反による死のようなものです。

このような死者が半数以上いるのですから、それらは「国家としての責任にもとづく慰霊」一般の問題に解消されてはならないはずです。

半数の「強度の犠牲者」に注目しそこから考えるというのが、私の基本的立場です。

さらに戦死者全体についても、「狭義の自衛戦争ならともかく倫理的にいかがわしい戦争において、人生が中断されたことを以て、絶対的な国家からの被害者だ」と考えることができます。

「戦争に勝とうが負けようが」「悪玉が居ようがいまいが」そう言えると思います。

(わたしの意見は野原燐一個の意見であり、世間の常識からは遠いかもしれません。)

私はもちろん反靖国派ですが、靖国問題は奥行きが深く、靖国派と戦うためには、彼らよりも根源的かつ包括的な地盤にこちらが立脚する必要があります。

非常に特殊な戦争だった「大東亜戦争」総体をどう評価するのかを決めれば良いだけなのではないでしょうか。民主主義国家の行う自衛戦争の場合どうか、などという架空の問いが何故必要なのでしょうか。

「敗戦、戦後日本は「反省」し戦前と断絶することにより新国家となった。したがって国家による慰霊はなされるべきではない。」(野原さん) 

ここで断絶とは、あくまで「大東亜戦争」評価という一面について言っています。

上手く書けないで申し訳ないですが、とりあえず。 

今後、charisさんの一連の論考を読ませていただきますので、応答はそれからでもけっこうです。  野原燐