ユダヤ人/シオニズム

高橋 『 何年か前までは、私はナチスに迫害されたユダヤ人を気の毒に思っていた。単なる心情的支援であったが。しかし、イスラエルにおけるパレスチナ人に対する暴虐無残な殺戮・弾圧などを見聞きしているうちに、ユダヤ人というのは、私が子供の頃に皇軍の将校から聞いたユダヤ陰謀説なるものを信じる気持ちになってきた。

 実にユダヤは世界に災厄をもたらす巨悪の1つである。イスラエルはナチスよりも恐ろしい。よって今後はイスラエルを ナチラエル NAZIRAEL と呼ぶ事を提案する。』

高橋さん、こんにちは。野原燐です。

(1)現在のイスラエル国家はパレスチナ領域内に住む(及び領域外に移住をやむなくされた)パレスチナ人に対して土地の強奪、家屋破壊、検問、壁、暴行、殺害などなどによる迫害を継続しています。にもかかわらず国際社会からの批判は弱くUSA国家を始め多くの大企業なども多大な援助を行っています。

(2)フセイン政権を倒して得をするのはUSAではなくイスラエルである。イスラエルの核を不問にしたまま、核拡散反対を強行しようとしても論理的に矛盾する。小泉が追随しているUSAの中東政策は長期的に見て中東に安定をもたらす見込みはない。

(3)

 書くべき事はいくらでもあるのですが、ここでは「ユダヤ陰謀説=実にユダヤは世界に災厄をもたらす巨悪の1つである。」という言葉使いについて。

「国内」での暴虐無残な殺戮・弾圧などにより国内だけでなく結果的に世界じゅうにテロリズムの蔓延をもたらしている(ともいえる)犯人は、イスラエル国家とそれを支えるシオニストたちです。ユダヤ人というひとたち、はべつに一つの考えでまとまっているわけではありません。現在のイスラエルのあり方に批判的なユダヤ教指導者もたくさんいます。

 したがって、巨悪はユダヤではなく(現在残念ながらイスラエル「国内」で圧倒的多数派である)シオニズムである、と理解すべきです。

(4)

現在まで欧米の殆どの地区において、ユダヤ人差別が日常的に存在しているという事実もある。したがって、ユダヤ人ではなくシオニズムが悪だ、と考えるべきだと思います。

 以上は、欧米と違いユダヤ人に対して歴史的に負い目を持たない日本人にとっては容易に辿り着ける認識のはずです。

(5)

ところで、ユダヤ人とシオニズムとの差異は、日本人に対しても適用できます。日中友好声明のときに確認された「悪しき軍国主義者」と「それ以外の(本来は平和を愛していたはずの)日本人たち」という区別です。前者をわたしはこの間、【国体護持派】とも呼ぼうとしてきました。

宮台: 靖国神社にA級戦犯が祀られているのはどういうことであるのか。理屈ははっきりしている。要は、天皇陛下と日本国民から罪を免じてA級戦犯が悪いということにする。これがサンフランシスコ講和条約*1の基本になる。もちろん中国もロシアも参加していませんが理屈は世界中に知られていたわけですよ。日本国民が悪いんじゃないという話にしてA級戦犯に罪をなすりつけた。(http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20041201#p1 スワンさんの引用する宮台真司より。

靖国神社にA級戦犯が祀られていなかったのはどういうことだったのか?を端的に説明している。

 (わたしたちは悪くなかったんだという)否認のナルシズムである【国体護持派】は、日本人に対し悪影響しか及ぼさない連中であることは明らかでしょう。

多くの日本人とは

0000 『日の丸が多くの日本人に好かれていない理由は以下(省略)

この一文だけであなたの主義主張が一方へ偏っていることが良くわかります。

一般の日本人は日の丸に誇りを持っていると思います。オリンピックやワールドカップなどを見たことがないのですか?』

K’s room経由 『はじめまして。

> 日の丸が多くの日本人に好かれていない理由は

との事ですが、日の丸はたしか左にバイアスがかかっているとされる

朝日新聞の読者にして8割りだかが支持していたはずですが。

ロジックのなにかが間違ってませんか?』

(野原)

 例えば、国民の1割が好きでない、とします。この場合、一千万ほどの日本人が嫌悪していることになります。当然、「多くの日本人に好かれていない」ということになりますね。

(1)生きて俘虜の辱めを受けずとして兵士や市民に死を強制した帝国を、愛すべきだと考える理由を教えてください。

むう 『むしろ多くの日本人が日の丸を愛しているんだとの理由を教えてください。

スポーツ大会で日の丸をかかげるのは日の丸を愛しているからではなく、単に恒例だからだと思います。じっさい君が代は歌ってない選手が多いです。これも嫌いだからではなく知らないだけでしょう。』(2005/04/17 20:23)

JR西日本・尼崎電車区ってひどいところなのかな?

2001.9.6 運転士、服部匡起(44歳)さん自殺。

http://www.jr-souren.com/statemnt/tusin492.htm

JR総連通信 №446

 9月6日、JR西日本・尼崎電車区で1分の列車遅延を理由に乗務停止の扱いを受けていた運転士が自殺するという悲しい事態が発生しました。

1年後、自殺した運転士の父親が提訴

http://www.jr-souren.com/outlaw/teiso.htm

管理者とJR西日本に損害賠償請求

訴状の中で榮さんは「被告園田、同片山、同山口は、現実の行為者として、『日勤教育』の実態が…過酷ないじめに等しいものであることを充分に認識しており、心理的付加の過度な蓄積により匡起の心身の健康を害する危険性を予測し得た。にもかかわらず匡起に対しそのような『日勤教育』を敢行したのであり、被告園田、同片山、同山口には、匡起の自殺について、少なくとも過失があることは明らかである」と尼崎電車区管理者の犯罪を告発しています。

http://www.jr-souren.com/outlaw.htm JR西日本・JR東海の不法行為

宇宙論とは何か

# amgun 『noharraさん。そうですね。『三大考』は、『古事記伝』で宣長自身が「これは私が言いたかったことそのものだ」的な絶賛をしているので、『古事記伝』がどのような宇宙論を含意したものだったのかを考えるには、避けて通れないテクストなので、読む価値はあります。前回の私の研究会報告では、『三大考』から派生していく様々な問題の自分なりの整理も兼ねてしたのでした。』 (2005/05/26 09:30)

(野原)

amgunさん、コメントありがとう。いやまあそれは、三日ほど前からは分かりました。(発表を聞いていたときには始めてだったので、もうひとつピントが合ってなかったのですが・・・)

ケプラー、ガリレオの宇宙論の概要は教養として必須ということに一応なっていますが、本当にそうなのか。それが事実だから知る必要があるのか。教科書に書いてあったからという理由だけでは無意味だろう。amgunさんが配布してくださった中庸以降百年にも及ぶ、三大考論争とは何だったのか。最初から無意味な言葉遊びに過ぎないのか?現在までの自然科学の成果というものが揺るぎないものなのであれば、歴史を振り返る必要もないのか?

・・・うまく言えないのですがそのような問いに囚われました。

怨親平等 (8/6追加)

というのはちゃんとキーワードになっている。

 靖国神社の中には鎮霊社という「靖国神社本殿に祀られていない方々の御霊と、世界各国すべての戦死者や戦争でなくなられた方々の霊」を祀った摂社があるとのこと(摂社とは本社に付属し本社に縁故の深い神をまつった神社の称)。(略)

たしかに靖国神社は軍人軍属を中心に祀ってはいるが、神社全体としては民間人も敵もあわせて祀っている事にはかわりないのだから、これこそ日本の伝統に沿ったものである根拠の一つにはなるだろう。

http://d.hatena.ne.jp/drmccoy/20050728

そして上記のように、鎮霊社という社の存在を以て、靖国神社を弁護しようとする勢力も存在する。

136年前からの靖国神社の歴史を考えれば、それが言い訳でしかないことはすぐ分かるわけですが。

わが岡のオカミ

103 わが里に大雪降れり 大原の古りにし里に落らまくは後

天武天皇

104 わが岡のおかみに言ひて落らしめし 雪の摧(クダ)けし 其処に散りけむ

藤原五百重娘

万葉集です。

天武が 大雪が降ったぞ!と自慢すると、藤原の夫人はまたうちの岡の雨龍に降らせた雪がそこまで散っていったのでしょう、と子どものように言い返すという歌、折口によれば。

応答可能性と政治的正義

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050918 の続き

責任/応答可能性という発想は、岡野八代においては政治的正義実現のための一つのステップとして現れる。

私の人生がこんなになったのは日本のせいです。日本は私たちに補償をして、このことを歴史に残さなければなりません。今の日本や韓国の若者は、こんなことがあったことを知らないので、事実を教えてあげなくてはいけないと思っています。(元従軍<慰安婦>金学順)

「責任」を考える場合に、わたしたちは、在る行為を自らが「自由」になしたからこそ、その行為に対する「責任」が生じる、と考える。だがしかし、呼応関係においては、「かつて自らが自由になした行為については、今その責任がある」といった<責任に先立つ自由>といった考え方が覆される。なぜなら、<わたし>がいま、金学順さんの言葉を聞いた時点で、すでに否応なく彼女の声に応えることが要請されており、聞いてしまった時点でわたしには、いかなる自由もなく、すでにその声に応える責任/応答可能性のなかに巻き込まれてしまっているからだ。そして、その後に、その声に応えるか否かの自由に開かれることになる。*1

責任とはまず無限責任なのだ。そして無限責任であるかぎりその責任を<わたし>は果たしえない。そんなことは不可能なのだ。p248同上

わたしたちは、ある意味で偶然出会う個別のひとびとからの呼びかけを個別の受信者として聞き取ることしかできないのである限り、あらゆる人からの無限の責めとしての倫理的責任は、ある限定した範囲の中で果たされるしかない。つまり、実際に彼女たちに正義が回復されるためには、わたしたちは、誰にどれだけの正義を返すのか、という限定的な正義の範疇や正義を回復するためのルールを確定しなければならない。(略)

そうではなく、倫理的責任は無限責任であることを意識しながらも、なお限界を問い返しながら責任を取ろうとする積極的正義が存在していることを意味しているのだ。p269同上

岡野はこの正義を「政治的正義」と呼ぶ。これは(アリストテレスからロールズに至る)現代正義論の立場、即ち「配分的正義論を正義の通常モデルとする正義論の立場に立てば、日本政府が従軍<慰安婦>問題に対して無責任であっても、正義に悖ることがないという結論が導かれる*2」そのことに対する批判として、なされる。

*1:p246 岡野八代『法の政治学』isbn:4791759699

*2:同上p265