黄晳暎『パリデギ』、火の海・血の海・砂の海を越えて


『パリデギ』
は黄晳暎(ファン・ソギョン 1943-)という韓国の作家の書いた小説。
副題が「脱北少女の物語」という。2008年に刊行されたこの本は前に図書館で見たのだが、脱北女性の物語は『北朝鮮に嫁いで四十年 ある脱北日本人妻の手記』斉藤博子著
映画マダムBなどいくつか知っているので、すぐに読まなくてもいいかと思ったのだ。

飢餓に至る困窮に対して、道端のクズを拾って売るなど血みどろの労苦の末に生き延びるリアリズムを、そうした本は表現している。それとそのような境遇を強いた国家(金一族)への呪詛と。

一方、この本はそうした本とはかなり違っている。
主人公は夢見る少女である。ただその夢は甘くふわふわしたものではない。困窮のうちに数千年生き延びてきたアジアの低層民が語り伝えてきた奇妙なおとぎ話。
ある春の日。門を開けると、私(5歳)より少し大きな女の子が立っていた。その子は白い木綿のつんつるてんのチマ・チョゴリを着ていた。主人公のパリは霊感の強い少女だった。それはおばあちゃんから受け継いだものだ。「あれはね、伝染病の鬼神なのさ」とおばあちゃんはいう。柳田國男的な話。

パリ一家は豆満江沿いの国境の町に引っ越す。
「前に美姉さんと豆満江に行った時、水に浮かんでゆっくり流れてくる人の姿が見えた。幼な児をおぶったままの母親の死体だった。きっと、母親と子どもが一緒に死んだのだ。美姉さんと私は、以前ならびっくりして悲鳴をあげ、誰かを呼びに走っただろうが、その時は息をこらして見つめていた。死体の後ろには、解けて長く伸びたねんねこの帯が揺らぎながら流れていた。」
数百万人が餓死したとも言われる90年代中期の北朝鮮。その悲劇を黄晳暎はこのように静かに描き出す。死体が流れてくる、それに対して悲鳴も上げずにじっとながめているまだ幼い少女たち。そこには、無残な死が幾分かは自分自身の未来にもあるかもしれないといった予感さえ孕まれていたかもしれない。

飢餓が激しくなるころ事件が起こり、一家は離散する。パリは賢(ヒョン)姉さんとおばあさんとともに川を越え、中国に入る。中国人の家に一時厄介になるが、そこも出なければならなくなり、裏山に穴を掘り住むことにする。
ここで、おばあさんがパリ王女のお話をしてくれる。その話はパリ王女が、両親とみんなを助けるために、生命水を取りに西天の果にまで行く話。ひとりの悲惨な脱北少女の悲惨な話に、このおとぎ話を二重に重ねていくといった構造をこの小説は取っている。死者や死者の世界との媒介をしてくれる愛犬と幻のなかで交流できるという神秘的能力をパリはもっていた。

物語は本の半ばで大きく回転する。パリは運命のいたずらにより、人身売買の犠牲になり、はるかロンドンに運ばれる。そこで彼女はまたゼロから難民としての生を生き直す。
私が冒頭で上げた2つの脱北女性、斉藤さんは日本へ、マダムBは韓国に帰る。詳しい話は省略するが話は東アジア3国で完結している。
しかしパリデギの場合は遠く、ロンドンに行きそこで終わっているのだ。パリはそこでパキスタン系の青年と出会い結婚する。しかしその相手はなんと911後のイスラム青年たちの熱狂に巻き込まれ行方不明になってしまう。

話が錯綜しすぎのような気がするが、そうではない。この小説はダンテの神曲のように、究極的な問いに答えようとしているのだ。問いとは、なぜ彼らは、300万人を越すとも言われる膨大な北朝鮮人は無残にも、死んでいかなければならなかったのか。その惨禍は数年続き、隣国であり繁栄を謳歌していた韓国と日本は、それを知ろうとすれば十分知り得たはずだ。しかし私たちのしたことは徹底的な無視だった。
飢えて死に、病気で死に、苦しんで死に、痛ましく死んだその膨大な人たちは、何も言えずに死んでいった。「すぐ答えておくれ。どんな理由で、わたしたちは苦痛を受けたのか?」
パリは問いを受け止め、試練の旅を続けざるをえない。パリは魔王と戦い、生命水を飲み帰ってくる。「わしらの死の意味を言ってみろ!」この問いに答えるために。
この問いには答えが与えられるが、その答えはあまり成功しているようには私には思えない。

ただ、「脱北」という巨大な悲惨を、どのような問いとして再構成したのか?
東アジアに閉ざされた国家内部の悲劇として描いてしまってはそれは違う、と彼は思った。
古くさいようなおとぎ話(火の海、血の海、砂の海を越えていく話)と二重重ねすることにより、かえって普遍的な膨大な悲惨の只中の生を浮かびあがらせることができると、黄晳暎は考えたのだろう。

韓国「元慰安婦会見」めぐる議論について

「韓国「元慰安婦会見」めぐる議論、6つのポイント」という論説を、徐台教氏が下記サイトに書いている。
https://news.yahoo.co.jp/byline/seodaegyo/20200514-00178504/

徐氏の文章は分かりやすく妥当なもののように思われた。この問題について深く追求していこうとは思っていない。ただ徐氏の文章を読んで、思ったことが少しあるので書き留めておこう。93年河野談話以降日本国内の問題はあまり変わっていないし、日本国内を変えられなかった私の責任(李容洙さんと尹美香さんたち、に対する)もないことはないからだ。メモ的な形で恐縮です。

(1)寄付金に関する疑問
あまり興味がない。

(2)市民団体と被害者の関係性の難しさ
これよりも大きな問題は、ネトウヨあるいは日本の官邸周辺もかって無学だった元慰安婦たちの主体性・思想性を認めようとせず、正義連などに操られているとしてきた。あるいは金さえやれば黙るだろうとして黙らせたりしてきた。それでもだめなら無視し(橋下氏の場合)、死ぬか呆けるのを何十年もひたすら待ち続けた。

(2-2)
脱北民と韓国の北朝鮮人権運動団体との関係と同じように、当事者と運動団体のあいだでは、当事者は団体に利用されたという関係に陥りやすい。当事者は深いレベルで彼女自身に固有の恥辱や被害を語ることによりある意味で見世物になり続ける。一方運動団体は運動の利害、獲得目標、主張に一貫性を持たせるための論理の整合性といったものを大事にする。この限りでこの対立は普遍的なものだ。
(2-3)
普通10年もやっていればそれなりの成果は出るのだが、慰安婦問題は、「解決できない日韓歴史問題」にリンクされてしまい解決できなくなった。このことの責任は、第一義的に「解決できない日韓歴史問題」にリンクさせる方が、排外主義を煽り政権の支持につながるとする安倍政権にある。

(3)韓国保守メディアの狂騒
「朝中東」と称される朝鮮日報・中央日報・東亜日報の保守紙系メディアは、重大な「戦時性暴力」を追及する正義連の運動を「日韓関係の妨げとなる」と下に見てきた。ネトウヨは、嫌韓派として場合によってはかれら「保守派」を強く非難してきたのに関わらず、文在寅政権になってからは彼らの文在寅派批判を自らの嫌韓の素材にするという器用なことを熱心に続けてきた。
今回の反尹美香・反正義連の一大キャンペーンについても、おお喜びで引用し続けるのは間違いない。
しかしながら、李容洙氏本人の最大の恨みの対象は安倍首相とそのフォロワーであるというものごとの根本を無視して、喜んでみても騙せるのは愚かな人だけである。

(4)「親日・反日」フレームの間違い
与党の一部や熱心な文大統領支持者たちは「正義連批判=日本擁護=親日」というフレームで、「保守派」を批判する。しかしそれは違うだろう。
李容洙氏の真摯な告白を「保守派」が反文在寅運動に利用しようとしているだけだ。

「正義連が日韓関係を邪魔している訳ではないという認識を持つべきだ。」にも同意する。

(5)正義連も一つの契機に
30周年を迎えた正義連、という言葉を見る時、30年も解決しなかった「慰安婦問題」の愚かさを改めて考えざるをえない。93年の「慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。」「歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。」を言葉通りに実行しておれば、こんなことにはならなかったはずだ。すべてネトウヨが悪いのである。

(6)「理解」できる関係を内外に
「30年間、過去のトラウマと闘いながら時には被害者として、時には運動家として責任追及運動を続けてきた李容洙氏が抱える苦しみはどれ程のものか。」温かい理解を徐氏は要請する。わたしも考えてみたい。
徐氏によれば、異常なまでの攻撃性を持つ韓国の保守メディアというものがこの問題のポイントの一つであるようだ。その問題についてはよく分からないが、韓国の保守派と日本のネトウヨの連帯というものがもしあるとしても、それは慰安婦問題はもとより、日韓友好にも役に立たないものだろうと思う。

「週末研 – 沖縄花見」感想

kurameさんという方が書かれたのだろう「週末研 – 沖縄花見」という文章、読んでみた。
http://kurame.egloos.com/m/5362697

パク·ユハ教授とイ·ヨンフン教授にシンパシーを持っている人みたいだが、それはともかくとしてあまり感心できなかった。

このエッセイは、はじまりの部分と
1.国家の暴力と国民の暴力
2.<国民の暴力>に対する記憶と関連モニュメントの不在
3.魂はどう英霊となるのか –沖縄平和記念公園
4つの部分からなる。

この文章は、週末研というグループがあって、それで沖縄花見という小旅行をした感想である。
この方の基本的な出発点は、「軍事政権によって犯された様々な国家的暴力、日本軍によって犯された様々な暴力とそれを利用した民族主義の鼓吹ロジック」という韓国の左派のいつもの論理たちに対する、「ものすごい疲労感」である。この「左派の論理」と同質のものを、沖縄における反戦など言説にもこの方は感じた、ということなのだろう。

ただし、韓国と沖縄/日本ではロジックの構成に大きな差がある。というのは、
韓国では、国家暴力批判は<国民の暴力>への肯定に結びつく。
しかし、「琉球の人々は、日本人からは排除としての暴力を受け、同時に国家による暴力の対象となってきた。 」つまり、国家暴力批判は<国民の暴力>批判にもなる。ということで、韓国と沖縄は対極的である。
とこの方は云うのだが、「日本人にとって(日本国民の無意識において)忘れられた存在が琉球人」なのであれば、日本国家暴力批判は<沖縄県民の(暴)力>への肯定と結びつくという回路は存在するはずだ。現に、米軍基地の有刺鉄線を切ったという罪に問われた山城博治氏は日本国家の進める辺野古新基地反対闘争のリーダーであり県民から広い支持を獲得している。

韓国の国家暴力批判をしているのは韓国の左派であり、<国民の暴力>肯定しているのも韓国の左派である。
しかし日本国家暴力批判しているのは沖縄人(と左派日本人)であり、<日本国民の暴力>批判しているのも沖縄人である。
韓国の左派は現在政権を取り、したがってある程度ネーションと重ねることも許されるが、沖縄人はマイノリティでしかなく独立派すら形成しておらず、ネーションと重なることはありえない。作者はこのリアリティがよく分かっていないので、文章の論旨が通っていないことになった。

「沖縄が日本人に一種の国民的な超自我を呼び起こす対象である理由は、当時の日本人が<国民戦争>をしたからだと思う。」とまで、作者は言っている。日本人がそうした超自我を持っているなら、辺野古新基地建設などとっくに止まっているはずで、残念ながらそうしたものは形成されていないのだ。

「沖縄について考えるとき、日本人の反省は国家的暴力に対する反省と同時に、国民的暴力に対する反省でもあり、すなわち、国民-国家に対する反省であり、二つはきちんと分離しない。」
「日本人にとって(日本国民の無意識において)忘れられた存在が琉球人であり」と書いている方が正しいのであり、日本人は沖縄における国家的暴力すら反省していない。
<日本国民の暴力>については左派日本人すら批判しているとは、私は思わない。

「韓国ではまともな国民-国家が形成されたことがない」なんかずいぶん乱暴な議論だな。
朴正煕(パク·ジョンヒ)が<近代人として韓国人>を作った。
「く韓国人が持っていた日本に対する考え(=近代国家に対する考え)を、ひいては韓国人の<理>をハッキングし、一種のトロイの木馬を注入して、前近代的な方向性を近代的な方向に操作しようとする。 (これについてもっと詳しく知りたいなら小倉紀蔵さんの本を参照)」ふーん。
しかし、左派は朴正熙を独裁者、親日派、さらに倫理的に正しくない存在として全否定する。

「ブラックリストのようなものがあれば彼らにとって最高だ。」朴正熙から光州事件まで、ブラックリストどころか死体がごろごろあるのだから、こうした物言いはいただけない。
光州事件は、「国家の暴力が韓国の<理>を抑圧している」と捉えることはできないんじゃないかな。<理>が明らかにあったのなら無残に敗北することもなかったはずだ。

現在、文在寅政権は「積弊の清算」として韓国社会を大きく変えようとしている。作者はそれに批判的なようだ。
「国家は、親日派から続いた軍部勢力やその追従者たちが操縦する怪物のようなものとして描かれる」、文一派は国家を平板化し道徳的な形で全否定すしてしまう。彼らの想像力の中における親日派と正義のわたしたちの対立図式だ、とする。

私は韓国政治のことを一切知らないのでこの方の批判の正否を判断できない。しかし、文在寅を支える勢力は、「積弊の清算」などだけを目的にしているわけでもないだろう。最低賃金を上げるなどの労働政策、交通政策、弱者のための「出かける福祉」、参与連帯などの行政監視運動などさまざまな分野の活動があると聞いている。単一の「反日」派などというものではないことは、民主労総と文在寅の対立を見ても明らかだろう。
左翼勢力の側から大挙metooの告発事例がでたというのも、滑稽かつ悲惨な例ではあるが、単一の「反日」派の非存在を証している。

文一派は観念的かつ統一的ないわば神学といったものに依拠していると、作者は考える。
文一派の神学の女神が「平和の少女像」であるなら、それを転倒すべき〈鍵〉は「韓国では忘れられており、絶対に認めたくない<自発的な>日本軍への参戦者と日本軍慰安婦たちの<肯定的な>記憶」(パク·ユハ教授とイ·ヨンフン教授が発掘した)だと作者は云う。
「韓国人が正しいと信じていた両極端的な善悪観に決定的な分裂をもたらすもの」なんだ、と作者は云うのだが、そうだろうか。

例えば、集団自決というのは日本軍が沖縄人を殺したのではなく、例えば「沖縄人の母親が我が子を手に掛けた」といった事例もあった。そうした事実は沖縄県内や日本の左翼においても別に隠蔽などされていない。直接的ではなくとも日本軍による加害という構図のなかでの出来事であったと理解される。
「韓国における<自発的な>日本軍への参戦者と日本軍慰安婦たちの<肯定的な>記憶」といったもののそれと同じ構図のものに過ぎないと思われるのだが、違うのだろうか。
日本軍慰安婦たちが日本軍との関係においては被害者だったと、パク·ユハ教授も認めているはずで、それ以外がそれほど大事なことなのだろうか。よくわからない。
日本軍への参戦者と日本軍慰安婦に自発性があったという認識が糾弾される韓国国内のあり方について私は知らないので論評できない。しかし私の理解するところでは挺対協はフェミニスト団体であり、元日本軍慰安婦に対する戦後韓国社会の抑圧を家父長制として糾弾しているはずだ。つまり挺対協は反日団体ではないはずだと思うのだが、私の認識は間違っているのだろうか?

国民的反省、国民的超自我を形成することを作者は求めているようだが、よくわからない。それは文一派は国民的主体を形成しつつ在ると自負していることと、論理的には何処が違うのか。

第三章の感想については省略する。

(ところで「韓国左派の方が、北朝鮮に対して人民たちが受ける苦痛と人権弾圧は完全に無視して、金氏一家に好意を抱くのは有名な話」とするならば、それは致命的な過ちであり糾弾するしかない。)

韓国の方がたまたま、日本語で書かれたブログを読ませていただいた。本来それほど広い範囲の読者を想定している文章ではないのかもしれない。
ただ、パク・ユハ氏の『帝国の慰安婦』にしても、私はその本自体よりも日本におけるそのフォロワーたち(有名な作家、学者など)の存在に非常に腹を立ててている。パク・ユハ氏も『反日種族主義』も日本に持ってくると、間違ってベストセラーになってしまう、パク・ユハ氏も眉をひそめるようなネトウヨまがいが大量に存在しているためである。


今回の文章は、非常に興味があるテーマを扱っているので、感想を書かせていただいた。

柴原浦子と近代日本

藤目ゆき氏の『性の歴史学』と題されてた本を読んだので、感想を書きたい。1997年出版。不二出版。

性愛、出産、家族といったものは、プライベートにして自然な領域とされ語られず思考の対象にならなかった。しかし実際はそれ自体が、近代によってあたらしく生み出されたといっていいほどの大きな変容を受けているものなのだ。

近代とは何か?近代というものが耐え難いほどの大きな痛み〜裂け目(slits)に向き合うことであるなら、それを端的に示すのは次のようなエピソードだろう。

「洋の東西を問わず、(性病)診断は、これを強制される女性にとって甚だしい恥辱だった。」
「英国植民地のインドでは、1880年代に性病検診の屈辱に耐えかねた女性たちが何千人も逃亡し、逃げ延びる先もなく餓死に瀕したといわれる。
しかし、性病検診の強制を性病予防という「文明」の顕現とみなす人々は、これを歓迎し日本に導入した。」
「「衆妓たとえ如何様ありても、この治療は受けがたしとて或いは声を揚げて泣き、あるいは遁れんとして狂走せしが、一室に鎖したれば、一人残らず改められ、大蛇の口を遁れたるものなかりしとぞ」という暴力的な実施が始まる。
官憲が立会い、衆人監視のもとで下半身をさらされ、またなれない医師が怪我をさせたり、実験材料にされたりすることもあった。逃亡する者、検査日だけ姿を隠す者、さらには自殺する女性もいた。」(p91)

わたしたちは約150年ほど前から近代化を受け入れた。幼い頃から小学校に通い、先生の言うことを聞き理解し覚えていくように自分の身体を変えていく。
公娼制度の導入においては、近代と身体はもっと劇的に出会う。女性のプライバシーの核心とされる性器に、近代の光をあて、注視する行為は、近代というものにはじめて出会う無学な女性たちにとって非常に暴力的なものであっただろう。

そういうふうに、近代公娼制度は日本に導入されていく。
公娼制度はナポレオン時代にパリで始まったもの、軍隊の慰安と性病の管理を基軸とする国家管理売春の体系である。(p409)
日本軍慰安婦制度との対比において、公娼制度は合法的な自然な市民に開かれた制度であるかにイメージされることが多い。しかしそれはまったく違っており、公娼制度もまた基本的に国軍のための制度である。
「日本の公娼制度は明治新政権の下で近代的に再編され、人民収奪体系として機能し、日本の下層階級の女性と植民地の女性たちを組み入れて発展していく。遊郭は地域に巨額な金をおとし商業者を潤し、国家とその地方庁は娼婦からの直接的間接的徴税で莫大な財政収入を獲得でき、軍隊は買春によって性病にかかる心配なく「慰安」される。」(p410)これが近代国家における公娼制の重要性である。

1880年群馬県のクリスチャン民権家によって始まった廃娼運動は91年「廃娼令」を勝ち取る。全国には波及しなかったものの日本キリスト教婦人矯風会などを中心とする廃娼運動は粘り強く続いていく。
しかし、藤目は村上信彦らの先行者と異なりこうした運動への評価は低い。
一つは、「群馬廃娼後の娼妓たちの多くは、他府県で娼妓を続けるか、県内で類似の接客業に転業している」(p101)
もう一つ藤目の強調するのは矯風会婦人活動家たちが持っていた「醜業婦」観である。日本では本来、「売春に従事した女性が「消すことのできぬ烙印をおされるようなこともなく、したがって結婚もできるし、そしてまた実際に婚姻」した。婚姻外の性関係を罪悪視し、「純潔」でない女性に汚名をきせ排除するというのは西欧的価値観」である。しかるに日本の廃娼運動家はこの価値観をしっかり受容した。娼婦はその存在自体が悪であるという窮極の差別に繋がりうるものであり、娼婦たちの救済には役立たない。

このような状況のなかで、柴原浦子というひとりの女性を、藤目は肯定的に大きく取り上げている。

柴原浦子 1887年生 広島県の田舎で生まれ、看護婦の資格を取る。医師と結婚するが間もなく離婚。看護婦に比べ生活の安定を得られる職業である産婆の資格を取る。1910年頃から、出産時の死亡率の改善のため「新産婆」の普及が国策となっていた。
広島県の産婆なき村で開業し、極貧の家庭のためにも献身的に仕事をした。また衛生思想の普及にも努めた。
1920年頃から、「婦人の徳の涵養」、婦人選挙権、産児制限運動などにとりくむ各種婦人運動が盛んになった。
当時の貧しい母親の多くは子沢山に悩んでいた。彼女たちに寄り添おうとして柴原は産児制限運動に邁進する。
1930年、そうした運動の中心地の一つ大阪(天王寺の南方、釜ヶ崎、飛田の近く)に、産児制限の相談所を彼女は開設、相談者が殺到する。貧困による産児調節を求めて為政者とも対立する。
1931年満州事変勃発以降、「産めよ殖やせよ」がスローガンになり、産児制限運動への弾圧も厳しくなる。困難に陥った女性を助けようとする柴原は、非公然の中絶を助けることもあった。お上品な正義感や時代の流れなど気にせず自分が取り組むべき事象にたちむかった柴原は、1933年堕胎罪で起訴され有罪となる。執行猶予中もなお彼女は行為を改めず、1935年再び検挙、1年5ヶ月の実刑判決を受ける。
戦時期は奈良県大和小泉の被差別部落に入り、助産、避妊指導、妊娠中絶を引き受けた。
しかし彼女は「天皇様のためにやっている」と語っていた。どんなに貧しくてもみな「天皇様の赤子」であり平等なのだ、という信念である。

私は彼女の生き方を知って感心した。一方で産児制限や階級闘争についての数限りない難しい論争がある。そのような理論や論争に生涯を傾ける値打ちがあるのか。正しい理論は正しい生き方を保証しない。権力の弾圧に負け何らかの転向を余儀なくされるだけだろう。一方で左翼でなかった柴原は、敗戦までの時期、貧者の生殖の困難という問題を救うという目的を弾圧にもめげず貫いた。
正しい生き方をしたいとは私は実はあまり思っていない。しかし何が正しいのか。正しい思想を獲得することより大事なことがある、という結論にもなる。柴原の生き方を素直に考えると。
柴原浦子は藤目氏以外に取り上げる人もおらずほぼ忘れられているようだが、偉大な人物としてもっと知られるべきではないかと思う。

さてもうひとつ、藤目が肯定的にとりあげているのは、次の運動だ。
戦後1956年、売春防止法が成立の直前、赤線で働く女性たちは法案が通ると、今よりひどい違法なヤクザなどに支配される(青線、白線)に移行せざるを得ないことをおそれ、法案に反対していた。東京都女子従業員連合会を作り4500人が加入した。生業を一挙に違法化し奪う以上、更生資金を要求しようとしたのだ。しかしその要求は相手にされなかった。その国家の態度の背後には、売春婦は醜業婦であるとする廃娼運動女性たち自身の偏見もあったと藤目は指摘する。

1991年金学順のカムアウトからいわゆる慰安婦問題は始まった。日本のフェミニストたちが慰安婦問題を知らなかったはずはない。(同じような名前である従軍看護婦体験者たちが一番良く知っていたはずだ。でも語っているのは見たことがない。)
かって廃娼運動家たちは「大日本帝国の海外膨張を疑わず「醜業婦」を取り締り軍隊を保護せんとする志向と娼婦に心を寄せるよりも妻・母として夫・息子を「誘惑する」娼婦に反感をいだく心性」をもっていた(p323)。戦後国会議員などになっていった彼女たちの後輩たちの心根もそれほどは、変化していなかったのではないか。それが「慰安婦」に対する46年間の沈黙につながったのではないか。まあそのような推測も少しはあたっているであろう。

『性の歴史学』分厚く地味な本だが、いまだ「慰安婦問題」から抜け出せない日本を根底から考える上でも読んでおきたい本である。

自分自身のあり方を見つめ直すことで、新たな創発を起こす

安冨歩『経済学の船出』NTT出版に興味を持っている人が多いようだ。品切れで高価になっているので余計に。

「普通の人の普通の感覚というものは、意外に鋭いものであり、「なんだか変だな」と感じることには、それなりの理由が潜んでいる。」
というのが「はじめに」の最初の文章。
「読者がその感覚を把持し、奇妙なものごとに出会ったときに、「まあいいか」とやり過ごさず、自分自身の内的ダイナミズムに基づいて、独自の思考を展開するための手がかりを提供すること、これが本書の目指すところである」と書いている。

我々にできることは温故知新(論語)だけだ。つまり「すでにあるものについてよく考え、自分自身のあり方を見つめ直すことで、新たな創発を起こすこと」であると。

しかしわれわれはしばしば良識の作動を失う。付和雷同する自動人形になる。
バブル経済やアジア太平洋戦争になだれこんだこと、はては産業革命以来の驚くべき経済発展を続ける人類全体も、付和雷同のうねりだ(と見ることもできよう)とされる。ii

「良識の作動を押し殺す正当化の屁理屈を振り回すことは、まぎれもない暴力である。」本来の常識に敵対するものが、「正当化の屁理屈」である。実は屁理屈にすぎないものが、「社会常識」として大きな顔をして世の中を支配して居たりする。「各人が自分自身の感覚に立ち戻り」さらに「各人の良識の作動を促すマネジメント」をすることができれば、どちらが屁理屈かは分かる。

以上が「はじめに」の最初の部分である。
「自分自身のあり方を見つめ直すことで、新たな創発を起こす」は、彼自身言うように古臭い徳目とも見える。しかし、効率や利潤というものを目指して、わたしたちの社会はむちゃくちゃになりつつあるのに、それに変わるべき価値を提示できていない。そうである以上「創発」という言葉が耳慣れないとか言っている場合ではないだろう。

第2章は、網野善彦の無縁論を扱う。
共同体=有縁/市場=無縁 といったふうに理解されがちであるが、それは(厳密には)違う。
「縁結び→←縁切り」というダイナミックな二つの行為を原理として取り出すことが大事なのだ。p51

アメリカの哲学者フィンガレットは「人間は魔法を使える」と言う。
「我々は日常生活のなかで魔法を頻繁に使っている。たとえば私が大学で歩いていると、向こうから学生がやってくる。向こうも私に気づく。私が笑顔で頭を下げると、学生も一緒に頭を下げて、そのまま無言で通り過ぎる。このとき私は、適切なタイミングで適切な頭を下げるしぐさをすることで、何らの強制力も使うことなく、学生の頭を下げさせることに成功している。」p56
複雑で微妙な操作をうまく組み合わせること、それはあえていえばそこに神秘性を込めることに成功することである。
この魔法は、儒教の「礼」を言い換えたものである。
このような魔法により、人は他人に依存して生きていくことができる。p58

こうした神秘的相互了解なしに、むりやり他人を動かそうとするのがハラスメントである。無縁の原理は、「魔法」がハラスメントに堕落するのを防止する機能を持っているということができる。

わたしたちの社会は、経済学をはじめとする「屁理屈」に厚く覆われている。だからそのことに気づくだけでも容易ではない。しかしこの本を読んで、再出発(船出)していくことはできるだろう。

経済学の船出(アマゾン) 中身検索あり

「どう考えても日本人の、国民の心を踏みにじるもの」

河村発言などによって「表現の不自由展・その後」が中止に追い込まれて、以降いろんな考察がでています。
小田原のどか氏による長い文章を読んでみます。「私たちは何を学べるのか?「表現の不自由展・その後」

問題の核心を、「中止に至った問題の諸相を単純に腑分けすれば、政府高官からの介入、市民による抗議、そして脅迫があると考えられる。」
「文化芸術基本法の理念に反する行為である。脅迫や、政治家による公金を理由にした介入などの暴力を決して許してはならない。しかし、河村たかし名古屋市長の来歴を見れば、《平和の少女像》を批判する発言が出てくることはごく「当然」なのである(*1)」
ととらえる。

☆ 河村名古屋市長は、政府高官ではない。
なぜそういう誤記をするのか。タブー意識が働いているのではないか?

☆ 河村市長が、慰安婦像を「どう考えても日本人の、国民の心を踏みにじるもの」として批判し、この発言を日本人の少なくない部分が肯定的に受け入れた。これが今回の事態の核心だと思われる。
保障されなければならない「表現の自由」なるものが侵された、と捉えるのは浅いのではないか?
行政の長に過ぎない河村氏が、「日本人の、国民の心」というのものに介入発言をしそれにかなり成功していること、これに対して、アートの人も「心」というフィールドにおいて、真正面から敵対していくことが必要だと思われる。

☆ 「《平和の少女像》に反感を抱く人々のなかには、像の建立と、政府間の慰安婦問題には直接的関係がないということを知らない人も多いのではないかと想像する。この構図を周知させることが、像への悪感情を和らげることにもつながるだろう。」
反感を抱く人は存在する。で反感に権利を認めるべきか。
私は権利はないと考える。そもそも「少女像への反感」は2015年安倍首相側からは「大きな汚点」と考えられた「謝罪」に対して、その謝罪の意味をごまかすために「大使館前少女像」に怒ってみせた、という政治的策動に端を発したものである。今回、河村市長が強い口調で断言的に怒ってみせた効果として、《平和の少女像》への反感が事後的に生まれたのである。
それに対して、「反感」というものを自然化し、あるいは「現状の展示場を見る限り、表現の問題ではなく政治の問題としてのみ焦点化されている印象が非常に強い」として作家〜展示者側の問題が気になってしまうのは、「少女像」をめぐる感受性の政治学の激動を完全にとらえそこなっていると思う。
そもそも、「少女像」が作られたのはソウル水曜デモが何十年も継続していることへの驚きからである。水曜デモは70年以上前の日本軍の暴虐に抗議しているのではない。河村発言を受け入れるような現代日本人の半端な被害者意識によって、自分たちの告発が聞き届けられないことへの抗議である。

☆「たとえ歴史認識のすりあわせが難しくとも、」:慰安婦問題については安倍氏も「当時の軍の関与の下に,多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題であり,かかる観点から,日本政府は責任を痛感している。」と認めている。この認識からは、少女像が「どう考えても日本人の、国民の心を踏みにじるもの」である、はでてこない。少なくとも私にはその理路が分からない。だから私はなん人もの人にそれを聞いて回ったが誰からも答えはなかった。
河村氏がいったいどのような歴史認識に立脚しているのか?それは小田原氏は確認している。「2007年、自民、民主両党の靖国派国会議員らが中心となり、米紙ワシントン・ポストへの意見広告「THE FACTS」を出した」それを読んだようだ。
河村氏はこうした認識に基づき、「どう考えても日本人の、国民の心を踏みにじるもの」という感受性領域に対する傲慢な介入をした。

☆ 「そしてまた、より普遍的に考えれば、女性の人権が踏みにじられた過去を真摯に省みて、二度と繰り返さないという点では対立を超えることができるはずだ。」
ここにあるのは「政治性」というものに囚われることは、対立の激化につながる。「政治性」というものを脱却していけば「対立を超えることができるはずだ」といった構図、であろう。
現在の問題ではなく過去の問題だと捉えれば、「対立を超えることができるはずだ」と考えたい。
しかし、水曜デモが27年間、ある意味で無駄に積み重ねられざるをえなかったのは、つまりキム・ソギョン/キム・ウンソンが連帯を捧げようとしたものは、過去の問題ではない。「THE FACTS」のような歴史修正主義言説を生み出してしまう心の弱さという現在性に対する戦いである、と私は理解する。
河村氏たちというものは現在、日本において膨大な存在感として存在している。したがって、「愚か者」「テロリスト予備軍」と断じるだけでは終わらせることはできない。
河村氏たちすらも包括しうるような広大な慈悲といった立場に、究極的には到達すべきなのかもしれない。しかし、アートの立場は宗教の立場ではない。あえていうならば、27年間の河村発言に到る「歴史修正主義」発言の総体に憎悪でもって肉薄することこそが、想像力の戦いとしてなされるべきことであろう。

☆ 「憎悪」「対立」「正義」といったものは、アートとは別の領域にあるべきものだ、という思い込みはアートの弱体化にしか繋がらない。

☆ 小田原氏は、広島、長崎の資料館での加害/被害展示のあり方についてなども、持続的に考えておられる。2つの原爆資料館、その「展示」が伝えるもの

☆ 小田原氏は、天皇が「一度おばあさん[元慰安婦]の手を握り云々」という、文喜相(ムン・ヒサン)韓国国会議長発言については、こう書いている。

これに対し日本政府は「不適切な部分がある」として謝罪と撤回を求めている。しかし政府は「不適切な部分」について、それが昭和天皇を戦争犯罪の主犯と呼んだことにあるのか、それとも上皇の謝罪を望んだことなのか、具体的には明らかにしていない。平成から令和に変わり「新しい時代」などとかまびすしいが、いったいどこに新しさなどあろうか。日韓のあいだには、変わらず深い溝が横たわっている。(北緯38度線の分断から見えるものとは何か?

静かだが、言うべきことは言い切っている。
今回の文章の河村発言については、明らかにトーンが変わっている。

真如とは

6世紀前半に中国で作られたらしい『大乗起信論』
これについてちょっとメモしておきたい、と思いながらできずにいた。なお、原文と書き下し文は下記にある。
大乗起信論

石井公成氏の『東アジア仏教史』によれば、インド仏教では、「心」は、揺れ動くものであり制御すべきものとされていた。(p96)

ところが、大乗起信論では、大乗とは「衆生心」(人々の心)にほかならないと断言してしまう。(岩波文庫p177)
(摩訶衍(大乗)とは) 所言(いわゆる)法とは、謂わく衆生心なり。

「本書では、「大乗」(摩訶衍)について「衆生の心がそのまま大乗である」と述べ、「一般平凡な衆生の心に仏性がある」という「如来蔵」思想を説き、「大乗起信」とは、これへの信仰を起こさせるという意味である。

本書は、いわゆる般若経などに説かれる自性清浄心と、いわばその発展思想である「如来蔵説」を述べ、これを「本覚」と呼んでいる。」ウィキペディアからごく一部引用してみた。

さて、大竹晋氏の『大乗起信論成立問題の研究―『大乗起信論』は漢文仏教文献からのパッチワーク』という分厚い本を読んでみた(一部)。図書館から借りて。

「真如」というのが、この本の中心概念、ほとんど万能的に振り回される概念である。
ところが、この概念の中身にかなり問題があるというのが大竹の指摘。(p448以下)

 インド仏教(唯識説)においては、それそれの諸法(もの)にそれぞれの(言語表現どおりの)自性があるわけではない。

あらゆる諸法が、さまざまな言語表現によって形容されるにせよ、言語表現は「仮設」である。つまり、言語表現どおりの自性(svabhava)はない。
むしろ、「あらゆる諸法には言語表現されえないこと、という自性があること」 そのことが、「真如」と呼ばれる。原語では、真如:tathata、そのとおりのまこと、である。
つまり、真如とは、あらゆる諸法に共通の属性である。

ところが、起信論では、「真如」は、神秘化、超強力化、実体化されてしまう。

起信論では、次のようになる。
 是の故に、一切の法は本より已来、言説の相を離れ、名字の相を離れ、心縁の相を離れ、畢竟平等にして、変異あることなく、破壊すべからず、唯だ是れ一心なり。故に真如と名づく。
「あらゆる諸法は、もともと、言語表現を特徴とするものをかけ離れており、
音素を特徴とするものをかけ離れており、心の所縁を特徴とするものをかけ離れている。絶対に一定であり、無変異であり、破壊できないものであり、ただ一つの心であるにすぎない。ゆえに真如とよばれる。」p449 岩波文庫p180
つまり「言語表現されえないから真如である」と説かれている。

 此の真如の体は、遣るべきものあることなし。一切の法は悉く皆真なるを以っての故なり。
 亦た立つべきものなし、一切の法は皆同じく如なるを以っての故なり。当に知るべし、一切の法は説くべからず、念ずべからざるが故に、名づけて真如となす。

「この真如という体は排除されるべきものを有しない。あらゆる諸法はいずれも真だからである。
さらに追加されるべきものを有しない。あらゆる諸法はいずれも如だからである。あらゆる諸法は説かれうるものでもないし、念ぜられうるものでもないがゆえに、真如と呼ばれると知るべきである。」p450
あらゆる諸法は、ダイレクトに真如となる。

まとめると、インド仏教では、あらゆる諸法に共通の属性が真如。
しかし、起信論では、あらゆる諸法が真如になってしまう。450

「あらゆる諸法の区別は「念」によってあるにすぎず、念を取り払ったならば、あらゆる諸法は一なる真如である。」

これを大竹は、次のようなたとえ話で語る。
身近な例で言うと
「インド仏教の唯識: 心という映画館において、心というスクリーンに、心という映写機が諸法という映画を映し出している。
その映画について、さまざまな言語表現を浴びせて騒ぐのが、念という愚かな観客。念をなくせば、安らかに鑑賞できるが、諸法という映画は終わらない。それが仏の心の状態である。

起信論: 心という映画館において、真如というスクリーンに、念という映写機が諸法という映画を映し出している。念をなくせば、諸法という映画は終わって、真如という純白のスクリーンだけになる。それが仏の心の状態である。(p451)

まとめると、インド仏教では、「あらゆる諸法には言語表現されえないこと、という自性があること」 そのことが、「真如」と呼ばれる。
『大乗起信論』では、あらゆるものは「言語表現されえないから真如である」となる。
これをもって、大竹はインド人作の原典が存在せず、中国人が撰述したものだろう、と結論する。

結局、真如なんてものをわたしがかみ砕いて理解できるはずもなく、大竹氏の本の(まずい)転写を行なうだけになってしまった。

2.大竹氏のもう一冊の本『宗祖に聞け』から、
後の時代の人が、「真如」をどんな風に使っていたか、ちらっと確認しておこう。
中国浄土宗・善導(ぜんどう、613-681)曰く。

真如(そのとおりのまこと)のありかたは満々としており、その性質上(むしけらのような)うごめく者どもの心を出たりせぬ。(略)
真如は、煩悩の垢に覆われている時も、煩悩の垢に覆われていない時も、含識(ごんしき・生きもの)のうちにあまねく行きわたっておる。ガンジス河の砂の数ほどの功徳は、はたらきを潜めたまま、含識(ごんしき)のうちにじっとしておる。ただ煩悩の垢という障(さまたげ)の覆いが深いから、清らかな本体(である真如)は輝きでるすべがないのじゃ。

大竹が口をはさむ、「真如はいずれも、あらゆる法(枠組み)の空性(からっぽさ)の別名です。あらゆる衆生に仏性があるにせよ、この娑婆世界において仏性を現わすことは難しいというお話ですね。」(p170)

親鸞もだいたい同じような感じ。真如は輝かしいものだが実際には閉ざされているという感じのようだ。上の問題意識からいうと、インド哲学の範囲内か。

真如について、雰囲気だけ味わってみた。

梅原猛についての走り書き

『ユリイカ 梅原猛』というのを買った。最近日本古代を(簡単に)理解したいと思っているので。
梅原猛(うめはらたけし、1925年-2019年1月12日))(吉本の1年下)

出雲について

出雲は戦後長い間、古代の実在的勢力としては重視されていなかった。
「大和と出雲を結ぶものは実は宇宙軸であり、つまり大和から見て出雲が西の果にあって日の没する方位を代表していたことが出雲をして神話的に重からしめるゆえんであった。p99」と西郷信綱も書いていた。

「1984年に荒神谷遺跡から358本の銅剣が見つかり、翌年には6個の銅鐸と16本の銅矛が出土した。1996年には加茂岩倉遺跡から銅鐸39個が掘り出された。そして2000年、出雲大社の地下から巨大な柱が出土して」
「20年足らずの間に、直線で20キロも離れていない狭い地域で相次いだ3つの大発見によって、古代日本列島における出雲に対する認識はすっかり変わる」p103(べきであった)

梅原は「出雲を舞台にした「天の下造らしし大神」の話は、全くの虚構ではないかのか」と書いていた。p98
上記の発見から10年以上遅れて、2010年『葬られた王朝 古代出雲の謎を解く』で梅原は旧説を撤回した。p102
(研究者でも、出雲の実態的勢力はなかった説を墨守する人もまだいるらしい。)

鎌倉新仏教中心主義

戦後日本思想史では親鸞が重視される。「自己の罪悪を反省し、阿弥陀如来の絶対他力を確信し、その信仰のもと安心を享受するという内面のドラマ」p224(参照:子安)に注目する。要はプロテスタント的宗教に近づけた理解ということのようだ。
(鎌倉新仏教だけを強調する理解:「鎌倉時代以降を「封建制」と理解し、日本は東アジア諸国と違って「封建制」に到達したから近代化の道に進むことができたという「脱亜論」の変形である。p56)

それに対して、「自然は人間のように、生き、物言う世界」と信じる日本の神道と最も密接に結びつき定着した真言密教(p222)、そして天台(本覚論)を強調したのが初期梅原。
「密教が生み出した信仰である観音崇拝や不動崇拝は広く民衆の間に広がった。」p56

日本文化論

鈴木大拙や和辻哲郎、彼らの作り上げた日本文化論を 戦後継承することはできない。p55 として激しく批判するところから梅原の評論活動は始まった。
「現在では、鈴木も和辻もなかば忘れられているが」と保立はあっさり書く。
しかし、アカデミズムの側のそのむとんちゃくな忘却が、大衆に対して何重にも劣化した「日本主義」、日本会議系の、蔓延を許ししてしまったのではないのか?

和辻:国民精神文化研究所 戦後はそれについて口をぬぐった
和辻『尊王思想とその伝統』
1,祀る神としての天皇
2,その背後にいる 祀って祀られる皇祖神
3,風雨の神のような 祀られるだけの神
4,祀られるだけの 祟り神 p58

世界全部につながっちゃう

これまでの日本人が国粋的な意味で日本のオリジナルだと思っていたものが、実はもっと広い「古代世界」とつながっていて、聖徳太子をズルズルたどっていくとキリスト教につながり、世界全部につながっちゃうというように、日本というものが大きく底のほうで「世界」に開かれている p251

という普遍性を語るのが、梅原の仕事だった。

梅原は〈辺境〉に共感を持った。
〈辺境〉を糾合して普遍化し、人類思想のメインラインに位置づけようとした。p254
そして、それを大衆にわかり易い物語として語りきった。

歴史に血と肉が与えられて

山岸:ああ、すごいですねえ。本当に先生のお話を伺っていると、歴史に血と肉が与えられて生命が吹きこまれるという感じですね。(略)歴史の先生はというと、どうしても年号を並べて二言目には「かもしれません」ばかりおっしゃるでしょう。私、これが残念でしかたないんです。梅原先生のように、とても明快で歴史が生身で立ち上がってくるようにお話してくださると…。
梅原:それを言いすぎるから、ぼくは嫌われるんだ(笑)。
山岸:いえいえ。でも、それだけに影響力がすごくて、私は本当に怖くて(笑)。
『日出処の天子 3』白泉社文庫 解説・対談より

平成と令和の間に開いた想定外の〈解放空間〉

釜ヶ崎のあいりん労働福祉センターが3月31日で閉鎖されることになっており、午後6時ごろシャッターを閉め始めましたが、多くの人が集まって抗議したため、閉められませんでした。(JR新今宮すぐ南)
私は野次馬として31日午後4時から11時頃までセンターにいました。

6日後の現在も「センターは西成労働福祉センターの管理から外れ、それ以降は管理者不在状態」のまま、夜も昼もシャッター(大部分)開いています。
「電気は止まっているので、センター1階は昼間も暗いままだが、夜中もなかまたちの泊まり込み体制による自主管理が続いている。」

下記のようなイベントも予定されているので、
平成と令和の間に開いた、想定外の〈解放空間〉を一度訪問されたら、いかがでしょうか?

4月7日(日)14時から『泥ウソとテント村-東大・山形大 廃寮反対闘争記』
4月8日(月)18時から「イタリア報告会 社会センターとsquatなどなど」(たぶん行きたい)
4月9日(火)18時から『月夜釜合戦』

4月6日(土)12時から 三角公園

参考ブログなど 3つ
・・《速報》閉鎖されたはずの西成あいりん総合センターで今、何が起きているか?
http://www.rokusaisha.com/wp/?cat=57
尾崎美代子 https://twitter.com/hanamama58 さんの記事

・・リアル『月夜釜合戦』エピソード2に出演できます
http://attackoto.blog9.fc2.com/blog-entry-454.html

・・あいりん総合センター周辺で配布されていたビラ3枚。(陸奥賢)

朝日新聞記事
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日雇い労働者の街、大阪市西成区のあいりん地区にある「あいりん総合センター」(13階建て)の労働施設フロア(1~4階)が31日、閉鎖の日を迎えた。1階に労働者が仕事を求めて集まる「寄せ場」がある地区の中核施設だが、耐震性の問題で現地で建て替えられる。併設する病院施設(5~8階)の移転後に建物全体を取り壊し、新しい労働施設は6年後に完成する予定。
 この日は閉鎖に反対するグループが1階の寄せ場で午後5時から炊き出しを実施。閉鎖時間の午後6時ごろ、シャッターの下で座り込んだ。一時、100人を超える人たちが集まり、夜遅くまで「シャッターを閉めるな」などと抗議を続けた。

 センターは、国や大阪府などがJR新今宮駅南側に1970年に建てた。3階のフロアは仕事がない人たちの日中の居場所にもなっており、閉鎖に反対する裁判も起きている。入居していた職業安定所や西成労働福祉センターはすでに仮移転。寄せ場も1日から同じ場所へ移る。

 夜間に缶拾いをして日中、センター3階で過ごしてきた男性(76)は「ここがなくなると行く所がない」とこぼした。毎日、1階寄せ場で仕事を探してきた日雇い労働者の男性(60)は「閉鎖は残念だけれど、すでに決まったことだからしょうがない」と話した。(村上潤治、高橋大作)朝日新聞——————-
(以上)

異なり記念日 感想

『異なり記念日』齋藤陽道 医学書院 という奇妙な題の本を読んだ。
ろう者である写真家が自分と家族のことを語ったエッセイ、といったもの。わたしたちは書記言語より先に音声言語(聞く・話す)に出会うわけだが、聞くことが困難である人たちがろう者だ。作者齋藤陽道は、自分たちのことをこう書く。「男の写真家は聴者の家庭で育ち、日本語に近づく教育を受けました(本格的に日本手話を使い始めたのは16歳のときです)。
女の写真家はろう者の家庭で育ち、生まれたときから日本手話で語り、聞きました。」
日本語(音声語)。
電話:「もしもし」「はるみちだよ」「どうしたの?」「これから帰るよ」「気をつけて帰ってきてね」・・・
あまりにも当たり前の日常会話だから特に活字にしたりすることもないやりとりだ。しかしろう者の陽道にとっては、電話でこうしたさりげないやり取りをすることは、大きな困難を乗り越えないとできないことであり、大変な憧れだった。
そして、彼は実際にそうした会話をしたわけではないのだという。「ガラス越しに見ている同級生たちに対する見栄としての、電話ができるフリだった。p125」
日本語は分かっている、しかし聴く・話す機能の一部にかなりの困難があるがために、この程度のことでもわざわざ「フィクション」としてしか実現できない。いや「この程度のこと」ではないのだ。
「ごくふつうに「聞こえる人」のように伝わり和えたというやりとりのなめらかさ」「そんななめらかな会話ができたときには(略)内心では痺れるくらいの喜びに満ちていた。p126」
これは、音声の感度も高度化した灰色のデジタル公衆電話がでてきた頃の話。その後、FAXができ、高校1年のころには、携帯電話でショートメールができるようになる。
高校三年のときには8〜10円で千文字ほどのメールを送れるサービス、その長文メールを一日に何通も書いていた。彼の喜びは想像することができる。彼の日本語に対する特殊な障害を乗り越え、友達と同じようにコミュニケーションできる喜び。
特異なこともない日常に向き合い一冊の本になるほど文字を紡ぎ出すこと、いままでの文学青年とまったく違った回路をたどり、彼は日本語と表現活動にたどりついているのだ。

言葉を身につけてしまった我々はどうしても言葉で考え言葉で伝えようとする。
ただ、コミュニケーションのためにはそれとは少し違ったやり方もあるのだ。
ろう者と自閉症者のコミュニケーション。
「まなみ(ろう者)が一言も音声を発さずに、身振り(でもおそらくそれはただの身振りではない。表情やちょっとした空間の揺らぎにも意味を含める手話言語のニュアンスを織り交ぜた身振りであって、メッセージがより明快に読み取れるものであることが予想できる)で語りかけた」
「その子の(想像だけど)「せっかちで落ち着きがない」動作から、目線やしぐさ、指先の震え、一瞬の表情といったものすべてを無意識に「ことば」として受け止めていたからこそ」
ろう者と自閉症者。辞書的言語以外の領域で語らざるをえない人同士といえるのかどうか、かれらの間ではコミュニケーションが成立した。

日本語(書記言語と音声言語)によって世界は、どんなわずかな隙間さえ無いほど、語りつけされ埋め尽くされているかのように感じられる。しかしほんとうはまったくそのようなことはないのだ。
この本は若い夫婦が子供という他者とどう出会うかという話でもある。子供はいつも言葉なしに生まれてくる。そして親たちとの圧倒的な接触のなかで言葉も身につけていく。この夫婦の場合は、両親は聞こえないというハンディを持ち、子供は(たぶん)持たない。それでも子供は親から言葉を学んでいく。その体験を作者は〈異なり〉の体験として書き留める。子供がはじめて音楽というものを知り嬉しそうに報告してくれる。作者は思わず「おとーさん、音楽、わからない。わからないんだよね。」と返してしまう。
〈異なり〉の体験は、辛いものではある。しかし、生きることの豊かさと繋がってもいるのだ。

わたしたちは〈ろう者〉と無縁に、これからも生きていくかもしれない。しかし、この本を読むことで、言葉の、生きることの豊かさに触れるきっかけに出会うことができるかもしれない。