3/25 思うにウーマンリブの人たちは

中道右派 中道右派 『

>思うにウーマンリブの人たちは1972、3年に自己を確立することができたが、世間を自分の価値観に少し近づけるためにその後30年掛かった。

>この方程式でいくと、「慰安婦」の人たちは1991年にカムアウトすることができたので、後15年経てば世間は彼女たちの名誉回復に同意することになる。

カムアウトしたのは、日本側の運動家が、慰安婦を探し出して、日本に賠償請求しようとたきつけたからですね。田原総一郎氏ですら、それは認めています。

韓国の世間は既に日本への謝罪賠償請求に同意して一体化していますが、日本の世間は売春婦を性奴隷と捏造したことには同意できないと考える割合が日に日に増え、むしろ毀損された日本の名誉を回復しなければと考え出しています。女権伸長と同様に、名誉権感覚や法感覚も伸長しています。行為当時に不道徳ではあっても犯罪ではない行為を、現代の価値観から過去に遡及して犯罪として糾弾処罰することに違和感を覚える人たちが増えています。宮台真司氏、宮崎哲弥氏、つかこうへい氏ら、かつては性奴隷派に近い意見を持っていた人々も、売春婦派に続々転向しています。野原さんも転向しませんか?』

poppo-x poppo-x 『>行為当時に不道徳ではあっても犯罪ではない行為を、現代の価値観から過去に遡及して犯罪として糾弾処罰することに違和感を覚える人たちが増えています。

意味不明。「犯罪として糾弾処罰する」→これは刑事事件として立件しようとしているという意味か?ならば、「不道徳ではあっても犯罪ではない行為」について「刑事訴追」(刑法・刑事訴訟上の)を行おうとしている実例を例示しなければ成り立たない論である。

いわゆる「従軍慰安婦」問題を、「民事事件」(損害賠償・謝罪表明請求)ではなく「刑事事件」として訴えている実例があったら知りたいものだ。』

海老蔵中道右派 海老蔵中道右派 『>意味不明。「犯罪として糾弾処罰する」→これは刑事事件として立件しようとしているという意味か?

惜しいですね。少しだけ法的思考ができるようになりましたが、まだ未熟です。

日本の国家犯罪であり国家不法行為でもあるというのが、謝罪賠償を求めている勢力のロジックを正確に説明したものです。彼らはいつも、訴訟の場は別として、対マスコミでは扇情効果を狙ってか、これは日本の国家犯罪であると主張して論を進めるので、その後に続くと予想される(かつ国家不法行為である)という主張も含むものとしてコメントしております。

>「不道徳ではあっても犯罪ではない行為」について「刑事訴追」(刑法・刑事訴訟上の)を行おうとしている実例を例示しなければ成り立たない論である。

>いわゆる「従軍慰安婦」問題を、「民事事件」(損害賠償・謝罪表明請求)ではなく「刑事事件」として訴えている実例があったら知りたいものだ。

それ以前のコメントが思い込みから来る間違えた仮説なので、これらのコメントに答える必要もありませんが、説明してあげましょう。

日本国内では、刑事訴追権は検察官が独占しているので、被害者などは告訴告発するしかありません。している実例もあったかもしれませんが、していても警察官・検察官がそれに応じて捜査・起訴することは恐らく無かったでしょう。』

海老蔵中道右派 海老蔵中道右派 『慰安婦問題について、謝罪賠償を請求している勢力は、法的には国家不法行為責任の追及としての謝罪賠償を求めることにより、政治的には国家犯罪責任の追及(法的には不法行為責任追及よりも無理筋だから?)としての謝罪賠償(政治的懲罰としての?)を求めているというのが、実態の把握としては正しいのではないでしょうか。』

poppo-x poppo-x 『結論:いわゆる従軍慰安婦問題を「刑事事件」として訴えた事例は皆無、ということでよろしいか?ならば単純にそのように返答すればいいだけの話。

質問された要点だけを的確に答えればよろしい。余計な能書きは不要だ。』

noharra noharra 『>>>カムアウトしたのは、日本側の運動家が、慰安婦を探し出して、日本に賠償請求しようとたきつけたからですね。<<<

ソースは?』

ebizoh ebizoh 『海老蔵中道右派です。

以下がソースですよ。

だから田原総一郎氏すらそのことを認めているのです。

>>>>>毎日新聞’93年(平成5)9月9日毎日「記者の目」より

’89年(平成元年)末、ある日本人女性(青柳敦子)が在日韓国人男性とともに毎日新聞ソウル支局を訪れ、

「韓国人の戦争犠牲者(具体的には慰安婦)を探している。韓国側から日本政府に謝罪と賠償を行わせる裁判を起こしたい。韓国人犠牲者を原告にしたい」

と言った。その女性は『朝鮮と朝鮮人に公式謝罪を・百人委員会』の事務局員だった。

先ず、日本政府相手に訴訟を起こすアイデアがあり、それにあわせて「原告探し」が行われたわけだ。

歴史の発掘という努力はともかく『原告を探す』という発想には正直驚いた。<<<<<』

noharra noharra 『エビゾーさま

ああそうなんですか。青柳敦子という方がいらっしゃるのですね。いくつぐらいの方かしら。

>>田原総一郎氏すらそのことを認めているのです。

田原総一郎の顔くらい私でも知ってますが、“証拠出せゲーム”やインテリとしての力量までは知らないので、「田原総一郎氏すら」と言われてもよく分かりません。』

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20070325

中道右派 『>http://blog.livedoor.jp/f_117/archives/15366370.html

一応ネット上のソースはこれです。

元リンクは切れてますが、多数のブログで引用されていたので、内容はそのとおりだと思います。

上記コメントは、請求ではなく、正確には請求発言でした。

詳しいも何も、これが経緯なんですが。

ここでちょっと脱線すると、これを読むと、彼は個人の請求権放棄という締約当時の公式解釈を前提に話していることが分かりますね。一体、今の韓国の公式解釈はどっちなんだろう?あなたと同様、国家による個人の請求権放棄に同情してもいる。日本が法的責任は果たしたことも分かっている。そして、人類社会の普遍的倫理に従って日本に賠償して欲しいと言っているのですかね。私の考えでは道徳的責任はアジア女性基金が該当するんですが・・・

しかし、ここで私はハタと気づきました。日本でもアメリカでも法的責任追及は封じられている。でも韓国だったらどうなの?確か、外交交渉文書では、日本が調査して個人に個別に賠償したいといったのを、韓国側は韓国政府があとでそれをするから政府に全部くれといったはず。韓国法の内容次第では、今からでも法的賠償は韓国政府ができるんでないの?これ、日本政府が条約交渉文書と韓国国内の諸法規をアメリカのローファームに持ち込めば、リーガルオピニオン書いてもらえるんじゃない?それを下院の決議の過程で持ち込めば、慰安婦の実質的救済になるんじゃないの?オランダ政府との間はどうなってるか知らないけど。』

ノーモア 『石原長官の証言ですか。まあ証言だけで裏付けがないので信用できません=証拠が無いと言ったらいかがでしょうか(笑)

さて経緯についてですが河野談話をきちんと踏襲しているのかと疑わせる与党幹部・閣僚発言を御紹介しましょう。

http://www.bekkoame.ne.jp/~yamadan/mondai/rmal7/react402.html

これ以降も「日本の前途と歴史教育を考える(若手)議員の会」などは河野発言を堂々と否定してきましたし、98年には中川昭一農水相の否定発言もありました。河野談話は日本の政界でどれだけの重みを持っていたのか、持たされていたのか。外交信義違反というなら10年以上も前に為された談話を与党・政府内に浸透させることがなぜ日本側でネグレクトされ続けたのかも問われなければならないと思いますがいかがでしょうか。実際にこういうことが続いたので世界的にも「謝罪を曖昧にする国」というイメージが定着したわけでしょう。私は日本がそれほど誠意を持って河野談話を扱ってきたとは思いませんし、一方的に相手を非難できる資格があるとは思えませんが。というかですね。ノムヒョン氏の演説以降初めて「外交信義違反だ」ということで河野談話否定論が語られ始めたというのは、時系列でいっても因果関係で言ってもおかしな話だと思います。

>確か、外交交渉文書では、日本が調査して個人に個別に賠償したいといったのを、韓国側は韓国政府があとでそれをするから政府に全部くれといったはず。

そうなんですか?これは僕の認識とは大きく違いますね。日本は日韓条約を巡る交渉において徹底して「賠償」という言葉を避けました。大平外相は「韓国独立のお祝い金」とまで言っています。とすれば日本が政府にはしないが個人に対しては賠償したいと言い出したというのは非常に考えにくい。また日韓交渉では従軍慰安婦問題は考慮されていなかったことはあなたもお認めになったはずです。』

ノーモア 『いや、少しミスリードですね。「とすれば日本が政府にはしないが個人に対しては賠償したいと言い出したというのは非常に考えにくい。」というのは「本気で」という意味です。交渉は当初「金払え」という韓国側と「一切払わない」という日本側が鋭く対立していました。個人の対日債権の清算に関しても日本側は極めて厳しい立証責任を韓国側に課していたからです。』

神道の男女平等論

戦争中教師が小学生全員を神社に引率していったが、数人の五,六年生だけが鳥居の外に残された、というようなことはよくあったらしい。つまり「生理の血」を<穢れ(けがれ)>としてその時には神社に入ることすらできない。「晴れやらぬ身の浮雲のたなびきてつきの障りとなるぞ悲しき」という和泉式部の和歌があるそうだ。<血の穢れ>観にもとずく差別は確かに存在した。しかし、と菅田氏は言う。わが国の固有信仰には太古は、本来はこうした不浄視は存在しなかった、はずだと。*1その主張のために、経血染めの例を挙げているというわけである。

 ところで、男尊女卑の儒教に対し神道は男女平等なんだと主張している文章があったので引用してみよう。増穂残口(のこぐち)(1655~1717)の「神路手引草」*2。凡俗に分かりやすい通俗神道を説いたらしい。

「我神化陰陽和合と祝ぐは、男女一双にして、高下尊卑なし。然るに女は男の奴(やっこ)の如く、何事も男にしたがふはずと思ふは、支那の礼格に迷いて、わが国の道をうしないたるなり。是男の意地賤しきより、己が権を高ふして、女を随えんとする法を、是ともてはやすに至り、夫婦別有の格、去すつるに七つ、去らざるの三つなんどの、人作の支那物語をもって、無理おしに女をないがしろにする。いつしか国俗それを好(よみ)して、国神の化にそむくともしらず。

 そもそも人は一箇の小天地なり。天のみさかえ地のみはびこりて、立つべきいわれなし。天は覆い、地は載せてそむかず、一方不順ならば万物成就する事なし。男女の中に一毛も高下尊卑を論じ、私意邪僻有りて、天徳の覆いのみほこりて、地載の功をうしなはば、いかんぞ温淳の子孫を生ずべけんや。我が国神の天七地五は唯その事のみ*3、一貫の通理は言語に絶えたり。秘とすべからず。」

 「我が国、我が国」とか高唱するのは嫌いなのだが、日本にもそれなりに想起すべき伝統はいっぱいあった、という例として(苦労して)打ってみました。300年前にしてはわりとちゃんとした平等論だと思うが如何?

*1:同書p153

*2:p214『近世神道論・前期国学』 岩波 日本思想体系

*3:わが国の神に天神七代地神五代があり、天神地神あって国土が生成し、万民生育しているのは、天地陰陽を平等に尊ぶことを示したもので、我国では天地の等しい如く、男女は平等であるの意。上記本の註より

停電する自由

 昨日夜中パソコンしてると突然パソコンが切れた。停電である。だが街路や回りの家の電気はついている。ウチだけヒューズが飛んだのだ。(なぜか理由をさぐらないといけないがここではしない。*1)12時過ぎだったからしばらく暗闇でうろうろしてから蒲団に入り眠った。それまで十数分、色々なことを思った。わたしたちは何かしようとするときいつもまず手近のスイッチを押してから考える癖が付いている。だがいくらスイッチを押そうが何も反応しないのだ。電気に頼り切った生活に今さらながら気付く。できることはなにか。触覚だけでなく聴覚も残っている。そう言えば、地震の直後暗闇で小さな音楽会とかなかったのであろうか。(六甲大地震’95のことだ。)あの時は食糧もなくパニくっていたのでそんな企画はなかったようだ。あったら素晴らしかっただろうに。あの時月が綺麗だったのは覚えている。あの時は電気だけでなくガスも水道も止まった。イラクでも何処でも停電の多い国は多いが日本はあまりない。私たちの生活とはなんだろう。なぜパソコンで文章を打つのに手書きでは書けないのだろう。わたしの自由とはなんだろう。わたしは停電する自由しか、断食する自由しか与えられていないのに、その自由に気付いていないのではないか。

 ちなみに引用しようとして消えてしまった立岩氏の言葉。「存在のための手段によって私という存在が規定されてはたまらない。」*2

*1:ウチは中古住宅でどういうわけか、ヒューズとブレーカーが二重にある。翌朝すぐとりあえずつないだ、いまからヒューズを買いに行く。

*2:p128『自由の平等』

絶対零度な闇

いっさいの忘却。存在の夜の底への深い降下。無知の発する限りない嘆願。不安の河に溺れること。深淵の上の方を滑ってゆくこと。そして、完全無欠な暗闇の中で、深淵の恐怖を味わうこと。孤独の寒さの中で、人間の永劫の沈黙の中で、戦慄し、絶望すること。……私は神をもはや知らない。*1

暗きより暗き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月〔拾遺1342〕

(和泉式部)

和泉式部とバタイユの間にはちょっと見、類似があるように思える。即ち、暗闇と絶望。でもやっぱり全然違いますね。和泉式部の場合、闇には湿度と温度があり切り裂かれた絶望につり合うだけの暗黙のアニミズムがあり、後半の救済を用意している。バタイユはただの暗闇ではなく完全無欠な暗闇を体験し打ちのめされ絶対的絶望におちいる。

*1:p89『内的体験』

日本にとって一番大事なこと

 1937年7月8日北京郊外の廬溝橋で銃撃戦があった。7月11日午後8時停戦協定が成った。ではなぜ、日本軍は8年間も中国大陸全体に兵を展開し続けたのだろう?「中国軍は弱すぎてとうてい日本の敵ではない、廬溝橋で事件が起こったそうだが、ちょいとおどしてこらしめてやるか、華北一帯を完全に日本の支配化におくという年来の希望を達成するいい機会だ、という程度の」決意をもって、北支出兵を決定した。それだけなら良かった。中国軍が弱いというのはおおむね嘘ではない。それから8年の間、兵を退く(停戦する)機会がなかったわけではない。だが一度も退却は選択されなかった。

 どういう条件になったら止める、という条件を明確にせずに兵を出兵させることが最悪のことである。この反省は日本人にとって最低限の、だが決定的に重要な反省である。

 「イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法」はこの反省に基づいて作られている。

2条3項 対応措置については、我が国領域及び現に戦闘行為(国際的な武力紛争の一環として行われる人を殺傷し又は物を破壊する行為をいう。以下同じ。)が行われておらず、かつ、そこで実施される活動の期間を通じて戦闘行為が行われることがないと認められる次に掲げる地域において実施するものとする。

8条5項 対応措置のうち公海若しくはその上空又は外国の領域における活動の実施を命ぜられた自衛隊の部隊等の長又はその指定する者は、当該活動を実施している場所の近傍において、戦闘行為が行われるに至った場合又は付近の状況等に照らして戦闘行為が行われることが予測される場合には、当該活動の実施を一時休止し又は避難するなどして当該戦闘行為による危険を回避しつつ、前項の規定による措置を待つものとする。

8条4項 防衛庁長官は、実施区域の全部又は一部がこの法律又は基本計画に定められた要件を満たさないものとなった場合には、速やかに、その指定を変更し、又はそこで実施されている活動の中断を命じなければならない。

 現在自衛隊はひきこもっている。8条5項に該当すると思う。サマワ周辺は非戦闘地域でなくなったと思う。もう少し危険に成らなければそこまでは言えないとする判断もありうる。だが<日本で一番大事なこと>は「客観的にみてある条件を満たさなくなったときは兵を退く!」という一点にある。いかに困難であろうとその決断を貫くことが、戦死者たちから委託された神聖な任務なのだ。

誤情報の流布(5/2 20時7分追加)

誤情報の流布に加担してしまった。反省しおわびします。

(1)あるMLで、5/1 20時40分に流れたもの。

イラクでの米軍による虐待・性虐待の画像が公開されています。かなり酷いものです。

http://www.albasrah.net/images/iraqi-pow/iraqi-pow

(2)上記を5/2朝8時頃このダイアリーに貼る。野原はその後外出。

(3)同じMLで、どすのメッキーさんからの下記の指摘有り。(9時25分)

「 虐待は事実ですが、映像は、誤情報が流布されているようです。 上記は、最近のイラク情勢とは関係のない、レイプ画像は軍服を着て撮ったポルノサイトの写真で、軍服がイラク駐留米軍のものではない、日付がおかしいとの指摘がされているようです。」

(4)野原帰宅後上記メールを読み、日記の記事に

「誤り情報が混じっているとの指摘あり。」という文言を追加。19時ごろ。

(5)「イラク人への米英兵による虐待(訂正後)(5/2 19時43分)」

に差し替える。

他に、下記掲示板も参考にした。

http://awn.ath.cx/cgi/bbs2/light.cgi

(6)「訂正前」の野原発言の結論は下記。

“「すべての戦争に反対する」というスローガンはあまり好きじゃあなかったが、わざわざイラクへ行って確認したらこういうものだった、ということで帰ってきたらよかろう。”

この文章を訂正するとすれば、

“「すべての戦争に反対する」というスローガンはあまり好きじゃあなかったが、イラク戦争に続く占領については少なくとも現在イラク人の為のものにはなっていないようだ。日本の自衛隊はわざわざイラクへ行っているのだから、ファルージャにおける市民への攻撃の無法性や監獄での虐待の真相を早急に確認してほしい。それらが実際「イラク人のため」という目的によって合理化できるものかどうか?できないなら直ちに帰ってきたらよかろう。”

男子を購買するの自由

「資本家階級の女子が堂々として待合いに出入りし以て、吾人男子階級の者を快楽の犠牲として取り扱いつつあることの完き自由なる」

(北一輝『国体論及ぶ純正社会主義』みすず第一巻)

不正に貫かれた単一支配

「彼らは、この運動を制御するのではなくて、この運動によって制御されているのである。」マルクス*1

商品に価値がある、そのことが主体にとってあたりまえとして受け止められることをマルクスは批判する。ある前提を受け入れることによって不定型なわたしは主体になる、そしてそれ以後わたしは何かを制御できる主体で有り続け、わたしがなにかメタレベルによって作られたものだということはわたしの認識の外部にありわたしににはたどり着けないことになる。

 崎山氏の本の最後の部分を引用しておきます。

 それは、不正に貫かれた資本制の単一支配に敗北するべき「理由」は、わたしたちの内在的な可能性のなかには一つとしてない、ということだ。

 多数性・多様性にみちた、いくつもの世界のつながりによって、地獄でしかないこの単一支配の世界さえも、はじめて存在しうる。そして多数で多様ないくつもの世界は資本の所有物ではけっしてない。それはわたしたちが生きる場であり、人びとの生を支えるそれらの世界をアタリマエに希求するわたしたちが打ち倒されることは、絶対にありえない。

 さまざまな世界を人びとのつながりあいのなかで信じ、わたしたちの生きる世界に変えつづけていくこと。わたしたちに必要なものは、この単純な真理なのである。

「世界を、不正な=単一支配」と呼ぶことにはわたしは賛成したくないという思いをずっと持っていました。それを天皇制と呼ぼうと資本主義と呼ぼうと。ただ今までのマルクス主義者と崎山氏との間には微妙だが大事な差異があるようにも感じる。世界を不正と名指しながら、「わたしたち=正義」という逆像を成立させることを避けようとし、それにまあ成功しつつあるという差異が。

*1:p35『資本』崎山政毅から孫引き isbn:4000270087

家族なしには主体になれない(2)

http://d.hatena.ne.jp/strictk/20040923

はてなダイアリー – strictkの日記 で、野原9/23に触れていただいた。

以下長くなったが、応答というより言い訳です。

☆☆ はじめに

strictkさんの全体のタイトルが「家族以外にも子供を育てる自由を。」である。このタイトルだけを読んでわたしは私の偏狭な性格を少し反省した。そのスローガンに野原は異議がないし、strictkさんもhippieさんもそうだろう。同意できる点を確認もせず違和感だけ提出しても、議論は実り少ないと。

今回の議論の出発点は、二つ在り、Aは自由民主党の一部の「現憲法24条は、家族や共同体の価値を重視する観点から見直すべきである。(cf野原0706)」という意見、(E)は皇太子発言である。(hippieさんは後者には触れていない。)

Aに反対する主張が、B「憲法24条の改悪を許さない共同アピール」である。http://www.geocities.jp/herasou/kaeru/whatsnew/wn_20040707_stop.html

A改憲派:B護憲派(人権派)という構図である。それに対し、hippieさんは、C「護憲」というスローガンは既得権防衛的であり社会変革(それは当然少数派が多数派を説得することだ)に繋がらないのではないか、とする。わたしはこのことに強く賛成したい。hippie氏は、性別二元論に反対する(男/女二つのカテゴリーのどちらかに帰属していないと存在とは認めないとする社会的強制、と理解してよろしいか?)。それはもっともだ。

「「結婚した男女二人で構成する家族」を社会の基本に据えるという事自体がそもそも間違っている」というhippie氏の文章にもわたしは半分以上賛成だ。家族を国家(を形成すべき社会)の構成要素としてみるという家族観にわたしは反対しているからだ。家族を、ロマンティックラブイデオロギーや近代家族に還元するフェミニズム風家族観にもわたしは反対する。hippieさんの立場はフェミニズムから進化した(?)ホモ(バイ)セクシュアルあるいはクイアー風のものなのだろうがその差異はここでは取り上げない。野原(わたしたち)はアンティゴネーを証人に立て、家族は国家より古いと主張する。

「子供は愛の結晶ではありません。不定形で不安定な他者です。」ということで、野原は何を言いたいのか?「結婚しない自由」は「欲望し主張する主体というもの」を無意識のうちに前提としている。ここで、「欲望し主張する主体」は「家族」を通してしか生成できないと仮にするならば、わたしたちは出口のないループに閉じこめられることになる。即ち1)家族が否定されるべきものであり、2)家族以外はわたしたちを産みだしえない、という矛盾。ここで野原は岡野氏の発想を借り、わたしたちを産みだすものを<家族>と呼ぶ(つまり現在の家族以外に拡大された色々な形態を含む)。そのことにより2)の命題を強く肯定することにより1)を否定する(<家族>を肯定する)ことになった。

(1)

 介護保険導入時の論争に見られた、家族による介護か家族外による(を含めた)介護か、という論争の布置を子育てに応用し、その前者に野原を位置づけておられるようだ、strictkさんは。残念ながらそれは見当違いである。この点について、野原は後者の側に立っている。

 strictkさんは、高齢者の介護の問題についてはどうか、という問題を投げかける。「痴呆の高齢者は、秩序を理解できなくなり、忘れてしまい、混沌状態へ向かっていきます。」介護を家庭内でのみ行うことと、その混沌を家族の外部の人間と共に分かち合うというプランとが対比される。そして、「ここで、重要なのは、家族の中のみでのひととひととの結びつきと、家族以外との結びつきに優劣の判断をつけるべきではない、ということです。」が強調される。 そして、「子供という混沌を家族が抱えきれない場合、子供は家族以外を含むひととひととの結びつきにより育てられるべきでしょう。そのとき、家族のみのひととひととの結びつきで育てられることと、優劣をつけるべきではありません。確かに、子供を家族のみのひととひととの結びつきで育てる自由は認めるべきです。が、そうでない結びつきで育てる自由も認めるべきだと思います。」と結論される。以上すべてに野原は異論はない。

 野原は「子育てには婚姻(血縁)を前提にした家族が必要だ」、という主張はしていない。したがってstrictk9/23は野原9/23への反論にはなっていない。独立して読めば条理の整った良い文章である。

 野原が「それでも、子供を育てるという状況には家族は必要だと主張します。」と言っても良いだろう。だが、わたしが言っているのはカッコ「 」のついた「家族」であり、血縁を前提とした家族ではない。「家族」とはstrictkさんが高齢者介護について丁寧に説明してくれたような外部介護者との関係を含む。場合によっては外部介護者たちだけのネットワークでもよい。

前回「(2)「家族」の「 」について」という章を設けて説明したつもりだったが、説明が下手だったようだ。

岡野氏は「そのプロセス(欲望と言葉を獲得する)を見守ってくれる、すでに自分の欲望を言葉で分節化できる他者」に依存するという関係、を強調している。 即ちそれを、「家族」と呼んでいるのだ。*1それは当然ながら現在法的に家族と認められている関係である場合もあるだろうが、そうでない場合もある。具体的には書いていないが数年以上持続する関係でないとまずいのではないかと思われる。 すなわち、「家族」とは<見守る>という持続的関係においてだけ定義されているのであり、法的な家族であるかどうか、男女であるかどうか、血縁関係があるかどうかは関係ない。

 「家族のひととひととの結びつきによる混沌との対峙と同じように、家族以外も含んだひととひととの結びつきによる混沌の対峙も、認められなければなりません。(strictk)」岡野氏においても外部からの支援は排除されるどころかむしろ要請されている。「ひとり一人がそうした主体「となる」プロセスを確保するために、家族以外の者たちが公的な支援を活用して、個々の家族の構成員に支援を与えることが必要なのではないか、という問題提起でもある。*2

(2)

とは言っても、strictkさんとわたしの差異は残る。

(野原さんは)「子供を産まない自由は認められるべきだが、子供を産む自由も認められるべきだと主張するのです。」言い訳ばかりになりますがわたしはこんなことも主張していない。「子供を産む/産まないの自由」と「子供を産まない自由」は同義語であるので、上の文章は主張ではなく「産む」ことへの情緒的訴えかけかと思われますが、野原はそんなことは言っていない。

わたしが書いたのは「そうであるとすれば子供を作らない自由を行使したとしても、同時に子供を育てる自由を行使した方が良いのではないでしょうか。」である。子供を作らなかった人に対し、子供を作った人の子育てに介入する可能性について書いている。(ここからも野原が子育てに対する外部からの介入支援に否定的でないことは分かる。)とはいっても、現状はそのような介入が行われるようなシステムにはなっていない。したがってそのような方向に社会を変えていくことには賛成である。即ち「家族以外にも子供を育てる自由を。」というstrictkさんの主張に賛成である。

「私も、子供を産む/産まないの自由は認められるべきだと思います。」で始まるstrictkさんの考察は周到で説得力がある。わたしの危惧は、「生む/生まない」という欲望し選択する主体の側からだけ物事を考察して良いのか、という点にあります。(野原自身文章を書いたりしている以上、選択可能な主体の側に属していることはもちろんです。)

「しかし、現在、その状況が用意されているとは言えず、しばしば子供を産むことが、産まないことより優れているという判断がなされる場合はあります。」わたしたちは産む/産まないの選択可能性を持つ主体から出発したはずだった。ここの判断とは誰の判断なのだろうか。私たちの社会にはそうした圧力が不断に流れているのだろうか。確かに成人男女に対し、結婚し子供を作るのがまっとうなあり方だといった「常識」は存在する。政府も同様の事をPRしている。しかし政府のPRは少子化対策としてである。少子化という現実があるということは「産めという圧力」とは別に「産むな」という方向に働くベクトルがどこかに存在していることを意味している。と野原は考える。hippieさんとstrictkさんとの野原の差異はここにある。

 「産むな」というベクトルはどこにどのように存在しているのだろうか。わたしたち一人ひとりは、主体でありたいという欲望とそうでなければならないという命令に振り回されている。これらの課題にわたしたちは存在の全面を挙げて向きあわねばならず、子供という選択肢は脱落すると思われる。正しい描写だとは必ずしも思わないが、そのようなこともあるのではないか。自己であるという義務と緊張を少し弱めると、産むことも受け入れやすくなるかもしれない。これは甘ったれたたわごとかもしれない。産むことの方が安易であると言うことの方が多いかもしれない。

(3)けっきょく

 strictkさんの発言の全体に対しわたしは特に異議はない。あえて言えば、「子供を産む/産まないという権利の自由があったとしても、子供を産む/産まないの間に優劣の判断があれば、自由ではありません。」AとBの間にはだいたい第三者からの価値付けはすでに為されているわけでそれに対し自分の判断を確認し行為することが、自由と呼ばれるのではないか。

 hippieさんとの間にも、実際的な対立点は少ない。家族を国家(社会)の単位として過不足無いものと捉えている点に違和感があるに過ぎない。

*1:これは文中で説明していないので、野原の解釈。

*2:現代思想200409号p128