カテゴリー: idea
2007年3月21・24・25日 コメント欄
3/21[コメント]
一読者 『まず、引用されたサイトの具体的検証をするという宿題その①を作成中にご返事をされてしまったので、また後回しにさせていただきます。
この後、一旦、野原さんに答えてからになるので、さらに後回しになりますが。
次に、今回の慰安婦決議案の内容確認という宿題その②は、ホンダ議員のHPで再確認したとおりなら、補償問題は入っていませんね。
しかし、4項目の内容が韓国などの慰安婦補償運動家の一般的要求から補償が抜けているだけで酷似しており、今更ながら韓国中国ロビーの主導下の議案だと実感させられます。
>さてあなたが公安委員会(?)と風俗業者の関係とは違う、そして軍が積極的・主体的に関与したのだと認識を改めたということですね。
いいえ。私は最初から上記2、の考えでした。
しかし、引用されたサイトの著者が十分に実証できていないのに3、と結論付けたのに過剰に反応して、つい1、と言い間違えただけです。
そして、私の考えでは、
1、国家に法的責任なし
2、国家に法的責任があるか無いかは行為当時の行為地の実効的法規範により決まる
3、国家に法的責任あり
です。
私は主体的関与という用語を、国家の法的責任を肯定しうるだけの関与という意味で使用しておりますが、あなた方はより広い意味の積極的関与を、それと同義と考えていることによる誤解ですね。
つまり、私は、2、の中の国家の法的責任否定説です。
道義的責任については肯定説で、アジア女性基金にも、村山元首相の10倍以上の金額を寄付させていただいております。
>そうしますと常石氏のブログでのあなたの問題提起「違法な実態があったとしても、政府や軍が主体的に関与していなかったら、それは朝鮮人が多かったという業者の責任です。」というのは誤りだということでよろしいですね。
これも誤解なので、上記コメントをお読みください。
私とあなた方の用語の意味の違いに起因する誤解でしょうね。
>なるほど。要は説得的な反論は出来ないが「反感を抱いた」程度のものですか。
いいえ。
説得的な反論かどうか分かりませんが、ただいま作成中ですので、お待ちください。
事実部分の検証には、ある程度他の資料の検証も必要なので、時間はかかります。
>まあ、如何にバイアスのかかった目でこの問題を見ていたか、自らのイデオロギー性を自覚できただけあなたにとっては良かったのではないでしょうか。
前提で勘違いしているので、ここでも勘違いしていますね。
私はイデオロギー的には中道右派で大アジア主義に親和的です。
ところで、引用されたサイトの資料分析部分と結論部分の間にロジックの飛躍があるのはあなたにもお分かりになりますよね?
>「違法な実態に政府や軍が主体的に関与していたら、日韓基本条約時の請求権条約で解決済みということになる」という議論が的を外しているということもよろしいですね。
現在の議論として的を外していても、仮に決議案が可決されたら、当然問題になりえますから、将来を予測した議論としては的を外していないと思います。
私は、決議案の原文を読んで、ますます韓国の河野談話の経緯に対する背信的行為と、米国内での対日企業戦時賠償請求訴訟へのホンダ議員の関与の経緯が、組み合わされた形での、将来の蒸し返し補償要求を予感しました。
私は、法的責任は条約で解決済み、道義的責任は河野談話、歴代首相の謝罪、アジア女性基金で解決済みという立場ですから、決議案成立後に補償要求される可能性が高まったことを等閑視はできません。
杞憂に終わると良いのですがね。
>人権侵害行為が十分に救済されていないという認識の下様々な理論的な努力が現在為されています。しかも妥結時に考慮されていなかった問題であるのならなおさらです。
条約等の締結時に考慮されていなくても、河野談話以後の取り組みで考慮されて解決済みでしょう。それが日韓両国の外交信義というものです。
>そもそも軍が主体的に関与し、そこにおいて人権侵害行為が発生しているのに、(公式的な)謝罪すらしない、あるいは一官房長官の談話すらなかったことにしようとするというのはどういうことかと私は思います。何も責任を取りませんと言っているに等しいと言われても仕方がない。
私は首相も公式に謝罪しているという認識です。歴代首相の河野談話の継承とお詫びって、そういう意味でしょ?責任は法的責任も道義的責任も履行済みという考えなので、大雑把に言えば、責任はもう履行しました、事実誤認の部分は修正します、というスタンスでいいと思います。何も責任をとりませんと言ってるととるのは、あまりにも事実の経緯に無知な故か傲慢さ故でしょうね。
>私は東京大空襲のような無差別爆撃も原爆による民間人の虐殺行為も裁かれるべきだと本気で思っております。
法的責任は、請求権を放棄したので、賛成しません。
道義的責任の追及なら、賛成します。
>しかしそれを日本が追及するには自らの戦争犯罪と真摯に向き合うこと以外にありません。
真摯に向き合うのは賛成ですが、事実誤認は修正すべきです。
ただ、それは十分に事実を検証した結果こうなりました、ということが第三者の目からも是認しうるだけの資料をそろえ、分析結果も揃えることが必要でしょうね。
少なくとも、非難決議案の内容に事実誤認が多いことは、あなたも賛成でしょう?』
ノーモア 『ではホンダ議員が実際どのようなことを言っているのか見てみましょうか。
http://www.wam-peace.org/main/modules/news/dl/070131honda.pdf
「私は、アジア女性基金を通じて慰安婦生存者に金銭的賠償を行おうとした日本の努力を評価しております。アジア女性基金とは政府によって着手され資金の多くを政府に負う民間基金であり、その目的は「慰安婦」に対する償いをねらいとしてプログラムやプロジェクトを実行することでありました。アジア女性基金は 2007年3月31日をもって解散することとなっています。私は、アジア女性基金が重要であったということには同意しますが、現実は、大多数の慰安婦生存者がこれらの資金の受け取りを拒否したということであり、日本政府からの、疑いの余地も曖昧さもない謝罪がなければ、その金は彼女たちにとって意味を成さなかったということなのです。」
私にはあなたが相手が何を言いたいかも良く調べずに陰謀論にはまってしまわれているように思えます。
>いいえ。私は最初から上記2、の考えでした。
そうだったんですか?「公安云々」のくだりからはとてもとてもそうは思えませんでしたが。まあこれからきちんと反論なさるということで待ちましょう。
>引用されたサイトの資料分析部分と結論部分の間にロジックの飛躍があるのはあなたにもお分かりになりますよね?
よく分からないことをおっしゃいますね。私はあの論文を「軍の主体的関与」を示す目的で挙げたのです。あの論文はその目的に適っていたと思いますが。
>将来の蒸し返し補償要求を予感しました。
予感するのなら御勝手に。ただロクな根拠に基づかない予感を基に議論を展開してもバカにされるだけです。事実あなたは決議案がどういうものであるか、議案提出の意図はどこにあるのかこの議論を通じて一度もソースを示されていない。議論をなめているのでしょうか。
>条約等の締結時に考慮されていなくても、河野談話以後の取り組みで考慮されて解決済みでしょう。それが日韓両国の外交信義というものです。
最低限河野談話の踏襲することが「外交信義である」というご認識に改められたということでこれも良かったです。ちなみに一官房長官の談話に過ぎないものを公式的な謝罪ととるかどうかは微妙なところでしょうね(ホンダ議員の求める公式的な謝罪とは国会による謝罪決議でしょう)。しかもそれを重みのあるものに高めようというならともかく、逆に常にその価値を低めようとし、それすらも覆そうという勢力がこの問題をこじらせているわけで。
>法的責任は、請求権を放棄したので、賛成しません。
まさにここでしょうな。被害者そっちのけの勝手な国家間同意で一切が解決とすることに国際人道法の研究者が疑問をおぼえるのは。しかも国内法による救済といっても「戦争による被害は国民が等しく受忍すべきもの」であっさり却下されるわけで。ま、それはいいとしていずれにせよ、道義的責任とやらを追及するにもそれなりの倫理的な基盤は必要だということです。
>真摯に向き合うのは賛成ですが、事実誤認は修正すべきです。
一般論としては正しいのですが、あなたのように相手が何を言っているかを知らずに感情的に噛み付く人たちがいるので何とも言えないというところでしょうか。』
一読者→中道右派 一読者→中道右派 『>現実は、大多数の慰安婦生存者がこれらの資金の受け取りを拒否したということであり、日本政府からの、疑いの余地も曖昧さもない謝罪がなければ、その金は彼女たちにとって意味を成さなかったということなのです。」
実際には挺隊協、マスコミ、その他社会からの有形無形の圧力で受け取るつもりだったのが拒否した事例が多数あったことが、日本側の支援団体の報告で批判されていますね。
>私にはあなたが相手が何を言いたいかも良く調べずに陰謀論にはまってしまわれているように思えます。
あなたは、自分に都合のいい部分しか取り上げていませんんね。私はホンダ議員のホームページで全文を読みましたが、事実認定部分には多数の誤認がある。
>そうだったんですか?「公安云々」のくだりからはとてもとてもそうは思えませんでしたが。
それは当方のミスだと説明済みです。あなたも野原氏同様人のコメントをきちんと読まない方なのですね。
>まあこれからきちんと反論なさるということで待ちましょう。
ロジック部分は前回のコメントで説明済みということは了解してもらえますね。
具体的検証部分は、もう少しお待ちください。
>よく分からないことをおっしゃいますね。私はあの論文を「軍の主体的関与」を示す目的で挙げたのです。あの論文はその目的に適っていたと思いますが。
あなたの用語法からは、目的達成でしょう。
私の用語法(前回コメント参照)からは立証不十分です。
>事実あなたは決議案がどういうものであるか、議案提出の意図はどこにあるのかこの議論を通じて一度もソースを示されていない。議論をなめているのでしょうか。
あなたがソースを要求したいのは、決議案の全文、ホンダ議員のHPその他、ホンダ議員の対日企業賠償請求訴訟への関与、韓国慰安婦補償運動の一般的要求などですか?そんなのあなたご存知でしょ?私のソース提示に関するポリシーは以前説明したのに分かって貰えないのですか?あなたこそ肝心のロジック部分がいい加減すぎて、議論を舐めているとしか思えません。相手の言い分のどこに賛成でどこに反対かを明確にする、議論の途中で自分のミスがあれば認めお互いの共通認識にする、これ基本じゃないのですか?
>最低限河野談話の踏襲することが「外交信義である」というご認識に改められたということでこれも良かったです。
これも誤解です。改めてません。私は最初から河野談話修正ないし撤回必要説です。先に外交信義を破ったのは韓国側なのだから、日本だけ墨守することを押し付けられるいわれはありません。
>ちなみに一官房長官の談話に過ぎないものを公式的な謝罪ととるかどうかは微妙なところでしょうね(ホンダ議員の求める公式的な謝罪とは国会による謝罪決議でしょう)。しかもそれを重みのあるものに高めようというならともかく、逆に常にその価値を低めようとし、それすらも覆そうという勢力がこの問題をこじらせているわけで。
私は、官房長官の談話を踏まえて歴代首相が何回も謝罪してるという認識だと言ってるでしょうが。
国会による謝罪決議が必要と考えるのは、ホンダ議員や中韓ロビーの勝手ですが、日本には日本のやり方があり、過去の犯罪のほとんどに謝罪していない米議会や中韓勢力に指図されるいわれはないですね。
価値を低めたり覆そうとしていると考えるのは、単にあなたの価値観に基づく主観。
私は単に事実誤認部分を修正するだけだと思います。その際、この問題の発生経緯も含めてつまびらかにした上でできれば、なお良いですね。法意識の発展による遡及処罰はどこまで可能か、という新たな論点を提示するきっかけになるかもしれません。
あとで検索してソースを示しますが、町山ともひろ(漢字失念)氏の天安門事件に関する記事をお読みください。
>あなたのように相手が何を言っているかを知らずに感情的に噛み付く人たちがいるので何とも言えないというところでしょうか
ホンダ議員のHPは前回のコメント前に全文読みましたが、それでも知らずにかみついていると?
むしろ、あなた方のように相手のコメントを字義どおりに素直に受け取らず誤解曲解が多すぎると、こちらが一々説明しなきゃならないので、疲れます。』
一読者→中道右派 一読者→中道右派 『http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20040313
町山氏のブログです。』
ノーモア 『>そんなのあなたご存知でしょ?
いや、最初に「請求権条約で解決済みだからごちゃごちゃ言うな」という論旨を展開されたから、今回「法的責任」は云々されていないのだから的外れでは?と答えたわけです。もちろん最初に論旨を展開されたのはあなただからあなたがソースを提示すべきでしたが、私は議論を先に進めるためにこちらから色々提供して差し上げました。そして実際、法的責任云々は含まれていなかったわけですから、それで本来この話は終わりなのです。が、あなたは議論をすり替えて「いや将来言ってくる気がする」と言い出したわけです。
あなたの「予感」とか「そう思った」だけの議論に付き合う義理はないのですが、やはりホンダ議員はそのように言っていないはずですがとこれもこちらからソースを提供して差し上げた。私は彼が民間基金による補償というアイデアを高く評価しているのでそれが謝罪をきちんと行うことで機能して欲しいと思っているように(まさに「字義通り」!)受け取りましたが。で、今度はホンダ議員の「事実誤認の有無」ですか?議論のすり替えを何度行えば気が済むのでしょうか。もとの論点とは似ても似つかない論点になっていることが分かりませんか?
>私は、官房長官の談話を踏まえて歴代首相が何回も謝罪してるという認識だと言ってるでしょうが。
知ってますよ。何回も繰り返さなくても結構です。ただしそれについて散々それを台無しにするような発言が繰り返されてきた経緯も御存知ですよね?ホンダ氏も諸外国もそういう経緯を知っているんですよ。だから「曖昧でない謝罪を」と言っているんじゃないですか。謝罪というのは加害者が頭を下げた回数で決まるんじゃないんです。謝罪は一人じゃ出来ないんですよ。
>日本には日本のやり方があり
まあ加害者が犯罪被害者に謝るとき「俺には俺なりのやり方があるんだ」と言いだして謝罪が成り立つかといえば、その可能性はゼロに近いでしょうね。
>価値を低めたり覆そうとしていると考えるのは、単にあなたの価値観に基づく主観。
私だけの主観ではありません。それは諸外国でも「日本の謝罪は曖昧だ」という認識の方が多数派なのでは。。今回安倍氏が「謝罪しない」と言った時の諸外国のメディア・政界の人たちのあまりの反応にこれまで「日本を悪く言うのは特アだけだ」と言っていた人たちがうろたえていたのを見て不謹慎ですが笑ってしまいました。まあこれは蛇足ですが。いずれにせよ謝罪は一人では出来ないという「リアリズム」に立ち返って欲しいものですよね。
>町山氏のブログ
知ってますよ。しかしそれが今回の件と何の関係があるのか私には全く分からないので正直困惑してます。
>先に外交信義を破ったのは韓国側なのだから、日本だけ墨守することを押し付けられるいわれはありません。
これもよく分からないんですが詳しく経緯の御説明を願います。』
民、人、天
光栄のベストセラーシミュレーションゲーム三国志には、「民忠(タミチュウ)」というパラメータがある。民の忠誠度のことである。これが低く成りすぎると民衆は反乱を起こして領主が殺される場合もある。したがって低くならないよう民に食糧を与えたりしておかないといけない。ここで定義されている民という概念はけっこう正解であり、中国思想史の最初期に遡りうるものだ。
周の青銅器銘文に為政者の統治対象として登場する。『尚書』では、民は保(やす)んじおさめられるべきもの。この段階では民は自然の存在であり、統治の客体にすぎない。為政のバロメーターである。p44(光栄の場合と一致している。)
人を発見したのは孟子である。天から付与された自然物である身体は、「思う」ことによりまた「身に返る」こと「心を尽くす」ことにより、身体が潜在的に有する新たな意義を見出していく。p48
戦国後期の儒者において、「人」尊重の思想を継承した、「王による民の教化」という観念が確立する。人倫社会の成立は「王による教化」によって保証される。p64まあ考えてみると現在の教育基本法改正の論理はこうした伝統に起源している、ということはできる。しかし彼らの最高範疇は愛国心であり、アプリオリに天下に届かない。哀れなものである。
(以上ページ数は『儒学のかたち』関口順 東京大学出版会 参照)
で、11/15に「でも人民という言葉はいかにもこなれない。スターリニズムの匂いさえする。」と書いたがこれは撤回することにする。孟子曰く「諸侯の宝は三。土地、人民、政事なり」(尽心下)
からだうた
「からだうた」という歌がある。ある養護学校で作詞作曲されたものだ。
「あたま あたま あたまのしたにくびがあって かたがある かたからうで ひじ またうで てくびがあって てがあるよ むねにおっぱい おなかにおへそ おなかのしたにワギナ/ペニスだよ せなかはみえない せなかはひろい こしがあって おしりだよ ふともも ひざ すね あしくび かかと あしのうら つまさき おしまい♪ 」という歌だ。わたしは新聞で歌詞を見ただけだが、「背中はみえない背中は広い」なんて面白いと思う。
東京都の横山教育長という人は、都議会でこの歌について「とても人前で読むことがはばかられるもの」と言ったらしい。このひとはどういう感覚の持ち主なのか。わたしにとって一番大事なものは身体であって、その名前を知るのは大事なことだ。教育者が苦労してそれを教えているのに、なんだかわけの分からない自分の偏見でもって非難するとは何事か。こういう馬鹿な奴には是非一矢報いなければいけない。
削除します
昨日「波状言論」への悪口を書いたがイマイチなので削除しようと思った。なにげないワルクチというものは感心しない、批判するなら20年経っても忘れないほどの思いでやれ、と思うので。ただ今見ると「波状言論」からのリンクが28もあるので一応残しておきます。似たようなことはできたらまた書きます。
ファルージャの内側
世界とは、世界とアウシュヴィッツの内側から成る。
アウシュヴィッツの内側をわれわれは覗けない。
そこがあると語る者は詐欺師だけだ。
それがないと言う者たちを信じてはいけない。
シンポジウムは続く
概念集の1項目としての「連続シンポジウム」について、4/21に前半だけ「紹介」しましたが、今日4/27に後半を追加しました、4/21の欄に。
下記4/21の「連続シンポジウム」と題された文章では、〈連続シンポジウム〉について、“バリケードが言葉としてさえ流通しない段階の祭”という簡単な規定がなされている。わたしというものが自己がそう信じている私を大きくはみ出す存在である、ということに基礎を置く集合的心性を楽しむことが、祭りであるだろう。言い換えれば、そこに集まった人々の身体的高揚感の相互交流である。坂本氏の掲げた「新しい共同性を目指す流れをもつ大学祭を創り出す」というスローガンは、まさにその<祭り>の本質を知的に言い換えたものと考えることができる。したがってうさんくさいと思いながらも全面的に拒否できない理屈として、存在し続けた。
で、松下氏の文章の後半は意外にも「連続シンポジウム」に対して批判的である。「任意の活動ないし討論の場面に、予備知識のない人が参加したとして、この人は目前の場面が〈祭〉に関わるものとは思わないであろうという事実に危機が象徴されている。」この批判はかなりクリティカルな(臨界的)もので、野原がこの「後半」の掲載をためらった原因にも成っている。*1祭りの準備というのは、楽しい場合もあるが必ずしもそうである必要はなく、祭り自体が楽しければそれでいいのである。だが重苦しいばかりで全然楽しくないとしたら問題である。(仕事でも一緒ですね。)目的に対し建前(当為)の比重が高く、自分の身体がついていっていないばあいなどがこれに当たるだろう。
テーマとして掲げられた<単位制、天皇制、家族制の批判的検討>。野原自身かって討論会に何度も参加したので他人事として言うことはできないのだが。例えば「天皇制」という言葉について、連続シンポ的用法は生産的でないと、現在の私は思う。自己変革において世界を転倒させるという可能性において言葉は発せられていたのであって、そのことを抜きに議論は成立しないのであるが・・・
(つづく)
*1:岡山の討論会だけでなく他の松下を中心にした討論会にも当てはまるのではないか?という問いを引き起こす点で。
ラファの動物園の破壊
ナブルス通信のかねこさんからの情報です。
破壊された檻と鳥の死骸。
http://story.news.yahoo.com/news?tmpl=story&u=/040521/481/akcf11705211533
鸚鵡とカンガルー。
http://story.news.yahoo.com/news?tmpl=story&u=/040521/481/akcf11405211529
破壊の中で生きていた馬。
http://story.news.yahoo.com/news?tmpl=story&u=/040521/481/akcf11605211530
側面がむき出しになった家。
http://story.news.yahoo.com/news?tmpl=story&u=/040521/photos_wl_afp/040521151700_bppjgrw6_photo2
自動車渋滞の列の両側に何もないが、数日前までは家があったのか?http://story.news.yahoo.com/news?tmpl=story&u=/040521/ids_photos_wl/r1163740086.jpg
鶴かな。
http://story.news.yahoo.com/news?tmpl=story&u=/040521/ids_photos_wl/r2846816621.jpg
大怪我したラクーンを子供が抱いている。
http://story.news.yahoo.com/news?tmpl=story&u=/040521/481/akcf11305211325
小さな檻だけしかない。
http://story.news.yahoo.com/news?tmpl=story&u=/040521/ids_photos_wl/r2827451454.jpg