君が代の強制は教職員及び子どもの思想良心の自由を侵害する

 この論点についての反対派の代表的意見として東京弁護士会のものを掲載する。いまさらですが。

 東京弁護士会は、東京都教育委員会の2003年10月23日付「通達」による学校行事等における「国旗・国歌実施指針」に基づき教職員の処分ないし厳重注意などの不利益扱いを行うことは、教職員及び子どもの思想良心の自由を侵害し、子どもの教育を受ける権利を侵害する事態を招くため、かかる処分等を行わないよう強く要望する。http://www003.upp.so-net.ne.jp/eduosk/toukyou-benngosikai-ikenn.htm「国旗・国歌実施指針」に基づく教職員処分等に関する意見

3 教育の場における「国旗・国歌」の取り扱いと、思想良心の自由への配慮の必要性

(1) 「君が代」・「日の丸」には、戦前の軍国主義国家における歴史的な経緯があり、国民主権という憲法の基本原則にはふさわしくないとの信条を持つ国民は少なくない。かかる意味で、「君が代」の斉唱を行なうか否か、「日の丸」を掲揚するか否かはまさに個人の思想良心の自由にかかわることである。

  日本弁護士連合会も、1999年の「国旗・国歌法」の国会上程に対して、会長声明で、「『日の丸』『君が代』は・・過去の忌まわしい戦争を想起させ、被害を受けた諸国民に対する配慮の面からも国際協調を基本とする現行憲法に相応しくないと指摘する声も少なくない。」、「『君が代』の歌詞は国民主権という憲法の基本原則に相応しくないとする意見があることも事実である。」、「政府は、法案は『日の丸』の掲揚、『君が代』の斉唱を強制するものではないと説明している。しかし国旗・国歌が尊重されるのは、国民的心情によるものであるべきで、法制によって強制の傾向が強まることは問題である。」、「今回の法案上程は、国民の間における混乱を持ち込みかねないものであり、あまりに性急と言わねばならない」として、国旗国歌法の制定に伴い、その掲揚・斉唱の強制の傾向が強まって、思想良心の自由を侵害する事態を懸念していた(1999年7月14日)。

(2) 学習指導要領においては、1989年以来、「日の丸」を「国旗」として掲揚し、「君が代」を「国歌」として斉唱「するよう指導するものとする」とされている。しかし、学習指導要領は、「児童・生徒に対する教育をつかさどる」教師が教育を行うに当たっての大綱的基準を定めたものであり、「子どもの教育が、教師と子どもとの間の直接の人格接触を通じ、子どもの個性に応じて弾力的に行われなければならず、そこに教師の自由な創意と工夫の余地が要請される」ものであることに照らし、学習指導要領の内容が「教師に対し一方的な一定の理論ないし観念を生徒に教え込むことを強制するような」ものであってはならないとされている(1976年5月21日旭川学力テスト事件最高裁大法廷判決(以下「旭川学テ判決」という))。ましてや、子ども達が学習するに際して、学習指導要領により学習内容を強制されることなどあり得ないことである。そのため、これまでは、成長発達の途上にあり、思想良心の形成途上にある子どもに対し、「日の丸」を「国旗」として掲揚し、「君が代」を「国歌」として斉唱することを強制することが許容されるものとは考えられてこなかった。

(3) このような事情から、1999年の「国旗・国歌法」の制定に際しても、これを審議した国会において、当時の小渕内閣総理大臣は、「国民に対して強制することはない」旨答弁し、さらに、児童生徒に対する「国旗・国歌」の指導について「児童生徒の内心にまで立ち至って強制しようとする趣旨のものでなく、あくまでも教育指導上の課題として指導を進めていくことを意味するものでございます。この考え方は、1994年に政府の統一見解として示しておるところでございまして、『国旗・国歌』が法制化された後も、この考え方は変わるところはないと考えます。(1997年7月21日衆議院内閣委員会内閣総理大臣・小渕恵三)」と述べていた。

  また、起立をしなかった児童生徒がいた場合の指導のあり方に関し、国会審議の中で「何らかの不利益をこうむるようなことが学校内で行われたり、あるいは児童生徒に心理的な強制力が働くような方法でその後の指導等が行われるということはあってはならない (1999年7月21日衆議院内閣委員会文教委員会連合審査会政府委員)」と答弁されていた。

  「国旗・国歌法」制定の際には、「学校における『国旗・国歌』の指導は内心にわたって強制するものではない」し、「学習指導要領は、直接、児童生徒に対して拘束力を持つものではない」旨が、政府によって繰り返し確認されていたのである。

(4) そもそも、学校は、子どもにとって人格の完成をめざして学習し、成長発達する権利を充足する主要な場なのであり、「個人の基本的自由を認め、その人格の独立を国政上尊重すべきものとしている憲法の下においては、子どもが自由かつ独立の人格として成長することを妨げるような国家介入、例えば誤った知識や一方的な観念を子どもに植えつけるような内容の教育を施すことを強制するようなことは、憲法26条、13条の規定上からも許されない」(旭川学テ判決)のであるから、学校において学習指導要領に基づいてなされる、「国旗」の掲揚・「国歌」の斉唱に関する指導に当たっては、それが、思想良心の形成途上にある子ども達への強制にわたらないような条件を確保する必要がある。

  そのためには、学校において日常的に思想良心の自由が確保されている実態を経験できることが必要であるとともに、児童生徒にたいし、事前に思想良心の自由を説明し、「国歌」斉唱時に「国旗」に向かって起立しない自由があることを説明し、起立しない自由を選択しても不利益を受けないことを説明し、そのような不利益を被ることがない状況を確保するなどの教育指導上の配慮が不可欠であると考えられる。

  現在、わが国でも多民族・多文化共生が求められる社会になっており、様々な国籍や文化・宗教の子ども達が、ともに学んでいるという学校の現状がある。「国旗・国歌」の指導に際しては、こうした外国の子ども達が自己の文化を享有し自己の宗教を信仰する権利への配慮の観点からも、上記の説明は重要である。

 さらに、教育は、教員と児童生徒の信頼関係において行われる。教員が児童生徒にたいして「国旗・国歌」への起立斉唱を強要することは、起立斉唱したくない児童生徒との信頼関係を損なわせることとなり、児童生徒の信頼できる教員から教育を受ける権利をも侵害することになる。

風神、名-志那都比古神。

またまた久遠の絆さんより。id:kuonkizuna:20050408/p3(何度も引用させていただきます。ありがとうございます。)

前回ちょっと日本書紀を読んだとき、「次生、木祖-句句迺馳。次生、草祖-草野姫、亦名-野槌。」とある、この「くくのち」と「かやのひめ」が私には、非常に印象的でした。

それと並んで、一書には「級長戸邊命、亦曰-級長津彦命。是風神也。」とあるらしい。ここは読み飛ばしていた。

『古事記』上卷にある(らしい)「志那都比古(彦)神(しなどひこのかみ)」も忘れずにメモしておこう。

JR西日本は何のために戦っているのか?

その路線(福知山線)は阪急電鉄と競合している(梅田-宝塚間)。というかわたしのような昔の人間にとっては阪急のイメージの方がかなり勝っている。これはJRの関係者にとって不愉快な事態だろう。だとしてもJRはなぜ勝ちたいのか?株主の利益のためか。

 率直に言って、あまり意味がないことに近視眼的心情を燃やしているのではと思う。鉄道は利用者の為にある。JRは勝とうとするために無駄なエネルギーを使うべきではない。

三大考とは

(ロートレアモン風に言えば)

“まぐわい”の上での太極図と創世記の突然の出会い

のようなものか。

天皇を中心とする政治のしくみ

「天皇を中心とする政治のしくみ」を聖徳太子が造ろうとしたというが。崇峻天皇を殺したのは蘇我馬子であり、太子はその同盟者であった(ことになっている)。「太子漠然として、曰く「此れ、過去の報なり」と」*1

もちろん、偉人としての太子がフィクションなら上記もフィクションだろう。だがそうでないという立場で記述するなら、上の疑惑にも答えて貰いたいものだ。

複雑怪奇な日本史を小学生に数頁で教えるのは不可能に近い。しかし日本史のパート2「貴族の政治とくらし」で、飛鳥・奈良と平安時代を教えるのだが、ページ数は前者が10頁、後者が4頁である。事実かどうか不明の聖徳太子になど頁を割かず、平安時代にもっと頁をさくべきであろう。

平安時代では「藤原氏は、むすめを天皇の后とし、生まれた子を天皇にたて、天皇にかわって政治を進めていました。」と記述されている。この記述の水準からいっても上記のスキャンダルには答えるべきだろう。

「天皇を中心とする政治のしくみ」というのがどういう意味か全く確定できないのがこの混乱の原因だ。単に中央集権国家という意味で使いたいのか、あるいはすべての人民の存在の全てを捧げ奉るべき天皇という狂信主義へのベクトルをあながち拒否しない使用法なのか、それともまた別の意味なのか、まるでわけが分からない。

「訳の分かったような分からないような」言葉やフレーズを呑みこんだふりをして生きていく術、などわたしは子どもに教えたくない。

*1:「聖徳太子伝暦上」

それは敗戦ではなかった

 戦争に負けることは誰のせいで負けたのかという責任者を捜して叩くことにつながる。ところが日本では東条以下十数名は、天皇を中心にした支配層がアメリカに差し出した犠牲であり、最初から憎悪の対象ではなくしばらくしたら許されるべき存在だったと思われる。日本という同一性はいささかも傷を負わずに敗戦を生きのびてしまった。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050226#p3

恥ずかしくないのかね?

 先の大戦末期の沖縄戦で日本軍の命令で住民が集団自決を強いられたとする出版物の記述は誤りで、名誉を棄損されたとして、当時の守備隊長と遺族が著者でノーベル賞作家の大江健三郎氏と岩波書店を相手取り、損害賠償を求める訴訟を大阪地裁に起こすことが二十三日分かった。

http://www.sankei.co.jp/news/morning/24iti002.htm

Sankei Web 産経朝刊 沖縄守備隊長遺族、大江氏・岩波を提訴へ 「自決強制」記述誤り、名誉棄損(07/24 05:00)

米軍が沖縄の渡嘉敷島と座間味島に上陸した昭和二十年三月下旬、両島で起きた住民の集団自決について、大江氏らは、これらの島に駐屯していた旧日本軍の守備隊長の命令によるものだったと著書に書いているが、そのような軍命令はなく、守備隊長らの名誉を損ねたとしている。

沖縄戦の集団自決をめぐっては、

昭和二十五年に沖縄タイムス社から発刊された沖縄戦記『鉄の暴風』で、赤松大尉と梅沢少佐がそれぞれ、両島の住民に集団自決を命じたために起きたと書かれた。この記述は、沖縄県史や渡嘉敷島(渡嘉敷村)の村史など多くの沖縄戦記に引用されている。

疑問を抱いた作家の曽野綾子さんは渡嘉敷島の集団自決を取材し『ある神話の風景』(昭和四十八年、文芸春秋)を出版。

座間味島の集団自決についても、生存者の女性が「軍命令による自決なら遺族が遺族年金を受け取れると島の長老に説得され、偽証をした」と話したことを娘の宮城晴美さんが『母の遺したもの』(平成十三年、高文研)で明らかにした。

その後も、昭和史研究所(代表・中村粲元独協大教授)や自由主義史観研究会(代表・藤岡信勝拓殖大教授)が曽野さんらの取材を補強する実証的研究を行っている。

 やれやれというしかない。裁判の論点はどうあれ、わたしたち市民~国民にとっての論点は、「国軍が市民(国民)を守る」という建前が崩れたかどうか?である。「国軍が村の上層部などと一体になって働きかけることにより、たくさんの市民の自決が行われた」ことはどうあがいても動かせないはずだ。

参考:林博史氏の論文「「集団自決」の再検討」

http://www.geocities.jp/hhhirofumi/paper11.htm

 それより彼らの目的は何なのかね。ふやけたナルシズムを蔓延させても亡国につながるだけでしょうが。

産土(うぶすな)=パトリへの忠誠

戊辰戦争においては多くの藩が、薩長側(天皇)か幕府かという選択を急に迫られ右往左往してたわけです。上記の奈倉哲三氏論文からもう一箇所引きます。

二本松藩は幕府軍側で戦うことに決定。7月29日、新政府軍と激しい交戦となる。

そのさなか、農兵司令官として出陣していた三浦権太夫は、勤王論者として王師(おうすい)(天皇の軍隊)へ弓を引くことはできぬとして交戦を拒否、阿武隈川東岸で空矢を放って自刃した。合祀年月は不明であるが、靖国に祀られている。*1

 三浦氏は、(おそらく)うまれ育った故郷、その代表としての藩に対する忠誠と、自分が意識的に獲得してきた勤王イデオロギーの間で葛藤し、ついにどちらかに付くことは決断できず、自刃した。ところが靖国側は、その「勤王」の面にだけ注目し、靖国に合祀した。

 これと同じ事は「大東亜戦争」でも、無数に起こっている。南の島で餓死に追いやられ、祖国に対し怨みしか持っていない死者も沢山居たはずだと思う。それでも形式的に「護国」ということにして合祀する。一方空襲の死者とかは急進的愛国者が仮にいても合祀の対象からは外れる。また今回の台湾「高砂族」などのように遺族が合祀から外してくれと請求しても応じない。

 「国家の為忠奮戦死せし霊」だけを降ろし、神社に鎮座させるという*2選別装置。死者を選別するだけでなく、死者の内なる葛藤を拒絶し「国家の為」という面だけに光を当てる装置である、というわけだ。

*1:同書p113

*2:伝統に反した

天皇制を論じてはいけない、という意見?

http://d.hatena.ne.jp/antonian/20050907/1126104535 で、あんとに庵さんがほりえもんの同じ記事を引いている。インタビュー現場の雰囲気の分かる記事もある。それはありがたかったのだが、どうもこの方は「天皇制」をタブーにし続けたいようだ。何故そう思うのか不思議だ。

・・・ですので報道記事はいささかニュアンスが異なるにせよ、根底には「そういう意味のない存在は無駄」的な思考が垣間見えるわけです。なんというかやはり芸術家の敵だな。こいつわ。三位一体論とか実体変化とか理解できないししたくもなさそうな人だと思う。

 三位一体に敵対する神学的テーゼを立てることと、そうした問題領域自体に敵対することは違う。堀江もんは「憲法見ると、天皇は日本の象徴であるというところから始まるのは、僕らにとっ てはものすごく違和感を感じますよ」と条文の文言について発言している。したがって後者ではなく(テーゼはたてていないが)前者である。あんとに庵さんはそれを後者であると歪曲している。

ところで、天皇制と国体というのは伝統的に日本では一致して来たわけですが、その辺りの解体をもくろむならそれなりの理論武装をしないとまずいのでしょうが、彼の場合は単純に「無駄」「有用」という価値で判断されているようです。

何を神秘化しているのですか。「天皇制と国体というのは伝統的に日本では一致して来た」というのは間違った理解です。問題は憲法1条をどうするかだけで、憲法改正が国民の権利であることは憲法に書いてあり国民の常識です。タブーを作りたい一部の勢力がいるだけです。

人というのはなんらかの共同体に属したりするわけでそれは土地だったり、国だったり、思想団体、宗教団体もそうですが、それによって形作られる人格というのがあり、また属するものへの拡大的な皮膚感覚を持ったりするものですが、それがないタイプというのは珍しい。

堀江氏はただ、「憲法1条は不要だ」と意志表示しただけですよ。その意見に反対したいなら、彼の意見を歪曲するのではなく、貴方自身の思想で行ってください。

だいたいタイトルも「ホリエモンの舌禍」だし、自分が言論の自由に敵対していると言うことが分かっていないようですね。

(突然、攻撃的TB失礼しました。)

ふふんふふーん・2

ところで『金比羅』図書館で借りて、もう2週間はとっくに過ぎているので明日は返さないといけない。もう少し引用しておこう。

小説冒頭部分でこの擬音語でも擬態語でもない奇妙な「ふふんふふーん」系の言葉(文字列)は次のところに集中して現れる。

(p11)

 ふふん!

 みっつというのはなんという都合のいい数でしょう。三と言っただけで愚民はもう全てを網羅し、可能性を調べ尽くしたと思ってくれるのですから。

 いやいや、しかし皆さんのような反権力・非愚民がそんな単純な事で騙されるはずはない。だって私だって別に騙そうとも思ってないんだから。へっへー--。

(p14)

--私は偶然に助かったんです。運がいいわけでもない。誰のおかげでもない、ふふんふふーん、私は科学の子だ。ふんふんふんっ。

 というような人がいるかもしれません・あーあ、ねーえ。*1

(p23)

あなた方などは神について語ってはいけない。たかが人間がね、何も知らない癖に。おや、今むっとしましたね。はっはっはっは、ふん。だけれども私達神が聞こえる神が見えるものと、あなた達人間とは違うのですよ。ですからね、今こそね、その違うということを思い知りなさい。ふん、ふうん、けーっ。ほっほー。

もう一度列挙すると次の通り。

  1. ふふん!
  2. へっへー--。
  3. ふふんふふーん
  4. ふんふんふんっ。
  5. ・あーあ、ねーえ。
  6. はっはっはっは、ふん。
  7. ふん、ふうん、けーっ。ほっほー。

この小説は、私が私について語る一人称小説である。そしてまた私が語り手となって、読者に向かって饒舌に語りかける、というスタイルを取る。それだけなら良いのだが、この「私」は実は人間ではない。金比羅だ。私達=神が聞こえる神が見えるもの、である。当然、あなた達人間とは違う。しかし神に近いものがそこらへんのおばちゃんのように自分のことをどんどんしゃべり始めてものだろうか。神に近いものは当然人間からは高慢に見える。しかし、半神はそもそもそんなことすら気にしない者ではないのか。人間の常識の範疇を超えているはずだ。しかしそれでは人間と関係を持てない。笙野の金比羅は一面、べたべたのおばちゃんであり相手の顔色を見ながら自分のことをどんどんしゃべり続けるのだ。

と言うことは、金比羅は高慢と媚びという二面を持つ。

1.高慢 2.媚び 3.4.高慢 5.媚び 6.高慢 7.媚び。このように考えると、この種の文字列がなぜ、数個づつ固まって現れるのかの説明が付く。

しかし上記のように二面に分けるのはかなり無理矢理だ。文字列たちは、身も世もなく身をくねらせるかのように、多彩で多様である。半神とただの人間との落差を埋めるための装置であり変幻自在でなければならないのだ。

(9/26追加)

*1:p14『金比羅』笙野頼子 isbn:4087747204