相互寛容の成立条件

(3)

さて、中岡成文の「排除しない思考は可能か」はあまり良い文章ではないとわたしには思える。しかし悪口を書いてしまった行きがかり上もう少し検討してみよう。

彼が思考の出発点に据えるのは次のような文だ。

もとより私は、正義というものが一方の側にだけあるとは思わない。私もまた誤りうる存在だ。批判に耳を傾ける態度を互いに持っていければと思う。(中岡 )

数十年前、マレー半島のある少女に起こったある出来事について、中岡は新聞記事に書いた。いわゆる従軍慰安婦問題である。読者からの批判が新聞社にあった。それを口実に(?)、その新聞の文化部次長は中岡の文章への批判的な文章を新聞に掲載した。ここからうかがわれるのは、従軍慰安婦問題というものが、マスコミへの表現(再現前)に際し加えられる圧力、それによってこうむる表現のニュアンスのいくらかのズレ、といった問題と本質的に関わっているのではないか、という示唆である。しかし中岡の問題意識はそういう方向には向かわない。

「私もまた誤りうる存在だ」という表現に込められた「相互の寛容を求め、排除的態度を戒める」という思想を、このエッセイの主軸に据える。だが相互とは誰と誰との相互なのか。いわゆる従軍慰安婦とはもとよりサバルタンであり中岡という表象代行者によってここに登場しているにすぎない。そして中岡の文章に苛立ちを感じた何人かの読者も投書がたまたまその新聞の文化部次長の目に留まったことによりここに登場しているにすぎない。つまり、「相互の寛容」の相互とは、言論のリングに上がった者同士のことをしか意味しないのだ。しかしこのような自己の特権性というテーマは中岡では取り上げられない。

「誤りうる」ことの対極にあるのは、自分を「誤りえない」もの、絶対に正しいものと信じることであろう。あたかもローマ教皇が「不可謬」と信じられたようにである。(中岡 p101)

「正義というものが一方の側にだけある」とされること、通常戦争においてはそれが必要とされる。しかし一方で戦争には敵の存在が必要だ。その上に勝利の決まった戦争はない。「私が誤りうる存在である」ことを骨肉から知っているのは戦争遂行者に他ならないのではないか。

自己と自己の信念の関係を問うという問題意識は私にはスコラ的なものに思える。

「「盲目状態」に自分が置かれていることを承知で、「同時期」の出来事について発言を敢行する」という態度を評価する加藤典洋を、中岡は批判しようとする。批判しようとすること自体は良い。「「盲目状態」に自分が置かれている」というシチュエーションを一度でも我がものとして思いめぐらせたことがあるのだろうか。*1

*1:ないわけではない。彼は自分の属する大学教養部解体という情況に深く関わり、消耗感を味わった。中岡の駄目なところは、消耗感でもってそれを自己にとって非本質的として切り捨てようとしているところだ。

反ブッシュ、小泉!

ブッシュが来る!小泉が来る!

11/16 日米首脳会談 in 京都・迎賓館 抗議行動へGO!

11月15日(火)18:30~

円山公園ラジオ塔前集合、その後デモへ

(京阪「四条」駅下車、東へ徒歩10分/市バス206号系統「祇園」下車)

11月16日(水)午前10:00~

京都教育文化センター集合、迎賓館に向けてデモへ!!

(京阪「丸太町」駅下車、5番出口より東へ徒歩3分)

※出町三角州集合は使用許可が降りなかったため、変更になりました。

デモに行くことは市民の義務だ。

 というのはもちろん、「投票に行くことは市民の義務だ」のパロディである。

 いままで多くの良心的知識人が投票に行くことを本気で勧めてきた。そこになんらかの真実が有ることは否定しない。しかし投票とはその装置(投票所を設置する者、つまりは国家)への信頼を前提にするものであることをはっきりさせずに、投票の勧めだけを唱えることは国家に包摂されることを自覚的に肯定することにもなりかねない。*1

 デモに行くことは市民の義務だ。というのもおかしいといえばおかしい。義務というのは誰かによって課されるものだから、市民が主権者であるならそれより上位の権威は存在しない。しかし民主主義とは、一たりえない多者が一になれるとする逆説である。その構成要素としの意志は議会に於いてだけではなくて可視化されなくてはならない。そしてわたしの一個の意思がそれに直結することが可能でなければならない。このように書いてみると、デモを支える思想というのはわたしたち普通の市民には共有されていないという情況が明らかになる。わたしたちは制度として与えられた民主主義をもっているがそれはいまや陽炎のように消えてゆこうとしているのだ。

 まとにかく消えてゆくのが市民の意思ならしかたない、私は嫌だが。

 ところでデモとは私一個が参加するものだろうか。そうだと思う。誘い合って参加しましょう、とたとえそうであってもデモとは<意思>表示であり、その意思とは私一個と国家との関係である。我々が堅く手を組んだからといってそこに<我々>なるものが成立したと考えるのは誤りである。たまたま共通のスローガンを叫ぶ群衆としてそこに歩いて行くだけだ。

 デモが忌避されるのはそれが余りに誘惑的だからかもしれない。一瞬であっても我々が成立したかのような思いというのは奇跡であり、それを基準に生きようとする誘惑にさらされる。

 オタクはデモを忌避しなければオタクであり続けられない。彼らはいつでも自己を守るために必死である。たかだか一時的なスローガンの唱和でしかない物に対し、それは同一性への拝跪(はいき)だとヒステリックな批判を差し向ける。彼らの根拠は自己の肯定である。彼らの自己はデモという交通形態にさらされることができないほど弱い。

*1:ちょっとあやういな

口には出さない憎悪

どこぞのブログで炎上してましたが、まあ『表現の自由』とか『民主主義のため』とかいっていらないよって言っているのを無理やり敷地に入ってこられてビラをつっこまれるとかそういうのはやめて欲しい、ってそういうことでしょう。至極当然の話です。

http://d.hatena.ne.jp/keiroku/20051209

けーろく奮闘記 – へっへっへ~

私はkeiroku氏を憎悪する

            遺書

                 1936年3月11日生

                 1992年3月11日~  松下昇 (印影)

1.死亡の時間を延長する措置は不要。

2.死亡の通知はどこへも不要。風のたよりに任せる。

3.死亡診断書を添えて火葬の手続きをし、死亡の場にいる任意の者が実行する。

4.密葬~公葬を含めて全ての葬儀はしない。

5.遺骨は墓地に埋葬しない。一部を希望者の保管に任せる他は廃棄~散布自由。なお、 未宇の眠る{B109}には野草以外のものは不要。任意の人の散歩の場所にする。

6.遺品は私の文書および口頭による指定のある場合を除いて譲渡、複写、刊行はせず、 基本的に廃棄してよい。

id:mujige発言続き

mujige 2010/12/06 09:00 id:noharra 氏、指摘されて「まずい」と思ったからツイートを削除したんでしょうが(名誉毀損が成立しておかしくないレベルですから)、それをわざわざ自分のブログに転載って、やってることが理解不能です。ブログが公的な表現物だということが分からないのでしょうか。

mujigeさんへ。

http://teri.2ch.net/korea/kako/986/986434444.html HANBoardについて考える PART12 投稿日: 2001/04/05(木) ~2001/05/21(月)

には、上記以外にも、米津篤八さん? に対する言及がたくさんあります。

ここのコメント欄あるいはどこかのブログで反論されたら如何でしょうか?

中道右派to野原氏 『

一部修正

>2-3.①2-1事件後の警察の対応

警察は要注意人物として大内に監視の目を光らせ、彼の勧誘を受けた周旋業者に説諭して、慰安婦の募集を断念させたが(山形県の例)、しかし和歌山のように婦女誘拐容疑で検挙することはしなかった。

②についての永井の解釈(以下、『大内事件処理の永井解釈』という。)

②の後に、①を挿入してください。

3月15日付けと3月19日付けの私の該当コメントを、『永井和論文の批判的検討』などといったタイトルで独立のエントリにしていただけると、うれしいです。』(2007/03/28 00:35)

213 今日も混沌未分なり 野原燐 2003/07/26 18:05

日本書紀冒頭にはこうある。

「 古(いにしへ)に天地(あめつち)未(いま)だ剖(わか)れず、陰陽(めを)

分(わか)れざりしとき、

渾沌(まろか)れたること鶏子(とりのこ)の如(ごと)くして、溟(ほのか)にして

牙(め)を含(ふふ)めり。」

http://www.meijigakuin.ac.jp/~pmjs/resources/bungo/02_nihonshoki.html

林羅山はこう書いている。『神道伝授』という本で。

「混沌は一気のまろきを云うなり。天地開けず陰陽未だ分かれざる時、コントンと

マンマロにして鶏子のごとし。その中に神霊の理 自ずから在りて未だ現れず。

その分かれ開くるに及んで天地の間に万物生ず。」

「また人の心にたとゆれば、まどかなる理の中に、動と静とを合わせて

念りょ未だ芽(きざさ)ざるは、コントンなり。既に動発して種々の思うこと

多く出来るは、天地開け万物生ずるに似たり。神は未分の内より備て、開闢の後に

あらわる故に、始まりもなく終わりもなし。人心も同理なり。

静にして虚なれば、今日も混沌未分なり。」

(p26 『近世神道論・前期国学』日本思想体系)

<太極にして無極>を宇宙の根源とする朱子の思想の焼き直しともいえるが、

混沌を直接肯定するのは儒教からは外れている(のではないか)。

今ここに在るわたしでも、<静にして虚なれば>、宇宙を開く混沌未分

という原理がそのうちにあるのだ、というのはちょっと良いと思った。

<静><敬><未発の中>などというのは宋学においていわば士大夫が

聖人になろうとする方法にすぎないともいえる。(そこにおいて、宇宙原理たる

理と一体化していかなければいけないのだが。)それをむりやり、

日本神話の原初の混沌に結びつけたのは大変な力技だと思える。

「マンマロニシテ」なんていう純日本語が出てくるところもおかしい。

「民は神の主なり。民とは人間のことなり。人有りてこそ神をあがむれ、

もし人なくば誰か神をあがむる。然からば民を治むるは神をうやまう本なり。

神徳によれば人も運命を増すべし。」p14

もう一つ引用してみた。儒者にとってはうまく民を治めるのが目標なのは当然

なのだが、神が出てくるのでなかなかおかしい。

というわけで、名前だけは高校教科書にしっかりでてくるが仁斎などと違い

著作は一冊も見たことがない林羅山先生の文章を引用してみました。

                     野原燐

岩波の日本思想体系は註は充実しているが現代語訳がついてないので、

わたしには難しいです。前から探していた『山崎闇斎学派』というのを見つけた

、翌日十冊ほどのこのシリーズを1,200円で店頭セールしていた。

『キリシタン書・排耶書』というのを選び、あともう一冊ぐらい買っとこうか

とこの本を選びました。スピヴァックやアレントであればマイナーとはいっても

興味を持つ人はいるわけですが、日本儒教になど誰も関心を示しさないでしょうね。

わたしも積読だけになってしまっては困る、そこでここで一人でむりやり書いて

みているわけです。

さて、羅山の文には「摩多羅神」なんてのもでてきた。なんだかいやらしそうな

神だなとグーグル検索してみたらいくつか記事が出てきた。

摩多羅堂という専門のサイトがあり正体不明のこの神について丁寧に紹介していた。

http://mataradou.hp.infoseek.co.jp/s1.html

人生は偶然か

・・有機体は、偶然のつながりのなかで生きているかにみえる。*1

見たところは偶然に見えるが、本当は「自己保存の必然性」という本質をもっている、とヘーゲルは言う。でもこれは現実が自分の理論に当てはまっていないのにむりやり理論を優先させて、レトリックで誤魔化しているところだ。

・・有機体が行うことは、一般的な概念の埒外にあり、その直接的内容からするとまったく法則性がないものである。だから、その行為には内容もなければ効力もなく、機械の働きにも及ばない。*2

ここはけっこうクリティカルな部分だ。一般に人間のやることは、機械や動物よりも偶然性やデタラメ性が強い。一面ヒューマニズムの代弁者であるはずのヘーゲルはしかし偶然性を許容できない。しかし機械の方がまし、と言ってしまえば、恐怖の全体主義国家主義者ヘーゲルになってしまう! フランス現代思想がjeuとかいうのはこういうところからきていたのか。ところで偶然とは何か?

ところで、AJさんへの応答と「主と奴」レジュメが遅れています、すみません。

*1:p181『精神現象学』

*2:p182

原則(松下昇の)

今後の討論~実践活動において踏まえておくぺき原則として…

自分が自明であると考えている発想を、いったん全て疑いなおしてみる。全社会・全文明の現状を最も抑圧された位置から、最大限に自由な視点で把握しなおしてみる。各人にとってこの作業がどのような差異と共通性をもっているかの確認と、活動への応用。(p3『概念集・10』~1994.3~より)

 デリダの<メシアニズムなきメシア性>あるいは<憑在論>に興味を覚え探求したいと思うと同時に、それは必ずしもわたしがしなければならないことではないと思った。わたしにとってデリダのそれらの概念は、なにより“松下昇の < >”を説明するために有力な助けを与えてくれるものと受け取られた。したがって、そのことを表現するためには、どこでも手に入るでデリダではなく、入手不可能な松下昇をまず説明しなければならない。だいたいからしてわたしがHPを立ち上げたのは、<松下昇への接近>が目的でした。松下昇氏はすでに亡くなっており、かなりの量のパンフレット類を残しています。したがってそれらの一部を電子テキスト化し、HPで紹介することは比較的容易に出来ることです。にもかかわらずその作業は遅々として進んでいません。もちろん原因は私の怠慢にあります。ですがそれだけではない。「松下昇は亡くなった」とは本当なのか。仮に(デリダ風に)松下が亡霊だったとしたら、「亡霊性とは、ここで、最もラディカルな政治化の形態であり、ノイローゼや強迫神経症のような反復の中に閉じこめられているどころか、エネルギッシュなまでに未来志向で能動的なものなのだ。」*1

私にとってもあなたにとっても、松下昇は固定された過去のテキストとしてコピー可能なものではなく、1行コピーすることが、世界大の不安を背負った飛翔であるような現在形~未来形の行為であるのだ。

*1:p29『マルクスと息子たち』より、ジェイムソンの言葉だがデリダもそのとおりといってる。