カテゴリーについて、東亜とは

 この日記システムは「はてなダイアリー」というのだが、文章をカテゴリー分け出来るようになっている。整理能力のないわたしはいい加減でまだ分けていないのもあるが、一応[中東][東亜][trad][idea][post]などと分けてみた。

 パレスチナ問題やイラク戦争などが[中東]。

 あまり関心を持っている人はいないのではないかと思うが、儒学や神道についてが[trad]。

 まだ何も書けていないが、現代思想、ポスト構造主義(フーコーなど)などが[post]。

 ヘーゲルの後何も書けないかもしれないが、19世紀までの(西洋)哲学思想などが[idea]。

 [東亜]は、現在の日本人がアジア太平洋戦争(大東亜戦争)などをどう総括しているか、という問題と、脱北者などで問題化している北朝鮮金正日体制に関するものを、同じカテゴリーに入れました。台湾、朝鮮、旧満州、などなどの地域に広がった日本人とそれに関わらされてしまった日本人以外の戦前と戦後の問題を考えたいとするものです。

http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/dai.htm

なお上記「わたしたちは忘却を達成した――大東亜戦争と許容された戦後――」に野原は、「太平洋戦争」ではなく「大東亜戦争」という言葉、を使う理由についてこう書きました。

「 十二月八日を開戦記念日と言い、第二次世界大戦とか太平洋戦争という言葉しか使用しない。それでは、日本が中国と戦ったことを皆が忘れてしまっても、当然だろう。日本はアメリカに占領された。従って日本はアメリカにだけ、負けたのだという図式が強かったのは当然だ。しかし、現在までその構図が崩れていないのには、理由がある。日本は中国に負けた、と思いたくないのだ。明治以来、東アジアでも最も先進国、というところに日本のプライドはあるのだから。大東亜共栄圏というスローガンを掲げながら、「中国人を殺すことが善」という殺人鬼を、多数養成したこの戦争は、やはり大東亜戦争と呼ぶしかないだろう。」

批判があれば考えていきます。

先日読んだ子安宣邦『「アジア」はどう語られてきたか』という本は、東亜という表記と概念がおってきた歴史について丁寧に批判を展開しています。紹介したいと思いますが今日はできませんでした。

なお、今日カウンタを設置してみました。

自衛隊監視テント村が弾圧を受けた

下記サイトによれば3名の事後逮捕があったということです。大衆が、行った者はしかたない元気に帰ってきて欲しいという「しかたない」意識に傾いているので舐められた、ということでしょう。

2月27日早朝、私たち立川自衛隊監視テント村は「イラク反戦」を理由に全面的な弾圧を受けた。逮捕者3名、事務所・個人住宅の家宅捜索6ヵ所。これは小さな反戦市民団体としては大きな打撃である。令状には、1月17日に自衛隊官舎に反戦ビラを配ったことが住居侵入にあたる、とあった。 団地のポストにチラシ広告を投函する全ての行為がこの弾圧の対象になりうる。はてなダイアリー – 隔離される私と相互監視社会

自衛隊即時撤退せよ(続き)

バクダッドのリバーベンドさんのブログから少し引用させてもらいます。http://www.geocities.jp/riverbendblog/

「2004年4月4日日曜日」の一部 バグダードとナジャフでは、アル・サドル支持者のデモが続いている。バグダードでは、グリーン・ゾーンとシェラトン・ホテルの近くに何千人も集まっている。怒りにみちた黒衣の大群衆。ナジャフでは、デモの群衆は、スペイン軍駐留地のすぐ外にいて、スペイン軍兵士は彼らに向けて発砲した。少なくとも14人が死亡、数十人が負傷と伝えられる・・・ (略)

 これだけははっきりさせておきたいのだけれど、私は、アル・サドルの支持者では”ない”。イラクを第2のイラン、サウジアラビア、クウェートにしようとしている聖職者たちは嫌いだ・・・だが、デモに対し、軍隊が銃弾と戦車で応じているのを見ると、心底激しい怒りがこみ上げてくる。集まった人々に向けて発砲するつもりで、デモを許可したってわけ? デモの人々は、武装していなかった、ただ怒っていただけ__最近ブレマーとその一派がアル・サドル派の新聞を発行禁止した。また、サドルの側近ナンバーツーが南部でスペイン軍に拘束されていると言われている(スペイン軍は否定しているが)。サドルの信奉者たちは憤激している。そして、(ちゃんと聞いてね)__その信奉者たるやほんとに半端な数じゃないのだ。(略)

そして、ラムズフェルドたちはアブサドル一派をアルカイダ並の主要敵に位置づけてしまった。自衛隊は「復興支援のために」イラクに存在する、なんていう理屈はいまやびしょぬれになったティッシュのように崩壊した。イラク人の集団と闘い彼らを殲滅する自衛隊を望む人たちだけが、自衛隊即時撤退に反対するだろう。

リバーベンドさんのブログ(の翻訳)によれば、かっては女性たちでにぎわっていた市場は今や女性たちにとって危険な場所になり、ほんの少数の女性たちしか見かけなくなった、とのことです。しかも女性たちは例外なくヒジャブを被っている。米軍はアフガンでは女性をヒジャブから解放したと宣伝された。1年間の米軍主導による統治はその逆をもたらした。つまり失敗したのです。

おそらく現在も

我々アメリカはアパッチ戦闘ヘリとF16戦闘機、そして様々なミサイルを使って家々や女性、子ども、学校、病院を破壊している。それにもかかわらず、自分たちの家や家族、文化を破壊から守ろうと我々を止めるために立ち上がる人々のことを「テロリスト」と呼ぶ。ここでもまた、我らが米軍や米国政府の者たちは言語を逆さまにしている。

(「逆さまのファルージャ」サム・ハモッド Information Claring House原文) 益岡賢氏のページより  http://www.jca.apc.org/~kmasuoka/  

北野勇作 ささやかな日常?

北野勇作はわたしが知らなかっただけで有名人のようだ。最近は『人面町四丁目』という新作も出たようでリンクも多い。そのうち下記が丁寧に批評していた。

http://d.hatena.ne.jp/marron555/20040712#p1(風街まろんさん)

いままでのSFは青春小説だった、「状況を動かすことへの主体的な意志や、逆に世界に関わることの不可能性に対する絶望を描く」。それに対し「北野勇作のSFはその正反対にある。大状況がどんなに揺るごうとも、個人の力がどんなに無力であろうとも、ささやかな場所を得てささやかな日常を生きるスタンスは揺るがない。」「いわば中年小説」とのこと。

なるほど。これはSFというより小説一般、いやむしろ現在の青春の不可能性そのものに関わる問題だ。いや「青春の不可能性」をテーマにしてしまえば青春小説になる。不可能性をその主観的形態「絶望」において描こうとするのが従来の小説であったとすれば、そうではない形態(ゲーデル的とでも言っておこうか)で描こうとするのが北野SFかもしれない。

モルデハイ・バヌヌ

オノ・ヨーコがジャーナリストのシーモア・ハーシュとイスラエルの核の内部告発者のモルデハイ・バヌヌに平和助成金を授与した。(ニューヨーク) 

パトリオティスム

吾人の観たる多くの偉人は何物よりも故郷を愛するの念強かりしが如し。*1

故郷(パトリ)も愛せないくせに、「日本国及び国民の誇り」なんて言ってんじゃねえぞ。>プチウヨ

*1:中里介山『中江藤樹言行録』内外出版協会p26

男の暴力

怒りにかられた男に楽屋に引きずりこまれる。先ほど渡した名刺はクシャクシャにして投げ捨てられた。拳で4、5発殴ったうえ、男は私の髪をつかんで頭を壁に打ちつけた。私のリュックサックとバックを奪い、床に打ちすて、ふみつけにする男。男はリュックを拾いあげ、ふりかざされたリュックは凶器となって私の頭部を直撃した。持ち物が壊れ、メガネがゆがむ。そして、男は私の顔面に唾を吐き捨てた。(*1)

http://shibuya.txt-nifty.com/blog/2004/11/index.html ゆるい日記: November 2004 Archives 2004.11.01

「お笑い界は感覚がマヒしている」という言葉は正しくない。「オトコ界は感覚がマヒしている」と言うべきなのだ。「お笑いの世界は……」という時、人は自分の世界のことを棚にあげている。「まったく芸人はしょうがないね」なんて言ってりゃ、自分のしょうがなさに目をむけなくて済む。(同上より)

社会学者・渋谷知美さんのサイトから一部だけ引用させてもらいました。

id:eirene:20041101経由)

―島田紳助の暴力事件というニュースを聞いたとき、何の興味も持たず、テレビも見ないので忘れていた。今も詳細には興味がない。

うちの職場では、女性の課長が1割強しかいないから(そのうち)3割に増やすべくプロジェクト会議を開いたりしているようだ。平和な話である。もちろんセクハラ事件があって云々という話もあるのだがそれほど身近に感じていなかった。それで上記の暴力描写にちょっと驚いた。それだけ。

(追記)

野原燐が「それだけ」と書いているのはちょっとおかしい。

論点は少なくとも二つ在る。

この問題には、殴った側がベテランタレント、殴られた側が入社4、5年の社員という非対称性、そして殴った側が男性、殴られたのが女性という地位とジェンダーをめぐるふたつの非対称性がある。(同上)

という権力関係の不均等が、露骨な暴力シーンの表現を(マスコミにおいても、ブログにおいても)抑圧しているという問題。

それとわたしの身体に暴力性はある、という問題。