わたしは否応なしにアジア人だ。

日本人は東洋人であるということは歴史が否応なしに日本人に教えてくれたんだ、とこの水村の文章は述べている。

【「もう遅すぎますか?」--初めての韓国旅行 水村美苗】、をもう一度読んでみよう。

引用した部分の骨格は次のようだ。

韓国人と日本人は似ている。であるのに日本人は欧米人と日本人の類似性にばかり目を向け、韓国人と日本人の類似性に気付かない。

しかし、それにすぐ続けて水村は言うのである。「今となってはなんと旧い世界観かと人は言うであろう。すべてはここ十五年ほどで音を立てて変わってしまった。ことに、中国という国が世界市場の中央舞台に躍り出たのが決定的であった。」ソウルの高級ホテルのラウンジの隅に座って、三人の若い女の人たちが演奏するグローバル・ミュージックを聞きながら、水村は言う。

「人口十三億以上と言われる中国が世界市場に参加し、その破格な規模での経済成長がこの先いかに人類の運命を左右するかが見えてきてから」日本人の脱亜意識も変わった。21世紀の半ば、日本は巨大な「環中国圏」の一部でしかなくなるだろう(溝口雄三氏の意見)。わたしたちはこの圧倒的な「中国の衝撃」を間近にしている。このとき

南北統一という途方もない課題を抱えているといえども、この日本にどこまでも似た韓国こそ、日本が受けねばならない『中国の衝撃』を最も深く共有できる国なのである。日本という国が、空々しくも図々しくも、今となって急にそんな兄弟がいたことを懐かしく思うようになったとしても不思議はない。兄弟が出世してくれ、りゅうとした格好をしているのだからなおさらである。日本のテレビの画面には、韓国の寒村の花嫁の代わりに、韓国のまばゆいばかりの美男が次々とめまぐるしく登場するようになった。日本は片思いする女のように、派手に、甘ったるく、押しつけがましく、韓国に身を擦り寄せるようになった。大国、中国・アメリカと今後どうつきあうかは相手の出方やその時の世界情勢によるであろう。だが、歴史の荒波をくぐり抜けるのに、これだけ近い韓国とは肩を寄り添わせていかねばならぬという気持ちは日本の方にはある。

 なんともげんきんな日本だと韓国は言うかもしれない。(同上p341)

わたしたちはある高揚感に頬を染めながら息せき切ってアジア人になり、ヨンさまのもとに駆け寄る。客観的に見ればそれは「もう遅すぎる」ところの五十女の勘違いと言われてしまう可能性が高い。だが、相手には理解できないだろう問題設定を身勝手にも相手も理解しうることが当然と勘違いしうる恋と呼ばれる特権が、他人との境界を越えうることもまた事実だ。

「ここ数年「不定愁訴」に悩まされ続けている私は、ともすればかんたんに世の中に絶望した(同上)」。簡単な絶望、あるいはそこからくる他者への裁断が全く不毛な物であることは言うまでもない。

 日本から抱えてきた問いは、宙ぶらりのままである。

 夜は更け、三人の若い女の演奏家はすでに楽器をしまってどこかへ消えてしまった。

 三十年前の私は、自分が若いことを知らなかったが、今、若い人に、あなたは自分が若いのを知らないと、そんなことを教えても無駄である。三十年前の私は自分が東洋人であるとも知らずにパリを歩いていたが、今、それは、歴史が否応なしに日本人に教えてくれるようになった。残るは、その歴史が教えてくれたことを、いかにこの身に引き受けるかであり、それは、いかにこの先歴史にかかわっていくかということである。(p347)

この水村の14頁の文章は繊細なガラス細工のように巧妙に作成されている。若いがゆえの無知(自分が若いことをしらない)と「自分が東洋人である」ことを知らない(歴史的に形成された)無知。認識の裏側にあるエロス性を丁寧に滲ませることで、二つの無知をみごとにシンクロさせていく。(まあ考えてみれば最初から事実なんだからと言ってしまえば身も蓋もないのだが)そのような狡知をたどり読者はやっと「自分が東洋人である」ことを否応なしに納得する。

試みとしての女性国際戦犯法廷

 「東京裁判史観」という概念がある。*1

 女性国際戦犯法廷というものは揶揄にしか値しない存在だ、と信じて疑わない者たちは、と東京裁判史観というパラダイムを乗り越えようと全身で試みたことのない人たちだ。ということは確かだ。

 それだけでなく、それ無しでは生きることができない正義を求めざるをえない情況におかれ、国家が設置している法廷では自分の求める正義がとうてい得られそうもないことに絶望し抜いた経験も持たない、おめでたい人たち。

私ではない誰かが裁き、そこに自分が正義と感ずる物が実現されるべきだと考えているのかいないのか、とにかく「裁く」ということはわたしの仕事ではないことになんの疑問も持たない、そのことは、民主主義という言葉の意味を知らないといことになるのではないのか。

ある矛盾や苦痛の根源は世界規模の共通性を帯びており、従って世界規模の人々の対等な審理によって解決へ接近しうることはいうまでもない。そのような回路の設定はインターネットの転倒的応用によって既に技術的には可能なはずである。その設定を現在の技術パターンと国家群が阻止しているだけであり、(松下昇)

http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/tokyo4.html#kyokuto

 このような問題意識に立ったとき、ひょっとしたらその実現された形には多くの問題点を指摘しうるのだとしても、「女性国際戦犯法廷」は未来を開く試みとして高く評価されるべきである。

 女性国際戦犯法廷の全記録は公開されている。したがってその判決に不服がある者は、しかるべき証拠を提示すれば、再審請求できるはずである。このような開かれた審理システムを予感させるのが、その可能性であろう。

*1:それは、第二次世界戦争に関して日本がおこなった行為に対する戦勝国家による裁判の権威と判決の正当性を認め、それによって戦争だけでなく戦後の全ての問題の評価軸とする歴史観である、とひとまず規定しておく。 松下昇http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/tokyo4.html#kyokuto

自分のした事実を認めること

 慰安婦問題を考える枠組みとしては、下記の星野智幸さんの意見が正しいと思います。引用させてもらいます。

  でも私が一番おぞましく感じるのは、漠然とちまたに漂うリベラル嫌悪である。今回の問題も、従軍慰安婦をめぐる考え方が根っこには横たわっているのに、従軍慰安婦自体を問題化させまいというような風潮を感じる。今年は戦後60年を迎える。10年前、戦後50年のときには、従軍慰安婦の存在を疑う人は圧倒的な少数だった。過去におこなったことはおこなったこととして認め、しかるべき反省と和解をし、次のステップに進もうという、冷戦崩壊後にふさわしい空気が主流だった。

  それから10年たって、従軍慰安婦の問題を考えること自体を「偏向」と見なす人が急増している。戦時中に日本が朝鮮や中国に対して行った行為についても、なかったことと見なす人が増えている。あいつらの言い分を呑んでたまるか、みたいな気分から、戦後に実証されてきた事実を葬ろうとする。言い分を呑まないことと、自分のした事実を認めることはまったく別の話だ。これではまるで、横田めぐみさんの骨がニセモノだったという鑑定結果を、「捏造」と切って捨てる北朝鮮の態度と変わらないではないか。かさにかかって「なかった」と言えば、本当になかったことにできるとでもいうのか?

http://www.hoshinot.jp/diary.html

星野智幸の日記 1月26日

 リベラル嫌悪の奥には、女性への侮蔑、朝鮮半島や中国大陸の人間への軽蔑がある。持てる既得権益を手放し分配する以外に行き詰まりを打開することはできないこの日本社会で、その現実を受け入れられない層が逆ギレしている。いくら家庭内で暴れまくっても現実は変わらないのに暴れている、子どもじみた反応。それに少しずつ同調する立場へとシフトしていく、朝日新聞を始めとする旧リベラルのメディアたち。(同上)

 もう一つ結論部分も引いておく。非常に明快。ただそこまで言い切ってよいかどうかは疑問も残る。新自由主義イデオロギーが勝利しており、それが出自からすると異質な悪質なナショナリズムなどと癒着している(せざるをえない)というところかと私は思う。それと朝日新聞などが、「それに少しずつ同調する立場へとシフトしていく、」という指摘も重要。

(2/6朝7時訂正)

答え

福沢諭吉 p243『文明論之概略』岩波文庫 でした。(「の」の字が違っていた。)

全然面白くなかった? 

と書いたのと同時に11時20分、newmemoさんから正解をいただきました。

さて、諭吉とは我が国最大の啓蒙家とかいわれているので、偏見を持ち読んでませんでしたが、読んでみると文章は分かりやすく迫力があり面白い。例えば、彼は西欧の歴史を概観し、宗教改革に言及する。ルター(ルーザ氏となっているが)と羅馬法王との争いは結局「唯人心の自由を許すと許さざるとを争うものなり」。結論的には「文明進歩の徴候」と評価できる。だがその争いとは「欧州各国これがために人を殺したこと殆どその数を知らず。」であり、「殺人の禍を計れば此の新教の値は廉なりと云う可らず。」という点もちゃんと注目した。p177 西洋と東洋どころか、鼠と人においても同じ基準で論じうるととするある種唯物論的な思想の強さは、やはり感心すべきものがある。

またビラ撒き逮捕

前回の野津田高校で逮捕された2名は6日に釈放されたのですが、

3/8、農産高校卒業式でビラ撒きをしていた人が1名逮捕され

ました。

野津田高校事件に関し、地裁八王子支部が、検察の勾留請求のための準抗告を棄却決定した文章の一部。

 しかしながら、一件記録によれば、被疑者らが立ち入った上記高等学校の敷地部分は、同高等学校の門塀等物的囲障設備の外側に存在する土地であり、これを建造物侵入罪の客体である『建造物の囲繞地』と評価することは困難である。

刑法の精神を明白に逸脱した逮捕だったことが分かります。

日本は変だと思う

 N・Bさんの下記の発言には驚きました。場違いだなあと思いながらも「日帝自立論」を引用しておいてよかったなと思った。わたしたちのころは高校か大学で新左翼的なものに近づくとまずそうした論理(政治的ジャーゴン、セクト間の差異の主張)を教えられたものです。

私はむしろ、野原さんが3/20に書かれていたように、左翼ですら日本の「自立」を前提にしていた時代と、むしろ従属(ということは私たちには「主体性」が無い)だと考える時代の落差は大きいと思います、つまりバブルの崩壊以降ですが(私は「自立」の感覚はまるでないのです)。

自分というものがコンビニエント*1な環境から離脱できないことと、日本の対米従属の問題を無意識のうちにくっつけて考えている人が多すぎるのではないか。理屈で言えば、仮にもジャパンアズNo1と言われた国力があるのだから、例えばカナダやメキシコよりはずっと自立の幅は大きいはずと思えますけどね。

 というか、中国や韓国に何か言われるとすぐ内政干渉だというくせに、日本の主権がアメリカによって犯される(ている)危険についてのリアルな観察や批判というのは非常に少ないと思う。そのような情況において、「古今のナショナリズムには一定の存在の必然があるし、」といわれても、どうかなあ~としか感じません。

spanglmakerさんが「論点そらし」だと最後に書き込みましたが、ブログを見る限りでは彼はネイションの一員としての教育を施すことは自明の前提だと認識しているようです。(略)

ネイションの一体性が絶対に確保されるべきという前提を強くjuluxさんが持っていることを読み取れなかったのではないでしょうか。

申し訳ないが、上の二人のような方に対しては、悪い冗談であるかのようにしか思えないのです。日本/大日本/日本という歴史を思えば、そんな安易な論理を振り回す気にはならないはずだと思ってしまう。ブログとか読んでみるとそれなりにまじめに考えておられる方のようなのですが。(すみません。)*2

 幕末から1945年までの人にとって、思想の如何を問わず、日本及び日本人が危機という状況にあるということは自明の前提でした。*3日本人がアジア人であるということも、もちろんです。戦後の日本はこの「日本人がアジア人である」という事実を隠蔽、忘却していると言いうるのであって、非常に変だと思う。

*1:convenient 綴りが分からなかった

*2:同一性の論理を高唱する限り、わたしにとってかのおおやさんという方も同類項にしか思えず、ただ体力知力が抜群の方みたいだったので、絶対に近づきたくないと思ったのでした。

*3:大正期などの安定期には薄らいでいたでしょうが。

わが国固有の伝統文化とは何なんだ?

あるブログから勝手に孫引きしますが、毎日新聞だそうです。

衆院憲法調査会:最終報告書 改憲の説得力乏しく

 過去5年間にわたる議論を集約した衆院憲法調査会(中山太郎会長)の最終報告書が15日、決定した。多数意見に該当したテーマは「現状維持」を含め計29点に上る。焦点の9条に限らず、新しい人権や地方自治など幅広い分野に及んでおり、

(中略)

 しかし、29点のうち現行憲法で明確に対応不可能なのは「わが国固有の歴史、伝統、文化を明記すべきだ」など前文関連の2点や「憲法裁判所の設置」などごく一部。(毎日新聞)

 最近改憲に賛成の方も読みにきているみたいですが、お聞きしたいです。わたしが心配している「生きて俘虜の辱めを受けず」という奴隷道徳の受肉と、「わが国固有の歴史伝統文化」は全く違うものなのでしょうか?戦後史の何時何処でその切断はなされたのでしょうか?答えていただきたいものです。

ところで「我が国に非固有の歴史」なんてものがあるのかね。どこの国にも通用する歴史法則(マルクス主義とか)への反発を表現したいのだろうが、固有だ固有だと言いつのるばかりでは無理性の泥沼に陥る危険性もあるだろう。

誇り

事故の核心にあるのは、専門職への尊敬を失った社会という問題です。

(冷泉彰彦)