<皇祖皇宗に対し責任をおとり被遊>

 今度の敗戦については何としても陛下に御責任あることなれば、ポツダム宣言を完全に御履行になりたる時、換言すれば講和条約の成立したる時、皇祖皇宗に対し、又国民に対し、責任をおとり被遊、御退位被遊が至当なりと思ふ。今日の趨勢より見れば、或は之は難しき問題なるやも知れざれど、而し現在表面に顕れたる過渡的の動きや、米国其他の諸国の思惑等は度外視し、真理の示すところに従ひ、御行動になるが至当にして、これにより戦没、戦傷者の遺家族、未帰還者、戦犯者の家族は何か報いられたるが如き慰を感じ、皇室を中心としての国家的団結に資することは頗る大なるべしと思わるる。若し、如斯せざれば、皇室だけが遂に責任をおとりにならぬことになり、何か割り切れぬ空気を残し、永久の禍根となるにあらざるやを虞れる。

元内大臣 木戸幸一

(p132『天皇と日本人の課題』伊崎正敏isbn:4896917545

講和条約調印直前の51年秋のことである。引用は、『東京裁判資料・木戸幸一尋問調書』粟屋憲太郎「解説」からだそうだ。

「この伝言はたしかに天皇に伝わり、天皇もまた退位を希望した。*1*2

 わたしたちの憲法はその1条に天皇をいただいているわけですから、やはり天皇という一個の人格に価値の根源を求めてしまうことも或る程度避けられないでしょう。昭和の前半と後半をヒロヒトという同一のペルソナが表象しているという事実は憲法より重い。つまり日本は国民主権の国ではなくそれ以外の何かだったのです。

 ところがそうだとすると困ったことが起こります。天皇制の倫理的根源は皇祖皇宗であるわけです。宣長や篤胤も儒教の理、天、民といった審級をただ単に否定した訳ではありません。言あげせずともそのような価値は自ずから天皇とその背後(皇祖皇宗)に現象しているというのが彼らの考えでした。

 敗戦を皇祖皇宗に恥じない天皇というものはありえません。にもかかわらずわたしたちはそうした天皇を大事にしてきました。

 この矛盾を解決するためにはどうしたらよいでしょう。わたしは天皇から憲法という拘束を外すべきだと思います。憲法からいえば、1条~8条の削除ですね。こういうとすぐ天皇制廃止論者か、とか言われるわけですが、一体ひとは天皇制を何だと思っているのでしょう。*3千年以上続いた天皇制を守りたい、のではないのですか?天皇の憲法からの自立が天皇制廃止だなんて一体誰が決めたのか。解答いただきたいものだ。

*1:同上伊崎p133

*2:だが実際には、時の実権者マッカーサーと吉田茂に反対され実現しなかった。

*3:天皇制という言葉はあまりよくないとわたしも思うのですがここでは便宜上使っています。

嫌韓・嫌中はアメリカの陰謀!

http://d.hatena.ne.jp/kamayan/20051114#1131904594 カルトvsオタクのハルマゲドン/カマヤンの虚業日記

そして現在の日本の「民族差別主義者」は、アングロサクソンのポチとして、イギリスに統治されていた時代の、つまり19世紀のインド民衆やミャンマー民衆や中東・アフリカの民衆と同様に、アングロサクソンが引いた民族境界線によって民族対立を煽りあっている。バカかと。朝鮮で反日を煽っているのも同じ連中の片割れだ。東アジアが協力し合うと、アメリカや中国に都合が悪いから、東アジア間で感情のエスカレート工作を行なっている。東アジアの、ことに日本の「力」を弱めることがその「工作」の目的だ。

つまり現在の日本の「民族差別主義者」は、戦前の「軍国主義者」ほどの統治への意志も理性も知性も持ち合わせていない、真性のアングロサクソンの奴隷だ。欠片も「愛国」的ではないどころか、真に売国的である。

(余談だが、戦後の昭和天皇は、アングロサクソン帝国が植民地を現地酋長を使って間接統治した伝統に習い、アメリカによる日本間接統治のマシンとして在位し続けた。敗北によってケガレた昭和天皇が戦争責任をとって退位して、次の天皇が即位したら、「天皇」というものが真に「愛国」のシンボルになってしまうから、アメリカはそれを嫌い、昭和天皇を在位させ続け、昭和天皇とその側近はアメリカのその意図に協力した。つまり昭和天皇はやはり最大級の売国奴であり、最大級のケガレである)

 差異はあるが、わたしの主張に近いのでコピペ。

「削除記事:唐吉田氏は送還」

艾未未氏 RT;@liuweilawyers: 16日、陳光誠のために集まった唐吉田、江天勇、滕彪は警察に連行されたが、5日午前、唐氏は東北の郷里に送還された。他の江氏と唐氏については消息不明。RT @aiww :

RT @liuweilawyers: 2011年2月16日为陈光诚聚餐后,唐吉田、江天勇、滕彪先后被北京市公安局带走。3月5日上午,唐吉田已经被北京市局送回东北老家。江天勇和滕彪至今没有任何的消息。

posted at 3月8日10:07:39

(2011.3.8追記)

海老蔵中道右派 『ノーモア氏のブログを拝見しました。

3月20日から作ってるなら、さっさと教えてくれればいいのにw

まず感想を言わせてもらえば、誤解曲解印象操作が多すぎて、どこがどう間違えているかをこれから一々説明しなければならないとは、今後費やす時間のロスに気が遠くなる思いです。

しかし、これもあなたに売られた喧嘩を買ってしまった私の不徳の致すところ、誠意をもって対応せねばなりますまい。

もうすぐ休暇も終わり、母校の後輩の指導や本来の業務で余暇が大幅に減ってしまう(今でも雑務は多くてそんなに実質的な余暇の時間はないのだが)私ですが、可能な限り対応させていただきます。

とりあえず、私への呼称で厚顔氏(つい自称してしまいましたが)とか歴史修正主義者とか浅薄とかその他レッテル貼りや罵倒語は極力減らしていただきたいものです。お互い本筋の議論以外の感情的軋轢は減らしましょう。海老ちゃんくらいなら許します。』(2007/03/30 19:55)

* 海老蔵中道右派 『一部訂正

×3月20日

○3月19日』(2007/03/30 19:58)

* 海老蔵中道右派 『ノーモア氏のブログはあまりにも間違いや印象操作のための自分に都合のいい歪曲編集が多いので、とりあえずウェブ魚拓を取っておいて後ではてなIDを取得して一つ一つ間違いを指摘して説明しようと思った訳ですが、まず、風俗営業法を検索して、該当部分を原文を残した上で訂正することをお勧めしますよ。罵倒語を使ったことが全部ご自分にブーメランのように跳ね返ってきますから。』(2007/03/31 00:50)

* 海老蔵中道右派 『ノーモア氏のブログはあまりにも間違いや印象操作のための自分に都合のいい歪曲編集が多いので、とりあえずウェブ魚拓を取っておいて後ではてなIDを取得して一つ一つ間違いを指摘して説明しようと思った訳ですが、まず、風俗営業法を検索して、該当部分を原文を残した上で訂正することをお勧めしますよ。罵倒語を使ったことが全部ご自分にブーメランのように跳ね返ってきますから。』(2007/03/31 01:06)

トラックバック – http://d.hatena.ne.jp/noharra/20070319

* http://d.hatena.ne.jp/nomore21/20070329

* http://d.hatena.ne.jp/nomore21/20070319

わたしの毎日は

1.図書館に行く(書店、古書店に行く)

2.本を読む

2-2.引用、感想を掲示板などにカキコする。

3.図書館に本を返す

からなっています。

村上一郎はずっと前に死んでしまった

 村上一郎という名前をテレビで聞く、何かの犯人らしい。それはそれで問題なのだろうが、私は別の村上一郎を思い出す。思い出したのは、最近北海(http://bbs9.otd.co.jp/908725/bbs_plain)で、山中智恵子の短歌を引用したのだが、わたしは山中のことを知らず、村上が論じている人としてだけむかし知っていたのでした。それと三島の決起について論理的でなくシンパシーを寄せる文章が二つほどあって(hatena周辺に)、批判してやりたいと思ったときも村上のことを思いだしました。で今日村上一郎がちゃんとはてなのキーワードになっていることを知り嬉しく思いました。

http://d.hatena.ne.jp/mkimbara/20031227 mkimbaraさんは村上の軍隊論とか社会科学系に興味を持っておられるようだ。わたしは歌人、短歌評論家としての村上にもわからないなりに興味を持つ。検索したら村上の短歌を引用した文章があったので、無断引用してみよう。

冥らかに思想の鞍部見さけつつけふをいのちと旅果ててゆけ
                     村上一郎『撃攘』  
 この頃、しきりに村上一郎のことが思い出される。私は彼の作品の良い読者ではなかったし、あの壮絶な自死から何年経ったのかさえ今では朦であるほど彼についてのディティールに乏しい者であるが、村上一郎が常に抱えていた絶望の感覚は、現在の私たちの前にある索漠とした不安に繋がっているような気がしてならない。        昭和十六年極月、対米開戦の前夜に。
  憂ふるは何のこころぞ秋の涯はからまつも焚け白樺も焚け
  ひとひらの雲ながるる夜さらされし屍をおもむろにめぐり去るもの           昭和二十年八月二十一日夜半、一切に挫折。
  たまきはる曠野のいのち夏草をおほいて遠く果てきいくさは
  遅れなく立たむと記すたまづさに涙か汗かしとど滲みゐし
       「六十年安保」殿戦の歌。
  いっさいのことば死に果て夜は白み己れを責めることしげきかな
  野のはてにわが葬棺を曳かしめて或る日は越えむかげろふの丘
   初版一九七一年六月二五日の『撃攘』には、(私たちの知らないところの)さまざまな日本の節目における、いかにも「国風」の短歌が収められている。虚妄としての「党」や虚飾としてのイデオロギーをすべて剥ぎ取られたところから書かれているこれらの作品をあらためて読みなおしてみれば、私たちの歌壇から失われた短歌の極北の姿を示していると言ってもいい。  村上一郎は、戦争と「党派」と安保という、まさにその背後に虚無の立ち現れる時代を生き、それらがすべて失われた、いかにも平穏な時代に死んだ。そして、私たちは、それらがあらかじめ失われてしまった時代を生きている。

「きちょう」34号評論    1998/11/29

感想とかをもう少し書くべきだとは思うが、いまはできません。せめて村上の文章を1行引用しておこう。

 人間にとって、自身の底にある一貫性は、首尾、理路を有するはずでありながら、それをただ“感じる”ほかにないもどかしさ、--短歌は長くその憂悶と期待とを伝えてきた。p10『日本のロゴス』

「近代の超克」

「近代の超克」とは、昭和17年7月(日米開戦の半年後)に文学者・哲学者などで行われた座談会である。それに先立ち、S16.11.26(日米開戦の直前)、いわゆる京都学派の4人の学者*1が集まって「知的な饒舌をもってしゃべりまくった」のが、「世界史的立場と日本」である。

「東洋は近代というものをもたない。ところが日本が近代をもったということが、東亜に新しい時代を喚び起こす、それが非常に世界史的なことだ」(鈴木)*2

 彼らは現状をこう認識する。「日本はアジアにおいて唯一例外的にヨーロッパ近代の受容に成功し(略)西洋先進国に伍しうる強国となった」。日本が近代化したなら、それは普遍的な立場に近づいたということで結構なことじゃないか、戦後的にはこう考える。近代は自明の前提となりそこで思考は終わり、近代は問い返されない。 彼らの座談会に特徴的なことはヨーロッパという言葉が頻出することだ。自明の前提であるがゆえに対象化不可能である「ヨーロッパあるいは近代的なもの」を、目の前に見据え語りきろうとしている。といえばサイードの遙かな先輩とではないかと言えば、決してそうではないと決まった訳ではない。

 世界史とは「ヨーロッパの膨張」によって世界が一つになったことを指す。すると、次ぎに来るべき「世界史の転換点」を展望するためには、「ヨーロッパ的なもの」とは別の文化原理が必要になるはずだが彼らの議論はその点では弱い。*3(彼らの議論自体に当たっていないから断言できないが。)「アジアにおける日本の近代国家化の事実は世界史的意義を有する重大な事件であると評しなければならぬ。(高山岩男)*4」とそればかりが強調される。教師に与えられた価値観によってのみ「優等生」であるものがそのプライドによって教師に反抗しても敗北は必至である。・・・つまるところ、東アジアと太平洋地域を席巻したあの大戦はそう総括されるべきものだ。と言うことになる。というか、戦後日本の右翼というものの根本にもこのパラドックスがある。小泉首相において大きく開花している。

 対抗原理としては次の二つがあげられる。(1)総力戦において、市民的、資本主義的秩序そういう構造をもった国家が崩潰する。近代の世界観が崩潰する。*5(2)共栄圏を建設するとか世界に新しい秩序を建てるとかいうこと。 これが本当かどうかは、当時続いていた<支那事変>によって良くも悪くも検証される。そのことは彼らにもよく分かっていた。

(西谷)今までの支那に対する行動が、外観的には或る程度やはり帝国主義的に誤り見られる外形で動いていた。政策的にもそういう風に見られる形をとっていたかも知れないが……

(鈴木)つまり不透明さがあったんですね。

(西谷)一種の不透明があったと思う。*6

事実は帝国主義であった。つまり共栄圏の実質は存在しない。「そう認めたくない」という気持ちだけが良く現れているこの対話からはそれがよく分かる。

*1:高坂正顕、西谷啓二、高山岩男、鈴木成高

*2:p189子安宣邦『日本近代思想批判』isbn4-00-600110-Xより孫引き

*3:「レトリック以外のどこで「近代」が超えられているのか。(子安)同書p198」

*4:p190 同書

*5:同書p194

*6:p195 同書より

『新潟』ノート2

 詩集『新潟』を読むはずが全然進んでいません。でも3月25日に3行だけで処理した詩行たちに、いまではもっと親しめるようになった、とは言えます。

 第2部「海鳴りのなかを」は、「河口に土砂に埋まった丸木船がある。」*1という挫折を確認するところから始まる。故郷へ海を渡ることを強く思いながら、それはついにかなわないものとしてあるのだ。「海をまたいだ船だけがぼくの思想の証ではない。またぎきれずに難破した船もある。」*2「ぼくが沈んだ幻の八月を明かそう。」*3 ここで、<挫折>は“更に深く穴ぐらを掘らねばならない”そういった営為だと言われる。 ところが比喩だったはずの<穴ぐら>は、「ひしめきあいせめぎあったトンネルの奥で盲いた蟻でしかなくなった同胞が出口のない自己の迷路をそれでも掘っていた。」*4と日本の戦争中の実際の穴ぐら掘りに転換する。ここには註がないが、(約七千人が動員されたという)松代大本営の掘削のことをイメージして良いだろう。「山ひだを斜めに穿ち蛇行する意志がつき崩すショベルの先に八月は突然と光ったのだ。」*5「なんの前触れもなく」輝かしい解放が突然やってきた。その輝かしい八月の光の裏には、原爆の光も焼き付いているだろう。「人が流れとなりはやる心が遠い家郷目ざして渚を埋めた。」*6故郷への熱い大きなベクトルが描かれる。だが「袋小路の舞鶴湾を這いずりすっかり陽炎にひずんだ浮島丸が未明。夜のかげろうとなって燃えつきたのだ。」*7日本の敗戦の直前二五〇万人近くいた朝鮮人のうち半数以上が帰国した。だが浮島丸事件のように帰国の意思が無惨にも中断させられた人々もいた。<ぼく>は彼らと同じように海の底でうずくまったままだ。*8

 2章。「常に故郷が海の向こうにあるものにとってもはや海は願いでしかなくなる。」*9 ところが次ぎに転換がある。「待ち侘びて渚に彫像となった少年のものうい記憶へ終日波がくずれる。」*10海辺で佇んでいる少年は済州島に居るようなのだ。<海の底でうずくまったまま>という比喩が再度現実化される。「測りようのない底へにうずくまる父の所在へ海と溶けあった夜がしずかに梯子を下ろす。」*11「黄ばんだ網膜に古いネガとなって生きている父。数珠つなぎにしばられた白衣の群があぎとを開いたままの上陸用船艇へ間断なく呑まれてゆく。帯のないバジを両手で合わせもち動くコンベアーにでも乗せられたような父が背のびし振り返りそのつどつんのめりつ船艇へ消える。」*12おそらく押さえつけるような沈黙の中で、白衣の群は少しづつ船艇に呑まれてゆく。そして沖へ運ばれる。「日が暮れ日がたち錘の切れた水死人が胴体をゆわえられたまま群をなして浜に打ち上げられる。」*13「この期間虐殺された済州島民の数は73,000人を越える」といわれる被害者たちだ。「潮は満ち退き砂でない浜の砂利が夜をついてごうごうと鳴る。」*14「亡霊のざわめきにもふやけた父を少年は信じない。二度と引きずりようのない父の所在へ少年はしずかに夜の階段を海へ下りる。」*15蜂起とか内戦とかテロリズムとかいくらどぎつい言葉を連ねても足りないほどの動乱。作者は実際その渦中に在った。だが体験したことは書けない、と金時鐘は言う(かもしれない)。金石範が書けるのは体験してないからだ、とは言っていた。金時鐘が書くのはすべてが終わった後の屍体、海の底から浮かびあがり夏のせいで相貌さえ定かでないほど速やかに腐乱してゆく屍体たちだ。だが阿鼻叫喚はない。すべては無言のうちにすすむ。ところで<梯子>(あるいは階段)とは何か?海深く沈められたのは屍体だけではなく、対象化しきれずにその血の滲む肌を無理矢理幾重にも梱包し意識の奥深くに抑圧した時鐘自身の記憶たちである。魔法の階段を通らなければそこにはたどり着けない。

*1:p372『原野の詩』

*2:p375同書

*3:p376同書

*4:p379

*5:p380

*6:p380

*7:p382

*8:p383

*9:p383

*10:p385

*11:p386

*12:p388

*13:p390

*14:p391

*15:p393

バクダッドの良寛

4/17の毎日新聞朝刊によれば、パウエル国務長官は人質になっていた3人について「日本は誇りに思うべきだ」と語ったそうだ。「危険地帯に入るリスクを理解しなければならないが、そのリスクを誰も引き受けなくなれば、世界は前に進まなくなってしまう。彼らが危険を冒して人質になっても、責めて良いわけではない。」と。 Ventureを誉めたたえるアメリカ人らしい発言だ。最悪なのは冬柴と福田などなどだ。

人質も自衛隊も出ていった点では同じで、反対派はいずれも「帰ってこい」「出ていくな」と叫んでいる点で一致している。これは日本以外では異常に見えるのかもしれない。

さて、高遠菜穂子さんなどの行動は、(憲法前文にある)平和実現のための「崇高な理想と目的」をもってなしたものとも理解しうる。しかし、 現地の人々からも見捨てられたストリートチルドレンと遊ぶのを純粋に楽しんでいた、浮き世離れした人というイメージで高遠さんを捉えたい、野原は。バクダッドの良寛さん、ですね。自分の楽しみのための行為だ、ということと世界平和のための崇高な行為だ、と言うことは背反するわけではない。むしろ前者でなければ後者は達成できないのではないか。自衛隊の復興支援は不幸支援になっている(だじゃれはタイプミスのため)。復興支援のためにもヴォランティアの方が小さな予算でよほど大きな効果を上げうると指摘されているが、このことと関係があるのかもしれない。役人のやることは美辞麗句で事実を誤魔化す方向にどうしても流れていくから。

(追記 4/20)

パウエル発言については、http://d.hatena.ne.jp/pavlusha/20040417#p4 には、“「国に帰ってきたらベイビーキラーだのなんだのと陰口を叩かれ、駐車場係の職すら貰えなかった」っていう、Viet-vet(ベトナム帰還兵)のルサンチマン”が言及されていて興味深かった。

素直に考えれば、パウエルは国連主導でのイラク国内の安定を望んでいる。国連自体というよりも、治安悪化でやむなくイラクを去った国連NGOやボランティアグループが大挙して戻ってきてくれないとどうしようもない、と思っているのだろう。日本人もおおむねそう思っているのではないのかねー?