靖国神社参拝反対

「(内閣総理大臣就任後は)日本のために犠牲になった人のために参拝する。」と小泉氏は言ったそうだ。だが何度も言うが、例え戦争を始めたとしてももう少し合理的に戦い、どうしようもなくなったら降伏するという方法もあった。そうすれば死ななくて済んだ人はたくさん居たのだ。彼らは「日本のために犠牲になった」わけでは必ずしもなく当時の支配者の、市民の犠牲より大事な物があるという思想の犠牲である、ことは明らかである。

 特にA級戦犯合祀後の靖国を参拝することは、「国家がわたしたち市民に対して責任を負っていない」ことの宣言であり、絶対許すことはできない。

大和魂で列車を走らせていた

nagacyanさんは過去を振り返り、「昭和38年11月9日に発生した「横浜市鶴見区、東海道貨物線脱線事故」についての記事でした。この事故の犠牲者は、死者61人、負傷者120人。」を発掘しておられる。

「鶴見事件のときは『また、やったか』と思った。列車はどんどん増発されているのに、保安設備や線路増設は後回し。人間の力は無限だと旧海軍並みの猛訓練で補い、大和魂で列車を走らせていた。

(当時「鉄道労働科学研究所」次長であった斉藤雅男氏のインタビュー記事より)

http://d.hatena.ne.jp/nagacyan/20050425#p3 から孫引き

「赤心」という言葉がある。「唯一箇の赤心これわが神道の教なり。此赤心天地の道なり。神明の教なり。*1

儒教の基本的教えである「仁、義、礼、智、信」に対しそれを一箇にまとめた強力な原理である。「嬰児も母に親しみ父を敬う。生まれしままの直心なり。此こころ、成長にしたがい増長せば、聖賢の地位にも至るべきなり。」うまれたままの赤ん坊のこころで、絶対的真理に辿り着けるのだから大安売りみたいな思想である。

「君に対せば忠なり、父に対せば孝なり」。「会社への帰属意識を高めること」によって、「時間厳守と安全の両立」という困難を「自然に」達成することができる、という奇妙な信念。しかしながらそれは頭から馬鹿にして良いものではない。最初の引用によれば、「大和魂」は旧海軍や国鉄では何らかの効果を挙げることができた、ということだ。大和魂の主要な力は、わたしというものがその持てる力の全てを自発的に国家(組織)の方に差し出すという、心のそこからの自発性の動員にあった、はずだ。そう考えると、今回のJRの教育システムは大和魂システム的にも失敗だったことになろうか。

(この文章は飛躍が大きすぎて読むに耐えないと言われるでしょう。野原の発想の構図を示す意味でUPしておきます。)

*1:慈雲『神儒偶談』、p289『近世神道と国学』より

宣長篤胤の三つのスキャンダル

宣長の最初のスキャンダルとは、その余りにも排外主義的な皇国主義イデオロギーにあります。これについては、http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050326#p2 にも少し書きました。

二つ目のスキャンダルとは、篤胤における神、あるいは救済の問題です。

篤胤は「死後の霊魂のしずまりさきを知り、それによって「安心」をうること」を第一に求めた。あからさまな現世肯定主義の宣長とは対極的に。

この顕世は人の本世にあらず。天神の人を此の世に生じ玉うは其の心を誠にし、徳行の等を定め試みむ為に、寓居せしめ玉うなり。……試み終わりて*1幽世に入らば、尊きは自ら尊く卑しきは自ら卑し。人の本世は顕世に在らず、幽世なれば也。本業も亦彼の世にあり。(篤胤)*2

このような救済の問題は西欧では紀元前から現在まで深い考察が積み重ねられている。しかし

かつて19世紀初頭の言説世界にあって、ことに宣長の主導のもとに形成された古学という学問的な言説世界にあって、この篤胤の「神」の言説の出現はまさしくスキャンダラスな事件として迎えられた。それは既存の古学的言説から予想し得ない特異な言説の出現であったからである。*3

三つ目は、上に引用した本州がイザナミの子宮から出てきたという即物的描写を含む、三大考の宇宙論。

三つ目は上二つとはまた全く位相が違うようです。どう考えたらよいのかこれから考えます・・・

*1:本当は難しい字

*2:p191『「宣長問題」とは何か』より isbn4-480-08614-5

*3:子安宣邦、p195同上

<新しい事物>を世界へ投げ入れる可能性

http://d.hatena.ne.jp/using_pleasure/20050706/1120590416 記識の外 – モヒカン族のために。

から、「ハッカー宣言」 * 作者: マッケンジー・ワーク, 金田智之 * 出版社/メーカー: 河出書房新社 の一部の一部。

004 ハッカーは新しい事物を世界へ投げ入れる可能性を創り出す。しかし、それは常に偉大な事物であるとは限らないし、良き事物であるとも限らない。だが、とにかくそれは新しいのだ。

(略)

我々は我々が生産する何ものかを所有しない。その何ものかが我々を所有するのだ。

130 情報はコミュニケーションを上回っている。ドゥルーズによれば、「私たちはコミュニケーションを欠いていない。対照的に、私たちはコミュニケーションを持ちすぎているのだ。私たちは創造することを欠いている。私たちは現前するものに抵抗することを欠いているのだ」。情報とはこの意味での抵抗であり、情報の死んだ形態であるコミュニケーションに対して抵抗をおこなうことなのだ。

133 情報の、反復するコミュニケーションへの従属化は、情報生産者の情報所有者への奴隷化を意味している。

 コミュニケーションについて一般的な理解は俗流ハーバマス主義ともいうべきものである。彼らは、物事を常にある人*1が予め理解している地平に回収してしまう。つまり彼らにとって<新しい>ことは起こらない。私たちが理解し合うとき<差異>は私たちの手により殺されている?のかもしれない。 

つねに「情報の死んだ形態であるコミュニケーションに対して抵抗をおこなうこと」が為されなければならない。

つまり、モヒカン族ブームの核心は、一見ポスコロ的PCに反するかに見える「ハンドアックス」という比喩の過剰さにある。

*1:大衆?

語り得ないが存在したもの

 その作戦中、私の中隊が、乳飲み子を抱いた三〇歳前後の女の人を捕まえ、お決まりのように輪姦をしました。*1

(p66 近藤一『ある日本兵の二つの戦場』isbn:4784505571

 日本の兵隊はよく女の子を引っ張ってきて強姦してましたね。わしはしていないけれど、女の子の悲鳴がよく聞こえましたな。

(p133 『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて』isbn:4784505474

戦争(特に中国大陸における)を語るときしばしば出てくるのが、レイプの話である。

 本やサイトでの記事の文章においては、語り手が(本来語り得ないはずのそれを)どのような苦渋に満ちた圧力を突破して<語った>のか、というその内面は一切分からない。ただレイプという事実があったとごろんとそこに記述されているだけだ。

 従軍体験はわたしの父や祖父、親戚の体験である。仮に<じいちゃん-孫>という関係性の中で、じいちゃんが本当はレイプしたとして、そのことは語りうるだろうか。語り得ない。語るべきだとも言えない。

「父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直きこと其の中(うち)に在り。(論語・子路編)」

そこでこの「じいちゃん」という言葉をキーワードに、“なかった派”の聖典『ゴーマニズム宣言・戦争論』が生まれるわけである。*2

 過半が反戦平和の立場に立っていたのに、「中国大陸では皇軍はレイプしまわっていたのに、体験者は戦後はそのことに一切口をつぐみ、歴史を偽造しようとしている!」という糾弾は戦後長い間ほとんどなされなかった。おそらく、戦後二〇年ほどは、戦争に行かなかった者はそれだけで行った者より倫理的に劣位にあったのだから、前者の立場から後者のレイプの可能性を指摘糾弾することはためらわれただろう。このようにレイプは語られなかった。しかし「ない」と思われていたわけではない。本当は「まちがいなく、あった」それがリアルに分かるからこそ前者も後者も沈黙していたのだ。

 暗黙の了解に支えられた沈黙が存在した。しかしわたしたち子ども(あるいは孫)の世代になると、そうした微妙なものは時代を超えて伝えることができない。沈黙は「レイプは存在しなかったはずだ」「例えあったとしてもそれはどんなことがあっても否認しなければならないことだ」と理解されるに至る。

 

 レイプは糾弾されるべきだ。しかしそのとき自らを倫理的高みに置きその位置から裁断することはしてはいけない。わたしはむしろ金の力で徴兵逃れをしたはずべきプチブルの子孫であるだろう。レイプした彼の罪よりも逃れた<わたし>の罪の方が大きい、と宗教者なら言うだろう。戦争体験を<読む>だけのためにわたしたちは自己を父、祖父の代に遡り反転させなければならない。それなしに戦争を理解しうると教えた平和主義者は、戦争を「戦争の悲惨」といううすっぺら概念に平板化してしまった。それをひっくり返すと、戦争のどんな部分も批判できないプチウヨができあがるわけだ。

*1:近藤さんは輪姦に参加していない。

*2:この本は読んだのだがだいぶ前なので不正確かもしれない。

いつどんなときも「私は有罪」ではない。

 私にとって第一の関心事は、「私においてどのような表現が可能なのか?」「どのような私が可能なのか?」にあります。

「私は有罪だ。」という表現は成立可能でしょうか。不可能だと思います。有罪とは、それを言表することにより致命的なダメージを私が受けるという意味である。したがって何らかの裁判装置に私が受動的に掛けられるなら、「あなたは有罪だ」という言表は装置から発せられるであろう。もちろんわたしの内にも良心がある。良心は反省し認罪することができる。だが実行した私も、認罪した私も同じ私に過ぎない。前者ではなく後者が優越すべきだとする根拠は何処にあるだろう。戦争の時代に戦争に加担し、反省の時代に反省に加担する。それでは時流に合わせているだけですね。時流としてはまさに現在、反省への反動が押し寄せている。

わたしというものが“どこまでも述語となって主語とならない時間面的自己限定にほかならない”*1なら、反省はどのように可能なのか。

 そもそもわたしがどんな罪を犯したというのか。わたしはどんな罪をも犯しはしない。仮にレイプしたとしてその対象がその直後に消滅したとしたなら、犯罪は存在したとは言えない。殺人の場合はまさにそうだろう。犯罪は発生した瞬間に消滅する。あなたが神ではないから犯罪の瞬間を再現することなどできない。すなわちわたしの犯罪などどこにも存在しないのだ。

「語りえないものの秘密を漏洩すること、それがおそらくは哲学の使命にほかならない」(レヴィナス)という非在の回路を通じてしか、「わたしの罪」は現れない。悪人はいつでも安心して眠っている。

*1:西田幾多郎

 パレスチナ難民の声を聞く

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【転載・転送大歓迎】

   パレスチナの平和を考えるトークカフェ in 新世界 第二弾!

 パレスチナ難民の声を聞く ― 「日本人フェミニスト」の視点から ―

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日 時●9月19日(月・休) 16:30~18:30(16:00開場)

会 場●cocoroom(フェスティバルゲート4F、tel:06-6636-1612)

    http://www.kanayo-net.com/cocoroom/

    地下鉄「動物園前駅」5番出口/JR「新今宮駅」下車すぐ

    南海「新今宮駅」下車5分/阪堺電鉄「南霞町駅」下車すぐ

ゲスト●清末愛砂(ジェンダー法学/同志社大学政策学部嘱託講師/

    アジア女性資料センター運営委員)

参加費●1000円(1ドリンク付)

主 催●パレスチナの平和を考える会 www.palestine-forum.org

連絡先●090-9273-4316、ysige@ysige@hotmail.com(やくしげ)

           *  *  *

今年2度にわたってヨルダンのパレスチナ難民キャンプを訪ね、そ

こに暮らす女性たちの声を中心に聞き取りをされてきた清末さんに

現地の映像を交えながら話をしていただきます。

「ガザ撤退」の報道のなか、中東和平について多くが語られるよう

になってきていますが、パレスチナ難民の状況が省みられることは

ほとんどありません。そうしたなか、彼女/彼らの声に今あらため

て耳を傾けることの意味について、参加者一人ひとりの視点から考

え、深めることができれば思います。

今何か変なことを書いただろうか。

村田さん  コメントありがとう。

「ふんふんふんっ」などについて、問題提起してみたものの自分では答えがうまく見つからず書けずにいました。

(1)

Panzaさんの「神である叙述者(作者ではなく)のナルシシズムを相対化するための自己ツッコミである。」、村田さんの「自らツッコミを入れることで語り手=主人公を相対化したり複数にしたりする力」は正しいような気がします。「叙述者-読者」という関係において、叙述者が独走し読者が付いて来れなくなるのを避け、一方読者にこれは普通の平板な小説ではないよという警告を与え小説を立体化するという効果を果たす、という感じでしょうか。

(2)

「私はヒトだ。」という文に対し、「私はヒトだ。そうだよ、ね、ね。」という文の差異を考えましょう。前者のメッセイジは文の意味がそのままききとられるであろう平静な事態を想定しているのに対し、後者は私がヒトではない充分な可能性(危険性)を持つとする冷たい聞き手を前にしているという危機感を表している。語り手と場の空気との関係を表現するものが、「ね」とか「けっ」というかいう文末の直後に付く間投詞であるわけです。「ふふんふふーん」もその類だと理解しました。『金比羅』は小説ですから“語り手と場の空気との関係”と言ったときの、「場」とは小説に描き出された場でしかないはずです。作者はどんなに変幻自在な妖怪を暴れ回らせる自由もありますがそれは作品の中のことであり、読者には1mmも近づくことができません。

結局ここでわたしは躓いているので、「ここ」とは小説の読解に必要なところではなく、わたしがインスタントにでっちあげようとした「理論」が、素人が椅子を作ろうとしたときのように足がまるまる一本足りないことに気づいたは良いがそれの是正の仕方が分からず立ち往生している、といった状況です。で上手く説明できないしそもそも説明する価値のあることでもないような気がするのですが、しないと抜けられないので、します。

(3)

つまり、(1)では「叙述者-読者」という関係が語られているのに、(2)では「作中人物-作中の場」という関係が語られている。文の構造分析みたいな視角からは、(2)しか語り得ず、(1)は飛躍があるような気がするのです。

(4)

『S倉迷妄通信』p141などでは、

「今何か変なことを書いただろうか。」という文が現れる。

実はルウルウだけが通力のある化け猫だったのだ。(略)

今何か変なことを書いただろうか。(略)p141

四日後ドーラは走り回り、日に何度もカリカリを貪り喰った。ただ自分が人を殺したという感触だけは残った。(略)でも本当を言うと、私は殺してない。--今何か変なことを書いただろうか。(略)p137

猫を愛する平凡きわまりない日常から血みどろの殺害シーンへ、という位相差を飛躍としてでなく連続として笙野は描きたかった。だが、平凡な日常から血みどろの殺害へを連続的に描くことはできてもそれでは<連続>を描くことにはならない。読者の意識の中にある日常と殺害の絶対的断絶というものに働きかけるにはどうしたらよいか。その方法の模索として、殺害シーンに読者が感じているであろう異和感を、隠蔽するふりをしてかえって励起させるために、「今何か変なことを書いただろうか。」という文が挿入される。

これは、小説は最後の頁の最後の1行まで小説の中の世界を描くという小説のルールの侵犯だ。劇中から観客に向かって物を投げてくるようなものか。

(5)

「野生の金毘羅の鳴き声」であるところの「ふんふんふんっ」はまた、劇中で観客に向かって投げられる物、とも規定できる。

体験を語りうる戦争

 ニューヨークの芸術家の街グリニッチ・ヴィレッジの若い人ばかりのあるパーティーに、どうしてもお前に会わせたい奴がいるといってつれて行かれた。パンチをすすりながら古ぼけたピアノのそばでひき合わされたのは、見上げるような長身の青年だった。郊外の小さな新聞を一人でやっている有能なジャーナリストという紹介であった。

 パンチのグラスをカチッと合わせると、「十六回、十六回もやったのだ」といって彼は微笑した。精悍な額と涼しい眼が印象的だ。彼は第二次大戦の若い学生パイロットの一人で、沖縄作戦にも参加し、大和を轟沈するまで、空母との間を十六回も往復してアタックを続けたという。

 あんな素晴しい戦艦は見たことがないし、一機の援護機もない孤軍奮闘ぶりも実に見事だった。ああいう巨艦の乗員名簿に名前をつらねることのできたお前は実にラッキーな奴だと言いながら、しまいには私の肩を抱きかかえるようにした。サッカーか何かの試合のあとでユニフォームを脱ぎながら、敵の選手から「今日はシュートを十六回もしたんだぞ。全く苦労させやがる」というようなことをいわれているゴールキーパー、私の気持はそれに近かった。執拗な攻撃をくり返したという報告は、恨み言でも詫び言でもなく、お互いに苦労したという共感につながる愉しい思い出話にすぎない。アイムソリーという言葉も、そんな素振りすらもなかった。

 だいいち彼だけが私に謝らなければならないという理由はない。彼は私のまわりに爆弾を雨あられと降りそそぎ、そのあげく大海の中にほうり出したが、われわれの機銃弾も数限りなく彼の愛機をかすめたはずだから、あいこというわけだろう。私は荒海を何時間も漂っている絶望感を、できるだけ即物的に話してやった。彼は面白い世間話に対するようにそれに聞き入っているだけで、特別の反応を示さなかった。わが艦隊は弱かったから潰滅したのだし、海に棄てられた私は、いのちのある限り泳ぎつづけるのが当然で、それ以上の関心の持ちようがないというところかもしれない。

 ほかの青年がわれわれの間に割り入んでくると、彼はさりげなく日本映画の評判に話題をかえた。話題への関心の重さも、戦争の話と変わりがないというような屈託のなさであった。もしまた将来われわれが戦うことがあるとしたら、彼も事もなげにタフなアタックをくり返すだろうし、そしてまた再会の折があったら、同し調子で肩を叩くだろう、私はそんなことを考えつづけた。

吉田満「異国にて」*1

 戦後保守派は一貫して普通の国あこがれ続けてきた。皮肉にも小泉の勝利は、普通の国路線の敗北になった。なにしろ東条無罪ですからね(笑い)。

 健全なる男子が屈託なく軍務に就き、それを生涯誇りにして生きていく、そのような兵士というものも現実にいるのだ、ということを私たちは知らなければならないのだろう。*2

 戦争ができる国に成ることは絶対悪ではない、とわたしたちは言わなければならないのかもしれない。しかしながら、自国民を何百万殺そうが原理的に反省できない、靖国という無限の寛容は、絶対悪である。

*1:p170角川文庫『戦艦大和』s43年刊:「戦艦大和の最後(ひらがな版)がメイン」

*2:もちろん「朝鮮戦争でも、肉体は生きながらえたまま胸に深いくさびをうちこまれた人間は意外に多いようだ」と、この短い文章にも吉田は書いている。