なぜイラク人を虐めるのか?

8月5日に広島で開催された、ハナ・イブラヒムさんとムザッファル・アハマド・モハメドさんの報告から、引用したい。(id:noharra:20040807#p2 で言及した集会)

http://iraq-pgp.jugem.jp/?eid=3(イラクから伝えたいこと-イラク市民を囲んで)

将校はテントを回ったのですけれども、その時私は、「一体なんで我々をこんなところに収容しているんだ」と聞きましたところ、将校は「あらゆるイラク人はアブグレイブに収容されなければいけない。理由があろうとなかろうとだ。」と答えました。つまり、彼らはイラク人を刑務所に集めて、そうすることによって抵抗組織が占領に対して実効的な抵抗しないようにしようとしているわけです。私たちが抵抗運動に関わっているかどうかではなくて、です。

つまり逮捕によって国民をあるいはイラク市民をおびえさせることによって、抵抗に対する意思を削ごうとしているわけです。あるときアブグレイブ刑務所で私が目撃したことですけれども、あるとき1人の老人が2人の息子とともに連れて来られました。老人はその時下痢をしておりまして、頻繁にトイレに行かなければいけない状況にありました。ところが彼らは老人がトイレに行くのを禁じたのです。こんな話をするのをお許しいただきたいんですけれども、下痢を患っている老人がトイレに行きたいのに禁じられたらどうなるか、彼は多くの被収容者たち、しかもそこには自分の2人の息子もいるわけです。その人たちの、公衆の面前で我慢できずに便を漏らしてしまう、そしてそのショックで、恥ずかしさで精神に異常をきたして亡くなってしまいました。

このように彼らは私たちを辱めているわけです。

 抵抗すればとことんまで辱められる、自分だけならともかく自分の一番大事な家族がそうした目に会うのだと思い知らせることは、確かに効果的かもしれない。経済破綻も、国民を意気阻喪させるためにわざとやっているのか。(だとすればイラク復興のために金を出している日本はただの馬鹿、と言うことになる)だが2000万人(?)が奴隷意識を自身で内面化する状態を作り出すことが本当にできるのか。イスラエル人のブレーンはすべてのイラク人を意気阻喪させるヴィジョンを持っておりそれを実行しようとしているだろうことは、そうであっても何らおかしくないことだと思われます。イラクの復興が遅れるだけでもイスラエルにはメリットだと考えられるでしょうから。

遺体を運び出そうと

ジョラン地区*1のせまい通りを通れない戦車は、構わず両脇の家々をなぎ倒して進んで行きました。攻撃に一段落した皇軍*2は、市内中にあふれる遺体を金属のフックでまとめて、装甲車でひきずって行きました。遺体は空き地に集められました。まるでゴミのような扱いでした。住民は米軍に見つからないように、チャンスを見つけては遺体を空き地から運び出そうとしました。身元の確認ができればそのリストを作りますが、いずれにせよ、どの遺体も墓地まで運ばれるべきなのです。しかし、どの遺体も姿からは身元を確認できる様子ではなく、ポケットにある身分証明書などが頼りでした。ほとんどの遺体が体内に溜まったガスで膨れ上がり、犬に食い荒らされていました。

 総攻撃の少し前あたりから、今まで見たこともないような大きな犬をよく見かけるようになりました。私は犬を怖いと思ったことは今まで一度もなかったのですが、ある時、モンスターのようにでかい犬が口からだらだらとヨダレを垂らしながら、私の乗っていた車のフロントガラスに突っ込んできました。私は恐ろしくなり慌てて猛スピードで逃げました。この頃から病院などで狂犬病にかかった人たちが次々と運ばれてくるようになっていました。町中を大きな犬が走り回り、人間に喰らいついていたのです。

高遠菜穂子さんのブログから引用した。http://iraqhope.exblog.jp/ 2005.1.11 イラク・ホープ・ダイアリー より。ファルージャ支援のプロジェクト・メンバー、カスムからのメールより。

 イラクは日本から少し遠いとはいえ、現在のアクチュアルな課題である。しかもわれわれの代表たる小泉氏が「支持」をきちんと公にした米軍によるファルージャ攻撃の一こまである。わたしたちはファルージャの惨状の事実を知るように努め、それを元に小泉へ政策変更をせまっていかなければならない。それはそうなのだが、わたしがこれを引用したのは、上記の70年以上前の東アジアを舞台にした寓話的小説のトーンと非常に似ている、という気がしたからです。事態が残虐すぎるとそれを伝えようとする文は深い静寂をたたえてしまう。静謐なシュールレアリズム。(1/12追加)

*1:ファルージャ市内

*2:本当は米軍

「アウシュビッツ」なしで日本はやっていけるのか?

id:clawさんの発言より

・・・過去の侵略戦争と植民地支配について、南京大虐殺について、従軍慰安婦制度について、日本の為政者は「和解のための言葉」を持っていない。別にキレイゴトでなくていいのだ。「いかにして過去の歴史にピリオドを打ち、あとから文句の出ないようにして、今後のショウバイに支障の出ないようにするか」という打算さえあれば十分である。ところが実際には打算も戦略も存在しない、独自の戦略がないから「自分自身の言葉、あるいは少なくともオリジナリティを感じさせる言葉」もない。

・・・なぜそうであったかについて考えるのもよいが、とりあえず一つの参考すべき例として、かつては共にファシズムの枢軸をなしていたドイツ、その政治家の言葉に注目してみよう。重要なことは「過去への反省」うんぬんではなく、「これからの長期戦略を踏まえて、今どうする、そのために何を語るか」ということにある。

http://d.hatena.ne.jp/claw/20050128

▼CLick for Anti War 最新メモ – オトナになる方法

日本は、中国、その他のアジア諸国の民衆に対し「大東亜戦争」において大きな加害を行った。

 謝罪は行われたか。「我が国の侵略行為や植民地支配などが多くの人々に耐え難い苦しみと悲しみをもたらしたこと」について1994年村山首相は、反省とおわびをした。これでは不充分だと思う。わたしたちは「アジアの大義」を掲げて世界大戦を戦った。それなのにゲリラでもないアジア民衆の女性・子どもをレイプしまわっていた。女性国際戦犯法廷で64名の被害証言女性たちなどによって明らかにされたことから判断すると、性奴隷、レイプといった面だけから考えても、日本軍の行為はアジア人蔑視という根本を持っていたといえる。「アジアの大義」を掲げながら、レイプしまわっていたことは、絶対的矛盾である。誇りある者なら深く恥じる、という場所から動くべきではない。

clawさんの意見は、倫理とは別の見地からのものである。罪が罪であることをアジア諸国が忘れてくれる、あるいは無理矢理忘れさせることができるのならそれでも良いかも知れないが、それができないのなら、「いかにして過去の歴史にピリオドを打ち、あとから文句の出ないように」するための「反省のための言葉」をもたなければどうしようもないんじゃないですか、と言っている。 安倍某をはじめとする人々は一見勇ましそうだが、勇ましそうな言葉を吐くことで国内的にだけ自らを慰めているだけだ。恥ずかしいだけなら良いが、国益を損ねているのではないか。

クリスマス休暇

guldeen 『ところで「慰安婦」証言の中の「日本軍の“クリスマス休暇”の時期」ってなんですか?』

えっ。わたしの引用の中には「クリスマス休暇」という言葉はないですよね。下記がソースかな。

http://tmp4.2ch.net/test/read.cgi/asia/1101741339/ 祝★朝鮮人元売春婦の金よこせ請求を棄却

88 :日出づる処の名無し :05/01/17 22:05:34 ID:wm7v9Do8

405 名前: 名無しさん 投稿日: 02/12/27 19:44 ID:UoVjc+9Y

「日本軍のクリスマス休暇には1日数十人の相手をさせられました。

今でもクリスマスが近づくとあの地獄の瞬間瞬間を思い出します。」

「精液をかけられ過ぎて、今でも牛乳やバターを受け付けれません。 」

「食べ物がないって言ったらこの死体の人肉を煮て食え」

「行為を拒否するとヘビでいっぱいの水溜まりに落とされた」

「性病にかかったと言ったら「無菌化する」と言って秘所に焼けた鉄棒をつきさされた」

「女の首をはね大鍋で煮てその煮汁を飲まされた」

「妊娠したら腹を裂かれ胎児を引き出された」

「精液を浴び過ぎて今でもマヨネーズが食べられない」

「ある占領地では74歳の老女まで強姦された。 」

参考HP

アジア女性基金 推奨 http://www.awf.or.jp/06.html

「従軍慰安婦問題」再考

http://www.mediajapan.com/ocsnews/96back/542b/542/542ianhu.html

「9時から6時までは一般の兵士、6時から10時は下士官、10時以降の泊まりは将校と、寝る間

も与えられなかった慰安婦たちは、男の腹の下で食事をした」

戦時中の日本にはクリスマス休暇やぶっかけもののAVがあったらしいです(藁

山田盟子著「女性たちの太平洋戦争」より。なのかな?

慰安婦たちの太平洋戦争―秘められた女たちの戦記:山田 盟子 ISBN:476982078X のことかな。ソース位ちゃんと書けよ。

慰安婦というのはどこの国の人か分からないけど、その人(あるいは通訳)がクリスマス休暇と表現したということでしょう。日本軍にはクリスマス休暇というものはなかったのかもしれませんが。

(2/13 20.58追加)

被害と加害

# index_home 『こんにちは。>そしてヒロヒトにその責を負わせたくなければ「誰が」を特定し糾弾し続けなければならない。<この「誰が」を外に(特に中国・韓国等)に向けている人たちが多いのが昨今の現状なのかもしれないと思います。「多くの日本人が被害者だった」そのとおりです。でも、だからこそ「加害」の事実にあまり目が向かない、向けたくないという現状もあるのだと思います。日本の戦争に関する事実認識や教育などは、そこで歪みが生じているとも言われているようです。』

index_home hikaruさん、はじめまして。

被害者だったという圧倒的実感が忘れさられたので、最近のような平板な排外主義がはやっているのでは? と思いました。被害者だったという親(祖父)の世代は、軍部のせい、とかいってちゃんと恨みを持っているように思っていました。

 id:index_home:20050305#p2でソロモン諸島のことに触れておられましたが、同じ被害者といっても、南の島で苦労した人と内地にいた人も大部違うえしょうね。南の島で本当の地獄を味わったひとの体験は、内地の人に伝えられなかった。責任追求が必要だったとやはり思います。

 加害の事実については、下記も見てください。http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/dai.htm(わたしたちは忘却を達成した)

愛国心

http://d.hatena.ne.jp/pavlusha/20050316#p5 ここなどで、引用されている文部科学省の調査結果。自分の将来に対して肯定的な子供が少ない、とのことだ。うちの子ども(小学校高学年)に聞いても将来に対し驚くほどシニカルである。こんなことではいけない(将来に夢がなければがんばって勉強することもできない)。「テレビを見て、ゲームをして、インターネットで検索して、たまにスポーツする」という彼らの生活は多くの大人と全く同じだ。ゲームなどに費やす時間においては彼らの方が恵まれている。金は大人の方が持っているだろうが、それによって決定的差はつかない。RPGを楽しむ能力は中学生、高校生の方が上だという可能性は充分ある。であれば大人にならなければならない、という動機は持ちようがない。「しかたがないから(勉強を)やってやるか」でしかない。大人しかできないことは、

α・自立した生活を自分で建設すること  β・他者(子どもを含む)と家庭をつくること  γ・連帯し社会を少しづつでも変えていくこと  くらいかな。金を稼ぐことは本来、αの手段でしかない。しかし子どもたちは人生とは消費であると教えられている、テレビで。金を使うことが善でありそれ以外は無である。そうだとするとαは「金を稼ぐこと」になり、βは「絵に描いたような幸せ家族」を作ることになり、実際にやってみると敗北感しか味わえないことになる。

 どうしたらいいんでしょうね~

森隆夫・お茶の水女子大名誉教授(教育行政学)の話 高校生になって自国に誇りを持てないのは、情けないこと。自分自身にも誇りを持っておらず、胸を張って生きていないのではないか。(pavlusha/20050316#p5より)

自国という言葉を、“自分が生きている社会”と捉えれば異論はない。わたしたちはわたしたちの社会の主人のはずなのに、なぜこんなに閉塞感があるのか。

この国の若者だけが「戦争を仕掛けられたら国のために戦うか?」という問いに1割足らずしかYESと答えない現状は、こっけいである。

(略)

結果論で、現代の価値観で、父祖の世代を否定ばかりするようなイデオロギーにふりまわされ、歴史の負の部分にばかり焦点を当てるような偏向教育とはおさらばしたい。

http://www.cty-net.ne.jp/~my5913/aikokushin.htm

“自分が生きている社会に誇りを持てない”若者を産みだしたのは、「偏向教育」だ*1、なんていうのは責任を一部の人に押しつけているだけだ。

 愛国心を涵養するために、日の丸君が代を卒業式などにだけ強制する。愛国心ってなんだ。60年前だらだら戦争を続けた責任は誰にあるのか、それに応えずに戦前と戦後を断続させることによって利益を得たのは誰か。吉田茂などの支配階層ではないのか。

 愛国心がないところで、日の丸君が代を強制しても奴隷根性の涵養に役立つだけでしょうに。

*1:あるいはアサヒ・岩波文化人だ

日の丸君が代百年戦争

クローズアップ現代「国旗国歌・卒業式でなにが起きているか」。 ここにも貼っておけばよかったのだが、昨日夜7:30分からNHKで上記の番組をやるという情報が入ったので、ビデオ取って(冒頭が切れたが)今朝見ました。

 さすがNHK、hatenaでもたくさんの人が見ているようです。

目に付いた物だけちょっと挙げておきます。

(1)

http://d.hatena.ne.jp/Taipei/20050328/p3

そもそもそんな問題出るなら卒業式に日の丸掲げる必要もないし、君が代歌う必要もないんじゃねぇの?

http://d.hatena.ne.jp/ryamu/20050328#p7

確かに大切にする、と言う気持ちはわからんでもないが、監視して

命令して、違反したら処分があって…やりすぎのような。

…そんなギクシャクするような法律、指導方針って、おかしいよね?

日本人は卒業式が好きだ。*1

ある時同じ校門を通って卒業していった仲間。その幻の団結こそ、私たちが遠い昔に失ってしまった原郷(パトリ)であるあろう。その平穏を乱すものは誰か?「日の丸君が代を強制する当局」がそれなのか、それとも「日の丸君が代強制に反対する教師・生徒・市民」がそれなのか?

 「秩序を大切にすべきだ」というのはもっともだと言わざるを得ないのだが、強制される「卒業式の日の丸君が代」は、「既成の国家=秩序」(あるいは戦後的秩序より戦前的秩序)への服従というイメージが強すぎる。アンチ日の君派を育てているようなものではないか。

(2)去年より、当局は後退しているという良い情報。

http://d.hatena.ne.jp/azamiko/20050328#p2

前回の卒業式には都の教育委員会から2名来校し、1名は来賓席、1名は教師の席のうしろから、監視をしていたというが、今回は来賓で来た1名のみだったという。政府見解とは違い、生徒の内心の自由を犯しているということで第二弁護士会からでた声明*(註)を教育委員会も無視できないものになっているようだ。

(註)1999年(平成11年)7月21日の衆議院内閣委員会文教委員会連合審査会においても、国旗・国歌の指導について「何らかの不利益を被るようなことが学校内で行われたり,あるいは児童生徒に心理的な強制力が働くような方法でその後の指導等が行われるということはあってはなら」ず、「学習指導要領は直接、児童生徒に対して拘束力を持つものではない」と確認されている

(3)

http://d.hatena.ne.jp/Arithmatix/20050328#p1

生産現場の人間が、生産現場の上っ面しか知らない得意先の人間につまらないクレームつけられているようなもんだ。現場のプライドや良心踏みにじって教育もクソもあるか。もちろん、発注主はあんただ。でも、客は神じゃない。やっていいことと悪いことはあるんだ。受注愛国心ってのは誇れる自分たちを持って、大人たちや社会や友達や文化を知って、初めて生まれるんじゃないか? 君が代日の丸にビッとしてその中身育てなかったら、そんなん何の意味もない。裸の王様にすぎないぜ。そんな下らないことに心血注いでえらそうな顔してやがるなら、大田区の弱小工場の技術を後世に残せるような政策を考えやがれ。額に汗して、低賃金にあえぎながら、世界の技術の底辺を持ち上げているあの親父たちの生活を楽にしてやれ。彼らこそニホンの誇りだろう? あの職人たちを胸張って誇れるような教育がまずいるんじゃないか?

 愛国心を肯定して論を立てるか、否定して論を立てるかをこの間ずっと議論してきた*2のだが、上の論者は前者。

愛国心とは、“大人たちや社会や友達や文化、そして自分たちへの愛”であるはずだ。そうでない【強制される愛国心】はなんだか変 で嫌! という意見。強く同意したい。

*1:同級生を殺害した犯人も同級生の輪の中に入れるべきだと考えるひとも少なくない。

*2:強制に賛成の人は後半の参加者にはいない

宗教上理由で君が代拒否

宗教上理由で君が代拒否 / 欠席扱い撤回を / 石狩管内の高校生

宗教上の理由で三月の卒業式での国歌(君が代)斉唱を拒否し、式に出席しなかった石狩管内の道立定時制高校の在学生(17)が、学校側が「欠席」扱いにしたのは不当だとして、学校に撤回を求めている。「日の丸」「君が代」実施をめぐり、生徒が学校の対応に抗議するケースは異例。生徒に「式に出席しない権利」は認められるのか。また、生徒が「出席できない」と申し出た場合、学校はどんな対応ができるのか。今回のトラブルは、そんな問いを投げ掛けている。

 抗議しているのは、宗教団体「エホバの証人」を信仰する男子生徒。

 同校は式の数日前、在校生に対しホームルームで、国旗・国歌の掲揚、斉唱を実施する方針と同時に憲法で保障された内心の自由を守るため、「歌う、歌わない権利」「立つ、立たない権利」があり、「それによって不利益を被らない権利」があることを説明した。

 生徒は副担任の教師に信仰を打ち明けた上で「出席できない」と申し出た。「君が代の歌詞が教義で禁じている偶像崇拝に当たる。自分で歌わなくても、聞けば音楽が耳に残ってしまうので、その場にいたくなかった」と訴えている。

 副担任が、国歌斉唱終了後に入場できるよう受付係をするなどの方法での参加を提案したが、生徒は「これを受けてしまうと、来年も再来年も同じ事で、何の問題解決にもならない」と拒否、出席を見送った。

 生徒は「学校が式に出席できない状況をつくつているのに、事務的に欠席扱いと処理されるのは、納得できない」として、「欠席」扱いの撤回と同時に、来年以降の配慮ある対応を求めている。

 これについて、校長は「一人のために国歌斉唱をやめることはできない。欠席した生徒は規則上、『欠席』以外には扱えない」と従来の対応を変える考えがない意向を示し、今後については「生徒と話し合い、学校の考えを理解してもらいたい」としている。

 しかし、副担任は「公立学校はどんな考えの生徒も行事に参加できるよう配慮すべきだ」と反発、同調する教員も多い。生徒は札幌弁護士会に人権救済申し立てを行うことを検討しており、学校は対応にゆれている。              

                    ( 2005年4月10日 北海道新聞 朝刊)

以上新聞からの転載。

(首相に対し)「靖国参拝なんざ止めろっ!」

と綾川亭さんは歯切れが良い。激しく同意したい。

で、あげくにこのざま。あれだけ、国内外からとやかくいわれながらも、靖国通いを止めなかったのだから、何か策があるのだろうと思いきや、なんだい、いざとなったら、行くということを明言しなくなり、次第次第に離れるようにし(最近のぶらさがり会見では小泉は靖国通いに触れなくなった)、そして今回のような国際会議の場で、あいもかわらずのお詫びの繰り返しか? だったら、お前のやったことは靖国に通って中韓の対日感情悪くしただけ歴代のお詫び外交より始末が悪いわ!

http://d.hatena.ne.jp/andy22/20050422#p3

 東京大空襲*1から広島長崎の犠牲者に対し当時の支配者は、戦争をさっさと止めなかった責任がある。そこから考えると、日本人は東条免責して良いのか、とわたしは問うている。出発点は違っても、参拝反対という結論は同じ。

 それと本来(言うだけ無駄という徒労感もあるが)、自分の思想を他人にも分かるような言葉で分節化し、文章化するのが、政治家の仕事であるはずである。小泉の思想が私と違うのは当然だが、自分なりの理屈を堂々と世界に向かって表明すべきである。「日本人なら犠牲者を弔って当然」という「当然である」「自然である」という語彙しか持たない人々。それでは他者はまったく説得できない。

 それでも付いていく人たちが沢山いる・・・・

*1:綾川亭3月25日にリアルな描写あり