靖国問題

 小泉首相は靖国に平和を祈りに行くそうだが、冗談ぽい。靖国参拝のおかげで日本は永遠に米国の属国だというのに。イラク占領への加担が大東亜の大義に反さないとでも言うつもりか。

先日(5/15)の朝日新聞に、高橋哲哉『靖国問題』ちくま新書の書評が出ていた、野口武彦氏による。

 野口による論旨要約(の要約)

1)<国民感情>「戦死の悲哀を幸福感に転じていく装置」がヤスクニ。

2)<歴史認識>「A級戦犯合祀をめぐって、アジアの戦争で莫大な被害者を発生させた植民地主義との関係を直視すべし」

3)<宗教>神社非宗教論は間違いだ。

4)<伝統文化>靖国信仰を「死者との共生感」に還元するのはまやかしだ。靖国は死者を選別する装置だ。*1

5)<新追悼施設案>

どんな追悼施設も政治に反戦平和の意志がない限り、いずれ「第二の靖国」に転化するだろう、という予言。

野口は“(国民の間に多様な思いがあるが)それが感情の問題ならどれもが心情としてはもっとも、”みたいな感想をもらす。

明治2年設立以来の靖国の歴史。・・・「神聖な境内に戦場の死者の霊魂が迎えとられて永遠に眠る。この安息感は純粋無垢な宗教感情でなくて何であろうか。ゆえに首相の靖国参拝は政教分離を定めた憲法第20条に違反する」と高橋は言っている(そうだ)。

これに対して野口の立脚点は違う。(野口も靖国参拝には否定的みたいだが)

「招魂社の夜店・見世物は昔の東京名物で、例祭の日、境内にむらがる群衆には怪しげで猥雑な活気が溢れ、アセチレン燈の臭気がせつなく郷愁をかきたてていた。《靖国感情》はこのドロドロした底層から、死者と生者が同一空間で行き交う精霊信仰の水を吸い上げている。この泉に政治が手を突っ込むのは不純だ。民衆みずからがそう感じることが大切なのではないか。」

「宗教」というのは明治期に西欧から入ってきたカテゴリーにすぎない。それに対して憲法20条は、戦前戦中の国家神道強制に対する直接の反動を強い動機として成立したものである。にもかかわらずその歴史性は20条の文言には書き込まれず、「信教の自由」「宗教」について抽象的に規定されているだけだ。「国民が国家神道強制の被害者であった」という事実はなかった、または記憶から抹消されている。

<死者と生者が同一空間で行き交う精霊信仰>がわたしたちにリアルなものなのであれば。平将門に習合した北一輝を祭り上げることが早急に必要なのかもしれない。

・・・

*1:死者が神になるのなら、東条を入れて、北一輝を入れないのは何故だ。野原

(6/18追加)

# poppo-x 『こんにちは。一方で、裕仁氏と東条英機の間の個人的確執が、東条合祀後靖国へ参拝しない一因との分析もあります。

http://blog.goo.ne.jp/asaikuniomi_graffiti/e/3fede30ef997afc56ba99b7e088382e0

私の視点 靖国問題ー昭和天皇と東条の確執

Weblog / 2005-06-07 11:31:53』 (2005/06/18 06:54)

(野原)

浅井さんの貴重な文章の紹介ありがとうございました。

印象的なので一部をもう一度引いてみます。

敗戦直後から毎年ではないものの数年置きに靖国神社を参拝(正式には「御親拝」というそうな)していた昭和天皇が、A級戦犯合祀が行なわれる1978年の3年前に参拝して以来、靖国に踏み入れていないのだ。

 そこから色々調べてみると、靖国への合祀には天皇への「上奏(天皇への事情説明)」が必要なのに、靖国側はその手順を取っておらず、合祀を巡って天皇と靖国の間に確執があった事が浮かび上がってきた。

http://blog.goo.ne.jp/asaikuniomi_graffiti/e/3fede30ef997afc56ba99b7e088382e0(浅井久仁臣)

そして、14人のA級戦犯が秘密裡に合祀された。

(同上)

この「秘密裡に」は、左翼や左翼的世論に対する秘密というだけでなく、天皇や権力中央の一部に対しても絶対秘密だった、と。ある種のクーデターといえるほどのものですね。陰謀説を採っている野原としては、これを押し進めた分子の中に、米国や北朝鮮の工作員が居たのでは?という疑惑を捨てきれないぞ(笑い)。

投稿者も高齢化で段々と消えて行きます。

 わたしは下記の文章を引用したいと思ったのだ。わたしはほんの少しの活字を通して「大トア戦争(アジア太平洋戦争)」の体験談を読んだりした。ネット右翼の人たちはそうした体験談を読まないかそれとも読んでも無視して、自分の観念のなかの薄っぺらな戦争観だけで語り続けるのだろう。無惨である。

http://www.geocities.jp/sato1922jp/tyugoku.htm#rappu

拉 夫(らっぷ)

                須賀川市 S

野戦で兵隊が毎日持ち運ぶものは、兵器の外に食料品、調味料、医薬品、アゴを出した兵の装具などで各人が持つ量は莫大なものだ。

行軍中、小休止の時に腰を下ろすと出発の時には誰かに起こして貰はなくては立てない程の重さである。

そこで現地人を強制徴発して物を運ばせることになる。彼等には賃金は勿論生命の保証も与えられていない。これが拉夫(らっぷ)と言われる苦力である。

綺麗な小川があって故郷を思わせる谷底に一つの町が有った。この町を占領するには大分苦戦をしたそうだ。この小川をしばらく遡って行くと小高い所に部落があって我々はここに宿営した。この辺は既に警備地区になっていて戦場ではないから無茶な真似をすると憲兵に捕まるが、通過部隊はその場かぎりなので兎角出鱈目をやる。

途中からひっぱって来た牛を殺して皆でたらふく食べて一夜を明かしたが、いざ出発になるとどうも荷物が多過ぎる。牛は食ってしまったので積むわけには行かない。

兵は毎日の行軍でアゴを出しているから余計なものは紙一枚だって持てない。ぎりぎりのところまで持っているのだからどうしょうもない。あの頃は10日分位の食料を持っていたと思う。

野戦馴れしているヒゲ軍曹が何処かに出かけて、天秤に野菜を一杯担いだニーコ(中国人)を二人連れて来た。野菜を買ってやるからと騙して町から連れて来たのだそうだ。彼等が喜んでついて来たのが運のつきで、野菜も籠もおまけに自分迄徴発されてしまった。泣きわめく彼等に有無を言わせず、いろんな荷物を天秤に担がせて出発した。

実直な農夫で今日一日仕事をするから明日は帰してくれとヒゲ軍曹に哀願する。軍曹は馴れたもので、「好好、明天回去(よしよし明日帰す)」とか何とか誤魔化してしまう。

なんとこれが道県の町に着く迄、十何日も重い荷を運ばされてしまったのだ。

(略)

彼等の名前なんか誰も呼ばず、一様にクリー(苦力)と呼ぶ。夜は逃げられないように部屋に閉じ込め、便所に行くにも銃剣を突きつけて監視する。

行軍中は天秤と首を細引で繋いでおく。強行軍について歩けないと殴られる。

歳をとっている私ら補充兵は割合苦力をいたわった。それで私らはすぐ苦力と仲良しになってしまった。

古参兵は随分と残虐な真似をする。これについては書かないことにする。

兵は夜寝るのに毛布や天幕、雨外套などがあって服装もちゃんとしているので良いが、苦力は野菜売りに出たままの姿だから、寒くてたまらないようだ。不寝番に立って彼等の寝ている所に行ったら、海老のように曲がって、ふたり身体を寄せ合ってガタガタ震えていた。

(後略)

 日本軍は8年間も中国大陸で何をしていたのか。糧秣の現地補給というが、たった一匹の牛を失うことが農民にとってどういうことか、わたしよりも当時の皇軍兵士の大部分にはよく分かっただろう。ネット右翼の皆さんも「自衛戦争」なんて無惨なことを言わずによく考えてもらいたい。

民衆の心に根ざした追悼の様式?? (8/7追記)

http://d.hatena.ne.jp/sakunou/20050805/1123252066 では、次のように論じている。

(1)「靖国神社とは、明治になってからできたもので、近代になってからできた宗教施設である。つまり、最近できた新興宗教ではないのか」。

という意見は間違っていると。

そして「新ゴーマニズム宣言SPECIAL靖国論 * 作者: 小林よしのり」から次の文章を引用する。

(2)戊辰戦争の戦死者の埋葬に際しては、「當村の守護神トシテ」と記された文章が残っている。公に殉じたものを「村の守護神」として祀ることは、地域・民間から自発的に起こっていたのだ。(小林)

(3)このように、民衆の心に根ざした(日本人としての宗教観に基づく)追悼の様式を、国家が引き継ぐ形で創建されたのが、靖国神社であり、「明治になって近代国家が軍国主義に基づいて作った新興宗教ではない」ということは明白だと思います。(sakunou)

 まず新興宗教という言葉を聞けば、ちょうど靖国と同時期幕末明治期にできた黒住教*1、天理教、大本教などなどをまず思い浮かべます。篤胤以降のこの時期は日本ネイティヴィズムの戦国時代とも考えられ、靖国を新興宗教と呼ぶのは、(普通の言葉の使い方としては間違いですが)一周回ってクール!という感じもします。

(2)への批判。ある戊辰戦争の戦死者が、ある村で「當村の守護神トシテ」祀られたことは、靖国神社でそれが「村の守護神トシテ」祀られたことを意味しない。靖国は上に書いたように魂の選別装置であり、新政府側に立って斃れた者たちだけを祀って居る。

 小林よしのりの原思想は“鐘楼のパトリオティスム”みたいなものに近いのではないのか。であれば会津白虎隊の悲劇を考える場合にコンフリクトしないのかなあ?

(3)に対する批判。戊辰戦争は内戦であり、多くの藩が二つの陣営に分かれ、またそれに至るためにはひとつの藩の中でリーダーが内紛し争うこともあった。戦争の以前を含め、沢山の死者を出した。そのような「戦争」に対し、「民衆の心に根ざした(日本人としての宗教観に基づく)追悼」は、むしろ両者をともに祀る、といった形である。「民衆の心に根ざした」という視点を強調するならむしろそう考えられる。

 靖国神社が必要だったとすればそれは国家というものをなにが何でも強力に成立させなければならなかった、当時の国際情勢によっているだろう。現在はむしろそれとは逆の国際情勢にあるのに、一部のナルシストは国家主義を選択させようとしている。馬鹿げたことだ。

*1:今読んでいる本『<出雲>という思想』のp117以下に、国学者大国隆正の思想との親近性が触れられている

憲法1条廃止しよう

 衆院選広島6区に無所属で立候補しているライブドアの堀江貴文社長は6日、東京都内の日本外国特派員協会で講演し、天皇制について「憲法が『天皇は日本の象徴である』というところから始まるのには違和感がある。歴代の首相や内閣が(象徴天皇制を)何も変えようとしないのは多分、右翼の人たちが怖いから」などと指摘した。

http://www.mainichi-msn.co.jp/seiji/feature/news/20050907k0000m010016000c.html

MSN-Mainichi INTERACTIVE その他

 「郵政民営化」の論点化という小泉のデマゴギーを推進した点で堀江は許せない、と思っていた。だがこの発言は良い。天皇は(明治)憲法ができるずっと前から天皇だった訳で、伝統を尊重するなら1条廃止論に反対する必要はない。19世紀ドイツ起源の軍国主義=国家主義的なものは現在日本にも、排外主義その他として根強く復活しようとしているが、日本の伝統でもないし美しくないし、ひどい失敗をしたばかりだ。憲法1条から8条は削除すればよいと思う。

わたし/ナルシズム

--私は偶然に助かったんです。運がいいわけでもない。誰のおかげでもない、ふふんふふーん、私は科学の子だ。ふんふんふんっ。

 というような人がいるかもしれません・あーあ、ねーえ。*1

の「ふふんふふーん」「ふんふんふんっ」って一体何なんだ。わたしはサラリーマンです、とかわたしは主婦です、とかのありふれた自己紹介にもこの「ふふんふふーん」「ふんふんふんっ」はくっつけることができる。わたしは私をニュートラルに記述することはできず、そうできたと思っているときは、普通よりより深いレベルでナルシズムを育ててしまっている。笙野はそう言いたいのか。

*1:p14『金比羅』笙野頼子 isbn:4087747204

自慰史観派が外務省に圧力

★外務省HP 歴史コーナーの記述見直し検討

・町村信孝外相は十三日の参院外交防衛委員会で、外務省のホームページの

 「歴史問題Q&A」と題したコーナーについて、「事実でなかったことをあたかも あったかのような印象を与えるような記述や、過大に妄想的な数字がなかったか どうか、よく検証したい」と記述内容を見直す考えを示した。山谷えり子氏(自民)への答弁。

 ホームページには「首相の靖国神社参拝は過去の植民地支配と侵略を正当化するものではないか」「南京大虐殺をどう考えているか」などの設問が並び、平成七年の「村山談話」などを引用した回答が載っている。

 山谷氏は「中国や韓国のホームページのような問題設定で、日本の立場を十分に説明していない。あえて誤解を招くような書きぶりもある」と指摘。「従軍慰安婦」など当時なかった呼称を使っていることなども「不適切」と批判した。

 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051014-00000009-san-pol

http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1129228260 【政治】”南京大虐殺、従軍慰安婦…” 「事実だったように思わせてしまう」→外務省HP、見直し検討

このQ&Aのこと。

http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/qa/index.html 外務省: 歴史問題Q&A

力を入れずに天地を動かし

上の文では、ローザ・パークスの非暴力直接行動に対し、日本には与謝野晶子の抒情しかないのか、と書いた。しかし考え直してみると、だがたかが抒情であっても捨てた物でもない。

「君死にたもうことなかれ」を改めて、読んでみた。長いので2連だけ掲げる。

http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/yosanoakiko.htm 与謝野晶子

堺の街のあきびとの、                  

老舗(しにせ)をほこるあるじにて、

親の名を継ぐ君なれば、

君死にたまふことなかれ。

旅順(りょじゅん)の城は滅ぶとも、

滅びずとても、何事ぞ、

君は知らじな、あきびとの

家のおきてに無かりけり。       

  あきびと=商人。あきんど。

商人による自由都市の伝統(伝説)、家のおきてを自己のよりどころとして持ち出している。「老舗をほこる」ことと国策に逆らうことは21世紀の現在も私たちに於いてはまったく結びつかない。しかし晶子の時代、つまり教育勅語ができたばかりの時代にはそうではなかったことに注意したい。明治維新も大阪の商人が金を貸したから成立したのだ。

 それに貿易商だとしたら日本だけが栄えても商売は成立せず必ず相手国も必要だ。国内だけに基盤を持っているわけではない。(急に自分のことを思い出したが、私が赤ちゃんだった頃、父はオーストラリアに2年も単身赴任していた。戦後(オーストラリアは交戦国)まもなかったのに関わらず父はその地の方々にとてもよくしてもらったという。考えてみれば私が育つことが出来たのも幾分かはかの国のおかげなのだった。)

 古今集のかな序で、紀貫之は、「力を入れずに天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあわれとおもわせ、(略)るは歌なり」と言っている。天地鬼神を動かすくらいだから政治を動かすくらいはわけなくできるはずだ。

批判されて反論した文章には次のようにある。

http://pegasus.phys.saga-u.ac.jp/Education/docs/hirakibumi.html

私が「君死に給ふこと勿れ」と歌ひ候こと、桂月様太相危瞼なる思想と仰せられ候へど、當節のやうに死ねよ\/と申し候こと、又なにごとにも忠君愛國などの文字や、畏おほき教育御勅語などを引きて論ずることの流行は、この方却て危瞼と申すものに候はずや。私よくは存ぜぬことながら、私の好きな王朝の書きもの今に残り居り候なかには、かやうに人を死ねと申すことも、畏おほく勿體なきことかまはずに書きちらしたる文章も見あたらぬやう心得候、いくさのこと多く書きたる源平時代の御本こも、さやうのことはあるまじく、いかがや。

 ここで「畏おほき」と彼女は本当に感じていたのかもしれない。だからこそ、真実「畏おほき」ところの大君の御意志を私意によって振り回してそうであることの自覚を持っていない役人やマスコミというものに不信を感じたと。