中道右派 『>これほどの長い、しかも永井論文を単にまとめただけのものを貼り付けるなんて常軌を逸していると思いませんか?

常軌を逸しているとは思いません。

単にまとめただけと思われたとしたら、あなたは知的推理力と相手の意図の洞察力が欠けています。

永井論文の構成を示し、批判的検討を詳しく加える部分は詳しく引用し、あっさり検討する部分は短くまとめ、後でまとめて独立のエントリにしてもらうことで、一覧性を高め、議論の際も該当箇所が参照しやすいような再構成をする意図がありました。

>御自分でブログを作って検証してトラックバックをすればいいんじゃないですか?

お断りします。

先に、あなたから得るものは何もないとか、逃げたとみなすとか、喧嘩を売られた方にお説教されるいわれはありません。

私は、単に喧嘩を買っただけです。

あなたのブログをご紹介くだされば、そこに移ってもいいですが。

もしかして、櫻井よしこ氏の検索を示唆した先のブログのブログ主さんですか?

>しかもコメント欄で分割すれば読みにくさは倍増します。しかもはてなのコメント欄には容量に限界があります。少しはお考えになってはいかがでしょうか?

上記のとおり、そのことを考えて、初めから独立エントリにまとめてもらうつもりでした。

>>3月15日付けと3月19日付けの私の該当コメントを、『永井和論文の批判的検討』などといったタイトルで独立のエントリにしていただけると、うれしいです。

>厚かましいにもほどがありますな。

どうぞご自由にそう思われてください。

市川海老蔵に似ていると良く言われるので、『厚顔海老蔵』とHNを変えましょうか?

>それからはてなの容量のことも調べずに「逃げた逃げた」と中傷したことについて言及は一切無しですか?とことん礼儀知らずの人ですね。

印象操作は止めてください。

元々私は、逃げたと断言した訳ではなく、逃げたのではないでしょうね?と質問しているだけなので、中傷ではないでしょう。誤謬です。

また、その点については、3月15日付けのエントリで、自分の誤謬を認め、あなたの感覚の正常さを褒め、自戒の念を示すと共に、今後のより良き指針とする決意を示したつもりだったのですが、これでは満足されませんか?謝罪と賠償をお求めになりますか?

野原氏は、私が自省の念を示しただけで、以後特に追及もされませんでしたが。

一方、あなたは私のコメントを誤解曲解して断言したり印象操作をされることが多いが、そのことを私が指摘しても特に気にされるそぶりも無い。別にそんなことで一々あなたが非を認めることを求めるつもりもありませんが。

お互い、礼儀と考えるところがかなり違うようですな。

やはり、人類普遍の真理道徳はありえず、最大公約数的な道徳的価値判断を含む比較的価値中立的な法による支配を目指すのが良いようですね。』(2007/03/28 11:42)

* ノーモア 『人を売国奴だの無知だのなんだのと罵っておいて、御自分に礼儀があると信じていらっしゃるところに心より憐れみを覚えます。

>喧嘩を買った?

バカを言いなさんな。あなたが勝手に野原氏を中傷したのが先でしょうが。私はそれを恥知らずの行為だと指摘したまでです。それから「印象操作」という言葉が安売りなさっているようですが、それを立証したいなら陰謀論や「(歴史学の専門では全くない)『M2』もこう言ってるよ」みたいな「印象操作」は止めて御自分の力で積み残しを解決なさったらいかがですか?今のところ私の議論にあなたはまともに太刀打ちできていないことをお忘れなく。

このコメント欄はあなたの質問に答える為だけにあるのではありません。あなたが長文を貼り付けて容量をオーバーさせれば他の人は書き込めなくなるんですよ。そんなことも分かりませんか?』(2007/03/28 11:54)

* ノーモア 『「野原氏にアクセス禁止処分をされたもようです。今後全てのエントリにアク禁される可能性もあるかもしれないので、ここに最後になるかもしれない私の返事を書き込み、ウェブ魚拓もとっておきます。まさか、野原氏はあなたと同一人物で、自分で勝利宣言して直後にアク禁にして、私が逃げたと印象操作するつもりだったのではないでしょうね?」

これが単なる質問?印象操作はそっちでしょうが(笑)

ちなみに私は野原氏はアク禁にすべきだと思います。理由は大量のコメントを連日貼り付けてすぐに容量をオーバーさせ他の人がコメント出来ないから。魚拓とりたいならとらせればいいんですよ。自分が勝ったと思っているなら自分でブログでも作って堂々と貼り付ければよろしい。出向きますよ、私は。』(2007/03/28 12:24)

* ノーモア 『それからついでに。私へのコメントは私宛にして下さい。分かりにくいので。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20070318#c1174804311

ノーモアはなぜ論点のすり替えを追及しないかですが。

(1)まずご自分が論点のすり替えを行ったと認めるんでしょうか(笑)

(2)で、吉見氏が論点のすり替えをやったということを実証してください。

これもまた「検索」でしょうか(笑)』(2007/03/28 12:49)

353 Re:宅間氏の死刑のコメントです。

F さん

昨日はごくろうさまでした。せっかく発言してくれたのに発見が遅れちゃってすみません。「邪魔」なんてとんでもありませんのでどんどん発言してください。

さて、今日は(昨日飲み過ぎたせいで)元気がなく、書こうと思っても頭があまりまわりません。*1

 「もしも、愛する人が誰かに殺されたら、その殺した相手に死んで欲しいと望むだろう」と人は言う。そうかもしれない。その時の胸の痛みを想像してみようと思う。ではそこから死刑制度を肯定するところにいけるかというと、そうはならない。

そのとおりだとわたしも思います。

処刑されたのは、宅間守だけじゃなくてもう一人いたみたいですね。アムネスティによれば、大阪拘置所の宅間守さんと福岡拘置所の嶋崎末男さんに対して9/14に死刑執行されたようですね。

http://homepage2.nifty.com/shihai/kougi.html

http://homepage2.nifty.com/shihai/message/message_hirata.html

上記に平田オリザさんのメッセージというのがあって、下記の部分が印象的でした。

「逆に言うと、加害者と被害者がいて、殺していいですよと判決を下して、ナイフが置いてあったとき、被害者が加害者を殺すかといったら――殺す人もいるかも知れませんが――まず殺さないのではないでしょうか。

死刑という制度があるから、「殺したい」という気持ちが、「殺す」という行為に直結してしまうのではないかと思うのです。」

死刑廃止を正面から論じるより、(想像上だが)殺しても良いよとナイフを投げてやる。わたしたちが殺しても飽き足りないほどそいつを憎んでいるとして、また殺してもいいよと許可が出たとして、そのときすぐ殺すだろうか。鶏一匹殺せないわたしが本当に人を殺せるのか。理屈で考えた上で殺すというのは普通の人間にはなかなかできないことだろうと思われます。「悪である」ことも結局のところ否定しがたいし。

 人はみな「自分は人を殺さないし、死刑のような極刑を受けるような悪いことはしない」と思っている。だが、国家が人を殺す制度をもっているということは、必ずしも客観的・妥当的な「悪いこと」をした者にだけその刑を適用するためではない。かろうじてまだ「民主的国家」の看板を掲げている日本でもそれが外れるや否やその持っている権力をどのように濫用し始めるのか。それを想像するのは恐ろしいことであるが、もし少し歴史を振り返ってみるなら事実として容易に認められるはずだ。

 自己保存のために、権力に刀を預け、お上に守ってもらおうと思う人々によって死刑制度は支えられている。

そのとおりですね。テレビなどで見ている限り、殺人者は絶対的悪であり、わたしは善の側にいるという図式から離れることはできません。でもそれはわたしの想像力の問題に過ぎない。死刑までいったら困るが、現実に色々な形で国家と出会い軋轢し問いただしていくなかでしか、「民主的国家」の内実を守っていくことはできないでしょう。

                野原燐

http://replay.waybackmachine.org/20050127175829/http://otd9.jbbs.livedoor.jp/908725/bbs_reply?reply=353

*1:発言日不明

金の為か自分の為か?

 えー正月だというのにヘーゲルとか読んでて淋しい奴だという自嘲にもめげず、四日目にして、やっと312ページまでたどり着きました!(「観察する理性」後半とばしたから)。これで後は240頁、40頁×6日分となります。

 「C社会」は長谷川訳では「絶対的な現実性を獲得した個人」となる。「徳」からこの章への変化は、政治運動に熱中した学生が、世間とは必ずしも自分が憎悪し軽蔑したようなものではないということに気づき世間に埋没していく、といったイメージで読んでもよいと金子氏は言ってる。(cf金子204)「C社会」はあまり歯切れ良くないが「a.精神的動物の国/b.立法的理性/c.査法的理性」となる。a.は長谷川訳では「精神の動物王国とだまし--価値あるもの」、金子訳で「精神的動物の国と欺瞞あるいは事そのもの」となっている。「価値あるもの」とは端的に「仕事」と理解してもよい。(金子p208)この段階の意識は、広く社会的に認められた価値にこそものごとの真理があると考える。*1

 ある人が何かを実行しようと思い立つ。例えばボランティア活動でもよい。友人は彼の目的はその社会活動そのものへの関心だと考える。そこで友人は、そのことはすでに第三者が一定の効果を上げていると知らせてあげる。しかし、ある人の関心は、行為の社会的効果ではなく自分がそれを行う事にあったのだ。つまり考えの基準を社会的効果にだけおいて考えるべきだとする事には<欺瞞>がある。*2(野原がこの文章を書く場合はまったく主観的価値だけですね。客観的には何の価値もない、主観的価値しかない文章。でもそう言いきるのもさみしい気がする。ここにも欺瞞はたぶんある・・・)欺瞞は確かにあるのだが、客観的価値あるいは主観的価値のどちらかか正解で他は虚偽とは言い切れない。ここで、個人と共同体精神は相互浸透している。

*1:作品社版p276

*2:p279作品社

若年世代の超長時間労働

 わたしたちのすぐ身近に有るのに、見て見ない振りをされたり問題として認識されない、マスコミに取り上げられることなど全くない問題、ってけっこうたくさんあるものですね。今日hatenaでみつけた「問題」。労働問題についてはそれ専門で研究し声をあげるべき研究所~組織(労働団体)が腐るほどあるはずなのにね。

若年世代の「正社員」の一部で超長時間労働が絶対起こっているはずだと睨んでいたのですがこれまで統計的証拠を見つけられなかった.今日やっと見つけた.玄田有史先生の本にちゃんと載っていた. 年間200日以上就業し、1週間に60時間以上働いている35歳未満の若者は約190万人にのぼる(総務省統計局「平成9年度就業構造基本調査報告」)。週休二日制に換算すれば、150万人のフリーターを大きく上回る人数の若者が、毎日、朝9時から一時間の休憩を挟んで夜10時過ぎまで働いている計算になる。 しかし、若者の長時間労働を問題としてとりあげたり、それが晩婚化の一因かもしれないと危惧する声は、ほとんどきかれない。  -玄田有史「仕事のなかの曖昧な不安」(2001,中央公論新社

はてなダイアリー – -「労働・しごと」について考える- 日々日報

引用前半は、idiot817さん、後半は玄田有史さんの文章。

『新潟』の一部をUP

金時鐘の詩は1行が短い。一字のこともある。平均しても5字前後。普通の詩なら20行も引用すると充分だが時鐘の詩はそうはいかない。だがこの日記のようなところで百行も引用しても間が抜けてしまう。そこで、最低の一まとまり約240行を下記に縦書きで、UPしてみました。(「縦書きhtml」というフリーソフトを利用しましたが環境によっては間が抜けたレイアウトになるかも知れません。)

感想はあとから書きます。

http://noharra.at.infoseek.co.jp/2004/ikesu2.htm

       1行が短いサンプルは以下。*1

これが

親子爆弾の

子爆弾の

信管の

ネジ

る。

 このネジは朝鮮戦争のネジだ。「朝鮮戦争で五五万トンの爆弾を落とした。この量はアジア・太平洋戦争で日本全土に落とした爆弾の3.5倍であり、面積あたりにすると日本の十倍に達する。朝鮮戦争の結果、死者だけで南北合わせて126万人。」*2

「朝鮮特需は日本経済の『回生薬』であった。」*3ということは誰でも知っている。だが特需という肯定的な二字の本体が、実は血まみれの強力な武器であったこと、そうした理解はわたしたちに欠けている。だが関西の下層労働者だった在日朝鮮人たちは、自らの作るネジが自らの同胞の血と肉を裂くべきものだ、と言うことを知っていた。知っていたが、語ることはできなかった、それはわが身を同胞の殺害者と認識することだから。「反戦」「伊丹基地粉砕」を掲げた吹田事件など*4

に決死の思いで立ち上がっていった朝鮮人たちの根拠にはその<存在の分裂>があった。「である」の「で」と「あ」の間、「あ」と「る」の間の切断もその分裂を暗示するためのものだ。このようにして「詩集新潟」は不可避的に難解になっていく。

(米軍のクラスター爆弾に抗議するとともに、日本国内で部品のネジとかもし作っている場合は内部告発してください。)

*1:p321同書

*2:p29『在日朝鮮人はなぜ帰国したのか』isbn4-87798-186-1 この部分の著者は西村秀樹

*3:経済企画庁『戦後経済史』

*4:吹田事件については金時鐘自身下記で語っています。http://homepage2.nifty.com/mi-show/peaceright/sho_soto/suita.htm

北朝鮮は元在日の帰国を認めよ

下記によれば、1960年帰国事業で北朝鮮に渡った安本さんの姉の帰国を求める運動が起こっている。朝鮮総連は在日朝鮮人の感情と利害を最もよく理解している。関係者が死に絶えるまで待つつもりか?

http://www.chunichi.co.jp/00/ach/20040413/lcl_____ach_____008.shtml

朝鮮総連、受け取り拒否

上京の安本さん、姉の来日嘆願署名提出で

 重病の母(86)の見舞いに北朝鮮の姉(67)を来日させようと取り組む豊田市の在日二世、安本左久子さん(59)が十二日、実現を求める署名提出で東京を訪ねた。集まった署名は全国からの約七千三百人分。在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)は「前向きに努力はする」としてきた言葉とは裏腹に門前払いで、署名簿の受け取りを拒否した。 (辻渕 智之)

 安本さんの姉は一九六〇年、在日朝鮮人の帰国事業で北朝鮮に渡ったまま、一度も日本に戻っていない。三好町に住む在日一世の母は昨秋、脳内出血で入院。北朝鮮は出国を認めないが、日本政府は昨年末、姉への渡航証の発給を認める異例の措置をとった。

情報収集のための拷問

[毎日新聞5月7日]より

http://news.www.infoseek.co.jp/topics/world/human_right.html?d=07mainichiF0508m033&cat=2&typ=t

虐待内容の項目は20を超える。「男性収容者に自慰行為を強要して撮影」「弾薬を装てんした拳銃で脅迫」「収容者を裸にして数日間にわたり放置」「軍用犬をけしかけ脅す」……。屈辱と死の恐怖で収容者の精神をくじこうとする執拗(しつよう)な意図が浮かび上がる。何が目的だったのか。

 虐待の多くは、昨年10月から12月にかけ、同刑務所の「1A」「1B」と呼ばれるエリアで発生した。複数の容疑者は、同エリアは「軍情報部の管轄だった」と供述している。軍情報部の主な任務は、収容者を尋問して得た情報を、イラク国内の治安維持活動などに利用することだった。少将は報告書で「他の政府機関」の担当者も、尋問を行っていたと指摘している。米中央情報局(CIA)の職員らも含まれると見られる。

 容疑者の男性軍曹によると、情報機関員らが看守役の憲兵らに対し「こいつが口を割るようにしてくれ。夜も眠らせずにな」などと虐待行為を奨励・指示していた。別の容疑者の女性兵士も「MI(軍情報部)は、収容者から供述を取りたがっていた」と証言している。尋問が順調にいくと、憲兵らに「よくやってくれた。簡単に落ちたよ。全部の質問に答えた」と感謝したという。

 ついでに「赤旗」5/8からも引用。アブグレイブ収容所で民間の取調官として勤務していたネルソン氏の証言。

「舞台が目標の家を捜索した際、(被疑者が)居合わせなかったら、ほかのだれでもを捕まえる。それが彼らの仕事だからだ。」「兵士たちは強いプレッシャーにさらされている。彼らは、(イラク人を)だれも知らないし、文化的専門家でもない。彼らが望むのは、帰郷する日を数えることだけだ」

概念集・2 ~1989・9~ 目次

概念集(2への序文の位相で)  1

概念と像の振幅     2

技術          3

無力感からの出立    5

自主講座        7

自主ゼミ        9

連続シンポジウム    11

大衆団交        13

一票対ゼロ票      14

参加          15

瞬間          17

表現手段(過程)    19

年周視差        21

生活手段(職業)    22

華蓋・花なきバラ    24

メニュー        25 

訂正          27

六甲あるいは〈 〉空間の方法  29

「私」(主体)の余白に

http://d.hatena.ne.jp/strictk/20040927 への応答)

 strictkさん 応答が遅れてすみません。

ぜひとも、応答しなけりゃいけないとの思いもありました。ですがなかなかうまく書けませんでした。『NANA』を題材にあげてのテーマがあまりに直接的身体的であり、そのような強度を全く見落としたままでこの問題を論じていたわたしがあさましく思えた、そのような気持ちもあったということです。 そのような気持ちをかかえたまま、すこし逃げていました。

『NANA』の8巻から11巻まで読みました。面白かったです。ただわたしは8巻から突然読みはじめたので、ハチ(奈々)が「新婚生活」に入るに当たって捨てた世界というのを読んでいないので、ハチが持っている二面性が分かっているとは言えませんが。

「ナナは、奈々のいうところの、母性本能という言葉に動揺し、自分の考え方を揺るがされます。」野原10/7にも触れましたが、ここでちょっと考えさせられました。つまりナナはもし子供ができたらという問いにあらかじめ答えを出していたはずです。だからめんどうでもピルを飲み続けていたのでしょう。であればなぜ、母性本能なんて言葉につまずくのか。そんなは必要はないのじゃないか。自動的にそう思ってしまう野原には、あらかじめ決めた(浅はかな)図式に合わせて現実を整形してしまう傲慢な男の浅はかさがある!と糾弾されるでしょうか。

もう一人の主人公奈々ですらこう言っている。「誰にも内緒で堕ろしたら何事もなかったように今まで通り生きてけると思ったの…でも病院で…ほんとに自分の子供がお腹にいるんだって分かって…急に実感みたいのが湧いて…」産婦人科で見せられるエコー写真はそれこそ不定型な黒い固まりが写っているだけだ。堕ろす可能性があればそれは見てもしかたないものだろう。見ても何も写っていない。そこで実感など抱く必要はないのだ。フェミニストの一部がそう断言する気持ちも分かる。不鮮明なエコー写真に<到来する他者>を見てしまうかどうか、それはその人自身にとっても年齢や情況によっても答えが変わってくる問題だろう。そこに他人が善意の倫理観や宗教的確信を持ち込むべきではないだろう。産まないと決めているのに、なおこの<到来する他者>という問題に出会い衝撃を受けてしまうナナに感動した。

さて、一番の論点は

☆ 子育て共同体に育てられた子供の一人であるわたしは、今度は別の子育て共同体に参加しなくていいのか?という問いかけです。

この問題をstrictkさんは丁寧に展開し、イエスと答えられました。ただし、

あくまでも他者としての子供であり、「私」(主体)を揺り動かし、理解不能で厄介な他者であり続ける子供の傍にいることに、耐え続けるための子育て共同体です。そういう意味では、子育て共同体には、参加せざるをえないと思います。 という意味においてです。

これこそまさにわたしの言いたかったことです。より明瞭に表現してくださってとても嬉しくおもっています。

 子供を持つか持たないかは個人の自由だ、という文章は、個人の責任だ、とも言い換えられます。これは言いかえれば、責任がとれないなら産むなということですね。命令としては、産んだ以上生まれてきた者に対し、愛とか仁とかいうものを持続すべきだろう(そう言い切ることに問題はないように思える)。それはそれでいい。だが、1年中続く乳幼児の世話や長期に渡る多額の費用負担などというものは、現在ではやはり「結婚して家族をつくる」という方法以外では、不可能に近い。

「性愛=出産=核家族」という三位一体の近代家族は美しいイデオロギーにも飾られ、優れた制度であったわけですが、現在限界にきているようです。したがって、それに代わる緩やかな制度をわたしたちは用意していかなければいけないと考えられる。それなのにフェミニズムなどの側が、家族からの自由を主張するばかりで足りると思っているとすれば、そこには理論的にみて盲点があるじゃないか、というのがわたしの主張でした。それぞれの個人に、出産あるいは子育てに関わらなければならない倫理的義務がある、などという主張はしていませんので念のために書いておきます。(もっともそのための税金は取ってもいいと思っている。ちなみに、ニーチェもそういう意見だったようだ、*1関係なかったか。)

倫理的義務という問題に近いけれども微妙に違うのが、次の問題。

 望んでいない子供(他者)との出会いによって、「私」(主体)を変化させた奈々と、子供(他者)との出会いを避け避妊を続けるナナ。「NANA」は、どちらが正しいといったり、より良い生き方だといったりもしません。しかし、自分の体が子供を孕み得ると知ったとき、この問題は全てのそういう体を持つ人が直面せざるをえない問題です。

性愛の行為は出産の可能性を(避妊していても、多少は)持つ。商行為としての売買春においてだ。しかし売買春においては、それは業者側の責任で初めからなかったものとされている。わたしたちはこの間、婚姻外性行為の自由を獲得してきた。しかし家族制度は生きのびているわけで、婚姻外の性行為に関わって孕んだ者は裸のまま放り出されるルールになっている(ようだ)。この場合、自己責任という言葉は孕んだものの側にだけ適用される、つまり男性の責任は問われない。それが不当なことであるのは言うまでもない。この点、『NANA』の男性たちは立派である。結婚しようとするロックスターはもちろん、も一人の少年も避妊していたにもかかわらず自分の関与の可能性を否認しない。しかしよく考えればすぐ分かるように、strictkさんが上記で語っている問題はもっと深い。

(突然ですが)性行為というのは<死>の交換かもしれない。NANA(11)のまんなかへんには、ナナがレンに性交中、首を絞められるシーンが描かれている。だが次の頁ではその後、ナナの「顔色よくなった」ことが報告される。ありふれたSMプレイとして受け止めることができたからではないだろう。華やかで現代的な『NANA』という漫画は、主人公たちが皆不幸な生育歴を持つという点で古い(ロマン主義的?)ステロタイプを踏んでいる。彼らの華やかな生活のうらにはいつも絶対的孤独と<死>が待ち受けている。

望んでいない子供の可能性という危険と、ここでいう<死>は近接関係にあるかもしれない。不幸な生育歴を持つものたちの方が早く子供を欲しがるというのは良く言われることだ。

 性愛を快感と欲望のタームでだけ語るのは一面的だろう。<死>とだけ関連付けるのもファシズム的だろう。出産と快感と自由の喜びを語る文化(古事記以前の時代にはあったようにも思われるが)が、今後、切り開かれていくべきだろう。

*1:一定の年齢以降の独身男性の税金の負担増(たとえば遺産相続のさいの)p525『生成の無垢』ちくま学芸文庫