呑まれてしまいそうだ。

 --安く新鮮なフルーツケーキを下げて山道の埃っぽい街道を下れば、轟音のトラックの風が体に触れる。くねくねと曲がりながら幅広く光る伝播沼の水面がこちらに向かって来る。角度で果てし無くも見えるその汚れた水は、倒れ込んでくる大きな鏡のようで足元がふっと浮き、私はガード下の竹薮に呑まれてしまいそうだ。

p63 笙野頼子『S倉迷妄通信』

この文章を読んだとき、とても美しい文章だと思った。轟音のトラックが通り過ぎる一瞬は確かに、そこに世界が変化する余地があるのだ。風とともに新鮮な世界が開かれようとし向こうに光る湖が見える。わたしは足元がふっと浮き竹薮にすいこまれてしまう。

 平衡感覚を失わせるほど色彩のゆたかな屋根の波の上で揺れる海へ背をむけて、山頂へ続くはずの坂道を登っていくと、時間的記憶からは先週までくらしていたとしか思えない首都は、まだ至るところに〈私〉たちの息づかいをとどめた十年間の疲れとして思い出される。

 傾斜したアスファルトの坂道は、〈私〉たち以外の重量は受けていないので、スラム街を越えて漂着してくる港からの汽笛に微笑したり、蝶や十字架が投げる影を、身をよじらせて捕えたりするのをやめようとしない。光を浴びる風景は、無意識のうちに、広い空地や露出した岩肌を残しており、みつめられすぎ、使用されつくした疲労感をまだもっていない。というよりは、いつまでも、まどろんでいる欲求に支えられているのかもしれない。

松下昇「六甲」序章、冒頭部分

笙野の文章を読んだときにすぐに思い出したのは松下の上記の文章。身体を使って坂道を下る/登るという身体感覚の変容が同時に、「平衡感覚を失いかけている〈私〉たちの無意識部分への衝撃を与えている」ことが、丁寧に辿られている。近く全文を<引用>したい。

 その時身体が何かの熱で、ほわつとあぶられたような感じがした。すると辺りが急に暗くなり始めた。それは太陽が没したのだ。私は丘陵公園の斜面の家並みの間にまぎれ込んでしまつて、すつかり心を奪われて足もとが浮き上がつていたので、陽が傾き、世界の色調が、あの紫の素晴らしい夕焼けで、此の街の中の甍の盛り上りを一際印象的に色どつているであろうことにすつかり気がつかないでいた。(略)

島尾敏雄「勾配のあるラビリンス」『島尾敏雄作品集・1、晶文社 S36』p192

ついでに島尾敏雄の「勾配のあるラビリンス」という題の短編からも少し引用しておく。何よりも題がこのテーマずばりなので!

言おうとしないことを許してください……

日本の家庭や近隣地域社会では、人々の生活が忙しくて会話が少なくなり、老人たちにとって居心地のよい場所が少なくなっている。ゆっくりと話に聞き入り、会話をすること自体が少なくなってきているようだ。

 現役で軍隊に入ったこと、初めての外地である「満州」(中国東北)での辛かった初年兵教育、厳寒での演習。「支那事変」が始まって「北支」(華北)での掃蕩戦、初年兵の刺突訓練。「初年兵突けって言われたから銃剣を着剣して突きにいくんや。せやけど、人間って死なんもんや」と、当時の出来事を話し出すと、鮮明な記憶がよみがえる。元兵士たちは表情も豊かに生き生きと話し始める。

 ところが、旧満州の大連から南下して、上海あたりから南京戦に入ってくると、いわゆる「北支と違って、中支は抗日の激しいところ、男は生かすな」等の命令が次つぎと出される。中国人殺害は部隊内での共通の認識となり、逃げ遅れた農民を虐殺し、民家に火をつける。(略)

 さて、上記のような「中国での日本軍の暴行」を赤裸々に証言をしてくれる老人たちも、いることはいた。しかし話が南京へ近づいてくると、これまで饒舌に武勇談や苦労話を語っていたのが、「徴発の時女性は探しましたか」と質問すると、徴発の食料品や家畜を捕まえ殺したことは話しても、女性については「どうやったかなあ」「捕まえる兵隊もいたと聞くなあ」と俄然、伝聞が多くなってくる。さらに深く聞こうとすると、多くの老人たちが、黙り込むか「うーん、忘れたなあ」という決まり文句を返してくる。本当に不思議なほど多くの老人たちが、南京の場面だけ急に忘れたと言うのだった。

(p26『南京戦』松岡環 isbn:4784505474

言おうとしないことを許してください。

私たちがこの文言(エノンセ)をその運命に委ねるのだと、考えてみてください。

 少なくとも、しばらくのあいだ私がそれを、そんなふうにたった一つ、それほどにも無一物で、際限もなく、あてどもなく、さらには居所を定めぬままに放っておくことを受け入れてください。

(p274デリダ『死を与える』isbn:4480088822

 どうもデリダのいうことは謎めいている。というか、デリダの真意が分かりにくいのだ。ある文言を宙に浮かせ「あてどもなく、さらには居所を定めぬままに放っておくこと」に意味があるのか。性急と非難されることはあっても結局の所、わたしたちはいつもいささか性急に意味を求めてしまう。わたしたちはそういうふうにしか生きられない。そういうものではないのか。そうであるとすれば、デリダはそうであるしかない生の構造を解きほぐそうとしたのか。

 この文章をわたしは「私たちがこの文言(エノンセ)にその運命を委ねる」と誤記していた。たった一つの言表にわたしの運命が委ねられることはよくあることだ。裁判で疑いを掛けられたとき、まさにその時間に別の場所で、「私を見た」と誰かが言ってくれれば私は疑いを免れる。おそらくそのようにある言表はつねに、「おまえ」と「罪」を結びつける(あるいはつけない)機能がある。まだわたしはこのデリダの80頁ほどのテキストを読み終わっていないのに性急に語ってはいけないのだが。したがって、「言おうとしないことを許してください」とはそのような、白黒つけることを忌避したいという態度表明であるだろう。

 前の引用、満州から南京への道の回想では、南京の場面だけ「うーんうーん、忘れたなあ」と発語される。この発語の背後には、「言おうとしないことを許してください」という沈黙のうちの言表があったと考えることができる。この場合、拒否は「白黒つけることの忌避」というより「黒の中の黒、漆黒のブラックホール」であるがために触れることができないという感じだろうか。

・・・

     六甲 第二章 

汝は汝の恥辱をかたれ

私は私の恥辱をかたろう 

(ブレヒト 「ドイツ」から)

 〈私〉たちは、序章から踏み出したまま宙吊りにされており、飢えているが、この飢えは、遭難のような不慮の飢えにも、食糧難のような社会的飢えにも、ハンストのような政治的飢えにも似ていない。それは一つの表現を複数の主体で分割したためにもたらされた。だが、この飢えを耐えて生きることを、何ものかが〈私〉たちに強いるのである。

 本文の中に影を落す前に、永遠にはじまらない、あるいは永遠に終わらない幻想にとじこめられる危機を感じて、〈私〉たちは、飢えのために斑点のできた内蔵をかかえたまま、自力で歩きだそうとしている。海から山へ吹き上げる風が〈私〉たちを引き裂いていくので、〈私〉たちは、それぞれ別の歩き方を主張しはじめているのに気づくのであるが、そのとき山の弯曲は激しく揺れて、複数の極大値をみせる。そういえば、六甲とは一つの山のことではなく、おのおの最高の視界を自負している頂点をもつ山系の総称であるのかもしれない。〈私〉たちのそれぞれが、飢えの感覚を山頂の感覚に重ね合わせるときの響きを、一つずつかいていこう。しかし、それらの響きが、自分の主張を固執する度合に応じて、そのすきまに、さまざまな色調をもつ意識のつぶやきが介在してくるのを避けられない。

 〈私〉たちが、首都の時間から、この空間へ追放されてきたのと対応して、限りないパロディーが、この魅惑的な都市の政治地帯で展開されている。数年前の〈私〉たちの闘争を根底から支持する組織が皆無に近かったこの都市では、いまもスターリニストの党が、権威を貫徹する正統派と、有効性を追求する修正派に分解したままである。静かなデモや署名や講演をするばかりで、〈私〉たちを、貧しい風景からやってきた分裂病者めと罵る連中に、おまえたちは、この風景をみる眼が衝撃のために歪むほどたたかったことがあるのか、といってやれ。

 〈私〉たちは、かれらを根底からくつがえす反対派として登場し、そのとき現われるであろうすべてのヴィジョンを表現していこう。都市の大きさと政治水準の落差が、このように著しい風景で、かえって〈私〉たちの体制の桎梏と反体制の桎梏を二重に突破する論理とパトスを組織化する最上の実験ができるかもしれないから。あの山頂は、〈私〉たちがつくりだすたたかいのピラミッドの頂点を象徴しているのだ。

 (ここが日本の労働運動の発祥地だというのは本当か。ピラミッドがケーキになり、広場は花時計に占拠されているだけだ。油虫のような荷役船が、大型船へすり寄っていく。海抜0メートル地帯で、ベトナム行きのジャングルシューズをつくっている君たち、鼓の形をした観光塔をうち鳴らせ。船をとめろ。減速ブレーキからはみだす不快を、コンクリートの防波堤にたたきつけろ。心象の風景さえ見えないで、便利な私鉄で往還する君たち、倒錯した現代史に手で触れてくれ。社会主義圏や革命組織が生きているなら、君たちは死んでいる。ジグザグ・デモで、空虚な街路を飾れ。冬から冬までゼネストだ。屈辱の中へ。下部から連続的に、理論の限界において、一瞬ごとに触れる現実方程式のすべての項を花開かせながら。)

 〈私〉たちが、この風景の中へ反対派として歩み出すとして、いま眼前にある山系が美しいと言えるだけでなく、ひしめき合う現実過程の曲線とも、弯曲する〈私〉たちの意識とも交換できるのは不思議なことだ。一切の風景は、〈私〉たちが目をさませば、泡のように消え去り、斜面の運動を錯覚する心臓の鼓動だけが残っているとしても、それは当然だという気がする。風景への干渉のしかたが、このように分裂してしまうのはなぜだろう。時間=空間の外部的な差異をもつ闘争へ踏みこむとき、内部的な時間=空間がねじれたピラミッドをつくるのではないか。一方の条件を無視すればピラミッドは、案外たやすくとらえられるにちがいない。しかしそれでは、本当に、たたかいにでかけることにはならない。人々の表情は、闘争の前でも後でも、首都でも港でも変わらないようだし、組織Aから組織Bが分裂するときにも、組織Bが組織Cを批判するときにもオートメーションから流れでるような文体は同じだ。が、このことは逆に、表情や文体が表現のピラミッドから、すさまじい勢いで転落していることを示していないか。また、このことをちがった空間でちがった時間に気付く〈私〉たちも、ちがったという分だけの責任のピラミッドをずり落ちているだろう。このような内部ピラミッドの追求が結果的に現実闘争のピラミッドをつくっていくより前に完了していなければならない。

 (あなたも知っているように最も高い頂点が、一ばん底の点になることもあるのだから、ある稜線を上昇していても、それは下降であるのかもしれない。だから、かれは、ピラミッドを探しにいかずに、自分の心の底の動きをピラミッドにつくってしまえばいいのよ。そのとき人目にふれる点を支える三つの点は、どんな風になるのかしら……そう、あなたの意見では、恥ずかしさプラス極左→屈辱プラス侮べつ→別の空間への逃亡、という変移をくりかえすわけね。あたしの直観では、副詞句による自己欺瞞→非必然的な対立止揚→別の時間への逃亡、という循環になります。いずれにせよ、でき上がったピラミッドが、悲惨にもこっけいであることはたしかでしょう。)

  

(2008.11.08UP)

 内的ピラミッドと外的ピラミッドのどちらを先に追求するかというのは、二段階戦術だ。両者を否応なしに包み込んだまま拡散していく六・一五被告団の一切のヴィジョンをみきわめつくして、かれらを拡散させる力の確認へむかおう。

 一切の反被告団的発想を粉砕せよ。これは〈私〉たちの最低限のあるいは、頂点をなすスローガンだ。ところで、被告団として権力と生活過程にはさまれて存在することは、〈私〉たちが、あの原体験を包みこんで現実過程に入りこんでいくのと同位であることを知った以上、〈私〉たちは、かれらが無意識的に拡散していくかたちを意識に総体化することができるのだ。かれらの拡散するときのピラミッドは、〈私〉たちがもっともとりだしやすい、同時に決して逃すことの許されないかたちを示しているのだから。〈私〉たちが、拡散を意識的にとらえるという場合、下降しつつある個々の稜線上の個体のいずれをもえらばずに、分裂の根源へ歩いていくことを未来の重さが命令しているのだ。

 

(これは、歪んだ鏡の中の二人称をのぞきこむ一人称を描いた歪んだ絵です。むこうむきに鏡をのぞきこむ一人称の顔は見えないが、その一人称は、鏡の中の二人称を媒介して絵をみる一人称をみているのですが、こうしているうちにも、鏡は波のように崩れ、絵は風のように死んでいく。こわれた無数の破片に、無数のだれかが対応しているとして鏡や絵を用いないで全てのものを書き、全てのものになってしまうのは第何人称ですか。)

歩行を止めよ。ここで立往生している感覚を、目的や連続性にとらわれず、一切のイメージへ自由に伸ばしてみよう。〈私〉たちの山頂への歩行は、散歩のような解放感をもたず、限られた時間と、凝縮した志向と、既成の登山コースにしばられているのではないか。乗物を用いず苦労して登り続けても、山頂は資本に選挙されているはずだし、足元のこの滝から舞い上がるメールヒェン風の白い泡も、奥地に開発された団地の下水から発生している。

立往生の感覚……これを、いろんなときに味わっているはずだ。呪いのように道を横切る黒い蛇をみるとき。明日の食費もなく、手足をまるめて眠りに落ちるとき。突然の言いがかり的論争に対応せず沈黙をかむとき。

要するに、あるピラミッドの稜線上で*1、別のピラミッドに転移する瞬間の断絶感を追求すべきだろう。ピラミッドの複数化を確認することによって、より巨大な、運動するピラミッドを予感し、とらえるのだ。

(かれらは、絶壁をはしごで登ることも、ブランコで越えることもしないで、眼の前にぽっかりと広がる砂の平地へ、デモ隊のように突入していくが、そこには誰もおらず、立札によれば、山をけずりとった跡に大学をつくり、けずりとられた土砂で海を埋立て工場地帯をつくるらしい。かれらの靴の裏には、二重の利用をされる砂の驚きが付着しており、数万年前の海岸と現代の海岸を、無人のベルト・コンベアーが連結している。突然爆発音がとどろき、平地をとりまく崖の中腹から、かれらの頭上へ煙のように拡がった土砂が降ってきたかと思うと、崖全体が、かれらの方へのめりこんでくる。海の鋭角の切片に眼の片端を通過させながら、かれらは、もしかしたら自分たちこそ、この発破をかけた技師あるいは労務者なのだ、とずい分前から知っていたかのように考える。)

〈私〉たちが歩きだしたときから、〈私〉たちの頭上を飛びかうものがあったのではないか。はじめ〈私〉たちは、それを時間をくわえて〈私〉たちを探している小鳥たちかと考えたり、時折梢から〈私〉たちの上に投げかけられるこもれ日だろうと思ったりしていた。だが、それは、意識とまどろみのズレがゆたかに開かれるこの風景の空間性を逆用して、さまざまなピラミッドの力学を追求しようとする〈私〉たちの試みを、〈私〉たち自身が空しいと予感した瞬間と対応している。このとき〈私〉たちが、知らぬ間に、タンポポの妖精との心中を決意していたとしても、それは必至だったのである。無意識的にえらびとる欲望のかたちこそ、〈私〉たちが状況に対しておかれている困難が、補完的に反映しているのだから。その反映へ身を投げ込むことによって、〈私〉たち以外の〈私〉たちが追求するピラミッドの虚像が、マイナスのピラミッドが、ほのかに姿をみせてくれるような気がする。

(湿潤な部分へのめりこんでいくときの速度と、記憶の層に叙情の泥が沈澱していくときの速度の間を押しひろげながら、一瞬、不能の予感、策莫として悲しみに襲われる。どうも今までのとは構造がちがうな、と考えながらも、慣性に従って尖端を挿入していくと、内部の粘膜に栗粒状の斑点が数十個みえるのだ。ハッとして引き抜いてみると、尖端にも、その斑点が増殖している。しかも、遠くからの羽ばたきに似たざわめきに後をふりむくと、巨大なタンポポの綿毛が数かぎりなく、こちらをめがけて山頂から舞いおりてくる。)

〈私〉たちは、最後のヴィジョンから発想してみるべきだ。一人のパルチザンとして出発した〈私〉たちは、不可視の軍団としてそれぞれ別の山頂にたどりつく、と仮定してもよい。〈私〉たちが、迷ったロバを探しにでかけて王国を発見した旧約の青年に似ているかどうかいまは保証できない。〈私〉たちは、自分だけでなく他の者も別の山頂に到達しているのを恐らく確認できないまま、あえぎながらひざまずいているだろう。そのとき、〈私〉たちは、ピラミッドという奇妙な概念をつかっていたことの罪によって罰せられるだろう。むしろ、〈私〉たちは、それを要求しなければならない。そのとき、六甲を支えている海が裂け、複数の山頂が重なり合い、すべての〈私〉たちは、海へなだれ落ちていくのだ。その後に、六甲のままの六甲が、ひっそりと横たわっていることはいうまでもない。

〈私〉たちからの六つの響きが、六つの主張のように六甲へ影を落としたとき、遠くからしのび笑いが、ちがう、だんだん深くなる懈哭が近よってきて、この空間を緊張した叙情でみたす。そして、その虚数の焦点へ六つの響きが集中していくような気がすると……それらの響きや響きにならないでうごめいている気流が、もつれあい、あらみあったまま私ののどから内臓へ殺到してくるではないか。それら全ての何ものかを時間の中へ放てば生きられるかもしれない、という希望が激しい飢えを一瞬忘れさせる根拠である。

*1:「稜地上」となっているのだが誤植ではないか

概念(序文の位相で)

概念(序文の位相で)

 一般的な辞書などでは、概念について、同種の多くの事物に共通する本質を、経験ないし思考を媒介して言語によって抽出したもの、というように説明している。

 この概念集を作成する契機をふりかえってみると、同時代建築研究会(東京)の企画である『ワード・マップ 現代建築』に、ある必然から関わることになり〈バリケード〉、〈法廷〉、〈監獄〉という三項目の統一的な不可避性を提起しつつ執筆を担当する作業の中で、建築概念に対して門外者として(あるいは、門外者であるからこそ)内在的批評をなしうる手応えを獲得しえたが、同時に、常に物質性との拮抗において概念をとらえようとする人々に比して、私の二十年の試みの抽象性~偏差を深く自覚した。

 前記の企画との同時代性を帯びて、批評集(さらに、表現集や発言集の〈 〉版や、それぞれの続編)の刊行や討論集会の企画が、二十年の対象化作業の基軸として進行していたことと相乗されて、前記の執筆は、これまで私が具体的な切迫との関連において発言したものの記録、マスプリして配布した文書、刊行してきた通信などを、他者性の総体から把握しなおす視点を与えてくれたのである。

 一つの仮定をしてみよう。これまでの〈松下昇〉の全表現を大学闘争(全く良くない言葉であり、表記や理解の仕方を変換しなければならないが、過渡的に用いる)に関する事典として、あるいは概念の索引として読むことは可能か。それは、まず不可能であろうし、説明的な位置の対極で表現してきたのだから当然かも知れない。ただし〈松下 昇〉の全表現の中に、大学闘争というよりは〈 〉闘争過程ないし、それを不可避とする情況に現れた基本的な概念が全て含まれていると仮定してもよいのではないか。いや、あえて仮定すぺきではないか。なぜなら私たちのくぐってきた〈 〉闘争過程と、はるかな異時・空間に生起しうる〈 〉闘争過程に共通する本質を、経験ないし思考を媒介して言葉によって抽出することは可能であり、必要でもあることを、前記の二つの企画に私を参加させてきた経過の根底に潜むカが示していると確信したからである。

 このような確信に支えられて、〈 〉闘争過程を思い描く時に訪れる概念の言語化を、まず〈フィクション〉の項目から開始してみた。建築に関連する前記の三つの概念の物質性~具体性から最も遠い(それゆえ最も近いかも知れない)概念として。その後いくつかの項目を作成しつつ、あらためて痛感したのは、たんに概念の解説ではなく、ある概念の生成してくる根拠や回路を共有する度合で了解しうる言葉で表現しなければならないし、しかも、はるかな異時・空間にいる、全く予備知識のない〈私〉が了解しうる言葉で表現しなければならないという困難である。しかし、順不同のまま、あふれかえり律動する概念の集合を少しずつ文字に変換していく作業は、〈69〉年前夜のエロス領域の感覚と、どこかで共通していることも記しておきたい。(英語でconceptionが「概念」の他に「受胎」を意味することの意味)

 ところで、概念とは、こちらが把握したい時に把握できるのではなく、ある瞬間、否応なしに、こちらを把握してくる本質をもつのではないだろうか。ドイツ語では、概念に相当する言葉はBegriffであるが、これは、Begreifen(つかむ)から派生しており、ある示唆を与えてくれる。ハイネも「私は自由の奴隷である」という口ベスピエールの告白を引用しなから、「理想が我々をつかむ」時の抗らいがたい力について語っていた。(表現集152ぺージ参照)

 前記の〈理想〉は、〈概念〉とは異なる概念であるが、双方を共通に動かすカ学が感じられる。このカ学をこそ追求しつつ、この概念集の作業をおこなっていきたい。

 従って、〈概念〉という概念を〈 〉化して応用する場合、観念や想念や情念というような心的なレベルの動きと、それとは無関係に動くようにみえる他者総体の存在様式を同時にとらえていかなければならないだろう。

 それと共に、概念集の作業に際して、今は微かな予感としてしかいえないが、

α、概念集の項目を、これまでの〈 〉闘争過程の表現を全て再検討しつつ抽出するだけでなく、全表現の偏差を対象化しうるものを選び、未出現の項目へ応用する。

β、既出現~未出現の項目は、名詞とは限らず、全品詞にわたり、さらに文体~構成~ジャンル、この概念集に交差する現在~未来の幻想性総体を対象とする。

γ、ある項目を、まず提示して記述し始めるだけでなく、なにものかに促されて記述していく時に向こうから現れてくる像や音や~に気をつけ、それを作業の基軸とする。

というような項目にカ点を置くことになるのは必然である。

(p1-2『概念集・1』松下昇 1989・1)

一読者 『まず、引用されたサイトの具体的検証をするという宿題その①を作成中にご返事をされてしまったので、また後回しにさせていただきます。

この後、一旦、野原さんに答えてからになるので、さらに後回しになりますが。

次に、今回の慰安婦決議案の内容確認という宿題その②は、ホンダ議員のHPで再確認したとおりなら、補償問題は入っていませんね。

しかし、4項目の内容が韓国などの慰安婦補償運動家の一般的要求から補償が抜けているだけで酷似しており、今更ながら韓国中国ロビーの主導下の議案だと実感させられます。

>さてあなたが公安委員会(?)と風俗業者の関係とは違う、そして軍が積極的・主体的に関与したのだと認識を改めたということですね。

いいえ。私は最初から上記2、の考えでした。

しかし、引用されたサイトの著者が十分に実証できていないのに3、と結論付けたのに過剰に反応して、つい1、と言い間違えただけです。

そして、私の考えでは、

1、国家に法的責任なし

2、国家に法的責任があるか無いかは行為当時の行為地の実効的法規範により決まる

3、国家に法的責任あり

です。

私は主体的関与という用語を、国家の法的責任を肯定しうるだけの関与という意味で使用しておりますが、あなた方はより広い意味の積極的関与を、それと同義と考えていることによる誤解ですね。

つまり、私は、2、の中の国家の法的責任否定説です。

道義的責任については肯定説で、アジア女性基金にも、村山元首相の10倍以上の金額を寄付させていただいております。

>そうしますと常石氏のブログでのあなたの問題提起「違法な実態があったとしても、政府や軍が主体的に関与していなかったら、それは朝鮮人が多かったという業者の責任です。」というのは誤りだということでよろしいですね。

これも誤解なので、上記コメントをお読みください。

私とあなた方の用語の意味の違いに起因する誤解でしょうね。

>なるほど。要は説得的な反論は出来ないが「反感を抱いた」程度のものですか。

いいえ。

説得的な反論かどうか分かりませんが、ただいま作成中ですので、お待ちください。

事実部分の検証には、ある程度他の資料の検証も必要なので、時間はかかります。

>まあ、如何にバイアスのかかった目でこの問題を見ていたか、自らのイデオロギー性を自覚できただけあなたにとっては良かったのではないでしょうか。

前提で勘違いしているので、ここでも勘違いしていますね。

私はイデオロギー的には中道右派で大アジア主義に親和的です。

ところで、引用されたサイトの資料分析部分と結論部分の間にロジックの飛躍があるのはあなたにもお分かりになりますよね?

>「違法な実態に政府や軍が主体的に関与していたら、日韓基本条約時の請求権条約で解決済みということになる」という議論が的を外しているということもよろしいですね。

現在の議論として的を外していても、仮に決議案が可決されたら、当然問題になりえますから、将来を予測した議論としては的を外していないと思います。

私は、決議案の原文を読んで、ますます韓国の河野談話の経緯に対する背信的行為と、米国内での対日企業戦時賠償請求訴訟へのホンダ議員の関与の経緯が、組み合わされた形での、将来の蒸し返し補償要求を予感しました。

私は、法的責任は条約で解決済み、道義的責任は河野談話、歴代首相の謝罪、アジア女性基金で解決済みという立場ですから、決議案成立後に補償要求される可能性が高まったことを等閑視はできません。

杞憂に終わると良いのですがね。

>人権侵害行為が十分に救済されていないという認識の下様々な理論的な努力が現在為されています。しかも妥結時に考慮されていなかった問題であるのならなおさらです。

条約等の締結時に考慮されていなくても、河野談話以後の取り組みで考慮されて解決済みでしょう。それが日韓両国の外交信義というものです。

>そもそも軍が主体的に関与し、そこにおいて人権侵害行為が発生しているのに、(公式的な)謝罪すらしない、あるいは一官房長官の談話すらなかったことにしようとするというのはどういうことかと私は思います。何も責任を取りませんと言っているに等しいと言われても仕方がない。

私は首相も公式に謝罪しているという認識です。歴代首相の河野談話の継承とお詫びって、そういう意味でしょ?責任は法的責任も道義的責任も履行済みという考えなので、大雑把に言えば、責任はもう履行しました、事実誤認の部分は修正します、というスタンスでいいと思います。何も責任をとりませんと言ってるととるのは、あまりにも事実の経緯に無知な故か傲慢さ故でしょうね。

>私は東京大空襲のような無差別爆撃も原爆による民間人の虐殺行為も裁かれるべきだと本気で思っております。

法的責任は、請求権を放棄したので、賛成しません。

道義的責任の追及なら、賛成します。

>しかしそれを日本が追及するには自らの戦争犯罪と真摯に向き合うこと以外にありません。

真摯に向き合うのは賛成ですが、事実誤認は修正すべきです。

ただ、それは十分に事実を検証した結果こうなりました、ということが第三者の目からも是認しうるだけの資料をそろえ、分析結果も揃えることが必要でしょうね。

少なくとも、非難決議案の内容に事実誤認が多いことは、あなたも賛成でしょう?』

ノーモア 『ではホンダ議員が実際どのようなことを言っているのか見てみましょうか。

http://www.wam-peace.org/main/modules/news/dl/070131honda.pdf

「私は、アジア女性基金を通じて慰安婦生存者に金銭的賠償を行おうとした日本の努力を評価しております。アジア女性基金とは政府によって着手され資金の多くを政府に負う民間基金であり、その目的は「慰安婦」に対する償いをねらいとしてプログラムやプロジェクトを実行することでありました。アジア女性基金は 2007年3月31日をもって解散することとなっています。私は、アジア女性基金が重要であったということには同意しますが、現実は、大多数の慰安婦生存者がこれらの資金の受け取りを拒否したということであり、日本政府からの、疑いの余地も曖昧さもない謝罪がなければ、その金は彼女たちにとって意味を成さなかったということなのです。」

私にはあなたが相手が何を言いたいかも良く調べずに陰謀論にはまってしまわれているように思えます。

>いいえ。私は最初から上記2、の考えでした。

そうだったんですか?「公安云々」のくだりからはとてもとてもそうは思えませんでしたが。まあこれからきちんと反論なさるということで待ちましょう。

>引用されたサイトの資料分析部分と結論部分の間にロジックの飛躍があるのはあなたにもお分かりになりますよね?

よく分からないことをおっしゃいますね。私はあの論文を「軍の主体的関与」を示す目的で挙げたのです。あの論文はその目的に適っていたと思いますが。

>将来の蒸し返し補償要求を予感しました。

予感するのなら御勝手に。ただロクな根拠に基づかない予感を基に議論を展開してもバカにされるだけです。事実あなたは決議案がどういうものであるか、議案提出の意図はどこにあるのかこの議論を通じて一度もソースを示されていない。議論をなめているのでしょうか。

>条約等の締結時に考慮されていなくても、河野談話以後の取り組みで考慮されて解決済みでしょう。それが日韓両国の外交信義というものです。

最低限河野談話の踏襲することが「外交信義である」というご認識に改められたということでこれも良かったです。ちなみに一官房長官の談話に過ぎないものを公式的な謝罪ととるかどうかは微妙なところでしょうね(ホンダ議員の求める公式的な謝罪とは国会による謝罪決議でしょう)。しかもそれを重みのあるものに高めようというならともかく、逆に常にその価値を低めようとし、それすらも覆そうという勢力がこの問題をこじらせているわけで。

>法的責任は、請求権を放棄したので、賛成しません。

まさにここでしょうな。被害者そっちのけの勝手な国家間同意で一切が解決とすることに国際人道法の研究者が疑問をおぼえるのは。しかも国内法による救済といっても「戦争による被害は国民が等しく受忍すべきもの」であっさり却下されるわけで。ま、それはいいとしていずれにせよ、道義的責任とやらを追及するにもそれなりの倫理的な基盤は必要だということです。

>真摯に向き合うのは賛成ですが、事実誤認は修正すべきです。

一般論としては正しいのですが、あなたのように相手が何を言っているかを知らずに感情的に噛み付く人たちがいるので何とも言えないというところでしょうか。』

一読者→中道右派 一読者→中道右派 『>現実は、大多数の慰安婦生存者がこれらの資金の受け取りを拒否したということであり、日本政府からの、疑いの余地も曖昧さもない謝罪がなければ、その金は彼女たちにとって意味を成さなかったということなのです。」

実際には挺隊協、マスコミ、その他社会からの有形無形の圧力で受け取るつもりだったのが拒否した事例が多数あったことが、日本側の支援団体の報告で批判されていますね。

>私にはあなたが相手が何を言いたいかも良く調べずに陰謀論にはまってしまわれているように思えます。

あなたは、自分に都合のいい部分しか取り上げていませんんね。私はホンダ議員のホームページで全文を読みましたが、事実認定部分には多数の誤認がある。

>そうだったんですか?「公安云々」のくだりからはとてもとてもそうは思えませんでしたが。

それは当方のミスだと説明済みです。あなたも野原氏同様人のコメントをきちんと読まない方なのですね。

>まあこれからきちんと反論なさるということで待ちましょう。

ロジック部分は前回のコメントで説明済みということは了解してもらえますね。

具体的検証部分は、もう少しお待ちください。

>よく分からないことをおっしゃいますね。私はあの論文を「軍の主体的関与」を示す目的で挙げたのです。あの論文はその目的に適っていたと思いますが。

あなたの用語法からは、目的達成でしょう。

私の用語法(前回コメント参照)からは立証不十分です。

>事実あなたは決議案がどういうものであるか、議案提出の意図はどこにあるのかこの議論を通じて一度もソースを示されていない。議論をなめているのでしょうか。

あなたがソースを要求したいのは、決議案の全文、ホンダ議員のHPその他、ホンダ議員の対日企業賠償請求訴訟への関与、韓国慰安婦補償運動の一般的要求などですか?そんなのあなたご存知でしょ?私のソース提示に関するポリシーは以前説明したのに分かって貰えないのですか?あなたこそ肝心のロジック部分がいい加減すぎて、議論を舐めているとしか思えません。相手の言い分のどこに賛成でどこに反対かを明確にする、議論の途中で自分のミスがあれば認めお互いの共通認識にする、これ基本じゃないのですか?

>最低限河野談話の踏襲することが「外交信義である」というご認識に改められたということでこれも良かったです。

これも誤解です。改めてません。私は最初から河野談話修正ないし撤回必要説です。先に外交信義を破ったのは韓国側なのだから、日本だけ墨守することを押し付けられるいわれはありません。

>ちなみに一官房長官の談話に過ぎないものを公式的な謝罪ととるかどうかは微妙なところでしょうね(ホンダ議員の求める公式的な謝罪とは国会による謝罪決議でしょう)。しかもそれを重みのあるものに高めようというならともかく、逆に常にその価値を低めようとし、それすらも覆そうという勢力がこの問題をこじらせているわけで。

私は、官房長官の談話を踏まえて歴代首相が何回も謝罪してるという認識だと言ってるでしょうが。

国会による謝罪決議が必要と考えるのは、ホンダ議員や中韓ロビーの勝手ですが、日本には日本のやり方があり、過去の犯罪のほとんどに謝罪していない米議会や中韓勢力に指図されるいわれはないですね。

価値を低めたり覆そうとしていると考えるのは、単にあなたの価値観に基づく主観。

私は単に事実誤認部分を修正するだけだと思います。その際、この問題の発生経緯も含めてつまびらかにした上でできれば、なお良いですね。法意識の発展による遡及処罰はどこまで可能か、という新たな論点を提示するきっかけになるかもしれません。

あとで検索してソースを示しますが、町山ともひろ(漢字失念)氏の天安門事件に関する記事をお読みください。

>あなたのように相手が何を言っているかを知らずに感情的に噛み付く人たちがいるので何とも言えないというところでしょうか

ホンダ議員のHPは前回のコメント前に全文読みましたが、それでも知らずにかみついていると?

むしろ、あなた方のように相手のコメントを字義どおりに素直に受け取らず誤解曲解が多すぎると、こちらが一々説明しなきゃならないので、疲れます。』

一読者→中道右派 一読者→中道右派 『http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20040313

町山氏のブログです。』

ノーモア 『>そんなのあなたご存知でしょ?

いや、最初に「請求権条約で解決済みだからごちゃごちゃ言うな」という論旨を展開されたから、今回「法的責任」は云々されていないのだから的外れでは?と答えたわけです。もちろん最初に論旨を展開されたのはあなただからあなたがソースを提示すべきでしたが、私は議論を先に進めるためにこちらから色々提供して差し上げました。そして実際、法的責任云々は含まれていなかったわけですから、それで本来この話は終わりなのです。が、あなたは議論をすり替えて「いや将来言ってくる気がする」と言い出したわけです。

あなたの「予感」とか「そう思った」だけの議論に付き合う義理はないのですが、やはりホンダ議員はそのように言っていないはずですがとこれもこちらからソースを提供して差し上げた。私は彼が民間基金による補償というアイデアを高く評価しているのでそれが謝罪をきちんと行うことで機能して欲しいと思っているように(まさに「字義通り」!)受け取りましたが。で、今度はホンダ議員の「事実誤認の有無」ですか?議論のすり替えを何度行えば気が済むのでしょうか。もとの論点とは似ても似つかない論点になっていることが分かりませんか?

>私は、官房長官の談話を踏まえて歴代首相が何回も謝罪してるという認識だと言ってるでしょうが。

知ってますよ。何回も繰り返さなくても結構です。ただしそれについて散々それを台無しにするような発言が繰り返されてきた経緯も御存知ですよね?ホンダ氏も諸外国もそういう経緯を知っているんですよ。だから「曖昧でない謝罪を」と言っているんじゃないですか。謝罪というのは加害者が頭を下げた回数で決まるんじゃないんです。謝罪は一人じゃ出来ないんですよ。

>日本には日本のやり方があり

まあ加害者が犯罪被害者に謝るとき「俺には俺なりのやり方があるんだ」と言いだして謝罪が成り立つかといえば、その可能性はゼロに近いでしょうね。

>価値を低めたり覆そうとしていると考えるのは、単にあなたの価値観に基づく主観。

私だけの主観ではありません。それは諸外国でも「日本の謝罪は曖昧だ」という認識の方が多数派なのでは。。今回安倍氏が「謝罪しない」と言った時の諸外国のメディア・政界の人たちのあまりの反応にこれまで「日本を悪く言うのは特アだけだ」と言っていた人たちがうろたえていたのを見て不謹慎ですが笑ってしまいました。まあこれは蛇足ですが。いずれにせよ謝罪は一人では出来ないという「リアリズム」に立ち返って欲しいものですよね。

>町山氏のブログ

知ってますよ。しかしそれが今回の件と何の関係があるのか私には全く分からないので正直困惑してます。

>先に外交信義を破ったのは韓国側なのだから、日本だけ墨守することを押し付けられるいわれはありません。

これもよく分からないんですが詳しく経緯の御説明を願います。』

民、人、天

 光栄のベストセラーシミュレーションゲーム三国志には、「民忠(タミチュウ)」というパラメータがある。民の忠誠度のことである。これが低く成りすぎると民衆は反乱を起こして領主が殺される場合もある。したがって低くならないよう民に食糧を与えたりしておかないといけない。ここで定義されている民という概念はけっこう正解であり、中国思想史の最初期に遡りうるものだ。

 周の青銅器銘文に為政者の統治対象として登場する。『尚書』では、民は保(やす)んじおさめられるべきもの。この段階では民は自然の存在であり、統治の客体にすぎない。為政のバロメーターである。p44(光栄の場合と一致している。)

 人を発見したのは孟子である。天から付与された自然物である身体は、「思う」ことによりまた「身に返る」こと「心を尽くす」ことにより、身体が潜在的に有する新たな意義を見出していく。p48

 戦国後期の儒者において、「人」尊重の思想を継承した、「王による民の教化」という観念が確立する。人倫社会の成立は「王による教化」によって保証される。p64まあ考えてみると現在の教育基本法改正の論理はこうした伝統に起源している、ということはできる。しかし彼らの最高範疇は愛国心であり、アプリオリに天下に届かない。哀れなものである。

(以上ページ数は『儒学のかたち』関口順 東京大学出版会 参照)

 で、11/15に「でも人民という言葉はいかにもこなれない。スターリニズムの匂いさえする。」と書いたがこれは撤回することにする。孟子曰く「諸侯の宝は三。土地、人民、政事なり」(尽心下)

からだうた

「からだうた」という歌がある。ある養護学校で作詞作曲されたものだ。

「あたま あたま あたまのしたにくびがあって かたがある かたからうで ひじ またうで てくびがあって てがあるよ むねにおっぱい おなかにおへそ おなかのしたにワギナ/ペニスだよ せなかはみえない せなかはひろい こしがあって おしりだよ ふともも ひざ すね あしくび かかと あしのうら つまさき おしまい♪ 」という歌だ。わたしは新聞で歌詞を見ただけだが、「背中はみえない背中は広い」なんて面白いと思う。

 東京都の横山教育長という人は、都議会でこの歌について「とても人前で読むことがはばかられるもの」と言ったらしい。このひとはどういう感覚の持ち主なのか。わたしにとって一番大事なものは身体であって、その名前を知るのは大事なことだ。教育者が苦労してそれを教えているのに、なんだかわけの分からない自分の偏見でもって非難するとは何事か。こういう馬鹿な奴には是非一矢報いなければいけない。

(参考)http://www.ne.jp/asahi/law/suwanomori/sei.html

削除します

昨日「波状言論」への悪口を書いたがイマイチなので削除しようと思った。なにげないワルクチというものは感心しない、批判するなら20年経っても忘れないほどの思いでやれ、と思うので。ただ今見ると「波状言論」からのリンクが28もあるので一応残しておきます。似たようなことはできたらまた書きます。