靖国参拝反対

保守本流の意見。4/23の朝日新聞に自民党の加藤紘一氏の意見が載っていた。

 靖国参拝問題の本質は、神社にまつられている14人のA級戦犯をどう見るかということに尽きる。

 ナチスにすべての国内的、国際的な戦争責任を帰したドイツと違って、日本は国内的な戦争責任についての論議ができず、極東軍事裁判の判断をサンフランシスコ講和条約で受け入れた。そうである以上、私は靖国問題は、講和条約という国際的約束を、日本が守り続けられるかどうかの問題だと思っている。A級戦犯がまつられている靖国神社に、たとえ私人としてでも首相が参拝すれば、日本に講和条約を守ろうという意思があるのかどうかが疑われる結果になるのは当然だ。

 簡明だが、「日本は国内的な戦争責任についての論議ができず」ことにも触れており、とても優れた文章であると思う。日中関係がさらにこじれれば「米国としても首相がサンフランシスコ講和条約を踏みにじっていると指摘せざるを得なくなるかもしれない」とまで指摘している。日本が戦後対アジア敗戦責任を非常に軽く済ますことができたのは、アメリカの力による。そのような構図(冷戦構造)が失われても、アジア人差別だけは持続、再強化しているのが現在の日本だ。有害無益なナルシズムからは脱却しなければいけない。

下記も参考。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050203#p1

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050331#p2(宮台真司の引用)

(削除予定)メモ

旧い計算式A4をaとします。  a=+D3+C3 

D3=+A3-B3-C2 なので、 a=A3-B3-C2+C3 です。

新しい計算式A4をaaとします。 aa=+B3

A3=B3*2+C3 ですから a=B3*2+C3-B3-C2+C3=B3+C3*2-C2 になり

aとaaの差 a-aa=C3*2-C2 になる、と思いましたが、ここが間違いです。

つまり、新しい計算フォームでのB3(一般にBn)(区別のためにβと呼ぶ)と旧い計算フォームでのB3(一般にBn)は一致しません。

(以下考え中)

 うちの玄関ドアの外側の枠の土台から数センチのところに緑色の蛹があってこんなところでは無事には育つまいと思っていたら。今家族のものが羽化しているのを発見。まだ羽が広がっていないが無事に飛び立つだろう!

(野原から)(7/6)

(1)

マッコイさんとの三度目(?)の出会いは、野原が、http://d.hatena.ne.jp/drmccoy/20050627/p2 にコメントしたことに始まる。

『バンザイクリフの大量死は米軍が原因なのですか。「生きて俘虜の辱めを受けず」とした皇国の洗脳と強制が原因でしょうが。』 (2005/06/29 18:05)と聞いた。

マッコイ氏の返事は『「米軍に追いつめられ、民間人が大量に崖から飛び降りて自殺した」はたしかに一面的な見方かもしれませんが、そちらの「「生きて俘虜の辱めを受けず」とした皇国の洗脳と強制が原因」というのもまた一面的だと思いますね。』というもの。一万人という多数の民間人の死という事実に対し、後者は原因を示しているが前者は事実を記述しているだけで原因について何ら答えていない。

「生きて俘虜の辱めを受けずとした皇国・皇軍」を現時点で批判しないという立場、にマッコイ氏が立っていることが分かった。わたしは「バンザイクリフ」という言葉を喜々として引用できるプチウヨというものがどういう心理構造なのか、バンザイクリフというものについて私とは全く違った理解の仕方があるのか、万一の疑念があったので念のために質問してみたのだが、そんなものはないことが分かった。わたしにとっての問題はここで終わった。

そして次にマッコイ氏は、私の「死者の原因は皇国の洗脳と強制にある」という文章に対し、あら探しをしようとはじめた。

「生きて俘虜の辱めを受けずとした皇国・皇軍」が一万人を死に追いやった。

という文章を、批判し覆せるかどうかやってみてください。

・・・

スワンさん、コメントありがとうございました。

・・・

マッコイさん(たち)への応答を返すことに(なぜこんなにおおきな)抵抗感があるのかよく分からない。

「戦場の硝煙とちぎれた屍体というその現場に生き死にせざるを得なかった先人たちのその存在の有り様に近づこうとする」ことなしに、薄っぺらな理屈のその薄さに無自覚な奴らは、恥を知るべきだ。

皇国は当然ながらその定義によって無敗である。その皇国が敗れたことの絶対的切断を承認すべきである。

「飢餓に苦しむ子供のためというふりをして」

    旧タイトル「モヒカン族的には」

* 飢餓に苦しんでもいないのに飢餓に苦しむ子供の為に飢餓の実体を訴え、募金をしようと呼びかける

* 飢餓に苦しんでもいないのに、飢餓に苦しむ子供のためというふりをして、募金を募り、集まった金額を競う

 前者は問題ないが君は後者だ。

http://mohican.g.hatena.ne.jp/matsunaga/20050720/p2

   モヒカン族 – 妄批漢ことのは砦の決戦 – どうでもいいところをクロースアップする手法を命名してくれ

前者と後者の差は付くべきものなのだろうか?

わたしには全然分かりませんね。街頭で募金を呼び掛けている若者がいた場合、彼の存在がどの程度“飢餓に苦しむ子どものため”という大義によって占められているのかなんて詮索は、僭越であり無意味である。わたしたちが関心を持つべきは(飢餓に関心を持ったとして)カンパがどこにどうやって届けられるか、その信頼性についてだけだろう。カンパも(情報と同じく?)必ず減衰するものである。ここで彼に渡した千円がそのままアフリカに届くことはありえない。旅費、事務費、送料、人件費など副次的費用がたくさん掛かる。したがって減衰率を明示している組織の方が良心的で信用できる。

「言い換えれば、他人の弱さを他人の武器にするのはかまわない」と明記した部分をきちんと読んでくれていれば、それがわかるはずなのだが、

飢餓に苦しんでいる人、は今ここにはいない。であれば、matsunaga氏の要求は、募金者は他者(飢餓者)の透明な代理人たれ、ということだろうか。それは無理な要求である。

 飢餓とは外部世界からのノイズである。ノイズをノイズであるという理由で拒否することは、飢餓を産みだすわたしたちの社会を擁護していることであり、合理的である。

敵も味方も、ともにあつく供養する

ラインラボさんが、最近の読書録で 

8月2日 『現代思想』2005年8月号が “靖国問題”を特集。奈倉哲三「招魂 戊辰戦争から靖国を考える」。を取り上げている。

http://www.linelabo.com/books.htm 最近の読書録

 靖国神社の前身は東京招魂社。明治2年(1869)6月に招魂祭をすることにより始まった。1868年1月の鳥羽伏見の戦いから翌年5月の五稜郭の戦闘終結までの戊辰戦争で斃(たお)れた者たちの「魂」を招き、神として祀るための儀式だった。維新政府は内戦に倒れた者を祀ることにより自らの権力を確立していこうとしたのだ。

 その日招かれた魂の数は3558。すべて新政府側で戦って斃れた者である。それに対し、旧幕府側で戦って斃れた者たちは、8625名余り。新政府側で招かれなかった「魂」も千人以上いる。これらの「招かれなかった魂」たちがどういった状況、戦いで死んでいったかを、筆者奈倉は詳細に書き留めようとする。*1

 結論部分をラインラボさんの引用から孫引きすると

〔…〕旧幕府側で闘って斃れた者の「魂」はすべて排除された。すなわち、新政府側に立って斃れた者の「魂」だけが選ばれたのである。

〔……〕新政府側に立って戦った兵が、「海へ行こうと山へゆこうと、天皇のためには命を捨て屍となる、敵と相対すれば、必ず正面から戦い、背を向けずに死ぬまで戦う」、こう誓って戦死したのだ、としたかったのである。

その基準に従って「味方の魂」をさらに選み、招魂したのである。

(奈倉哲三)

権力者の味方だけを祀るというのは伝統的ではないと奈倉は指摘する。

こうした「靖国の思想」は、日本人の「伝統」精神などではない極めて異例な精神である(略)

このことはすでに古くは村上重良氏が指摘しており、最近では梅原猛氏によっても強調されていることではあるが、(略)

〔…〕戦闘の終結後に、「敵方」の「魂」を排除し、「味方」の「魂」だけを招き、祀る、ということ自体が特殊なのである。

日本人の精神史は、それほどに貧しいものではなかった。それほどに情けない――情けの無い――ものではなかった。

「天神様」を見よ。あれは、菅原道真の死後、道真の「政敵」であった藤原氏が祀った神社である。もちろんそれは、時平によって大宰府に追われた道真が配所で没し、その怨霊が時平はじめ藤原一門を襲ったという怨霊信仰に基づいたものではあるが、決して、道真の勢力が、道真の「魂」を招いて建てた神社ではないのである。この怨霊信仰は、その後、仏教の怨親平等思想とあわさることで、祟りの発想が薄まり、戦乱が起こるたびごとに、戦死者の敵も味方も、ともにあつく供養するという習俗を生み出していく。

 一三三八(暦応元)年、南北朝内乱のさなか、足利尊氏・直義兄弟は、無窓疎石の勧めにより、元寇以来の敵味方すべての戦没者を供養するため、国ごとに一寺一塔の建立を決めた。一三四五(貞和元)年、光厳天皇の院宣を得、寺を安国寺、搭を利生搭と決定、その後、南北朝期を通じて、室町政権によって、ほぼ全国に設置された。

 維新政権の中心を担った薩摩藩、その藩祖と仰がれる家久の父、義弘は秀吉の命に従って朝鮮に出陣、帰陣後の一五九九(慶長四)年、家久とともに、高野山に「弔魂碑」――「忠魂碑」ではない――を建立、「為高麗国在陣之間敵味方鬨死軍兵皆令入仏道也〔ぶつどうにいらしむるためなり〕」と、碑文にはっきりと記したのである(鬨死は戦死の意)。こうして、敵味方無く供養するという精神が広まり、「死ねば敵も味方もない」との言葉で表される観念が、日本人一般のものとなっていくのである。*2

(奈倉哲三)

敵も味方も、ともにあつく供養する(外国人であっても)、というのが日本の伝統であったのだ。

*1:幕末の志士たちや新撰組の物語が小説や映画など盛んだが、戊辰戦争が余り語られないのは何故だろう。国民国家なら(独立?)戦争の栄光を長く讃えるのが普通じゃないのか?

*2:ここもラインラボさんの引用から孫引き

クラミツハとかクラオカミ(9/4追加)

に興味を持っている人がいた!(別のおとなり日記)

78.於尿成神名 彌都波能賣神(みつはのめ) 水の霊 罔象女(罔象は中国の水の精)

  「水(み)つ早(は)」の意か?

90.闇淤加美神 クラオカミ  「オカミは蛇身で、下級の水の神、主に沼や淵や泉などに棲む。 クラは幽谷。(西郷)」

91.闇御津羽神 クラミツハ 男神クラオカミと対の女神

参考:http://www.h4.dion.ne.jp/~sa-ya/html/mukashi/shinnmei/shinnmei-3.html 記憶の森~昔が原~神名釈義3

もっとも、ワタツミ、オカミ、ミツハ、それにミツチ等、水の霊たちの性格、分掌の連関がどうなっているかは、よく分からない。というよりそれは一種雑然たる併存えあったように見える。(略)

ここに*1水の神が出てくるのは唐突のように見えて、そうではない。蛇体もまた剣や雷電などと同じ範疇の神話的映像であったからだ。

p223 西郷信綱『古事記註釈・1』isbn4-480-08911-X

*1:カグツチ神を斬った血からタケミカズチ(雷電の神)などが成るシーン

人間とは

人間とは繕(つくろ)う動物である。*1

             (エリザベス・スペルマン)

*1:「繕いのフェミニズムへ」岡野八代 p87現代思想9月号isbn:4791711408

克己復礼

克己復礼というのは儒学では特に重んじられたスローガンらしい。

克己復禮爲仁。一日克己復禮。天下歸仁焉。

http://kanbun.info/keibu/rongo12.html 論語・顏淵第十二(Web漢文大系)

顔淵(がんえん)、仁を問う。子曰く、おのれに克(か)ち、礼に復(か)えるを仁となす。一日、おのれに克(か)ちて礼に復(か)えらば、天下仁に帰(き)せん。(同上)

(内に)わが身をつつしんで(外は)礼(の規範)にたちもどるのが仁ということだ。一日でも身をつつしんで礼にたちもどれば、世界中が仁になつくようになる。(金谷治訳 岩波文庫p225)

ところで素直に読むとこれはかなりおかしい。わたしが身をいかに慎んだところで、天下に直ちに影響を与えるような大物である筈がない。つまり、「克己復禮」とは本来、王に求められる徳であるわけである。最高権力者は当然権力を自分の思うままに使いたくなるが、それを絶対制御しないといけない!という教えである。

上の孟子にある、人民の状態は君主の徳の関数であるといった思想がここにも読みとれる。つまり儒教は本来、王あるいは宰相クラスの人に徳を求めるものであった。それが士大夫に広がり、ついには「国民全体」に一律に期待されるに至った。だからといって、上のいうことには従えといった奴隷道徳と解釈される余地はない。*1

 ところで、10月15日から梅田で子安宣邦先生の新講座「荻生徂徠・弁名を読む」が始まりました。徂徠講義の後の時間に、子安先生は「克己復禮」について詳細に話してくださいました。ここに書いたことは、そのとき聞いたことの一部です。「克己復礼」というたった四字が、それぞれの時代のそれぞれの論者によってさまざまな表情をみせるのには驚きます。

この文章はわたしのオリジナルではまったくない。がしかし子安氏の講義の紹介でもない、わたしなりの切り取り方をしたものです。

(10/16追加)

*1:愛国心や日の丸が好きな人は、奴隷道徳が好きな人であるように私には思える。

祓え給え、清め給え

神道というものは

ただ、祓え給え、清め給え、といえばよい。

というものなのだろうか。山田孝雄は「それに相違ないのである」と言っているようだ。(同書p98)

日本書紀の中の今申したように、腹がへってたまらぬという御心が凝って客観化して食物の神さまになる。禍津日神も穢を憎んで、それを去らなければ禍を下されるが、それは善人に禍を下す神さまではない。穢れを承知しない神様である。穢れがなくなればそれでいいという神様である。

欠如=ある徳への希求が凝って<神>になる。いま自己を圧迫してくる悪に対し、ひたすら「祓え給え、清め給え」と祈る、そうすると穢を憎む神が悪人に禍を与えてくれる。ということだろうか。

しかしそれには可能の原理がなければならぬ。その祓いの可能の原理がこの荒魂の活動にやどる。それが私の見た所に於いての平田先生の神道の神髄である。

「神が悪人に禍を与えてくれる」とまでは篤胤も孝雄も言っていないだろう。ただそういう方向の可能性はあるくらいか。

確かにAという人間を捉えて悪人であると規定することは、人間存在の広大さに対し人知でもってさかしらに規定することになり、出来ないことだと宣長はいうだろう。

本居先生の神道の考え方は要するに善悪二元論である。禍津日神となおびの神が両立しておいでになる。さうして(略)禍福は糾える縄の如しいうような説明をして居られるのである。(同書p85)

でもってこれを救済しようとするこの頃の*1日本主義者は、ヘーゲルをもってこれを解釈する、と。

それに対し篤胤は、二元論ではなく、一元論になる。

悪は祓いうる。つまり悪は本質的な物でないから祓いうるのだ。したがって神道は一元論でなければならない、と。なるほど。

ところでこの『平田篤胤』という本は、字が大きく百頁ほどでしかも内容が極めて平易である。面白い本だと思った。昭和17年という出版時点でこの表題ではひょっとして無茶苦茶国粋主義的なのではと思ったがそうしたところはなくとてもほのぼのした感じ。

「平田先生の一番力を籠め、殆ど命を打ち込んでやられた一番重要な点」が現在全く理解されていない、となげきながらも!

*1:S17年頃