非其鬼而祭之。諂也。

02-24 子曰。非其鬼而祭之。諂也。見義不爲。無勇也。

子曰く、その鬼(き)にあらずしてこれを祭るは諂(へつら)いなり。義を見てなさざるは勇(ゆう)なきなり。

http://kanbun.info/keibu/rongo02.html 論語・爲政第二(Web漢文大系)

金谷治訳では、「わが家の精霊(しょうりょう)(死者の霊)でもないのに祭るのはへつらいである。【本来、祭るべきものではないのだから】」、となっている。岩波文庫p49

『礼記』では「その祭る所に非ずしてこれを祭るを、名づけて淫祠と曰ふ」とまで言われてしまいます。

どこでこの文を読んだかというと篤胤の『新鬼神論』です。*1庶民が家に宮を設けて天照大御神を祭るのが上記に該当するのでは?という意地悪な質問があったとして架空問答している。

天照大御神は人々仰ぎ奉る日神の御神霊であり、王どもの死霊(しにたま)なんかじゃないんだから、矛盾は発生しないという答。まあそれはどちらでもよい。この文を引いたのは以下が言いたかったから。

靖国神社の場合、それが神になっているにしろいないにしろ、祭ってあるのは死者(即ち、中国語では鬼)である。小泉とかは、その精霊の家族ではない。したがって小泉の靖国参拝は「へつらい」であることになります。

ところで、

諂う、を『字統』で引くと、「貧にして諂ふ無き【論語、学而】は、容易ならぬことである。」とある。短い文だが、貧しい中からひたすら己の道を貫いてこられた、白川静氏の容易ならぬ生をかいま見ることができるように思う。

*1:p158 日本思想体系50

コミュニティを憎みかつ愛すること

パリーモン師がそれに気づいて、優しく尋ねた。「何になりたい、セヴェリアン?拷問者か?それとも、もし組合を去りたければ、そうしてもよいのだぞ」

 わたしは彼にきっぱりといった--それも、この示唆にちょっと驚いたという表情で--夢にもそんなことは考えていなかったと。これは嘘だった。成人して、組織との結びつきに同意するまでは、最終的に組合の一員と決まったわけではないと、すぺての徒弟が知っていた。もちろんわたしも知っていた。そして、組合を愛していたが、また憎んでもいた--なぜなら、客人の中には無実の人も混じっているにちがいないし、罪によって正当化される以上の処罰を受ける人がしばしばいるにちがいないのに、そういう客人に苦痛を与えなければならないからであり、また、非能率であるばかりでなく疎遠でもある権力に仕えて、そのような仕事をするのは非能率的で効果がないように思われたからである。つまり、それはわたしを飢えさせ恥をかかせるがゆえに、わたしは憎む。そして、それはわたしの家であるがゆえに愛する。そして、それが古い物事の典型であるがゆえに、弱いがゆえに、破壊不可能に見えるがゆえに、憎みまた愛するのだ、とでもいう以外にはこの感情をうまく表現する手段が見つからない。

p137 ジーン・ウルフ『拷問者の影』isbn:4150106894

 『拷問者の影』はまだ読み始めたばかりなのですが、少年成長小説的な骨格がはっきりしていて予想したいたよりずっと読みやすい。一人の少年の視点からだけ架空世界を描き、その世界のあり方が読者にも少しづつ分かっていく。SFらしいが少年の実存を通して世界が徐々に現れるという普遍的な小説になっている。

 さて、この断片をコピペしたのは、この間考えているナショナリズムとかとの関連において、です。

語ること/その手前に留まること

悲しみの言語を使うことによって、わたしは当分の間、みずからの悲しみを忘れ去った--言葉の魔力は非常に強いので、われわれを狂わせ、破滅させかねない激情のすべてを、制御可能なものに弱めてくれるのである。

(p300『拷問者の影』ジーン・ウルフisbn:4150106894

語ることは私たちの心をなぐさめる、なぜならそれは[私を]普遍的なものへと「翻訳」してくれるから、とキルケゴールは記している。

 言語の第一の効果ないしは第一の使命、それは私から私の単独性を奪うと同時に、私を私の単独性から解放してくれることである。私の絶対的な単独性を言葉で中断することによって、私は同時に自分の自由と責任を放棄する。語り始めてしまったとたん、私はもはや決して私自身ではなく、一人でも唯一でもなくなってしまう。奇妙で逆説的で、おそろしくさえある契約だ。

(p126 デリダ『死を与える』isbn:4480088822

 ウルフとデリダの言っていることはかなり近い。沈黙に於いて<私>は自身を破滅させかねない激情あるいは単独性といったものに囚われている。しかし語ることによって<私>は単独性を奪われ、ある社会における交換可能な存在者になってしまう。

それでは、上記の「多くの老人たちが、黙り込むか「うーん、忘れたなあ」という決まり文句を返してくる。」における沈黙も、単独性の名において弁護されるべきだろうか。おそらくそうではない。

「言おうとしないことを許してください」の場合は、語り手の内部に「言うべき事がある」あるいはすくなくとも「言うことがあるべき」ことを含意している。言うべき事と沈黙という外面とのあいだのすさまじい圧力差が、単独性という強度を産みだす。「うーん、忘れたなあ」の場合は言うべき事のしっぽはすでにそこにあるのにそれを見ない振りをし忘れたふりをする。そしたそういう「振りをする」ことをきみは非難しうるのかよう非難できはしまい、という居直りがある(のではないか)。彼は一人で居ても単独者ではなく、何か(日本という共同性)に許されて居る。

六甲 第三章 

油コブシ。ケーブル六甲山上駅から約1キロ南の丘陵

に突出した巨岩。海抜約六百メートルで、西方の摩耶

山をこえて瀬戸内海を望む。かつてはにぎりこぶし状

に上へ侵びていたが、尖端が徐々に風化されている。

 私の中へ〈私〉たちがなだれこんだとき、〈私〉たちが見たものは、いままで私がかいてきた形象が、時間=空間の痕跡を次第に変化させながら、時間=空間の痕跡を次第に変化させながら、私の内蔵の奥深く累積している姿である。

 〈私〉たちの嘔吐の気配を感じとった私は、それを無視したいために、嘔吐の感覚から最も遠いと思われる意識を、外の風景へ投げ込もうとした。しかし、いつのまにか、私は、油コブシの尖端で眼を閉じたまま立ち上がっており、恐怖がその状態を確認するよりも早く、私は放物線を描いて、はるか下方の斜面で待つタンポポと激しく接吻しながら失神しつつある。

 私はまだ意識を回復していない。第一章=序章、第二章=仮章に続く次の章をかけない苦しみのために、意識的に意識を失ったと疑ってもよい位だ。ともかく〈私〉たちは、私が墜落したのと同時に、私の内部に、〈私〉たちの欲する限界をはみ出すまで深く墜落しつつある。〈私〉たちの突差の行動で、〈私〉たちの各々は、互いに〈 〉をスクラムのようにからませ合いながら鎖のように墜落したので、〈私〉たちの一方の端は、どこまでも奥深くへ運動するけれども、一方の端は、入口でたてまえを重んじる論点と、有効性に関する論点と、生活の単純再生産をめぐる論点にしぼられていく。屍臭のただよう三つの論点しっかりと固定されている。

 〈私〉たちは微少な時間=空間の転移のすきまで、次のように決議した。苦しみから逃れるために〈私〉たちを墜落させた私の責任を追求しよう。墜落という災難を逆用して、私の内部に食い下がり、いままで私がかいてきた形象たちの苦しみをさぐり、かれらに代わって〈私〉たちが私を告発してやるのだ。

 何よりも先に注意をひかれるのは人物であるが、未熟児か不具者に会う直前のような感じがして一種の恥ずかしさに〈私〉たちは身体を固くする。しかし眼をそらさずに下へ降りていかなければならない。最初にすれちがったのは、骨の割れ目に足をかけて登ってくる人間で〈私〉たちに気付かぬまま、荒い呼吸をしている。その次には、時計の長短針のように交差する血管にはさまれている人間。眼の機能を耳が、耳の機能を口が、口の機能を眼が果たしているので、各々の器官が死ぬほど憎みあっている。更に下へ降りる〈私〉たちは、足ぶみか跳躍をしている人間に驚いた。粘膜壁にあるいくつかの光る斑点のためにできたたてまえを重んじる論点と、有効性に関する論点と、生活の単純再生産をめぐる論点にしぼられていく。屍臭のただよう三つの論点自分の影、その影のどこかの部分を、同時に踏みつけようと試みているらしい。最後に、じっとしゃがみこんだまま、不消化な岩の破片をかんでいる人間がいるが、よく見ると岩の破片ではなく、眼を閉じている彫像の頭部で、それに話しかけている様子であった。どの人間も、年齢や性別が分らず、それらの人物たちのまわりには、さまざまなものたちが、プールにゴミ箱を投げ込んだように浮遊しているので、〈私〉たちはそれらの一つ一つをたしかめる気力がない。それに、落ち着いて考えてみると、〈私〉たちは、ほぼ直線状に下降してきたのだから、その軸のまわりの部分で何人かを見たというにすぎない。

 〈私〉たちのまわりから、形象たちをつつみこむ限界までは、どこまでも、果てしがないと思われる位に暗く、その暗さは、夜の渓谷や、濁った運河や死者の広場に似ている。せめて下の限界を、墜落しながらたしかめようと考えたとき、なぜか分からないが、下の暗さをのぞきこむ〈私〉たちは、私の口に触れているはずのタンポポを意識した。同時に〈私〉たちのつながりが、ガクンと一直線に伸び切り、これ以上、降りられないことに気がつく。

 静止した〈私〉たちが、私の責任を、形象たちの前で告発しようと意志をかため、つぶやきから弁論に変化する直前の、微妙な鼓動の律動を制御するために眼を閉じていると、いままでは〈私〉たちに気付かないまま永遠の動作を続けていた形象たちが、ふと動作を中止して、〈私〉たちの方へ注意をむけているような気がする。〈私〉たちはすぐに眼を開けてしまうと、この想像とくいちがうのを怖れ、数瞬後、どちらでもよい、と思いながら眼を開くと、形象たちは、永遠の動作を続けており、こちらに注意を払っていない。〈私〉たちは、かれらが気がつかないうちに、彼らの一瞬を想像した〈私〉たちの技巧や、待つことのうちに事態を変化させてしまう〈私〉たちの統制力に微笑しながら、次のように、告発をはじめるのである。

〈私〉たちは、あなた方の直系の血族として、六甲の空間から、この時間の底へ降りてきた。

〈私〉たちは、あなた方と同じく、存在しきれない苦しみにうめいている。

人間が存在するとき、整数の性質をもって現れてくるのを疑うものはいない。しかし、ここにいるあなた方は全て、整数からはみ出す性質をもっている。そして〈私〉たちは、その最も極端なかたちに分裂させられた。

 墜落を逆用して、〈私〉たちは、あなた方の連続性をかいま見てきた。あなた方のうち、最も底にいる形象から次第に上方へ、〈私〉たちに至るまで、丁度、枝のない幹をみるような方向が一貫している。

 あなた方や〈私〉たちを、未熟なまま早産せざるをえない時間が、かって私を襲ったのであろう。それはよいとして、〈私〉たちが告発する私の責任は次の点にある。

 あなた方や〈私〉たちの形象をつねに、外部の時間と、内部の空間との間でのみ設定したこと。従って、自己にも形象にも致命的な歪みを与えたこと。

 〈私〉たちや、あなた方の直線的なつながりは、この上なく危険な徴候だ。主体設定の変化が早すぎる。主体のりんかくが薄すぎる。

 底に近い形象ほど無意識のうち時間にあやつられ、上に近づく形象ほど無意識のうちに空間にあやつられている。だからこそ〈私〉たちは、六甲の空間から、あなた方の時間へ降りてきた、と語ったのだ。

 〈私〉たちは私に要求する。内部の時間と外部の空間の間で形象せよ。たとえば、失神という瞬間から、太陽に入ったフライを受けそこなって球が顔に当った瞬間、終電車におくれて歩いて帰ろうとし、凍った鉄橋からすべり落ちた瞬間、機動隊にむかって振り上げたコン棒の先が、後ろのデモ隊員に当った瞬間へ、なぜ連絡しないのか。〈私〉たちでない、〈 〉たちへ、なぜ入り込まないか。

 〈私〉たちは、あなた方の直系の血族である。これは、実をいうと、この上なく屈辱的なことだ。しかし、同時に、〈私〉たちの一人一人は、あなた方と存在を交換してもよいと思う位、あなた方を愛している。

 いま〈私〉たちは、自分たちの限界のために、これ以上うごくことができない。身体が不自然に伸び切っているし、窒息しそうだ。いつか必ず、もっと深く、もっと長い時間ここへ潜入し、あなた方すべてを救い出そう。

 〈私〉たちは、あなた方の誰よりも惨めな形象だが、あなた方とちがっている。そして、いましばらく、あなた方と離れていくことは、あなた方の苦しみの契機をすべて背負いこむ一ばん有効な道なのだ。

〈私〉たちが、このように、かれらにむかって語りおわったとき、いや語りおわろうとしたとき、彫像の頭部が〈私〉たちの方へ投げつけられ、次第に重量と速度を増して、油コブシのように〈私〉たちへ迫ってくる。その彫像あるいは巨岩によってひきおこされた風を受けて、〈私〉たちは、自分よりも少しでも上方にいる〈私〉たちにしがみつきながら上方へ吹き上げられていくのであるが、下降のときは円筒状の流れしか見えなかったのに、上昇のときは滝のような音しか聞こえない。

 〈私〉たちは、〈 〉を何重にも自分にまきつけたい不安と、〈 〉がズリ落ちそうだという滑稽さにはさまれながら、下方から迫る衝撃を避けようとしている。

 突然の爆発音。……黄色い閃光が飛び散って、花びらのように開く。

 内臓の底から吹き上げられた〈私〉たちが、風景への出口でぶつかったのは、タンポポであった。私が失神しながら接吻しているので、黄色い花びらは血にまみれており、そこには、いままで〈私〉たちが一度も感じたことのない、可憐な勇敢さともいうべき力が潜んでいる。

 〈私〉たちにとって、はじめての外部の風景でありながら同時に出口をふさぐこのタンポポを前にして、〈私〉たちは次のように討論する。

 花びらに映っているのは何だろう。

 いや、文字が浮きでているのではないか。すでに綿毛になった花芯がペンになって書いた文字が。

 とにかく何かが表現されているのはたしかだ。

 私がいままでかいた形象たち、かれらからこぼれおちた、あるいは欠落したものが解放されて表現されているのではないか

 私がこれからかくべきヴィジョンなのだろう。

 〈私〉たちのかかわり合いかたで、いろいろと変わった風にとらえられるのだと思う。ほら、〈私〉たちの〈 〉が映っていると思えばそんな気がするだろう。

 ふしぎなことに気がついた。花びらと〈私〉たちの意識をつなぐイメージあるいは言葉に〈 〉をつけてみると、その部分は、他のイメージあるいは言葉に置き換えても成り立つのだ。しかも、より透明な意味をひきずりだしながら。

 例えばどんなのだ。さっぱり分からない。

 それは私が、いつかやってくれるだろう。また、〈私〉たちは私に、それをやらさなけらばならない。

 いいたいことをいい切ってしまえ。とても苦しそうだから。

 任意の部分に〈 〉をつけてみると、置き換えが可能だし、そのことによって花びら全体が、さまざまに揺れ動く。そして、イメージあるいは言葉が、個体→群→全体

個体←群→全体 個体←群←全体というようなことばでしか、いまはいえないが、そのような異なった時間=空間の律動の境界を往還するのが予感できるのだ。

 自由自在にか。

 いや、ある領域内に制限されつつ自由に運動するのではないかという気がする。逆にある領域内で自由に運動するもののうち、ある一つのかたちが、この花びらに現れてくるともいえそうだ。

 それは怖ろしいことだぞ。極めて突飛ないいかただが、ここから、恒常的な存在の条件と恒常的な表現の条件の中で弯曲している何ものかのある段階の姿が導けるのではないか。

 では、この花びらの形象はだれがつくりだしたのか。

 失神している私とでもしかいいようがない。〈私〉たちは、いまのところ、私にむかって、〈 〉の根拠を明らかにせよ、と要求し続けるほかないのだ。

 手がかりはないのだろうか。何でもいいから、いってくれ。

 恐らく、いま失神している私は、あるとき自己や世界の関係を〈 〉に入れなければ生きることも死ぬこともできない時間=空間に出会ったのだ。そしていまも出会い続けているのだろう。私にとっての戦後史の軸も、世代も体験も、国家も革命組織も、家庭も風景も、みなれないと同時に致命的な二重性として映っているはずだ。ただし、自分では気づかずに。失神したときはじめて、このタンポポが、私の可能性をひきずりだしたのだ。

 花びらに浮きでたものを〈私〉たちの一人一人がメモにかきうつしたらどうなるか。……みんなで協力して統一メモを構成しよう。

 何度もかきかえていくときの基準はどうするのだ。切り捨てたり、残したり、順序を入れかえたりするときの基準は。

 切り捨てることによってしか〈 〉運動をおしすすめることができないのであれば、その部分は、別のかたちで残ってくるだろう。残るものは〈 〉運動の基盤、付け加えるものは〈 〉運動を拡大する契機、入れかえるものは〈 〉運動の有効性としてとらえられる。

 私への告発はどうなったのだ。それに一体、わたしたちは何ものなのだ。

 〈私〉たちが私によって、私が〈私〉たちによって〈 〉の意味を予感したことが、それぞれの責任だといえる。だから、私への告発は〈私〉たちへの告発になる。〈私〉たちの誤りを追求することは、この世界の誤りを追求することであり、また、この世界の誤りを追求することなしには〈私〉たちの誤りは許されない。

 〈私〉たちはこれから〈 〉をつけて表れないことを決意しよう。〈私〉たち以外の全てのものに〈 〉をつけに、再び内蔵へ下降していくのだから。

 〈 〉は消え去るだろう。しかし、〈 〉のない世界は、〈私〉たちが永遠に変革し続ける夢である。夢が恒常的な条件に限りなく近づくように! 〈私〉たちが、そのたたかいに耐え続けてくれるように!

 そのとき、私は、何ものかの嘔吐によって意識を回復し、まず、わたしの上方におおいかぶさっている油コブシに〈 〉をつけはじめている。

(1966年5月発表)

(2008.11.09~16UP)

大学闘争

00318/00319 VYN03317 野原燐 大学闘争(概念集の一項目から)( 1) 00/07/24 08:04 00310へのコメント

以下に、1989・1 松下昇概念集・1 から、p22「大学闘争」という項目を転記する。

---------------------------------   

    大学闘争

 この概念を見掛けの狭さから、どれだけ広いテーマ領域へ解き放つことができるか、によって、この概念を論じる人の情況論や表現論の水準は明らかになるだろう。具体的な大学闘争が殆ど存在しないようにみえる現在こそ、そういってよい。

 前記の水準への指標として、次の規定を掲げておく。

「大学(闘争)は、階級闘争が最も幻想的に展開される空間(における)闘争である。」(69・12・l4都立大学解放学校における発言ーー表現集に収録)「ある事件とされるものの現実過程と、それに交差する幻想過程の比重が、ほぽ拮抗し、あるいは後者が前者をのみこみつつある世界(史)的な段階、それがいわば大学闘争なるものを生み出した情況の本質ではないか。(75・l1・20同志社大学EVEにおける発言ーー発言集に収録) 文書として発表したものでは、~198l・7・29~付けの神戸地裁あて{最終意見陳述書}(表現集・続編に収録)の全文を読んでいただきたいが、とりわけ、7・大学闘争とは何か、の項が重要である。

「大学闘争は、たんに、虚偽にみちた大学の機構や当局者たちだけを批判してきたのではない。もっと巨大で、無意識のうちに私たち全てをつつみこんでいる矛盾の総体と格闘してきたのである。これまでのあらゆる革命運動が見落としてきた領域を、現在まで人類史が累積してきた諸幻想領域との関連で把握し止揚の道を切り開くこと。大学闘争の個々の参加者、政治党派の思い込みとは別の位相でこの方向性は存在し続けている。(・・・) 根本的なところでの勝者があるとすれば、それは、この闘争(裁判をふくむ)においてだれが最もよく、時間、空間、関係性を包括し、その方法を世界に開示しえているかという基準で測らねぱならないであろう。この点においては、私たち、仮装被告団こそが勝利してきたといえる。しかしこれは、たんに誇っていうのではなく、やり残した課題について自己批判的に、また、未来における共闘者への、ある~的なあいさつとしていうのである。(註ー原表現の~の部分には「この表現をうけとった人が任意に記入してください」というエンピツの書き込みがある。

時の楔通信第〈九〉号からも、次の二ヵ所を引用しておく。

 「{ }公判過程とは、大学闘争の提起したテーマ群の対象化に要する時間性が、人間の生涯より長いこと、また、対象化を要する空間性が眼前の社会総体を占拠し、かつはみ出していることを否応なしに前提とせざるを得ない過程なのである。」(3ページ) 「~70~年の深淵と仮装性の本質をかいまみたものは、法的に被告であろうとなかろうと、出会ったテーマが、おそらく言語の発生から現在までの全時間の関係性に対応していることを直感している。」(35ページ) このように概念規定したこと、せざるをえなかったことが<私>の不幸かも知れない。

(G1-22)---------------------------------

bogus-simotukare 発言に、切れてしまった

id:bogus-simotukare 曰く

2012/03/10 06:17 id:noharra

ブクマとトラバを送ったのだから応答したらどうかね?。ツイッターの質問大歓迎というのは嘘だったわけかね?。

オーセルとか言う女は俺は「死んだ方がいいバカ女」「いっそ中国共産党がぶっ殺してくれないか、その方が世のためじゃないか」とすら思うが、君はどう思う?

http://d.hatena.ne.jp/noharra/comment?date=20120310#c から削除。

poppo-x 『↑まずは、この問題に関する日本政府の対応の「一次資料」中の「一次資料」である『政府調査「従軍慰安婦」関係資料集成』を読むべきでしょう。

pdfで下記サイトから全文読めます。

http://www.awf.or.jp/program/index.html

noharra 『poppo-xさん

お久しぶりです。

たしかにこれが基礎資料ですね! ただ

http://www.awf.or.jp/program/pdf/p001_005.pdf

p001_005.pdf (application/pdf オブジェクト)以下はともかく、

http://www.awf.or.jp/program/pdf/ianfu_1.pdf

ianfu_1.pdf (application/pdf オブジェクト)以下は、だいたい約500~600頁の本が5冊ですか?

膨大すぎてわたしのような怠け者にはちょっと辛いですねえ。どこかにまとめとか感想とかあればまた教えてください。』

noharra 『ああそうか。 上が下のまとめなのか。だからまず上を読めば良いと。なるほど。』

松下昇への接近

全ての問いを、その極限まで展開しうる状態の中に存在せしめよ!

…… 告発し、占拠する、関係としての原告団をつくろう!

上記から入れる1969年に書かれた「情況への発言」というビラ(あるいは貼り紙)表現から1行引こう。http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/matu1.htm

  〈神戸大学教養部〉の全ての構成員諸君!  

このストを媒介にして何をどのように変革するのか、そして、持続、拡大する方法は何か、について一人一人表現せよ。(松下昇)

26年後、松下も野原も六甲大地震に出会う。カタストロフ。このカタストロフを媒介にして何をどのように変革するのか、そして、持続、拡大する方法は何か、について一人一人表現せよ。という文章を作ることができる。911も同じである。わたしたちはまあ実際のところ大樹のように大地にしっかり根を下ろしているわけではない。わたしたちはすぐにふとしたことで根拠を見失ってしまう。松下はそれを逆に祝福と考える。出世のためとか学問のためとかあるいは革命のためとかいった目的をもった人生がきしみを感じる。<わたし>が情況のうねりのなかで何かを感じているのだ。それに気付いても正確に言葉に出来た人は少ない。<何をどのように変革するのか、そして、持続、拡大する方法は何か、について一人一人表現せよ!>という命令はその希有の例であるだろう。

からだうた

「からだうた」という歌がある。ある養護学校で作詞作曲されたものだ。

「あたま あたま あたまのしたにくびがあって かたがある かたからうで ひじ またうで てくびがあって てがあるよ むねにおっぱい おなかにおへそ おなかのしたにワギナ/ペニスだよ せなかはみえない せなかはひろい こしがあって おしりだよ ふともも ひざ すね あしくび かかと あしのうら つまさき おしまい♪ 」という歌だ。わたしは新聞で歌詞を見ただけだが、「背中はみえない背中は広い」なんて面白いと思う。

 東京都の横山教育長という人は、都議会でこの歌について「とても人前で読むことがはばかられるもの」と言ったらしい。このひとはどういう感覚の持ち主なのか。わたしにとって一番大事なものは身体であって、その名前を知るのは大事なことだ。教育者が苦労してそれを教えているのに、なんだかわけの分からない自分の偏見でもって非難するとは何事か。こういう馬鹿な奴には是非一矢報いなければいけない。

(参考)http://www.ne.jp/asahi/law/suwanomori/sei.html