経血染めの力

 たとえば、長田須磨『奄美女性誌』(農文協・人間選書、昭和53年)によれば、かつて奄美大島には経水染めのミンサーなるものがあったという。ミンサーとはマフラーあるいはス力一フ状の布のことで、古代の肩巾(女性が肩に掛けたり、左右に垂らしたりした飾り布)に似たものらしい。小舟(さばに)を操って遠くの漁場へ出かける夫や恋人たちの安全を祈って、奄美や沖縄の若妻や乙女たちは自らの月経で染め上げ、自らの手で織ったミンサーを贈ったのである。もちろん、男たちは喜んでそれを首に巻いたり、懐に忍ばせたりしたのである。そして、娘が恋人に経水染めのミンサーを贈り、男性がそれを受け取ればそのとき婚約が成立したという。*1

この真っ赤なミンサーには彼女たちの生御魂(いきみたま)が宿っていたと言える。「つまり沖縄風に言えば<をなり神>の、柳田国男の言葉を借りれば<妹の力>が男たちを守護したのである。」

ところで戦時中の日本には<千人針>というものがあった。「母や妻が街頭に立ち、一片の布に千人の女性が赤い糸で一針ずつ千個の縫い玉を作って縫うのである。」この赤い糸は女性たちと出征兵士を結びつける<玉の緒>だった。古代における月経への畏敬、そこに神秘的力があるする信仰が突然よみがえったものと考えられる。と菅田氏は論じる。なるほど。

考えてみれば例えば、葡萄酒をイエスの血などと言ってありがたがっているがあれも、バッカス(大地母神)の信女たちからさらに遡り、経血の力という信仰に行き着く(だろう)。

千人針の画像は例えば下記にあった。

http://www.nishi.or.jp/~kyodo/tenji/senji/12/sen1.htm

「しらみが湧いて困った」とか多くのひとが書いているがこんなものだったのか。ふと思ったのだが、国旗は日の丸はやめてこれにしたらどうか。日の丸のミニチュアとも解釈できるし日本の固有信仰の原点とこの本で保証されているし、日の丸嫌いの反戦派、平和派も自分の思いを込められる。万歳。

*1:同書p154

「再入国禁止法案」反対

勉強不足なんですけど、

http://www.sukuukai.jp/houkoku/log/200401/20040121.htm

例えば上記「救う会ニュース」には、3つの法案が連記されていた。

1)外国為替及び外国貿易法の一部を改正する法律案要綱

2)我が国の平和及び安全の維持等のための入港制限措置に関する法律案

3)日本国との平和条約に基づき日本の国籍を離脱した者等の出入国管理に関する特例法の一部を改正する法律案

1)は1月29日に衆院本会議を通過した。とのこと。

で、3)については 

http://www.asiavoice.net/nkorea/bbs/wforum.cgi?no=360&reno=358&oya=351&mode=msgview&page=0 で、Mさんが強調しておられるように、排外主義的なものであり、絶対許してはならない、と思います。

<動物化>と創造的反抗

「歴史の終焉」というコジェーヴの議論についてバタイユが解説してる文章を読んだので、ちょっとまとめてみよう。

 前提としては、「人間とは否定を行う存在である」ということ(ヘーゲルのテーゼ)がある。であれば「もしも創造的反抗がなく所与がそのまま受け入れられるなら」そういった存在は果たして「人間」と言いうるのか?人間の姿をしているが動物の特徴をもってると言えるのじゃないか。*1

 わたしたちがみな同質的である社会の到来が、歴史の終焉の条件である。つまり「人々が相互に対立し、様々な人間的な様態を次々に実現していた活動が停止する」ということ。*2

 ヘーゲル、マルクスにおいては人間たちは承認のために互いに闘争し(階級闘争)、また労働を通して<自然>と闘争する。しかしいまや<自然>は決定的に制御されてしまっている、人間と調和してしまっている、闘争は必要ない。……戦争と流血の革命の消滅。<人間>はもはや自分自身を本質的には変化させない。認識の根底にある原則も変わらない。芸術、恋愛、遊び等々、要するに<人間>を幸福にするものはすべて、そのままに保たれる。*3

 <動物化>についてははてなキーワードにあったはずと思って見るとしっかり、百行以上あった。ただ当然ながら、バタイユとはニュアンスは違う。「絶対的引き裂きのなかに自分自身を見出す*4」という契機抜きには人間は人間たり得ない、というのがバタイユの人間観。

「…動物の欲求は他者なしに満たされるが、人間の欲望は本質的に他者を必要とする。」と東氏はいってるらしいが、あらかじめ同質化されてる他者から承認されても、バタイユ的には否定を体験したことにはならない。

また、「人間は死を賭けることができるからこそ人間であり、戦争はそのための最高の試練であるが、」と浅田氏の本のなかにあるらしい。軍隊という制度において目的のために駆り立てられる人間も、死つまり「否定的なものを真っ向から凝視し、その傍らに留まり続けるとき」(ヘーゲル)という体験からははなはだ遠い。

「人間は死を賭けることができるからこそ人間であり、戦争はそのための最高の試練である」といったセリフは近い将来薄められて大量散布される危険性がある。バタイユの言うことは、神秘的でヒロイックすぎてついていけないと思う人もあろう。ヘーゲルやバタイユがどうあろうと、「戦争のために死を賭ける」というのは普遍的に馬鹿げたことだ。でもそう言いきれるのか。植民地解放戦争などの場合は「馬鹿げた」とは言えないかもしれない。日本人が、先の支那事変の悪を承認したくないという(ひそかな)思いを持ちながらやる戦争に1ミリの正しさもないのは自明だ。

 話が逸れた。現在の日本に対する「動物化」という診断は、わたしを含めた多くの人にとって切実に響く。わたしたちはすでに欲望からさえ見放されつつあるのだ。というか、欲望から自由になるのは良いことではないか。ひとは衣食住さえ満たされればよい。若い労働者の救済と男女平等のためには、労働時間半減ぐらいのワークシェアリングが必要だ。より少なく働きより少なく食べより少なく遊ぶ。人間は自己の深淵を見つめる時間を限りなく持てるようになる。医療費も半減すれば死も身近になる。

*1:p220バタイユ『純然たる幸福』isbn:4409030388

*2:p224同上

*3:p221同上

*4:cfp21『精神現象学』長谷川訳

『新潟』ノート3

 金時鐘の長編詩『新潟』の真ん中部分を読む試みです。

 3章  http://www.eonet.ne.jp/~noharra/ikesu2.htm

「風は海の深い溜息から洩れる。」「朝は冷静に老漁夫の視界へ現実を押しひろげてくる。」前章の少年に変わり老漁夫に焦点が当たる。「済州海峡はすでにひとつの生簀(いけす)でありその生簀のなかの生簀に父が沈み少年がただよい祖父がうずくまっている。」少年が海へ下りたとは入水したということだったのか。それとも、「爆発」「横ったおしの船腹」「少年の冷たい死」という言葉がこの章の終わりぐらいにあるから、(船底にひそんで)海を渡ろうとしたが(1章の浮島丸のように)時限爆弾で爆破されて死に至ったのか。2章の主題だった海に沈んだ屍体たちはこの章ではもはや屍体でさえなく、無数の魚たちの小さな口によって食いちぎられる餌となっている。「もはや老眼はありあまる人肉の餌づけに慣れた魚と人との区別をもたない。」それでも漁師は魚を捕る。「海の密教が山と野を伝いしきられた暮らしを奥ふかく結んで彼らのみだらな食卓へ日夜屍体に肥えた殺意を盛り上げる。」太古から定められた食物連鎖という掟は循環し、貧しかった食卓は急に豊かになる。「四十年のくびきを解いたという彼らの手に早くも南朝鮮は食用兎(ベルジアン)の胴体でしかないのだ。」食べることは食べられることだ、みたいな錯乱した感覚に導かれ、「朝鮮半島=食用兎」という喩が現れる。「ただひとつの国がなま身のまま等分される日。」1948.5.10南朝鮮単独選挙。「人はこぞって死の白票を投じた。町で谷で死者は五月をトマトのように熟れただれた。」投票場で白票を投じたのだろうか。済州島の2州でだけ選挙が無効になりそれが苛酷な鎮圧作戦の原因になる。*1トマトのようにどこにも血が流れ死者が発生し、ただれた。「血はうつ伏せて地脈へそそぎ休火山のハンラをゆりうごかして沖天を焦がした。」「鉄の柩へ垂直にささった五十尋の触手をたぎる景観のなかで老漁夫がたぐり上げる。触感だけに生きた漁師の掌に解放にせかれ沈んだ盲目の日は軽石ほどの手ごたえもない。もぬけの自由だ!」解放への性急な思いは死へ、そして死はもはや軽石ほどの手ごたえもない。「仕組まれた解放が機関の騒音にきざまれる時限爆弾の秒針ではかられていたときやみくもにふくれあがった風船のなかで自己の祖国は爆発を遂げた。」「横ったおしの船腹をひっかき無知の柩に緩慢なひびきをおしこんだいかり石が今しずかに祖父の手元へ手繰り込まれる。」

 

4章

4章は読みにくい。3章の終わりに「船底」*2「区切られた」「柩」という言葉があり、4章の始めには「鉄窓」「ヘルメット」「エアポケット」といった言葉がある。ここから受け取れるのは潜水艦のようなものに閉じこめられたイメージだ。(済州島事件の後)日本へ密航してきた人たちのことを“潜水艦組”と言ったそうだが、そうした(長く秘されてきた)体験がここの背後にはある。*3「朝を見た。」*4「大気の飛沫を」「自己の生成がようやく肺魚のうきぶくろとなってふくらむのを知った。」*5潜水艦の閉鎖から開放されていくイメージだ。日本への密航が解放であったわけではない。ただ熟れたトマトのように屍体が折り重なる空間から脱出することは喜びだった。「飢餓を自在に青みどろの海面へ振り切り」「くも糸に吊された蛹さながら蘇生を賭けた執念が身もだえる。」*6「暮らしにへたった指に水かきをつけ息をつめとおした日日の習癖を鰓に変えて彼はただ変幻自在な遊泳を夢見るのだ。」「海そのものの領有こそ俺の願いだ!」*7開放感は全能感に移っていく。「縦横無尽なイルカの流動感こそいい!」「エネルギッシュなアシカの欲望だ!」「いやセイウチだ!選り放題の女どもを囲い気の向くままに稼ぎ産み遊び民族も種族もへったくれもない。」「おお神さまこの世はなんとすばらしいんでしょうか。」次ぎに転換が起こる。「それが丸ごとかっさらえるのです。もう数ではなく固まりのままが喰えるのです。戦争とはいっても海のずっと向こうのこと。胃袋を通ったものが何に化けようと勝手です。腹の足しにもならずじまいの鋳型を追われた蛇口ですら削り取られて爆弾になったんだ!」*8過剰な全能感は不安や(屍体の島済州島に父母や仲間を置き去りにし逃げてきたという)罪責感を隠していた。そこで1年後朝鮮戦争に出会うや、「蛇口」や「ネジ」が爆弾に成ることにより日本経済が復興するという戦後日本の原罪を、誰よりも深く背負うことになる。*9(こういうのも郵便局的誤配というのかな。)「はっぱがかかるぞお--深くつらぬく光と闇をくゆらせて重い藻にからまっているのは横むいたままの落ち込んだ家路だ。」帰国直前に爆沈された<浮島丸>がまた回帰する。「骨の先端ではじけている盲目の燐光よ。あばくことでしか出会えぬわれらの邂逅とはいったいどのような容貌の血縁にひずんだ申し子なのか?」*10「海の厚みのなかをこり固まった沈黙がきき耳をたてる。」「うっ積した塵を噴き上げ覗きこんだ奴の首をもかっさらった骨の疾走が囲いを抜ける!」沈黙の持続があり時が満ちる一挙に爆発が起こる。「海の臓腑に呑まれた潜水夫の目に朝は遠のいた夜のほてりのように赤い。」潜水夫が見るのはなきがらだ。「澱んだ網膜にぶらさがってくるのは生と死のおりなす一つのなきがらだ。えぐられた胸郭の奥をまさぐり当てた自己の形相が口をあいたまま散乱している。」なきがらは逆光に高高と巻き上げられる。「逆戻るはしけを待っているのは宙吊りの正体のない家路だ。」とここで、第二部「海鳴りのなかを」は終わる。

 以上、“故郷へ”というベクトルとその挫折を、松代大本営、浮島丸事件、済州島人民蜂起後の虐殺などなど朝鮮半島と日本の歴史の曲がり角の動乱を横糸に織り上げた叙事詩だといえるでしょう。これだけのエネルギーがなお挫折以外に出口を持たないことには言葉がない。これだけ構成の整った大叙事詩を書き上げながら、(左翼詩人なのに)故郷への思いというものを形而上学的高みへの単線的ベクトルへと疎外することなく、わがからだの卑近さ挫折の近くに保ち続けたことは大変なことだと思う。

*1http://www.dce.osaka-sandai.ac.jp/~funtak/papers/introduction.htmによれば 「しかし同年五月一〇日に実施された、南朝鮮単独政府樹立のための代議員選挙が、済州島の二選挙区では民衆の抵抗によって、投票率が五〇パーセントに満たず無効となると、米軍政は国防警備隊(のちの韓国軍)を本格的に動員し、苛酷な鎮圧作戦に乗り出した。」とある。ちなみに『原野の詩』p420の自註では投票日が5月9日となっているが間違いなのだろう。

*2:p405『原野の詩』

*3:時鐘が日本に密航してきたのは、1949年6月。参照p287『なぜ書き続けてきたか なぜ沈黙してきたか』isbn4-582-45426-7 1991年刊行の『原野の詩』は60頁に及ぶ詳細な年譜が添付されている(野口豊子作成)が肝心の密航については固く口を閉ざしている。1年後の6月朝鮮戦争始まる。

*4:p407

*5:p408同書。 ここで52年後にようやく語られた、実際の密航体験の一断面を引用しておこう。「 その密航船には、ぼくら入る余地がないくらい人が乗ってたから、たかだか半畳ぐらいのところにね、五、六人入っている。魚を入れる、蓋什きの升目の仕切りが二つある古びた小さな漁船だった。たぶん四、五トンくらいやったろうね。とにかく立錐の余地なく人が詰ってるのよ、だから僕ら後からの五人は入るところがなくて、煙突にバンドで胴をくくって波かぶって……、お金も払ってない手前、闇船のおやじは、つっけんどんや。みな甲板の上に体くくって、入るところがないねん!……それで五人乗ったうち、一人は波かぶって流されてもうた。五島列島の灯リが見えてほっとしたときに、だぁーと波かぶったら、四人連れのうちの一人はいなかった。……まっ暗闇で助けようがない。つらかったけどそれでもこれで日本の警察に捕まっても処刑はないと、惨殺されることはないと。 」p121『なぜ沈黙してきたか』

*6:p408

*7:p410

*8:p413  

*9:ネジと朝鮮戦争については当日記3月31日参照

*10:p419の註には、浮島丸事件の犠牲者遺骨285体が、目黒区の祐天寺に遺失物のように保管されている、とある。そうしたことをイメージしているのか?

ファルージャがまさに世界の中心に

ジャーナリスト常岡浩介の日記から貼ります。同感したので。

http://www2.diary.ne.jp/user/61383/

ところで、危ないと分かっていてアブグレイブへいった2人の行動が不可解だというメディア関係者さまへ。

では、疑問を感じているみなさまご自身はなぜファルージャにもアブグレイブにもいってないのでしょう?危ないから?危ないことは取材しなくていい理由になりますか?

今のファルージャがメディアにとって取材、報道すべき重要なテーマだという前提に同意していたただけますか?

ファルージャが今や、ただの田舎町でなく、米国にとっても日本にとっても、未来を決する重要な局面であること、ファルージャがまさに世界の中心になったことを、よもやメディア人が理解されていないわけはありますまい。

ベトナムでも、そのほかの戦場でも、報道の必要があると判断した場合に、危険を承知の上で現場へ向かってきたことを、メディアはよく自画自賛してきたように思うのですが…

自分にとって最も必然的な

 (上項の続き)

 今では信じられないことだろうが、1969年当時は「革命」という発想が一般的だった。自己の意思=党の意思=(革命後の)国家意思。ということが目指されたのだとすると、なにより自己を整序することが第一の課題だったであろう。松下の発想は正反対である。いまあるわたしというものが自分には測りしれない力(磁場のようなもの)によって彎曲させられるという事態。自身によってはうまく意識化できないそのような関係(自己の彎曲)から松下は出発する。野原がよくわからないままにこのダイアリーの惹き句にしている「ある圧倒的な力に」云々を見よ。“わたしたちはいつも自己が認識した限りでの世界にしか生きていない。したがって、私が自己や世界の彎曲を認識することはありえない。”この命題に反論するのは難しい。しかし「わたしたちはある体制の中に生きているのだからそれを否定することはできない。」という文章に変換すればこの間違いは分かる。わたしたちは革命後の世界に生きている。革命がなければわたしたちはまだ身分制社会に生きているはずだ。ここで革命とはブルジョア革命やプロレタリア革命ではない。体制の転覆という意味では明治維新も革命である。「今の政府の顕官も十年以前西郷と共に日本国の政府たる旧幕府を転覆したる者なれば*1」と言われるとおりである。ある感覚的に分節不可能な不快感が「問題提起の正しさが彎曲していくのではないかという一瞬おとずれる感覚」を告げることはありうる。それはいつでも即座に忘れ去られていくが、そうしないようにすればそこに、底無しの異貌の問いがあるようだ。

<情況にとって最も必然的なスローガンと同時に、自分にとって最も必然的なスローガンを作り出す>ということは不可能なことであるように思える。しかし本当にそうだろうか。今回のイラク誘拐事件において、最初、多くの人々が彼らの身を(わがことのように)案じた。それは不自然なことだったかもしれないが、人間とは意外にもそうしたものなのだ。ただその<一瞬の共感>を論理化しようとすると色々やっかいな問題が起こってくる。<情況にとって最も必然的なスローガンと同時に、自分にとって最も必然的なスローガンを作り出す>ということは考えようによっては、最も適切で容易な目標であるとも思える。

*1:福沢諭吉「丁丑公論」1877、1901発表

えびす三郎

今日の引用。

「――君は僕の気を悪くしようと思っているのか。そう言えば君の顔は僕が毎晩夢のなかで大声をあげて追払うえびす三郎に似ている。そういう俗悪な精神になるのは止し給(たま)え。(「海 断片」梶井基次郎) http://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/2384_13826.html

源平盛衰記に、成経、康頼、俊寛の鬼界が嶋に流されてある事をいえる段に、かの嶋に「ラン」岳という山有りて、その山に、夷(えびす)三郎殿と申す神を、いはひまつりて、岩殿と名づくといへり、神祇官年中行事にも、戎三郎殿とあり、この神のこと、いといふかし、神に殿と申すも、めずらしき称なり。*1

 小さな島の小さな岩殿。そこが夷三郎殿と名付けられたこと(の無意味に近い意味)に注目した宣長はやはりすぐれた感受性をもっていた、といえるだろう。(えらそうに言うな) 菅田正昭氏の古神道論の先駆者として、みたいな意味で。(菅田氏のurlはここ http://www.yoyo.ecnet.jp/SUGATA/index.html

(前半はまったく関係ない。でも印象的な断片でしょう?)

*1:「玉勝間」日本思想体系40 p151

西表における<石炭の発見>

三木健編著『西表炭坑写真集』(新装版)*1という本を買った。イリオモテと言えば、西表山猫、日本の南東の端にある秘境(沖縄県八重山群島の最大の島)。珊瑚礁で戯れるきれいな魚たちを身近に体験できる場所としても知られています。ですがそうしたイメージから遠い事実もあります。この島には1885年から60年以上の間、炭坑がありました。

 石炭が発見されたのは、1872年大浜加那氏によってである。だが、「発見」とは何か?島人は石炭の存在をしらなかったのかというとそうではない。燃える黒い石のことはずっと昔から村人には知られていた。ところで八重山群島は1500年のオヤケアカハチの乱、の平定後首里王国に従属していた。琉球王国も1609年以降薩摩藩に従属していた。即ち、西表<沖縄<薩摩藩<幕府という従属関係があり、その関係は年号が明治に変わってもすぐには変わらなかった。(いうまでもないが、近代化とは中間的な藩などを飛ばして人民が国家に直接従属することだ。)話がそれたが、燃える石のことは村人の間の秘密だったのかというとそうではない。琉球王府も知っていた。1953年以降5回、琉球寄港を繰り返したペルリの艦隊は専門家による地質調査も実施した。彼らは石炭に強い関心を持っていた。一方琉球王府はそれを警戒した。「1854(安政元)年、八重山の在藩(王府の出先機関)や地元の頭職に対し、「石炭のあるところは樹木を植付けて隠すよう」指示している。また石炭の有無やその始末方についても報告するよう指示している。」*2それで結局、ペルリ艦隊のR・G・ジョーンズが石炭を発見したのか否かについては両説有り確定できないようだ。明治になり次の事件が起こる。

 ところが、この国禁*3を破る事件が起きた。石垣島の平民、大浜加那は一八七二(明治五)年、鹿児島の汽船・開運丸の支配人であった林太助に石炭の調査を頼まれ、西表石炭の存在を教えたのである。薩摩藩では林太助の通報に驚き、ただちに伊知地小十郎を派遣してこれの確認にあたらせた。さらに驚いたのは琉球王府のほうであった。王府はこれはきっと御規模帳を改め、税制改革をするための調査に違いないと早合点し、西表の村々には畳を裏返させ、士族の婦女子の下裳(かかん)を袴に着替えさせ、いかにも貧村であるかに装わしめたという。

 しかし、伊知地の派遣は実際のところ石炭の調査が目的であった。幕末の開明的な藩主として知られる薩摩藩の島津斉彬は、西洋の文物を積極的にとり入れ、藩内の工業化を図っていたが、蒸汽船や機械力の原動力となる石炭を領内に確保すべく、その探索を命じていた。そうした藩内の事情がかつての属領・琉球の石炭への関心となったのである。

大浜加那の通報は、こうして琉球外へ石炭の存在を知らせる契機となった。加那は王府の禁令を破った罪により、波照間島に十年の流罪となった。特に明治六年八月、これが後に「石炭加那事件」と呼ばれる事件である。十年の流罪となった大浜加那は、従容自若として刑に服したが、配所の月を眺めること六年にして、明治十二年の廃藩置県の特赦により、帰郷を命じられた。

 大正、昭和の二度にわたり、石炭加那の記念碑建立の話があったが、実現には至らなかった。*4

 開明派島津斉彬のお先走りとして(ともえいるのか)、明治時代の用語で言えば「黒いダイヤ」たる石炭を発見した大浜加那の名誉は顕彰されるべきである。しかしながら大浜加那に限っては記念碑建立は二度に渉って実現できなかった。近代化=善という立場に立てば、考えられないことである。筑豊など北九州の炭坑が膨大な悲惨を孕みつつも九州だけでなく日本全体の近代化の原動力になったと公認されているのに対し、西表でのそれは六〇年続いたわりには、ある臨界を越えることなく、わたしたちに全く知られていない。この臨界を資本論用語で「本源的蓄積」と呼んでみたい。「「継続的本源的蓄積」は直接的な暴力や限度を超えた搾取にもとづいており、その蓄積の主要な源泉は、自然、女性、植民地である。」*5

 三井の採掘は、当初、県内の囚人をもって始められた。明治政府は、一八八二(明治十五)年、太政大臣の布達によって、沖縄県に限り徒刑流刑者を八重山へ送るようになっていたが、明治政府はその囚人を石炭採堀のために使役することを考えたのである。明治政府の重鎮である内務大臣・山県有朋は、一八八六(明治十九)年に九州から奄美、沖掩、官古、八重山と各地を巡視しているが、このときわざわざ西表島まで足をのばし、三井の西表炭坑を視察している。このときの視察は三井物産会社の社長・益田孝の案内によるものであった。沖縄巡視から帰任した山県有朋は、復命書を明治政府に出しているが、そのなかで八重山に集治監を設け、囚人を西表石炭の採堀に当たらせるよう建言している。

八重山(西表)への資本主義の導入が囚人労働によって為されたということは重要である。大物山県のバックアップを受けてつまり国家的事業として開始された三井の採炭業は1889年突然中止される。最大の理由はマラリアの猖獗によるとされる。先進資本三井が引き上げた後も、採炭業は中小の業者によって少しづつ遂行される。(マラリア対策をしたら利潤が得られない事業もしなければ得られるということだろうか。)

 戦後、米軍直営事業が三年で中止され、結局1960年ごろ民間の採炭事業も採算がとれず、最後の火を消す。近代の西表において最大の産業だっただろうにもかかわらず、採炭業は地域住民から強い支持を受けることもなく思い出からも消えて行こうとしている。西表は現在観光業においてすら近代化されていない。それが魅力だという人も多い。私もそう思う。*6「近代とは何か?」という問いは、西表にとっても私にとっても開かれたままだ。

*1:三木健編著 ニライ社 isbn:4931314589 西表島上原カンピラ荘前のスーパーで購入。

*2:同書p13

*3:同書p13「異国人に対して石炭のありかを教えてはならぬ」

*4:同書p15

*5:p113崎山政毅『資本』よりミース、ヴェルーホフの本の紹介部分より

*6:たった一泊の宿泊では発言権がないが。

もっと不幸な子供

「うちのバンドには、ナナといい、シンといい、人様の愛情にめぐまれずに育ったやつらもいますしね*1」漫画『NANA・9』(isbn:4088565606)のこのセリフを読んで、

http://blog.livedoor.jp/nishio_nitiroku/  9/9の西尾幹二の下記の文章はやっぱり問題じゃあないかな、と改めて思った。

「落合さんのお母さんは彼女を強く愛した。彼女は恵まれている。その意味ではもっと不幸な子供たちに対して優越者である。落合さんはそのことに気がついていない。

 もっと不幸な子供たちからみれば彼女は「普通」の価値観の中に安住することが許されている側にいる。彼女は見方によれば特権者の側にいる。

「普通」とか「普通でない」とかはすべて相対的概念だ。基準も機軸もない。」

 「もっと不幸な子供がいる。」と西尾は事実を記す。しかし西尾は彼らについて何を知っているのか。この文章の上で彼らとどういう関係を結んでいるのか。「彼女は見方によれば特権者の側にいる。」というのは正しい、ただしそれは「もっと不幸な子供の立場に立てば」の話だ。不幸な子供が生きのびること、それは「「普通」とか「普通でない」とかはすべて相対的概念だ。」ということが(仮に理屈の上で分かることがあったとしても)絶対に分からない生を生きるということだろう。西尾は「もっと不幸な子供」の実像について何も興味を持っていないし知る必要があるとも考えていない。西欧中世の偉い坊さんが最も貧しい者について熱心に語りながら、その実像を知らなかったのと同じだ。(ニーチェ系のマルクス主義批判とはこうしたものなのだが。)

「お母さんの愛に支えられて生きた子供だ。けっして「個」ではない。」

「そして、なにかに依存し、包まれていなければ真の「個」は成立しない。」

「もっと不幸な子供」はそうした生い立ちを持ったというだけで、真の「個」には辿り着かないだろう、ほとんどそう言っている。そういうつもりはなかった、と西尾はいうだろう。だが、こういうものの言い方をすれば、「もっと不幸な子供」にはそう受け止められる。こういうものの言い方をしてしまうのは、「もっと不幸な子供」のことが眼中にないからだ。眼中にないなら引き合いにだすな!

*1:「人様」と婉曲表現しているが、親に愛されずに、の意だろう。