dempaxさんが考えてくださった

# dempax 『http://d.hatena.ne.jp/dempax/20050510 で≪1000人の小人≫問題を考えてみました. 御検討頂き度.』 (2005/05/10 23:56)

dempaxさん どうもありがとうございます。

dempaxさんの解法の方が分かりやすくクールですね。

ところが、ガーン!

答えが違うので、考えてみるとやはりわたしが間違っていた。

例えば最初の人数が13人の場合。

dempaxさんの考えでは、2のn乗(この場合8)にするために5を引く。

つまり2,4,6,8,10,と消して、その時点の先頭「11」が答えになる。

わたしの作ったフォームでは(答えだけ書くと)「3」となる。3は2進法で「011」。11は「1011」で4桁目が違う!

どうも間違いばかりですみません。orz(平身低頭)。

(5/11 20:06)

「心の中の光と影」

藤原定家は1162-1241。

もう3首貼ってみよう。

宿ごとにこころぞみゆるまとゐする花の都のやよひきさらぎ

定家には珍しい庶民的雰囲気の歌。まとゐ=まどゐ(円居)で団欒。家ごとのさざめきの雰囲気の違いを肯定的に歌っている。

さむしろや待つ夜の秋の風ふけて月をかたしく宇治の橋姫(新古420)

「さむしろに衣片敷き今宵もやわれを待つらむ宇治の橋姫」が本歌。夜がふける、衣を敷くはずなのに、定家では一見「風がふけ」たり「月を敷」いたりしてるように読め、難解になっている。邦雄によれば「肩すかしともいふべき修辞の妙」だというのだがそんなものなのかね。邦雄の読みでは、わたし(女)が男を待つがいつまで経っても男は来ないという歌。宇治の橋姫とは「宇治の里橋のあそび女」となっている。*1

わすれじよ月もあはれと思い出でよわが身の後の行く末のあき

我が死の後の行く末を、月よ、哀れと記憶に留めよ!という強い命令の歌。「これは景色としての月から遠く隔たった一種の呪物と化し、死後の世界まで照らし出すようなすさまじい光となってゐる。(邦雄)」戦争で(例えば異国の山河で)死ぬ前の晩に月が異様に照っていたといった情況を思い浮かべることもできる。

*1:p94『定家百首』

三井銀行員も東条を許さない

 東条は、このように自分と政治的に対立する者に、さまざまな圧力をかけて屈服させようとした。三井財閥の総帥池田成彬(第一次近衛内閣の蔵相)が反東条で動いているとみると、池田の三男・豊が兵隊に召集され、中国戦線に出動するため福岡で待機中だったのに目をつけた。池田のところに人をやって「政治的に自分と妥協してくれるなら、豊君を危険な戦線へ出さず、生命の安全な東京へ戻してやるがどうか」と告げさせた。

 池田はその場でこれを拒絶した。結局、豊は中国の戦線に送られ戦病死している。

週刊「世界と日本」という右翼系のミニミニ新聞がある。それの6月13日号に内外ニュース会長、清宮龍 という人が1面2面をほぼ全て使い「東条首相 狂気の弾圧政治」という文章を書いている。

 毎日新聞の新名丈夫記者 戦後東海大総長になった松前重義、国会議員浜田尚友、有馬英治、などが、東条の逆鱗に触れ、東条の命令で、指名召集を受け軍隊に入隊させられた。 

 政治家中野正剛は検挙され憲兵隊長によって取調中(一時帰宅し)、自決する。

 最も強調されるべきことは、やはり、陸将時代の昭和16年に「戦陣訓」を出し「生きて虜囚の辱めを受けるなかれ」と全軍に布告したこと。

靖国神社はこれも肯定しているのかな?

プチウヨの諸君はどうかな?

小泉氏は「罪を憎む」そうだがこれらを罪と認識しているのかな?

 (以上について事実と違うという主張があれば歓迎します。お互いに事実を確認していきましょう。)

ハッピー=より高次の水準への訂正

上記「5つの価値」のうち省略したのは下記の1項目。

全体最適化

たくさんの人がハッピーになれるエレガントな方法を見つけた時、我々は最もハッピーになります。

抽象的すぎてピンとこなかったのだ。「間違いの訂正」といっても何が間違いかはについて他人と同意するのは時として困難だ。したがって何を目指すのかをイメージとしてだけでも提示しておかなければいけないと思って書かれた規定だろう。希薄だがポジティブである。

「スパゲッティな」プログラムは悪い、その反対はエレガントで良い、そのような価値観を文章や人間関係、社会関係にも敷衍しうるみたいな感覚が基礎にあるのだろう。

掲示板*1などへの表現は、全当事者に向かって等距離に開かれている。したがって「幻想性のエネルギーの量と質を、関わりをもつ全当事者が認識し解放していく度合で、より高次の水準ヘ〈訂正〉しうる。」わけである。

松下昇氏の文章の一部を引用しておく。

一 執筆~印刷~配布の全過程に関わろうとすること、全ての人がそうしうる情況をつくろうとすること、その試みが極めて困難であるが不可能でないことまでは視えてきた。訂正についても、具体的な作業を行う人の内的な意識を共有しつつ、この意識や労働対価の疎外形態の止揚をめざしている。

二 ①〈黒板〉~〈壁〉への直接表現や話体の言葉も、それらが影響を及ぼした幻想性のエネルギーの量と質を、関わりをもつ全当事者が認識し解放していく度合で、より高次の水準ヘ〈訂正〉しうる。

②権力の表現所有~訂正に関する構造は、基本的には権力構造の打倒~解体によって〈訂正〉しうるが、権力が無視しえない、別の〈同一〉表現をつくりだし対置する作業が、拘束されている表現を固定化させないためにも必要である。

③人間~社会の行動軌跡~様式の対象的〈訂正〉の組織論の萌芽は、前記①、②を具体化する際に、モンテーニュのとった〈空虚〉への対し方の対極で〈 〉を媒介して出現しつつある。

松下昇『概念集・2』p28「訂正」より

*1:ブログとかも他者に強制的に開かれた表現であるという点では従来のHPより掲示板に近い

責任

「責任」という言葉を使いたくない、よく分からないみたいなことをこの数週間考えています。

http://kujronekob.exblog.jp/i7 評論誌「カルチャー・レヴュー」Blog版

で、黒猫氏が、仲正昌樹『日本とドイツ 二つの戦後思想』などを読みながら書いおられる。

ちょっとコメントしてみたのだが、(わたしの番で)応答が途切れていた。

(戦争)責任とは何か?

★しかし、所与の事実性(先験的選択)とその関係をすでに生きてしまっていることは、相続放棄するように原理的には解消できません。それは言い換えれば、所与の歴史性に如何に応答するか、如何に他者の声に耳を傾けるか、という課題(応答責任)でもあると思います。先の高橋哲哉の「恥じ入り続ける」という言い方の真意も、またその課題の表明でしょう。(黒猫)

応答責任にどう応えるか?というのは、わたしの倫理の起源であるかもしれない。がどうもよく分からない。

神はいないとする無神論を自覚的に選択した私にとって、「他者の声に耳を傾けるか、という課題」とは、神をそこに措定しようとする未練な思想的態度に見える。

★斎藤純一は次のように言います。「どのような自発的行動によっても解消しえない」のは、国家への帰属(citizenship)そのものではなく、被害者との間にあるこうした歴史的関係にほかならない。私たちを「日本人」と呼ぶとき他者が名指しているのは、私たちの生のこうした歴史的位相であり、いかに自らを「非-国民」として定義しようとも、そうした生の歴史的位相を消し去ることはできない。(同上)

「被害者との間にあるこうした歴史的関係」をいわば形而上化しようとするのは、倫理の原資を他から借りてくる態度であり良くないのではないか。

日本というネイション(日本人)が中国侵略したと認めよう。わたしたちは無自覚であったとしてそこに関わっていただろう。多様な力の交錯のなかにわたしがあったのだとしても、「侵略」という大きな磁場からわたしは自由ではなかった。

 それを認めるとしても、「「どのような自発的行動によっても解消しえない」のは、、被害者との間にあるこうした歴史的関係にほかならない。」という発言には問題がある。20世紀前半は帝国主義の時代であり、すべてはその中で起こった。したがって“なんらかの責任”を負うことは当然であるとして、それがどのような“責任”であるのか、誰が誰に問うているのかといった点を細かく問うていかなければならない。

日本というネイション(日本人)が中国侵略したと認めよう。歴史的に成立していた磁場の中で抑圧関係に棹さしてわたしが生きていたとしても、ひとりのわたしが被害者との間にすでに歴史的関係を成立させていたと言えるのか。日本人が加害者であり中国人が被害者なのか。大ざっぱに言えばそう言っても良いだろうが、厳密にはなるべく言わない方がよいと思う。

磁場がある以上、存在の受けていた内圧の違い“なんらかの責任”は認めても良いが、そのとき「日本人の責任」というフレーズを成立させることは強力過ぎるのでなるべくやめた方が良い。

この意味で、「「国民」という抽象的な集合体がまとまって罪を負っているかのような語り方をすれば、国民を構成する各個人がそれぞれ異なった仕方で、異なった重さで負っているはずの罪の具体的な中身がかえって曖昧なものになってしまう。各個人が、自分の罪について主体的に考えるべきだ[1]」というヤスパースの意見に賛成です。

「仲正昌樹は先の新書で、戦後世代に戦争責任があるのは親の遺産を相続する際に、負の遺産も一緒に相続しなければならないのと同じ理屈だと書いていますが、不適切な比喩だと思います。」そうでしょうか、財産と同時に債務も放棄することは認めても良いような。国籍と(国語を)捨て、日本人でなく生きていくのなら、その人に責任があると立論する必要はないと思う。(野原)

「つまり相続放棄なら簡単に出来るが」という前提がおかしいと思う。わたしは日本語を捨てて生きることはできない。日本語を捨てて生きるとまで決意した人間に対して、なおかつ何を何語で語りかけるのか? そしてその効果は何か。

例えば不作為によって生じる「不正義」は、それによって損害や不利益を被った者によってはじめてそこに「不正義」があることが能動的に問れ、その問いかけに応じることが「応答責任」です。

あらかじめの「正義=法」によって、「責任がある/ない」」ことを限定する正義感(観)よりも、不正義感のほうがより根源的に<正義>を問いただしていると思います。(黒猫)

と言われるのであれば、この不正義感は斎藤より仲正に近いのではないか?

以上、私的メモであり応答になっていないが、とりあえずUPしておく。

あたしesは「われわれ」を選択する

 黒猫さんが引用した限りで斎藤純一さんを一応仮想敵みたいに考えてたみたいなところもありますが、彼の文章が載っているその論文集には、(野原が依拠しようとしている)岡野氏の文章も載っているのだった。いま気付きましたが。(誰にでもケンカを売らず友好的でありたいものです!)

戦争責任と「われわれ」、を検索すると、自由主義者おおたさんが「岡野八代を読む(1)「わたしの自由とわれわれの責任」」として岡野氏のその論文を丁寧に紹介している頁が一番にヒットした。

「岡野がこの論文で訴えているのは」、「「戦後世代の戦争責任」という問題が、けっして「戦後生まれの日本国民」という抽象の問題ではなく、わたしの問題であること」だ。と冒頭でおおた氏は強調する。

岡野の思考の出発点は優れて具体的である。ある時飛行機である韓国人男性の隣の席に座り「日本はかって朝鮮半島に何をしたか」という会話に閉じこめられたという岡野の体験から彼女は考える。

わたしが行ったわけではない行為について、それを想起するように求められる根拠とは、おそらくわたしが属しているであろうこの「われわれ」の存在のゆえである。(岡野)*1

ここでおおざっぱには「われわれ」=日本国民である。ただそのあたりを丁寧に考えていく必要があるのだ。

岡野が日本国の国籍保有者になったのは、岡野の選択の結果ではない。しかし、岡野が日本国の国籍保有者でありつづけていることは、あるいは日本国民であると自己を理解し始め、理解していることは、けっして選択の余地のないことではない。あるいは、「わたし」が日本国民であるというアイデンティティーをもっていることは、けっして選択の余地なく、あらかじめ決定されていることではない。「わたし」は、日本国民であることを、少なくとも止めることができる。

「わたし」が、そうであることが当然と思われる「われわれ」の一人であることは、けっして当然のことではない。

http://uhei.vis.ne.jp/LibertyandPeace/Politics/yayo1.html

わたしは国籍を捨てることができる。つまり捨てていないのは捨てないことを選択しているからだ。「日本国民であるというアイデンティティー」(曖昧な言葉だが)についても同じことが言える。

「わたしは自明にもわれわれの一人である」ようだが実はそうではないのだ。

「わたし」たちが、「われわれ」であることを選択する前に、すでに「われわれ」が存在するわけではない。「わたし」たちが「われわれ」であることを選択することによって、「われわれ」はあらわれる。(おおた 上記より)

「わたし」が「われわれ」の一人であることが、当然のことではないならば、自由への別の道があるのではないか。わたしという自明の存在、「われわれの一員としての」わたしという存在をわたしの手で開いてみること、そのような「わたしの自由」の可能性があるのではないか。こう岡野は問いかけて、この論文を終える。(おおた 上記より)

ところが、岡野氏の場合、わたしとわれわれの間に、選択の意志を(ちょっと無理して)読み込もうとする。国家=われわれ というものはわたしたちがその都度*2、(無意識に近いところで)同意を与えることによって形成される多数多様な位相から成る共同性でありましょう。そうであるなら「「われわれの一員としての」わたしという存在を開い」ていくことにより、「われわれ」を変質させることは確実にできるわけです。

(9/19下記の通り訂正)

*1:p160「<わたし>の自由と<われわれ>の責任」『法の政治学』isbn:4791759699

*2:つねにすでに

皇祖皇宗に対する義務

 ヤスパースは、「ナチスの治世下、ドイツにあっていわば「祖国喪失者」として毅然とした抵抗をつらぬく。ナチスの政権にユダヤ人の妻との離縁を勧告された時には、これを拒否し、大学を退いている。*1

しかしナチス敗北後は、「自分をこの悪をなした「敗戦国民」の側におく。*2」そして「今はじめて、わたしがドイツ人であり、私の祖国を愛するのだと、ためらいなくいいうる」と言い放った。

ひるがえって日本の戦後に、ヤスパースに似た時局便乗にさからう声が皆無だったというのでもない。

 だいぶ若いが*3、太宰治はあのヤスパースの敗戦直後の声に似て、「真の自由思想家なら、いまこそ何を措いても叫ばなければならぬ事がある。天皇陛下万歳!この叫びだ。昨日までは古かった。しかし今日に於いては最も新しい自由思想だ」という声をその敗戦直後の小説の登場人物にあげさせている。また戦時下、軍部の言論弾圧と戦った明治生まれの硬骨のオールド・リベラリスト津田左右吉は、戦後創刊された『世界』に一転、熱烈な皇室賛美を書いて周囲を困惑させている。*4

「われわれの祖先のうちの最も優れた人たちから伝わってわれわれの心に呼びかける最も気高い要求」と「天皇陛下万歳!」はイコールだろうか。明治憲法は「天皇は神聖にして侵すべからず」と定めた。おそらくその時から、天皇に対するより上位のペルソナ(皇祖皇宗やアマテラスなどなど)は誰からもアクセス不能になり忘れられた。

一切が消滅しても、神は存在する。これが唯一の不動の地点なのである。

p189 同書

ヤスパースがこう言わなければならなかったほど追い込まれたとき、日本人はやはりあの鵺的なペルソナにすがるしかないのだろうか。

そんなことはなかろう。

「天地の始は今日を始めとする理なり。」と語った北畠親房を思い出すなら、わたしたちは「新しき古」に向かって開かれている。

(天皇陛下万歳を「時局便乗にさからう」と素直に評価してしまう加藤は、戦後史の現実過程に対する認識がずれているのではないか。戦後も一貫して裕仁は天皇で有り続けた。これが日本の美的倫理的根拠の破壊でなかった、とでも思っているのか。)

*1:加藤典洋『戦争の罪を問う』の解説p221

*2:同上

*3:野原註:1883年生まれのヤスパースより

*4:同上 p227

血にまみれたわれわれの手

 ジーン・ウルフは「ひとを殺す」ことについて考察している。言い直すと、「(あなたを)わたしが殺すこと」が可能であるためには何が必要かについて。ひとがひとを殺すことは不可能である。あなたは(つねに幾分か)私の鏡像であるがためにあなたと呼ばれるのだし、そうであるかぎりあなたを殺すことは不可能だ。

 しかし殺すことは可能でなければならない。

 《自在神よ》聖職者が読んだ。《ここで今命を失う者たちは、あなたの目から見れば、われわれ以上に邪悪な存在ではないと、われわれは承知しております。彼らの手は血にまみれておりますが、われわれの手も同様です。》

(p46「調停者の鉤爪」新しい太陽の書②isbn:4150107033

 女のモーウェンナが聖職者に導かれ、鉄の串を持った男に後ろから小突かれながら、階段を上がってくるところだった。群衆の中のだれかが大声で、猥褻な示唆をした。

《……慈悲心を持たぬ者に、慈悲を垂れたまえ。われらに慈悲を垂れたまえ。今、慈悲心を失わんとしているわれらに、慈悲を垂れたまえ》(p47同書)

「おまえが女だということを考慮すると……きわめて忌まわしく、異例ではあるが、おまえの左右の頬に焼き鏝を当て、両足を折り、首を胴体から打ち落とすことになった」

「その思考が臣民の音楽であるところの独裁者の譲歩によって、不束なるわたしの手に委ねられた高潔なる司法権力により、ここに宣言する……」

「ここに宣言する。おまえの最後の時がきたぞ、モーウェンナ」

「調停者に懇願することがあれば、申し述べよ」

(同書p48より、一部省略した形で引用)

すでにわかっているように、平均的な田舎の官吏ほど断頭台の上で取り乱す者はいないのである。(略)能力があり訓練さえ受けていれば充分に心をおちつかせることができるのに、それを欠いているというまったく正当な恐怖心との間で、引き裂かれていた。(p50)

その瞬間、わたしは後ろに一歩さがり、なめらかに水平に彼女の首をはねた。これは上下に切断するよりも習得するのに数等困難な技であった。

 かんたんに言えば、わたしは噴き上がった血の噴水を見、首がどさりと台の上に落ちる音を聞いて初めて、やり遂げたと知ったのだった。自覚していなかったが、わたしも村長と同様に怯えていたのである。

 これはまた、昔からの伝統によれば、組合の習慣的な威厳が緩む瞬間でもあった。わたしは笑いたくなり、跳びはねたくなった。(略)わたしは剣を振り上げ、髪の毛を握って首を持ち上げて、断頭台の上を意気揚々と歩いた。(略)群衆は必ず叫ぶ冗談を叫んでいた。(p52)

 長い引用になった。わたしたちは国家の主権者として死刑とその執行を是認している。*1わたしたちではない裁判官が死刑を宣告し、わたしたちの知らない場所で知らないうちに執行人が執行する。法務大臣が執行命令書に署名する時何も言わなければ、執行の後でしかわたしたちは知り得ない。わたしたちの国家はその暴力を恥じ深く隠蔽しようとしている。

 しかしながら、「彼ら(=殺されるべき者)の手は血にまみれておりますが、われわれの手も同様です」とは、国家は決して語らない。語らないのはそれが真実であるからだ。神が神の名に値するものである限りそれは国家より上位にあり、「殺すな」や「慈悲」の普遍性もまた国家やギルドより上位にあるはずだ。それを認めることは「殺すことは可能でなければならない」と矛盾しない。司法権力だけが死を命じることができる。だからといってそれによって執行という実務のいろいろな責任が自動的に聖化されるわけではない。その人は礼儀をもって取り扱われる。最後まで彼(女)は人として尊重される。人を殺すことは「能力があり訓練さえ受けていれば充分」可能だ。そしてわれわれはむしろそれに立ち会うべきだろう。執行する主権をわれわれは承認しているのだから。執行者は首をはね、群衆は歓喜する。

 私たちが国家を肥大化させないためには国家の行うすべての行為にわたしたちが立ち会う必要がある。なかでも死刑執行と戦争、わたしたちが人を殺す用意がないのならすでにわたしたちの文明は崩壊している。わたしたちは年に一度わたしたちの内なる死刑執行者を呼びだし慰める。

*1:「私は死刑廃止論だが」と言ったとしても。

うーん 松下昇

というわけで、松下昇ですが。

まず彼を紹介しないといけないか。

生年は1936年であるとのこと。

1996年5月6日朝10時ごろ死亡。

http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/matut11.htm

同時代生まれは誰か調べてみよう。

http://www.excite.co.jp/book/guide/chrono/?index=1 現代作家ガイド―年代別/生年月日検索

ところが、30年代生まれは

1934生 筒井康隆 ともう一人しか居ない。

流行作家としてもてはやされる年齢はとっくに終わって数十年後に再発見される(かもしれない)のを待つ年齢になっているということか。

1936生 寺山修司 1983死。

      横尾忠則 もかな。

(生年別に著名人をざっと並べたデータベースがありそうなものなのに、みつからなかった。)

とりあえず見つかった3人をみるとかなり個性派ですね。

破壊~ハチャメチャ~前衛 みたいなイメージがうかぶ。

松下もそのような、ポジティヴなハチャメチャ派だった。とここでは紹介してみよう。