6月30日コメント欄

id:noharra:20050630

(1)

# drmccoy 『皇国・皇軍が「強制」したとおっしゃいますが、具体的にどのような方法で強制したんでしょうか?』 (2005/06/30 10:27)

(2)

# drmccoy 『あともう一点、noharraさんの考える責任の所在は「天皇」「皇軍」「当時の権力者」のいずれかもしくは、全部であり、他には無いという事でしょうか。この他にもありましたらお教え下さい。』 (2005/06/30 11:02)

(3)

# swan_slab 『サイパン島や沖縄戦での民間人の集団自決は、おそらく心理的には、投降の呼びかけに応じれば殺されないかもしれないが、恥辱を感じ、社会的信頼を失い、家族に社会的制裁あるかもしれず、それならば自ら死を選ぼうという意識があったでしょう。そしてもうひとつは、投降すれば食べられてしまうとまで考えていた人もいたなど、米兵そのものが鬼畜化してイメージされていたことががあげられます。

戦時法としての交戦規則について住民はちゃんと知らされていないうえ、敵国兵士に対する歪んだイメージを持っていた。これは国家主導のプロパガンダによる一種のマインドコントロールに近いでしょう。さらに継続的な皇国教育や精神論的な戦陣訓などが強く影響したことは否定できないと思います。そのような観点からすれば、集団自決を積極的に誘導したのは当時の権力機構そのものであったといえると思います。』 (2005/06/30 12:23)

(4)

# spanglemaker 『そしてその権力機構を選んだのは当時の日本人ですね。以下でswan_slabさんもおっしゃっているように、責任の所在は簡単には決められないでしょう。

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20050623#p2』 (2005/06/30 19:48)

(5)

noharra 『マッコイさん。そんなことより「(天皇がサイパンで)もうすこし頭をさげたことにどれだけの意味と意図があるかちゃんととらえてほしい。…」について教えてください。責任逃れための責任談義にもっていこうとしているだけでしょう?』 (2005/06/30 22:58)

(6)

# swan_slab 『>そしてその権力機構を選んだのは当時の日本人ですね

これは制度的にはありえないですね。当時の統治機構は国民主権原理ではなく天皇主権を前提としていました。また民主主義の大前提たる表現の自由は相当程度制限されており、国民は知るべき情報を目隠しされていたというべきです。

しかし、それでも”後から知る”ことはできる。わが子を殺し、自らも自殺する行為の悲惨さを、純粋無垢な戦争の犠牲者とだけ語り継ぐことはやはりできない。そういうことです。

>責任の所在は簡単には決められないでしょう。

かつて西尾幹二氏は「全体主義の呪い」という著作のなかで、この悩みを哲学的に表出していますね。非常に深いテーマで、私などの凡人にはにわかに答えは出せませんが。簡単な話にはならないですね。』 (2005/06/30 23:22)

(7)

# drmccoy 『野原さん、ご自身が言った事「皇軍の強制が原因」が正しいというなら、「具体的にどう強制したのか」答えてください。答えがなければ、答えられない、根拠無く説明できないと受け止めますがよろしいですか?

>責任逃れ

誰の責任ですか?まさか私には過去の指導者の戦争責任を追及する責任があるとかおっしゃるんではないでしょうね?一方的に糾弾されている彼らを弁護する責任なら多少感じていますが。

>頭をさげたことにどれだけの意味と意図

いつもそうなんですが、質問の主語がわからないので答えにくいんですよ。

「意味」とは誰にとっての意味ですか?見る人によってそこから感じる意味は違いますよ。私にとってどういう意味があるかという事ですか?

それから、「意図」とは陛下の意図ですか?それなら本人が「慰霊が目的」と言ってるますが。』 (2005/07/01 16:22)

(8)

# swan_slab 『自決と命令については、http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper11.htm参照。

私自身は、戦史のなかでは、栗林中将が玉砕やバンザイ突撃を決して指示しなかった硫黄島の戦闘の印象が強いです。

なんていうかな。まずはアジア太平洋戦争の戦記を共有することからはじめないと。』 (2005/07/01 17:46)

(9)

# drmccoy 『私にとっての意味または意義でしたらhttp://www.sankei.co.jp/news/050629/morning/editoria.htmに集約されています。

ところで、誤解されると困るので書きますが、私はかつての戦争指導者に一切責任が無かったなどとは思っていません。天皇や東条英機に一切責任が無かったと思っている人なんて希でしょう。石原慎太郎でさえ天皇は退位すべきだったとか言ってますから。

問題は誰が何に対してどこまで責任を負うか、そしてその罪はどれくらいかということでしょう。それらの検証なしにすべての責任を天皇やA級戦犯などに集約させてそれで終わりというのでは、結論を急ぎすぎではないですか?

これらを法的にも根拠のある法廷できちんと裁けていればこんなにややこしくなっていなかったと思いますよ。東京裁判だって法的に欠陥があるから、無実だったとか言い訳に利用されているわけです。』 (2005/07/01 17:52)

(10)

# drmccoy 『なるほどswan_slabさんの参照先は参考になりました。沖縄の例などからサイパンにあてはめて参考にしてみると、原因としては「天皇のために死ぬことを美徳とする皇民化教育」「軍による共生共死の一体化」、「捕虜を恥辱とする観念」、「鬼畜米英への恐怖」、「逃げ場のない追い詰められた地理的状況」などなどで、米軍だけでなく、日本軍までもが住民を追いつめた。これならわかります。おそらく軍人の質も低い人が多かったのかもしれません。地上戦という特に悲惨な状況であったとは言え、日本軍が同胞の住民を追いつめた、その責任は重大だと私も思います。しかし、すべての軍がそうでだったわけではありませんから swan_slabさんの記述はその点のバランスも配慮されて書かれている点、説得力を感じました。』 (2005/07/01 18:16)

(11)

# spanglemaker 『swan_slabさん。

>>>そしてその権力機構を選んだのは当時の日本人ですね

>>これは制度的にはありえないですね。当時の統治機構は国民主権原理ではなく

>>天皇主権を前提としていました。また民主主義の大前提たる表現の自由は相当

>>程度制限されており、国民は知るべき情報を目隠しされていたというべきです。

それってhttp://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20050623#p

に書いてあることと矛盾するようですが。

>>天皇制こそが諸悪の根源みたいな語り方は80年代にもよく耳にしましたが、

>>ものすごく単純化した図式のなかに何かの責任を押し付けて拒絶感を表明する

>>という傾向は、戦後ず~っとあったと思いますね

それともこれは肯定的な文脈で語ってらっしゃるんですか?

国民が統治機構に関与できないというなら責任の所在は簡単じゃないですか。

戦前の日本は立憲君主制の民主主義国家です。

言論の自由は今ほど自由じゃないにしても、天皇制についても広く議論されています。

この議論から天皇の統治権は制限を受けるという美濃部達吉の天皇機関説が主流になりました。

これは今の象徴天皇制と本質的に同じです。

戦前も日本が民主主義国家であったことはちょうどsanhao_82氏が今日のエントリー論じておられますので紹介します。

http://d.hatena.ne.jp/sanhao_82/20050701#p1

だからこそ責任の所在は簡単ではないわけです。』 (2005/07/01 20:45)

(12)

# swan_slab 『>spanglemakerさん どうも

「戦前は天皇主権だったので国民は権力の末端部品だった」というのと「天皇制こそが諸悪の根源みたいな拒絶は日本人の生き様に目をつぶるものだ」という論は矛盾するように読めるかもしれませんね。両者を極論すれば矛盾するでしょう。

でも、両者の極端な値におそらく真実はないのだと思うのです。

>国民が統治機構に関与できないというなら責任の所在は簡単じゃないですか。

責任というのは、「どのように観察した場合に」という”アスペクト”で捉えなければならないと私は思います。国民の積極的・能動的自由が制限されていた状態を反省するなら、国民を悲惨な戦争に巻き込んだ責任の所在は自ずから国民ではありえません。そして、日の丸を振って地域の若者やわが子教え子を戦場に送り出した責任といったものは当事者の心の中にはありうるでしょう。

しかし、次世代についていえば、戦後の新憲法の理念を維持する責任は戦後の国民に課されたと私は思います。個人的な自責感だけではダメで制度的に固定化しなければならない、戦前の制度や考え方の何が間違っていたのかを反省し続けること、これが国民一人一人の責任だという具合に捉えています。

>戦前の日本は立憲君主制の民主主義国家です。

>言論の自由は今ほど自由じゃないにしても、天皇制についても広く議論されています。

>この議論から天皇の統治権は制限を受けるという美濃部達吉の天皇機関説が主流になりました。

>これは今の象徴天皇制と本質的に同じです。

だいたい正しい認識だと思ってかまいませんが、このあたりは多分私のほうが詳しいと思いますので、補足させていただきますと、

明治憲法が民主制をとっていたか、という問いに対しては、明治憲法上、主権の本質はやはり天皇主権とみなさざるを得ないので、天皇主権と民主制は背理します。

また「戦前の日本は立憲君主制だった」のではなく、立憲君主制モデルをもって明治憲法を解釈しようとする学説上の動きが有力になった一時期があったというふうにとらえたほうが正確です。おっしゃる美濃部の天皇機関説はその一例です。古くは、伊藤博文が憲法制定に際して、君主の権限を制限する立憲君主制を導入しようとしていたことも知られています。

つまり、まがりなりにも立憲主義を機能させようとしていた。おっしゃるように天皇にあたかもイギリスの君主のような役割を担わせようとする動きがあった。

また、臣民の間でも、英米やフランスなどの人権の概念や法の支配、住民自治について理解があった啓かれた人たちがいたことは確かです。

しかし、1935年頃から体制側から反動がくる。いわゆる国体明徴運動は古くは教育勅語(明治中ごろ)から使われている言葉ですが、より政治的意味を込めて使うようになったのは35年です。国体明徴問題についてはhttp://www.cc.matsuyama- u.ac.jp/~tamura/kokutaimeityou.htm参照。

「国体の真義によって、個人主義的な欧米文化のもたらした欠陥を是正する」と結語された『国体の本義』(1937文部省)に象徴されるように、天皇を倫理的・精神的・政治的中心とする国の在り方を根本から国民にわからせてあげなければならないという使命感のようなものが生まれていったわけです。国体明徴運動が激化してくると、文部省は上述の『国体の本義』を全国の学校・大学・図書館等に配布し、・・。

また、戦時体制が敷かれ始めると、国家の啓蒙活動は国体に限らなくなります。

とくに『厚生運動』は典型例ですが、要するに、国民の体力を増強しなければならないという命題のもと、厚生省が誕生する。厚生省はもともと”厚生省体力局”新設が主眼で、その他衛生・社会福祉・労働などの部署はついでについてきたものだったんですね。健康こそが国家に尽くす大本であって、病者や障害者は非国民扱いになってゆく。体力増強のために国立公園がやたらと山岳地域にばかりに生まれハイキングコースが整備されたのもこのころです。嫌がる商店主なんかを引っ張り出して休日に体操やハイキングをやらせていたのが厚生運動です。

まぁいわば健康を強制していたわけですが、44年ごろには完全に終息します。体操している場合じゃなくなって。

戦争で散っていった兵士の多くは、この厚生運動とか国体明徴運動の影響をもろに受けた世代だったということができます。』 (2005/07/01 23:24)

(13)

# spanglemaker 『1935年以降日本の民主主義がおかしくなったのはおっしゃる通りでしょう。

ところで明治憲法施行から1935年まで何年あるとお思いで?

コメントに書かれている日本を「立憲君主制」としようという努力は

1889年の憲法公布のさらにその前から1935年までの長い間の出来事なんですよ。

ずいぶん長く民主主義が続いていたじゃないですか。

「軍部独裁」の10年間が異常だったということでしょう。

異常とはいえ太平洋戦争が国民多数の意思を反映した政策であることは確かですし。

戦前の日本では日本国民が権力機構から疎外されていたと結論つけるのは

やはり妥当ではないと考えます。

なお、公布前に「立憲君主制」を目ざし、公布後も「立憲君主制」という解釈が主流に

なるのであれば、憲法だけ「立憲君主制」ではない、という解釈は不自然だと思います。

>>だいたい正しい認識だと思ってかまいませんが、

>>このあたりは多分私のほうが詳しいと思いますので、補足させていただきますと、

何様ですか?

>>でも、両者の極端な値におそらく真実はないのだと思うのです。

ここの記事もすごい極論なので、私に反論して下さったのと同じように、

noharra氏にも反論されたらいかがでしょうか。

なぜnoharra氏の極論には何も言わないのか不思議です。』 (2005/07/02 12:37)

(14)

# swan_slab 『>ずいぶん長く民主主義が続いていたじゃないですか。

>「軍部独裁」の10年間が異常だったということでしょう。

明治憲法下の日本を民主主義といえるかというと、いえないと私は思います。

プロイセン型の憲法を採用しながらも、民主的に(ないしイギリス立憲君主制的に)運用しようという動きがあったにせよ、そもそも制度的に民主制ではなかった。

>異常とはいえ太平洋戦争が国民多数の意思を反映した政策

それはあまり根拠がないと思いますが。

>なお、公布前に「立憲君主制」を目ざし、公布後も「立憲君主制」という解釈が主流になるのであれば、憲法だけ「立憲君主制」ではない、という解釈は不自然だと思います

明治憲法において民主的要素が全くなかったわけではありませんが、統治機構だけでも次のような欠陥があった。権力分立が不完全で、各機関は天皇の大権を翼賛するものでしかなかったこと、法の支配という観念がなかったこと、公選に基づかない貴族院が衆議院を抑制し、政府や軍部に対するコントロールが極めて弱かったこと、そもそも内閣自体が憲法上の制度ではなく、大臣輔弼制度が及ばない天皇の大権が憲法上認められていたこと、内閣が議会に対して責任を負わなかったことなどです。

そして、民主的といえる部分については、かろうじて制限的ながらも臣民の権利義務が法律の範囲内において認められていたことがあげられます。この部分が近代化に果たした役割は大きいと思いますが、上記の制度的欠陥は致命的だったとみるべきでしょう。

明治憲法の規定に、立憲君主制を読み込む、あるいは国家法人説を読み込む努力が潰えたのは国体論の台頭があったからということのほかに、根本的に明治憲法の構造がイギリス型の立憲君主制を読み込むのに適していなかったからでしょうね。』 (2005/07/02 14:40)

swan_slabさん、drmccoyさん、spanglemakerさん コメントありがとうございます。

応答が遅れてすみません。

ににぎ

『古事記伝』を読んでいたのだが中断している。

今日ブラブラ見ていたら次のような記事があった。

たとえば古事記の記述によれば、天照の直系の後継ぎは「正勝吾勝勝速日天の忍穂耳の命(まさかあかつかちはやびあめのおしほみみのみこと)である。古事記には「太子(ひつぎのみこ)」と書かれている。この忍穂耳の命の子は二人おり、「天の火明の命(あめのほあかりのみこと)」と「天つ日高日子番の邇邇芸命(あまつひだかひこおのににぎのみこと)」である。

 この邇邇芸命の名前を良く見てみよう。「あまつひだかひこ=天津比田勝彦」なのである。つまり天国(あまぐに=壱岐・対馬を中心とした海洋王国)の比田勝津=港の長官という名前なのである。

では天国の王位継承者はだれか。当然、天の火明の命である。この天の火明命の名前を日本書紀で見ると、「天照国照彦火明の命(あまてらすくにてらすひこほあかりのみこと)」である。天国だけではなく陸の国も治めるという名前になっていることがわかるであろう。本流はこちらなのだ。

(以上3つは http://www4.plala.or.jp/kawa-k/kyoukasyo/1-7.htm より)

古事記、新潮日本古典集成版によれば、葦原の中つ国を「知らしめせ(領有支配せよ)」と言われたのは本来、天の忍(おし)穂耳の命(命)だった。この命は高木の神の娘と御合いして、二人の子を得る。上の子が「天の火明(あかり)の命」下の子が「日子番能(ひこほの)邇邇芸(ににぎ)の命」である。別名から考えて上の子の方が本流ではないのか、というのがkawa-kさんの意見。

古事記伝では4巻のp95から。ざっと見た限りでは、 比田勝津=港の長官、ということは宣長は書いていないようだ。

古事記の勉強をサボっているので、(くじけてしまわないよう)ちょっと書いてみた。引用先に感謝する。

責任

「責任」という言葉を使いたくない、よく分からないみたいなことをこの数週間考えています。

http://kujronekob.exblog.jp/i7 評論誌「カルチャー・レヴュー」Blog版

で、黒猫氏が、仲正昌樹『日本とドイツ 二つの戦後思想』などを読みながら書いおられる。

ちょっとコメントしてみたのだが、(わたしの番で)応答が途切れていた。

(戦争)責任とは何か?

★しかし、所与の事実性(先験的選択)とその関係をすでに生きてしまっていることは、相続放棄するように原理的には解消できません。それは言い換えれば、所与の歴史性に如何に応答するか、如何に他者の声に耳を傾けるか、という課題(応答責任)でもあると思います。先の高橋哲哉の「恥じ入り続ける」という言い方の真意も、またその課題の表明でしょう。(黒猫)

応答責任にどう応えるか?というのは、わたしの倫理の起源であるかもしれない。がどうもよく分からない。

神はいないとする無神論を自覚的に選択した私にとって、「他者の声に耳を傾けるか、という課題」とは、神をそこに措定しようとする未練な思想的態度に見える。

★斎藤純一は次のように言います。「どのような自発的行動によっても解消しえない」のは、国家への帰属(citizenship)そのものではなく、被害者との間にあるこうした歴史的関係にほかならない。私たちを「日本人」と呼ぶとき他者が名指しているのは、私たちの生のこうした歴史的位相であり、いかに自らを「非-国民」として定義しようとも、そうした生の歴史的位相を消し去ることはできない。(同上)

「被害者との間にあるこうした歴史的関係」をいわば形而上化しようとするのは、倫理の原資を他から借りてくる態度であり良くないのではないか。

日本というネイション(日本人)が中国侵略したと認めよう。わたしたちは無自覚であったとしてそこに関わっていただろう。多様な力の交錯のなかにわたしがあったのだとしても、「侵略」という大きな磁場からわたしは自由ではなかった。

 それを認めるとしても、「「どのような自発的行動によっても解消しえない」のは、、被害者との間にあるこうした歴史的関係にほかならない。」という発言には問題がある。20世紀前半は帝国主義の時代であり、すべてはその中で起こった。したがって“なんらかの責任”を負うことは当然であるとして、それがどのような“責任”であるのか、誰が誰に問うているのかといった点を細かく問うていかなければならない。

日本というネイション(日本人)が中国侵略したと認めよう。歴史的に成立していた磁場の中で抑圧関係に棹さしてわたしが生きていたとしても、ひとりのわたしが被害者との間にすでに歴史的関係を成立させていたと言えるのか。日本人が加害者であり中国人が被害者なのか。大ざっぱに言えばそう言っても良いだろうが、厳密にはなるべく言わない方がよいと思う。

磁場がある以上、存在の受けていた内圧の違い“なんらかの責任”は認めても良いが、そのとき「日本人の責任」というフレーズを成立させることは強力過ぎるのでなるべくやめた方が良い。

この意味で、「「国民」という抽象的な集合体がまとまって罪を負っているかのような語り方をすれば、国民を構成する各個人がそれぞれ異なった仕方で、異なった重さで負っているはずの罪の具体的な中身がかえって曖昧なものになってしまう。各個人が、自分の罪について主体的に考えるべきだ[1]」というヤスパースの意見に賛成です。

「仲正昌樹は先の新書で、戦後世代に戦争責任があるのは親の遺産を相続する際に、負の遺産も一緒に相続しなければならないのと同じ理屈だと書いていますが、不適切な比喩だと思います。」そうでしょうか、財産と同時に債務も放棄することは認めても良いような。国籍と(国語を)捨て、日本人でなく生きていくのなら、その人に責任があると立論する必要はないと思う。(野原)

「つまり相続放棄なら簡単に出来るが」という前提がおかしいと思う。わたしは日本語を捨てて生きることはできない。日本語を捨てて生きるとまで決意した人間に対して、なおかつ何を何語で語りかけるのか? そしてその効果は何か。

例えば不作為によって生じる「不正義」は、それによって損害や不利益を被った者によってはじめてそこに「不正義」があることが能動的に問れ、その問いかけに応じることが「応答責任」です。

あらかじめの「正義=法」によって、「責任がある/ない」」ことを限定する正義感(観)よりも、不正義感のほうがより根源的に<正義>を問いただしていると思います。(黒猫)

と言われるのであれば、この不正義感は斎藤より仲正に近いのではないか?

以上、私的メモであり応答になっていないが、とりあえずUPしておく。

日本人の血

ところで、小林秀雄は『夜明け前』についてこう言っている。

作者が長い文学的生涯の果てに自分のうちに発見した日本人という絶対的な気質がこの小説を生かしているのである。個性とか性格とかいう近代小説家が戦って来たまた藤村自身も闘って来たもののもっと奥に、作者が発見し、確信した日本人の血というものが、この小説を支配している。

少し後に「日本的という観念」という言葉もある。小林は何を言っているのだろう?日本人はすべて狂死すべきだとでも言いたいのか。

予定

 デリダの『死を与える』を読んだので、特攻隊員が<死を与える>に至った思考過程を、デリダの考察とを照らし合わせて考えようと思いました。

・・・難しそうでくじけそうなので、予定だぞ、やるぞ、という決意表明をしておきます。

松下昇についてどこから語ることができるか?

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=2887146*1

松下昇についてどこから語ることができるか?

まず遺書を引用する。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/11000101

として遺書を引用しました。

ですがちょっと思い直して削除しました。

どうも文体がぶっきらぼうで、読者に語りかける方向性が

はっきりしないからです。

どうしたらいいかな?

坂本さんの文章も、自閉的な他人に開かれていない難解な文章と

一般的には評されるだろうと思いますが、

Uさんはそれほど異和感はなかったですか?

どうもこのMIXIという場の性格もよく分からない。

今まではインターネットに繋ぐことさえ出来れば見れるサイトやブログを作ってきました。

インターネットは世界に広がっている、誰でも対等とかオプティミスティックに言う人がいますが、実際にはそこに前提されている文化を共有しないと入れないわけで、少なくとも最低限の知力と資力がないものは排除されています。おそらくそのような排除された者たちを目の前にいる者たちより重視する(しようとする)のが松下の方法論だった、とも言えるように思います。

そこでネット一般よりさらに限定された場で展開することの意味は何か?と考えるとすぐには答えが見つかりません。

・・・

どうも消極的ですみません。

*1:入会希望者はメールください。

概念集(2への序文の位相で)

概念集(2への序文の位相で)

 概念集・1を刊行してから、次のようなことが気になった。項目別に記すと、

一、このパンフに現れている項目群の集合の排反領域は何であり、排反領域の可能な限り広くを深く占拠していくにはどうすればよいか。

二、これまで人間は〈概念集〉にどこかで対応する試みをさまざまにおこなってきているが、これらの言語表現や表現総体の構造は、どこへ何かっているか。

三、私たちの発想や存在様式が変換する瞬間に最も力を及ぽすもの、そして私たちの発想や存在様式の中に最も長く残るものは、概念ではなく反概念としての像なのではないか。

 これらのヴィジョンが、項目とか言葉になる以前の場所でゆらめいていたのを主要因として、概念集・2~の可視的な作業の殆ど進行しない段階が持続した。

 いま、やっと、前記の三項目に(夢の中で模索したり、メモに記したりする水準を飛び越して)いきなりワープロに〈書く〉という作業によってたどりついているので、これを手掛かりにして、半歩でも先へ進んでみよう。この〈半歩〉性は、すぐに記述しうるものではないが、それと共に、常に渦まき、表象化しているものでもあるから、ここでは二月に打っておいた〈概念と像の振幅〉を、次ぺージに模索の開始点として掲げておく。

註一、〈概念〉の像よりは〈概念集〉の像に、〈私の〉よりは〈表現情況の〉重力が集中していると考えている。また、概念と像は、静止的に対応させて関連をとらえるよりも、時間(音を含む)を媒介する領域に入りこむ、ないし、その領域を突き動かそうとする過程で関連をとらえる方がよいのではないか。(〈瞬間〉の項目参照)

二、〈概念と像の振福〉で二月に予感していた…集(映像集)は、五月の〈神戸大学闘争史…年表と写真集〉としても現れており、また、これまでのパンフ群が帯びている放射性の時間から包囲性の時間を発見して、六月に批評集・α続篇を構想したのは、時間の像と概念を往還する試みの一つでもあった。

三、これまで刊行してきたパンフ群は、それぞれの位相で他の系列と相互に包括しあっている。(計論過程のレジュメ等は希望者に配布可能)このような関係を強いる力を逆用して、概念相互、像相互、全ての試み相互の関係の追求をしていきたい。

           ~一九八九年七月~        松下昇

(p1『松下昇 概念集・2』 ~1989・9~)

1989年天安門のハンストの書

 この光まばゆい五月、われわれはハンストを行う。このもっとも美しい青春のときに、われわれは一切の生の美しさを後に残していかざるをえない。だが、なんと心残りで、不本意であることか!

 にも拘わらず、物価が高騰し、役人ブローカーが横行し、強権が掲げられ、官僚が汚職している状態に国家がたち至り、多くの志をもつ人々は海外へ流浪し、社会の治安が日増しに悪化している。この民族存亡の瀬戸際にあって、同胞たちよ、すべての良心ある同胞だちよ、どうかわれわれの呼びかけに耳を傾けてほしいI・

 国家はわれわれの国家であり、

 人民はわれわれの人民であり、

 政府はわれわれの政府である。

 われわれが叫ばずに、だれが叫ぶのか?

 われわれがやらずに、だれがやるのか?

 たとえわれわれの肩はまだ柔らかく、死はわれわれにとってはまだ重すぎるとしても、それでも、われわれは行く。行かざるをえないのだ。歴史がわれわれにそう求めている!

 われわれのもっとも純潔な愛国の情が、われわれのもっとも優秀な無垢の魂が、「動乱」だと言われ、「下心がある」と言われ、「一部の人間に利用されている」と決めつけられた。

 われわれはすべての誠実な中国公民に請い願いたい。ひとりひとりの労働者、農民、兵士、市民、知識人、社会の著名人、政府の役人、警察官とわれわれに罪名を与えた人に請い願う。

 あなたがたの手を胸に当てて、良心に問いかけてみてほしい。われわれになんの罪があるのか? われわれは動乱なのか? われわれが授業をボイコットし、デモを行い、ハンストし、身を捧げるのは、いったいなんのためなのか? だが、われわれの感情は再三にわたって弄ばれた。われわれが飢えを忍んで真理を求めても軍警察に打ちのめされ、学生の代表がひざまずいて民主を求めても無視され、平等の対話を要求しても再三延期され、学生リーダーは身を危

険にさらしている……。

 われわれはどうしたらよいのだ?・

 民主は人生でもっとも崇高な生きる感情であり、自由は人が生まれながらにさずけられた権利だ。しかしこれらはわれわれ若い命と引き換えにしなければならないとは、これが中華民族の誇りなのか?

 ハンストはやむをえず行い、行わざるをえないのだ。

★ 生と死の間で、われわれは政府の顔つきを見てみたい。

★ 生と死の間で、われわれは人民の表情を探ってみたい。

★ 生と死の間で、われわれは民族の良心をはたいてみたい。

 われわれは死の覚悟をもって、生きるために闘う!

 しかし、われわれはまだ子供だ。まだ子供なのだ! 母なる中国よ、あなたの子供たちをしっかりと見つめてほしい! 飢えが無情にも彼らの青春をむしばみ、死がまさに近づくとき、あなたはまだ手をこまねいていられるのか?

 われわれは死にたくない。われわれはしっかりと生き抜きたい。

 なぜならわれわれはまさに人生でもっとも素晴らしい年齢なのだ。われわれは死にたくない。しっかり勉強したいのだ。祖国がいまだこのように貧困であるとき、われわれは祖国をおいて死ぬ理由はない。死は決してわれわれの求めるものではない!

 だが、ひとりの死か一部の人間の死で、さらに多くの人々がよりよく生きられ、祖国が繁栄するならば、われわれには生き長らえる権利がない。

 われわれが飢えるとき、父母よ、どうか悲しまないでほしい。われわれが命と決別するとき、おじさん、おばさん方、どうか心を痛めないでほしい。われわれの望みはただひとつ。それはあなたがたにより良く生きてほしいのだ。われわれの願いはただひとつ。どうか忘れないでほしい。われわれが求めるのは決して死ではないのだということを!民主は数人のことではなく、民主的事業も一世代で完成するものではないのだから。

 死が、もっとも広く永遠のこだまとなることを期待する!

 人将去矣 其言也善

 鳥将去矣 其鳴也哀

 (人のまさに去らんとするや、その言や善し。鳥のまさに去らんとするや、その鳴や哀し)

 さらば、仲間たち、お身体をお大切に! 死者と生者は等しく誠実である。

 さらば、愛しい人、お身体をお大切に! 心残りだけれども、別れを告げなければならない。

 さらば、父母よ! どうぞ許してください。子供は忠と孝を両立させることはできない。

 さらば、人民よ! このようなやむをえない方法で忠に報いることを許してほしい。

 われわれが命をかけて書いた誓いの言葉は、かならずや共和国の空を晴れ上がらすであろ

                              北京大学ハンスト団全学生

 *1

*1:p214-217 譚璐美『「天安門」十年の夢』isbn:4105297031 より