今頃になって従属だったのか!

で、俺の時代に至るまで、基本は「新左翼は日本帝国主義自立論」であって、また、80年代のバブル期だったので日本も外国にガンガン資本投下して、外国の安い労働力を搾り取るようになっていたわけで、「日本帝国主義」という言葉にはなんの違和感も持たなかったわけだ。

然るに、この小泉政権のアメリカ帝国主義への従属ぶりはどーよ、という問題に突き当たったのが、アフガンーイラク戦争の過程である。アメリカ合衆国は対イラク開戦ですんげえ国際的に孤立を深めたわけだが、その中で率先してブッシュの屁のにおい嗅ぎにいってたのが小泉である。

「・・・・・・オマケだったのか・・・・」という衝撃が我々の中にはあった。

http://black.ap.teacup.com/despera/34.html

衝撃とまでは言わないが、今頃になって従属だったのか、という思いはわたしにもありましたね。

教育御意見箱

文部科学省は教育御意見箱というものを設けています。

http://www.mext.go.jp/a_menu/goikenbako/index.htm

特に学校現場における教育活動について日頃感じた疑問や御意見、全国に紹介したい学校や教員の優れた取り組みなど、文部科学省ホームページで国民から広く募集し、スクールミーティングと相まって、現場に根ざした教育改革や施策の推進に役立てるため「教育御意見箱」欄を設けました。

(開設期間:平成17年3月18日から平成17年5月30日)

教育指導・教材(goiken01@mext.go.jp)、教科書(goiken02@mext.go.jp)

児童生徒の問題行動などへの対応(goiken03@mext.go.jp)

学校安全(goiken04@mext.go.jp)

性教育(goiken05@mext.go.jp)、男女平等教育(goiken06@mext.go.jp)

学校と家庭、地域との連携など、子どもの育ちの環境(goiken07@mext.go.jp)

その他(voice@mext.go.jp)

< 電子メールの場合>

・ 次の項目全てについてご記入の上、ご送付ください。(電子メール本文にコピーして貼り付けてください)

(氏名)

(性別)

(年齢)

(職業)

(意見)

・ セキュリティの関係上、添付ファイルは開くことができません。ご意見・ご要望は必ず電子メール本文に記入してくださるよう、お願いいたします。

・ お寄せいただいたご意見・ご要望の内容は、氏名を除き、全て公表される可能性があります。

・ ご意見・ご要望の内容は、300字程度(目安)におまとめください。

 日の丸君が代と並んで、いま政治的焦点になっているのは「性教育(goiken05@mext.go.jp)、男女平等教育(goiken06@mext.go.jp)」ですね。

バッシング勢力に負けないように、メールしてみましょう。

大君たとい如何なるくせ事を仰せ出さるるも

 吾君は真に神ということ返す返すも忘れ給うべからず、然るを浅はかに心得、君を怨みねたむ人は、其の身は勿論、父母兄弟の家の害となり、推しては天下の乱にも及ぶ事、古今其例多し。慎むべし。楠正成の言葉に、君を怨むる心起こらば、天照大神の御名を唱えうべしとあるも、天照大神の御恩を思い出さば、則其御子孫の大君たとい如何なるくせ事を仰せ出さるるも、始めより一命をさえ奉り置く身なれば、いかで怨み奉ることあるべきや。

竹内式部『奉公心得事』*1

天皇は真に神である。大君がどんな間違ったことを言い出したとしても、わたしというものは命さえ天皇に預けている身だから、大君の言葉に従うまでだ。

 現人神の思想は山崎闇斎の弟子(神道系)玉木正英に発する、と前田勉氏は言っている。竹内は玉木の弟子に当たる。

 あれほどの戦争を自身の名において遂行し、しかも敗戦においても何ら変わらずほほえんだままその在位を全うした裕仁天皇。彼が神でなかったと誰が言えるのか?

*1:p161『近世神道と国学』前田勉 isbn:483151005X

痛切なる反省とお詫びの気持ち

天木直人さんは下記でこう予言している。

「今後も反日デモが続くという「事実」によって日中首脳会談の失敗が証明されることになる。」

そうだとしたら中国で暮らす日本人などとても困りますね。

http://amaki.cc/bn/Fx.exe?Parm=ns0040!NSWhats&Init=CALL&SYSKEY=0010

4.そもそもこの首脳会談に臨む両首脳の外交に対する基本姿勢が対照的だ。胡錦濤出席は日中間の基本的問題に正面から取り組もうとした。日中関係を定めた三つの文書を引用したことの意味は重い。72年の日中共同声明、78年の日中平和友好条約、98年の日中共同宣言がそれだ。ここには歴代の日中指導者たちが苦労を重ねて積み上げた合意がある。その精神に反する言動を小泉首相が取り続けるから日中関係が悪化したのだ、中国国民が怒るのだ、そう言っているのだ。まことに筋の通った申し入れである。これに対して小泉首相はどうだ。会談の冒頭にアチェの被災地を訪れた感想を長々と述べて友好的な雰囲気をつくろうとしたという。これに対し胡錦濤主席が目を白黒させたという。

靖国参拝はヒトラーの墓参だ

に賛成。

冷静に言えば、ヒトラーもヒロヒトも東条も民族の英雄(代表者)であったことは間違いない。したがってその死を悼むのは人間的に間違った行為ではない。

しかし、小泉氏の靖国参拝は政治的行為である。戦後日本は「反省」の上に成立した国家であり、自然性、自明性の上にしている国家ではないのだ。ヒトラー(の対応物)との不連続を常に確認した上にしか、国家の根拠はないのだ。日本の外を見ないという窮極の島国根性に安住するのでない限り。*1

ところで、東条は国を護る為に死んだわけではない。戦後日本を成立させるため*2アメリカが首くくったのである。アメリカが論理的に黙認し得ない筈の行為をなぜ黙っていたか。中国韓国と日本の不和がアメリカの国益につながるからである。靖国参拝賛成派の中にはアメリカの工作員が潜んでいることは間違いない、のではあるまいか。

*1:「国を護る」ことの自明性を承認した(としたら)国民の奴隷根性も問われるべきだろいう。

*2:ヒロヒトを免責するため

八木秀次を叩け

事情をよく知らないのですがチョンボがあった様子。

河野美代子さんからのメールの写し。

広島から河野です。

私の裁判に、どうしても必要で、昨日、本屋さんに「新、国民の油断」を買いに行きました。私を中傷した文にこの本からの引用があったので、必要だったのです。彼らの本を買うのはとてもいやなのですが。

あの、パンツをおろした人形の写真や、数々のうそ、でっち上げが書いてある本です。それから、女性学やジェンダーの学者さんや、性教育の実践家、総動員で個人名をあげて批判というか、中傷満載ですね。

著者は西尾幹二とあの、テレビの八木秀二です。

>

ところが、どの本屋さんに行っても本がありません。店員さんが、「おかしいな、ここにあるはずなのに」と、どこの本屋さんでもです。

そして、広島でもとっても大きな本屋さんで、丁寧に調べてくれた店員さんによると、

「出版社から回収の指示があったので、もう、在庫はおいてありません。」ということでした。もっと詳しく尋ねて、調べてくれたところによると、何か不具合があって回収、もし、あったとしても、販売をしないようにと。

それは、一昨日の夕方の連絡だったそうです。

>

そして、その不具合を直して、八月ごろにまた出版するかもしれない、ということでした。たぶん、私の考えでは、肖像権の侵害とか、そういうものだと思うのですが、でも、そこだけ削ってまた出版されたのではなんのもことやらです。私は、名指しされた人の反論や、明らかな嘘については、出版社にも当事者は抗議した方がいいと思います

今がチャンス。私は、早速、これらの根拠になっているこの本は、回収になっている、と使わせてもらいます。

小学校低学年から、コンドームの装着の実践をしている、なんて、いったい、どこの学校で?小学校の低学年では、まだコンドームがつけれる様なペニスではなく、とても無理なはず。誰が考えてもおかしな嘘満載の本です。

>     河野美代子

このメール転載可です。広めてください。

近藤一さん講演会

日時:7月10日(日)  13:00受付 13:30開始

場所:名古屋市教育館 第8研修室

    (地下鉄栄駅下車 3番出口から北へ徒歩すぐ)

資料代:500円

講演:ある日本兵の二つの戦場

    第1部 証言 中国山西省と沖縄の戦場で

    第2部 今日、現地を訪問して思うこと

講師:近藤一氏(こんどうはじめ氏)

     1920年に三重県で生まれる。40年に入隊後、翌年中国山西省独立歩兵

    第13大隊第2中隊に赴任、治安警備やいくつもの作戦に参加。

      44年、上海より沖縄に渡り、嘉数高地の激戦や首里攻防戦に参加。

    南部に撤退し「万歳突撃で米軍の捕虜に。

     戦後、「初年兵教育」としての中国人刺殺から沖縄戦の悲劇まで、

    その「加害と悲劇」について学校や集会などで語り続けている。

     今年、社会評論社より「ある日本兵の二つの戦場‐近藤一の終わらない戦争」

    (内海愛子・石田米子・加藤修弘編)が出版された。

主催:不戦兵士・市民の会 東海支部

    連絡先:TEL 090-2184-9078

沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の生

「慶良間列島においておこなわれた、七百人を数える老幼者の集団自決は、上地一史著『沖縄戦史』の端的にかたるところによれば、生き延びようとする本土からの日本人の軍隊の《部隊は、これから米軍を迎えうち長期戦に入る。したがって住民は、部隊の行動をさまたげないために、また食料を部隊に提供するため、いさぎよく自決せよ》という命令に発するとされている。沖縄の民衆の死を抵当にあがなわれる本土の日本人の生、という命題は、この血なまぐさい座間味村、渡嘉敷村の酷たらしい現場においてはっきりと形をとり、それが核戦略体制のもとの今日に、そのままつらなり生きつづけているのである。

生き延びて本土にかえりわれわれのあいだに埋没している、この事件の責任者はいまなお、沖縄にむけてなにひとつあがなっていないが、この個人の行動の全体は、いま本土の日本人が総合的な規模でそのまま反復しているものなのであるから、かれが本土の日本人にむかってなぜおれひとりが自分を咎めなければならないのかね?と開きなおれば、たちまちわれわれは、

かれの内なるわれわれ自身に鼻つきあわせてしまうだろう。 大江健三郎(「沖縄ノート」69、70頁)」

 60年後の今日も沖縄は圧倒的な米軍基地と共に存在しており、本土はそうではない。沖縄の民衆/本土の民衆(日本人)という対比は存在する。

しかしながら、「血なまぐさい座間味村、渡嘉敷村の酷たらしい現場においてはっきりと形をと」ったものが、そうした対比が尖鋭化したものだという大江の理解はデリダの思想とはかなり違う。

 デリダはあからさまな権力関係を難解でアクロバティクなレトリックで誤魔化しているだけなのだろうか。わたしはそうは思わないのだが、さてどう説明したらよいだろう。

 たぶん現在のhatenaでは大江よりデリダの方が人気があると思うが、まあそれはどちらでも良い。『沖縄ノート』とかって「クサイ」みたいな高括りというのはその当時(1970年)ころからあり、わたしなどはそうした風潮のなかにいた。しかし大江のというか沖縄の「罪の巨塊」を無視してデリダの「幽霊」についてだけ語っても無意味だと思う。どなたかコメントくだされば、それを梃子に考え続けて見たいと思う。

(無責任だな。)

責任と普遍性

黒猫さま

責任論という話題での応答が遅れてすみませんでした。あまりにも時間が経ってしまったので、何が論点だったのか忘れてしまったよ。というか議論の前提がまったく共有されていないことが判明して二人とも驚いていたのか?

苛立つとすぐ攻撃的口調になるかもしれないという危惧を抱きつつ、注意しながら書こうとしてみます。

整理できないので思いついたまま書いてみます。

(1)

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050827#p1 への応答。

★しかし、所与の事実性(先験的選択)とその関係をすでに生きてしまっていることは、相続放棄するように原理的には解消できません。それは言い換えれば、所与の歴史性に如何に応答するか、如何に他者の声に耳を傾けるか、という課題(応答責任)でもあると思います。(黒猫)

「相続放棄するように」単に副詞句でしかなく、それがなくとも文意は通ります。「所与の事実性(先験的選択)とその関係をすでに生きてしまっていることは、解消できません。」何らかの関係(親土地国家等)というものの中で関係に関係しながら成長するのが生きることですから、この文章は否定できない。

「それは言い換えれば、所与の歴史性に如何に応答するか、如何に他者の声に耳を傾けるか、という課題(応答責任)でもあると思います。」この次の文章との繋がり方が問題点ですね。後者の文章は「戦争責任云々」といったなにがしかの限定された「責任」についてのもので、在るのに対し前者はいつどんな処でもあてはまるべきまったく普遍的な命題です。

下に引用された斎藤氏の長い文章に対しても「普遍について論じているのか、限定について論じているのか」という不明確さは、指摘できないこともないと思います。

(2)

むしろ、それぞれの国民が自らの過去を排他的に所有するのではなく、国民の境界を横断する記憶や歴史認識を共有していくためには、同じ出来事をまったく違った仕方で経験してきた他者との語りの交換こそが不可欠である。*1

「・・・私たちは「日本人」としての他者の名指しを退けるべきではない。しかし、このことは「日本人」の一員として、他者から断罪される位置に自らをおきつづけなければならないということを要請するわけではない。(同上)

他者の名指しという<最初の一撃>によって、わたしたちは日本人になる。という形で、「他者の名指し」を形而上化しているのではないでしょうか。

「私たちは他者の名指し(要求)を退けるべきではない。」というのは政治的あるいは運動論的には、ある場合是認されるでしょう。しかしそれは、「私たちは「日本人」としての他者の名指しを退けるべきではない。」という命題を成立させることと等しくはない。

わたしとあなたはある同じ国家の構成員です。それ以外にも他者の名指しによって「日本人」とカテゴライズされるべきなのでしょうか。*2

「私たちと彼/彼女たちとの間の歴史的関係は圧倒的に非対称的であるけれども、」、非対称性は歴史的関係という過去の領域ではなく発語するこの私の発生という存在の領域を規定していないでしょうか?

(3)

この具体的な他者から不正義を告発された時、<法=正義>は、その境界/限界を露呈するのではないでしょうか?(黒猫)(修飾句略)

これは下記も含意しますよね。

具体的な他者が不正義を告発しなかった時、<法=正義>は、その境界/限界を露呈しない、と。

わたしの理解では特権的に語られるべき<他者>とは、半ば幽霊的存在であり、一貫して「不正義を告発しつづける」という確固たるものとはイメージされません。

このイメージの相違が議論の食い違いになっていくようですね。

AがBを殺したとき、Bは死んで語れないしAは罪責感故に語らない。

AがBをレイプしたとき、Bはトラウマのゆえに語れないしAは罪責感故に語らない。

このように誰にも語られ得ないがために法的に立証されない空洞こそが事実の核心に在る、と思います。

責任が語られ続け、飽きられてしまってもなお語られ続けなければならないということがなぜ生まれてくるのでしょうか。

事実はあるアクロバティックな飛躍によってしかわたしたちの下にやってこないものなのか?それとも、もっと平明にそこにあるものなのか? 後者の事実観だけがなぜ疑われることなく通用しているのでしょうか。

60年前から中国大陸は日本から海を隔てたかなり遠くにあり、敗戦はその距離を拡大したこと、この距離が問題を作り出したのではないのでしょうか。だというのにいつもインテリは距離など存在しないかのように普遍的にしか語れない。

id:noharra:20050824#p1 から二つの断片を引いておきます。

 絶対的な犠牲者、それは抗議することさえできない犠牲者です。人はそれを犠牲者として同定することすらできません。それは、自己をそれとして提示=現前化することさえできないのです。(デリダ)

「小さな少年が後頭部をV字型にざっくり割られたまま歩いていた。」このような文は確かにありコピー可能だった。でもそれはおよそ信じべからざるものであり、「自己をそれとして提示=現前化すること」に成功することなく消えてゆく。(野原)

というわけで私の理解では、「この具体的な他者から不正義を告発された時」、の「具体的他者」とは「具体的他者」ではなくただのインテリの良心の擬人化なのではないでしょうか。

(4)

インテリの良心は必要です。であればなぜ以上の文章は書かれたのか。自己の良心による判断をそうではなく普遍的であるかのように語ることに対する反発が、ネット右翼など巨大な潮流になっていると考えたからです。

以上、自分でも迷いながら書いた文章ですが、例によって攻撃的に成りすぎているかもしれません。ご容赦ください。

*1:斎藤純一「政治責任の二つの位相」、『「戦争責任」とわれわれ』所収、ナカニシヤ出版)ISBN:4888485135 http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050827#p3 の黒猫氏転写部分から孫引き

*2:気持ちは分かるような気もしますが議論なので無視していこう。