ヘイトスピーチの自由??

 2ちゃんねるなどでは下記のような人たちがいるとのこと。

この問題に関して「ヘイトスピーチも表現の自由に含まれるのであって、それに対しては対抗言論(more speech)によるべき」と(ある種原理的な)表現の自由市場論を展開する人たち

http://deadletter.hmc5.com/blog/archives/000098.html Dead Letter Blog : Hate speech は存在するか

(1)名誉毀損表現であれ何であれ全ての言論・表現の自由は保障されている。ただし他人の権利(例えば名誉権)を侵したとなれば話は別で、比較衡量の結果制約を受ける。つまりヘイトスピーチは原則許容→例外不許容、という「内在的制約説」。

(2)一般的な表現とは区別される「ヘイトスピーチ」なるものが実在し、それはそもそも憲法的保護に値しない。ただし公益性のある場合、公人に対するものである場合は許容されうる。つまりヘイトスピーチは原則不許容→例外許容という説。

上の問題をどう考えるべきか、よく分かりません。

君が代をめぐるスワンさん発言

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20050320#p1

君が代をめぐる諸問題

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20041201#p3

靖国問題のフィロソフィ

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20041003

「君が代と日の丸と式典」

スワンさんは、J・ロックだけじゃなく、数世紀間のフランス、アメリカの動向にも目を配りつつ論じている。

一番有名なのはこれかな。

http://osaka.cool.ne.jp/kohoken/lib/khk195a2.htm

1943USA連邦最高裁 バーネット事件連邦最高裁判決

東京都からの処分後退?

<転送歓迎>

「都教委包囲首都圏ネットワーク」のW*1(千葉高教組)です。

東京都教育委員会は本日(3月31日)、卒業式の

処分を発表しました。

内訳は、

小学校3名、

中学校1名、

障害児学校4名、

高校44名です。(計52名)

減給10分の1を6ヶ月間が4名(3回目の不起立者ら)、

減給10分の1を1ヶ月間が10名(2回目の不起立者ら)、

他は戒告(1回目の不起立者ら)です。

また、本日、青年法律家協会の弁護士が、竹の台高校でのビラまきの際に荒川警察署が不当な妨害を行ったことに対し、抗議に行きました。

警官20名が弁護士を包囲して、警察署の敷地内に一歩も入れない状態で、約40分くらい対峙してたそうです。その後、記者会見が行われたとのことです。

詳細は追ってお知らせしますが、今回、3回目の不起立者が停職とならなかったのは、やはりこの間の闘いと世論の高まりが大きいと思います。

彼らはそこまでできなかったのです。

起立している教職員もほとんどは強制反対です。また、世論調査でも強制には反対が多いのです。私たちは道理ある多数派なのです。

(略)

*1:野原が匿名化

「日勤教育」というイジメ

今回の運転士は去年13日間の「日勤教育」を受けたとのことだ。これは教育とは名ばかりのイジメ(人権侵害)のようだ。

http://d.hatena.ne.jp/nekoneko/20050427 さん経由

 あやしいわーるど@QWERTYから

>   投稿者:   投稿日:2005/04/27(水)08時35分00秒 さんによるまとめ。

(1) 席の配置

 ・区長、助役、係長等の執務している内勤室の中央の席に座らされ、レポート作成

 ・内勤室は乗務員控室から見通すことが出来る為、晒し者にされる

(2) トイレ等

 ・同僚と会話の禁止

 ・お茶を飲むことの禁止

 ・トイレは管理者の許可を得ることが必要

 ・管理者が同行すること

(3) レポート作成

 ・業務命令として、1時間に1テーマのレポート作成を指示

 ・以下の内容の文章を作成

   当該運転士が犯したミスとは全く関係のない事項

   被告会社への帰属意識を試すような事項

      例えば「同業他社を凌ぐ強い体制づくりについて」、「サービスの原点とは何か」、

         「指示に対してあなたは社員としてどうあるべきか」等のテーマ

(5) 期間

 ・特に規定なし

 ・区長の主観的判断に委ねられる

(6) 給与

 ・乗務手当等の廃止

 ・月額同金額程度(乗務手当なら10万程度)の給与の減額

(7) その他

 ・管理者から様々な罵詈雑言をサービス

 ・見せしめ行為として各駅のプラットホームでの起立(水平展開)

http://mothra-flight.ameblo.jp/entry-fc159893f90a31cd9dcbfef4a3206ab9.html JRの行刑思想 | 灰色の脳細胞:JAZZよりほかに聴くものもなし

記者から高圧的な再教育プログラムに問題があったのではないかと指摘された、JR西日本の南谷昌二郎会長は、「『教育』にプレッシャーは必要である」と答えた。

(略)

過去に自殺者も出したこのJR西日本の素晴らしい再教育プログラムの恐ろしいところは、期間が決まっていないところである。それは監視官が対象者に「反省」を発見したときに、はじめて終了する。対象者は罵倒のなかで脅えるだろう。「反省」が見出されなかったならば、永遠に解放されることはない、と。監視官の絶大な権力のもとで自身の技術について思考するのではなく、解放のための感情を喚起しなければならない。そこではもはや、ミスに対する技術的なことは問題となっていない。問われているのはミスを犯したことへの「反省」であり、対象者の人格である。

つまりこの「教育」の目的は技術の向上ではない。ミスをその人間の全人格と結合させるという思考の果て、その人格自体を改変もしくは改造することこそが、この「教育」の目指すところである。

「日勤教育」は人権侵害かどうか?、と 目的達成「時間厳守した安全な運行の確保」のために合理的手段か? という二つの論点がある。今回の事故は後者に否定的な答えを出したと言えるだろう。前者についても常識的に明らかだと思える。

 こうしたイジメが白昼堂々まかりとおり裁判所や法務局もそれに是正命令をださない、そうした社会なんだ。

参考 服部さん損害賠償請求訴状

http://jr-souren.com/outlaw/sojou.htm

天も地もあることなく、ただ虚空(おほそら)なり

大きな紙を用意する。その紙いっぱいに大きな円を書く。円の内側には何もない。その外側に、次のように書いてある。「此の輪の内は大虚空(おほそら)なり。」さらに小さな字で註釈「輪は仮に図(か)けるのみぞ。実に此の物ありとにはあらず、次なるも皆然り」

中庸の「三大考」は宇宙生成譚である。宇宙の始まりを第1図から第10図までで解き明かしそれに解説を加えている。大虚空(おほそら)があって他には何もなかった。

記に曰く  

天地初発の時、於高天原成、神名は天之御中主神、次 高御産巣日神、次 神産巣日神、云々 

此の時いまだ天も地もあることなく、すべてただ虚空(おほそら)なり。天と地の初めは此の次の文に見えたり。然るを天地初発の時と云るは、後より云る言にしてただ世の初めということなり。また高天原にとあるも、此の時いまだ高天原はあらざれども、この三柱の神の成り坐したる処、後に高天原となれる故に、後より如此(かく)云る語也。*1

「大虚空(おほそら)があって他には何もなかった」、それ以外は三柱の神が成った、だけだ。と云っている。「天も地もあることなく」とは空間がなかったということなのか、それとも大虚空(おほそら)とは空虚な空間なのか、などなど疑問が生じますがそれには答えず、虚空(おほそら)という一語から始まることが語られるだけです。

次に第二図。大きな円の真ん中に小さな円が描かれ、それは「一物」であるとされる。一物ってなんやねんというと書紀にあるみたいですね。

書紀に曰く「天地初判、一物在於虚中(おほそらに)、状貌(そのかたち)難言(いいがたし)」(同上)

第一図と第二図ほとんど同じなのですが第一図は大きな円のなかに、天之御中主神など三柱の神が三つの点で表示された図。第二図は大きな円の真ん中に一物があり、その上方に三つの点がある図。第一図では物はなく神だけ、第二図で物が小さく現れる。で次々に第十図まで展開していくのですがその展開の原理とは何か?と云えば。高御産巣日神、神産巣日神の<産霊(むすび)>(の力)によるわけです。でそれは尋常の理を以て測り知ることができるものではない。したがってこの天地の始めを、「太極、陰陽、乾坤などといふ理をもってかしこげに」あげつらうことは妄説、見当違いだ、ということになります。id:noharra:20050326#p2 でも書きました。

 つまり、宇宙のすべてが、<産霊(むすび)の力>によって生成したのだなどとは記紀にはどこにも書いていない。テキスト主義者の筈の宣長がそこから逸脱して勝手に言いだしただけです。

 「三大考」のポイントは、大虚空(おほそら)への注目にあります。書紀に「虚」という一字があるだけで注目されてこなかった、おほそらになぜ中庸は注目したか。西欧渡来の「地は円(まろ)にして、虚空(そら)に浮べる」説を知ったとき、記紀の冒頭とそれがシンクロし、おそらく中庸は激しく感動したのだと思う。

・・・

(続く)

*1:p257 日本思想体系50

戦争

 蝉が鳴いている。窓から見ているとさきほどからあるおじいちゃんが一人で虫取り網をかかげて蝉を狙っている。慣れないせいか上手くいかないようだ。日本は平和である。

 イラクには派兵しているのだから、国内が平和なだけかもしれない。戦争中だって子どもは虫取りくらいしただろう。60年前の8.15に終わったとされる「戦争」。陛下の大御心のままに戦争は終わった。そこで悪とされたものは「戦争」である。

 皇軍が行った大虐殺も、日本への原爆、大空襲もその犯罪性を個別に明らかにしていく努力は弱かった。「戦争だったからしかたなかった」という諦めと自己への(あいまいな)許し。それを支えたのが憲法9条だった。

 ところが憲法9条を廃棄するという。普通の国に成るための努力を何一つしてこなかったのに、笑止である。

死霊が降りてくる

同雑誌の磯前順一(いそまえ・じゅんいち)氏の「死霊祭祀のポリティクス――招魂と慰霊」をもう一度見てみた。

靖国神社を性格づけるひとつの柱が、完全には概念化することのできない身体的儀礼である招魂という祭祀行為にある以上、その祭祀を通じて召喚された感情をめぐる多様な語りの可能性が生じざるをえない

その一方で、生き残った生者たちはそのような意味の多義的状態のままに留まることに困難を感じるため、それを概念化して明確な枠を与えることを求めてやまないのだ。意味の多義的状態は死者が生者に怨みなす怨霊と化する可能性もはらまざるをえないのだから。であるからこそ、多くの場合、招魂祭で招き降ろされた死霊の慰霊は、そこに多くのためらいを含みながらも、死霊に一定の意味を与える形で決着がついたと見なされる。ある場合には護国の神になったとして、ある場合には安らかな来世を送っているとして。

しかし、国家が祀るにせよ遺族が祀るにせよ、そのようなかたちで死者を慰霊してしまってよいのだろうか。それは死者が語りかけてくる声に耳を閉ざしていることにならないのだろうか。不本意な死を遂げた死者たちは、またここで、生者からの一方的な暴力に曝されているのではないだろうか。

*1

「招魂」「死霊祭祀」というのはあまり聞き慣れないおどろおどろしい言葉たちだ。「召喚」なんていうのはRPGゲームではおなじみだが真顔で使われるとやはり異和感がある。招魂社が出来た時期の平田篤胤とかの国学についてちょっとだけ勉強しているがそこにも「招魂」「死霊」なんて言葉はでてこない。*2

話は逸れるが、ちょっと篤胤神学に触れると、

現世(うつしよ)の支配者=天皇命(すめらみこと)

死ねば人の霊魂はそのまま神であり、幽冥界に行く*3

そこを主宰する大神は大国主であられるので、帰命(まつろい)まつらなければならない。

といったものである。死んでまで護国の鬼になるという靖国神学に比べて平和な感じである。しかしながら、国学から遠いと感じるのは実はわたしの勉強不足のせいのようだ。

招魂とは、元来「其時々」すなわち一時的に霊を降ろす、憑霊にも似た一種の降霊術とも考えられていたようであり、(略)当時民間に広がっていた国学系神道の、広い意味での鎮魂術とも密接な繋がりを有するものであった。*4

 夜中真っ暗な状態にして、霊が降りてくる、まさに本当に降りてくる、「魂の底に徹するような深い感激」を集団的に体験してしまうという祭がかってあったらしい。でそこに浮遊している霊たち。危険なので、「一定の意味を与え」て行かなければいけない、ということで「護国の鬼」という意味が定着すると。死者の慰めにはならないが。

*1:以上 磯前順一「死霊祭祀のポリティクス――招魂と慰霊」 現代思想p87

*2:「日本国は世界万国の総本国なり」といった文はよくあるが

*3:といっても場所的にこの現世と違う場所にあるのではない、アクセスできないが重なっていて、向こうからはこちらがよく見える

*4:同磯前順一論文 p83