誰が国家にアイデンティティを求めているのか

id:noharra:20041030に二人の方からコメントをいただた、もう一人の方への応答。

(この表現は不正確。10/30に野原が突然引用したのが、お二人との関係の始まり。・・・)

# homoinsipiens 『こんにちは、トラックバック頂いたhomoinsipiensです。

いきなりですが、noharraさんとはちょっと事実認識がずれている気がします。

>前回の人質の親族は、その[「米軍の力を借りた人質救出」路線]を拒否しようと、必死で、しました。それが叩かれた。

今では数多く起こっている人質事件ですが、4月の人質事件はそのハシリだっただけに、米軍による救助という話が出てくるまでに結構な時間が経過した気がします。むしろ、叩きの原因、というか騒動の発端は、人質家族が事件発覚の実に翌日、自衛隊撤退デモに参加したことではなかったでしょうか。とりあえず私の記憶では、米軍による救助はだいぶ後まで現実的なオプションとして提示されることはなく、それほど中心的な論点ではなかったように思います。

あと、いやな指摘ですが、これまでザルカウィ派が捕らえてきた人質は11名、そのうち生還者は4人です。さらに、非イスラム圏出身者の生還者は0人です。軍隊による救出作戦の成功率をパーセンテージではかるなら、必ずしもこれより低いとは言い切れないのではないでしょうか。私自身、パーセンテージの問題ではないとは思いますが、ご参考までに。

>だってそれ悲惨でしょ。

国家を批判する余裕のない人、あるいは国家の庇護なくしては生きていけない人、ステレオタイプに「国家以外にアイデンティティを持ち得ない人」。私も確かに悲惨だと思います。そして批判者を気取る私たちが現体制の下、なんだかんだよろしくヌクヌクやっているのはこの悲惨の上に乗っかってでもあります。このことへの無自覚さがjinjin5さん云うところの「『国家制度とは自分達にとって常に他者である』という[…]傲慢」と繋がっているのではないか、と私は考えます。批判を名乗るなら、その批判は自らにも向けられるべきではないでしょうか。私はある意味で反・(暴走的)自己責任論者としての自分への戒めのつもりでかのエントリを書いたつもりです。』

homoinsipiensさん

レスが遅れました。というか以下もたぶんちゃんとしたレスにならないと思います。

「政府は人質の救出に全力を尽くすべきだ」とする意見をわたしは取りません。前回の人質の場合、救出については[「米軍の力を借りた人質救出」路線]とイラク国内の穏健派などへ働きかける路線、少なくとも二つがありました。人質の家族は国家方針である自衛隊派兵の撤回を訴えたことで世論の反発を呼びました。わたしが強調したいのは、[「米軍の力を借りた人質救出」路線]を拒否してくれと主張する権利を家族は持つはずだという点です。前回家族に拒否の意志はありました。この点について当局と軋轢があったことも確かだと思います。今回面倒なので過去資料は探しませんが。

「政府なんてなくてもいい、あるいはないほうがいいなんて考え方は、彼ら市民運動家たちが実は経済的に恵まれている…からこそじゃないのか。」に対し、私は肯定したのですが、これはいま一度考え直した方が良いようです。

「国家を批判する余裕のない人、あるいは国家の庇護なくしては生きていけない人、ステレオタイプに「国家以外にアイデンティティを持ち得ない人」。」という想定の仕方は不正確です。

人質批判をした人でも(B)2チャンネルなどに自分で人質批判を書き込んだ人、と(C)テレビで大量に垂れ流される人質批判言説が自分の心のどこかに触れたため取り入れた庶民 は区別すべきです。さらに(D)新聞の1面に載るような言説一般に全然興味を示さない人々も存在するはずです。

それに対して(A)「僕の周りの連中の間では今も昔も反・自己責任論の大合唱。」を対照して見ましょう。知的にはA>B>C>Dというような階層差が存在するような気もします。

だとしても「批判者を気取る私たちが現体制の下、なんだかんだよろしくヌクヌクやっているのはこの悲惨の上に乗っかってでもあります。」というのは意味が明確ではない。

 イラクの10万人(?)の死者に対し、日本人として野原はその「悲惨の上に乗っかって」いると指摘されたらそうかもしれない。その悲惨を直視しどう関われるのか考えるべきでしょう。日本国内においても野原は階級的知的に劣位なものの上に乗っかっているかもしれない。だが階級的知的劣位であること即ち、「国家以外にアイデンティティを持ち得ない人」たちではない。

http://d.hatena.ne.jp/homoinsipiens/20041029#1099030289(これを書いとけばトラックバックになるかな)

水俣病への接近

上の文章を書いたきっかけは『下下戦記』を読んだからですが、さらにそのきっかけはスワンさんが下記のような一連の文章にあります。量が多いのできちんと読めていないのですが。あらためて敬意を表します。

ちゃんと読まなくては。

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20041121#p1

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20041020#p2

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20041015#p1

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20041014#p2

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20040613

村野タマノの叫び

67年には、公害対策基本法が制定する。

その翌年、初めて、厚生大臣が水俣を訪問する。

新潟水俣病の発生を背景に、1968年(9月22日)、熊本県天草郡出身の園田直は、厚生大臣として初めて水俣を訪れ患者を見舞った。孤独の中で闘病生活をしていた重症患者・村野タマノは激しいケイレンを起こしながら、「君が代」を唄い、「天皇陛下万歳!」と叫んだ。(パネルより)

なかでも6/13の上記の部分は印象的でした。

1945年から日本は民主主義国家になったと信じている人が多い。(小学校でそう習うから)戦前の日本だって今と同じくらい民主主義だった、ということは必ずしも無茶な意見ではない。いわゆる15年戦争において国内が危機に陥ったのは最後の2年くらいでそれまでは大衆やプチブルは(一定の範囲内で)自由と消費を謳歌していたのだ。今の日本が民主主義なんだというタテマエを皆が疑わないのはその方が楽だからにすぎない。村野氏の行為には何の錯誤もない。*1

*1:いろいろ問題はあるがわたしの文は尻切れトンボで終わる。

壁のごとし

今日はちょっと酔っぱらっていたので、本屋に行って文芸誌なんかかったことないのに、「文学アジア」とかいう特集につられて『新潮』200501月号を買ってしまった。

ダルウィーシュ*1の「壁のごとし」という詩が載っている。ダルウィーシュはパレスチナの詩人なのでこの壁とは、イスラエルが建設している隔離壁(アパルトヘイト・ウォール)のことだろうか。そうであるとしてもそれは喩の彼方に隠され不分明である。

第3連はこんな感じ。天国にすでに入ったのか、すべては白である。

究極の天体のなかで、わたしはなるべきものとなるだろう。

すべてが白い。海は白い雲のうえで白い。

絶対の白い空にあって、白とは無だ。

わたしはいたのだった、いなかったのだった。

白い永遠を抜けてひとり彷徨い

時間前に到着する。

「地上では何をしてたのか?」と、

わたしに尋ねようとする天使はひとりもいなかった。

祝福された魂の賛美歌も、罪人の嘆きも聞かなかった。

わたしは白のなかでひとり、わたしはひとりだ。

パレスチナの現実では行きたいところに行く自由すらないから、死んで自由になるのか

わたしはある日、なりたいものとなるだろう。

わたしはある日、鳥となって、自分の無から存在を引っ掴むだろう。

というわけで、雲を掴むよう以上に難解。イスラム神秘主義の伝統に棹さしているのか。しかも詩としてはかなり長い、17頁。

終始、生と死の狭間の何もない空間を歩みながら、歴史と生の堆積の厚みを感じている。・・・もっと、彼の詩とその解説を読みたいと思った。

*1:この雑誌、四方田犬彦の紹介ではダルウィシュ

からゆきさん

 id:noharra:20050115#p3 で引用した歩いている島田髷の女たちは、からゆきさんとも呼ばれるものたちかな、と思った。

 1972年に『サンダカン八番娼館』 山崎朋子 筑摩書房がベストセラーになってから、一時良く聞いた言葉だが、そう言えば最近全然聞かない。*1

意味は違うのだが、従軍慰安婦という言葉が良く聞かれるようになったのと反比例している。

 下記のサイトがあり、「 異国の日本人墓地の小さな墓石の下で眠るからゆきさんをたずね歩き回ったひとりの男が、弔いの気持ちもこめて開いたのがこの小部屋です。」とあり、丁寧な造りに好感が持てる。

http://www.karayukisan.jp/index.html

からゆきさんの小部屋

 「分布」という世界地図を見ると「このようにほぼ世界中に広がっていった」ことがよく分かる。「からゆきさんの数は、20万とも30万ともいわれています。」「日本人の影すら見当たらない地域にも、すでに100年前にからゆきさんたちは足跡を印したのです。」

http://www.karayukisan.jp/no3/index.html

Q1:いつのことなの?

 江戸時代の末から明治・大正、昭和の初め頃までの話です。

明治以降、日本はがむしゃらに資本主義化していこうとするのですが、はじめ外貨不足に苦しみました。そのときの彼女たちの貢献は決して無視できるほどではなかった。

 また、大正四年、全東南アジアの華僑が、日貨ボイコット運動を始め、日本国家の外貨獲得策は危機に瀕した。この時、日本国家は、暗黙のうちに『からゆきさん』たちの仕事を奨励し、彼女らの稼いだ外貨によってようやく危機を脱出した。

http://tadaokik.hiho.jp/borneo/16.htm ボルネオ紀行

一時期は日本の外貨獲得に貢献したほどだったそうですが、日本の日露戦争での勝利、第1次世界大戦での戦勝国としての地位向上、国力増強と経済進出の過程で「一等国日本の恥」とみなされて取り締まりが行われ、シンガポールをはじめに各地から1920年頃を境に次第に姿を消していきました。

http://www.f.waseda.jp/kanaike/class/gender/gender2004_02_10.htm  2004年度文学とジェンダー後期第十回

 マルチチュードなんて言葉も最近はあるが、定義はなんだっけ? 上品な人たちがなるべく見てみない振りをしているうちに10年、20年経つと社会の最下層に生きる女たちの国籍はすっかり入れ替わっていたりする、というようなこともあるのでは、というようなことに、わたしの問題意識はある。

反・従軍慰安婦言説の根拠には、娼婦は必要悪だとする、娼婦存在に対する絶対的差別意識がある。

*1:山崎朋子、森崎和江、村岡伊平治、は東南アジアのからゆきさんをクローズアップしたが、シベリア出兵から満州事変までの、満州周辺での女性たちの存在も大きい。

「アウシュビッツ」なしで日本はやっていけるのか?

id:clawさんの発言より

・・・過去の侵略戦争と植民地支配について、南京大虐殺について、従軍慰安婦制度について、日本の為政者は「和解のための言葉」を持っていない。別にキレイゴトでなくていいのだ。「いかにして過去の歴史にピリオドを打ち、あとから文句の出ないようにして、今後のショウバイに支障の出ないようにするか」という打算さえあれば十分である。ところが実際には打算も戦略も存在しない、独自の戦略がないから「自分自身の言葉、あるいは少なくともオリジナリティを感じさせる言葉」もない。

・・・なぜそうであったかについて考えるのもよいが、とりあえず一つの参考すべき例として、かつては共にファシズムの枢軸をなしていたドイツ、その政治家の言葉に注目してみよう。重要なことは「過去への反省」うんぬんではなく、「これからの長期戦略を踏まえて、今どうする、そのために何を語るか」ということにある。

http://d.hatena.ne.jp/claw/20050128

▼CLick for Anti War 最新メモ – オトナになる方法

日本は、中国、その他のアジア諸国の民衆に対し「大東亜戦争」において大きな加害を行った。

 謝罪は行われたか。「我が国の侵略行為や植民地支配などが多くの人々に耐え難い苦しみと悲しみをもたらしたこと」について1994年村山首相は、反省とおわびをした。これでは不充分だと思う。わたしたちは「アジアの大義」を掲げて世界大戦を戦った。それなのにゲリラでもないアジア民衆の女性・子どもをレイプしまわっていた。女性国際戦犯法廷で64名の被害証言女性たちなどによって明らかにされたことから判断すると、性奴隷、レイプといった面だけから考えても、日本軍の行為はアジア人蔑視という根本を持っていたといえる。「アジアの大義」を掲げながら、レイプしまわっていたことは、絶対的矛盾である。誇りある者なら深く恥じる、という場所から動くべきではない。

clawさんの意見は、倫理とは別の見地からのものである。罪が罪であることをアジア諸国が忘れてくれる、あるいは無理矢理忘れさせることができるのならそれでも良いかも知れないが、それができないのなら、「いかにして過去の歴史にピリオドを打ち、あとから文句の出ないように」するための「反省のための言葉」をもたなければどうしようもないんじゃないですか、と言っている。 安倍某をはじめとする人々は一見勇ましそうだが、勇ましそうな言葉を吐くことで国内的にだけ自らを慰めているだけだ。恥ずかしいだけなら良いが、国益を損ねているのではないか。

クリスマス休暇

guldeen 『ところで「慰安婦」証言の中の「日本軍の“クリスマス休暇”の時期」ってなんですか?』

えっ。わたしの引用の中には「クリスマス休暇」という言葉はないですよね。下記がソースかな。

http://tmp4.2ch.net/test/read.cgi/asia/1101741339/ 祝★朝鮮人元売春婦の金よこせ請求を棄却

88 :日出づる処の名無し :05/01/17 22:05:34 ID:wm7v9Do8

405 名前: 名無しさん 投稿日: 02/12/27 19:44 ID:UoVjc+9Y

「日本軍のクリスマス休暇には1日数十人の相手をさせられました。

今でもクリスマスが近づくとあの地獄の瞬間瞬間を思い出します。」

「精液をかけられ過ぎて、今でも牛乳やバターを受け付けれません。 」

「食べ物がないって言ったらこの死体の人肉を煮て食え」

「行為を拒否するとヘビでいっぱいの水溜まりに落とされた」

「性病にかかったと言ったら「無菌化する」と言って秘所に焼けた鉄棒をつきさされた」

「女の首をはね大鍋で煮てその煮汁を飲まされた」

「妊娠したら腹を裂かれ胎児を引き出された」

「精液を浴び過ぎて今でもマヨネーズが食べられない」

「ある占領地では74歳の老女まで強姦された。 」

参考HP

アジア女性基金 推奨 http://www.awf.or.jp/06.html

「従軍慰安婦問題」再考

http://www.mediajapan.com/ocsnews/96back/542b/542/542ianhu.html

「9時から6時までは一般の兵士、6時から10時は下士官、10時以降の泊まりは将校と、寝る間

も与えられなかった慰安婦たちは、男の腹の下で食事をした」

戦時中の日本にはクリスマス休暇やぶっかけもののAVがあったらしいです(藁

山田盟子著「女性たちの太平洋戦争」より。なのかな?

慰安婦たちの太平洋戦争―秘められた女たちの戦記:山田 盟子 ISBN:476982078X のことかな。ソース位ちゃんと書けよ。

慰安婦というのはどこの国の人か分からないけど、その人(あるいは通訳)がクリスマス休暇と表現したということでしょう。日本軍にはクリスマス休暇というものはなかったのかもしれませんが。

(2/13 20.58追加)

被害と加害

# index_home 『こんにちは。>そしてヒロヒトにその責を負わせたくなければ「誰が」を特定し糾弾し続けなければならない。<この「誰が」を外に(特に中国・韓国等)に向けている人たちが多いのが昨今の現状なのかもしれないと思います。「多くの日本人が被害者だった」そのとおりです。でも、だからこそ「加害」の事実にあまり目が向かない、向けたくないという現状もあるのだと思います。日本の戦争に関する事実認識や教育などは、そこで歪みが生じているとも言われているようです。』

index_home hikaruさん、はじめまして。

被害者だったという圧倒的実感が忘れさられたので、最近のような平板な排外主義がはやっているのでは? と思いました。被害者だったという親(祖父)の世代は、軍部のせい、とかいってちゃんと恨みを持っているように思っていました。

 id:index_home:20050305#p2でソロモン諸島のことに触れておられましたが、同じ被害者といっても、南の島で苦労した人と内地にいた人も大部違うえしょうね。南の島で本当の地獄を味わったひとの体験は、内地の人に伝えられなかった。責任追求が必要だったとやはり思います。

 加害の事実については、下記も見てください。http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/dai.htm(わたしたちは忘却を達成した)

愛国心

http://d.hatena.ne.jp/pavlusha/20050316#p5 ここなどで、引用されている文部科学省の調査結果。自分の将来に対して肯定的な子供が少ない、とのことだ。うちの子ども(小学校高学年)に聞いても将来に対し驚くほどシニカルである。こんなことではいけない(将来に夢がなければがんばって勉強することもできない)。「テレビを見て、ゲームをして、インターネットで検索して、たまにスポーツする」という彼らの生活は多くの大人と全く同じだ。ゲームなどに費やす時間においては彼らの方が恵まれている。金は大人の方が持っているだろうが、それによって決定的差はつかない。RPGを楽しむ能力は中学生、高校生の方が上だという可能性は充分ある。であれば大人にならなければならない、という動機は持ちようがない。「しかたがないから(勉強を)やってやるか」でしかない。大人しかできないことは、

α・自立した生活を自分で建設すること  β・他者(子どもを含む)と家庭をつくること  γ・連帯し社会を少しづつでも変えていくこと  くらいかな。金を稼ぐことは本来、αの手段でしかない。しかし子どもたちは人生とは消費であると教えられている、テレビで。金を使うことが善でありそれ以外は無である。そうだとするとαは「金を稼ぐこと」になり、βは「絵に描いたような幸せ家族」を作ることになり、実際にやってみると敗北感しか味わえないことになる。

 どうしたらいいんでしょうね~

森隆夫・お茶の水女子大名誉教授(教育行政学)の話 高校生になって自国に誇りを持てないのは、情けないこと。自分自身にも誇りを持っておらず、胸を張って生きていないのではないか。(pavlusha/20050316#p5より)

自国という言葉を、“自分が生きている社会”と捉えれば異論はない。わたしたちはわたしたちの社会の主人のはずなのに、なぜこんなに閉塞感があるのか。

この国の若者だけが「戦争を仕掛けられたら国のために戦うか?」という問いに1割足らずしかYESと答えない現状は、こっけいである。

(略)

結果論で、現代の価値観で、父祖の世代を否定ばかりするようなイデオロギーにふりまわされ、歴史の負の部分にばかり焦点を当てるような偏向教育とはおさらばしたい。

http://www.cty-net.ne.jp/~my5913/aikokushin.htm

“自分が生きている社会に誇りを持てない”若者を産みだしたのは、「偏向教育」だ*1、なんていうのは責任を一部の人に押しつけているだけだ。

 愛国心を涵養するために、日の丸君が代を卒業式などにだけ強制する。愛国心ってなんだ。60年前だらだら戦争を続けた責任は誰にあるのか、それに応えずに戦前と戦後を断続させることによって利益を得たのは誰か。吉田茂などの支配階層ではないのか。

 愛国心がないところで、日の丸君が代を強制しても奴隷根性の涵養に役立つだけでしょうに。

*1:あるいはアサヒ・岩波文化人だ

日の丸君が代百年戦争

クローズアップ現代「国旗国歌・卒業式でなにが起きているか」。 ここにも貼っておけばよかったのだが、昨日夜7:30分からNHKで上記の番組をやるという情報が入ったので、ビデオ取って(冒頭が切れたが)今朝見ました。

 さすがNHK、hatenaでもたくさんの人が見ているようです。

目に付いた物だけちょっと挙げておきます。

(1)

http://d.hatena.ne.jp/Taipei/20050328/p3

そもそもそんな問題出るなら卒業式に日の丸掲げる必要もないし、君が代歌う必要もないんじゃねぇの?

http://d.hatena.ne.jp/ryamu/20050328#p7

確かに大切にする、と言う気持ちはわからんでもないが、監視して

命令して、違反したら処分があって…やりすぎのような。

…そんなギクシャクするような法律、指導方針って、おかしいよね?

日本人は卒業式が好きだ。*1

ある時同じ校門を通って卒業していった仲間。その幻の団結こそ、私たちが遠い昔に失ってしまった原郷(パトリ)であるあろう。その平穏を乱すものは誰か?「日の丸君が代を強制する当局」がそれなのか、それとも「日の丸君が代強制に反対する教師・生徒・市民」がそれなのか?

 「秩序を大切にすべきだ」というのはもっともだと言わざるを得ないのだが、強制される「卒業式の日の丸君が代」は、「既成の国家=秩序」(あるいは戦後的秩序より戦前的秩序)への服従というイメージが強すぎる。アンチ日の君派を育てているようなものではないか。

(2)去年より、当局は後退しているという良い情報。

http://d.hatena.ne.jp/azamiko/20050328#p2

前回の卒業式には都の教育委員会から2名来校し、1名は来賓席、1名は教師の席のうしろから、監視をしていたというが、今回は来賓で来た1名のみだったという。政府見解とは違い、生徒の内心の自由を犯しているということで第二弁護士会からでた声明*(註)を教育委員会も無視できないものになっているようだ。

(註)1999年(平成11年)7月21日の衆議院内閣委員会文教委員会連合審査会においても、国旗・国歌の指導について「何らかの不利益を被るようなことが学校内で行われたり,あるいは児童生徒に心理的な強制力が働くような方法でその後の指導等が行われるということはあってはなら」ず、「学習指導要領は直接、児童生徒に対して拘束力を持つものではない」と確認されている

(3)

http://d.hatena.ne.jp/Arithmatix/20050328#p1

生産現場の人間が、生産現場の上っ面しか知らない得意先の人間につまらないクレームつけられているようなもんだ。現場のプライドや良心踏みにじって教育もクソもあるか。もちろん、発注主はあんただ。でも、客は神じゃない。やっていいことと悪いことはあるんだ。受注愛国心ってのは誇れる自分たちを持って、大人たちや社会や友達や文化を知って、初めて生まれるんじゃないか? 君が代日の丸にビッとしてその中身育てなかったら、そんなん何の意味もない。裸の王様にすぎないぜ。そんな下らないことに心血注いでえらそうな顔してやがるなら、大田区の弱小工場の技術を後世に残せるような政策を考えやがれ。額に汗して、低賃金にあえぎながら、世界の技術の底辺を持ち上げているあの親父たちの生活を楽にしてやれ。彼らこそニホンの誇りだろう? あの職人たちを胸張って誇れるような教育がまずいるんじゃないか?

 愛国心を肯定して論を立てるか、否定して論を立てるかをこの間ずっと議論してきた*2のだが、上の論者は前者。

愛国心とは、“大人たちや社会や友達や文化、そして自分たちへの愛”であるはずだ。そうでない【強制される愛国心】はなんだか変 で嫌! という意見。強く同意したい。

*1:同級生を殺害した犯人も同級生の輪の中に入れるべきだと考えるひとも少なくない。

*2:強制に賛成の人は後半の参加者にはいない

宗教上理由で君が代拒否

宗教上理由で君が代拒否 / 欠席扱い撤回を / 石狩管内の高校生

宗教上の理由で三月の卒業式での国歌(君が代)斉唱を拒否し、式に出席しなかった石狩管内の道立定時制高校の在学生(17)が、学校側が「欠席」扱いにしたのは不当だとして、学校に撤回を求めている。「日の丸」「君が代」実施をめぐり、生徒が学校の対応に抗議するケースは異例。生徒に「式に出席しない権利」は認められるのか。また、生徒が「出席できない」と申し出た場合、学校はどんな対応ができるのか。今回のトラブルは、そんな問いを投げ掛けている。

 抗議しているのは、宗教団体「エホバの証人」を信仰する男子生徒。

 同校は式の数日前、在校生に対しホームルームで、国旗・国歌の掲揚、斉唱を実施する方針と同時に憲法で保障された内心の自由を守るため、「歌う、歌わない権利」「立つ、立たない権利」があり、「それによって不利益を被らない権利」があることを説明した。

 生徒は副担任の教師に信仰を打ち明けた上で「出席できない」と申し出た。「君が代の歌詞が教義で禁じている偶像崇拝に当たる。自分で歌わなくても、聞けば音楽が耳に残ってしまうので、その場にいたくなかった」と訴えている。

 副担任が、国歌斉唱終了後に入場できるよう受付係をするなどの方法での参加を提案したが、生徒は「これを受けてしまうと、来年も再来年も同じ事で、何の問題解決にもならない」と拒否、出席を見送った。

 生徒は「学校が式に出席できない状況をつくつているのに、事務的に欠席扱いと処理されるのは、納得できない」として、「欠席」扱いの撤回と同時に、来年以降の配慮ある対応を求めている。

 これについて、校長は「一人のために国歌斉唱をやめることはできない。欠席した生徒は規則上、『欠席』以外には扱えない」と従来の対応を変える考えがない意向を示し、今後については「生徒と話し合い、学校の考えを理解してもらいたい」としている。

 しかし、副担任は「公立学校はどんな考えの生徒も行事に参加できるよう配慮すべきだ」と反発、同調する教員も多い。生徒は札幌弁護士会に人権救済申し立てを行うことを検討しており、学校は対応にゆれている。              

                    ( 2005年4月10日 北海道新聞 朝刊)

以上新聞からの転載。