上に「天皇や権力中央の一部に対しても絶対秘密だった、と。ある種のクーデターといえるほどのものですね。」と書いたが、これは具体的にはまず第一に、その前年にに死んだ賀屋興宣氏の直系分子に対する秘密、ということになるのだろう。
(朝日新聞2005年06月27日)
そういえば、かなり前になるが、A級戦犯のひとりが遺族会のトップだった時代がある。62年から15年間も会長の職にあった賀屋興宣(かや・おきのり)氏だ。日米開戦時に東条内閣の蔵相だったことからA級戦犯として終身刑を受けたが、10年間の服役後に仮釈放されて政界に復帰。その後は自民党政調会長や法相を務めた大物政治家だ。
そうか、さては遺族会を「正義の戦争」論に導いたのは、賀屋氏だったのか。そう思って氏の回顧録や新聞記事などを調べてみると、大きな見当違いだった。日中戦争を「意味の分からぬ戦争」といい、米国との戦争に至っては、何と無謀なことをと、しきりに断罪しているではないか。
大蔵省の出身の賀屋蔵相は、日米の開戦に抵抗した。結局、東条英機首相らの軍部に押し切られたのだが、しかし「いくら反対したからといっても、戦争責任者として切腹ものだ」などと自分を繰り返し責めている。
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東京裁判はやはり問題だらけだとしているが、違うのはその先だ。外国による裁きでなく「日本人は自主的に戦争責任を判断する必要がある。あれだけの日本の歴史に対する汚辱と、国民の惨害に対して、重大な責任者がないはずがない。私はその一人である」。日本人の手で戦争責任者を問えなかったことは「日本国民として遺憾千万」とも書いているのだ。
遺族会の会長を引き受けたのは償いだったといい、遺族年金の増額などに腕を振るった。靖国神社の国家護持運動を進めるような時代錯誤の面もあったが、叙勲を辞退し続けるなど自責の念を持ち続け、77年に亡くなった。東条氏らが靖国に祀(まつ)られたのは、その翌年だ。賀屋氏がこれを知ったら、果たして何と言っただろう。
http://d.hatena.ne.jp/makuramori/20050704 からコピペさせてもらった。