2006.5.19 野原燐
1.それを見たと人には言えない。 --朝鮮人慰安婦【初めての検査】
「従軍慰安婦」本の定番のひとつ、千田夏光本から、著者が慰安婦の実態が「ぐっと浮かびあがってきた」のを初めて感じたと記している麻生軍医へのインタビュー記事をここに掲載する。
1938年早春、上海で、陸軍慰安婦第一号の検診をしたという証言。
麻生徹男軍医:九大医学部卒産婦人科医師
昭和12年日中戦争開始とともに召集されて、第11軍兵站病院に配属されていた。上海~南京間で負傷し後送されてくる患者将兵の外科的手術をしていた。
ある日、彼は次の命令を受ける
「麻生軍医は近く開設せらるる陸軍娯楽所の為目下、其美路沙涇小学校に待機中の婦女子百余名の身体検査を行うべし。」 発令者は兵站司令部であった。
千田「その時、すぐそれと分かりましたか?」
麻生「いえ、はじめ陸軍娯楽所という文字を見て、演芸か何かをやる場所だと思いました。それが当然でしょう。(6行略)」
千田「すると陸軍娯楽所というのが、表現しにくいけど売春所というか慰安婦の商売するところであることは、まだ知らされていなかった」
麻生「そうです、当時の陸軍は皇軍と称していた。杭州湾上陸の際には相手を威圧する意味もこめ、上陸寸前に“皇軍百万上陸”というアドバルーンをあげたこともあるくらい皇軍意識に燃えていました。その皇軍である日本兵、この戦争を聖戦と考えていた日本兵に、何故こうした種類の女性が必要なのか、しかも、それは文書から判断すると軍自体が管理するように思える。理解に苦しみました」p43
(27行略)
「検査を行うべし」と言われても何の検査か分からない。
麻生「問い合わせてみるとそちらの方の検査だというので、やっと、ははあ、と思った訳です」
千田「検査された日時は記憶されていますか?」
麻生「その点がメモにないのです。記憶の方もうすれてしまいました。もう三十五年も前のことですから。早春というかまだ肌寒い季節だったことは確かです。私はオーバーを着ていましたから。場所は沙涇小学校の医務室だったと思います。検査器材は前日に衛生兵が運び込んでいました。彼女らの方も慣れていまして、万事スムーズに行ったことは覚えています。“検審台にあがって”というとケロリとあがりますし、素人の女性は恥ずかしがってようあがれないものです。それを眺めベテランだなと思ったのです。ただ、申し上げにくいが朝鮮人女性が一割か二割近くか、はっきりした数字は失念しましたがとにかくいまして、その彼女らは慣れていないらしく、この種の検査の経験に当たってもじもじしていたのを記憶しています」
千田「素人の女性だったのですね、朝鮮人女性の方は?」
麻生「言葉を交わした訳でないのではっきりした事は言えませんが、無垢の女性、つまり処女が多数その中にいました。年齢も若い女性が多かったように思います。日本人女性は若いのから中年まで、やや年増が多いようでした。それに方言からすぐ北九州で集められた女性と分かりましたが彼女らの殆ど全部が客商売の経験者であることは、一見して分かりました。それにしても中に鼠蹊部に大きな切開瘢痕を持つ者、つまり重度の花柳病既往症のある者もまじっていたのには驚きました。体も酷使しすぎている女性がいたり、考えさせられました」
千田「失礼ですが、どんなことを考えられたのですか」
麻生「いやしくも皇軍慰問使として派遣させられて来た女性ではないか。ところが私には彼女らが内地を食いつめ戦地へ鞍換えさせられたような者にうつったのです。これでは皇軍将兵にとっても甚だもって迷惑である、そんな風に感じたのです」
千田「もっともそれは日本人女性だけで朝鮮人女性は無垢だった、ということはさておき、検査の結果不合格者はいたのでしょうか?」
麻生「いなかたっと思います。内地を出発する前に一定の検査があったのではないかと思います。それにしてもそれら日本人女性は、慰安婦としての質はよくなかったことだけは深く脳裡に残っています。このために私は後に意見書を書いたりしました。」
2.蔓延する歴史修正主義(2007年)
内容は、下記のとおり。
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20070310#p2
3.吉見義明さんたちの意見 2007年2月23日
上記のような日本政府・与党の動きを憂慮し、私たちは、すでに明らかになっている以下の事実を改めて確認し、日本政府および関係者が適切な行動をとるよう要請する。
① 日本軍「慰安婦」制度に関する旧陸海軍や政府関係資料は、すでに数多く開示されている。これら資料によればこの制度は、旧日本陸海軍が自らの必要のために創設したものであり、慰安所の開設、建物の提供、使用規則・料金などを軍が決定・施行し、運営においても軍が監督・統制した。個々の「慰安婦」について、軍はその状況をよく把握していた。
② 「従軍慰安婦」という言葉が当時なかったという理由で、「慰安婦」の存在自体を否定しようとする議論がなされている。しかし当時の軍の文書においても「慰安婦」「軍慰安所従業婦」「軍慰安所」などの言葉が使われていた。従って、日本軍部隊のために設置された慰安所に拘束された女性を、「従軍慰安婦」あるいは日本軍「慰安婦」という言葉で表すことは、「慰安婦」という用語自体のもつ問題性を別にすれば、何ら問題ではない。
③ 日本軍「慰安婦」とされた女性たちのうち、当時日本の植民地であった朝鮮・台湾の女性たちは、売買され、だまされたりなどして国外へ連れていかれ、慰安所で本人の意思に反して使役された。これは、人身売買や誘拐罪、また当時の刑法でも国外誘拐罪・国外移送罪と呼ばれる犯罪に該当した。その実行は、主として植民地の総督府または軍の選定した業者などが直接行なったが、占領地で慰安所を設置した軍も、人身売買や誘拐などの事実を知っていたと考えられる。
④ 日本軍「慰安婦」とされた女性たちのうち、中国・東南アジア・太平洋地域の女性たち(インドネシアで抑留されたオランダ人女性を含む)は、人身売買だけでなく、地域の有力者から人身御供として提供され、あるいは日本軍や日本軍支配下の官憲によって拉致されて慰安所に入れられるケースもあり、本人の意思に反して強制使役された。慰安所を設置した占領地の軍が、これらの事実を知らなかったとは考えられない。
⑤日本軍「慰安婦」とされた女性たちの中には、相当高い比率で未成年の少女たちがいた。未成年の少女の場合、慰安所での使役は強制でなく本人の自由意志による、と主張することは、当時日本が加盟していた婦人・児童の売買禁止に関する国際諸条約に照らしても、困難である。
⑥ 戦前の日本にあった公娼制度が、人身売買と自由拘束を内容とする性奴隷制であったことは、研究上広く認識されている。公娼とされた女性たちに居住の自由はなかった。廃業の自由と外出の自由は法令上認められていたが、その事実は当人に知らされず、また行使しようとしても妨害を受けた。裁判を起すことができた場合も、前借金を返さなければならないという判決を受けて廃業できず、その苦界から脱出することができなかった。
⑦ 日本軍「慰安婦」制度は、居住の自由はもちろん、廃業の自由や外出の自由すら女性たちに認めておらず、慰安所での使役を拒否する自由をまったく認めていなかった。故郷から遠く離れた占領地に連れて行かれたケースでは、交通路はすべて軍が管理しており、逃亡することは不可能だった。公娼制度を事実上の性奴隷制度とすれば、日本軍「慰安婦」制度は、より徹底した、露骨な性奴隷制度であった。
⑧ 被害女性たちへの「強制」の問題を、官憲による暴力的「拉致」のみに限定し、強制はなかったという主張もみられるが、これは人身売買や「だまし」による国外誘拐罪、国外移送罪など刑法上の犯罪を不問に付し、業者の行為や女性たちの移送が軍あるいは警察の統制下にあったという事実を見ようとしない、視野狭窄の議論である。なお、慰安所でのいたましい生活の中で、自殺に追い込まれたり、心中を強要されたり、病気に罹患したり、戦火に巻き込まれるなどして死亡した女性たちが少なくなかったことも指摘しておきたい。
⑨⑩省略
私たちは、上記の事項が正しく認識され、日本軍「慰安婦」問題が根本的に解決されることを強く願うものである。
2007年2月23日
日本の戦争責任資料センター
荒井信一(茨城大学名誉教授)吉見義明(中央大学教授)藍谷邦雄(弁護士)川田文子(文筆家)上杉 聰(関西大学講師)吉田 裕 (一橋大学教授)林 博史(関東学院大学教授)
http://space.geocities.jp/japanwarres/center/hodo/hodo37.htm 慰安婦問題声明20070223
4.ただのセクハラとしての慰安婦
三年半ほど前、慰安婦について私が多少知っているという話を伝え聞いて、新左翼系女子学生がたずねて来た。C大学に在籍し、C派閥に属すると語っていたが、
「新左翼系の男子学生幹部は“カアちゃん”と呼ぶ女子学生を持っている。これを持たないと派閥の中で大きな顔ができないのです。そのカアちゃんは言ってみれば慰安婦なのです。中には三回も四回も妊娠中絶させられた者もいます。それでいて男子幹部は彼女らがそれに甘んじるのが革命的行為であり、カアちゃんたちもそれを信じているのです。間違っているとは思いませんか」
まるで私がその男子学生であるかのように迫ってくるのであった。彼女が言いたいのは“慰安婦”は死語ではなく新左翼の中に生きているというのであった。彼女は派閥の全学連大会でそれを告発の意味をこめて熱っぽく訴え、私に応援してくれと言うのであった。
ここで私は考えた。もし彼女の言うとおりなら、かって自分もそのカアちゃんの一人だったとまで告白する彼女の言葉に間違いがないのなら、旧軍と新左翼に共通するものがあるのだろうか。彼女によるとカアちゃんたちは連日のように慰安をもとめられていたと言い、七〇年安保の激しいデモ戦の前後にはそれもまた激しかった、と具体的な状態を口にしつつ語るのだったが、それは体験者が語る戦場の兵隊と慰安婦のそれとあまりにも似ていた。だが、さらに耳を傾けていくと、カアちゃんの慰安するのは特定多数、もしくは多数ではなく、相手は個人に限られているところが違っていた。
これは慰安婦ではないのではないか。警察用語でいう情婦ではないか。これに対して彼女は言うのだった。
「精神において同じです。男の女に対する蔑視、差別、これが女を単なる慰安の対象にして来たのです。軍隊の慰安婦もまたそれから生まれたのです」
或る意味でこれは当たっているが、慰安婦の発生はすでに読まれたように単に戦力の問題と治安の問題から出発していた。過程において発想において彼女の言う思考があったが、軍は蔑視や差別以前の問題として、戦力低下を考え、治安の問題を考えていたのである。差別蔑視があったとしたらそれはそこから出て来たものであった。いや、そんなことは爪のあかほどにも考えていなかったと言っていい。彼らにとってそんなもの*1は当然の常識であったからである。
悲劇はその当然の常識だけではなかった。蔑視差別はまだ相手を人間と見ているからであったが、軍の考えは、彼らを単なる道具と考えていたのであった。初めての慰安婦を輸送船に乗せるとき軍需物資としたと書いた、が、その時それは一種の便宜であった。しかし、このとっさの思いつきに軍人の彼女らに対する思考の姿勢がはっきりと出ている。酒を飲んだとき、思わず本音を口走る人間のあれと似ている。
したがって彼女の言うカアちゃんと慰安婦と似ているようだが、慰安婦はもっと悲惨であったと思えるのであった。
千田夏光『従軍慰安婦』 講談社文庫p262-264
http://d.hatena.ne.jp/noharra/20070325 彎曲していく日常
5. 1枚の写真 拉孟の慰安婦たち
http://f.hatena.ne.jp/noharra/20070414141047
上に掲げたのは、拉孟近郊の松山陣地で中国第8軍の兵士によって捕虜にされた4人の女性、の写真。有名な写真である。