ストライサンド効果:インターネットでは、理由なく情報が消されると余計広がること。(バーブラ・ストライサンドが痛い目を見たことに由来)
17 minutes ago
ストレイサンドかと思ってた。
ストライサンド効果:インターネットでは、理由なく情報が消されると余計広がること。(バーブラ・ストライサンドが痛い目を見たことに由来)
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ストレイサンドかと思ってた。
×3月15日付けと3月19日付けの私の該当コメント
○3月15日付けと3月19日付けの各エントリ中の私の該当コメント
なお、3月18・21・24・25日付けエントリにコメントしておりますので、お返事ください。
ノーモア氏によると、コメントに答えないと、逃げたと思われるので嫌だそうですよ。』(2007/03/28 07:28)
* noharra 『中道右派さんへ
ちょっといま、別のことで考えなければいけないことがあるので
応答は遅れます。
--あなたの「証拠を出せ」ゲームに乗るつもりはありません。
--あなたの「証拠を出せ」ゲームを仮に前提とした場合、ミッチナ報告の読みの点であなたは矛盾を犯している。
これを認めてください。』(2007/03/28 07:50)
* ノーモア 『野原氏のブログなので彼が認めるのであれば私に何も言う権利はありませんが、これほどの長い、しかも永井論文を単にまとめただけのものを貼り付けるなんて常軌を逸していると思いませんか?
御自分でブログを作って検証してトラックバックをすればいいんじゃないですか?しかもコメント欄で分割すれば読みにくさは倍増します。しかもはてなのコメント欄には容量に限界があります。少しはお考えになってはいかがでしょうか?
>3月15日付けと3月19日付けの私の該当コメントを、『永井和論文の批判的検討』などといったタイトルで独立のエントリにしていただけると、うれしいです。
厚かましいにもほどがありますな。
それからはてなの容量のことも調べずに「逃げた逃げた」と中傷したことについて言及は一切無しですか?とことん礼儀知らずの人ですね。』(2007/03/28 09:28)
大晦日、紅白かボブサップか暇人でもTVでも見てくつろいでいるというのに、わたしは(一応掃除とかもした後)孤独に面白くもないヘーゲルを読もうとしているのでした。でも紅白とか覗いてみたがヘーゲルより面白くないとはどういうことだ! p262ギリシローマ時代、徳性は民族共同体にしっかり根を下ろしていた。
近代の徳性は、共同体をぬけだした本質なき徳性であって、実質的内容を欠く、観念とことばの上での徳性にすぎないのである。世間とたたかう徳のおしゃべりの空虚さは、その意味するところがはっきりすればすぐにも暴露されてしまうので、徳のいい草にはなんの新鮮味もないのだ。で、わかりきったことをいわなければならないとなると、あらたなものいいを工夫して熱弁をふるうか、心に訴えかけて、いいたいことを内心でつぶやいてもらうしかない。(略)そうしたいい草の山や、もったいぶった口調には、だれも興味をいだかなくなっている。退屈なだけの話が興味をかきたてないのは当然のことである。*1
で急に話は二百年後の現在に飛ぶわけですが、今年、時代の変化を観察できたのはやはり、総選挙の社民党と共産党の退潮でしょう。わたしは今憲法九条の削除に反対です。イラク派兵にも反対、つまり民社党よりも「社民と共産」に近い(といえる)。ただ、「護憲」「憲法9条」とかが絶対の正義であるかのように声高に言う人に対してはわたしも異和感を持ちます。建前としての絶対平和主義は、本音としての米軍(安保条約)と自衛隊という現実、と表裏一体のものとして戦後五十年間日本の言説空間でメジャーだった。正義派のひとはそういう風には現実を見ない。自分たちは常に正義であるが、残念なことに悪であるところの世間が正義を押しつぶそうとする。私たちは苦しいがそれでもたたかい続けるという志は失わない。シニカルに言ってしまえば彼らにとって一番大事なものはナルシズムなのだ。で、上記のヘーゲルは、わたしには(わたしだけかもしれないが)そういった正義派の人への揶揄としてそのまま受け取れるのです。
各個人が自分の為に行為しているとしてもその行為の総和は、善を現実にもたらすことになる(はずだ)、とヘーゲルは思っている。ブルジョアの自由が歴史を前進させた時代もずっと昔にはあったのね。ということなのか。「なりゆきまかせの個人は自分だけのために利己的に行動していると思いこんでいるかもしれないが、実は思いこみの上を行く存在であって、その行為は同時に潜在的な善を実現する共同の行為でもある。」
*1:p262『精神現象学』作品社 ページ数よりもどの部分かの方が大事ですね。「5理性」は、金子氏によれば「観察/行為/社会」と分かれる。「B行為」は「快楽/心胸/徳」と分かれる。引用は「c.徳」の終わりの方からです。
久しぶりにホームページを更新しようとしたら、ftpから入れない。焦った! インフォシークのページに行くと、2月20日(金)16:00~2月26日(木)14:00 FTPによるファイルの更新などができない、と書いてある。その後は使えるのだろうか。不安だがこのまま行こう。ちなみに自分のためにメモしておくが「iswebIDは、旧トライポッドIDに“-lj”を足したものになります。」
載せたかったのは松下昇の「私の自主講座運動」の前半。とりあえずここに貼っておこう。
私の自主講座運動
(松下昇氏の表現)
詩というものが無数の表現方法をとるように、闘争にも無数の方法があると思いますから、私も自分の軌跡について、ひとまず報告しておきたいと思います。ここへやってきたのは、さきほど菅谷君もいったように、たんに報告するとか、講演をするためではありません。菅谷君はもともと、神戸大学で一諸にドイツ語を教えていた仲間です。数年前から我々をとりまく情況をなんとかして突破しなければならないと考え、そのために、我々は様々な目にみえない闘争をすでに開始していたのです。いま、場所的に離れてはいるけれども、私のやっている自主講座運動と菅谷君のやっている解放学校とがいわば〈 〉のように情況を包囲する形で現実化しようとしています。そういう特にあたって、私自身も六十年代に自分がやってきた事を総括する意味をこめて、今日、ここへやってきたわけです。
私(たち)の運動の特徴を六つの項目にまとめてみました。
一番目は、二月二日に私が出した「情況ヘの発言」に示されていますけれども、大学闘争における表現の階級性粉砕を主要な根拠にしています。例えば、権力を持っている者の表現と持たない者との表現とは、文字として、あるいは声として同じであっても、それが現実に持つ意味については全く違ってきます。そして闘争の契機自体よりも、闘争過程において各人が表現にたいして持っている責任を追究する形で、闘争が持続しているわけです。
具体的には、この問題について全ての人が私に対してこたえるまで、大学の秩序に役立つ労働を放棄するという形で授業や試験やその他一切の旧秩序推持の労働を拒否しているわけですけれども、同時に、単純な拒否でなく、自分の出来る範囲で攻撃的に粉砕してゆこうと考えました。大学によってそれぞれ条件は違うと思うけれども、我々の場合には、自主講座運勤がいわゆる全共闘運動を包囲している形で展開されており、また単に闘争者がやっている運動というよりは、この運動にかかわる人間がたとえ我々が敵対する場合でも、自主講座運動に無意識的にも参加しているのだという確認を前提としています。たとえば、我々の自主講座に大学当局や民青や、さらには機動隊がやってくる場合も、彼らを平等な参加者とみなして運動を続行してきました。
二番目は、創造(想像)的なバリケードです。全国的に目に見えるバリケードが撤去されている段階において、本当のパリケードの意味
はこれから追求され始めるであろうと思います。そのための条件として
、目に見えるパリケードの中に何を、いかに形成してきたかということがあります。神戸大学の場合でいうと、大学措置法成立後、もっとも早くバリケードが解除されましたけれども、バリケード形成以前から一貫して自主講座運動を続けていたために、解除されたということがそれ程打撃にならなかったのです。そればかりか、最後までバリケードで徹底的に活動したのは自主講座運動であったし、またその後の授業再開、試験強行にたいしてもっとも戦闘的に反撃したのは、我々の運動でした。
我々が活動する空間がそのままバリケードになってしまう。例えば、この教室を授業で使うとしますと、ここを占拠して、自分達の問題提起をおこなう。別にロッカーとか、机で封鎖しなくても、我々の存在がそのままバリケードに転化していく。しかも、移動可能なわけですから、いたるところに出没して、ゲリラ的にバリケードを運動させていくわけです。これは不可視の領域へまで拡大していくべきだと思います。
三番目は、我々の自主講座運動のテーマはどういうものか、ということです。これは明確に定義をするのは不可能だと思うのです。むしろ不可能である様な運動を目ざしているのです。まず、明確な規定として、これこれに近づこうという風な運動論はもはや破産したと思います。我々が創り出しうる最も深い情況に我々自身が存在すること、そのことによって引き寄せられて来る一切のテーマが自主講座運動のテーマであるし、その時やって来る全ての人間が自主講座運動の参加者になるわけです。だから、毎日、過渡的なテーマはかかげておくけれども、そのテーマどおりに進行するかどうかは分らないわけです。テーマをかかげることによって、そのまわりに変化が起こります。そして様々な力関係でこの部屋ならこの部屋に問題が殺到してきます。反論や撤去命令や機動隊導入など。その様な変化がそれ自身、持続的体系的な自主講座のテーマに合流するのです。そこにはじめて、学ぶことの怖しさが何重にも予感されてきます。いまのところ初期にくらぺて、目に見える意識的な参加者はおそらくここにおられる人数よりも少ない場合が多いと思います。しかし、目に見える参加者が多いとか少ないとかいうことをそれ程、気にしないで良いと思うのです。少な
くとも二人いれば、永続出来ると言う確信がありますから。
(続く)
(1969年12月都立大解放学校での問題提起 「ラディクス」2号から転載)
(松下昇表現集 1971.1.1 あんかるわ別号≪深夜≫版2 p23~より)
わたしたちが<違法性への越境>という問題意識を持たざるを得ないのは、例えば、難民たちとの連帯を考える場合だ。ただ存在のために(生き延びるために)、一つの線を越えてしまうものたちが難民と呼ばれる。その線は国境であり同時に法である。
下記のRENKのサイトに次のような声明が掲載されました。
ハンストなどでギリギリの意志表示している北朝鮮難民に連帯を!
http://www.bekkoame.ne.jp/ro/renk/renkseimei.htm
「中国当局に拘束された北朝鮮難民が抗議のハンスト
強制送還の中止、即時釈放を連呼」
ジャーナリスト常岡浩介の日記から貼ります。同感したので。
http://www2.diary.ne.jp/user/61383/
ところで、危ないと分かっていてアブグレイブへいった2人の行動が不可解だというメディア関係者さまへ。
では、疑問を感じているみなさまご自身はなぜファルージャにもアブグレイブにもいってないのでしょう?危ないから?危ないことは取材しなくていい理由になりますか?
今のファルージャがメディアにとって取材、報道すべき重要なテーマだという前提に同意していたただけますか?
ファルージャが今や、ただの田舎町でなく、米国にとっても日本にとっても、未来を決する重要な局面であること、ファルージャがまさに世界の中心になったことを、よもやメディア人が理解されていないわけはありますまい。
ベトナムでも、そのほかの戦場でも、報道の必要があると判断した場合に、危険を承知の上で現場へ向かってきたことを、メディアはよく自画自賛してきたように思うのですが…
(上項の続き)
今では信じられないことだろうが、1969年当時は「革命」という発想が一般的だった。自己の意思=党の意思=(革命後の)国家意思。ということが目指されたのだとすると、なにより自己を整序することが第一の課題だったであろう。松下の発想は正反対である。いまあるわたしというものが自分には測りしれない力(磁場のようなもの)によって彎曲させられるという事態。自身によってはうまく意識化できないそのような関係(自己の彎曲)から松下は出発する。野原がよくわからないままにこのダイアリーの惹き句にしている「ある圧倒的な力に」云々を見よ。“わたしたちはいつも自己が認識した限りでの世界にしか生きていない。したがって、私が自己や世界の彎曲を認識することはありえない。”この命題に反論するのは難しい。しかし「わたしたちはある体制の中に生きているのだからそれを否定することはできない。」という文章に変換すればこの間違いは分かる。わたしたちは革命後の世界に生きている。革命がなければわたしたちはまだ身分制社会に生きているはずだ。ここで革命とはブルジョア革命やプロレタリア革命ではない。体制の転覆という意味では明治維新も革命である。「今の政府の顕官も十年以前西郷と共に日本国の政府たる旧幕府を転覆したる者なれば*1」と言われるとおりである。ある感覚的に分節不可能な不快感が「問題提起の正しさが彎曲していくのではないかという一瞬おとずれる感覚」を告げることはありうる。それはいつでも即座に忘れ去られていくが、そうしないようにすればそこに、底無しの異貌の問いがあるようだ。
<情況にとって最も必然的なスローガンと同時に、自分にとって最も必然的なスローガンを作り出す>ということは不可能なことであるように思える。しかし本当にそうだろうか。今回のイラク誘拐事件において、最初、多くの人々が彼らの身を(わがことのように)案じた。それは不自然なことだったかもしれないが、人間とは意外にもそうしたものなのだ。ただその<一瞬の共感>を論理化しようとすると色々やっかいな問題が起こってくる。<情況にとって最も必然的なスローガンと同時に、自分にとって最も必然的なスローガンを作り出す>ということは考えようによっては、最も適切で容易な目標であるとも思える。
*1:福沢諭吉「丁丑公論」1877、1901発表
今日の引用。
「――君は僕の気を悪くしようと思っているのか。そう言えば君の顔は僕が毎晩夢のなかで大声をあげて追払うえびす三郎に似ている。そういう俗悪な精神になるのは止し給(たま)え。(「海 断片」梶井基次郎) http://www.aozora.gr.jp/cards/000074/files/2384_13826.html
源平盛衰記に、成経、康頼、俊寛の鬼界が嶋に流されてある事をいえる段に、かの嶋に「ラン」岳という山有りて、その山に、夷(えびす)三郎殿と申す神を、いはひまつりて、岩殿と名づくといへり、神祇官年中行事にも、戎三郎殿とあり、この神のこと、いといふかし、神に殿と申すも、めずらしき称なり。*1
小さな島の小さな岩殿。そこが夷三郎殿と名付けられたこと(の無意味に近い意味)に注目した宣長はやはりすぐれた感受性をもっていた、といえるだろう。(えらそうに言うな) 菅田正昭氏の古神道論の先駆者として、みたいな意味で。(菅田氏のurlはここ http://www.yoyo.ecnet.jp/SUGATA/index.html)
(前半はまったく関係ない。でも印象的な断片でしょう?)
*1:「玉勝間」日本思想体系40 p151
三木健編著『西表炭坑写真集』(新装版)*1という本を買った。イリオモテと言えば、西表山猫、日本の南東の端にある秘境(沖縄県八重山群島の最大の島)。珊瑚礁で戯れるきれいな魚たちを身近に体験できる場所としても知られています。ですがそうしたイメージから遠い事実もあります。この島には1885年から60年以上の間、炭坑がありました。
石炭が発見されたのは、1872年大浜加那氏によってである。だが、「発見」とは何か?島人は石炭の存在をしらなかったのかというとそうではない。燃える黒い石のことはずっと昔から村人には知られていた。ところで八重山群島は1500年のオヤケアカハチの乱、の平定後首里王国に従属していた。琉球王国も1609年以降薩摩藩に従属していた。即ち、西表<沖縄<薩摩藩<幕府という従属関係があり、その関係は年号が明治に変わってもすぐには変わらなかった。(いうまでもないが、近代化とは中間的な藩などを飛ばして人民が国家に直接従属することだ。)話がそれたが、燃える石のことは村人の間の秘密だったのかというとそうではない。琉球王府も知っていた。1953年以降5回、琉球寄港を繰り返したペルリの艦隊は専門家による地質調査も実施した。彼らは石炭に強い関心を持っていた。一方琉球王府はそれを警戒した。「1854(安政元)年、八重山の在藩(王府の出先機関)や地元の頭職に対し、「石炭のあるところは樹木を植付けて隠すよう」指示している。また石炭の有無やその始末方についても報告するよう指示している。」*2それで結局、ペルリ艦隊のR・G・ジョーンズが石炭を発見したのか否かについては両説有り確定できないようだ。明治になり次の事件が起こる。
ところが、この国禁*3を破る事件が起きた。石垣島の平民、大浜加那は一八七二(明治五)年、鹿児島の汽船・開運丸の支配人であった林太助に石炭の調査を頼まれ、西表石炭の存在を教えたのである。薩摩藩では林太助の通報に驚き、ただちに伊知地小十郎を派遣してこれの確認にあたらせた。さらに驚いたのは琉球王府のほうであった。王府はこれはきっと御規模帳を改め、税制改革をするための調査に違いないと早合点し、西表の村々には畳を裏返させ、士族の婦女子の下裳(かかん)を袴に着替えさせ、いかにも貧村であるかに装わしめたという。
しかし、伊知地の派遣は実際のところ石炭の調査が目的であった。幕末の開明的な藩主として知られる薩摩藩の島津斉彬は、西洋の文物を積極的にとり入れ、藩内の工業化を図っていたが、蒸汽船や機械力の原動力となる石炭を領内に確保すべく、その探索を命じていた。そうした藩内の事情がかつての属領・琉球の石炭への関心となったのである。
大浜加那の通報は、こうして琉球外へ石炭の存在を知らせる契機となった。加那は王府の禁令を破った罪により、波照間島に十年の流罪となった。特に明治六年八月、これが後に「石炭加那事件」と呼ばれる事件である。十年の流罪となった大浜加那は、従容自若として刑に服したが、配所の月を眺めること六年にして、明治十二年の廃藩置県の特赦により、帰郷を命じられた。
大正、昭和の二度にわたり、石炭加那の記念碑建立の話があったが、実現には至らなかった。*4
開明派島津斉彬のお先走りとして(ともえいるのか)、明治時代の用語で言えば「黒いダイヤ」たる石炭を発見した大浜加那の名誉は顕彰されるべきである。しかしながら大浜加那に限っては記念碑建立は二度に渉って実現できなかった。近代化=善という立場に立てば、考えられないことである。筑豊など北九州の炭坑が膨大な悲惨を孕みつつも九州だけでなく日本全体の近代化の原動力になったと公認されているのに対し、西表でのそれは六〇年続いたわりには、ある臨界を越えることなく、わたしたちに全く知られていない。この臨界を資本論用語で「本源的蓄積」と呼んでみたい。「「継続的本源的蓄積」は直接的な暴力や限度を超えた搾取にもとづいており、その蓄積の主要な源泉は、自然、女性、植民地である。」*5
三井の採掘は、当初、県内の囚人をもって始められた。明治政府は、一八八二(明治十五)年、太政大臣の布達によって、沖縄県に限り徒刑流刑者を八重山へ送るようになっていたが、明治政府はその囚人を石炭採堀のために使役することを考えたのである。明治政府の重鎮である内務大臣・山県有朋は、一八八六(明治十九)年に九州から奄美、沖掩、官古、八重山と各地を巡視しているが、このときわざわざ西表島まで足をのばし、三井の西表炭坑を視察している。このときの視察は三井物産会社の社長・益田孝の案内によるものであった。沖縄巡視から帰任した山県有朋は、復命書を明治政府に出しているが、そのなかで八重山に集治監を設け、囚人を西表石炭の採堀に当たらせるよう建言している。
八重山(西表)への資本主義の導入が囚人労働によって為されたということは重要である。大物山県のバックアップを受けてつまり国家的事業として開始された三井の採炭業は1889年突然中止される。最大の理由はマラリアの猖獗によるとされる。先進資本三井が引き上げた後も、採炭業は中小の業者によって少しづつ遂行される。(マラリア対策をしたら利潤が得られない事業もしなければ得られるということだろうか。)
戦後、米軍直営事業が三年で中止され、結局1960年ごろ民間の採炭事業も採算がとれず、最後の火を消す。近代の西表において最大の産業だっただろうにもかかわらず、採炭業は地域住民から強い支持を受けることもなく思い出からも消えて行こうとしている。西表は現在観光業においてすら近代化されていない。それが魅力だという人も多い。私もそう思う。*6「近代とは何か?」という問いは、西表にとっても私にとっても開かれたままだ。