日本的精神とレイプ

10/13の犬伏氏の言う「日本国及び国民の誇り」というものは、明治三〇年頃井上が確立しようとした「日本的精神」の出涸らしの出涸らしではないか。

幾多の日本人がレイプしたという事実はあった。しかしながらそれが「日本的精神」に関わるものであれば、日本的精神とは唯一の普遍であるのだから、それがレイプすることはありえない。日本的精神が支配する言説空間においては、事実が事実として認められることがない。

イラク人ライードさんより香田証生さん拘束事件に関連して、

次のような公開書簡が翻訳されているので、こちらにもコピペして掲げさせてもらう。

自衛隊のイラクでの存在に対し、復興支援などという名目を信じて(信じようとして)いる人もいるが、今頃給水車をまわすことに意味などない。意味は、「ブッシュ政権に,イラクに対する彼らの戦争を正当化するための「国際的」という隠れ蓑を与え」るという点にしかない。

http://raedinthejapaneselang.blogspot.com/ Raed in the Japanese Language; originally Raed in the Middle(日本語)

日本の方々への公開書簡(4月に引き続き)

今イラクで起きていることをいかに僕が悲しく思っているかを,みなさんにお伝えしたいと思います。そして,一般のイラク人には,事態に無関係な若い日本人人質の香田さんを見つけるために,あるいは彼を解放するためにできることは,何もないのだということをお知らせしたく思います。

どうかわかってください,一般にイラク人は日本には敬意を抱いています。第2次世界大戦後に国を再建した日本の方々を尊敬しています。あの残虐で非人間的な一般市民に対する核攻撃は,人間の歴史始まって以来,最悪の大量殺人のひとつです。イラク人は日本の文化的体験を信じているし,日本のみなさんがなさってきたこと,今なさっていることから学ぼうとしています。

どうか知っておいてください。僕はこれまで,日本の人々に対して憎悪や敵対心を抱いているイラク人には,まったく会ったことがありません。これらの誘拐事件は,イラク人の多数が抱いている日本の方々への感情を表しているものではありません。僕たちのほとんどは,これらの事件が起こらなかったらよかったのにと願っています。

僕たちの文化の関係が,このような暴力的な事件で始まらなければよかったのにと願っています。

しかし残念ながら,今回の誘拐は,前回の日本人誘拐とは異なっています。イラクがこの6ヶ月の間にいかにややこしく混沌とした状況になってしまったか,それを僕は知っています。

どうかみなさんの政府に,イラクから日本の軍隊(military Forces)を撤退させるよう,もっと圧力をかけてください。事態の解決は,ブッシュ政権(あるいはケリー政権)とイラク人に任せてください。これは彼らの為すべきことなのです。ブッシュ政権に,イラクに対する彼らの戦争を正当化するための「国際的」という隠れ蓑を与えないでください。イラクにあなたがたの国の武装集団(your military groups)がいることは,ただ単に,政治的なものなのです。米国政権の誤った対外政策を支持するためだけなのです。人種差別的な「アメリカ帝国のための戦争」を支持することは,あなたがた平和的な国民のしたいことではないでしょう。

どうかお願いです,あなたがたの息子さんや娘さんを,イラクで戦死させないでください。お願いです,あなたがたの一般民間人の息子さんや娘さんがイラクで殺されるようにしないでください。あなたがたの政府にこの新種の大量殺人に参加させ,あなたがたと僕たちの間に暴力と憎悪の恐ろしい歴史を始めないでください。新たな広島・長崎を作るのを,手助けしないでください。

http://raedinthemiddle.blogspot.com/

「切断」と「ジレンマ」

 キーワードは「切断」と「ジレンマ」ですかね。まず、「ジレンマ」について再掲すると、下記の通り。

(5-2)

一方で自分だけが快適な利便性を享受し、チッソの製品である携帯のディスプレイやPCの液晶をみながら、国はひどいよね、とかチッソはひどいよねといって被害者の苦悩に思いをはせる私自身の批判次元のジレンマは、戦争当事者たちの子孫が戦争責任を語る場合とでは水平的な軸であるか歴史という垂直の軸であるかの違いであるだけで、じつは同一の地平にあるのではないだろうか。(スワン)http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20041020#p2

(5-3)

関係性が見えにくいだけで、私たちはあたかも切断されているかのように認知する傾向があるように思う。私たちは、現在における空間的、水平的なレベルでの関係性をどこかで切断してしまっている。私たちには関係ないよ、と*1。(同上)

つまり、「水俣病」「戦争責任」「イラク戦争」どれをとっても、それらは問題として額縁に入れられ、あるいは動画としてブラウン管の向こうに、わたしたちと切り離された対象として、(わたしたちを脅かさないものとして)存在するわけではない。とスワンさんは主張する。この点について(も)わたしは強く共感します。

この中で一番分かりやすいのは、今現に米軍の銃砲によって人々が死んでいっている、イラクであるはずです。イラクについては下に書きます。

香田証生さんの死は確かに痛ましい。だけどイラク問題の本質はそこにはないのではないか、とわたしは思うのです。だからといって、香田証生さんの問題が大事ないというわけはない。また次に考えます。

日本のユダヤ人問題

 日本のユダヤ人問題といえば、朝鮮人問題ということになる。1910年以来民族の独立を奪い民衆を抑圧したという事実の存在は、同時期におけるアウシュビッツにいたるユダヤ人抑圧~虐殺の事実とパラレルである。(第三世界人、つまり予め植民地化されるべき民、であったのかもしれない韓国朝鮮人とユダヤ人は違うが)現在の問題は次の点にある。

「イスラエル政府の残虐性はいうまでもなく甚だしい。」

「北朝鮮政府の残虐性はいうまでもなく甚だしい。」

後者は自国民に対する抑圧であるために他国からは直接観察~批判しにくいという差異はある。

だが1945年以前における被抑圧者が(あるいはおそらく)抑圧者に転じたとき、1945年以前における抑圧者はそれを指弾するのを躊躇するという<良心>において、残虐な抑圧が継続し続けるという構造が存在する。そのことにおいて北朝鮮問題とパレスチナ問題の構造は一致する。

 第一野原燐からして、このブログでは、より語りやすいパレスチナ(~イラク)問題よりも北朝鮮問題にできるだけ触れたいと思いながらも果たせていない。

http://www.asiavoice.net/nkorea/ 朝鮮民主主義研究センターなどを見て、リンクして行きたい。

http://f33b7ad9e960c670ac32f8fe131228ce.blogtribe.org/entry-e42b097d64af69210d0788be91337f58.html に「 北朝鮮難民基金の野口孝行さん・加藤博さんの講演録」があります。

 生きているかどうか分からないめぐみさんなるものに大騒ぎするわりには、半年以上中国に拘留されながら野口さんに対しては何故国民的救出運動が盛り上がらなかったのか。右翼の立場からすると、難民救済する日本人は日本人ではないのか。であればおそらく北朝鮮の国益のために生きている(生きざるをえない)横田めぐみ救出を叫ぶのは矛盾していないか。

 ところで(生きて帰ってきた)野口氏は上記で自己の活動の原点を確認する。「ある特定の国籍もしくは宗教・集団に属しているという事から迫害を受け、受ける可能性があり、国を離れた場合、その人達は難民である」。中国も批准している国連の難民条約である。脱北者は難民であるから保護を受ける権利がある。ところが中国当局は難民である彼らを北朝鮮に送還している。わたしたちは野口氏と共にこの点を中国当局に強く訴えていかなければならない。

 しかしながらよく考えると(野口氏は長期に渡り拘留されていたから考える時間はたっぷりあった)、日本人は偉そうに言えないのではないか?

そういう風にしながらですね、いざその自分の日本の国というものを見てみますと、先日ですね、私はちょっと日本の状況を調べていたんですが、2001年の1年間で日本が難民認定を与えたケースというのはですね、たったの26ケースなんです。そして更に2002年、これは14人なんです。そして去年はですね、336人申請したうちのたったの10人しか難民の認定を与えていないんですね。これは毎年減って来ている訳です。そして先進国と言われる国を見ると、毎年数万人単位で難民認定を与えています。一番少ないイタリアでも2002年、2100人という人達に認定を与えてますね。そうするとですね、日本の団体である私達、私が中国に対して「あなた達、北朝鮮の難民を難民認定して保護しなさい」と言っているのはですね、とても空しい風に感じる訳ですね。で、よくよく突き詰めると、これは矢張り日本人のですね、我々一人一人の人権意識というものが非常に低いと言わざるを得ないと思うんですね。

http://f33b7ad9e960c670ac32f8fe131228ce.blogtribe.org/entry-e42b097d64af69210d0788be91337f58.html 

北朝鮮問題とパレスチナ問題の構造の一致、というより差異の問題になった。(北朝鮮に対する報道は少なくない。必ずしも排外主義一色でもないとも言える。)横田めぐみさん、拉致された日本人を北朝鮮から奪還せよ、というストーリーばかりが叫ばれるが、めぐみさんはまだ帰ってこない。帰ることが大事なのか。そうではなく大事なのは移動の(国境を越える)自由だろう。一人でも多くの脱北者に保護を与えることに積極的に成るよう、わたしたちは日本政府と中国政府に働きかけるべきだろう。

外国人ボランティアの存在を嫌っているのは誰か?

インドネシア政府は反政府ゲリラの自由アチェ運動(GAM)の存在を強調(ないし誇張)しており、自衛隊が安全確保を要請したことや、援助活動をGAMが妨害しているなどとの報道がみられる。別にGAMがいいなどとはまったく思わないが、外国からの介入を唯一心配しているのはインドネシア国軍であり政府であることを踏まえた上で日本のマスコミの報道も注意深く読んでいく必要がある。

http://d.hatena.ne.jp/kenken31/20050112#p1 K A L A M

それは、インドネシア国軍である。

 (米軍の存在は良い、とみなされているのではないか、現地住民の半分以上には? 良いことをしている限りでは良いわけだが・・・米軍の国家戦略=「不安定な弧」対策の行方は気に掛かるが。)

白粉=残余

拉孟(ラモウ)というのがどこにあるのか皆目分からないのだが、古山高麗雄の三部作(断作戦・龍陵会戦・フーコン戦記)の舞台になったエリアだろう。慰安婦が出てくるシーンを引用したいが今出てこないので代わりにちょっとだけ。

それに板垣さんは、経理の上級将校であったから、女性の衣装や白粉などを提供してくれたのだった。それは、朝鮮から拉致して来て慰安婦にした女性たちに給すべく用意したものの残余であったもののようだった。

(p366『龍陵会戦』文春文庫isbn:4167291053

慰安婦のことは中曽根さんのような経理の上級将校が良く知っているのだ、ということの傍証にもなる。(1/28追加)

「その慰安所は軍が経営していたのか?」という問いもまだアクチュアルである。この慰安所は軍が直営していたに限りなく近いものだったようだ。

日本国民の手で裁ければよかった

参考:戦犯法廷問題では「悪役」*1になっている 秦郁彦さんですが、歴史家ですからちゃんとしたことも言っていました。

第二次世界大戦で日本の戦死者は中国での戦場をのぞくと約150万人。そのうち、約7割は餓死、または栄養失調の結果、病気を併発するというものだった。

http://d.hatena.ne.jp/kanose/20050210#hata

そういう作戦を遂行したのが東条英機を始めとする陸軍首脳部だった。(略)

そんな人間たちの責任は本来なら日本国民の手で裁ければよかったが、戦勝国による裁判で開戦責任の問題だけ追求され、しこりが残ったと。(同上)

(2/12追加)

*1:vaww-net側から見てかな?野原は番組改悪問題は直接は論じてませんね。

niftyserveのFSHISO

 わたしは9年半ほど前、ニフティサーブでパソコン通信をはじめた。Fポエムというフォーラムに顔を出したりもしたが、FSHISO(現代思想フォーラム)というところを読んでたまに書き込みもしていた。3月末で終焉ということで今日訪ねてみたら今日が書き込みの最終日だったので試しにやってみたら書き込めた。あと過去ログ倉庫というところからだいぶダウンロードした。ダウンロードできないものあるのは何故だろう。

 Fshisoというところは、論争的口調自体を抑圧する傾向のある日本社会では例外的に、かなり攻撃的論争的論客のあり方がデフォルトであるといった独自の文化を持ったフォーラムだった。有名な訴訟事件を抱えながら、なお「反省せず」その文化を守っていたのは偉いと思うのだ・・・

 最初期の非常に初々しい文章の一節を引いておきます。マークさんという方の文章。

このHPでは、その線に沿って試行錯誤してゆきたいと思います。まだまだ参加者は少ないですが、ここでどんなことを語り合いたいか、皆さんから提起されるテーマがあればお聞かせ下さい。当面、自由に各自の問題意識を書いて頂いてからこのHPとしての討論テーマを決めたいと思います。

「FSHISO 哲学室 Vol.1 90/02」というログより

http://forum.nifty.com/fshiso/ <現代思想フォーラム>FSHISO

<公開の場で、わたしとあなたが対等に対話を交わすことにより何かを作っていくことができる>という<希望と緊張感>!!

それはその当時全然珍しいものではなかった(と思う)。

  わたしはいまでもそうした希望を大事にしたいと思っています。

国体護持とは?

 西武=堤家の国友会のニュースと、ニッポン放送の社員一同の声明文のニュースを続けて聞くと、あの<<国体護持>>*1ってのもそんなもんだったにすぎなかったのでは? とおもいますよね。

参考:

ニッポン放送の社員は全員「社員一同」が、ライブドアの経営参画反対だそうだ。

社員が全員反対論もなく意見が一致するなんてことはありえない。

つまり、ニッポン放送では、社員が自由な意見を発表できないってことだよね。

こういう企業には自由な空気がないのだから、マスコミとしてはふさわしくない。

http://d.hatena.ne.jp/worldtraveller/20050303#p2

「国友会」について

http://diary.jp.aol.com/applet/druhcfrzcms/20041105/archive

*1:百万以上の日本人がそのために死んだ

本居宣長の神(迦微)概念(その2)

 まことの道は、天地の間にわたりて、何れの国までも、同じくただ一すじなり、然るに此の道、ひとり皇国(みくに)にのみ正しく伝はりて、外国にはみな、上古より既にその伝来を失えり、(略)

異国の道は、皆末々の枝道にして、本のまことの正道にはあらず、(略)

まづ第一に、この世の中の惣体(そうたい)の道理をよく心得おくべし、その道理とは、この天地も諸神も万物も、みなことごとく其の本は、高皇産霊(たかみむすび)神、神皇産霊(かみむすび)神、と申す二神の、産霊(むすび)のみたまと申す物によりて、成出(なりいで)来たる物にして、(略)されば神代のはじめに、伊邪那岐、伊邪那美二柱大御神の、国土万物もろもろの神たちを生成(うみな)し給えるも、其の本は皆、かの二神の産霊(むすび)の御霊(みたま)によれるものなり、

抑この産霊(むすび)の御霊(みたま)と申すは、奇々妙々なる神の御しわざなれば、いかなる道理によりて然るぞなどということは、さらに人の知恵を以て、測り識(し)るべきところにあらず、(略)

さて、イザナギ神、女神のかくれさせ給ひしを、深くかなしませ給ひて、ヨミの国まで慕い行かせたまひしが、この顕国(うつしくに)にかへらせたまひて、そのヨミの国の穢悪(えあく)に触れ給えるを清め給ふとして、筑紫の橘の小門(をど)のあはぎ原に御禊ぎし給ひて、清浄にならせ給へるところより、天照大御神成り出ましまして、御父大御神の御事依(よさ)しによりて、永く高天原(たかまのはら)を所知看(しろしめ)すなり、

天照大御神と申し奉るは、ありがたくも即ち今此の世を照らしまします、天津日の御事*1ぞかし、

さて疲れてきたので、もう少しくだけて写すことにする。

天照大御神は皇孫尊(すめみまのみこと)に葦原中国(なかつくに)をしろしめせとありて、天上より此の土へ下し奉りたまふ、

そのときに、大御神の勅命に、「あまつひつぎは あめつちの むたときはかきはにさかえまさむ」とありし、この勅命はこれ、道の根大本なり、

勅命をひらがなだけで書いたので何のことか分からないでしょうが、要はあまつひつぎ(天皇のことだろう)に此の世の総てはまかせるぞ!みたいな意味なんでしょう。

以上「玉くしげ」本居宣長*2の最初のところからでした。

かなり長く引用したが、これが宣長によって再編された神道なるものの核心部分だ(と思う)からです。

 それまでの日本では華夷秩序的な世界像が普通でした。世界の中心に中国がありそこから周辺へ向けて段々文化、秩序が緩んでいくといった世界像です。江戸時代の中ごろから(明滅亡以後)は中国ではなく日本を真ん中に置くこともありましたが世界像の形は同じです。ところが宣長の場合は全く違います。世界は「まことの道」というものが普遍的に支配しているのだと宣言してしまう。でそれが神道なわけですから、これをまともに信じたら大東亜戦争期のように(いまでいう)海外に神社をいっぱいいっぱい作り続けるしかなくなる、わけですね。

  1. 万物は産霊(むすび)の神の産霊(むすび)の力によって生成した。
  2. 太陽でもある天照大御神が高天原を支配する。
  3. 此の世の総てはあまつひつぎが支配する。

という構造ですね。

前回と対比的に取り上げたのは、前回は、尋常でないすぐれたる徳があるものは神だ、ということで「貴きもあり賤しきもあり、強きもあり、弱きもあり、善きもあり、悪きもあり」、となんでも善かったのですが、今回は全くニュアンスがちがうなあ~と*3

 この宣長の二つの部分を引用しようと決めたのは、教育委員会に君が代のことを聞いてつらつら考えたからでした。君が代の内容に意味があるわけではない、国歌だから認めて欲しいという低いレベルのお願いと、それほど遠くない過去にあった「生きて俘虜の辱めを受けず」的総動員体制との間にはちょっと同一化しかねるほどの落差があります。

 ところが、この宣長の二つの神の定義の間にも、同一化しかねるほどの落差があるわけです。

ということはこの四つはやはり国家神道的なものということで同一化して理解して良いのかもしれないですね。

ということが言いたかったのでした。(うーん苦労した割には?)

それと愛国心などをナショナリズムという範疇で語るべきなのかどうか。宣長の神道的なものなら、自国の論理で世界を支配できるとするものなのでちょっとどこからみても駄目だろうということにしかなりません。

*1:太陽のこと

*2:1786年

*3:前回は古事記伝巻三、1767年くらいなので、二〇年ほどは違いがある。とは言っても、この差異は同じ物の両面とみたい