あらゆる関連本の中で一番良い。
この問題の全容も把握できる。』
あらゆる関連本の中で一番良い。
この問題の全容も把握できる。』
問題とは何か? 2003/06/01 21:51
万世一系は捏造だ。 2003/06/08 17:35
永き平和の民 2003/06/08 23:43
『ダロウェイ夫人』を読んだ 2003/06/13 18:23
わたしは死者を見なかった。 2003/06/15 13:34
アイディンティティと仮装 2003/06/16 22:45
Re:アイディンティティと仮装 2003/06/18 21:54
わたしのなかの還元不可能な領域 2003/06/21 22:48
闘争主体と無垢 2003/07/06 21:49
触れたくないテーマと一番大事なこと 2003/07/17 21:26
わが肉体の労働たとえば授乳 2003/07/20 09:51
ローザ~アレント~ローザ 2003/07/20 10:43
今日も混沌未分なり 2003/07/26 18:05
祝 2周年! 2003/07/31 20:27
日本は亡命者を受け入れろ 2003/08/01 21:49
ちょっと 2003/08/06 19:38
Re:触れたくないテーマと一番大事なこと 2003/08/12 22:22
摩多羅神と大黒天 2003/08/31 22:10
墓場の茶枳尼たち 2003/09/01 23:16
伝統の断絶 2003/09/03 09:41
祟(たた)る死者、祟らない死者 2003/09/03 11:39
神との性交と精液(1) 2003/09/06 14:36
神との性交と精液(その2) 2003/09/06 20:23
人間の尊厳が北朝鮮には無い 2003/09/13 23:26
性交と多数多様な空間 2003/09/21 21:08
朝川渡る 2003/09/23 22:38
Re:神との性交と精液(その2) 2003/10/07 21:03
サイードの死とシオニズムという常識 2003/10/07 22:53
追悼とは何か?「シャヒード、100の命」展 2003/10/13 23:15
AYA 2003/10/20 17:57
ゴビンダさん有罪確定 2003/10/25 11:06
いとうさん 2003/10/27 19:46
Re:いとうさん 2003/10/27 19:48
ビルマ~フィリピン人家族の強制送還 2003/10/29 23:10
即ち私を見るのである。 2003/10/30 07:26
某大前繁雄は哀れだ。 2003/11/01 11:53
国家の論理を越えて 2003/11/01 19:42
制度廃止の条件 2003/11/01 21:28
私とは誰か? 2003/11/03 18:40
私とは 2003/11/08 19:57
http://d.hatena.ne.jp/mkimbara/20040111 で、mkimbaraさんが村上の
「たとえばアダム・スミスのモラル・センチメントのセンチメントなどというのは、ドイツ語に翻訳できない」などなどの発言を紹介していた。そこで、以下のコメントを付けた。
わたしも今日、『転位と終末』という小さな本の4人の討論で、卒論では情念論、ジャスティス、モラル・センチメントなどをやった、と村上が言っているのを読みました。ですがちょっと分かりにくく、こちらの引用を読んで、要は「やはり経験とか感覚とかいうものをばかにしないで煮つめていくというところが」ドイツ系思想にはない、ということが言いたかったのだと分かりました。「一方、ヒュームなんぞ、静かなパッションからジャスティスやモラルを導き出して激しいパッションは捨てていくというようなことで体系をつくり、今の英米の権力は、そういう哲学を意識的無意識的にもっている。つまりブルジョアの思想は皆さんの考えているより勁(つよ)いのです。」とも書いていました。ですから「村上さんはロマンティックではなかった」と言われる趣旨はよく分かります。(野原)
それに対して、『転位と終末』という本について質問が返ってきた。こちらで説明させてください。この本は、明治大学出版研究会が編集・発行したもの。奥付では昭和46年1月17日第一刷発行となっている。全共闘系学生が自分たちの主催した講演、パネル討論会を自分たちで本にした、気負っていえば“自立を志向した”本だ、と言えましょう。全238頁。目次を紹介すると、
考えて見ると70.11.25が三島の自決なので、講演があったがその半年ほど前、本ができたのがその直後ですね。学生たちと三島が共有したものは時代の熱気だけではなかった、がそれ以上のものとしては結晶しなかった。
村上の「赤軍派なら入らないが、赤軍になったら入るのですな、僕は……」という発言が、袖に引用されている。226事件における斎藤史のお父さんのように(滑稽と世間に見られても)登場し死ねた方が村上個人にとっては幸せだったのかもしれない。(三島事件は衝撃的かつ有名だけれども、全共闘派がむしろメジャーだった時代の流れから孤立していたので、ややこしくなるだからここでは出さない方がよかったな。)
当時の雰囲気を思い出すため70.12.14付けの明治大学出版研究会の名前による後記から数行引用しておこう。
六〇年代の学生運動は、人間を解放し、世界を獲得するためとにといった内容で闘われた。そのなかで、絶対的権威に対する反抗といった形で、新左翼諸党派に対してノンセクト・ラディカルといったものが発生したが、彼らもまた諸党派同様、絶対的価値観による<節操>と<規律>なしに、人間と社会の解放運動をすすめてきたにすぎなかったのだ。そして、彼らは二年間の反権力闘争のなかで強大な権力の前に、もろくも三々五々拡散していってしまった。われわれはここで、セクト、ノンセクトを問わず、その中で誰一人として絶対的価値観と自己の存在をリアリスティックに直視し続ける者がいなかったということをいう必要があるだろう。それ故に、マルクス主義に殉ずる者も一人としていなかった。勿論、自分達をも含めて、この「現実」から左翼総体が恥かしめを受けねばならないであろう。
(なお誤解のないよう付け加えるが、野原は本を買っただけで講演も出版も知ってる訳ではありません。)ですが、何らかの意味で“全共闘派のすえ”であるだろうからしてちょっとコメントしておこう。
でもそう主張するなら、いま情況とどう関わるべきなのか言って見ろ!と反問されるでしょう。わたしとしては、30年前から進歩していないので、ここに立ち止まって考え続けるしかない。(迂回しかしていないが・・・)
1915年生まれ2002年亡くなった宋斗会氏の『満州国遺民』isbn4-8331-0522-5 を買った。p21から引用する。
紀元前1世紀ごろ、扶余(プヨ)が朝鮮北部から中国に高句麗を建設する。後に3世紀朝鮮南部に百済が建国される。彼らは自ら扶余の分かれと称していたらしい。
「ただ、一般的には、ある地域にもともと住んでいたものたちの中からは王はでない。これは決定的とはいえないけれど、一般的にはいえる。
日本でもそうだ。神話に出てくる王というのは、縄文人の末ではないのだから。縄文人は歴史のはるか彼方のほうにかすんでしまって、歴史に登場するのは、外来者だ。朝鮮半島でも同じことだ。」
現在朝鮮人と呼ばれている人間の数は世界中で6千万を超すらしい。ただ周辺部になるとぼけてしまって境界がはっきりしない。宋斗会とは誰か。在日朝鮮人だ、という答えは間違ってはいないとされる。が彼はあえてそれを拒否し、満州国遺民を名のった。彼についてはまた書きたい。
北朝鮮からの脱出者を支援する非政府組織(NGO)「北朝鮮難民救援基金」に6日までに入った連絡によると、同基金メンバーで脱北者支援中に中国公安当局に拘束、逮捕された野口孝行さん(32)が5日に起訴された。起訴先は南寧市の人民法院(裁判所)とみられるという。
この情報について、外務省邦人保護課は「確認中」としている。 (時事通信)
[4月6日18時1分更新] (ヤフーニュースより)
今日は酔っぱらって帰ってきて、ドン・チェリーのブラウン・ライスとかいうサリマパダニサで始まる曲を聴いたりした、20年ぶりにLPで。プレステで三国無双を4分ほどやった。(後半削除しました、失礼。)
美智子が不幸であることは国民はみな知っている。とんでもない努力の果てに子供を産むことができた雅子もまた、不幸の極みであることが今回分かった。皇太子がそう発言した。ここで興味深いのはその発言がどこを向いてなされたか、という点である。先日の元人質二人組は外人記者クラブ(かな?)で発言を行った。国内ではバッシングが強いので海外のメディア経由で日本人たちにメッセージを届けようとしたのだろう。そのもくろみはある程度成功した。皇太子の会見は日本人記者相手のものだが、彼は今後すぐ外遊する事になっている。彼も、「国内ではバッシングが強いので海外のメディア経由で日本人たちにメッセージを届けようとした」のだとわたしは思う。自他共に許す反日派と同じくらいの迫害を日々彼らは受け続けているのだ。かわいそうに。
雅子は女性を不幸にする日本というシステムの象徴である。象徴天皇制を捨てない限り、この不幸から逃れることはできない。憲法1条の廃止を強く訴える。
「秘密の使命ですって?何の使命ですか」と私は低い声で尋ねた。「何と無礼で手に負えぬ奴だ。少しも分かってないな。どんな使命か言ったら、秘密でなくなる」 こう言うと、ドゥリートは扉の下から姿を消した。 *1
ところで近代小説というものは、秘密についてだけ語り続けた。なぜだろう。秘密だけが価値であり価値だけが交換できるからだろうか。
*1:p163『ラカンドン密林のドン・ドゥリート』isbn:4773801050
『太陽は桑乾河を照す』(ハト書房)からの引用、第三弾。この上下本は図書館から借りたのだが、1951年発行で作りが粗末、紙が全体に茶色く変色し外側は焦げ茶色になってしまっている。乱暴にあつかったらすぐにも壊れそうだ。
さて今回は革命派のリーダー格二人が対話しているところ。主要人物メモの地主の筆頭にあげられていたのがS、「最も陰謀的な人物」でありその狡猾さは「息子を八路軍に入れている」といったところにも現れている。村内の階級闘争を進めるためには彼をまず第一に攻撃(清算)しなければならないのだが、いろいろな事情で出来ないできた。だが章品(彼は若いが経験を積んだ土地改革工作の指導者)が村に来たのをきっかけに流れは変わる。Sに対するみなの長年の怨みに火がついたのだ。だがリーダー二人は考え込んでいる。
張裕民はずつと彼を送って出て行つた。彼らは話しつずけた。村の出口につくと章品は、やつとこう言つた。「おめえ、もう帰りな。何事につけ、百姓衆の意見を見てるだよ。そうすりや楽にやれるだ。けさのこの様子はどうだ!‐みんな意気ごんでるでねえか。もう闘争に立たねえなんて心配ねえだ。だけどな、えゝ--」彼はしばらく、ためらつていたが、とう/\次を言わすにしまつた。
張裕民は彼をジッと見つめ、彼もまた張をジッと見つめた。ふたりは何の問題がこう引つかゝつているか、ハッキリしていた。なお、しばらくたつた。章品はもう口を開かずにおれなかつた。「あれ、どうあつても殺すでねえだぞ。」
「そんじや、おめえ方に渡すべえよ。」
章品はまた考えに沈んだ。彼は良い方法を考え出せたかつた。彼は常々、村で工作しているので、農民組合の心持ちをよく知つていた。--闘争しないなら始めから闘争しない、その代り闘争始めたらトコトンまでやる。彼らは法律的手続きを経ることを望まない、彼らは法律的手続をとると、彼らが銃殺にすべきだと認めたような者が、ただの軽い刑になるということを恐れているo彼らはいつも八路軍が寛大すぎると思つている。彼らはまだ、より遠大な眼界を備えていない。彼らは仇をとることを要求し、腹の虫を収めることを要求する。だから、村によつては彼らは、何はともあれ、まず腕ずくで殺しておいてから、話を持ち出す。問題になると区や村の幹部はそれを百姓衆に押しつける、ところが百姓衆は多いので、結局、誰がやつたものか判らなくなる。章品は村の幹部が百姓衆と同じ思想でいて、みな将来の仕返しを心配していることを知つている。だから、やるとなればとことんまでやる。かと言つて、一時に多くの人に呑みこませようとするのは、まつたく容易なことではない。
「おらたちに渡す?そらよくねえ。県じや今すぐ、たくさんの人間を解決できねえだで、やつばり村で解決するだ。」
「うん、」張裕民は、やり切れなく感した。彼はひどく、とまどいながら、こう言つた。「おめえさん、どうして判つてくれねえだ?百姓衆が踏み切るか、踏み切らねえかあ、まつたく、こゝんとこだがなあ。」「おめえさんも、そういう考え方してるだか?」章品は言つた。
「幹部は、まあ、たいていこう考えとるだよ。」
「それが、やつぱり一種の宿命思想だぞ。おらたちあ、あいつを問い正さにやいけねえだ、勝手に人を殺しちや影響も良くねえ。おらたち、あいつの罪状をよくよく探し出して裁判所に出すことできるだよ。裁判所を通さねえで人を殺すなあ、まちがつとるだ。おらたちの、きようの闘争はだ、政治上であいつを叩きをつぶし,あいつに人民に向って頭を下げさすこつたでな、何も、あいつの肉体を消滅しちまおう、ちゅうわけじゃねえだで。ええか、おまえさん、みんなを説き伏せにやなんねいぞ。」
「うん」張裕民は、ただこう答えるほかなかった。*1
階級闘争というほどのものも経験なく、まして殺すとか殺されるとか思いも及ばない私などには荷が重い問題だ。だがまあ話は分かる。昨日までの支配者に対して立ち上がる、それは素晴らしいことだがその後が問題だ。積年の恨みに裏打ちされた革命の熱狂のおもむくままに支配者を殺してしまう。だがそれは実は、支配者への恐怖を払拭できない主体の弱さそのものの現れではないのか。
「闘争のなかで宿命思想を滅ぼすこったぞ。」宿命思想、原文では「変天思想」となっていた。時代が変わったからもう今までとは違い何をしても良いんだみたいな思想を指しているのだろうか。Sを殺してはいけないとは言っていない。*2
革命とはわたし(たち)が主人になることだ。彼を殺すか殺さないかは、彼がどれだけひどい奴だったかまた更正の可能性がないのかなどを考えた上で、正面から殺せばよい。情念の吹き上がりや裏に隠された恐怖なんかによって殺してしまったら、その場はそれで治まっても、天の理法にそった革命ではなくなり、権力の為の権力に堕落していくしかないのだ。と、彼らは理屈では分かっている。しかしそれを実現していくことができるのか?
10/13の犬伏氏の言う「日本国及び国民の誇り」というものは、明治三〇年頃井上が確立しようとした「日本的精神」の出涸らしの出涸らしではないか。
幾多の日本人がレイプしたという事実はあった。しかしながらそれが「日本的精神」に関わるものであれば、日本的精神とは唯一の普遍であるのだから、それがレイプすることはありえない。日本的精神が支配する言説空間においては、事実が事実として認められることがない。