本居宣長の神(迦微)概念(その1)

本居宣長の二つの神概念について書きます。

まず一つは、なんでもありの神 です。

「天地初発の時、高天原に成れる神の名は、天之御中主神。」というのが古事記の冒頭です。「天地初発之時、於高天原成神名、天之御中主神。」(天はアマと訓(よ)めとかいてある)という漢字ばかりのが本来です。

この「神名」という二字について本居宣長(1730-1801)は『古事記伝・三巻』で長々と註釈する。

神名はカミノミナハ*1と訓べきことも、首巻に云り、カミ(迦微)と申す名の義(こころ)は未だ思い得ず、【旧く説けることども皆あたらず、】*2

神という漢字にはもちろん意味がある。宣長が云っているのは、「神という漢字」の意味でこの神を解釈してはいけない、ということだ。「かみ」という和語があった、本来の意味は分からない、だが中国からきた「神」とは当然違った意味を持った別の言葉だったはずだ、というのが宣長の立場。旧説、「上」や「鏡」から説明するなどは全部違っていると。

さて凡そ、カミ(迦微)とは、古御典などに見えたる天地の諸々の神たちを始めて、それを祀れる社に坐す御霊をも申し、又人はさらにも云わず、鳥獣木草のたぐい海山など、その余(ほか)何にまれ、尋常(よのつね)ならずすぐれたる徳のありて、可畏(かしこ)き物をカミ(迦微)とは云うなり、

【すぐれたるとは、尊きこと善きこと、功(いさを)しきことなどの、優れたるのみを云うに非ず、悪しきもの奇(あや)しきものなどにも、よにすぐれて可畏(かしこ)きをば、神と云うなり、さて、人の中の神は、先ずかけまくもかしこき天皇は、御世々々みな神に坐すこと、申すもさらなり、其は遠(とほ)つ神とも申して、凡人(ただびと)とは遙に遠く、尊く可畏(かしこ)く坐しますが故なり、*3

(略)】

鳥獣木草のたぐい海山など何でも神でありうる、また価値的にも優れたるだけを云うわけではない、悪やあるいは奇(あや)しきものよく分からないものである場合もある、というわけですね。基本的には天の神を神と云い、人の霊は鬼と云う中国での用例とは全然違います。明治以降の日本は古事記の読み方を始めとして、宣長から非常に大きな物を受け継いでいるのですが、さすがにこの神の定義だけは違います。キリスト教の絶対唯一神を規範として受け入れてしまった(無意識のうちにも)ため、鳥獣木草のたぐいはともかく、悪やあるいは奇(あや)しきものについては非常に抑圧的にしか語られなくなったのではないでしょうか。

抑(そもそも)カミ(迦微)はかくの如く種々(くさぐさ)にて、貴きもあり賤しきもあり、強きもあり、弱きもあり、善きもあり、悪きもありて、心も行(しわざ)もそのさまざまに随ひて、とりどりにしあれば、

大かた一むきに定めては論(い)ひがたき物になむありける、

まして善きも悪しきも、いと尊くすぐれたる神たちの御うへに至りては、いともいとも妙(たへ)に霊(あやし)く奇(くす)しくなむ坐(し)ませば、さらに人の小さき智(さとり)以て、其の理などちへのひとへも、測り知らるべきわざに非ず、ただ其の尊きをたふとみ、可畏(かしこ)きを畏(かしこ)みてぞあるべき、

最も賤しい神の中には徳が少なくて凡人に負けるものさえいる。かの狐なんかも怪しきわざをなす、つまり「まことに神なれども」、いつもは微(いやし)き獣にすぎない。だけどそうした「いと賤しき神」ばかりを見て、「いかなる神といえども理を以て向かうには可畏(かしこ)きこと無しと思ふは、」「ひがごとなり(間違いだ)」と断じられる。

つまりここで宣長は神の本質については論じていない。というより神とはこういうものだと一定に定めて論じること自体に反対している。人の智には限りがあって、「まことの理はえしらぬものなれば」、というのが宣長の強調するところ。カミは当然人智を越えたものであり、人から見た正邪の区別からも自由である。その本質はどうだとか論じる事自体が不当である、と。言われてみれば理屈ではある。

 世界や神を「理」とか「道」とか中国起源の形而上学カテゴリーで云々しても結局そうした理学の範疇論からでることはできない。お狐さんも神ですよと言えば滑稽なようだが、それでも目の前の狐一匹でさえ持っている不可思議というものを無化してしまう理学の暴力的裁断だ、と儒者の「さかしら」を攻撃するわけですね。これはこれでまあ面白いとも思えます。

(全然纏まりませんが、その2へ続く。)

*1:万葉仮名で書いてありルビが振ってあるが万葉仮名は省略

*2:『古事記伝』岩波文庫 p172

*3:だいたいこんな感じですが正確な引用ではありません

(4/10)野原

KMRさん「学校に押しかけて文書を配布する行為の正当性について、azamikoさんは充分な説明をしていません。」

 父母が学校で、「先生方が自己の意思に従い行動されることを支持するというメッセージを伝えるため」の手紙を渡すこと、それは特別なことであり、正当性を父母の側が立証しなければならないそうした問題だ。という捉え方に反対です。

十条さん

 ご意見に賛成です。コメントしていただいて助かりました。ありがとう。

他の方もコメントありがとうございました。

ナヌムの家 とハルモニ証言

下記の催しに行ってきました。

●4月21日(木曜日)同志社大学・今出川キャンパス・寒梅館クローバーホールにて

    午後4時~映画『ナヌムの家』上映 

    午後6時~李容洙(イ・ヨンス)ハルモニ証言 

    主催・同志社大学実行委員会 入場無料

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050115 わたしは1/15以降本を読んだりしてすこし「従軍慰安婦」について勉強しコピペし論争したりもした。自分なりの慰安婦像ができていたわけだが、先日見聞きした映画と証言の慰安婦像はそれとはまったく違ったものでうまく言葉にできない。違った像、イメージといっても知的理解として違っているわけではない。

 ただ話のとっかかりとして知的な所から入ると、映画を見て気づいたのは、ナヌムの家のハルモニたちと支援者たちよる水曜デモ。毎週水曜日1992年から欠かさず続けられているという伝説的な集会(デモ)だ。映画に写っているそれは参加者10人から20人程度のひどく小規模なものだった。日本中のプチウヨから敵視されているにしてはひどく小規模な。プチウヨはしばしば「韓国」という巨大な物と彼女たちを同一視するのだが。

 元日本軍「慰安婦」として韓国政府に申告した方の数は約200人*1半数近くはすでに亡くなっているのではないだろうか。全体で約20万人ともいわれる全体像に対してあまりに少ない。少数派の問題であってもそこに思想的課題を深く掘り下げるのが思想家の仕事であるだろう。一方政治家の役割は妥協し相手を納得させることだ。顕在化している対象者が数百名程度なのになぜ妥協案を提示できなかったのか。相手が納得しない「国民基金」などという案をごり押ししようとしたのか。少数派の「慰安婦たち」自身ではなく韓国その他の国家さえ納得させられなかったのはどうしてか。つまらないナルシズムである思想でしか自己を支えられない勢力が強いからだろうか。大きな問題である現在の反日暴動問題も解決できないのではないか。

 でそんな話は映画には一切出てこない。ただハルモニたちの日常が坦々と描かれるだけだ。ただのぐちっぽいおばあちゃんたちの日常。もう生きてなんかいたくない、ずっと前からそうなんだといったネガティブな事ばかり言う女性。それでもデモには出かけていくのだが。10年間報われないデモ。*250年以上前の傷跡は彼女たちの存在のなかにいまも大きな空洞として残っている。そう理解することはできる。でもその空洞にどう向きあうべきなのかは私には分からないのだ。彼女たちとつきあうわけではないから別にいいといえばいいのだが。

 李容洙(イ・ヨンス)ハルモニ証言は映画と違い衝撃的な部分も沢山含むものだった。だが、まとまりの良さという点では、id:noharra:20050125#p1 などで紹介した証言録とは比較にならない。皇軍=有罪の立証に向けて最短距離で組織された言説と違い、ノイズばかりである。

 最も印象的だったのは、日本の兵隊に教えられた軍歌をきれいな日本語で歌ってくれたこと。日本語への愛。最も憎悪すべき日本との抜き差しならない交流は、長い間潜在しながら、彼女の殆ど一生を貫き、愛という形でも現象する。

 わたしたちは最も憎むものをじつは愛している。そう書くと陳腐な逆説にすぎないが。

 レイプすること、比喩としてというと急に軽くなって意味がないが、生きることにおいてレイプすることは不可避であるだろう。親鸞的な深さで言うならばだ。*3人生は常にそこから始まる。反省することは可能であるしためらってはいけない。孔子も言ったように。

 ・・・

*1:パンフ『日本軍「慰安婦」問題とは』より

*2:ここで他人事として語ってはいけないだろう。わたしが日本国家の成員である限り私がハルモニたちの側に立つなら日本国家に働きかけをなすべきである。

*3:凡人である私は言ってはいけない、言うことができない発言である、が。という意味。

地球の人口をこえて

http://d.hatena.ne.jp/dempax/20050512#p1

「10億人の小人」問題を解いてみた. → #9,2625,8177 が最後に残る.

(野原)

1000億の場合、 62,561,046,529人目に成りますね。

1兆の場合、  350,732,558,337人目。

10兆の場合、 2,407,813,955,585人目。

百兆の場合、59,262,511,644,673人目。

千兆は、311,150,139,736,065 。(?)

次は、1,985,601,490,518,020 !!ここでエラー。偶数になっている。

1,985,601,490,518,017 でしょうか?

紅旗征戎わが事にあらず

  「紅旗征戎わが事にあらず」(藤原定家)

冒頭にこの定家の名言が引いてある。(略)

 「紅旗破賊非吾事」

 たしかに定家の言として有名ですが、これは、白氏文集から。

http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20050605/1117931695

ふーん、そうなんだあ。

ちなみに「紅旗征戎吾が事に非ず」と定家が日記(名月記)に記したのは、1180年9月、19歳の時、らしい。

ところで「 「名月記」は漢文、して、古事記も漢文。漢文とは日本語。」結論に賛成する。ということは漢文とは、「中国語の文法で書かれた文」と「それが日本風に崩れたもの」を併せたものだと理解できる。ここで、古事記については如何でしょうね。あそこまで崩れた「漢文」は以後書かれていないと思う。漢文じゃないからどうだということではないですが。

歌を唄いながら空気の撹拌を

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050624#p1 の続き。

 近藤さんは1940年、20歳の徴兵検査で即入営となり、戦争が終わるまでの四年間を独立歩兵第十三大隊の兵隊としてずっと戦場で過ごした。最初、中国大陸の山西省に送られ、1944年山西省を離れ転戦しながら大陸を南下し上海から沖縄へ向かう。沖縄では中部戦線の嘉数高地に配置され、1945年4月の米軍上陸直後から戦闘に入る。

 戦闘で、負傷した近藤一さんは野戦病院に運ばれる。

野戦病院といっても自然壕を掘り足しただけのものだ。壕の中には川が流れていた。六十二師団の野戦病院壕は、首里のナゲーラというところの本院と、今の小学校の所につくった小さいのとがありました。

 壕の中は真っ暗で、手術するところに蝋燭の明かりがあるだけです。戸板をずらっと敷き詰めた上に毛布を敷き並べてその上に怪我人が寝かされているだけでした。(略)

 軍隊の靴を拭く保革油の缶に木綿の布を垂らして火を点けたのが唯一の明かりで、その油煙で、まるで炭坑夫のように真っ黒けになりました。壕の中の空気は四○度近くにもなって湿気もものすごく、息苦しくて仕方ない。おまけに糞尿の臭いと血や膿の臭いが、死臭と混じり合ってものすごい臭いでした。そんな中で働いていた女子看護隊は第六十二師団に配属された首里高女の瑞泉(ずいせん)隊と昭和高女の梯梧(でいご)隊でした。彼女たちは看護だけでなく、水くみに、死体の始末にと、それこそ命がけで働いていました。また一時間か二時間おきに、毛布を各自が持って、二、三組になってかけ声をかけあい、歌を唄いながら空気の撹拌をしてくれました。歌は「うさぎ追いし、かのやま」などの、童謡だったと記憶にあります。本当に心が癒され、子どものころのことや、家にいたときのことが思い出されました。

 それでも私は最初の頃でしたから、中に入れてもらったんですが、三、四日するともう中に入れる余地がないということで、重傷者と手術するやつだけを中に入れて、軽傷者は入り口に置いたままにしてあったと聞いています。

 治療、手当といっても、薬はほとんどない、注射器もない。(略)

 我々が寝かされたところもすし詰めで、一日の食料は小さい玄米の握り飯です。最初は一日に二個でしたけど、しまいは一個もあたるかあたらないかくらいになりました。食事はそれだけで、一番欲しいのは水なんです。外の水たまりとかいろいろな所へ女子看護隊や、沖縄の防衛隊の人が砲弾の降っているなかを、合間を見ては命がけで水を汲んでくるという状況で、ほんとうに水は貴重品でした。枕元に小便用の缶詰の空き缶が置いてあり、それで小便をして半分くらい溜まると、看護婦さんに捨ててくださいと頼むんですが、いよいよ水も行き渡らなくなるとその枕元にある小便を、飲んでしまうんです。そういう地獄みたいな状況の野戦病院は、病院と名が付くだけでした。負傷者が多いのと、始めての体験で、軍医も看護隊もてんてこ舞いというか、どうしようもなかったと思います。

 こうした野戦病院の中でも差別があった、ということは戦後初めて聞きました。負傷者が入ってくると軍医が「お前は本土出身か沖縄出身か」と聞くのだそうです。それで沖縄出身だと言うと、それは後回しにしたということを、戦後に女子看護隊の方から間いてびっくりしました。白分としてはほんとに驚いたのですが、沖縄の人への差別が戦争の中でも持ち込まれていたということは事実なんでしょう。

以上p112-115 近藤一『ある日本兵の二つの戦場』isbn:4784505571

 真っ暗な壕のなかで、毛布で空気を撹拌する。そうしないと壕の奥の方はたちまち酸素が足りなくなり死に至る。そうした切迫に満ちた行為だが、うら若い女性たちが歌を歌いながら、緩やかに空気を撹拌する、というイメージに、わたしたちはいつも痛いほどの郷愁を感じる。

 「うさぎおいしかのやま」。そうした歌が歌われた。ポスコロ的には沖縄しか知らない少女たちにとってそのときどんなパトリ(源郷)のイメージが立ち上がっていたのか、も興味があるところだ。

 この文章を記録文として支えるのは、そこが首里のナゲーラ壕だったという場所の確定と、そこで出会った学徒隊が瑞泉隊と梯梧隊だったという三つの固有名である。

 読者にとってはある意味どちらでもよいことである。だが仮に裁判とかいうことになれば最大の問題になる。事実とは何か。兵士はたいていの場合、(仮に生還できたとしても)最も切実な体験をした場所がどこか、再確認することなどできない。近藤さんも1982年以後何度も何度も沖縄へ通った*1が、2004年2月にナゲーラ壕跡に入って確認するまで、二つの壕のうちどちらなのか決定できなかった。

 また、学徒隊についても、近藤さんは戦後ずーっと自分たちが世話になった学徒隊は有名な「ひめゆり学徒隊」だと思っていた。実際は、ひめゆり隊は南風原陸軍病院に配属され、初めのうちは後方で上記のような地獄のなかで過ごしたわけではない。

 同じ戦場で、しかもはじめから一番の最前線で本当に苦労したずいせん隊やでいご隊の人たちが隠れてしまって、ひめゆりばかりが語られるのは、一種の差別じゃないですか。私らには耐えられないことです。(p115同上)

 わたしたち無知な読者からすれば、ずいせん、でいごもひめゆりも本質は一緒じゃないか、ひめゆりの方が音の響きがきれいなだけアピール度が高かろう、なんて思ってしまいがちだ。しかし固有の臭い固有の場所で人は死んでゆくのでありわたしはたまたまいま生きのびているだけなのであるから、そうした把握が間違いであるのはいうまでもない。

*1:なんと50回以上、だという!

人々を幸せにする力があると考えます。(7/13追記)

更に言えば、僕はもしリンクについて管理人と対話して、リンクを拒否された場合にも、きちんと深く考えて本当にそのリンクによって生じる不利益より利益の方が多かったら、例外的にリンクして良いと言ってるのです。何故か?結局殆どの人間は、例えどんなに自分で「真剣に考えた」と言っても結局一人で考えているときはその思考は浅い水準に留まります。しかしリンク先と直接対話することによって、自分がやろうとしているリンクは本当に人々を幸せにするのか等のことを深く考えられるのです。これはむしろ研究者、いやリンクを含む様な記事を書こうとする全ての人にとっては天啓であると言っても良いでしょう。その意味で、僕はむしろ「無断リンク禁止」という言葉には対話を促進させ、人々を幸せにする力があると考えます。

http://d.hatena.ne.jp/rir6/20050713/1121198432

rir6さん、はじめまして。無断リンクTB引用します。

申し訳ないけどrir6さんの文章斜めに読んだだけです。またわたしにモヒカン族というものが分かっている訳でもありません。したがって、あなたはモヒカン族を批判しているがモヒカンというものは本来そういうものでは全然ない、などと言おうとするわけではありません。

ただモヒカン族は「たくさんの人がハッピーになれるエレガントな方法を見つける」ことを目標にしており、rir6さんはある発想には「人々を幸せにする力があると考えます」と述べておられます。文章の内容を問わずに形式だけ見るととても似ている。しかもあからさまにポジティブで関係構築的志向を持っている。

そういうところはとても(両者とも)良いのではないか、と思った。

上では野原は、ドゥルーズを借りて“コミュニケーションなるもの”への懐疑を書き留めた。ここでrir6さんは、むしろ〈話が通じないという体験〉をすることが、思想を深めることがあると言っている。とても興味深いと思った。

語り得ないものを教える

 レイプだけが語り得ない、というわけではない。隣で戦っていた戦友がふと気付くと死んでいたとか、肉親の破壊された身体を見たといった体験もやはり核心は語り得ない。したがって平和教育というものは本質に矛盾を孕むものだ、と私には思える。あまりに生々しい悲惨は人の目を背けさせることができるだけだが、だからといってそれ以外に何が必要なのか。

 わたしは平和教育を受けたことがない。広島、長崎、沖縄本島に行ったことがない。60年間平和教育のために費やされた努力というものがどういうものかまるで分かっていない人間がこんな発言をするのは許されないことなのでしょうが・・・

ふやけたナルシストの言説  (8/4 朝追記)

でまあ読んでみた。

1)座間味村の場合

それで宮城初枝さんは梅沢さんに謝らなくちゃいけないと思って手紙を出し、昭和五十七年六月、座間味島で行われた慰霊祭で三十数年ぶりに梅沢さんに会った。そこで宮城初枝さんは「虚構」が生み出された背景から何から洗いざらい話して、心から謝罪した。

梅沢さんはそれを聞いて胸のつかえが全部とれたといいます。というのも、梅沢さんはその間、ものすごく辛い境遇に置かれていたからです。昭和三十三年頃、週刊誌が梅沢少佐や赤松大尉こそ集団自決の命令を出した張本人だという記事が世の中に出回った。それ以来、職場にいられなくなった梅沢さんは職を転々とし、息子さんが反抗して家庭も崩壊状態になった。もうよっぽど反撃に出ようかと思ったけれども何を言っても敗残の身。猛火に飛び込む蛾の如くなってはならないと隠忍自重していたというのです。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~tokutake/kyokasho.htm  教科書は間違っている1

 梅沢という言う人はこういうふうに弁護されて嬉しいのだろうか。彼らの論点は「命令はなかった」というものだ。

ここで考えなければならないのは、なぜ住民達が集団自決の命令を宮里助役の命令ではなく、「軍の命令」として受け取ったかということです。私はおそらく宮里助役が防衛隊長を兼務していたことが関係していると思うんです。というのは、それまでも軍の命令-作戦に必要な木の切り出しや荷物の運搬など-はすべて防衛隊長である宮里助役を通じて住民に伝えられていました。だから、米軍の攻撃の中で、忠魂碑前に集まれという命令が出された時、受け取った住民の方が「ああ、これは軍から来ているな」というふうに考えたとしても、これは無理もない。

市民は誰もその命令を聞いていない。具体的命令は宮里助役から来た。市民から見れば、助役は軍と一体の権力機構である。最近になり、梅沢個人の名誉にこだわるという奇妙な論点からものごとを考える人たちがでてきた。宮里からの命令を梅沢が覆さなかったかぎり、現場の最高責任者が責任追及されるのは当然だ。

百人近くが自決したのに、自分の名誉さえ救われれば、「胸のつかえが全部とれた」とは。梅沢さんがこうした「帝国軍人らしい」人格の持ち主なのか、それとも再話者が悪いのか。

「梅沢個人の命令」があったどうか、は分からない。だが大日本帝国に責任があったことは間違いない。「軍命令がなかった」ことを大声で言い立てたがる人は、沖縄戦の悲劇を反省しているとは言えない。むしろ「軍は市民を守らない」というわたしの偏見を、裏付ける存在のようだ。

2)先祖を悪し様に

 小学生や中学生の我が子に向かって、先祖のことを悪し様に、まして事実でない世間の作り話を尾鰭まで付けて教えるような愚かなことを、正常な人間だったら決してやらない。 子供たちには、彼らの先祖に対して誇りや尊敬心を持てるようなこと、これからの人生を生きてゆくための手本や励みになるようなことを先ず話してやることが本当の愛情というものではないか。

http://www.jiyuu-shikan.org/faq/daitoasensou/okinawa.html

 降伏すれば助かる時も降伏はせず、「御国のために死ぬ」事だけが価値だと教えたことは間違っていなかった。今後も国民はそうあるべきだ、と言いたいのだろう。

 それが愛国だと。(わたしのようなアナキストを喜ばせるだけだがw)

3)大江健三郎

  <生き延びて本土にかえりわれわれのあいだに埋没している、この事件(=座間味村、渡嘉敷村の軍命令による集団自決を指す・筆者註)の責任者はいまなお、沖縄にむけてなにひとつあがなっていないが、(中略)かれが本土の日本人にむかって、なぜおれひとりが自分を咎めねばならないのかね? と開きなおれば、たちまちわれわれは、かれの内なるわれわれ自身に鼻つきあわせてしまうだろう>(六十九~七十頁)

  <新聞は、慶良間列島の渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男、どのようにひかえめにいってもすくなくとも米軍の攻撃下で(中略)「命令された」集団自殺をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長が、戦友(!)ともども渡嘉敷島での慰霊祭に出席すべく沖縄におもむいたことを報じた>(二百八頁)

  <かれは他人に嘘をついて瞞着するのみならず、自分自身にも嘘をつく。そのような恥を知らぬ嘘、自己欺瞞が、いかに数多くの、いわゆる「沖縄戦記」のたぐいをみたしていることか>(二百九頁)

大江健三郎著『沖縄ノート』(岩波新書)

 大江はべつに変なことを言ってない、と思った。

集合体の罪という発想 のメリット

集合体の、多数個人各々が、

みんながやっていることを、自分もやって何が悪い、という

集団心理、責任を擦り付け合えると思うことによって、

個人一人であればできなかったようなひどい事をやってしまった場合には、

その責任は、集合体が背負う事によって

集団心理の責任の擦り付け合いをしても、

やはり、結局は代償は払わなければならないものになるという

罪をなす事のリスクが、確定するのだと思う。

自分が、腹を切って自決してお詫びして、居なくなって(逃げて)しまっても

自分達の子孫に罪が受け継がれると思ったら

そういうひどい事は、あらかじめ、しないようにしようと思う理由のひとつになると思う。

http://amo-ya.blogspot.com/

∵◇◆blog d’amo◆◇∵
******mi sento come fossi 線香花火*****

=集合体に、その時点と、それ以降に加わる個人は全てその罪を背負っている

かもしれないしそうじゃないかもしれないし、責任の所在も、特定しようとすれば

もにゃもにゃしているが、確実に重たい。

=だから、せめて、この重たいものをそれ以上増やすのはやめないか、と。

罪が集合体というひとつの存在によって

繰り返されているものと考えて、

痛い思いをしながらなお繰り返しているという

その愚かさを認識する   (同上)