風神、名-志那都比古神。

またまた久遠の絆さんより。id:kuonkizuna:20050408/p3(何度も引用させていただきます。ありがとうございます。)

前回ちょっと日本書紀を読んだとき、「次生、木祖-句句迺馳。次生、草祖-草野姫、亦名-野槌。」とある、この「くくのち」と「かやのひめ」が私には、非常に印象的でした。

それと並んで、一書には「級長戸邊命、亦曰-級長津彦命。是風神也。」とあるらしい。ここは読み飛ばしていた。

『古事記』上卷にある(らしい)「志那都比古(彦)神(しなどひこのかみ)」も忘れずにメモしておこう。

JR西日本は何のために戦っているのか?

その路線(福知山線)は阪急電鉄と競合している(梅田-宝塚間)。というかわたしのような昔の人間にとっては阪急のイメージの方がかなり勝っている。これはJRの関係者にとって不愉快な事態だろう。だとしてもJRはなぜ勝ちたいのか?株主の利益のためか。

 率直に言って、あまり意味がないことに近視眼的心情を燃やしているのではと思う。鉄道は利用者の為にある。JRは勝とうとするために無駄なエネルギーを使うべきではない。

三大考とは

(ロートレアモン風に言えば)

“まぐわい”の上での太極図と創世記の突然の出会い

のようなものか。

天皇を中心とする政治のしくみ

「天皇を中心とする政治のしくみ」を聖徳太子が造ろうとしたというが。崇峻天皇を殺したのは蘇我馬子であり、太子はその同盟者であった(ことになっている)。「太子漠然として、曰く「此れ、過去の報なり」と」*1

もちろん、偉人としての太子がフィクションなら上記もフィクションだろう。だがそうでないという立場で記述するなら、上の疑惑にも答えて貰いたいものだ。

複雑怪奇な日本史を小学生に数頁で教えるのは不可能に近い。しかし日本史のパート2「貴族の政治とくらし」で、飛鳥・奈良と平安時代を教えるのだが、ページ数は前者が10頁、後者が4頁である。事実かどうか不明の聖徳太子になど頁を割かず、平安時代にもっと頁をさくべきであろう。

平安時代では「藤原氏は、むすめを天皇の后とし、生まれた子を天皇にたて、天皇にかわって政治を進めていました。」と記述されている。この記述の水準からいっても上記のスキャンダルには答えるべきだろう。

「天皇を中心とする政治のしくみ」というのがどういう意味か全く確定できないのがこの混乱の原因だ。単に中央集権国家という意味で使いたいのか、あるいはすべての人民の存在の全てを捧げ奉るべき天皇という狂信主義へのベクトルをあながち拒否しない使用法なのか、それともまた別の意味なのか、まるでわけが分からない。

「訳の分かったような分からないような」言葉やフレーズを呑みこんだふりをして生きていく術、などわたしは子どもに教えたくない。

*1:「聖徳太子伝暦上」

それは敗戦ではなかった

 戦争に負けることは誰のせいで負けたのかという責任者を捜して叩くことにつながる。ところが日本では東条以下十数名は、天皇を中心にした支配層がアメリカに差し出した犠牲であり、最初から憎悪の対象ではなくしばらくしたら許されるべき存在だったと思われる。日本という同一性はいささかも傷を負わずに敗戦を生きのびてしまった。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050226#p3

恥ずかしくないのかね?

 先の大戦末期の沖縄戦で日本軍の命令で住民が集団自決を強いられたとする出版物の記述は誤りで、名誉を棄損されたとして、当時の守備隊長と遺族が著者でノーベル賞作家の大江健三郎氏と岩波書店を相手取り、損害賠償を求める訴訟を大阪地裁に起こすことが二十三日分かった。

http://www.sankei.co.jp/news/morning/24iti002.htm

Sankei Web 産経朝刊 沖縄守備隊長遺族、大江氏・岩波を提訴へ 「自決強制」記述誤り、名誉棄損(07/24 05:00)

米軍が沖縄の渡嘉敷島と座間味島に上陸した昭和二十年三月下旬、両島で起きた住民の集団自決について、大江氏らは、これらの島に駐屯していた旧日本軍の守備隊長の命令によるものだったと著書に書いているが、そのような軍命令はなく、守備隊長らの名誉を損ねたとしている。

沖縄戦の集団自決をめぐっては、

昭和二十五年に沖縄タイムス社から発刊された沖縄戦記『鉄の暴風』で、赤松大尉と梅沢少佐がそれぞれ、両島の住民に集団自決を命じたために起きたと書かれた。この記述は、沖縄県史や渡嘉敷島(渡嘉敷村)の村史など多くの沖縄戦記に引用されている。

疑問を抱いた作家の曽野綾子さんは渡嘉敷島の集団自決を取材し『ある神話の風景』(昭和四十八年、文芸春秋)を出版。

座間味島の集団自決についても、生存者の女性が「軍命令による自決なら遺族が遺族年金を受け取れると島の長老に説得され、偽証をした」と話したことを娘の宮城晴美さんが『母の遺したもの』(平成十三年、高文研)で明らかにした。

その後も、昭和史研究所(代表・中村粲元独協大教授)や自由主義史観研究会(代表・藤岡信勝拓殖大教授)が曽野さんらの取材を補強する実証的研究を行っている。

 やれやれというしかない。裁判の論点はどうあれ、わたしたち市民~国民にとっての論点は、「国軍が市民(国民)を守る」という建前が崩れたかどうか?である。「国軍が村の上層部などと一体になって働きかけることにより、たくさんの市民の自決が行われた」ことはどうあがいても動かせないはずだ。

参考:林博史氏の論文「「集団自決」の再検討」

http://www.geocities.jp/hhhirofumi/paper11.htm

 それより彼らの目的は何なのかね。ふやけたナルシズムを蔓延させても亡国につながるだけでしょうが。

産土(うぶすな)=パトリへの忠誠

戊辰戦争においては多くの藩が、薩長側(天皇)か幕府かという選択を急に迫られ右往左往してたわけです。上記の奈倉哲三氏論文からもう一箇所引きます。

二本松藩は幕府軍側で戦うことに決定。7月29日、新政府軍と激しい交戦となる。

そのさなか、農兵司令官として出陣していた三浦権太夫は、勤王論者として王師(おうすい)(天皇の軍隊)へ弓を引くことはできぬとして交戦を拒否、阿武隈川東岸で空矢を放って自刃した。合祀年月は不明であるが、靖国に祀られている。*1

 三浦氏は、(おそらく)うまれ育った故郷、その代表としての藩に対する忠誠と、自分が意識的に獲得してきた勤王イデオロギーの間で葛藤し、ついにどちらかに付くことは決断できず、自刃した。ところが靖国側は、その「勤王」の面にだけ注目し、靖国に合祀した。

 これと同じ事は「大東亜戦争」でも、無数に起こっている。南の島で餓死に追いやられ、祖国に対し怨みしか持っていない死者も沢山居たはずだと思う。それでも形式的に「護国」ということにして合祀する。一方空襲の死者とかは急進的愛国者が仮にいても合祀の対象からは外れる。また今回の台湾「高砂族」などのように遺族が合祀から外してくれと請求しても応じない。

 「国家の為忠奮戦死せし霊」だけを降ろし、神社に鎮座させるという*2選別装置。死者を選別するだけでなく、死者の内なる葛藤を拒絶し「国家の為」という面だけに光を当てる装置である、というわけだ。

*1:同書p113

*2:伝統に反した

約二百万人の日本人死者への責任は?

おとなり日記から

本来平和主義者で戦争回避論者だったが、東條英機をはじめとする強硬派の主張に引きずられ、あくまで立憲君主としての中立的立場に固執するあまり、戦争への流れを止められなかった、基本的には軍部の被害者であった昭和天皇。

そういう一般的な昭和天皇のイメージは、近年の公開史料に基づいて書かれたハーバート・ビックスの『昭和天皇』が提示する驚くほど好戦的な昭和天皇像によって根本的な修正を迫られている。

http://d.hatena.ne.jp/motoski/20050815 もとすき日記

逆に言えば、昭和天皇の判断が誤っていたから、約200万人の死者が余計に失われたのである。

この事を普通の日本人が当たり前の歴史的事実として受け入れるまでに、果たしてあと何年かかるだろうか。はっきり言えるのは、たとえ何年かかろうとも、この問題を解決しない限り、日本人にとって「戦後」は終わらないということだ。

敵が中国や韓国や東京裁判なら戦いは容易である。左翼やリベラルが敵でも同じこと。

臆病で優柔不断で好戦的で保身的で日和見的でずる賢い自国の天皇が本当の敵だったと分かったとき、私たち日本人は一体どのように戦うのか。決戦の日は刻々と迫っているように思われる。

(同上)

 日本人ははたして自己決定を望んでいるのか。自己決定せずに何かに引きずられていき、ひどい目にあっても「やむを得なかった」といって納得して死んでいくのが好きなのではないか?

国家のために死んだ・・・

国家のために死んだ(生を中断させた)人を弔わないのはおかしい。

という論理を批判するのは難しい。「ために」という言葉のニュアンスの問題もある。餓死者だって、「国家のために」死んだわけだが、この場合の「ために」は、国家が糧食補給という義務を果たさなかったから、国家の加害行為によって、というニュアンスになる。普通は、国家からの命令という契機はあったものの「国家のために」「ふるさとのために」という思いを以て、というその人本人の自発性がそこにあった、という意味で使われるだろう。

わたしの言う狭義の被害者(餓死者など)については、戦うという能動性を国家の不手際によって奪われたわけですから、「国家のために」という国家とのシンクロからも隔たったなかで死んでいったことになります。敵に一発の弾も撃てずにただ蛆に食われるためだけにこんなところで死んでいくとは、という自嘲とともに死んでいった、のでしょう。

であればそのような死者に対し国家が為さなければならないことは謝罪であり、君の死は無駄ではなかったという顕彰などではない、ことははっきりしています。この点を明確化できなかった日本は、普通の国家になりそこない、窮極のマゾヒズム国家か、非力な絶対平和主義かの二者択一しかないわけですね。

追加情報

http://www2.ipcku.kansai-u.ac.jp/~nikaido/oarai.html

大洗磯前神社の近くの天妃神社は、かって水戸光圀が媽祖(まそ)を祀った神社。

大洗磯前神社の有名な海上鳥居の写真有り。中国民間信仰研究家二階堂善弘氏のサイトです。

http://d.hatena.ne.jp/nmomose/20051004/ibaraki

N.Momoseさんによる大洗磯前神社ほかの巡礼日記。上記もここのリンクから知った。