返事が遅くなってすみません。
余裕もないのに、ある人につっかかったりしてしまい困ったものです。
差別語問題の前提は、社会の現実と言説空間において大きな歪みが存在しているということです。その場合において、ある人が何気なくある言葉を使うことで、別の人を傷つける。それはある人が別の人を差別したことになる。何気なくある言葉を使うことがある人を権力的に上位におく行為になる*1そうすると、具体的な被害者がいなくても、そういう場合は差別的行為をしたことになります。ただ、<大きな歪み>を誰が認定し、行為者に認識させていくのかという大きなアポリアがあります。ある差別問題が社会的に認められるまでは、なんらかの“当事者による暴力的な糾弾”がないと、それが「問題である」とは誰も思わない。
従軍慰安婦はサバルタン(認識されない人)です。現在、「それが存在したのかどうか?」が論点になっているようですが、かってはそんな論点は存在しませんでした。存在はした*2、だが、それが「問題である」とは誰も思わなかったのです。(非日本)アジア人女性は差別されて当然の存在であり、彼女たちが声を挙げる可能性はないと思われたのです。声を挙げても誰も聞かないだろうと。ところがある時“暴力的な糾弾”の代わりに彼女たちは裁判提訴という形を選択しました。それが大きく取り上げられることにより、彼女たちは初めてサバルタン(何か言っても聞き取ってもらえない人)ではなく半ば主体となったのです。しかし彼女たちの主張はほとんど(時効などの理由で)否認されました。そこで民衆法廷という新しいプロジェクトを行い、日本とアジアの民衆に広く訴えかけることにより、問題設定を公認させようとしました。しかし、2000年現在においては、すでに新しい右翼運動も起こっており、日本のマスコミに大きく取り上げられることはありませんでした。このような状況下で安倍晋三問題は発生した。問題は大きく騒がれても私が指摘したような状況認識を欠いたものがほとんどです。
このような認識に立つとき、広い意味で日本の法律の世界にある人が「法は法である」みたいな立場で、「不快」を発言するのは、はなはだおかしいと思われます。
ところで、「実際、差別語について理屈を並べ立てて(あるいはそれすらせず!)使用したことを正当化する人はうんざりするほど多いですから。」野原はそういうタイプだった。反省!
とりあえず。
追記:
迅速に応答できず心苦しいのですが、できればどんどん継続していってください。よろしくお願いします。
(今は2/5ですが、2/4分に上げます。この日付操作は読者の皆さんにも迷惑かもしれませんが、発言順より、あるテーマをひとまとめにすることを優先するという方法を今のところ取っています。決定稿の前の段階でUPしてしまうのも迷惑でしょうね・・・ いろいろすみません。)