停電する自由

 昨日夜中パソコンしてると突然パソコンが切れた。停電である。だが街路や回りの家の電気はついている。ウチだけヒューズが飛んだのだ。(なぜか理由をさぐらないといけないがここではしない。*1)12時過ぎだったからしばらく暗闇でうろうろしてから蒲団に入り眠った。それまで十数分、色々なことを思った。わたしたちは何かしようとするときいつもまず手近のスイッチを押してから考える癖が付いている。だがいくらスイッチを押そうが何も反応しないのだ。電気に頼り切った生活に今さらながら気付く。できることはなにか。触覚だけでなく聴覚も残っている。そう言えば、地震の直後暗闇で小さな音楽会とかなかったのであろうか。(六甲大地震’95のことだ。)あの時は食糧もなくパニくっていたのでそんな企画はなかったようだ。あったら素晴らしかっただろうに。あの時月が綺麗だったのは覚えている。あの時は電気だけでなくガスも水道も止まった。イラクでも何処でも停電の多い国は多いが日本はあまりない。私たちの生活とはなんだろう。なぜパソコンで文章を打つのに手書きでは書けないのだろう。わたしの自由とはなんだろう。わたしは停電する自由しか、断食する自由しか与えられていないのに、その自由に気付いていないのではないか。

 ちなみに引用しようとして消えてしまった立岩氏の言葉。「存在のための手段によって私という存在が規定されてはたまらない。」*2

*1:ウチは中古住宅でどういうわけか、ヒューズとブレーカーが二重にある。翌朝すぐとりあえずつないだ、いまからヒューズを買いに行く。

*2:p128『自由の平等』

絶対零度な闇

いっさいの忘却。存在の夜の底への深い降下。無知の発する限りない嘆願。不安の河に溺れること。深淵の上の方を滑ってゆくこと。そして、完全無欠な暗闇の中で、深淵の恐怖を味わうこと。孤独の寒さの中で、人間の永劫の沈黙の中で、戦慄し、絶望すること。……私は神をもはや知らない。*1

暗きより暗き道にぞ入りぬべきはるかに照らせ山の端の月〔拾遺1342〕

(和泉式部)

和泉式部とバタイユの間にはちょっと見、類似があるように思える。即ち、暗闇と絶望。でもやっぱり全然違いますね。和泉式部の場合、闇には湿度と温度があり切り裂かれた絶望につり合うだけの暗黙のアニミズムがあり、後半の救済を用意している。バタイユはただの暗闇ではなく完全無欠な暗闇を体験し打ちのめされ絶対的絶望におちいる。

*1:p89『内的体験』

日本にとって一番大事なこと

 1937年7月8日北京郊外の廬溝橋で銃撃戦があった。7月11日午後8時停戦協定が成った。ではなぜ、日本軍は8年間も中国大陸全体に兵を展開し続けたのだろう?「中国軍は弱すぎてとうてい日本の敵ではない、廬溝橋で事件が起こったそうだが、ちょいとおどしてこらしめてやるか、華北一帯を完全に日本の支配化におくという年来の希望を達成するいい機会だ、という程度の」決意をもって、北支出兵を決定した。それだけなら良かった。中国軍が弱いというのはおおむね嘘ではない。それから8年の間、兵を退く(停戦する)機会がなかったわけではない。だが一度も退却は選択されなかった。

 どういう条件になったら止める、という条件を明確にせずに兵を出兵させることが最悪のことである。この反省は日本人にとって最低限の、だが決定的に重要な反省である。

 「イラクにおける人道復興支援活動及び安全確保支援活動の実施に関する特別措置法」はこの反省に基づいて作られている。

2条3項 対応措置については、我が国領域及び現に戦闘行為(国際的な武力紛争の一環として行われる人を殺傷し又は物を破壊する行為をいう。以下同じ。)が行われておらず、かつ、そこで実施される活動の期間を通じて戦闘行為が行われることがないと認められる次に掲げる地域において実施するものとする。

8条5項 対応措置のうち公海若しくはその上空又は外国の領域における活動の実施を命ぜられた自衛隊の部隊等の長又はその指定する者は、当該活動を実施している場所の近傍において、戦闘行為が行われるに至った場合又は付近の状況等に照らして戦闘行為が行われることが予測される場合には、当該活動の実施を一時休止し又は避難するなどして当該戦闘行為による危険を回避しつつ、前項の規定による措置を待つものとする。

8条4項 防衛庁長官は、実施区域の全部又は一部がこの法律又は基本計画に定められた要件を満たさないものとなった場合には、速やかに、その指定を変更し、又はそこで実施されている活動の中断を命じなければならない。

 現在自衛隊はひきこもっている。8条5項に該当すると思う。サマワ周辺は非戦闘地域でなくなったと思う。もう少し危険に成らなければそこまでは言えないとする判断もありうる。だが<日本で一番大事なこと>は「客観的にみてある条件を満たさなくなったときは兵を退く!」という一点にある。いかに困難であろうとその決断を貫くことが、戦死者たちから委託された神聖な任務なのだ。

北朝鮮は元在日の帰国を認めよ

下記によれば、1960年帰国事業で北朝鮮に渡った安本さんの姉の帰国を求める運動が起こっている。朝鮮総連は在日朝鮮人の感情と利害を最もよく理解している。関係者が死に絶えるまで待つつもりか?

http://www.chunichi.co.jp/00/ach/20040413/lcl_____ach_____008.shtml

朝鮮総連、受け取り拒否

上京の安本さん、姉の来日嘆願署名提出で

 重病の母(86)の見舞いに北朝鮮の姉(67)を来日させようと取り組む豊田市の在日二世、安本左久子さん(59)が十二日、実現を求める署名提出で東京を訪ねた。集まった署名は全国からの約七千三百人分。在日本朝鮮人総連合会(朝鮮総連)は「前向きに努力はする」としてきた言葉とは裏腹に門前払いで、署名簿の受け取りを拒否した。 (辻渕 智之)

 安本さんの姉は一九六〇年、在日朝鮮人の帰国事業で北朝鮮に渡ったまま、一度も日本に戻っていない。三好町に住む在日一世の母は昨秋、脳内出血で入院。北朝鮮は出国を認めないが、日本政府は昨年末、姉への渡航証の発給を認める異例の措置をとった。

情報収集のための拷問

[毎日新聞5月7日]より

http://news.www.infoseek.co.jp/topics/world/human_right.html?d=07mainichiF0508m033&cat=2&typ=t

虐待内容の項目は20を超える。「男性収容者に自慰行為を強要して撮影」「弾薬を装てんした拳銃で脅迫」「収容者を裸にして数日間にわたり放置」「軍用犬をけしかけ脅す」……。屈辱と死の恐怖で収容者の精神をくじこうとする執拗(しつよう)な意図が浮かび上がる。何が目的だったのか。

 虐待の多くは、昨年10月から12月にかけ、同刑務所の「1A」「1B」と呼ばれるエリアで発生した。複数の容疑者は、同エリアは「軍情報部の管轄だった」と供述している。軍情報部の主な任務は、収容者を尋問して得た情報を、イラク国内の治安維持活動などに利用することだった。少将は報告書で「他の政府機関」の担当者も、尋問を行っていたと指摘している。米中央情報局(CIA)の職員らも含まれると見られる。

 容疑者の男性軍曹によると、情報機関員らが看守役の憲兵らに対し「こいつが口を割るようにしてくれ。夜も眠らせずにな」などと虐待行為を奨励・指示していた。別の容疑者の女性兵士も「MI(軍情報部)は、収容者から供述を取りたがっていた」と証言している。尋問が順調にいくと、憲兵らに「よくやってくれた。簡単に落ちたよ。全部の質問に答えた」と感謝したという。

 ついでに「赤旗」5/8からも引用。アブグレイブ収容所で民間の取調官として勤務していたネルソン氏の証言。

「舞台が目標の家を捜索した際、(被疑者が)居合わせなかったら、ほかのだれでもを捕まえる。それが彼らの仕事だからだ。」「兵士たちは強いプレッシャーにさらされている。彼らは、(イラク人を)だれも知らないし、文化的専門家でもない。彼らが望むのは、帰郷する日を数えることだけだ」

概念集・2 ~1989・9~ 目次

概念集(2への序文の位相で)  1

概念と像の振幅     2

技術          3

無力感からの出立    5

自主講座        7

自主ゼミ        9

連続シンポジウム    11

大衆団交        13

一票対ゼロ票      14

参加          15

瞬間          17

表現手段(過程)    19

年周視差        21

生活手段(職業)    22

華蓋・花なきバラ    24

メニュー        25 

訂正          27

六甲あるいは〈 〉空間の方法  29

「私」(主体)の余白に

http://d.hatena.ne.jp/strictk/20040927 への応答)

 strictkさん 応答が遅れてすみません。

ぜひとも、応答しなけりゃいけないとの思いもありました。ですがなかなかうまく書けませんでした。『NANA』を題材にあげてのテーマがあまりに直接的身体的であり、そのような強度を全く見落としたままでこの問題を論じていたわたしがあさましく思えた、そのような気持ちもあったということです。 そのような気持ちをかかえたまま、すこし逃げていました。

『NANA』の8巻から11巻まで読みました。面白かったです。ただわたしは8巻から突然読みはじめたので、ハチ(奈々)が「新婚生活」に入るに当たって捨てた世界というのを読んでいないので、ハチが持っている二面性が分かっているとは言えませんが。

「ナナは、奈々のいうところの、母性本能という言葉に動揺し、自分の考え方を揺るがされます。」野原10/7にも触れましたが、ここでちょっと考えさせられました。つまりナナはもし子供ができたらという問いにあらかじめ答えを出していたはずです。だからめんどうでもピルを飲み続けていたのでしょう。であればなぜ、母性本能なんて言葉につまずくのか。そんなは必要はないのじゃないか。自動的にそう思ってしまう野原には、あらかじめ決めた(浅はかな)図式に合わせて現実を整形してしまう傲慢な男の浅はかさがある!と糾弾されるでしょうか。

もう一人の主人公奈々ですらこう言っている。「誰にも内緒で堕ろしたら何事もなかったように今まで通り生きてけると思ったの…でも病院で…ほんとに自分の子供がお腹にいるんだって分かって…急に実感みたいのが湧いて…」産婦人科で見せられるエコー写真はそれこそ不定型な黒い固まりが写っているだけだ。堕ろす可能性があればそれは見てもしかたないものだろう。見ても何も写っていない。そこで実感など抱く必要はないのだ。フェミニストの一部がそう断言する気持ちも分かる。不鮮明なエコー写真に<到来する他者>を見てしまうかどうか、それはその人自身にとっても年齢や情況によっても答えが変わってくる問題だろう。そこに他人が善意の倫理観や宗教的確信を持ち込むべきではないだろう。産まないと決めているのに、なおこの<到来する他者>という問題に出会い衝撃を受けてしまうナナに感動した。

さて、一番の論点は

☆ 子育て共同体に育てられた子供の一人であるわたしは、今度は別の子育て共同体に参加しなくていいのか?という問いかけです。

この問題をstrictkさんは丁寧に展開し、イエスと答えられました。ただし、

あくまでも他者としての子供であり、「私」(主体)を揺り動かし、理解不能で厄介な他者であり続ける子供の傍にいることに、耐え続けるための子育て共同体です。そういう意味では、子育て共同体には、参加せざるをえないと思います。 という意味においてです。

これこそまさにわたしの言いたかったことです。より明瞭に表現してくださってとても嬉しくおもっています。

 子供を持つか持たないかは個人の自由だ、という文章は、個人の責任だ、とも言い換えられます。これは言いかえれば、責任がとれないなら産むなということですね。命令としては、産んだ以上生まれてきた者に対し、愛とか仁とかいうものを持続すべきだろう(そう言い切ることに問題はないように思える)。それはそれでいい。だが、1年中続く乳幼児の世話や長期に渡る多額の費用負担などというものは、現在ではやはり「結婚して家族をつくる」という方法以外では、不可能に近い。

「性愛=出産=核家族」という三位一体の近代家族は美しいイデオロギーにも飾られ、優れた制度であったわけですが、現在限界にきているようです。したがって、それに代わる緩やかな制度をわたしたちは用意していかなければいけないと考えられる。それなのにフェミニズムなどの側が、家族からの自由を主張するばかりで足りると思っているとすれば、そこには理論的にみて盲点があるじゃないか、というのがわたしの主張でした。それぞれの個人に、出産あるいは子育てに関わらなければならない倫理的義務がある、などという主張はしていませんので念のために書いておきます。(もっともそのための税金は取ってもいいと思っている。ちなみに、ニーチェもそういう意見だったようだ、*1関係なかったか。)

倫理的義務という問題に近いけれども微妙に違うのが、次の問題。

 望んでいない子供(他者)との出会いによって、「私」(主体)を変化させた奈々と、子供(他者)との出会いを避け避妊を続けるナナ。「NANA」は、どちらが正しいといったり、より良い生き方だといったりもしません。しかし、自分の体が子供を孕み得ると知ったとき、この問題は全てのそういう体を持つ人が直面せざるをえない問題です。

性愛の行為は出産の可能性を(避妊していても、多少は)持つ。商行為としての売買春においてだ。しかし売買春においては、それは業者側の責任で初めからなかったものとされている。わたしたちはこの間、婚姻外性行為の自由を獲得してきた。しかし家族制度は生きのびているわけで、婚姻外の性行為に関わって孕んだ者は裸のまま放り出されるルールになっている(ようだ)。この場合、自己責任という言葉は孕んだものの側にだけ適用される、つまり男性の責任は問われない。それが不当なことであるのは言うまでもない。この点、『NANA』の男性たちは立派である。結婚しようとするロックスターはもちろん、も一人の少年も避妊していたにもかかわらず自分の関与の可能性を否認しない。しかしよく考えればすぐ分かるように、strictkさんが上記で語っている問題はもっと深い。

(突然ですが)性行為というのは<死>の交換かもしれない。NANA(11)のまんなかへんには、ナナがレンに性交中、首を絞められるシーンが描かれている。だが次の頁ではその後、ナナの「顔色よくなった」ことが報告される。ありふれたSMプレイとして受け止めることができたからではないだろう。華やかで現代的な『NANA』という漫画は、主人公たちが皆不幸な生育歴を持つという点で古い(ロマン主義的?)ステロタイプを踏んでいる。彼らの華やかな生活のうらにはいつも絶対的孤独と<死>が待ち受けている。

望んでいない子供の可能性という危険と、ここでいう<死>は近接関係にあるかもしれない。不幸な生育歴を持つものたちの方が早く子供を欲しがるというのは良く言われることだ。

 性愛を快感と欲望のタームでだけ語るのは一面的だろう。<死>とだけ関連付けるのもファシズム的だろう。出産と快感と自由の喜びを語る文化(古事記以前の時代にはあったようにも思われるが)が、今後、切り開かれていくべきだろう。

*1:一定の年齢以降の独身男性の税金の負担増(たとえば遺産相続のさいの)p525『生成の無垢』ちくま学芸文庫

日本国民の約半数は

イラクへの自衛隊派兵に反対かかなり疑問を持っているという。

自衛隊派兵はすでに為された。だが問題は現時点において当初目標に対しどれだけの成果が上がったかなどのきちんとした検証がなされることなく、ひたすら小泉ポチ路線(対米従属路線)によってあらかじめ定められた路線が継続されていることにある。今回の誘拐犯グループからの要求に対してもあらかじめ定められた答えNOが発せられた。サマワはすでに非戦闘地区とはいえない、したがって自衛隊は撤退すべきだ。撤退しないという路線は、次の自衛隊員が数人あるいは十数人死ぬのを待っていることだ。こうなったのはアメリカが主導する占領体制が失敗したからだ。待っていても問題は前進する可能性はない。

 日本は民主主義国なのだから、国民はいまイラク派兵を支持するのかどうか、声をあげて発言するべきだ。イラク派兵がイラク国民の為に役立っていると信じる人が過半数なのなら、香田証生さんという人が殺されてもしかたないということになるのかもしれない。しかしそうでないなら、自衛隊撤退の声をあげ小泉を至急追いつめて自衛隊を撤退させ香田氏の生還を勝ちとらなければならない。香田氏は無意味に死んだことになる。

著作権/引用について

 現在日本にあるすべての法律を尊重しなければならないものでもなかろう。公共の福祉に反しないかぎり自己の幸福を追求していいのだから。後は他者の権利との調節の問題(司法の領域)だ。国家といえども多くの場合、私と対等な権利主体にすぎない。*1「著作権」というものの理解については当然、著作権者(「持てる者」)と利用者との利害対立を反映し、解釈にも相違が出るだろう。シェアウエアなどの作者は弱い立場でお願いしているだけだし、しかるべき金額は払うべきだと思う(ズルしてることもあり、スンマセン)。ただ「大企業である=著作権者」の利益など特に尊重する必要もないのでは。ハリウッドや日本の音楽産業などのコンテンツに興味がないからでもあるが。難しい問題なのでこれはとりあえずのメモ。

下記に、分かりやすい入門とリンクがある。(最初、リンクだけしとこうと思ったがまとまらない思いを上に書きました。)

http://d.hatena.ne.jp/katawa/20041113#1100358461 はてなダイアリー – この平坦な戦場で生きのばす為に

*1:日本の司法はちゃんと機能しているのか?という問題になるが。