国体護持とは?

 西武=堤家の国友会のニュースと、ニッポン放送の社員一同の声明文のニュースを続けて聞くと、あの<<国体護持>>*1ってのもそんなもんだったにすぎなかったのでは? とおもいますよね。

参考:

ニッポン放送の社員は全員「社員一同」が、ライブドアの経営参画反対だそうだ。

社員が全員反対論もなく意見が一致するなんてことはありえない。

つまり、ニッポン放送では、社員が自由な意見を発表できないってことだよね。

こういう企業には自由な空気がないのだから、マスコミとしてはふさわしくない。

http://d.hatena.ne.jp/worldtraveller/20050303#p2

「国友会」について

http://diary.jp.aol.com/applet/druhcfrzcms/20041105/archive

*1:百万以上の日本人がそのために死んだ

本居宣長の神(迦微)概念(その2)

 まことの道は、天地の間にわたりて、何れの国までも、同じくただ一すじなり、然るに此の道、ひとり皇国(みくに)にのみ正しく伝はりて、外国にはみな、上古より既にその伝来を失えり、(略)

異国の道は、皆末々の枝道にして、本のまことの正道にはあらず、(略)

まづ第一に、この世の中の惣体(そうたい)の道理をよく心得おくべし、その道理とは、この天地も諸神も万物も、みなことごとく其の本は、高皇産霊(たかみむすび)神、神皇産霊(かみむすび)神、と申す二神の、産霊(むすび)のみたまと申す物によりて、成出(なりいで)来たる物にして、(略)されば神代のはじめに、伊邪那岐、伊邪那美二柱大御神の、国土万物もろもろの神たちを生成(うみな)し給えるも、其の本は皆、かの二神の産霊(むすび)の御霊(みたま)によれるものなり、

抑この産霊(むすび)の御霊(みたま)と申すは、奇々妙々なる神の御しわざなれば、いかなる道理によりて然るぞなどということは、さらに人の知恵を以て、測り識(し)るべきところにあらず、(略)

さて、イザナギ神、女神のかくれさせ給ひしを、深くかなしませ給ひて、ヨミの国まで慕い行かせたまひしが、この顕国(うつしくに)にかへらせたまひて、そのヨミの国の穢悪(えあく)に触れ給えるを清め給ふとして、筑紫の橘の小門(をど)のあはぎ原に御禊ぎし給ひて、清浄にならせ給へるところより、天照大御神成り出ましまして、御父大御神の御事依(よさ)しによりて、永く高天原(たかまのはら)を所知看(しろしめ)すなり、

天照大御神と申し奉るは、ありがたくも即ち今此の世を照らしまします、天津日の御事*1ぞかし、

さて疲れてきたので、もう少しくだけて写すことにする。

天照大御神は皇孫尊(すめみまのみこと)に葦原中国(なかつくに)をしろしめせとありて、天上より此の土へ下し奉りたまふ、

そのときに、大御神の勅命に、「あまつひつぎは あめつちの むたときはかきはにさかえまさむ」とありし、この勅命はこれ、道の根大本なり、

勅命をひらがなだけで書いたので何のことか分からないでしょうが、要はあまつひつぎ(天皇のことだろう)に此の世の総てはまかせるぞ!みたいな意味なんでしょう。

以上「玉くしげ」本居宣長*2の最初のところからでした。

かなり長く引用したが、これが宣長によって再編された神道なるものの核心部分だ(と思う)からです。

 それまでの日本では華夷秩序的な世界像が普通でした。世界の中心に中国がありそこから周辺へ向けて段々文化、秩序が緩んでいくといった世界像です。江戸時代の中ごろから(明滅亡以後)は中国ではなく日本を真ん中に置くこともありましたが世界像の形は同じです。ところが宣長の場合は全く違います。世界は「まことの道」というものが普遍的に支配しているのだと宣言してしまう。でそれが神道なわけですから、これをまともに信じたら大東亜戦争期のように(いまでいう)海外に神社をいっぱいいっぱい作り続けるしかなくなる、わけですね。

  1. 万物は産霊(むすび)の神の産霊(むすび)の力によって生成した。
  2. 太陽でもある天照大御神が高天原を支配する。
  3. 此の世の総てはあまつひつぎが支配する。

という構造ですね。

前回と対比的に取り上げたのは、前回は、尋常でないすぐれたる徳があるものは神だ、ということで「貴きもあり賤しきもあり、強きもあり、弱きもあり、善きもあり、悪きもあり」、となんでも善かったのですが、今回は全くニュアンスがちがうなあ~と*3

 この宣長の二つの部分を引用しようと決めたのは、教育委員会に君が代のことを聞いてつらつら考えたからでした。君が代の内容に意味があるわけではない、国歌だから認めて欲しいという低いレベルのお願いと、それほど遠くない過去にあった「生きて俘虜の辱めを受けず」的総動員体制との間にはちょっと同一化しかねるほどの落差があります。

 ところが、この宣長の二つの神の定義の間にも、同一化しかねるほどの落差があるわけです。

ということはこの四つはやはり国家神道的なものということで同一化して理解して良いのかもしれないですね。

ということが言いたかったのでした。(うーん苦労した割には?)

それと愛国心などをナショナリズムという範疇で語るべきなのかどうか。宣長の神道的なものなら、自国の論理で世界を支配できるとするものなのでちょっとどこからみても駄目だろうということにしかなりません。

*1:太陽のこと

*2:1786年

*3:前回は古事記伝巻三、1767年くらいなので、二〇年ほどは違いがある。とは言っても、この差異は同じ物の両面とみたい

公、天皇、国家に献身する精神

4/6の朝日新聞では「つくる会」教科書を特集している。

(扶桑社の歴史・公民の教科書)両分野を貫く形で強調されたのは、公、天皇、国家に献身する精神である。

歴史では武士道の忠義の観念に光を当て、「公のために働くという理念」としてコラムを新設した。武士を「究極的には天皇に仕える立場」と位置づけ、源頼朝や足利尊氏、徳川家康らが天皇や朝廷から将軍に任命されたと強調している。

ふーむ。「つくる会」教科書というのは、水戸学派のイデオロギーによって歴史を語るものなのだ。でも待てよ、尊氏は「廃主の命を奉じて、叛臣の名を免れ、光明院を擁立して以て正閏の分を乱す」*1人物ではないですか。尊氏について天皇や朝廷から将軍に任命されたと強調しているのだとすると、大義名分論には反しますね。(水戸学とは何か分かっているわけではないのでまあちょっと書いただけですが。)

 中国では歴史の任務は「善を彰(あら)わし悪を貶(おと)す」ことと考えられていた。したがって歴史を学ぶことにより、いかなる権威や権力にも屈しない勧善懲悪の倫理的立場を理解することができるわけです。尊氏であれ誰であり彼がどの点において善でありどの点において悪であるかが書かれる。事実を直書するという方法により。それを鑑(かがみ)とすることで為政者は治世に資することができる。

 現代日本の右翼はまさにプチウヨであり、倫理とかいう言葉が大好きなようですが倫理という物の根本が分かっていない。天皇、国家なんてものは普遍的なものではない。倫理という限りは普遍的な善とか悪が語れなければ話しにならない。

 もちろん天皇は普遍的なものだ、と主張する神懸かり的な立場も有りうる。というよりも神道は、仏教、儒教という普遍思想との絡み合いのなかで自己を形成してきたので自己を普遍として語ることしかできない。「まことの道は、何れの国までも、同じくただ一すじなり。id:noharra:20050326#p2

 ところが明治になって採用した国民国家は、諸国家のあいだの一員でしかないのであり、多少大きくなって帝国を名のろうが、中国のように自己が世界の中心であると信じることはできない。ここにおいて国家神道を軸にした国家統合は最初から根本的矛盾を孕んでいた、ということが指摘できる。

 でもって現在のプチウヨは、「天皇、国家に献身する精神」などというアプリオリに普遍性を欠いた物を「公」という名前であたかも普遍であるかのように売りつけようとしてくる。

 倫理を欠いた献身などただの奴隷道徳であり、わたしたちはつい60年前に実際に国民全体で実践したではないか。これが分からない奴は馬鹿だ。

*1:安積澹泊「大日本史贊藪 」p177『日本思想体系・近世史論集』

確かに一致はする

上のエクセルの式で

A4に a=+D3+C3 と書きました。(a3-b3-c2+c3と同じ)これを、

A4に aa=+b3  に変えてから下にずっとコピーしても、C列の結果は変わりません。

1と0が並んでいますが、これを下から読むと

入力数字の2進法表示になります。

例:1000 ->1111101000

これを最初の1を削って、最後に1を追加し10進法に変えると、答えに成ります。

(2のk乗) > n > (2の(k-1)乗) の場合、( n- (2の(k-1)乗))×2+1

で答えが出るというのがdempax方式ですが、これを2進法で表現すると上記のようになります。

(5/14 22時)

モヒカンチェック(7/16追加)

http://ryak.net/fun/mohicancheck.html モヒカンチェック!

あなたはイロコイ族的刹那主義だそうです。

でもイロコイ族とは?? エンゲルス『家族・私有財産・国家の起源』ではイロクォイ族です!

■タイプ7になっちゃった方

[あなたはイロコイ族のようです]

あなたの行動指針は[快楽]です。何より、毎日が楽しい場所を望みます。

反面、厳しい現実から逃避して自分を甘やかしがちです。

楽しいことは共有できても、この人とは苦しみは共有できないかも、そう思われてることがありますよっ。

[タイプ7のあなたならこんなことはしない]

最後まで自分の記事に責任を持つ

毎日毎日、変化のない日常を記事にする

[たまにはこんなことをすれば吉]

一度に書き上げる記事を絞ってみましょう。

最後まで自分の記事に責任を持つ、意志はあります!

ひめゆりの死の上に、戦後のわたしたちの平和と繁栄がある。

 ひめゆりに限らず、戦没者に対して、「みなさんの犠牲の上に戦後のわたしたちの平和と繁栄がある。」という言い方がよくされる。

だが、本当だろうか?

 全員が生き延びたシムクガマと「集団自決」で多くの犠牲を出したチビチリガマとを見ればわかるように、チビチリの犠牲者は死ななくてもよかったんだ。なにも死ぬ必要もなかった。もし彼らが生きていれば、平和を築くために働くことができただろう。生き残った者が必死でがんばったからこそ現在があるんだ。「みなさんの死があったから、今日の平和が生まれました」というのはちがう。彼らが戦争で死なずに生きていれば、もっともっといい社会を作り上げることができたにちがいない、と。

チビチリガマに避難していた人々は、事実を教えられていたならば、誰も死なずにすんだはずだった。はっきり言えば、そこで死んだことはなんの意味もないことだった。

ひめゆりの女子生徒たちは、軍とともに南部に撤退し、看護婦としての仕事もないまま壕に隠れ、ついには軍に見捨てられた。第1外科壕の生徒たちは脱出したが、戦火の中で多くが犠牲になり、あるいは「自決」をとげた。第3外科壕では脱出前に米軍に包囲され、投降を拒否したため爆雷をなげられて、ほとんどが犠牲になった。病院壕であれば、表に赤十字の旗と白旗をかかげて、投降の呼びかけにしたがって壕を出ていれば、誰も死なずにすんだ。第1外科壕にしても、脱出といっても地獄に放り出されただけのことにすぎず、同じようにしていれば助かったはずだ。そこでの死に一体なんの意味があったのだろうか。みんな生きることができたのに、捕虜になることを許さないという日本軍の狂気によって犠牲にされたにすぎない。生きていれば、新しい沖縄の建設に若い彼らはきっと貴重な役割をはたしたはずだ。(林 博史)

http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/essay02.htm

曾野綾子は大江を名誉毀損している。

と言えると思う。

上記で彼女は「一斉に集団自決を命令した赤松大尉を(略)、大江健三郎氏は「あまりにも巨きい罪の巨塊」と表現しています。」と書いている。「あまりにも巨きい罪の巨塊」の出典は下記だ。読めば分かるように、責任者*1のことを「あまりにも巨きい罪の巨塊」と、大江は表現してはいない。「人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう。」「彼」は消化しきれない「罪の巨塊」を前に為す術を模索し、「自己欺瞞と他者への瞞着の試みをくりかえす」ことにより、「罪の巨塊」を少しづつ少しづつ摩滅させることに成功する者として描かれる。明らかに「罪の巨塊」は彼とは区別された物として彼の前に置かれている。「赤松大尉を、大江健三郎氏が「あまりにも巨きい罪の巨塊」と表現しています。」というのは明らかな虚偽である。

 でこの文の主語たる彼、あるいは「責任者」は「自己欺瞞と他者への瞞着の試みをたえずくりかえす」者である、つまりそれを悪であると大江が指弾していることは確かだ。しかしながら「自己欺瞞」というキーワードが明らかに示すように、この文章は大江特有の実存主義的臭気にみたされている。罪といっても権力の発語する罪とは違い、Aという実在の人を白日の下に罰に導く力を持っているものではない。「たえずくりかえしてきたことだろう」という述語により「責任者」という主体は現実世界からズレ、自己(他者)瞞着を逃れえない実存の世界の住人となるのだ。そこにおいては、「彼」を指弾することは、「かれの内なるわれわれ自身」を指弾することでもなければならない。

 「あまりにも巨きい罪の巨塊」はわたしの前にごろんところがっている。つまり予めわたしと罪が結ばれているわけではないのだ。だのにわたしたちは、否認しなければという思いに駆られ、その「巨塊」をかみ砕きすり減らそうとする。それは確かに見たところ希薄化していく。しかしその努力こそが“わたしの内に罪を”根付かせるのだ。大江が言っているのはこういうことに近い。

したがって「赤松大尉を、大江健三郎氏が「あまりにも巨きい罪の巨塊」と表現しています。」というのは何重にも虚偽である。

曾野氏がこれを語ったのは、「第34回司法制度改革審議会」という公の場所である。しかも沖縄問題はテーマではないから強い自発性の元に語っている。そこで“大江はAを罪の巨塊とよんだ”という虚偽発言をした以上、曾野綾子は大江を名誉毀損している、ことになるのではないか。

「慶良間の集団自決の責任者も、そのような自己欺瞞と他者への瞞着の試みを、たえずくりかえしてきたことだろう。人間としてそれをつぐなうには、あまりにも巨きい罪の巨塊のまえで、かれはなんとか正気で生き伸びたいとねがう。かれは、しだいに希薄化する記憶、歪められる記憶にたすけられて罪を相対化する。つづいてかれは自己弁護の余地をこじあけるために、過去の事実の改変に力をつくす。

(略)

(「沖縄ノート」210頁 )」

生き延びて本土にかえりわれわれのあいだに埋没している、この事件の責任者はいまなお、沖縄にむけてなにひとつあがなっていないが、この個人の行動の全体は、いま本土の日本人が総合的な規模でそのまま反復しているものなのであるから、かれが本土の日本人にむかって、なぜおれひとりが自分を咎めなければならないのかね?と開きなおれば、たちまちわれわれは、かれの内なるわれわれ自身に鼻つきあわせてしまうだろう。 (「沖縄ノート」69、70頁)」

上記、大江の引用は下記より孫引き。

http://amo-ya.blogspot.com/2005/08/blog-post_13.html

サイトの文章にも共感します。記して感謝します。

ただ、urlを記すことで先方がコメントスクラムの被害にあう可能性もあるなと考え少し躊躇した。前科があるし。コメント欄とか閉じて居られるようなので一度だけリンクします。

上記サイトにあったリンク集もメモしておこう。

http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper11.htm

http://home.kanto-gakuin.ac.jp/~hirofumi/study411.htm

http://www.joy.hi-ho.ne.jp/byakuya/334.htm

http://www.geocities.co.jp/WallStreet/4053/1999-after-1b.html

http://www.okinawainfo.net/oba.htm

http://www.geocities.jp/gakuchan_nif/page179.html

http://hb4.seikyou.ne.jp/home/okinawasennokioku/

*1:大江は赤松などという固有名は書いてないようだ