家族なしには主体になれない

(1)

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040905 に対する、

hippieさんのだいぶ前のコメントに返事していませんでした(忘れていたわけではないのだが)。hippieさんは岡野氏の「「家族」は、わたしたちが自分を生き抜くために、「とりあえず」は自分の欲望は自分のものであると、自認できる存在となる「なる」ために、その形を変えながらも、わたしたちが必要としているひととひとの結びつきではないだろうか。」という文章に反論しています。

# hippie 『岡野さんの家族についての「わたしたちが必要としているひととひとの結びつき」という認識は私には乗れないです。甘すぎるよ。(略)』

ここで岡野氏とhippieさんとの差異は、家族に「」がついているかついていないかにあります。

岡野氏の使う「家族」とは、狭義のそれに対し範囲を少し拡大して考えるといった安易なものではない。

(2)「家族」の「 」について

岡野さんの『家族の両義性』という文章から要点だけ抜き書きしてみよう。

「公的領域においてひとは「ことばを理解する動物」で「ポリス的動物」であることが前提とされている。*1」思えばhippieさんとわたしとの間にもひとは憲法の条文を論じ合うことによりそれを改正していくことができるという前提があったはずだ。(RESが遅れたのは申し訳ない。)

「だが、そもそもどうしたらわたしたちは、そうした動物に「なることができるのか」。」

「ことばの選びによって初めて表現される自分を生きていくことができるということは、ひととしての前提というよりも、ひとと「なる」プロセスであると同時に、そうしたプロセスの結果でもある。」

「もちろんことばだけに限定されるわけではないのだが、さまざまな記号を使用することによって、自分の輪郭を描きだし、他者とは異なる存在として自分を生きるように「なる」ことは、わたしたち一人ひとりの経験から考えてみても、自然発生的にひとりの力でなし得るような営みではないはずだ。そして、わたしたちは、いかなる形態をとるのであれ、「家族」というユニットを、そうしたプロセスを通じてひとと「なっていく」場として、尊重してきたのではなかっただろうか。」

「わたしたちが自分を生き抜くために、「とりあえず」は自分の欲望は自分のものであると、自認できる存在となる「なる」ために」も、とりあえず、言葉を獲得していくプロセスは必要である。そのために「そのプロセスを見守ってくれる、すでに自分の欲望を言葉で分節化できる他者」に依存するという関係が必要である。

 岡野氏の文章は言葉や情念が未成立な混沌からかろうじてそれらを成立させようとする現場に立とうとしており、まわりくどい文体になっている。

(3)

それに対し、hippieさんは「わたしたちが必要としているひととひとの結びつき」とフレーズの持つ“甘さ”を問題にする。家族イメージを甘やかなイメージで飾り立てることにより「家族制度」というものが延命し存在してきた事実、それをイデオロギー的に糾弾するというスタンスに立っている。

 しかし糾弾とは原点に戻って考えてみると、自己身体の分節化出来ない叫びに根拠をおくものではないのか。そのとき、それが私でないとしても、不定形で不安定で泣き叫ぶしかない存在(存在未満)であるところの乳幼児からの声を、目の前に存在しないからといって無視するのはおかしい。

 現実というものを、差別の複雑な交錯として考えることは可能だ。だがそれに還元することはできない。誰にも(何にも)支配されない自由な時間をも私たちは持っている。その意識自体が既成のいくつかのイデオロギーに染められているとしても。子供は還元不可能性の喩でもある。

『こういうことを言うのならせめて主語を「わたしたち」ではなく「わたし」にして書いて欲しいです。』hippieさんには前提の混同があるようだ。ある人の人生において子供を持つかどうかは彼女/彼の自由だ。しかし現在、家族というものを考えるとき、「子育て」というテーマをは不可欠のものだ。また逆に、「子育て」を「家族」なしに行う試みも成功していない。もちろん施設で育つ子供たちもいるのだが、そっちがメインにはなりそうもない。というか、その場合でも(切実に)「必要としているひととひととの結びつき」がなければ子供は、自立した自由な主体になりえない、と岡野氏は論じているわけである。したがってその断言をくつがえしえなければ、「甘すぎるよ」はただの感情的放言になる。

「子育て」の問題を考察しないで「家族」の本質をぐいっとつかんで、論じることはできない。

関連野原表現:http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040706#p1

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040905#p1

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040916#p1

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040926#p1

*1:p128・『現代思想』

囚人の帽子(その4)

「n人の囚人に, 赤の帽子 n個と 白の帽子(n-1)個の場合 — 練習問題」

を考える。分かったらすぐに手を挙げるルール。

表記が繁雑になるので 10人の囚人に, 赤の帽子 10個と 白の帽子9個の場合を考える。

1a)Aさんが、白の帽子9個を見る>(白はそれ以上ないので)自分は赤だと分かる。

1b)手が挙がらない場合>>「白=9」ではなかったことが、全員に分かる。

(ここまでで1分掛かるとする)

2a)Aさんが、白の帽子8個を見る>(白はそれ以上ないので)自分は赤だと分かる。

2b)手が挙がらない場合>>「白=8」ではなかったことが、全員に分かる。

(ここまでで2分掛かる)

3a)Aさんが、白の帽子7個を見る>(白はそれ以上ないので)自分は赤だと分かる。

3b)手が挙がらない場合>>「白=7」ではなかったことが、全員に分かる。

(ここまでで3分掛かる)

4a)Aさんが、白の帽子6個を見る>(白はそれ以上ないので)自分は赤だと分かる。

4b)手が挙がらない場合>>「白=6」ではなかったことが、全員に分かる。

(ここまでで4分掛かる)

という風に順に進んでいき、10分間手が挙がらなかったら、「全員が赤だ」と判断できることになります。

ところが、実際には推理し手を挙げるまでの時間は人により異なっているので、上記のように同期をとることができません。

任意の瞬間に手を挙げても良いのではなく、

1分ごとに「分からない/分かった」の旗を同時に挙げる、とルールを改正すれば、この問題点は解決します。

id:noharra:20041113#p3 の(その1)の問題では、

少なくともちょっとの時間、3人が黙って考えていて手を挙げなかったことになっています。「賢者」であることがことさらに強調されているので、その間に、(2b)まで進むことができただろう、と考えることもできます。その場合、「全員赤」になります。

「Aに聞き、次にBに聞き」というストーリーの設定はこの問題には馴染まないということだろうか。

そこに言葉があるとは限らない

 概念集・3からは最初の部分、松下がめずらしくゲーテを引用している部分から引こう。*1

 ゲーテの「ファウスト」第一部で、メフィストフェレスが次のようにいう。

「概念が欠けている正にその場所に、言葉が丁度よい時に姿を現わす。論争も体系の構築も信仰も、言葉があるからこそ可能なのだ。…このような役割の言葉からは、表現された形態の微小な部分でさえも変更することはできない。」

 この箇所は、前から気になっていた。さまざまの人がこの箇所を論じているが、どの翻訳や解釈にも納得しがたいので、あらためて原文で確認し、試訳してみた。久し振りにこのような作業をする気になった理由は、納得しがたさからというよりは、私たちの情況にとって、生きていくのに不可欠な概念が欠けて久しいのに、概念ないし、その欠如を指し示す言葉はなかなか現われず、いくらか姿を見せても、不安定にゆらめいたり、消滅したりする場合が殆どである事態への関心からであろう。

(『松下昇 概念集・3』p1 より)

わたしは、わたしが生きていくのに不可欠な概念の欠如に苦しんでいるか、といえばそうは言えないようだ。概念であれ言葉であれ、それが不在であることに気付くことがまっず、なかなかできないことだろう。でもそうした事態に興味があるのでとりあえず断片的引用をしておきます。

*1:松下昇は、ハイネやブレヒトを研究するドイツ文学者から出発した。

fairとは?

http://d.hatena.ne.jp/liddy/20050120

北村肇さん(「週刊金曜日」編集長)

朝日が本質的な問題を提起したにも拘らず、問題がすりかえられ矮小化されている。問題は三つ。

o NHKが政治的に番組を変えていたこと。過去にも、島ゲジ時代にもあった。

o 番組について自民党の議員を回って釈明していること。

o 政治家本人は圧力ではないといっているが、「公平にやってくれ」と言ったと認めている。これは圧力以外の何ものでもないし、「その何が悪い」と開きなおっていること。

(北村さんおよびliddyさん、引用させていただいてありがとう。)

1/30のN・Bさん発言

(1/24のコメント欄から、こちらに上げます)

# N・B 『 どうも毎回丁寧にありがとうございます、このように下に下に継ぎ足して書いていっていいのか少し迷っています。

 かなり、難しい問題が続いたので、とりあえず1つ目の問いに答えますと、他人を不快にさせることはやはりごく普通の意味でまずいのではないでしょうか?

 それ以上に差別語問題のような場面ではやはり誰かが不快になったという前提は「事実として」必要だと思います。実際、差別語について理屈を並べ立てて(あるいはそれすらせず!)使用したことを正当化する人はうんざりするほど多いですから。もちろんそもそも、野原さんが描いたような、Aさんは存在するし(笑)、相手を批判するためにも理解するためにもむしろきちんと深読みするべきだとすら思います。

 ただ、以前に書いたように「強い責任理論」のもとでは、差別語を投げつけられた人と、Aさんとの区別が出来ないのです(責任のインフレーション)。しかし、「強い責任理論」は現代社会の複雑さから採用されているのでもはや差別などに興味のない人々でも捨てることが出来ないわけです。結果として(比喩的な意味で)声の大きいほうがのさばることになってしまいます。それでも、私としては「差別」のような現実が「理解できない声」を聞いたときにあらわになることを考えると、Aさんの声も不快ですが聞かざるを得ないというのが私の暫定的立場です。

 ついでに、大分議論が進んできて、法学的に民衆法廷は大変よくないという議論は少なくとも「まともな法学者」が一致するような見解ではないことは明らかになったと思います。

 なお、田島さんのコメントは「声を大きくする」ために「法学」(あるいは類似の専門知識)を「専門家」が使うことへの率直な批判だと思います。

 それから、コーネルはラドガーズ大学ロースクール教授だそうです。では、どうも。』

ナターシャさん母子の行方と面会についての提案

ナターシャさん母子の行方と面会についての提案

 9月9日の公判の後で喫茶店で話し合っている時に次のテーマが出ました。

①二人の娘さんたちをタイの施設で育ててもらうか、日本の施設で育ててもらうか?

②実刑判決の前ににナターシャさんと娘さんたちの身体のふれあう面会は不可能か?

 今のところ一傍聴人に過ぎない私が提案することではないかも知れないのですが、黙っているよりほ何かの参考にしていただくために意見をのべる方がよいと考えました。

①については、もしタイで暮していくとすれば、まだ年令が幼い(4才と2才)段階で帰国していた方がタイ社会にとけこみやすい、という考えと、日本にいる方が支援グループの眼や手がとどきやすい、母との面会も可能ではないか、という考えがあります。

 後者の考えを実現するためには、日本国籍を取ること、今後の長い年月にわたって娘さんたちと共生していくプランを具体的に準備し、ナターシャさんや娘さんたちの了承を得ておくことが不可欠になります。このことを引き受けていく度合でだけ、後者の考えは、支援してきた過程の心情を生かす方法として適切です。ただし、日本国籍を取ることや、今後の長い年月にわたって娘さんたちと共生していくことの大変さももく判りますし、服役を終えた(あるいは仮釈放された)ナターシャさんが強制的にタイへ送還される場合にどうするか、についても考えておく必要があります。

 前者の考えをとる、とらざるを得ないとしても、後者の考えをできる限り生かそうとしつつ、そうしていくのがよいと考えています。また、タイの施設の実態や、親族との関係についても現地へ行かれた人から詳しい情報を伝えていただき、かりにタイへ娘さんたちが戻った後も私たちの支援の眼や手が届くような態勢をとっていくことが大切です。

 前者・後者いずれの考えも共通の支援の意思に支えられているのですから、充分な討論を経て出される結論には、どちらの場合も私は賛成です。

 ②については、現在の拘置所の規則推持者は、まず認めないでしょう。唯一に近い可能性は、公判の法廷で裁判長の指示により被告席での面会を認めてもらうように弁譲人から申し出てみることでしょう。判決を含めて公判は、あと二回しかありませんから、至急に弁護人へ提案してみませんか?できれば、次回(10月11日)の弁論(被告人のために有利な事情の提起、検察官の論告の批判)の間はずっと娘さんたちが被告人の傍に座っていてもよい、という許可が出れば一番よいのですが、それが無理でも、開廷直後または開廷直前に、手錠~腰縄で拘束されない状態で母子が身体的にふれつつ別れのあいさつをすることは認めさせたいものです。次回(10月11日)の法廷で弁譲人から突然申し出ても、裁判長は当惑して拒否するでしょうから、事前に何度もねばり強く交渉していってほしいと切望します。

 ②に関連して私からのべておきたいことがあります。(これを③とします。)それは、娘さんたちにとって最初は衝撃であるかも知れないとしても、母の置かれている状態を説明しておく方がよいのではないか、ということです。幼い娘さんたちを拘置所へ面会に連れていく時に「病気のママのお見舞いに」というように仮装してきた配慮はよく判りますが、上の娘さんは、すでにおぽろ気ながら事態を察知しつつあるようですし、今後も必ず明らかになっていくことですから、今から明確な説明の準備をしていく必要があると思います。(かの女らにも私が概念集10に掲載した表現をいつか読んでほしいと願っており、それ以前にも、明確な説明の準備に役立てたいものです。)

 娘さんたちには、母であるナターシャさんが「悪いこと」をしてつかまっているとか、罰として何年も刑務所に入るのだというような既成の社会的秩序のレベルで説明しないことが原則であることは、いうまでもありません。大変むずかしいことですが、この試練をくぐることによって娘さんたちばかりでなく私たち自身も、より深く事件を把握し、共闘していくことができるのではないでしょうか。

 私は大学闘争に関違する事件で何度も勾留されましたが、幼い子どもにも正確に事態を伝え、面会に来てもらったり、公判の傍聴に来てもらったりしました。幼い子どもは、大人が思うよりもずっと正確に事態の真実を見ているものです。心をこめて説明すれば、形式的な手錠~腰縄などにショックを受けることなどありません。むしろ、形式的な手錠~腰縄の不当性を見ておく方が子どもたちの将来の生き方にとってプラスであると確信します。

 その他の多くの関連テーマについては、集会の討論過程で直接のべるつもりですが、時間的に特に②が切迫しているので文書にして配布します。

         一九九四年九月二十一日

ナターシャさん母子を見守っている人々へ            松下昇

註-③についてエピソードを二つ…

・拘置所から法廷へ連行される時に通過する場所には「サングラスをかける人は申し出れば許可する。」という札が掛けてある。これは、拘置所当局にとっては人権保護のつもりなのであろうが、同時に、拘置所当局は被告人が「悪いことをして、社会的な視線を恥じるのが当然の存在である」という判断をしていることを示している。警察官が逮捕した人の手錠をタオルや衣服で隠してやる「配慮」も同じである。こういう感性を否定し、超えていくことを私たちの〈常識〉にしていきたい。

・私は、ある時期に東京と大阪で裁判を受けていたので、手錠~腰縄のままで新幹線で往還した。トイレへ行く場合もドアは半開きにしてあり、付添いの看守が見守っている。しかし、私は全然平気で、何度もトイレへ行き、乗客(とくに子ども)の尊敬を含んだ視線を体験した。トイレの中では、出発前にパンツの中に隠してあった食料を取り出して味わい(!)、出ると横の冷却水を何杯も飲んだが、看守は何も文句をいわなかった(いえなかった?)。私はタダで新幹線に乗れて幸せを感じていた。

参考:概念集のp15右頁には、「ナターシャさん母子を見守る会通信」の1頁がコピーされていた。ここ。

p15-16 『概念集・11』~1994・12~

刊行委の註

 この提案は、この形態で9月下旬以降に配布された。提案の①については、予測通り、子どもはタイの施設へ送る方がよい、という結論になった。ただし、支援グループの中で前に保母をしていた人が同行し、子どもがタイの施設に憤れるまでの一定期間、一緒に暮らすプランを立てており、支援グループの代表者である木村氏は日本商社のタイ出張社員であるが、来年秋にタイへ移住し、今後の娘さんたちの成長を見守っていく予定である。①については、きびしい制約を考えると、この展開は最善のものといってよい。

 提案の②については、松下としては、短時間で終了し、結論が明白になる数カ月後の判決公判の法廷での母子の出会いよりは、その前の公判で弁護人が被告人のための弁論をおこなう法廷で具体化し、できれば弁論だけでなく、子どもを抱いた状態での被告人質問をも実現していくことに意義があり、それによって判決にも影響を与えうると考えていた。

 しかし、10月11日の公判までに弁護人5人の意見のズレがあり、支援グループとしては弁護人の方針以上の行動を展開する発想も経験もないため、10月11日の公判での実行は、裁判長との交渉さえも具体化せず、松下は暗い気持で10月11日の法廷に座っていた。ところが、松下の提案や論議が一つの要因となって弁護団の弁論が充実したものになったために、また、それに対応した同時通訳が困難になったために、この日には弁論の半分しか朗読できず、判決までにもう一回公判を設定せざるを得なくなった。このような幸運に支えられて、11月25日の公判で松下の提案を再度具体化する試みが可能になったのである。

 11月25日の公判の経過は、一言でいえば、実現を希望しつつも、前例のなさ故に自主規制してしまう各人の〈ためらい〉の集合が、時間や秩序の柵を越えて母子を出会わせることを不可能にしてしまった。この限界を各人が痛切に感じたことは微かな成果であるが、これに匹敵する闘いの場を各人が自分で発見していく時にのみ、そういえるのである。

 各人は、母子の出会いを不可能にしているのが秩序体系だけではなく、自分の内的な希求と実現方法のズレでもあることに気付き、単にナターシャさんへの同情や、事件の背景への一般的な怒りから支援してきた根拠の浅さを思い知ることになった。私についていえば、プランの提起や法廷秩序との対決の準備だけでは突破しえないテーマとの遭遇であった。今回のプランはナターシャさんと娘さんと日常的に接触し、双方の心に触れうる人でない限り実行できないし、支援者も統一的な方針をもち得ないが、このような条件を前提し、かつ突破していく仮装組織論の深化が問われている。

 今回の問題を69年以来の諸問題、特に武装闘争(の武器や人のドッキング)との対比、女性や子どもが闘争の主体となってくる情況への準備、それを踏まえての69~闘争の未対象化テーマの追求と応用に生かしていきたい。

 子どもたちを被告席で抱きつつ論告批判や意見陳述をおこなうことが不可能であったのは残念であったとはいえ、私たちは今回の限界を突破していくことを深く決意しつつ、ナターシャさん母子と共に闘う日の来ることを切望している。

p17、 『概念集・11』~1994・12~

(上記*1への註)

 11月25日の直前になって、支援グループ内には子どもを法廷へ連れてくるほどに子どもと親しい人がいないこと、子どもをあずかっている養護施設側は裁判所から母と会わせるという文書が来ない限り職員が子どもを連れていくことはできないといっていること、また、それ以前の問題として、ナターシャさん自身も(先に知らせておくと出会いが実現しない場合にシヨックが大きいという支援グループ内の意見で)出会いプランを知らされていないこと、弁護団の統一方針が未定のため裁判所への交渉はおこなわれていないことが判った。これらの問題を討論できる場を設定することさえも困難であったが、松下らは11月19日に別の集会で支援グループの代表者が報告することを知り、さまざまのゲリラ的な出会い方を構想していくことを前提としつつ、自分を含む全ての関心を持つ人々に、次の提起をおこなった。

①実際に11月25日に子どもを法廷へ連れて行けないとしても、また、弁護団の統一方針がなくても、裁判所に対して法廷での出会いを認めるように、出会いに賛成している弁護人から交渉を開始してほしい。

②ナターシャさん自身が自分の言葉で、子どもたちに事件の本質、裁判、予測される実刑と長い別離について説明し、法廷の被告席で出会いたいと意思表示してほしい。これは娘たちの〈法廷〉への意見陳述としても不可欠である。

③法廷で問題とされた外国人を被告人とする刑事事件における通訳・翻訳の重要性と共にナターシャさんの娘たちに事件の本質を伝えていく〈存在領域の壁を突破する通訳・翻訳〉の必要性を、各人が抱えている困難な問題の他者への伝え方に応用したい。

①~②~③への註--この提起が19日の報告者から各弁護人へ届いていなかったことが25日に判明して松下らは愕然とした。弁護人も、被告人が「反省」していることを強調するためか、母子に関しては、刑期の短縮を主張する媒介としてのみ言及した。閉廷後に傍聴者の元保母さんは、「そこまでいうんやったら何で会わしたれていわへんねんて、どなったろかしらんとおもた」と松下に語った。同時に松下は、弁護人の質問に対するナターシャさんの次の発言に衝撃を受けてもいた。「ワタシハ、イツノヒカ、コドモヲダケルケド、リササン(死亡した女性)ハ、ダケナイ」…この言葉を生かしつつ私たちの提起を実現していくことは(不)可能か、と考え続けてきている。

 これまでの経過は、事件の規模を越えて多くの問題を根底からとらえかえす必要を迫っており、11月25日だけでなく判決公判(95年1月31日午前10時)にも直接の出会いが実現しない可能性が大きいとはいえ、私たちのそれぞれが、今回の提起が突き当たっている壁に出会うことこそが、〈ナターシャさん母子〉に本質的に出会うための不可避の前提であり、その壁を突破していく過程でのみ母子の出会いも本質的に可能になるであろう。

 17の右 『概念集・11』~1994・12~

*1:原文では「17ぺージ」

「人権擁護法案」

下記の福島みずほのところの意見に賛成

今月中旬、2年半前に廃案となった「人権擁護法案」が国会にふたたび上程されます。

この法案では人権委員会を法務省の外局として設置することが提案されており、さらにメディア規制の規定は当面凍結するものの、削除されないこととなりました。

人権委員会は行政から独立したものでなければならず、法務大臣の所轄に属するという今回の法案には大きな問題があります。国連が難民と認定したクルド人を強制送還(1月18日)するという法務省に人権救済を託してもいいのでしょうか。日本政府に対し、独立した第三者機関の人権委員会を設けるよう勧告した国連規約人権委員会の決定、またパリ原則にも反するものです。

http://www.mizuhoto.org/01/02.html

信仰の自由/思想信条の自由

# index_home 『なんだか私が混乱させてしまったみたいで申し訳ありません(^^;

えーと、なんだか私の方が読み違えたようです。野原さんが「個人の魂と国家を結びつける重要なメディア」と規定されたのかと思ってしまいました。それとは反対の立場なんですよね?誠に申し訳ないです。

私は、たぶん「信仰の自由」というよりは、普通に「思想信条の自由」ということでいいような気がします。日の丸君が代を「各個人の魂と国家をむすぶ重メディア」だと規定付けられるという「思想信条」。その思想信条自体に、自分は反対する立場であると。それを認めるか認めないか…が「寛容」の話になっていくのかな。と。ただそれを「思想信条に類する問題ではない。国家の構成員としての問題である。」として「思想信条」ではないとする人たちへの論理として、ロックの論が応用できるということなのでしょうか。

「信仰の自由」で解くなら、むしろ靖国問題のほうかなと。あれは単純に神道だから云々というよりは、その存在の歴史的経緯や祀られている神を神として崇めることを肯定できるか出来ないか、肯定しないものを排除する論(しばしば『非国民』とでもいいたげな言説が登場しますよね)は、どういうことかというような話だと思うので。と、話が飛躍してしまいますね。うーん。』 (2005/03/20 23:25)

# hal44 『はじめまして。

ロックが異教徒に対する寛容及び信仰の自由を説いたのは、‘信仰は個人に於ける魂の本質であり、外部からの強制によって転向を促すのは不可能である。転向するものは魂に嘘をついているのであり真の転向というのはあり得ない。よって宗教弾圧は無駄である。下手に弾圧をして敵意を増大させるより、異教徒には寛容に対処することが社会的に得策である’というの議論が根底にあってのことでした。

つまりロックおいて信仰心とは外部から変えることの出来ない本質的なものでありそれが故に社会的な規制は及ばないという理屈ですから、この手の本質主義を教育問題でのあるところの君が代日の丸問題に持ち込むのは、かなり危ない議論に成りかねないと私は思います。愛国心が信仰心と同価に扱われ、本質化されることになるからです。

私が興味を持ったのは、実はHikaruさんが言う、国家が「幻想の共同体」であるということを前提としてどのような議論が愛国心に関して可能かということです。ロックが想定した本質普遍的な人間主観ではなく、日々日常の中で、日の丸や君が代によって「愛国心」なるものを刷り込まれることにより、そのような「愛国心あふれる」人間に成る可能性が大である文化的構築物としての人間主観を想定した議論が必要ではないでしょうか? 

そのためには、「愛国心」について、考えなければなりません。

個人的には愛情の対象として国家を選ぶというのは、アニメ美少女でオナニーするくらい虚しい行為だと思うのですが、そういう人も確かにいるからよくわからない。失礼。』 (2005/03/21 03:56)

(野原燐)

hikaruさん こんにちは

hal44さん はじめまして

「それを「信仰や思想信条に類する問題ではない。国家の構成員としての問題である。」として」(生徒に対してだけではなく父兄にたいしても)強制することが、日本中で行われてきた。もちろん「強制ではない」という言い訳の下に。これに対してどのような論理で対抗していくのかという問いに出会ったわけです。

 この問題の出発点は、あくまで野原が子どもの卒業式に出たところ、式の冒頭「起立」「国歌斉唱」という命令/時間にであった、という事実にあります。一人の市民としては、君が代とかに批判的な考えを持っていたとしても、なんのこっちゃと思いまあその時間さえやり過ごせば、「わが子の卒業を祝う」という本来の目的に添って卒業式を体験することが出来るわけですからまあ大抵はそうするでしょう。わたしの場合は、たまたま2年ほど前から「反ひのきみ」というMLを取っていて、そこの人々の思想に近いというわけでも必ずしもないのですが、君が代とかを強制したがる公務員というものに強い敵意をもっていました。そこで、君が代の時は、「座る(もちろん歌わない)」という態度を取ろうと行く前からだいたい決めていました。あるグループにおいてある反応の仕方を学習していたのでそのとおりにした、といえます。そうしたところで、生徒やましてや教師に比べると、なんてことないわけですから。君が代拒否は一定の形に形成されてきた文化であるわけですね。

 1945年3月段階でさっさと降伏していればよかったのにそうしなかった責任を今からでも追及しなければならない、というようなことをこの間、書いてきた手前もあり「座る」ことにしてみました。

 今日はスワンさんの文章をはじめいろいろ読んでみたけれど、うまく意見がまとまりません。

 続きはまた書きます。