明け方の東の空で接近するそうです。
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(その5)額に2枚の切手を貼る
「論理 パズル 帽子」で検索するといくらでも出てくるな。
http://chishiro.cocolog-nifty.com/chishiro/2004/11/post_5.html
chishiro.blog: 論理パズル、これは「額に2枚の切手を貼る」という不自然な設定の物。
上記に問いと答えがあるのでそちらを見てください。以下は私の私的ノート。
用意するのは、赤い切手が4枚と緑の切手が4枚(赤赤赤赤緑緑緑緑)。
3人の額に、この中から2枚ずつ貼り付けます。余った2枚は、3人に知られな(略)
Aさんから順番に聞きましょうね。
Aさん:「わかりません」
Bさん:「わかりません」
Cさん:「わかりません」
この問題のすごいところは、なんと2周目があることです。では2周目です。
Aさん:「わかりません」
Bさん:「わかりました」
一見すごく難解に思えるがそうでもない。分かったような気がしたが勘違いかもしれない。(以下ネタバレ)
1)1回目Cが「RR、GG」を見たら自分はRRまたはGGでありえないから「RGと分かる」、だからそれはない。
2)2回目Aも同じ。
また、Bが「RRまたはGG」だったら、1)を避けるため自分はRRまたはGGでありえないから、分かる。
また、Cが「RRまたはGG」だった場合、1回目Aは「RR、GG」を見ても自分がRGとはいえないのでok。「分からない」になる。
3)以上により、2回目Bは「RRまたはGG」でありえない。つまり「RG」。
このとき3人ともすべてRGになるのか?はわからない。例えばAがRRでも良いかな。
(以上、不正確な言葉使いですみません。)
大掃除
家の外の道路を掃いていてふと上を見ると、木に汚い枯れ葉がたくさんついているのに気がついた。名前を知らないつるつるした葉の常緑樹にアフリカ原産のやたら生命力の強い朝顔が一面に巻き付いて今なお花を咲かせようかという勢いだ。大きな朝顔の葉は緑のときはましだが、枯れると焦げ茶色に縮んできたない。地面をいくらきれいにしても上から枯れ葉がすぐにまた落ちてくる。そこで蔓を切って朝顔を取り除いてしまえ、とやり始めたが、手が届くところはよいが、蔓をたぐり寄せても切れてしまう高いところにはどうしても残る。細い枝に何重にもより太い蔓が絡みついているのを少しづつほぐして取り除いた。結局小一時間かかって朝顔の一部を取り除いた。やれやれ。
たった一坪強の庭でも、植物はたちまち手が届かなくなる高さまで繁りまわる。植物も生き物であり彼らの勝手に生きているのだ。
従軍慰安婦とデリダ
(1)
id:noharra:20050119#p4では、裁判過程に登場する「慰安婦」の声が文脈を構成することの困難としてあるのに、裁判官の側はそれを、自動的に自分の文脈においてだけ評価し残りは切り捨て、それが当然だと思っている。という趣旨の岡野氏の文章を引用した。すなわち、デリダのいう<亡霊>としてわたしたちの前に彼女たちは現れた。
また、亡霊は現れるだけではなく、つねに何かを語り出すものでもある。
(略)あるいは、ナチの強制収容所というおよそ証言不可能な場所から生き残った人が、長くまもっていた沈黙を破って語り出す言葉のことを考えてもよいだろう。だがこうした言葉は客観的な出来事の証言であるばかりではなく、さまざまに矛盾し、時間的に混乱したものとしても現れてくる。彼らの経験した出来事が、およそ単純に現前するようなものではなかったからである。デリダに言わせれば、こうした発言を受け止めることが亡霊の声に応えることである。亡霊の命令や約束は、つねに自己分裂・自己矛盾しながら容赦なくつきつけられる命令や約束なのである。(廣瀬)
p119『デリダ』林好雄・廣瀬浩司 講談社選書メチエ isbn:4062582597
(2)正義を求める
正義に対して正当な態度をとる必要がある。
最初の正義とは、正義の言い分を聞くこと、正義がどこからやって来て、われわれに何を要求するのかを理解しようとすること。
このとき、正義がやって来て要求をなすのは、特異なもろもろの固有言語を通じてであることを心得ていなければならない。
(cf.p47 『法の力』デリダ isbn:4588006517)
正義は、他者の特異性へ自分を送り届ける。
われわれの特異性、すなわちわれわれの基礎が検証されなければならない。
正義を取り巻くわれわれの概念的・理論的・規範的装置の起源、基礎、および限界についての問いかけを絶えず喚起しつづける、ことが必要だ。
(cf.p47 同上)
“われわれの概念的・理論的・規範的装置の起源、基礎、および限界”とは天皇にほかならない。したがって天皇有罪という四文字は、それに賛成するにせよ反対するにせよわたしたちの思考の原点におかれる。誰もが知っている(のかも知れない)天皇有罪を決して口にしないという黙契のうちにわたしたちの社会は存在していた。「天皇有罪を口にすること」は有罪か?わたしたちの社会はその問いにどう答えるのだろうか?
・・・・・・・・・・ ・・・天皇有罪・・・
・・・・・・・・・・
天皇有罪、をある人のある主張として理解するのではなく*1、わたしたちの起源、基礎、および限界として解剖していかなければならない。
「天皇有罪を口にすることが許されないこと」は、正義すなわち「ある公理への信奉者が脱構築によって宙吊りにされる瞬間*2」という体験から隔てられていることを意味する。
彼女はどのような問題なのか。
返事が遅くなってすみません。
余裕もないのに、ある人につっかかったりしてしまい困ったものです。
差別語問題の前提は、社会の現実と言説空間において大きな歪みが存在しているということです。その場合において、ある人が何気なくある言葉を使うことで、別の人を傷つける。それはある人が別の人を差別したことになる。何気なくある言葉を使うことがある人を権力的に上位におく行為になる*1そうすると、具体的な被害者がいなくても、そういう場合は差別的行為をしたことになります。ただ、<大きな歪み>を誰が認定し、行為者に認識させていくのかという大きなアポリアがあります。ある差別問題が社会的に認められるまでは、なんらかの“当事者による暴力的な糾弾”がないと、それが「問題である」とは誰も思わない。
従軍慰安婦はサバルタン(認識されない人)です。現在、「それが存在したのかどうか?」が論点になっているようですが、かってはそんな論点は存在しませんでした。存在はした*2、だが、それが「問題である」とは誰も思わなかったのです。(非日本)アジア人女性は差別されて当然の存在であり、彼女たちが声を挙げる可能性はないと思われたのです。声を挙げても誰も聞かないだろうと。ところがある時“暴力的な糾弾”の代わりに彼女たちは裁判提訴という形を選択しました。それが大きく取り上げられることにより、彼女たちは初めてサバルタン(何か言っても聞き取ってもらえない人)ではなく半ば主体となったのです。しかし彼女たちの主張はほとんど(時効などの理由で)否認されました。そこで民衆法廷という新しいプロジェクトを行い、日本とアジアの民衆に広く訴えかけることにより、問題設定を公認させようとしました。しかし、2000年現在においては、すでに新しい右翼運動も起こっており、日本のマスコミに大きく取り上げられることはありませんでした。このような状況下で安倍晋三問題は発生した。問題は大きく騒がれても私が指摘したような状況認識を欠いたものがほとんどです。
このような認識に立つとき、広い意味で日本の法律の世界にある人が「法は法である」みたいな立場で、「不快」を発言するのは、はなはだおかしいと思われます。
ところで、「実際、差別語について理屈を並べ立てて(あるいはそれすらせず!)使用したことを正当化する人はうんざりするほど多いですから。」野原はそういうタイプだった。反省!
とりあえず。
追記:
迅速に応答できず心苦しいのですが、できればどんどん継続していってください。よろしくお願いします。
(今は2/5ですが、2/4分に上げます。この日付操作は読者の皆さんにも迷惑かもしれませんが、発言順より、あるテーマをひとまとめにすることを優先するという方法を今のところ取っています。決定稿の前の段階でUPしてしまうのも迷惑でしょうね・・・ いろいろすみません。)
リベラル/日本の
2/6、一市民さんから次のような質問があった。*1
# 一市民 『日本のリベラルってどういうものなんですか?
左翼とリベラルの違いってなんですか?』
わたしのような無知、無手勝なものにそんな質問をしても・・・
ちょっと面白いと思ったので書いてみよう。
リベラル、リベラリスト、リベラリズムには、日本では、時代によって異なった多様な意味がある。
3つだけ書くと。
1)戦前、全体主義(天皇制ファシズム)に抗して自分なりの思想を(辛うじて)維持したもの。
2)戦後、マルクス主義など左翼思想全盛のなかでその抑圧性を指摘した保守派のリベラル。
3)最近、その辺のプチウヨなどに影響を与えている新自由主義。
それとややこしいのは、
4)若手学者が知の基盤としているロールズ以降の?(アメリカの)いろいろな知的動向。
1)は反体制で気骨があり、ポジションとしては左翼。
2)は保守派だが体制迎合的ではない。
それに対して、“プチウヨ”とは「フロムによれば、人々は前近代的な諸々の束縛から解放されて消極的自由を手にすると、孤独や不安にさいなまれ、自由を耐え難い重荷であると感じるようになる。そうなると人々は、かえって権威者への服従を求めるようになり、実際、ファシズムのような政治体制が生まれることにもなった。(同下)」という大昔の教科書通りの有害分子。
最近分かりにくいのは4)が増えてきて、今までの常識とどうつながるかが見えなくなっているから。
4)のイメージは次のようなものか。
本節ではリベラリズムの再確認を、井上(1986)よりスタートする。井上(1986)によればリベラリズムとは、「善」から区別された社会構成原理としての「正義」に関する探求の歴史と、未来におけるその可能性の総体である。
みんなにある正しい生き方を強制する福祉社会(管理社会)への反発が根拠にあるのか? で「正義」とか「尊厳」とかいう古いようにも感じる言葉が復権する。
http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/My%20Essay%20on%20Recomended%20Books%20on%20Liberalism.htm
リベラリズム(自由主義)は自由を最大限に重んじる思想ではない。例えば、自由の意味を「解放」としてこれを重んじる思想は、マルクス主義や神学であって、リベラリズムではない。また自由を「強制の排除」とみなしてこれを最大限に重んじる立場は、アナーキズムやリバタリアニズムであって、リベラリズムの本流からは少し外れる。現代のリベラリズムにはさまざまなバージョンがあるので、「リベラリズムというのはこういうものだ」と総括しても、実はあまり理解したことにはならない。
おおやさん、id:mojimojiさん論争も(たぶん)4)の土俵の上で為されている。mojimojiさんの(例えば2/6以降の)考察はその土俵の上での「左翼はいかに可能か?」への真摯な考察になっている。
*1:コメントは、識別しやすい固定ハンドルでお願いします。
立法が必要
http://d.hatena.ne.jp/okumuraosaka/20050221/1108980401 経由で。
日弁連が、2005年3月19日(土)被害者保護支援の法制を考えるシンポジウムを開催するとのこと。
http://wwwsoc.nii.ac.jp/genderlaw/shimpo200503.htm
シンポジウムのお知らせ
『人身売買受入大国ニッポンの責任』
~被害者保護支援の施策と被害者保護~
日本には多くの人身売買被害者が送り込まれています。しかし、加害者処罰が不十分であるだけでなく、被害者の保護支援の施策はほとんど皆無の状態でした。そのため、各国政府・国際機関・内外のNGOは繰り返し日本の対策の不足を指摘し、これらの批判を受けて、日本政府はようやく対策に乗り出し、2004年12月に「人身取引対策行動計画」を策定しました。しかし、その内容は、加害者処罰の強化については刑法等の改正を予定するものの、被害者の保護支援については現行法の弾力的適用で対処するというもので、防止対策も不十分です。
<わたし>のうちの裂け目
岡野八代『法の政治学』isbn:4791759699 を買った。とても興味深い。
菊地 夏野という方の書評が下記にある。http://www.arsvi.com/2000/031200kn.htm
以下 第三章*1の(メモになっていない)メモ。
従軍慰安婦といった話題を聞かされるときに、ひとは「うんざり」、わたしの自由が脅かされているという反応をもってしまう。そのことを岡野は自分に即して執拗に語る。わたしとは「何ものにも先立つ自由な主体」でなければならない、という西欧の知の根拠にある前提を、わたしもまた無意識のうちに受け入れているのだ。その限りにおいて、過去からの呼び声としての責任は、「振り払わなければならない亡霊」としてわたしにとってあらわれる。*2
すべての個人は自律的な一個の人格であるかのように扱われなければならない。もし、契約書があったからといって、そのとき隣の部屋で銃を持った兵士が待機していたかもしれない。そうであれば当然契約書は無効である。しかしながら私たちの社会は契約を基礎にしている。つまり契約書があればそれが裁判で無効とされない限り有効であるのだ。契約書に小さいとは必ずしも言い切れない血痕がついていた場合はどうか。わたしが騒ぎ立てないかぎりやはり契約は有効だ。だがわたしが騒げば無効になる可能性はある。*3現実の他者は常に自律的な他者ではない。*4最もコストを掛けずに処理していくべきゲームとして現実を捉えるのは確かに時間の節約にはなるがそれだけだ。そうではなく、「現在何が欠けているのか、あるいは、何が排除されてしまったのか、何が残余として存在し続けているのか」*5を問う余地は必ずある。
自由が責任に先立つという前提が<わたし>という同一性を構成し守っている。だが同一性とは錯覚によって守られているに過ぎないのではないか。世界よりもむしろ<わたし>のうちに「裂け目/切断」がある、その可能性を認めなければならない。
わたしたちはむしろ特定の物語と主題の下に主体として認められているだけだ。自由があるとすればその条件を問い返すことのうちにしかないのだ。
「<わたし>の内部で「すでにあったもの」と「欠如しているもの」の<あいだ>を配慮することが、他者と自己との<あいだ>を配慮し、より暴力的でない関係性を他者と築くことへと繋がっている」*6のだ。
ところで、3/6に掲載したように、松下昇の発想の根拠には、「自己が依拠してきた発想や存在の様式を変換する」という強いベクトルがあるが、これは未だ無いものへの変換であるため分かり難いものである。上に書いたことはこれへの解説にもなっているだろう。
桜が満開です。
うちのひどく小さな庭には小さなサクランボの木がありもう満開になりました。
3/18君が代問題以来、多くの方にコメントをいただき、とても嬉しく思っています。ブログあるいはその前の掲示板開設から数年、始めての出来事です。
なおわたしは、コメントはできるだけ本文に転写する方針をとっています。それはこのサイトの主人が、野原燐を名のる個人ではなく、参加者、読者を含めた<成長していく関係性>であるべきだ、という強い理念に基づいています。とは言っても、実際にはあくまで個人のブログでしかないのですが。
個人として見た場合、私には明らかに性格的欠点があり、せっかく来ていただいたのに挨拶すらちゃんとせず放置状態のようなありさまで申しわけありませんでした。特に今回は最初から話が広がり、今もって論点のすべてをフォローすることもできずにうろうろしている状態です。
スワンさん、hikaruさん、hal44さん、N・Bさん、私と、(たぶんspanglemakerさんを除けば)、「君が代の強制」には明確に反対、という立場のようです。いわば味方どうし!なわけですが、その分、各人の差異がどこにあるのか手探りのまま議論が続いてきた気もします。(私だけかな?)
ようやく分かってきたのは、「君が代・愛国心」などの存在自体をいらないと考えるhal44さん、hikaruさんに対し、スワンさんと野原は保留が多いわけです。
「社会公共の利益としての愛国心」は否定できない、と考えるスワンさん。一方野原の立場はまた別で分かりにくいと思います。
「パトリオティスム/ナショナリズム」を違う物として考えて、前者を肯定し後者の現実の国家組織への忠誠という面を全否定する、という論理に近いと言えます。民衆のあいだにあった儒、仏、神道などの伝統思想や通俗道徳を総括して「教育勅語」ができたのですが、それをもう一度、「国家組織への忠誠」を全否定して、伝統や通俗道徳に戻ろう、みたいな発想です。迷いが多いのですが、これから語ろうとすることはそういう方向なのかもしれない。(分かりにくくて恐縮ですが)
せっかく議論がにぎわったので、それぞれ少しづつ考えを進めていきましょう。
誰が式典をぶち壊したのか?
(野原)
fantomeyeさん
「難癖つけて式典をぶち壊す大人のほうがよほど迷惑です。」と言われるが、azamikoさんはもちろん、去年今年処分されたたくさんの教師たちのうちで、「式典をぶち壊す」なんてことをした(できた)人は一人もいないです。
万一いるのだったら教えてください。前の日に手紙を渡しに行ったり、黙って座ったりしただけでしょう?
式典の「粛々たる」進行が、妨害された例をまず挙げてください。
それがないのなら、普通の生徒なら何も問題は無いはずです。あなたは最初からイデオロギー的な過剰反応をおこしているのに、それをうまく無垢な生徒であるかのように偽装しているだけだ。と私には思えます。