http://www.qab.co.jp/kisya/vol25/vol25.html 田村記者の裏取材ノート
(20050311追加)
http://www.qab.co.jp/kisya/vol25/vol25.html 田村記者の裏取材ノート
(20050311追加)
(http://d.hatena.ne.jp/strictk/20040927 への応答)
strictkさん 応答が遅れてすみません。
ぜひとも、応答しなけりゃいけないとの思いもありました。ですがなかなかうまく書けませんでした。『NANA』を題材にあげてのテーマがあまりに直接的身体的であり、そのような強度を全く見落としたままでこの問題を論じていたわたしがあさましく思えた、そのような気持ちもあったということです。 そのような気持ちをかかえたまま、すこし逃げていました。
『NANA』の8巻から11巻まで読みました。面白かったです。ただわたしは8巻から突然読みはじめたので、ハチ(奈々)が「新婚生活」に入るに当たって捨てた世界というのを読んでいないので、ハチが持っている二面性が分かっているとは言えませんが。
「ナナは、奈々のいうところの、母性本能という言葉に動揺し、自分の考え方を揺るがされます。」野原10/7にも触れましたが、ここでちょっと考えさせられました。つまりナナはもし子供ができたらという問いにあらかじめ答えを出していたはずです。だからめんどうでもピルを飲み続けていたのでしょう。であればなぜ、母性本能なんて言葉につまずくのか。そんなは必要はないのじゃないか。自動的にそう思ってしまう野原には、あらかじめ決めた(浅はかな)図式に合わせて現実を整形してしまう傲慢な男の浅はかさがある!と糾弾されるでしょうか。
もう一人の主人公奈々ですらこう言っている。「誰にも内緒で堕ろしたら何事もなかったように今まで通り生きてけると思ったの…でも病院で…ほんとに自分の子供がお腹にいるんだって分かって…急に実感みたいのが湧いて…」産婦人科で見せられるエコー写真はそれこそ不定型な黒い固まりが写っているだけだ。堕ろす可能性があればそれは見てもしかたないものだろう。見ても何も写っていない。そこで実感など抱く必要はないのだ。フェミニストの一部がそう断言する気持ちも分かる。不鮮明なエコー写真に<到来する他者>を見てしまうかどうか、それはその人自身にとっても年齢や情況によっても答えが変わってくる問題だろう。そこに他人が善意の倫理観や宗教的確信を持ち込むべきではないだろう。産まないと決めているのに、なおこの<到来する他者>という問題に出会い衝撃を受けてしまうナナに感動した。
さて、一番の論点は
☆ 子育て共同体に育てられた子供の一人であるわたしは、今度は別の子育て共同体に参加しなくていいのか?という問いかけです。
この問題をstrictkさんは丁寧に展開し、イエスと答えられました。ただし、
あくまでも他者としての子供であり、「私」(主体)を揺り動かし、理解不能で厄介な他者であり続ける子供の傍にいることに、耐え続けるための子育て共同体です。そういう意味では、子育て共同体には、参加せざるをえないと思います。 という意味においてです。
これこそまさにわたしの言いたかったことです。より明瞭に表現してくださってとても嬉しくおもっています。
子供を持つか持たないかは個人の自由だ、という文章は、個人の責任だ、とも言い換えられます。これは言いかえれば、責任がとれないなら産むなということですね。命令としては、産んだ以上生まれてきた者に対し、愛とか仁とかいうものを持続すべきだろう(そう言い切ることに問題はないように思える)。それはそれでいい。だが、1年中続く乳幼児の世話や長期に渡る多額の費用負担などというものは、現在ではやはり「結婚して家族をつくる」という方法以外では、不可能に近い。
「性愛=出産=核家族」という三位一体の近代家族は美しいイデオロギーにも飾られ、優れた制度であったわけですが、現在限界にきているようです。したがって、それに代わる緩やかな制度をわたしたちは用意していかなければいけないと考えられる。それなのにフェミニズムなどの側が、家族からの自由を主張するばかりで足りると思っているとすれば、そこには理論的にみて盲点があるじゃないか、というのがわたしの主張でした。それぞれの個人に、出産あるいは子育てに関わらなければならない倫理的義務がある、などという主張はしていませんので念のために書いておきます。(もっともそのための税金は取ってもいいと思っている。ちなみに、ニーチェもそういう意見だったようだ、*1関係なかったか。)
倫理的義務という問題に近いけれども微妙に違うのが、次の問題。
望んでいない子供(他者)との出会いによって、「私」(主体)を変化させた奈々と、子供(他者)との出会いを避け避妊を続けるナナ。「NANA」は、どちらが正しいといったり、より良い生き方だといったりもしません。しかし、自分の体が子供を孕み得ると知ったとき、この問題は全てのそういう体を持つ人が直面せざるをえない問題です。
性愛の行為は出産の可能性を(避妊していても、多少は)持つ。商行為としての売買春においてだ。しかし売買春においては、それは業者側の責任で初めからなかったものとされている。わたしたちはこの間、婚姻外性行為の自由を獲得してきた。しかし家族制度は生きのびているわけで、婚姻外の性行為に関わって孕んだ者は裸のまま放り出されるルールになっている(ようだ)。この場合、自己責任という言葉は孕んだものの側にだけ適用される、つまり男性の責任は問われない。それが不当なことであるのは言うまでもない。この点、『NANA』の男性たちは立派である。結婚しようとするロックスターはもちろん、も一人の少年も避妊していたにもかかわらず自分の関与の可能性を否認しない。しかしよく考えればすぐ分かるように、strictkさんが上記で語っている問題はもっと深い。
(突然ですが)性行為というのは<死>の交換かもしれない。NANA(11)のまんなかへんには、ナナがレンに性交中、首を絞められるシーンが描かれている。だが次の頁ではその後、ナナの「顔色よくなった」ことが報告される。ありふれたSMプレイとして受け止めることができたからではないだろう。華やかで現代的な『NANA』という漫画は、主人公たちが皆不幸な生育歴を持つという点で古い(ロマン主義的?)ステロタイプを踏んでいる。彼らの華やかな生活のうらにはいつも絶対的孤独と<死>が待ち受けている。
望んでいない子供の可能性という危険と、ここでいう<死>は近接関係にあるかもしれない。不幸な生育歴を持つものたちの方が早く子供を欲しがるというのは良く言われることだ。
性愛を快感と欲望のタームでだけ語るのは一面的だろう。<死>とだけ関連付けるのもファシズム的だろう。出産と快感と自由の喜びを語る文化(古事記以前の時代にはあったようにも思われるが)が、今後、切り開かれていくべきだろう。
*1:一定の年齢以降の独身男性の税金の負担増(たとえば遺産相続のさいの)p525『生成の無垢』ちくま学芸文庫
イラクへの自衛隊派兵に反対かかなり疑問を持っているという。
自衛隊派兵はすでに為された。だが問題は現時点において当初目標に対しどれだけの成果が上がったかなどのきちんとした検証がなされることなく、ひたすら小泉ポチ路線(対米従属路線)によってあらかじめ定められた路線が継続されていることにある。今回の誘拐犯グループからの要求に対してもあらかじめ定められた答えNOが発せられた。サマワはすでに非戦闘地区とはいえない、したがって自衛隊は撤退すべきだ。撤退しないという路線は、次の自衛隊員が数人あるいは十数人死ぬのを待っていることだ。こうなったのはアメリカが主導する占領体制が失敗したからだ。待っていても問題は前進する可能性はない。
日本は民主主義国なのだから、国民はいまイラク派兵を支持するのかどうか、声をあげて発言するべきだ。イラク派兵がイラク国民の為に役立っていると信じる人が過半数なのなら、香田証生さんという人が殺されてもしかたないということになるのかもしれない。しかしそうでないなら、自衛隊撤退の声をあげ小泉を至急追いつめて自衛隊を撤退させ香田氏の生還を勝ちとらなければならない。香田氏は無意味に死んだことになる。
現在日本にあるすべての法律を尊重しなければならないものでもなかろう。公共の福祉に反しないかぎり自己の幸福を追求していいのだから。後は他者の権利との調節の問題(司法の領域)だ。国家といえども多くの場合、私と対等な権利主体にすぎない。*1「著作権」というものの理解については当然、著作権者(「持てる者」)と利用者との利害対立を反映し、解釈にも相違が出るだろう。シェアウエアなどの作者は弱い立場でお願いしているだけだし、しかるべき金額は払うべきだと思う(ズルしてることもあり、スンマセン)。ただ「大企業である=著作権者」の利益など特に尊重する必要もないのでは。ハリウッドや日本の音楽産業などのコンテンツに興味がないからでもあるが。難しい問題なのでこれはとりあえずのメモ。
下記に、分かりやすい入門とリンクがある。(最初、リンクだけしとこうと思ったがまとまらない思いを上に書きました。)
http://d.hatena.ne.jp/katawa/20041113#1100358461 はてなダイアリー – この平坦な戦場で生きのばす為に
*1:日本の司法はちゃんと機能しているのか?という問題になるが。
今日はちょっと酔っぱらっていたので、本屋に行って文芸誌なんかかったことないのに、「文学アジア」とかいう特集につられて『新潮』200501月号を買ってしまった。
ダルウィーシュ*1の「壁のごとし」という詩が載っている。ダルウィーシュはパレスチナの詩人なのでこの壁とは、イスラエルが建設している隔離壁(アパルトヘイト・ウォール)のことだろうか。そうであるとしてもそれは喩の彼方に隠され不分明である。
第3連はこんな感じ。天国にすでに入ったのか、すべては白である。
究極の天体のなかで、わたしはなるべきものとなるだろう。
すべてが白い。海は白い雲のうえで白い。
絶対の白い空にあって、白とは無だ。
わたしはいたのだった、いなかったのだった。
白い永遠を抜けてひとり彷徨い
時間前に到着する。
「地上では何をしてたのか?」と、
わたしに尋ねようとする天使はひとりもいなかった。
祝福された魂の賛美歌も、罪人の嘆きも聞かなかった。
わたしは白のなかでひとり、わたしはひとりだ。
パレスチナの現実では行きたいところに行く自由すらないから、死んで自由になるのか
わたしはある日、なりたいものとなるだろう。
わたしはある日、鳥となって、自分の無から存在を引っ掴むだろう。
というわけで、雲を掴むよう以上に難解。イスラム神秘主義の伝統に棹さしているのか。しかも詩としてはかなり長い、17頁。
終始、生と死の狭間の何もない空間を歩みながら、歴史と生の堆積の厚みを感じている。・・・もっと、彼の詩とその解説を読みたいと思った。
*1:この雑誌、四方田犬彦の紹介ではダルウィシュ
id:noharra:20050115#p3 で引用した歩いている島田髷の女たちは、からゆきさんとも呼ばれるものたちかな、と思った。
1972年に『サンダカン八番娼館』 山崎朋子 筑摩書房がベストセラーになってから、一時良く聞いた言葉だが、そう言えば最近全然聞かない。*1
意味は違うのだが、従軍慰安婦という言葉が良く聞かれるようになったのと反比例している。
下記のサイトがあり、「 異国の日本人墓地の小さな墓石の下で眠るからゆきさんをたずね歩き回ったひとりの男が、弔いの気持ちもこめて開いたのがこの小部屋です。」とあり、丁寧な造りに好感が持てる。
http://www.karayukisan.jp/index.html
からゆきさんの小部屋
「分布」という世界地図を見ると「このようにほぼ世界中に広がっていった」ことがよく分かる。「からゆきさんの数は、20万とも30万ともいわれています。」「日本人の影すら見当たらない地域にも、すでに100年前にからゆきさんたちは足跡を印したのです。」
http://www.karayukisan.jp/no3/index.html
Q1:いつのことなの?
江戸時代の末から明治・大正、昭和の初め頃までの話です。
明治以降、日本はがむしゃらに資本主義化していこうとするのですが、はじめ外貨不足に苦しみました。そのときの彼女たちの貢献は決して無視できるほどではなかった。
また、大正四年、全東南アジアの華僑が、日貨ボイコット運動を始め、日本国家の外貨獲得策は危機に瀕した。この時、日本国家は、暗黙のうちに『からゆきさん』たちの仕事を奨励し、彼女らの稼いだ外貨によってようやく危機を脱出した。
一時期は日本の外貨獲得に貢献したほどだったそうですが、日本の日露戦争での勝利、第1次世界大戦での戦勝国としての地位向上、国力増強と経済進出の過程で「一等国日本の恥」とみなされて取り締まりが行われ、シンガポールをはじめに各地から1920年頃を境に次第に姿を消していきました。
http://www.f.waseda.jp/kanaike/class/gender/gender2004_02_10.htm 2004年度文学とジェンダー後期第十回
マルチチュードなんて言葉も最近はあるが、定義はなんだっけ? 上品な人たちがなるべく見てみない振りをしているうちに10年、20年経つと社会の最下層に生きる女たちの国籍はすっかり入れ替わっていたりする、というようなこともあるのでは、というようなことに、わたしの問題意識はある。
反・従軍慰安婦言説の根拠には、娼婦は必要悪だとする、娼婦存在に対する絶対的差別意識がある。
*1:山崎朋子、森崎和江、村岡伊平治、は東南アジアのからゆきさんをクローズアップしたが、シベリア出兵から満州事変までの、満州周辺での女性たちの存在も大きい。
id:clawさんの発言より
・・・過去の侵略戦争と植民地支配について、南京大虐殺について、従軍慰安婦制度について、日本の為政者は「和解のための言葉」を持っていない。別にキレイゴトでなくていいのだ。「いかにして過去の歴史にピリオドを打ち、あとから文句の出ないようにして、今後のショウバイに支障の出ないようにするか」という打算さえあれば十分である。ところが実際には打算も戦略も存在しない、独自の戦略がないから「自分自身の言葉、あるいは少なくともオリジナリティを感じさせる言葉」もない。
・・・なぜそうであったかについて考えるのもよいが、とりあえず一つの参考すべき例として、かつては共にファシズムの枢軸をなしていたドイツ、その政治家の言葉に注目してみよう。重要なことは「過去への反省」うんぬんではなく、「これからの長期戦略を踏まえて、今どうする、そのために何を語るか」ということにある。
http://d.hatena.ne.jp/claw/20050128
▼CLick for Anti War 最新メモ – オトナになる方法
日本は、中国、その他のアジア諸国の民衆に対し「大東亜戦争」において大きな加害を行った。
謝罪は行われたか。「我が国の侵略行為や植民地支配などが多くの人々に耐え難い苦しみと悲しみをもたらしたこと」について1994年村山首相は、反省とおわびをした。これでは不充分だと思う。わたしたちは「アジアの大義」を掲げて世界大戦を戦った。それなのにゲリラでもないアジア民衆の女性・子どもをレイプしまわっていた。女性国際戦犯法廷で64名の被害証言女性たちなどによって明らかにされたことから判断すると、性奴隷、レイプといった面だけから考えても、日本軍の行為はアジア人蔑視という根本を持っていたといえる。「アジアの大義」を掲げながら、レイプしまわっていたことは、絶対的矛盾である。誇りある者なら深く恥じる、という場所から動くべきではない。
clawさんの意見は、倫理とは別の見地からのものである。罪が罪であることをアジア諸国が忘れてくれる、あるいは無理矢理忘れさせることができるのならそれでも良いかも知れないが、それができないのなら、「いかにして過去の歴史にピリオドを打ち、あとから文句の出ないように」するための「反省のための言葉」をもたなければどうしようもないんじゃないですか、と言っている。 安倍某をはじめとする人々は一見勇ましそうだが、勇ましそうな言葉を吐くことで国内的にだけ自らを慰めているだけだ。恥ずかしいだけなら良いが、国益を損ねているのではないか。
guldeen 『ところで「慰安婦」証言の中の「日本軍の“クリスマス休暇”の時期」ってなんですか?』
えっ。わたしの引用の中には「クリスマス休暇」という言葉はないですよね。下記がソースかな。
http://tmp4.2ch.net/test/read.cgi/asia/1101741339/ 祝★朝鮮人元売春婦の金よこせ請求を棄却
88 :日出づる処の名無し :05/01/17 22:05:34 ID:wm7v9Do8
405 名前: 名無しさん 投稿日: 02/12/27 19:44 ID:UoVjc+9Y
「日本軍のクリスマス休暇には1日数十人の相手をさせられました。
今でもクリスマスが近づくとあの地獄の瞬間瞬間を思い出します。」
「精液をかけられ過ぎて、今でも牛乳やバターを受け付けれません。 」
「食べ物がないって言ったらこの死体の人肉を煮て食え」
「行為を拒否するとヘビでいっぱいの水溜まりに落とされた」
「性病にかかったと言ったら「無菌化する」と言って秘所に焼けた鉄棒をつきさされた」
「女の首をはね大鍋で煮てその煮汁を飲まされた」
「妊娠したら腹を裂かれ胎児を引き出された」
「精液を浴び過ぎて今でもマヨネーズが食べられない」
「ある占領地では74歳の老女まで強姦された。 」
参考HP
アジア女性基金 推奨 http://www.awf.or.jp/06.html
「従軍慰安婦問題」再考
http://www.mediajapan.com/ocsnews/96back/542b/542/542ianhu.html
「9時から6時までは一般の兵士、6時から10時は下士官、10時以降の泊まりは将校と、寝る間
も与えられなかった慰安婦たちは、男の腹の下で食事をした」
戦時中の日本にはクリスマス休暇やぶっかけもののAVがあったらしいです(藁
山田盟子著「女性たちの太平洋戦争」より。なのかな?
慰安婦たちの太平洋戦争―秘められた女たちの戦記:山田 盟子 ISBN:476982078X のことかな。ソース位ちゃんと書けよ。
慰安婦というのはどこの国の人か分からないけど、その人(あるいは通訳)がクリスマス休暇と表現したということでしょう。日本軍にはクリスマス休暇というものはなかったのかもしれませんが。
(2/13 20.58追加)
# index_home 『こんにちは。>そしてヒロヒトにその責を負わせたくなければ「誰が」を特定し糾弾し続けなければならない。<この「誰が」を外に(特に中国・韓国等)に向けている人たちが多いのが昨今の現状なのかもしれないと思います。「多くの日本人が被害者だった」そのとおりです。でも、だからこそ「加害」の事実にあまり目が向かない、向けたくないという現状もあるのだと思います。日本の戦争に関する事実認識や教育などは、そこで歪みが生じているとも言われているようです。』
index_home hikaruさん、はじめまして。
被害者だったという圧倒的実感が忘れさられたので、最近のような平板な排外主義がはやっているのでは? と思いました。被害者だったという親(祖父)の世代は、軍部のせい、とかいってちゃんと恨みを持っているように思っていました。
id:index_home:20050305#p2でソロモン諸島のことに触れておられましたが、同じ被害者といっても、南の島で苦労した人と内地にいた人も大部違うえしょうね。南の島で本当の地獄を味わったひとの体験は、内地の人に伝えられなかった。責任追求が必要だったとやはり思います。
加害の事実については、下記も見てください。http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/dai.htm(わたしたちは忘却を達成した)
http://d.hatena.ne.jp/pavlusha/20050316#p5 ここなどで、引用されている文部科学省の調査結果。自分の将来に対して肯定的な子供が少ない、とのことだ。うちの子ども(小学校高学年)に聞いても将来に対し驚くほどシニカルである。こんなことではいけない(将来に夢がなければがんばって勉強することもできない)。「テレビを見て、ゲームをして、インターネットで検索して、たまにスポーツする」という彼らの生活は多くの大人と全く同じだ。ゲームなどに費やす時間においては彼らの方が恵まれている。金は大人の方が持っているだろうが、それによって決定的差はつかない。RPGを楽しむ能力は中学生、高校生の方が上だという可能性は充分ある。であれば大人にならなければならない、という動機は持ちようがない。「しかたがないから(勉強を)やってやるか」でしかない。大人しかできないことは、
α・自立した生活を自分で建設すること β・他者(子どもを含む)と家庭をつくること γ・連帯し社会を少しづつでも変えていくこと くらいかな。金を稼ぐことは本来、αの手段でしかない。しかし子どもたちは人生とは消費であると教えられている、テレビで。金を使うことが善でありそれ以外は無である。そうだとするとαは「金を稼ぐこと」になり、βは「絵に描いたような幸せ家族」を作ることになり、実際にやってみると敗北感しか味わえないことになる。
どうしたらいいんでしょうね~
森隆夫・お茶の水女子大名誉教授(教育行政学)の話 高校生になって自国に誇りを持てないのは、情けないこと。自分自身にも誇りを持っておらず、胸を張って生きていないのではないか。(pavlusha/20050316#p5より)
自国という言葉を、“自分が生きている社会”と捉えれば異論はない。わたしたちはわたしたちの社会の主人のはずなのに、なぜこんなに閉塞感があるのか。
この国の若者だけが「戦争を仕掛けられたら国のために戦うか?」という問いに1割足らずしかYESと答えない現状は、こっけいである。
(略)
結果論で、現代の価値観で、父祖の世代を否定ばかりするようなイデオロギーにふりまわされ、歴史の負の部分にばかり焦点を当てるような偏向教育とはおさらばしたい。
“自分が生きている社会に誇りを持てない”若者を産みだしたのは、「偏向教育」だ*1、なんていうのは責任を一部の人に押しつけているだけだ。
愛国心を涵養するために、日の丸君が代を卒業式などにだけ強制する。愛国心ってなんだ。60年前だらだら戦争を続けた責任は誰にあるのか、それに応えずに戦前と戦後を断続させることによって利益を得たのは誰か。吉田茂などの支配階層ではないのか。
愛国心がないところで、日の丸君が代を強制しても奴隷根性の涵養に役立つだけでしょうに。
*1:あるいはアサヒ・岩波文化人だ