申請に必要な書類

  1. 申請書
  2. 勤務証明書
  3. 所得を証明する書類
  4. 市民税課税台帳閲覧同意書

(市政ニュース より)

3.と4.は同じものではないのか?聞いてみた。要は年収と事業主が書いてあるという点で。所得に対し各種控除などが引かれてから市民税が決定されるから同じではないとの答え。でも4.には3.の内容が書いてあるはずだ。

そもそもなぜ所得が必要なのか聞くと、利用料の決定のため、と言った。ところが利用料は定額であり減免制度があるだけだ。減免に関係のない人からも所得証明を出させる理由はない。・・・

4.については任意提出にすると言った。*1

そして、3.についても所得額をマジックで塗りつぶして提出してもよいとのこと。は~~! それでは何の為の所得証明だ? 勤務もしていないのに勤務証明書が出てきた例がある。勤務関係が本当に存在するかどうかをチェックするために源泉徴収等が必要だ、とのこと。(零細な個人事業者への差別意識が指摘できそうだ?)勤務証明と源泉徴収は同じ会社(個人の場合もある)が証明しているので効力は同じではないか問いただすが、譲らない。

 わたしがあなたのやっていることは「大きな政府だ*2」と言うと相手は自分の心情を著しく傷つけられたらしく「小さな政府です」といってすぐ、話は継続しているのに自分から電話を切ってしまった。

 市役所が市政ニュースに載せた条件を撤回するのはよほどのことである。上記3.4.が個人情報保護法に抵触する、ということが決め手になった。で、「所得額をマジックで塗りつぶした」源泉徴収票というものやはり同法違反になると思うのでもう少し勉強したい。

(詳しい方教えてください)(11/26 7時追加)

*1:ここで不要な条件を市民に強制したことを謝罪すべきではないかと強く言ったら謝罪した。

*2:電話でも一切触れなかったが、「適正化」のための点数制度というものを彼らは非公開で用意しているらしい。

3/25 思うにウーマンリブの人たちは

中道右派 中道右派 『

>思うにウーマンリブの人たちは1972、3年に自己を確立することができたが、世間を自分の価値観に少し近づけるためにその後30年掛かった。

>この方程式でいくと、「慰安婦」の人たちは1991年にカムアウトすることができたので、後15年経てば世間は彼女たちの名誉回復に同意することになる。

カムアウトしたのは、日本側の運動家が、慰安婦を探し出して、日本に賠償請求しようとたきつけたからですね。田原総一郎氏ですら、それは認めています。

韓国の世間は既に日本への謝罪賠償請求に同意して一体化していますが、日本の世間は売春婦を性奴隷と捏造したことには同意できないと考える割合が日に日に増え、むしろ毀損された日本の名誉を回復しなければと考え出しています。女権伸長と同様に、名誉権感覚や法感覚も伸長しています。行為当時に不道徳ではあっても犯罪ではない行為を、現代の価値観から過去に遡及して犯罪として糾弾処罰することに違和感を覚える人たちが増えています。宮台真司氏、宮崎哲弥氏、つかこうへい氏ら、かつては性奴隷派に近い意見を持っていた人々も、売春婦派に続々転向しています。野原さんも転向しませんか?』

poppo-x poppo-x 『>行為当時に不道徳ではあっても犯罪ではない行為を、現代の価値観から過去に遡及して犯罪として糾弾処罰することに違和感を覚える人たちが増えています。

意味不明。「犯罪として糾弾処罰する」→これは刑事事件として立件しようとしているという意味か?ならば、「不道徳ではあっても犯罪ではない行為」について「刑事訴追」(刑法・刑事訴訟上の)を行おうとしている実例を例示しなければ成り立たない論である。

いわゆる「従軍慰安婦」問題を、「民事事件」(損害賠償・謝罪表明請求)ではなく「刑事事件」として訴えている実例があったら知りたいものだ。』

海老蔵中道右派 海老蔵中道右派 『>意味不明。「犯罪として糾弾処罰する」→これは刑事事件として立件しようとしているという意味か?

惜しいですね。少しだけ法的思考ができるようになりましたが、まだ未熟です。

日本の国家犯罪であり国家不法行為でもあるというのが、謝罪賠償を求めている勢力のロジックを正確に説明したものです。彼らはいつも、訴訟の場は別として、対マスコミでは扇情効果を狙ってか、これは日本の国家犯罪であると主張して論を進めるので、その後に続くと予想される(かつ国家不法行為である)という主張も含むものとしてコメントしております。

>「不道徳ではあっても犯罪ではない行為」について「刑事訴追」(刑法・刑事訴訟上の)を行おうとしている実例を例示しなければ成り立たない論である。

>いわゆる「従軍慰安婦」問題を、「民事事件」(損害賠償・謝罪表明請求)ではなく「刑事事件」として訴えている実例があったら知りたいものだ。

それ以前のコメントが思い込みから来る間違えた仮説なので、これらのコメントに答える必要もありませんが、説明してあげましょう。

日本国内では、刑事訴追権は検察官が独占しているので、被害者などは告訴告発するしかありません。している実例もあったかもしれませんが、していても警察官・検察官がそれに応じて捜査・起訴することは恐らく無かったでしょう。』

海老蔵中道右派 海老蔵中道右派 『慰安婦問題について、謝罪賠償を請求している勢力は、法的には国家不法行為責任の追及としての謝罪賠償を求めることにより、政治的には国家犯罪責任の追及(法的には不法行為責任追及よりも無理筋だから?)としての謝罪賠償(政治的懲罰としての?)を求めているというのが、実態の把握としては正しいのではないでしょうか。』

poppo-x poppo-x 『結論:いわゆる従軍慰安婦問題を「刑事事件」として訴えた事例は皆無、ということでよろしいか?ならば単純にそのように返答すればいいだけの話。

質問された要点だけを的確に答えればよろしい。余計な能書きは不要だ。』

noharra noharra 『>>>カムアウトしたのは、日本側の運動家が、慰安婦を探し出して、日本に賠償請求しようとたきつけたからですね。<<<

ソースは?』

ebizoh ebizoh 『海老蔵中道右派です。

以下がソースですよ。

だから田原総一郎氏すらそのことを認めているのです。

>>>>>毎日新聞’93年(平成5)9月9日毎日「記者の目」より

’89年(平成元年)末、ある日本人女性(青柳敦子)が在日韓国人男性とともに毎日新聞ソウル支局を訪れ、

「韓国人の戦争犠牲者(具体的には慰安婦)を探している。韓国側から日本政府に謝罪と賠償を行わせる裁判を起こしたい。韓国人犠牲者を原告にしたい」

と言った。その女性は『朝鮮と朝鮮人に公式謝罪を・百人委員会』の事務局員だった。

先ず、日本政府相手に訴訟を起こすアイデアがあり、それにあわせて「原告探し」が行われたわけだ。

歴史の発掘という努力はともかく『原告を探す』という発想には正直驚いた。<<<<<』

noharra noharra 『エビゾーさま

ああそうなんですか。青柳敦子という方がいらっしゃるのですね。いくつぐらいの方かしら。

>>田原総一郎氏すらそのことを認めているのです。

田原総一郎の顔くらい私でも知ってますが、“証拠出せゲーム”やインテリとしての力量までは知らないので、「田原総一郎氏すら」と言われてもよく分かりません。』

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20070325

中道右派 『>http://blog.livedoor.jp/f_117/archives/15366370.html

一応ネット上のソースはこれです。

元リンクは切れてますが、多数のブログで引用されていたので、内容はそのとおりだと思います。

上記コメントは、請求ではなく、正確には請求発言でした。

詳しいも何も、これが経緯なんですが。

ここでちょっと脱線すると、これを読むと、彼は個人の請求権放棄という締約当時の公式解釈を前提に話していることが分かりますね。一体、今の韓国の公式解釈はどっちなんだろう?あなたと同様、国家による個人の請求権放棄に同情してもいる。日本が法的責任は果たしたことも分かっている。そして、人類社会の普遍的倫理に従って日本に賠償して欲しいと言っているのですかね。私の考えでは道徳的責任はアジア女性基金が該当するんですが・・・

しかし、ここで私はハタと気づきました。日本でもアメリカでも法的責任追及は封じられている。でも韓国だったらどうなの?確か、外交交渉文書では、日本が調査して個人に個別に賠償したいといったのを、韓国側は韓国政府があとでそれをするから政府に全部くれといったはず。韓国法の内容次第では、今からでも法的賠償は韓国政府ができるんでないの?これ、日本政府が条約交渉文書と韓国国内の諸法規をアメリカのローファームに持ち込めば、リーガルオピニオン書いてもらえるんじゃない?それを下院の決議の過程で持ち込めば、慰安婦の実質的救済になるんじゃないの?オランダ政府との間はどうなってるか知らないけど。』

ノーモア 『石原長官の証言ですか。まあ証言だけで裏付けがないので信用できません=証拠が無いと言ったらいかがでしょうか(笑)

さて経緯についてですが河野談話をきちんと踏襲しているのかと疑わせる与党幹部・閣僚発言を御紹介しましょう。

http://www.bekkoame.ne.jp/~yamadan/mondai/rmal7/react402.html

これ以降も「日本の前途と歴史教育を考える(若手)議員の会」などは河野発言を堂々と否定してきましたし、98年には中川昭一農水相の否定発言もありました。河野談話は日本の政界でどれだけの重みを持っていたのか、持たされていたのか。外交信義違反というなら10年以上も前に為された談話を与党・政府内に浸透させることがなぜ日本側でネグレクトされ続けたのかも問われなければならないと思いますがいかがでしょうか。実際にこういうことが続いたので世界的にも「謝罪を曖昧にする国」というイメージが定着したわけでしょう。私は日本がそれほど誠意を持って河野談話を扱ってきたとは思いませんし、一方的に相手を非難できる資格があるとは思えませんが。というかですね。ノムヒョン氏の演説以降初めて「外交信義違反だ」ということで河野談話否定論が語られ始めたというのは、時系列でいっても因果関係で言ってもおかしな話だと思います。

>確か、外交交渉文書では、日本が調査して個人に個別に賠償したいといったのを、韓国側は韓国政府があとでそれをするから政府に全部くれといったはず。

そうなんですか?これは僕の認識とは大きく違いますね。日本は日韓条約を巡る交渉において徹底して「賠償」という言葉を避けました。大平外相は「韓国独立のお祝い金」とまで言っています。とすれば日本が政府にはしないが個人に対しては賠償したいと言い出したというのは非常に考えにくい。また日韓交渉では従軍慰安婦問題は考慮されていなかったことはあなたもお認めになったはずです。』

ノーモア 『いや、少しミスリードですね。「とすれば日本が政府にはしないが個人に対しては賠償したいと言い出したというのは非常に考えにくい。」というのは「本気で」という意味です。交渉は当初「金払え」という韓国側と「一切払わない」という日本側が鋭く対立していました。個人の対日債権の清算に関しても日本側は極めて厳しい立証責任を韓国側に課していたからです。』

見えないがそこにある民力

 え。場違いな感じもするが、『漢文入門』岩波全書 という1957年刊行で今でも刊行中の本から引用しよう。

 楚の荘王という人がいて、陳という国を伐(う)とうとして、スパイを派遣し調べさせた。帰ってきて曰く、「城郭高く、掘りは深く、蓄積がとても多い」だから勝てそうもないですよ、と。だが、荘王は「陳伐(う)つべし」と意見を変えない。「陳は小国である。だのにそれだけの備え、蓄積を用意したのは、民をどんどん収奪したからだ。もはや陳には民力はないはずだ」と。(『説苑』BC1Cより)

 それでつらつら思ったのだが、今日北朝鮮の脅威を言う人がいるが、むしろ金正日を挑発し日本に上陸させればどうか。もしそうできれば、北朝鮮はそれに耐えるだけの国力は持っていないから自然に崩壊するだろう。まあこんなことを言っても誰も賛成しないでしょうけどね。でも国境というものがあるということは破られる可能性があるということで、それがあっても別におかしくないという前提で物事を考えないとおかしい。国というものがあればそれが滅びることもあるという2000年前の感覚の方がかえって健全である。排外主義をあおったり武力に頼ったりしている場合ではないのである。

ナショナリズムを超えられない

メルマガ『カルチャー・レビュー35号』の村田 豪氏「困惑する福田和也」について、著者ほかにメールしたのでこちらにもあげておきます。

http://homepage3.nifty.com/luna-sy/re35.html#35-3 で全文読める。(上記の上部にある岩田氏の文章にもすこしだけ言及)

  *  *  *

今回の村田さんと岩田さんの文章をとても興味深く読ませてもらいました。

まず岩田さんの文章が、「伝統」という言葉をどう定義しているか見てみよう。

 「福沢諭吉が異常に目立っているのですが、このような人物を輩出したのも、も

ともと中津に知的伝統が根付いていたからだと思います。」突出して有名になっている(良くも悪くも)福沢個人ではなく、その背後にあった「知的伝統」に眼を向けようとしています。 伝統の実体は(例に挙げられるのは)漢文的教養です。しかし、過去に存在し現在まで残っているものというように伝統を実体的にとらえるのではない。「まったく異なる知的世界を自らの世界に取り入れるためには、自らの知的能力を最大限に問い返す必要があります。その時に日本人にとって助けとなったのは漢籍の知識ですが、おそらくこの知的伝統がなければ私たちは日本語で西洋の文化を取り入れることは出来なかったでしょう。」西欧文化との出会いという危機において他文化を取り入れるのは格闘にも似た必死の営為でした。このような知的格闘を可能にする物を指して、岩田氏は伝統と呼んでいるようです。

(えー枕で、伝統について考えたのは、村田氏の文章が「右翼:進歩派」という図式から始まっていたのでそれを相対化する軸になれば、と思ってのことですが、上手くいきませんでした。)

 で、福田和也は伝統については、「自分が「日本」や「伝統」という言葉を通じて唱えているのは、言ってみればカント的な「趣味の共通感覚」の再建なのだという議論」をしているようです。わたしは福田を読んでないので、村田氏の文章を読んだ印象だけで言うことになります。でも<趣味の共通感覚としての伝統>とはいったい日本に即して言うと、一体どんなものなのだろうか?(セリーヌやバタイユの背後にいたファシズム作家を扱ったのが彼のデビュー作のはず。フランスのような先進国住民においてすら、なだらかに現象するかに思いきややはり伝統という名に於いてファシズムが呼び込まれてしまう、というのに。)

福田は一貫して、左派や市民主義に巣くう無自覚なナショナリズムが、欺瞞的な自己正義しかもたらさないことを批判してきました。しかしその一方で、小林よしのりや「新しい教科書を作る会」に見られるナショナリズムが、戦争の実体を正視できず、責任を欠いたものであり、弱者のルサンチマンにすぎないと指弾することも忘れませんでした。左右の対立は、所詮見かけ上のものにすぎず、「弱者のナショナリズム」「似非ナショナリスト」としてどちらも厳しく斥けなければならない。(村田)

わたしはこの福田氏の主張に賛成です。村田さんは理解を示しつつ搦め手から無化しようとしているようです。

 翻って、福田の擁護する「日本」や「文芸」というものへの批判も、この「ナイーブ」から始まるようにも思います。なぜなら福田の「ナショナリズム」や「伝統」に対して、「ナイーブ」さが実質を持たないとは言えないからです。福田は、この手の「ナイーブ」こそが「国を危うく」するのだと危惧するのでしょうけれど、しかし一体何が悪いのか。かつてスガ秀実は、歴史論争での左翼には「亡国ナショナリズム」が足りないと言い放ちましたが、ここはもっと縮めて単に「亡国」を意識するのみでしょう。「ナイーブ」が「亡国」をもたらそうと、それでも結構ではないか、と。それに対して福田がせいぜい「フィクション」としての「伝統」に依拠し続けるしかないのなら、それは例えば三島由紀夫の反復を超えるものではありえません。そして、その三島であってさえ、いわば戦後的「ナイーブ」に敗れたのではなかったのでしょうか。(村田)

 最後に村田氏は自己の立脚点として「ナイーブ」を持ってくる。三島の敗れた戦後的「ナイーブ」とは、欲望自然主義による国家の無化であったでしょう。

しかしそれが、国家の無化ではなく不可視化にすぎなかったことはいまや明らかです。いまや「自衛隊が日本を守る」という近代的「軍-国家」観がおおぴらに復帰している。村田氏はそれに向き合い対抗するのに、自己身体の肯定だけでもって足りると考えているようです。それはこの文章では展開されていないので、今後の課題ということになりますね。

 ナショナリズムに対しどういう立場を取ればいいのかわたしにも矛盾があります。

「わたしという抽象的普遍的消費主体が国家の外に存在してる」と考えるのは不当だ、と保守派は言う。野原が思うにこれは認めざるを得ない。「自己/国家」という2極で考えるとアポリアから抜け出られない。「自己/天あるいは理」という2極でまず考えるべきだろう。とりあえず、大事なことは日本と韓国/朝鮮、台湾/中国との国境を下げることだろう。

まとまらない文章で恐縮ですが、感想… まで。

  *  *  *

サラーヤ・アル=ムジャヒディーンのみなさんへ

昨日「日本人を誘拐したサラーヤ・アル=ムジャヒディーンのみなさんへ」という手紙の文案が回ってきたので、ちょっと文章を書いたけど、ここ「はてな」が引っ越し中で書き込めなかったので、下記にUPしました。http://bbs9.otd.co.jp/908725/bbs_plain?base=287&range=1

今朝のニュースでは解放されるらしいとのこと、良かったです。

自衛隊撤退については、当局側に挙証責任がある。果たせなければ撤退すべきだと要求していきたい。

現在のイラクの最大の問題は、下記のような「米軍の無差別攻撃」をどう評価するか、という点ですね。これを批判しなければイラクに安定はやってこない。テロリストを増やしているのは誰か。前にも書いたがすでにシャロン首相が遂行し結果がでている行為をなぜ模倣するのか!!

毎日インタラクティブより2004/04/10

米軍、ファルージャ攻撃を再開 英民間人、バグダッドで射殺される

 【バグダッド小倉孝保】イラク駐留米軍は9日夜、一時停戦を表明し武装勢力と対話の可能性を探っていた中部ファルージャで攻撃を再開した。AP通信によると、米軍は都市部を包囲する一方で、AC130などによる攻撃を繰り広げ、混乱は拡大している。AFP通信によると、イラク統治評議会は9日、ファルージャ中心部における米軍との武力衝突で、同日までの6日間で400人以上のイラク人が死亡、1000人が負傷したと発表した。

「 すくなくとも日本の民衆のうちの一人がイラクの民衆とともにイラクの民衆のためのボランティア活動を行ってきてそれを継続したいと(命がけで)やってきたという行為は強調されるべきだ。イラク/アメリカ・日本という国家あるいは戦争のカテゴライズに対し、市民連帯のかぼそいビジョンが叫ばれなければならない。」

犯人であるイスラム勢力は、「戦争のカテゴライズ」を一時中断する勇気を見せた。小泉首相も見習ってほしい。

3人が殺されなくて残念

 誘拐者が「日本国家に訴えれば身代金*1をくれる」と思った。この場合「誰もがそう思う」と誘拐者が思っている場合、それが制度として成立していることになる。誘拐とは何か?、と問えば日本でもイラクでもその意味を知らない人はいないということは、宮台のいう意味で制度*2として成立しているということだ。したがって、「国家に訴えても助けてくれない場合、「『(1)すぐに社会的反応を動員でき、(2)国家もそれを弁える』と当てに出来るようになる」はずである。

 ここで、相手をテロリストと呼べば、彼らはテロリストとしてのつまり人質を殺すという結論を選ぶ可能性が高かっただろう。ここでは同じ事態に対し「誘拐」というパラダイムと「テロとの戦い」というパラダイムの二つが争っていて、小泉は後者を選択したということだ。相手がテロリストとして実体化されると、3人の犠牲は小さいものとなる。3人が殺されることにより、相手に殺人者の汚名を着せなおかつ殺人者を憎むことによる国内の愛国化を小泉は得ることが出来たはずだ。したがって「テロとの戦い」パラダイムが正しければ、3人が殺されることを(口にせずに)望むことが小泉にとって合理的な希望であったことになる。これは嫌みで言っているのではない。論理的に言っているのだ。

*1:自衛隊撤退という身代金は高すぎたか?

*2:参照 http://www.miyadai.com/index.php?itemid=90

藤田幽谷・東湖・小四郎

 さて、後期水戸学というものは非常にマイナーだと思ったのだが、よりメジャーなはずの仁斎や徂徠にしてもわたしの友人は全然知らないし、わたし自身もそれに近い。つまり藤田某を語るとしてアカデミズム以外のどういう立場から語れるのか、無知なら書かなければ良いのだが・・・

 とにかく、村上一郎の『幕末-非命の維新者』の角川文庫1974年刊(とっくに絶版)をわたしは持っているので取り出して少し読んでみた。

明治維新の勝者は薩長つまり西国である。「西国人の利口さ」と村上は自身東国人としての皮肉も込めてそう言ったりする。藤田三代に対する戦後最大の弁護者は村上であろうか。村上の文から二ヶ所引用する。

「では、なんで東湖の半生涯の三つの危機を叙述した「回天詩史」がそれほどに人を動かしたのか。また、なんでそれほど危険視されたのか。わたしはこの文章を少年の日から読み続けてきて、要は「自ら任ずる」という一語にあるように思う。東湖ならびにその同志が、誰に頼まれずとも、また身命が危うかろうと、自らこれを任と決すれば進んで挺身するという、危機感の深さと、内発性のつよさが人を動かし、世の姑息な人びとをしてこれを危険視させたのである。「自任」という二字はその文章にいくつか出てくる。」*1

「しかし、松陰が死ぬ直前になってから、もはや天朝もいらぬ、幕府もいらぬ、わが藩もいらぬ、草奔くっ起は五尺の微躯あらばよしと断言するに至った精神の過程に、彼が水戸の気風に触れた若き日の感動が、尾を曳いていなかったはずはない、とおもうのである。」*2

 でこれを読んで、思い出したのは、今日たまたま見た古本屋のサイトにあった六月行動委員会についての埴谷雄高の規定。(村上一郎もその周辺だったはず。)百年を隔てて類似性があるのは、村上という語り手のせいでもあるが。以下ペースト。

http://miyuru.com/kosyo/new.html

埴谷「各人が勝手に自由でありながら、連合する。」

松本健一/六月行動委員会などはどちらかというとそういう発想でしたね。

埴谷雄高/ええ。だから、革命の意識を持った一人一人が党だと言っているんですよ。党員がたくさんいるのではなく、独立した党がずうっと並んでいる。一人一人が全部党だ。ぼくはそういう考え方ですから、ずっとアナキズムだ。

*1:同書p130

*2:角川文庫『幕末』後書 p238

パレスチナ人は死ぬ

この7月4日あるところで、29歳の男性が亡くなった。リファアット・アブ・アムラ。

「この7月上旬だけでパレスチナでは30名が殺されました。」と大きなニュースにもならないその30人のうちの一人になります。人は死について語ることができるのか。寺畑由美さんが彼の死について書いています。

http://www.onweb.to/palestine/siryo/terahata10jul04.html