延長反対が75%

おとなり日記から引用させてもらいます。

http://d.hatena.ne.jp/waku2/20041129 はてなダイアリー – わくわくの日々

■ 自衛隊派遣市民投票(第2回)/ゆり

本日の荻窪駅頭、「市民投票」の結果をご報告します。

3時半ごろ~4時半ごろまでの約1時間で、投票結果は

延長賛成 16  延長反対 74  わからない 8 合計98 でした。

ご挨拶

 (おくればせながら)新年のご挨拶を申し上げます。

カウンタも5ヶ月で16,000を越え、初めてからは3万前後という計算になります。更新のない日も平均して一日百人来てもらっているわけでスゴイ。分かりにくい文章で恐縮です。もしご質問、ご批判などあれば、遠慮なく下記までメールください。

恣意的な「法の不在」

女性国際戦犯法廷を真正面から擁護する論者がいない、と書きましたが、

id:mojimojiさんは、「シンパシーを感じる」と明言し、いろいろ文章をかいておられます。わたしは彼の主張に同意するものですので、簡単に紹介させてもらいます。

一般傍聴を認めていない件

 全面的な一般傍聴を認めるのがベストなんだろうけど、当時、従軍慰安婦の論点で政府を批判する集会は暴力的な右翼シンパが出没してた頃で、

http://d.hatena.ne.jp/mojimoji/20050121#p2

一般傍聴がないことの弊害がどのように避けうるかといえば、それは裁判の内容を事細かに公開することによって、かなりの程度なしうるだろう。これについては、(略)『女性国際戦犯法廷の全記録』、『女性国際戦犯法廷の全記録〈2〉』を見ればいい。

弁護側代理人がいない

 これについては、「呼んだけど来なかった」に尽きる。

従軍慰安婦問題については、オランダ人に対する事例を除き、法的責任を一切問われておらず、その調査さえ日本政府はしない(それどころか、妨害さえしていると取られても仕方のない状況さえある)。問題にされているのは、恣意的な「法の不在」なのであり、そのような行為がまかり通っている以上、法を僭称しているのはむしろ政府の側であるという理屈は十分説得力を持っている。

それに対する反論、おおや氏の。

http://alicia.zive.net/weblog/t-ohya/000148.html

(しかし私は「正義は(主に法的な)手続きを通じて構築される・示されるものである」として独立した正義の存在を認めない立場であるから、そもそも前提を共有していない)方の意見。

「正義も各個人の同意に基いて構成されるしかないし、」日本国家が同意しなければ正義は一切成立しないと。

ロシアとキューバの体制など

2/14のN・Bさん発言。

N・B 『 どうも、私が対比したのはロシアとキューバの体制です。チェチェン戦争はロシアの現体制(93年体制)の犯罪のあくまでひとつです。星野さんがそうしているという論拠は、10月9日の日記の2段落目です、それと映画の紹介はやはりはっきりと違います(どちらも犯罪をしているとしてもということです)。

それから『そんなものはない』『聞こえない』というのはあくまで比喩です、そういわなくても実際には同じ意味のことを主張してしまっているということです。

>ある部分がどういう部分なのか

 具体例としてアレナス=従軍慰安婦という図式を出したのですが余計混乱させてしまったみたいです。

 なんかまた補足ばかりです,すいません。

>非常に遠い言葉を使ってしか、

 この遠さが発言している人と聞く『私』の間の遠さと重なるのが『声』なのかなと思います。逆に遠いからこそひっかりになってしまうとも思います。』

応答が遅れているうちに、ますます論点が遠のいてしまったみたいです、私にとって。すみません。

一度仕切り直して、また質問ご批判などあれば書いてください。

慰安婦問題はもうちょっと書かなければとは思っているのですが・・・まだちょっとまとまりません。

「チェチェン戦争はロシアの現体制(93年体制)の犯罪のあくまでひとつです。」ということなのでしょうね。ロシアは隣国でもあり批判すべきは批判していかなければいけませんね。

>プロパガンダって言葉の使い方はべつに間違ってないんじゃないかな。

(2/20追加)

皇軍を裏切ることは罪か?

 1944.8.11の少し前、二人の皇軍兵士が脱出について相談しています。

 今日でもほとんどの兵隊が「グアムには救援が来ない」「日本は敗ける」と七、八分まで諦めている。しかし、あとの二分、三分の未知数がいざとなると問題である。「じゃ、脱出して生きよう」ということになったら、僕と星野上等兵がそうであったように「ひょっとして救援が来たり」「日本が敗けなかったり」したらという不確実な部分が急に大きな力となり、重石となってきて、それをはねのけるのは容易ではない。

 都合の悪い兵隊をさけ、内密でそういう話をもちかけることは、いまの状況下では至難だった。事をあせって無理押しすれば、企図がばれる危険が多分にある。元も子もなくなるようなことは、避けたかった。

 二人だけで決行するよりほか仕方なかった。残った戦友から足倒され恨まれることは、目をつむってこらえよう。力のある者は、あとからついてくるだろう。「あとで騒ぐだろうなあ」と星野上等兵がいった。「高橋少尉や渥美准尉などは、何といったって問題じゃないし、むしろ、僕はいまこそ“見ろ”といってやりたい気持だ。ほかの連中に悪いと思うが、この際どうにもならない」

 しばらくしてから星野上等兵がいった。「おふくろに悪いような気がして仕方がないんだ」

「裏切るような気がして?」

「理屈では分かっているんだよ。心の底では、どんなことがあっても息子が生きていてくれたほうがいいにはきまっている。だけど、そのためにおふくろが世間にたいして重荷をしょうことになると、かわいそうでならないんだ」

「世の中は変わるよ。世間の道徳観念は、急に反対のものにはなれないだろうが、少なくともいままでのようなことはなくなるよ。それでも悪ければ、日本へ帰らないようにするんだね。死んだ人間として生きるんだね」

 この議論は、いちど解決できたものの蒸し返しだった。しかし、世の中が変わるという見通しが、僕の場合よりも星野上等兵の場合は非常に稀薄なようだった。どちらかといえば僕は、安価な、楽観的革命論に落ちがちであり、星野上等兵は、現状の社会組織から考えが脱却しきれないものがあった。星野上等兵に聞かれるままに、僕の考える新しい社会のアウトラインを説明した。彼は自分の母にたいする感情を、それで濾過しようと努めているようだった。

 認識票と印鑑を土に埋めた。グアムの土に。兵隊としてのおれは、あるいは、日本人としてのおれは、ここに埋まるのだと思いながら。

 ついに最後の乾パンが星野上等兵の雑嚢からとり出された。一枚の乾パンを二人で半分に割って口に入れた。

「これでおしまいだよ」

 星野上等兵は僕に、そう念を押した。

(p356-358『私は玉砕しなかった』横田正平 中公文庫isbn:4122034795

 この翌日かに彼らは走り、米軍に白旗を掲げ捕虜となる。捕虜としての待遇は良かった。皇軍では考えられないような贅沢な缶詰の食事。だが話はそこで終わらない。最後の乾板を二人で半分に分けて食べた友星野上等兵。「彼は投降してから急に陰鬱を超して、とげとげしくなっていた。僕にたいしても容赦なかった。母への未練が、彼をさいなみ、投降を後悔させているのではないかと想像した。」

 1947年3月横田は帰国できた。その後新聞記者に戻り、1985年に亡くなるまで活躍し続けた。だが彼は投降にまつわる上記のような話は一切口にせず、また再三の原稿依頼にも応じなかった。*1

“星野上等兵のおふくろ”は横田が死ぬまで彼を抑圧し続けたといえるのだ。

 横田さんがグアム島で白旗を掲げて投降し、捕虜となって敗戦後ハワイから帰国した話は新聞社のだれもが知っていた。私も本人からではなく、だれかから聞いた。しかし、どんなに親しくなっても、いや、親しくなればなるほどそのことは話題にできなかった。(略)

 戦争が終わってまだ一二、三年後のことである。(略)「生きて虜囚の辱めを受けず」の戦陣訓は理屈では莫迦げたことであっても、多くの死霊に囲まれた当時の人の心の片隅には澱のように残っていた。(同上書、石川真澄氏解説より、)

 仮に思想的批判があったにしろ同じ釜の飯を食った戦友である。生きるも死ぬも一緒という絶対的連帯がなければ軍隊というものは崩壊していくだろう。皇軍が絶対悪であるとすれば話は別だが、そうでない限り横田氏の行為を潔白と強弁することはできないだろう。「日本が日本である限り彼は裏切り者だ」。だが「日本は日本であり続けている」のだろうか。日本は負けた。戦陣訓を掲げた日本は負けたのだ。であればなぜ戦後の日本に亡霊としての“星野上等兵のおふくろ”は生きのび続けるのか。たしかに「投降は禁止」というルールを守って死んでいった人と、投降者との間には絶対的な格差がある。だが「投降は禁止」というルールを守って死んでいった人たちは投降者を敵視し裏切り者と指弾するだろうか。一年間ジャングルの中でトカゲのシッポなんかを食いつないで生きのび餓死寸前で生還した兵たちは、自分たちをそういった境遇に追いやった将校たちを自分たちで糾弾していくことはなかった。だがどちらか言えばそういう気持ちだったのではないか。投降者に対しては「上手いことやりやがって」という憤激はあったとしても、自分のなかにもそういう選択肢はあったはずであり批判を口にするまではいかないような気がする。戦場に行かず自ら手を汚さなかったものたちは、陰湿な非難をする。横田は確かに裏切った。だがきみたちもまた戦争体制への翼賛からGHQ翼賛へ消極的であっても決定的な転向をしたはずだ。大勢に従ったことは言い訳にならない。膨大な兵士たちは何の為に死んでいったのか?それは「日本という同一性」のため、などではないはずだ。逆に少なくとも一部の兵士は「日本という同一性」のために死ななくてもよい死に追いやられた。

*1:この本(原題は『玉砕しなかった兵士の手記』)は没後遺族によって発見され出版されたもの。書かれたのは捕虜になってまもないころか、帰国後の早い時期らしい。http://www.iwojima.jp/data/handbill.html(投降勧告ビラ)には、この本にも一切触れられていない秘密が記されている。

「ナショナリズム否定」の是非

# hal44 『野原さん、

ナショナリズムのよい使い方って、近年の例ではちょっと思いつかないですね。議論はあるでしょうけど、拉致問題に関しては、あのナショナリズムの高揚が、問題を不必要に拗らせてしまったと私は思いますし、レイチェル・コリーの件に関しては、アメリカ世論のナショナリズムは全く盛り上がりませんでした。ジェシカ・リンチとの扱いの違いとか考察の対象としては面白いですけどね。

社会開発研究とかで、第三世界に於ける、ナショナリズムの経済発展のための不可欠性みたいな事は議論されてますが、そのくらいかな、ナショナリズムが役にたつのって。』 (2005/03/26 00:48)

(野原)

 横田めぐみさんに焦点を当てることによって、「北朝鮮=悪」という排外主義が勝利するという不愉快な情勢が成立したことはまちがいありませんね。

竹島と独島は別の島だと思っていたという人が居て、そのとおり別の島ですよ、ということにしておいても、困る日本人韓国人はそれほど多くないと思うのですがね。さて。

 レイチェル・コリーの名前を利用することにより「レイチェルか/イスラエルか」という問題を焦点化することができる。「テロリストか/イスラエルか」という二項対立ではなく。ただアメリカ国内ではシオニストの影響力がものすごく強いので反シオニズムは少数派にとどまっているわけですが。

 ナショナリズムをどう考えるかはやはり難しい問題に成ってくるように思います。以下は、hal44さんの考え方に対する批判ではありません。

 戦後の進歩派は戦争の反省から「ナショナリズムからの卒業」といった態度を取っていたように思います。彼らが反日米安保、反自衛隊と結びついているうちは欺瞞が少なかったでしょうが、60年代以降安保反対を実際に追及する勢力は少数派になりました。進歩派の多数派が実際にやっていたことは、パックスアメリカーナを困難な理想主義としての平和と曖昧に混同し、基地を沖縄に押しつけ続けるということではなかったでしょうか。「生きて俘虜の辱めを受けず」というスローガンを作り多くの国民を死に追いやった責任も、「負けに決まった戦いをさっさと終わらせなかった責任」も、アメリカに対する原爆は戦争犯罪だという告発もしてこなかった。

「ナショナリズムからの卒業」派は、中国や韓国の国家ナショナリズムに対しては寛容でダブルスタンダードかもしれない*1。現在北朝鮮の人権状況を真剣に告発しないのはまずいと思います。

「ナショナリズムからの卒業」派は自身戦争を体験しながら、自己の存在を切り裂くようにはそれを総括せず、他人事のように全否定した。加害者としての側面を持つことを否定できない兵士たちの体験と自分たちを切り離し、ナショナリズムから絶対に卒業できない兵士たちを遅れた暗い存在と見なし放置した。

 ちょっと一方的な書き方になりましたが以上のような面もあると思います。

ナショナリズム否定論は正しいと(一応)思うのですが、その正しさの基準とは何なのか。最近学者とつき合って分かったことは「論文は正しく書かなければいけない」ということで、そのような正しさの基準で自分の全体(発言)を規制しているとするとそれはちょっと違うんじゃないか、と思っています。書斎で何冊かの本を読みこの考えが一番正しいと言い得たとしても、そう判断した自己は抽象的空間に存在する自己にすぎない。血しぶきを浴び飢えに苦しみ慰安婦を抱いたその体験の総体から、切り離されたところで「正しさ」を成立させてしまうことは、現実を極端に平板化させてしまうことになります。

「ナショナリズムからの卒業」というのは私の勝手なネーミングで、hal44さんの考え方には当てはまらないでしょうが、わたしが割り切れないとうじうじ感じているのはどこらあたりかを書かせてもらいました。

*1:貴重な例外として韓国民主化運動との連帯の運動があります

認めるはずもないじゃない

# KMR 『十条さん、それとおそらくnoharraさんもそうだと思いますが、

私が問題としているのはあなた方の主張する「手紙を渡す」という『目的』の

是非ではなく、「学校に乗り込む」という『手段』の方是非です。

何度も書きますが、手紙を渡すだけならば郵送すれば済むことではないですか。

あるいは、azamikoさんの娘さん・Kさんに託して渡させるとか。

学校側は式典準備(押しかけたのは予行中)で多忙だったでしょうし、

昨今の教育現場が同様の国旗君が代問題で揺れているのは

彼らにとっても懸念だったことでしょう。

その状況でまさにピンポイントに、その国旗君が代問題で都の教育行政を

批判する文書を配布することなど、認めるはずもないじゃないですか。

元々のazamikoさんのエントリーのコメント欄でも指摘しましたが、

学校に押しかけて文書を配布する行為の正当性について、azamikoさんは

充分な説明をしていません。

揺ぎ無い正当性があるというのなら主張されているだろうし、

そもそも当日警察を呼ばれても構わず主張すれば良かったのではないでしょうか?』 (2005/04/06 08:23)

# KMR 『追伸。

>校長が認めていた場合にそうなる可能性はどのくらいですか?

逆の仮定で質問する意図が掴めませんが・・・。

都立高校の校長が、構内で保護者による都の教育行政を批判する文書の配布を認たら、ですか?

それは校長の管理責任を問われることになるので、「式典が崩壊」とは別の騒動になる可能性があるでしょう。

まさか、「式典が崩壊しなければそれで良いじゃないか」という反論を通すおつもりですか?

それはあまりに勝手な主張ではないでしょうか。』 (2005/04/06 08:31)

# 十条 『>「学校に乗り込む」という『手段』の方法の是非です。

論点をずらしてますよ。校長にとって、彼女の来校という手段は望ましくなかったかも知れない。でも私が指摘した論点はそこではない。そういう状況での校長権限の「運用」が論点なのです。

今回のケースでは、来校されてここにいる、手紙だけ渡して帰ってくれたら秩序が混乱するわけではない、だから手紙を渡して帰ってくださいね、という対応(校長権限の運用)もありえるわけです。ところが手紙を渡すと秩序が崩壊するみたいに、大げさに騒ぎすぎるのは、私から見たらアホみたい。大げさに騒ぎすぎ。』 (2005/04/06 21:09)

# KMR 『その辺は、azamikoさんの言動から見て目的が「手紙を渡すこと」だけとは受け取られなかったのではないかと考えています。

azamikoさんが、教頭に預けるとちゃんと教師達に届かないのでは無いか、と危惧したのと同様、教頭の方もazamikoさんの行動を疑い何かとんでもないことをやらかすのでは、と危惧したのではないでしょうか。

まあ、azamikoさん本人はそのつもりは無かったのでしょうが、あのエントリーに書かれたやり取りを見ると、azamikoさん自身の態度が相手の硬化を招いた、いわば自業自得のように思えますね。』 (2005/04/06 23:55)

# 十条 『本当にセキュリティ上の危惧が懸念されるような状況なら、校長と直接会う、という事態は起こっていないでしょう。セキュリティリスクが生じないという判断があったら、危機管理の常識で考えたら、3人と直接会わせるわけにいかない対象は、まず「校長」のはず。でも校長は会ってますね(笑)。つまりそれは、セキュリティ的に問題が生じていない、という判断があったということですよ。

KMR さんは当初、式典破壊の企図した行為に「他ならない」と確信をもって語っていたのに、結局は「危惧したのではないでしょうか」という憶測しか根拠がなかったわけですね。憶測だけで「他ならない」と語ってしまうその軽さ、とってもミットモナイと思う。』 (2005/04/07 00:30)

# KMR 『>3人と直接会わせるわけにいかない対象は、まず「校長」のはず。

校長は学校内での最高責任者なのですから、むしろ会うべきでは?

最優先で守るべきは生徒たちでしょう。

ただ、前にも書きましたが式の予行中だったということをお忘れですか?』 (2005/04/07 00:51)

# KMR 『えーと、こちらが再反論してる状況なのに申し訳ないですが、azamikoさんの所でのやり取りで、この件について議論する意欲が失われてしまいました。

議論というのが勝ち負けを決めるものか、何らかのコンセンサスを求めるのか、それは各人によって異なるところですが、azamikoさんの所での議論を主、

こちらでの議論を従と捉えていたものを、あちらでの議論が上記のどちらも

望めないモノと判断した以上、こちらでの議論も無意味に思えてきました。

こちらの主張は全て引っ込めますので、負け犬とでも何とでもおっしゃって構いません。

どうもご迷惑をおかけしました。』 (2005/04/07 01:50)

# 十条 『>校長は学校内での最高責任者なのですから、むしろ会うべきでは?

そうですね。平時ではそうですね。ただ、リスクありと判断した場合は校長は会わず誰かが代理に立つ、となるのが危機管理の定石(式典の前日だからなおさらそう)。ところが校長が会っている。ということは「平時」状態・リスクなしと判断されたからですね。つまり、リスク発生という認識ではなかったという、なによりの証拠でしょうね。

式の予行中がどうかしましたか?3人を予行終了まで待たせて、職員室付近で会わせればいいだけの話。まさか、教師が予行の会場から直帰すると思っておるのですか?

とにかく話を大げさに、大げさにしないと気がすまないのですか?』 (2005/04/07 02:02)

日本軍は設置し運営した

日本人「慰安婦」制度の設置と運営は、当時存在した多数の国際法規範に違反している。国際法の規範には成文の条約のみならず慣習法も含まれる。当時日本が加入・批准していた条約としては、ILOが基礎をつくった「強制労働条約」と「醜業を行うための婦女売買禁止に関する国際条約」の他に、「ハーグ陸戦協約」などがあった。当時成文の条約としては存在しなかったが、国際慣習法として国際的に確立していたものとして、「奴隷状態の禁止」があげられる。

p8『日本軍「慰安婦」問題とは?』ナヌムの家・日本軍「慰安婦」歴史館