「受忍しない」

手元に1枚の新聞の切り抜きがある。大江健三郎の、2005年8月16日付けの朝日新聞・朝刊の連載エッセー「伝える言葉」である。

「一九四五年三月、米軍が沖縄列島ではじめて上陸した慶良間諸島で、住民たちが集団で自殺したということが起こりました。渡嘉敷島で、三百人以上、座間味島で百数十人が死に(あるいは殺され)ました。」というのが冒頭の文章である。

読み進めると、「私はいま、一九七〇年に書いた『沖縄ノート』(岩波新書)での、慶良間諸島の集団自殺をめぐっての記述で、座間味島の当時の日本人守備隊長と、渡嘉敷村の同じ立場だった人の遺族に、名誉毀損のかどで訴訟を起こされています。」とある。まさにこのテーマについての当事者の一方の発言である。だからこれに触れて書いてみようと思ったのだが、なかなか書けない。

 はっきり言ってあまり良い文章だとは思えないのだ。最初の方に、石原昌家という人の文章が引用されている。

「沖縄戦で住民が日本軍に積極的に協力したという基準で適用されるのが「戦傷病者戦没者遺族等援護法。認定基準の一つに、「集団自決」という項目があり、ゼロ歳児でも戦闘参加者として靖国神社に合祀されているという事実を直視すべきだ」

戦傷病者戦没者遺族等援護法というのは、「 恩給法の適用を受けない軍人・軍属及び準軍属が、在職期間内に傷病を受けた場合、その傷病の程度に応じて、本人またはその遺族に対し各種年金が支給する」ことなどを定めた法律らしい。いわゆる「集団自決」などの場合は純然たる民間人だから、上の説明からは貰えないように思える。*1

ところが実際には、「集団自決」などの場合でも貰えることがある。「集団自決」は国家の責任だから当然である。というか本来は別の論理で別の法律で出すべき筋のものである。そのような立法はなされなかった。このような場合に、行政は相手が「頭を下げてくること」を条件に恩恵的に年金を出すことがある。金を出すのだから頭下げてもらうのは当たり前って、それは民主主義国家じゃあないだろう。でこの場合の条件というのが「軍からの命令」の存在である。で曾野綾子以下の何人もの人がこの「軍からの命令」が真実のものかどうかをあげつらいはじめるのだが、これは行政にとっては大きな計算外れだったに違いない。行政にとって、この「軍からの命令」はその真偽を厳密に問うべき物ではないのだ、本来救済すべき遺族に対し救済を別の方法で与えるための便法に過ぎないのだ。

 私は戦傷病者戦没者遺族等援護法の認定基準について勉強したことはない。*2しかし、本来は軍人に対する制度である援護法を適用すること自体がおかしい。というところから考えた場合上のような理屈が成り立つ。その結果仮にAさんの名誉が毀損されたのであれば、責任は「集団自決」に正面から補償する制度を作らなかった国家にあるのではないか。

 このような「恩恵としての行政」の問題は、当然「自決」をどう捉えるか、軍に殺されたのか否かというイデオロギー的問題を当局寄りに解決することを伴う。

だからといって「靖国に合祀する」かどうか、は靖国神社という一神社の判断の問題であり、援護法の適用の問題とは全く無関係のはずだ。大江の(引用を含む)文章はここが全く不明確なので、悪文だと思う。

 そしてさらに文章の後半では、憲法13条幸福追求権がでてくる。「すべて国民は、個人として尊重される。(略)」

戦争放棄の項とあいまって、この項は60年前の夏、戦争が終わった日に日本人が感じた解放感の柱だったものを表現していると思います。その解放感のすぐ裏側には(略)個人に死を強制する国という存在への恐怖が、なおこちらをジッと見ている、という気持ちも残っていたのが思い出されます。

確かに大江にとっての真実はここにあるのだろう。

国家は戦争の時個人に死を強制する。したがって国家を拒否できないなら戦争を拒否すべきだ。そう言われれば納得する。

ただ、大江がもっとも美しいと讃える13条には「公共の福祉に反しない限り」という魔法のフレーズが含まれている。このフレーズにどう向きあうべきなのか、大江は問題点を提示しながらその問いには答えない。

 広島・長崎で、また沖縄で、人間として決して受忍できない苦しみを、人間がこうむったこと。

 例えば中国大陸のある作戦で華々しく戦いながら死んでいった兵士は「受忍できない苦しみをこうむったこと」にはならないのか、と反問してもしかたないだろう。「人間として決して受忍できない苦しみ」という修辞にこだわってもしかたない。それを記憶し、伝えることが本当に可能かどうかも分からない。ただ個人的に考えてどうしたって受けたくない苦しみには違いない。そのような苦しみをなくしていくためにはどうすればよいのか考えなければいけない。

*1:だいたい階級制度のきびしかった戦前の給料に基づく恩給法をそのまま継続した事自体が、戦争責任問題との絡みで問題なわけだが。

*2:だから厳密には間違いがあるかもしれない。

詳しく言うと(kamayanさんのコメントを読み追加した)

えーと、小選挙区で自民党が30%も増加した。

その根拠となる得票数を見ると643万票増加している。

しかし民主党も自民党には及ばないが、得票数は299万票増えている。

得票率(得票総数に対する割合)をみると

自民党 : 前回43.85%  今回47.77%  3.92%増加

民主党 : 前回36.66%  今回36.43%  0.23%減少

民主党の得票率は減少したといってもわずか0.23%。

したがって「自民党は4%の得票率の増加で、30%の議席数増を得た」と言ってもよいだろう。

比例代表では、自民党は3.23%増、民主党は6.36%減と小選挙区に比べると差は大きい。しかし比例代表では当選者数にはマイルドに結果し、小選挙区では劇的に結果する。

(昨日書いたときは民主党の得票率もっと大きく減ったと誤解していました。)

オバサンの発見

これに対して、「フェミニストの視点」の理論家たちはオバサン*1としての社会的位置をより優れた「知」の基礎にポジティヴに位置づけます。彼女たちは、現実の社会関係は抽象的で「客観的な」位置からではなく、日常世界の具体的な社会的位置から見渡せるものであると主張します。そうすることによって、オバサン*2たちは同時に社会思想における「人=男(Man)」を脱中心化します。

http://d.hatena.ne.jp/toled/20050924#p1

だとしたら、「人=男」を脱中心化するだけでは不十分でしょう。さらにフェミニズムにおける「白人の、経済的に恵まれた、異性愛者の、西洋の*3フェミニストの関心を脱中心化する」ことが必要になります。(同上)

コリンズは白人家庭の使用人としての黒人女性の位置に注目します。彼女たちは白人世界の「内部に」おり、白人の現実を見ることができました。一方で、黒人女性はアウトサイダーでもありました。というのも、「彼女たちは決して白人の『家族』に属してはいなかった」からです。このように、彼女たちはユニークな位置にありました。コリンズはこれを「内側のアウトサイダー」と名付けます。(同上)

オバサンは主婦である場合、その家庭ではインサイダーであり支配者であると言えなくもない。しかし、家族の中に要介護老人などをかかえると、彼女は労働時間と感情労働を限界なく搾取されることになる。

*1:原文:女性

*2:原文:彼女

*3:「若く知的な」が抜けている

語ること/その手前に留まること

悲しみの言語を使うことによって、わたしは当分の間、みずからの悲しみを忘れ去った--言葉の魔力は非常に強いので、われわれを狂わせ、破滅させかねない激情のすべてを、制御可能なものに弱めてくれるのである。

(p300『拷問者の影』ジーン・ウルフisbn:4150106894

語ることは私たちの心をなぐさめる、なぜならそれは[私を]普遍的なものへと「翻訳」してくれるから、とキルケゴールは記している。

 言語の第一の効果ないしは第一の使命、それは私から私の単独性を奪うと同時に、私を私の単独性から解放してくれることである。私の絶対的な単独性を言葉で中断することによって、私は同時に自分の自由と責任を放棄する。語り始めてしまったとたん、私はもはや決して私自身ではなく、一人でも唯一でもなくなってしまう。奇妙で逆説的で、おそろしくさえある契約だ。

(p126 デリダ『死を与える』isbn:4480088822

 ウルフとデリダの言っていることはかなり近い。沈黙に於いて<私>は自身を破滅させかねない激情あるいは単独性といったものに囚われている。しかし語ることによって<私>は単独性を奪われ、ある社会における交換可能な存在者になってしまう。

それでは、上記の「多くの老人たちが、黙り込むか「うーん、忘れたなあ」という決まり文句を返してくる。」における沈黙も、単独性の名において弁護されるべきだろうか。おそらくそうではない。

「言おうとしないことを許してください」の場合は、語り手の内部に「言うべき事がある」あるいはすくなくとも「言うことがあるべき」ことを含意している。言うべき事と沈黙という外面とのあいだのすさまじい圧力差が、単独性という強度を産みだす。「うーん、忘れたなあ」の場合は言うべき事のしっぽはすでにそこにあるのにそれを見ない振りをし忘れたふりをする。そしたそういう「振りをする」ことをきみは非難しうるのかよう非難できはしまい、という居直りがある(のではないか)。彼は一人で居ても単独者ではなく、何か(日本という共同性)に許されて居る。

六甲 第三章 

油コブシ。ケーブル六甲山上駅から約1キロ南の丘陵

に突出した巨岩。海抜約六百メートルで、西方の摩耶

山をこえて瀬戸内海を望む。かつてはにぎりこぶし状

に上へ侵びていたが、尖端が徐々に風化されている。

 私の中へ〈私〉たちがなだれこんだとき、〈私〉たちが見たものは、いままで私がかいてきた形象が、時間=空間の痕跡を次第に変化させながら、時間=空間の痕跡を次第に変化させながら、私の内蔵の奥深く累積している姿である。

 〈私〉たちの嘔吐の気配を感じとった私は、それを無視したいために、嘔吐の感覚から最も遠いと思われる意識を、外の風景へ投げ込もうとした。しかし、いつのまにか、私は、油コブシの尖端で眼を閉じたまま立ち上がっており、恐怖がその状態を確認するよりも早く、私は放物線を描いて、はるか下方の斜面で待つタンポポと激しく接吻しながら失神しつつある。

 私はまだ意識を回復していない。第一章=序章、第二章=仮章に続く次の章をかけない苦しみのために、意識的に意識を失ったと疑ってもよい位だ。ともかく〈私〉たちは、私が墜落したのと同時に、私の内部に、〈私〉たちの欲する限界をはみ出すまで深く墜落しつつある。〈私〉たちの突差の行動で、〈私〉たちの各々は、互いに〈 〉をスクラムのようにからませ合いながら鎖のように墜落したので、〈私〉たちの一方の端は、どこまでも奥深くへ運動するけれども、一方の端は、入口でたてまえを重んじる論点と、有効性に関する論点と、生活の単純再生産をめぐる論点にしぼられていく。屍臭のただよう三つの論点しっかりと固定されている。

 〈私〉たちは微少な時間=空間の転移のすきまで、次のように決議した。苦しみから逃れるために〈私〉たちを墜落させた私の責任を追求しよう。墜落という災難を逆用して、私の内部に食い下がり、いままで私がかいてきた形象たちの苦しみをさぐり、かれらに代わって〈私〉たちが私を告発してやるのだ。

 何よりも先に注意をひかれるのは人物であるが、未熟児か不具者に会う直前のような感じがして一種の恥ずかしさに〈私〉たちは身体を固くする。しかし眼をそらさずに下へ降りていかなければならない。最初にすれちがったのは、骨の割れ目に足をかけて登ってくる人間で〈私〉たちに気付かぬまま、荒い呼吸をしている。その次には、時計の長短針のように交差する血管にはさまれている人間。眼の機能を耳が、耳の機能を口が、口の機能を眼が果たしているので、各々の器官が死ぬほど憎みあっている。更に下へ降りる〈私〉たちは、足ぶみか跳躍をしている人間に驚いた。粘膜壁にあるいくつかの光る斑点のためにできたたてまえを重んじる論点と、有効性に関する論点と、生活の単純再生産をめぐる論点にしぼられていく。屍臭のただよう三つの論点自分の影、その影のどこかの部分を、同時に踏みつけようと試みているらしい。最後に、じっとしゃがみこんだまま、不消化な岩の破片をかんでいる人間がいるが、よく見ると岩の破片ではなく、眼を閉じている彫像の頭部で、それに話しかけている様子であった。どの人間も、年齢や性別が分らず、それらの人物たちのまわりには、さまざまなものたちが、プールにゴミ箱を投げ込んだように浮遊しているので、〈私〉たちはそれらの一つ一つをたしかめる気力がない。それに、落ち着いて考えてみると、〈私〉たちは、ほぼ直線状に下降してきたのだから、その軸のまわりの部分で何人かを見たというにすぎない。

 〈私〉たちのまわりから、形象たちをつつみこむ限界までは、どこまでも、果てしがないと思われる位に暗く、その暗さは、夜の渓谷や、濁った運河や死者の広場に似ている。せめて下の限界を、墜落しながらたしかめようと考えたとき、なぜか分からないが、下の暗さをのぞきこむ〈私〉たちは、私の口に触れているはずのタンポポを意識した。同時に〈私〉たちのつながりが、ガクンと一直線に伸び切り、これ以上、降りられないことに気がつく。

 静止した〈私〉たちが、私の責任を、形象たちの前で告発しようと意志をかため、つぶやきから弁論に変化する直前の、微妙な鼓動の律動を制御するために眼を閉じていると、いままでは〈私〉たちに気付かないまま永遠の動作を続けていた形象たちが、ふと動作を中止して、〈私〉たちの方へ注意をむけているような気がする。〈私〉たちはすぐに眼を開けてしまうと、この想像とくいちがうのを怖れ、数瞬後、どちらでもよい、と思いながら眼を開くと、形象たちは、永遠の動作を続けており、こちらに注意を払っていない。〈私〉たちは、かれらが気がつかないうちに、彼らの一瞬を想像した〈私〉たちの技巧や、待つことのうちに事態を変化させてしまう〈私〉たちの統制力に微笑しながら、次のように、告発をはじめるのである。

〈私〉たちは、あなた方の直系の血族として、六甲の空間から、この時間の底へ降りてきた。

〈私〉たちは、あなた方と同じく、存在しきれない苦しみにうめいている。

人間が存在するとき、整数の性質をもって現れてくるのを疑うものはいない。しかし、ここにいるあなた方は全て、整数からはみ出す性質をもっている。そして〈私〉たちは、その最も極端なかたちに分裂させられた。

 墜落を逆用して、〈私〉たちは、あなた方の連続性をかいま見てきた。あなた方のうち、最も底にいる形象から次第に上方へ、〈私〉たちに至るまで、丁度、枝のない幹をみるような方向が一貫している。

 あなた方や〈私〉たちを、未熟なまま早産せざるをえない時間が、かって私を襲ったのであろう。それはよいとして、〈私〉たちが告発する私の責任は次の点にある。

 あなた方や〈私〉たちの形象をつねに、外部の時間と、内部の空間との間でのみ設定したこと。従って、自己にも形象にも致命的な歪みを与えたこと。

 〈私〉たちや、あなた方の直線的なつながりは、この上なく危険な徴候だ。主体設定の変化が早すぎる。主体のりんかくが薄すぎる。

 底に近い形象ほど無意識のうち時間にあやつられ、上に近づく形象ほど無意識のうちに空間にあやつられている。だからこそ〈私〉たちは、六甲の空間から、あなた方の時間へ降りてきた、と語ったのだ。

 〈私〉たちは私に要求する。内部の時間と外部の空間の間で形象せよ。たとえば、失神という瞬間から、太陽に入ったフライを受けそこなって球が顔に当った瞬間、終電車におくれて歩いて帰ろうとし、凍った鉄橋からすべり落ちた瞬間、機動隊にむかって振り上げたコン棒の先が、後ろのデモ隊員に当った瞬間へ、なぜ連絡しないのか。〈私〉たちでない、〈 〉たちへ、なぜ入り込まないか。

 〈私〉たちは、あなた方の直系の血族である。これは、実をいうと、この上なく屈辱的なことだ。しかし、同時に、〈私〉たちの一人一人は、あなた方と存在を交換してもよいと思う位、あなた方を愛している。

 いま〈私〉たちは、自分たちの限界のために、これ以上うごくことができない。身体が不自然に伸び切っているし、窒息しそうだ。いつか必ず、もっと深く、もっと長い時間ここへ潜入し、あなた方すべてを救い出そう。

 〈私〉たちは、あなた方の誰よりも惨めな形象だが、あなた方とちがっている。そして、いましばらく、あなた方と離れていくことは、あなた方の苦しみの契機をすべて背負いこむ一ばん有効な道なのだ。

〈私〉たちが、このように、かれらにむかって語りおわったとき、いや語りおわろうとしたとき、彫像の頭部が〈私〉たちの方へ投げつけられ、次第に重量と速度を増して、油コブシのように〈私〉たちへ迫ってくる。その彫像あるいは巨岩によってひきおこされた風を受けて、〈私〉たちは、自分よりも少しでも上方にいる〈私〉たちにしがみつきながら上方へ吹き上げられていくのであるが、下降のときは円筒状の流れしか見えなかったのに、上昇のときは滝のような音しか聞こえない。

 〈私〉たちは、〈 〉を何重にも自分にまきつけたい不安と、〈 〉がズリ落ちそうだという滑稽さにはさまれながら、下方から迫る衝撃を避けようとしている。

 突然の爆発音。……黄色い閃光が飛び散って、花びらのように開く。

 内臓の底から吹き上げられた〈私〉たちが、風景への出口でぶつかったのは、タンポポであった。私が失神しながら接吻しているので、黄色い花びらは血にまみれており、そこには、いままで〈私〉たちが一度も感じたことのない、可憐な勇敢さともいうべき力が潜んでいる。

 〈私〉たちにとって、はじめての外部の風景でありながら同時に出口をふさぐこのタンポポを前にして、〈私〉たちは次のように討論する。

 花びらに映っているのは何だろう。

 いや、文字が浮きでているのではないか。すでに綿毛になった花芯がペンになって書いた文字が。

 とにかく何かが表現されているのはたしかだ。

 私がいままでかいた形象たち、かれらからこぼれおちた、あるいは欠落したものが解放されて表現されているのではないか

 私がこれからかくべきヴィジョンなのだろう。

 〈私〉たちのかかわり合いかたで、いろいろと変わった風にとらえられるのだと思う。ほら、〈私〉たちの〈 〉が映っていると思えばそんな気がするだろう。

 ふしぎなことに気がついた。花びらと〈私〉たちの意識をつなぐイメージあるいは言葉に〈 〉をつけてみると、その部分は、他のイメージあるいは言葉に置き換えても成り立つのだ。しかも、より透明な意味をひきずりだしながら。

 例えばどんなのだ。さっぱり分からない。

 それは私が、いつかやってくれるだろう。また、〈私〉たちは私に、それをやらさなけらばならない。

 いいたいことをいい切ってしまえ。とても苦しそうだから。

 任意の部分に〈 〉をつけてみると、置き換えが可能だし、そのことによって花びら全体が、さまざまに揺れ動く。そして、イメージあるいは言葉が、個体→群→全体

個体←群→全体 個体←群←全体というようなことばでしか、いまはいえないが、そのような異なった時間=空間の律動の境界を往還するのが予感できるのだ。

 自由自在にか。

 いや、ある領域内に制限されつつ自由に運動するのではないかという気がする。逆にある領域内で自由に運動するもののうち、ある一つのかたちが、この花びらに現れてくるともいえそうだ。

 それは怖ろしいことだぞ。極めて突飛ないいかただが、ここから、恒常的な存在の条件と恒常的な表現の条件の中で弯曲している何ものかのある段階の姿が導けるのではないか。

 では、この花びらの形象はだれがつくりだしたのか。

 失神している私とでもしかいいようがない。〈私〉たちは、いまのところ、私にむかって、〈 〉の根拠を明らかにせよ、と要求し続けるほかないのだ。

 手がかりはないのだろうか。何でもいいから、いってくれ。

 恐らく、いま失神している私は、あるとき自己や世界の関係を〈 〉に入れなければ生きることも死ぬこともできない時間=空間に出会ったのだ。そしていまも出会い続けているのだろう。私にとっての戦後史の軸も、世代も体験も、国家も革命組織も、家庭も風景も、みなれないと同時に致命的な二重性として映っているはずだ。ただし、自分では気づかずに。失神したときはじめて、このタンポポが、私の可能性をひきずりだしたのだ。

 花びらに浮きでたものを〈私〉たちの一人一人がメモにかきうつしたらどうなるか。……みんなで協力して統一メモを構成しよう。

 何度もかきかえていくときの基準はどうするのだ。切り捨てたり、残したり、順序を入れかえたりするときの基準は。

 切り捨てることによってしか〈 〉運動をおしすすめることができないのであれば、その部分は、別のかたちで残ってくるだろう。残るものは〈 〉運動の基盤、付け加えるものは〈 〉運動を拡大する契機、入れかえるものは〈 〉運動の有効性としてとらえられる。

 私への告発はどうなったのだ。それに一体、わたしたちは何ものなのだ。

 〈私〉たちが私によって、私が〈私〉たちによって〈 〉の意味を予感したことが、それぞれの責任だといえる。だから、私への告発は〈私〉たちへの告発になる。〈私〉たちの誤りを追求することは、この世界の誤りを追求することであり、また、この世界の誤りを追求することなしには〈私〉たちの誤りは許されない。

 〈私〉たちはこれから〈 〉をつけて表れないことを決意しよう。〈私〉たち以外の全てのものに〈 〉をつけに、再び内蔵へ下降していくのだから。

 〈 〉は消え去るだろう。しかし、〈 〉のない世界は、〈私〉たちが永遠に変革し続ける夢である。夢が恒常的な条件に限りなく近づくように! 〈私〉たちが、そのたたかいに耐え続けてくれるように!

 そのとき、私は、何ものかの嘔吐によって意識を回復し、まず、わたしの上方におおいかぶさっている油コブシに〈 〉をつけはじめている。

(1966年5月発表)

(2008.11.09~16UP)

一読者 『まず、引用されたサイトの具体的検証をするという宿題その①を作成中にご返事をされてしまったので、また後回しにさせていただきます。

この後、一旦、野原さんに答えてからになるので、さらに後回しになりますが。

次に、今回の慰安婦決議案の内容確認という宿題その②は、ホンダ議員のHPで再確認したとおりなら、補償問題は入っていませんね。

しかし、4項目の内容が韓国などの慰安婦補償運動家の一般的要求から補償が抜けているだけで酷似しており、今更ながら韓国中国ロビーの主導下の議案だと実感させられます。

>さてあなたが公安委員会(?)と風俗業者の関係とは違う、そして軍が積極的・主体的に関与したのだと認識を改めたということですね。

いいえ。私は最初から上記2、の考えでした。

しかし、引用されたサイトの著者が十分に実証できていないのに3、と結論付けたのに過剰に反応して、つい1、と言い間違えただけです。

そして、私の考えでは、

1、国家に法的責任なし

2、国家に法的責任があるか無いかは行為当時の行為地の実効的法規範により決まる

3、国家に法的責任あり

です。

私は主体的関与という用語を、国家の法的責任を肯定しうるだけの関与という意味で使用しておりますが、あなた方はより広い意味の積極的関与を、それと同義と考えていることによる誤解ですね。

つまり、私は、2、の中の国家の法的責任否定説です。

道義的責任については肯定説で、アジア女性基金にも、村山元首相の10倍以上の金額を寄付させていただいております。

>そうしますと常石氏のブログでのあなたの問題提起「違法な実態があったとしても、政府や軍が主体的に関与していなかったら、それは朝鮮人が多かったという業者の責任です。」というのは誤りだということでよろしいですね。

これも誤解なので、上記コメントをお読みください。

私とあなた方の用語の意味の違いに起因する誤解でしょうね。

>なるほど。要は説得的な反論は出来ないが「反感を抱いた」程度のものですか。

いいえ。

説得的な反論かどうか分かりませんが、ただいま作成中ですので、お待ちください。

事実部分の検証には、ある程度他の資料の検証も必要なので、時間はかかります。

>まあ、如何にバイアスのかかった目でこの問題を見ていたか、自らのイデオロギー性を自覚できただけあなたにとっては良かったのではないでしょうか。

前提で勘違いしているので、ここでも勘違いしていますね。

私はイデオロギー的には中道右派で大アジア主義に親和的です。

ところで、引用されたサイトの資料分析部分と結論部分の間にロジックの飛躍があるのはあなたにもお分かりになりますよね?

>「違法な実態に政府や軍が主体的に関与していたら、日韓基本条約時の請求権条約で解決済みということになる」という議論が的を外しているということもよろしいですね。

現在の議論として的を外していても、仮に決議案が可決されたら、当然問題になりえますから、将来を予測した議論としては的を外していないと思います。

私は、決議案の原文を読んで、ますます韓国の河野談話の経緯に対する背信的行為と、米国内での対日企業戦時賠償請求訴訟へのホンダ議員の関与の経緯が、組み合わされた形での、将来の蒸し返し補償要求を予感しました。

私は、法的責任は条約で解決済み、道義的責任は河野談話、歴代首相の謝罪、アジア女性基金で解決済みという立場ですから、決議案成立後に補償要求される可能性が高まったことを等閑視はできません。

杞憂に終わると良いのですがね。

>人権侵害行為が十分に救済されていないという認識の下様々な理論的な努力が現在為されています。しかも妥結時に考慮されていなかった問題であるのならなおさらです。

条約等の締結時に考慮されていなくても、河野談話以後の取り組みで考慮されて解決済みでしょう。それが日韓両国の外交信義というものです。

>そもそも軍が主体的に関与し、そこにおいて人権侵害行為が発生しているのに、(公式的な)謝罪すらしない、あるいは一官房長官の談話すらなかったことにしようとするというのはどういうことかと私は思います。何も責任を取りませんと言っているに等しいと言われても仕方がない。

私は首相も公式に謝罪しているという認識です。歴代首相の河野談話の継承とお詫びって、そういう意味でしょ?責任は法的責任も道義的責任も履行済みという考えなので、大雑把に言えば、責任はもう履行しました、事実誤認の部分は修正します、というスタンスでいいと思います。何も責任をとりませんと言ってるととるのは、あまりにも事実の経緯に無知な故か傲慢さ故でしょうね。

>私は東京大空襲のような無差別爆撃も原爆による民間人の虐殺行為も裁かれるべきだと本気で思っております。

法的責任は、請求権を放棄したので、賛成しません。

道義的責任の追及なら、賛成します。

>しかしそれを日本が追及するには自らの戦争犯罪と真摯に向き合うこと以外にありません。

真摯に向き合うのは賛成ですが、事実誤認は修正すべきです。

ただ、それは十分に事実を検証した結果こうなりました、ということが第三者の目からも是認しうるだけの資料をそろえ、分析結果も揃えることが必要でしょうね。

少なくとも、非難決議案の内容に事実誤認が多いことは、あなたも賛成でしょう?』

ノーモア 『ではホンダ議員が実際どのようなことを言っているのか見てみましょうか。

http://www.wam-peace.org/main/modules/news/dl/070131honda.pdf

「私は、アジア女性基金を通じて慰安婦生存者に金銭的賠償を行おうとした日本の努力を評価しております。アジア女性基金とは政府によって着手され資金の多くを政府に負う民間基金であり、その目的は「慰安婦」に対する償いをねらいとしてプログラムやプロジェクトを実行することでありました。アジア女性基金は 2007年3月31日をもって解散することとなっています。私は、アジア女性基金が重要であったということには同意しますが、現実は、大多数の慰安婦生存者がこれらの資金の受け取りを拒否したということであり、日本政府からの、疑いの余地も曖昧さもない謝罪がなければ、その金は彼女たちにとって意味を成さなかったということなのです。」

私にはあなたが相手が何を言いたいかも良く調べずに陰謀論にはまってしまわれているように思えます。

>いいえ。私は最初から上記2、の考えでした。

そうだったんですか?「公安云々」のくだりからはとてもとてもそうは思えませんでしたが。まあこれからきちんと反論なさるということで待ちましょう。

>引用されたサイトの資料分析部分と結論部分の間にロジックの飛躍があるのはあなたにもお分かりになりますよね?

よく分からないことをおっしゃいますね。私はあの論文を「軍の主体的関与」を示す目的で挙げたのです。あの論文はその目的に適っていたと思いますが。

>将来の蒸し返し補償要求を予感しました。

予感するのなら御勝手に。ただロクな根拠に基づかない予感を基に議論を展開してもバカにされるだけです。事実あなたは決議案がどういうものであるか、議案提出の意図はどこにあるのかこの議論を通じて一度もソースを示されていない。議論をなめているのでしょうか。

>条約等の締結時に考慮されていなくても、河野談話以後の取り組みで考慮されて解決済みでしょう。それが日韓両国の外交信義というものです。

最低限河野談話の踏襲することが「外交信義である」というご認識に改められたということでこれも良かったです。ちなみに一官房長官の談話に過ぎないものを公式的な謝罪ととるかどうかは微妙なところでしょうね(ホンダ議員の求める公式的な謝罪とは国会による謝罪決議でしょう)。しかもそれを重みのあるものに高めようというならともかく、逆に常にその価値を低めようとし、それすらも覆そうという勢力がこの問題をこじらせているわけで。

>法的責任は、請求権を放棄したので、賛成しません。

まさにここでしょうな。被害者そっちのけの勝手な国家間同意で一切が解決とすることに国際人道法の研究者が疑問をおぼえるのは。しかも国内法による救済といっても「戦争による被害は国民が等しく受忍すべきもの」であっさり却下されるわけで。ま、それはいいとしていずれにせよ、道義的責任とやらを追及するにもそれなりの倫理的な基盤は必要だということです。

>真摯に向き合うのは賛成ですが、事実誤認は修正すべきです。

一般論としては正しいのですが、あなたのように相手が何を言っているかを知らずに感情的に噛み付く人たちがいるので何とも言えないというところでしょうか。』

一読者→中道右派 一読者→中道右派 『>現実は、大多数の慰安婦生存者がこれらの資金の受け取りを拒否したということであり、日本政府からの、疑いの余地も曖昧さもない謝罪がなければ、その金は彼女たちにとって意味を成さなかったということなのです。」

実際には挺隊協、マスコミ、その他社会からの有形無形の圧力で受け取るつもりだったのが拒否した事例が多数あったことが、日本側の支援団体の報告で批判されていますね。

>私にはあなたが相手が何を言いたいかも良く調べずに陰謀論にはまってしまわれているように思えます。

あなたは、自分に都合のいい部分しか取り上げていませんんね。私はホンダ議員のホームページで全文を読みましたが、事実認定部分には多数の誤認がある。

>そうだったんですか?「公安云々」のくだりからはとてもとてもそうは思えませんでしたが。

それは当方のミスだと説明済みです。あなたも野原氏同様人のコメントをきちんと読まない方なのですね。

>まあこれからきちんと反論なさるということで待ちましょう。

ロジック部分は前回のコメントで説明済みということは了解してもらえますね。

具体的検証部分は、もう少しお待ちください。

>よく分からないことをおっしゃいますね。私はあの論文を「軍の主体的関与」を示す目的で挙げたのです。あの論文はその目的に適っていたと思いますが。

あなたの用語法からは、目的達成でしょう。

私の用語法(前回コメント参照)からは立証不十分です。

>事実あなたは決議案がどういうものであるか、議案提出の意図はどこにあるのかこの議論を通じて一度もソースを示されていない。議論をなめているのでしょうか。

あなたがソースを要求したいのは、決議案の全文、ホンダ議員のHPその他、ホンダ議員の対日企業賠償請求訴訟への関与、韓国慰安婦補償運動の一般的要求などですか?そんなのあなたご存知でしょ?私のソース提示に関するポリシーは以前説明したのに分かって貰えないのですか?あなたこそ肝心のロジック部分がいい加減すぎて、議論を舐めているとしか思えません。相手の言い分のどこに賛成でどこに反対かを明確にする、議論の途中で自分のミスがあれば認めお互いの共通認識にする、これ基本じゃないのですか?

>最低限河野談話の踏襲することが「外交信義である」というご認識に改められたということでこれも良かったです。

これも誤解です。改めてません。私は最初から河野談話修正ないし撤回必要説です。先に外交信義を破ったのは韓国側なのだから、日本だけ墨守することを押し付けられるいわれはありません。

>ちなみに一官房長官の談話に過ぎないものを公式的な謝罪ととるかどうかは微妙なところでしょうね(ホンダ議員の求める公式的な謝罪とは国会による謝罪決議でしょう)。しかもそれを重みのあるものに高めようというならともかく、逆に常にその価値を低めようとし、それすらも覆そうという勢力がこの問題をこじらせているわけで。

私は、官房長官の談話を踏まえて歴代首相が何回も謝罪してるという認識だと言ってるでしょうが。

国会による謝罪決議が必要と考えるのは、ホンダ議員や中韓ロビーの勝手ですが、日本には日本のやり方があり、過去の犯罪のほとんどに謝罪していない米議会や中韓勢力に指図されるいわれはないですね。

価値を低めたり覆そうとしていると考えるのは、単にあなたの価値観に基づく主観。

私は単に事実誤認部分を修正するだけだと思います。その際、この問題の発生経緯も含めてつまびらかにした上でできれば、なお良いですね。法意識の発展による遡及処罰はどこまで可能か、という新たな論点を提示するきっかけになるかもしれません。

あとで検索してソースを示しますが、町山ともひろ(漢字失念)氏の天安門事件に関する記事をお読みください。

>あなたのように相手が何を言っているかを知らずに感情的に噛み付く人たちがいるので何とも言えないというところでしょうか

ホンダ議員のHPは前回のコメント前に全文読みましたが、それでも知らずにかみついていると?

むしろ、あなた方のように相手のコメントを字義どおりに素直に受け取らず誤解曲解が多すぎると、こちらが一々説明しなきゃならないので、疲れます。』

一読者→中道右派 一読者→中道右派 『http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20040313

町山氏のブログです。』

ノーモア 『>そんなのあなたご存知でしょ?

いや、最初に「請求権条約で解決済みだからごちゃごちゃ言うな」という論旨を展開されたから、今回「法的責任」は云々されていないのだから的外れでは?と答えたわけです。もちろん最初に論旨を展開されたのはあなただからあなたがソースを提示すべきでしたが、私は議論を先に進めるためにこちらから色々提供して差し上げました。そして実際、法的責任云々は含まれていなかったわけですから、それで本来この話は終わりなのです。が、あなたは議論をすり替えて「いや将来言ってくる気がする」と言い出したわけです。

あなたの「予感」とか「そう思った」だけの議論に付き合う義理はないのですが、やはりホンダ議員はそのように言っていないはずですがとこれもこちらからソースを提供して差し上げた。私は彼が民間基金による補償というアイデアを高く評価しているのでそれが謝罪をきちんと行うことで機能して欲しいと思っているように(まさに「字義通り」!)受け取りましたが。で、今度はホンダ議員の「事実誤認の有無」ですか?議論のすり替えを何度行えば気が済むのでしょうか。もとの論点とは似ても似つかない論点になっていることが分かりませんか?

>私は、官房長官の談話を踏まえて歴代首相が何回も謝罪してるという認識だと言ってるでしょうが。

知ってますよ。何回も繰り返さなくても結構です。ただしそれについて散々それを台無しにするような発言が繰り返されてきた経緯も御存知ですよね?ホンダ氏も諸外国もそういう経緯を知っているんですよ。だから「曖昧でない謝罪を」と言っているんじゃないですか。謝罪というのは加害者が頭を下げた回数で決まるんじゃないんです。謝罪は一人じゃ出来ないんですよ。

>日本には日本のやり方があり

まあ加害者が犯罪被害者に謝るとき「俺には俺なりのやり方があるんだ」と言いだして謝罪が成り立つかといえば、その可能性はゼロに近いでしょうね。

>価値を低めたり覆そうとしていると考えるのは、単にあなたの価値観に基づく主観。

私だけの主観ではありません。それは諸外国でも「日本の謝罪は曖昧だ」という認識の方が多数派なのでは。。今回安倍氏が「謝罪しない」と言った時の諸外国のメディア・政界の人たちのあまりの反応にこれまで「日本を悪く言うのは特アだけだ」と言っていた人たちがうろたえていたのを見て不謹慎ですが笑ってしまいました。まあこれは蛇足ですが。いずれにせよ謝罪は一人では出来ないという「リアリズム」に立ち返って欲しいものですよね。

>町山氏のブログ

知ってますよ。しかしそれが今回の件と何の関係があるのか私には全く分からないので正直困惑してます。

>先に外交信義を破ったのは韓国側なのだから、日本だけ墨守することを押し付けられるいわれはありません。

これもよく分からないんですが詳しく経緯の御説明を願います。』

民、人、天

 光栄のベストセラーシミュレーションゲーム三国志には、「民忠(タミチュウ)」というパラメータがある。民の忠誠度のことである。これが低く成りすぎると民衆は反乱を起こして領主が殺される場合もある。したがって低くならないよう民に食糧を与えたりしておかないといけない。ここで定義されている民という概念はけっこう正解であり、中国思想史の最初期に遡りうるものだ。

 周の青銅器銘文に為政者の統治対象として登場する。『尚書』では、民は保(やす)んじおさめられるべきもの。この段階では民は自然の存在であり、統治の客体にすぎない。為政のバロメーターである。p44(光栄の場合と一致している。)

 人を発見したのは孟子である。天から付与された自然物である身体は、「思う」ことによりまた「身に返る」こと「心を尽くす」ことにより、身体が潜在的に有する新たな意義を見出していく。p48

 戦国後期の儒者において、「人」尊重の思想を継承した、「王による民の教化」という観念が確立する。人倫社会の成立は「王による教化」によって保証される。p64まあ考えてみると現在の教育基本法改正の論理はこうした伝統に起源している、ということはできる。しかし彼らの最高範疇は愛国心であり、アプリオリに天下に届かない。哀れなものである。

(以上ページ数は『儒学のかたち』関口順 東京大学出版会 参照)

 で、11/15に「でも人民という言葉はいかにもこなれない。スターリニズムの匂いさえする。」と書いたがこれは撤回することにする。孟子曰く「諸侯の宝は三。土地、人民、政事なり」(尽心下)