今はまだ口だけだが、将来日本に対してテロを仕掛けてくるような国家になるのではないか?と本気で心配になってくる。
韓国人も心配しているのでは?
今はまだ口だけだが、将来日本に対してテロを仕掛けてくるような国家になるのではないか?と本気で心配になってくる。
韓国人も心配しているのでは?
# index_home 『お考えに反対するものではありません。ただ、少し危惧しなければならないと思うことがあるので書かせていただきます。「君が代日の丸は、『各個人の魂と国家』をむすぶ重要なメディア」と規定すること自体が、君が代日の丸問題は「寛容」や「信教の自由」に類するものではなく「政治的統治」にかかる問題だと結論づけるための論理を提供することになるのではないかと思うのです。国家は「想像の共同体」であり、だからこそ「想像」させる媒介(メディアみたいなものですかね)が必要である、それこそが…という論理に。私がロックの論を読み違えているのか、深読みしすぎなのかはわかりませんが、如何でしょう。』
(野原)hikaruさん 興味深いコメントありがとう。
(えーと、この問題については「書きながら(柔軟に)考える」というスタイルを取りたいと思っています)
3.「君が代・日の丸」問題は、些細な問題のようだが、わたしたちの国家(state)が、「信教の自由」「寛容」を認めるかどうかの問題だ。
には賛成する立場での意見と受け取ります。
君が代は単に国歌であるに過ぎない、宗教的あるいは政治的色彩はない、というのが現在の当局見解です。それに対し、『各個人の魂と国家』をむすぶ重要なメディアであることは否定できず、それを強制することは「広い意味の信仰の自由」を侵すと主張したい。
国家に対する尊重の念というものは否定できない、とする*1。そうすると、「魂と国家を結ぶ重要な媒介」というだけでは国歌を否定できない。君が代が持っている質が問われる。国歌としての君が代は、近い過去において戦争中の「国家総動員体制」を支える重要な部品だった。そして歌詞を変えるとかの断絶の作業を経ることなくただ時間が経ったというだけで復活してきているものにすぎない。というわけでわたしは君が代を否定する。
えーと、hikaruさんに対する議論をうまく組み立てられないな。
「君が代日の丸は、『各個人の魂と国家』をむすぶ重要なメディア」と規定すること の是非が論点ですね。君が代日の丸は過去、魂を国家へ向けて総動員していく強力なメディアだった。現在そうではなく、「軽い」ものとして浸透させようとし成功している。だが「軽い」のは見かけだけで重いのが本質だと私は思う。したがって重要性は現在もあるとわたしは思います。
君が代が軽い物であるなら、拒否する論理を組み立てられないように思うのですが。如何でしょう。
「政治的社会は、ただ現世における事物についての各人の所有権を確保するためだけに、造られたもの」だ、云々のロックの思想を検討することはここではしません。
*1:国民に教育を受ける機会を与ることを援助する国家を、わたしは尊重する。
# azamiko 『トラックバック送っていただきありがとうございました。
ずっと、議論されてこられたのをちらと拝見(^-^;
こういう議論は参加していないと読むのは辛いものがありますが、議論が成立しているところが羨ましく思えました。当たり前といえば当たり前なのですが。
雅子さま報道について書かれていたことも印象に残りました。
これから、ロムさせていただきますのでよろしくお願いいたします。』 (2005/03/30 10:41)
(野原)
azamikoさん。丁寧な御あいさつありがとうございます。
雅子さま懐妊報道についての文も読んでいただいたそうでありがたいです。
ここでの(君が代関係)議論はレベルは低くないと思うのですが、論点が拡散してしまったきらいがあります。ちょっと(というかだいぶ)読みにくいですね。・・・
id:azamiko:20050312「卒業式に思う」を読ませてもらってとても感動しました。
できれば感想を書きたいです。今後ともよろしく。
http://blog.livedoor.jp/akyoko3/archives/18605869.html K’s Room:日の丸と憲法9条
がコメントスクラムの被害を受けている。
前日のコメント欄に下記の通り書き込みました。
http://terutell.at.webry.info/200504/article_2.html 多数の一般人が少数の一般人をたたくブログ界隈 てるてる日記/ウェブリブログ
からきました。野原燐といいます。はじめまして。
前日に書き込みしてすみません。
コメントスクラムはうっとおしいですね。
日の丸が多くの日本人に好かれていない理由は、日本人にも莫大な被害を与えた「大東亜戦争」を、肯定的にズラして総括しようとする勢力(自民党+プチウヨ)に対する反感があるからだと思います。
コメントスクラムにどう対応するかは難しいですが、ほんのちょっと休憩し、その後淡々と自分に興味のあることを書き続けて行く、くらいの対応でも大丈夫かも。自分の幸せを追求し表現していけば、亡霊たちは消え去ります。(ほんとかな?)
消耗せず、お元気で!
野原燐
この発言に対するコメントは下記にどうぞ。
50年前、バンドンに集まったアジア・アフリカ諸国の前で、我が国は、平和国家として、国家発展に努める決意を表明しましたが、現在も、この50年前の志にいささかの揺るぎもありません。
我が国は、かつて植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。こうした歴史の事実を謙虚に受けとめ、痛切なる反省と心からのお詫びの気持ちを常に心に刻みつつ、我が国は第二次世界大戦後一貫して、経済大国になっても軍事大国にはならず、いかなる問題も、武力に依らず平和的に解決するとの立場を堅持しています。
ここまで言うなら当然「靖国参拝止めます」となるはずだ。諸外国もそう思っただろう。
第二に、平和の構築が重要と考えます。平和と安定こそが経済発展の不可欠な基盤です。我が国は、これまで大量破壊兵器等の拡散やテロの防止に力を注ぐとともに、カンボジアや東チモール、アフガニスタン等において平和の構築のために努力してまいりました。今後、中東和平推進のためのパレスチナ支援や、平和に向けてダイナミックな動きを示しているアフリカに積極的な支援を行ってまいります。無秩序な兵器の取引の防止、法の支配や自由、民主主義といった普遍的価値の普及は我々すべてが積極的役割を果たすべき課題です。
アフガニスタン、イラクにおける「努力」は評価できない。「中東和平推進のためのパレスチナ支援」は現にパレスチナを抑圧しているイスラエルとを抑える努力抜きに行っても意味はない。またネオコンとヨーロッパとかの間で「自由、民主主義といった普遍的価値の普及」という言葉の意味について大きな差異があるので、どちらを選択するのかが問われる。以上のような問題点はあるがまあ優等生的な発言だ。
http://www.din.or.jp/~okidentt/nezusan.htm
根津公子さんのページ
卒業したらオトナの世の中に出て行く生徒に対し、教員が(その権力でもって)強要できる知識・認識は、結局は「今の社会の一般常識や教養、批判的に世の中や報道を見る目、自分の暮らしを守る力、明日を信じて暮らす気持」なんだなあ。
教育権は国家にあるとする日本の場合、国家がその「一般常識」として何を国民に求めるかというのが「教科書」なのだろう。
野原は前半に共感するが、後半はどうだろう。“国家に都合の良い人間を造りたい”というベクトルと、歴史と国際関係を切り開いていくために“愛と正義と自己愛を調和させる強靱な知性が必要である”という二つのベクトルが存在し、後者の方が勿論大事である。国家に取ってさえ。ところが前者が大事と勘違いしている馬鹿が増えているのが問題なんだ。とわたしは思うのだが。
#drmccoy 皇国・皇軍が「強制」したとおっしゃいますが、具体的にどのような方法で強制したんでしょうか?
(野原)住民の半数が米軍に“保護され”生きのびています。皇国・皇軍の「強制」がなかったのなら、彼ら(死んだ方の半分)はなぜ死ななければならなかったのでしょうか。
自殺した以上そこには自己の意志という契機が存在している。つまり「一種のマインドコントロール」の下にあったのだ、と(スワンさん発言の援用して)野原は主張しますが、だからといって幾ばくの自己責任が存したことは否定しません。
彼らの死が百パーセント強制によるものと言えるのか?とマッコイさんは論を立てているようですが、彼らの死の原因をたずねた場合、それが共同体の常識だったという意味を含めた強制が大きく作用していたといいうる、というのがわたしの主張です。
牛島中将は立派な方だったそうだ。
http://d.hatena.ne.jp/satoumamoru/20050724/1122165671
国家の味方をする者は、民衆に敵対する。
でもそれってわたしのようなアナキストの国家観なんですけどねえ~。
http://d.hatena.ne.jp/sakunou/20050805/1123252066 では、次のように論じている。
(1)「靖国神社とは、明治になってからできたもので、近代になってからできた宗教施設である。つまり、最近できた新興宗教ではないのか」。
という意見は間違っていると。
そして「新ゴーマニズム宣言SPECIAL靖国論 * 作者: 小林よしのり」から次の文章を引用する。
(2)戊辰戦争の戦死者の埋葬に際しては、「當村の守護神トシテ」と記された文章が残っている。公に殉じたものを「村の守護神」として祀ることは、地域・民間から自発的に起こっていたのだ。(小林)
(3)このように、民衆の心に根ざした(日本人としての宗教観に基づく)追悼の様式を、国家が引き継ぐ形で創建されたのが、靖国神社であり、「明治になって近代国家が軍国主義に基づいて作った新興宗教ではない」ということは明白だと思います。(sakunou)
まず新興宗教という言葉を聞けば、ちょうど靖国と同時期幕末明治期にできた黒住教*1、天理教、大本教などなどをまず思い浮かべます。篤胤以降のこの時期は日本ネイティヴィズムの戦国時代とも考えられ、靖国を新興宗教と呼ぶのは、(普通の言葉の使い方としては間違いですが)一周回ってクール!という感じもします。
(2)への批判。ある戊辰戦争の戦死者が、ある村で「當村の守護神トシテ」祀られたことは、靖国神社でそれが「村の守護神トシテ」祀られたことを意味しない。靖国は上に書いたように魂の選別装置であり、新政府側に立って斃れた者たちだけを祀って居る。
小林よしのりの原思想は“鐘楼のパトリオティスム”みたいなものに近いのではないのか。であれば会津白虎隊の悲劇を考える場合にコンフリクトしないのかなあ?
(3)に対する批判。戊辰戦争は内戦であり、多くの藩が二つの陣営に分かれ、またそれに至るためにはひとつの藩の中でリーダーが内紛し争うこともあった。戦争の以前を含め、沢山の死者を出した。そのような「戦争」に対し、「民衆の心に根ざした(日本人としての宗教観に基づく)追悼」は、むしろ両者をともに祀る、といった形である。「民衆の心に根ざした」という視点を強調するならむしろそう考えられる。
靖国神社が必要だったとすればそれは国家というものをなにが何でも強力に成立させなければならなかった、当時の国際情勢によっているだろう。現在はむしろそれとは逆の国際情勢にあるのに、一部のナルシストは国家主義を選択させようとしている。馬鹿げたことだ。
*1:今読んでいる本『<出雲>という思想』のp117以下に、国学者大国隆正の思想との親近性が触れられている