わたし/ナルシズム

--私は偶然に助かったんです。運がいいわけでもない。誰のおかげでもない、ふふんふふーん、私は科学の子だ。ふんふんふんっ。

 というような人がいるかもしれません・あーあ、ねーえ。*1

の「ふふんふふーん」「ふんふんふんっ」って一体何なんだ。わたしはサラリーマンです、とかわたしは主婦です、とかのありふれた自己紹介にもこの「ふふんふふーん」「ふんふんふんっ」はくっつけることができる。わたしは私をニュートラルに記述することはできず、そうできたと思っているときは、普通よりより深いレベルでナルシズムを育ててしまっている。笙野はそう言いたいのか。

*1:p14『金比羅』笙野頼子 isbn:4087747204

自慰史観派が外務省に圧力

★外務省HP 歴史コーナーの記述見直し検討

・町村信孝外相は十三日の参院外交防衛委員会で、外務省のホームページの

 「歴史問題Q&A」と題したコーナーについて、「事実でなかったことをあたかも あったかのような印象を与えるような記述や、過大に妄想的な数字がなかったか どうか、よく検証したい」と記述内容を見直す考えを示した。山谷えり子氏(自民)への答弁。

 ホームページには「首相の靖国神社参拝は過去の植民地支配と侵略を正当化するものではないか」「南京大虐殺をどう考えているか」などの設問が並び、平成七年の「村山談話」などを引用した回答が載っている。

 山谷氏は「中国や韓国のホームページのような問題設定で、日本の立場を十分に説明していない。あえて誤解を招くような書きぶりもある」と指摘。「従軍慰安婦」など当時なかった呼称を使っていることなども「不適切」と批判した。

 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20051014-00000009-san-pol

http://news19.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1129228260 【政治】”南京大虐殺、従軍慰安婦…” 「事実だったように思わせてしまう」→外務省HP、見直し検討

このQ&Aのこと。

http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/qa/index.html 外務省: 歴史問題Q&A

力を入れずに天地を動かし

上の文では、ローザ・パークスの非暴力直接行動に対し、日本には与謝野晶子の抒情しかないのか、と書いた。しかし考え直してみると、だがたかが抒情であっても捨てた物でもない。

「君死にたもうことなかれ」を改めて、読んでみた。長いので2連だけ掲げる。

http://www.cc.matsuyama-u.ac.jp/~tamura/yosanoakiko.htm 与謝野晶子

堺の街のあきびとの、                  

老舗(しにせ)をほこるあるじにて、

親の名を継ぐ君なれば、

君死にたまふことなかれ。

旅順(りょじゅん)の城は滅ぶとも、

滅びずとても、何事ぞ、

君は知らじな、あきびとの

家のおきてに無かりけり。       

  あきびと=商人。あきんど。

商人による自由都市の伝統(伝説)、家のおきてを自己のよりどころとして持ち出している。「老舗をほこる」ことと国策に逆らうことは21世紀の現在も私たちに於いてはまったく結びつかない。しかし晶子の時代、つまり教育勅語ができたばかりの時代にはそうではなかったことに注意したい。明治維新も大阪の商人が金を貸したから成立したのだ。

 それに貿易商だとしたら日本だけが栄えても商売は成立せず必ず相手国も必要だ。国内だけに基盤を持っているわけではない。(急に自分のことを思い出したが、私が赤ちゃんだった頃、父はオーストラリアに2年も単身赴任していた。戦後(オーストラリアは交戦国)まもなかったのに関わらず父はその地の方々にとてもよくしてもらったという。考えてみれば私が育つことが出来たのも幾分かはかの国のおかげなのだった。)

 古今集のかな序で、紀貫之は、「力を入れずに天地を動かし、目に見えぬ鬼神をもあわれとおもわせ、(略)るは歌なり」と言っている。天地鬼神を動かすくらいだから政治を動かすくらいはわけなくできるはずだ。

批判されて反論した文章には次のようにある。

http://pegasus.phys.saga-u.ac.jp/Education/docs/hirakibumi.html

私が「君死に給ふこと勿れ」と歌ひ候こと、桂月様太相危瞼なる思想と仰せられ候へど、當節のやうに死ねよ\/と申し候こと、又なにごとにも忠君愛國などの文字や、畏おほき教育御勅語などを引きて論ずることの流行は、この方却て危瞼と申すものに候はずや。私よくは存ぜぬことながら、私の好きな王朝の書きもの今に残り居り候なかには、かやうに人を死ねと申すことも、畏おほく勿體なきことかまはずに書きちらしたる文章も見あたらぬやう心得候、いくさのこと多く書きたる源平時代の御本こも、さやうのことはあるまじく、いかがや。

 ここで「畏おほき」と彼女は本当に感じていたのかもしれない。だからこそ、真実「畏おほき」ところの大君の御意志を私意によって振り回してそうであることの自覚を持っていない役人やマスコミというものに不信を感じたと。

best3の本

  1. ジーン・ウルフ『拷問者の影』

全4巻でまだ最後まで読んでないので分からないのだが、全く新しいファンタジー/SFではないでしょうか。

正統的な成長小説。男の子が女性と(寝て)成長していく。でもフェミニストも合格点を出すと思う。

  1. 笙野頼子『金比羅』

わたしは笙野よりもじつは、Panzaさんのファンかもしれないが。

  1. 草森紳一『本が崩れる』

うちの部屋も本の小さな山が5,6個増殖中。

平田篤胤の墓もでくる。

番外○島崎藤村『夜明け前』

8月9月に読んだ。日本人なら読め。

NIFTY-Serve 現代思想フォーラム名誉毀損事件裁判 判例

●東京地裁判決(1997.5.26)

http://pie-net.jp/shiryo/saiban/1shin.html

http://www.isc.meiji.ac.jp/~sumwel_h/doc/juris/tdcj-h9-5-26.htm

●東京高裁判決(確定)

現代思想フォーラム事件 東京高裁平成13年9月5日判決

http://www.netlaw.co.jp/hanrei/gendaishisouforum_130905.html

       主   文

1 控訴人Aの控訴を棄却する。

2 原判決中,控訴人B及び控訴人ニフティの各敗訴部分を取り消す。

上記各取消部分に係る被控訴人の控訴人B及び控訴人ニフティに対する請求をいずれも棄却する。

3 被控訴人の附帯控訴をいずれも棄却する。

4 訴訟費用は,控訴人Aと被控訴人との間においては,控訴費用及び附帯控訴費用をそれぞれ各自の負担とし,控訴人B及び控訴人ニフティと被控訴人との間においては,第1,2審を通じて,被控訴人の負担とする。

(5)当裁判所の判断

 当裁判所は,控訴人Aの本件発言(一)から(五)までのうち,一部は名誉毀損又は侮辱に当たると認めたが,脅迫に当たる発言があるとは認めず,控訴人Aに対し原審の認容額と同じ50万円(但し,慰謝料40万円,弁護士費用10万円)及び平成9年5月27日から完済まで年5分の割合による遅延損害金の支払を命じる限度で相当であるものの,その余の部分及び謝罪広告請求は失当で,控訴人B及び控訴人ニフティについては,発言削除義務違反等の責任は認められず,損害賠償の責は負わないと判断した。

つまり、控訴人Aは負けましたが、控訴人B及び控訴人ニフティは負けていません。

AとはLEE THE SHOGUNさん  被控訴人はCookieさん。

従軍慰安婦・朴永心の証言

『女性国際戦犯法廷の全記録・ 第5巻 日本軍性奴隷制を裁く-2000年女性国際戦犯法廷の記録』http://www.ryokufu.com/books/ISBN4-8461-0206-8.html

〔朴永心被害証人ビデオ証言]

--どのようにして日本軍「慰安婦」として連行されたのですか。

朴証人:私は四人兄弟の三番目です。上に兄が二人、下に妹が一人いました。幼い頃母を亡くし継母に育てられました。家はとても貧乏でした。一四歳のとき南浦に行き洋服店の女中として働きました。

 一七歳のときでした。一九三八年三月だったと思います。ある日、日本の巡査が軍服に帯剣のいでたちで洋服店に現れました。彼はいい金儲けの口があるが行かないかというので、そのままついて行きました。そうして私は日本軍の性奴隷になったのです。

--「慰安婦」として連れ回された経路について。

朴証人:はじめ、ほかの娘と一緒に平壌に連れて行かれました。二二歳の女性でした。車に乗せられしばらく走り続けました。数日後着いてみると見たこともない所でした。最初に連れられて行ったのが南京でしたが、そこの「キンスイ楼」に入れられました。私はそこで歌丸という日本名で呼ばれました。そこで三年ほど性奴隷の生活を強要されたと思います。

 たしか一九四二年頃だったと思います。ある朝、表へ呼ばれました。出てみると七名の別の女性たちもいました。皆朝鮮女性たちでした。一緒に行こうと言うのでしたが二名の日本人兵士がいました。その二名が私たちを監視しながら慰安所を後にしました。別の慰安所に行くというのです。

 私たちは南京で汽車に乗りました。上海に行きました。船に乗り換えシンガポール経由でビルマのラングーンに着きました。ラングーンからラシオにある「イッカク楼」へ行きました。慰安所の名前です。そこでまた性奴隷の生活をすることになりました。慰安所の〔経営者が私に名前を付けました。若春という日本名でした。ラシオには二年ほどいました。私がその時相手をしていた二名は今でも名前を憶えています。オオタミノルという将校とタニという軍曹です。

 一九四三年〔正しくは四四年〕春だったと思います。日本軍は私たちを再び車に乗せビルマと中国の境にある拉孟(ラモウ)へ連れてゆきました。日本軍はそこを松山と呼んでいました(中国側の呼称が松山)。その時から連合軍の捕虜になるまでそこにいました。日本軍の性のなぐさみものとしてだけ生かされました。

 松山に来て間もなく猛攻撃が始まりました。連合軍の爆撃でした。私たちがそこで相手をさせられたのは日本軍第五六師団でした。主に歩兵と戦車兵の相手をさせられました。毎日数十名の日本軍から性行為を強いられました。その合間を縫っては握り飯を作り、爆撃の中を運びました。日本軍の戦闘壕へ運んで行ったのです。そこには初め一二名の朝鮮女性が連れられて来ましたが、八名が爆撃で死に私たち四名が残りました。

--その後、生き残った「慰安婦」たちはどうなったのですか。

朴証人:私たちは……日本軍が日本国民を乗せるということを[……]。日本が敗れたのです。日本軍は、戦争に敗れると何の知らせもなく自分たちだけで逃げました。私たち朝鮮女性四名は、怖くなって防空壕に隠れましたが、中国軍にみつかりました。それで外へ出ましたが、私たちを取り調べたのは米軍将校でした。米将校があれこれと質問しました。

--ここに一九四四年九月三日、米軍が朝鮮人「慰安婦」を捕虜にしたという写真があります。ここにあなたはいますか。

朴証人:これが私です。この服装で裸足で、……髪も編み下げ〔おかっぱのことと思われる〕にして、確かに私です。連合軍の捕虜になった時、妊娠していました。

--捕虜になった後どうなりましたか。

朴証人:トラックに載せられ昆明の収容所へ行きました。収容所で捕虜として扱われました。そこには日本軍捕虜がいました。収容所にいってから、おなかがカチカチに張ってきてとうとう出血しました。収容所内の病院に入院しました。中国人医師が注射をし手術しました。妊娠した後も日本軍に絶えず性行為を強いられたのが原因だったと思います。胎児が死んだのです。

 収容所には一年ほどいたと記憶しています。

黄検事

今ビデオ証言をした朴永心さんがこの会場においでです。朴永心さんです。

〔拍手〕

(p65-67 同書 2000.12.8つまり法廷一日目の記録より)

【第2文】Government is a sacred trust of the people,

政府は人民による神聖な委託物(信用貸し付け)である。

 原文、国民とあったが人民と変えた。the people というありきたりのことばに対し、国民はあくまで国家あっての国民という語感が強くするので嫌だ。大東亜戦争の終結自体、「国体の護持」を護持するという意志において行われたものである。したがってこのpeopleを国民と読んでしまえばすべては元の木阿弥だろう。

the peopleというものはいまだなかったのにそれがあるかのように文章が成立しているのがおかしい。いやそんなことはないか。国民は立派に存在した。いまだ方向性は明確ではないものの訓育程度の高さを誇る日本国民というものはあった。国家は国民の権威によるという思想もあった。

 でも人民という言葉はいかにもこなれない。スターリニズムの匂いさえする。そもそも憲法とは国民を成立させるための文章だろう。であれば国民という言葉を使うのは当然だ。問題は敗戦国をどういう論理で否定するか、にある。「独裁制度と奴隷制度、圧政と異説排除」ととらえてそれを否定した。それがおかしいわけでもなかろう。問題は、「このpeopleを国民と読んでしまえばすべては元の木阿弥だ」とするわたしの感じ方にある。

論旨のない文章を書いたのは久しぶり。とりあえずメモしておこう。

停電する自由

 昨日夜中パソコンしてると突然パソコンが切れた。停電である。だが街路や回りの家の電気はついている。ウチだけヒューズが飛んだのだ。(なぜか理由をさぐらないといけないがここではしない。*1)12時過ぎだったからしばらく暗闇でうろうろしてから蒲団に入り眠った。それまで十数分、色々なことを思った。わたしたちは何かしようとするときいつもまず手近のスイッチを押してから考える癖が付いている。だがいくらスイッチを押そうが何も反応しないのだ。電気に頼り切った生活に今さらながら気付く。できることはなにか。触覚だけでなく聴覚も残っている。そう言えば、地震の直後暗闇で小さな音楽会とかなかったのであろうか。(六甲大地震’95のことだ。)あの時は食糧もなくパニくっていたのでそんな企画はなかったようだ。あったら素晴らしかっただろうに。あの時月が綺麗だったのは覚えている。あの時は電気だけでなくガスも水道も止まった。イラクでも何処でも停電の多い国は多いが日本はあまりない。私たちの生活とはなんだろう。なぜパソコンで文章を打つのに手書きでは書けないのだろう。わたしの自由とはなんだろう。わたしは停電する自由しか、断食する自由しか与えられていないのに、その自由に気付いていないのではないか。

 ちなみに引用しようとして消えてしまった立岩氏の言葉。「存在のための手段によって私という存在が規定されてはたまらない。」*2

*1:ウチは中古住宅でどういうわけか、ヒューズとブレーカーが二重にある。翌朝すぐとりあえずつないだ、いまからヒューズを買いに行く。

*2:p128『自由の平等』