人々を幸せにする力があると考えます。(7/13追記)

更に言えば、僕はもしリンクについて管理人と対話して、リンクを拒否された場合にも、きちんと深く考えて本当にそのリンクによって生じる不利益より利益の方が多かったら、例外的にリンクして良いと言ってるのです。何故か?結局殆どの人間は、例えどんなに自分で「真剣に考えた」と言っても結局一人で考えているときはその思考は浅い水準に留まります。しかしリンク先と直接対話することによって、自分がやろうとしているリンクは本当に人々を幸せにするのか等のことを深く考えられるのです。これはむしろ研究者、いやリンクを含む様な記事を書こうとする全ての人にとっては天啓であると言っても良いでしょう。その意味で、僕はむしろ「無断リンク禁止」という言葉には対話を促進させ、人々を幸せにする力があると考えます。

http://d.hatena.ne.jp/rir6/20050713/1121198432

rir6さん、はじめまして。無断リンクTB引用します。

申し訳ないけどrir6さんの文章斜めに読んだだけです。またわたしにモヒカン族というものが分かっている訳でもありません。したがって、あなたはモヒカン族を批判しているがモヒカンというものは本来そういうものでは全然ない、などと言おうとするわけではありません。

ただモヒカン族は「たくさんの人がハッピーになれるエレガントな方法を見つける」ことを目標にしており、rir6さんはある発想には「人々を幸せにする力があると考えます」と述べておられます。文章の内容を問わずに形式だけ見るととても似ている。しかもあからさまにポジティブで関係構築的志向を持っている。

そういうところはとても(両者とも)良いのではないか、と思った。

上では野原は、ドゥルーズを借りて“コミュニケーションなるもの”への懐疑を書き留めた。ここでrir6さんは、むしろ〈話が通じないという体験〉をすることが、思想を深めることがあると言っている。とても興味深いと思った。

ふやけたナルシストの言説  (8/4 朝追記)

でまあ読んでみた。

1)座間味村の場合

それで宮城初枝さんは梅沢さんに謝らなくちゃいけないと思って手紙を出し、昭和五十七年六月、座間味島で行われた慰霊祭で三十数年ぶりに梅沢さんに会った。そこで宮城初枝さんは「虚構」が生み出された背景から何から洗いざらい話して、心から謝罪した。

梅沢さんはそれを聞いて胸のつかえが全部とれたといいます。というのも、梅沢さんはその間、ものすごく辛い境遇に置かれていたからです。昭和三十三年頃、週刊誌が梅沢少佐や赤松大尉こそ集団自決の命令を出した張本人だという記事が世の中に出回った。それ以来、職場にいられなくなった梅沢さんは職を転々とし、息子さんが反抗して家庭も崩壊状態になった。もうよっぽど反撃に出ようかと思ったけれども何を言っても敗残の身。猛火に飛び込む蛾の如くなってはならないと隠忍自重していたというのです。

http://www5e.biglobe.ne.jp/~tokutake/kyokasho.htm  教科書は間違っている1

 梅沢という言う人はこういうふうに弁護されて嬉しいのだろうか。彼らの論点は「命令はなかった」というものだ。

ここで考えなければならないのは、なぜ住民達が集団自決の命令を宮里助役の命令ではなく、「軍の命令」として受け取ったかということです。私はおそらく宮里助役が防衛隊長を兼務していたことが関係していると思うんです。というのは、それまでも軍の命令-作戦に必要な木の切り出しや荷物の運搬など-はすべて防衛隊長である宮里助役を通じて住民に伝えられていました。だから、米軍の攻撃の中で、忠魂碑前に集まれという命令が出された時、受け取った住民の方が「ああ、これは軍から来ているな」というふうに考えたとしても、これは無理もない。

市民は誰もその命令を聞いていない。具体的命令は宮里助役から来た。市民から見れば、助役は軍と一体の権力機構である。最近になり、梅沢個人の名誉にこだわるという奇妙な論点からものごとを考える人たちがでてきた。宮里からの命令を梅沢が覆さなかったかぎり、現場の最高責任者が責任追及されるのは当然だ。

百人近くが自決したのに、自分の名誉さえ救われれば、「胸のつかえが全部とれた」とは。梅沢さんがこうした「帝国軍人らしい」人格の持ち主なのか、それとも再話者が悪いのか。

「梅沢個人の命令」があったどうか、は分からない。だが大日本帝国に責任があったことは間違いない。「軍命令がなかった」ことを大声で言い立てたがる人は、沖縄戦の悲劇を反省しているとは言えない。むしろ「軍は市民を守らない」というわたしの偏見を、裏付ける存在のようだ。

2)先祖を悪し様に

 小学生や中学生の我が子に向かって、先祖のことを悪し様に、まして事実でない世間の作り話を尾鰭まで付けて教えるような愚かなことを、正常な人間だったら決してやらない。 子供たちには、彼らの先祖に対して誇りや尊敬心を持てるようなこと、これからの人生を生きてゆくための手本や励みになるようなことを先ず話してやることが本当の愛情というものではないか。

http://www.jiyuu-shikan.org/faq/daitoasensou/okinawa.html

 降伏すれば助かる時も降伏はせず、「御国のために死ぬ」事だけが価値だと教えたことは間違っていなかった。今後も国民はそうあるべきだ、と言いたいのだろう。

 それが愛国だと。(わたしのようなアナキストを喜ばせるだけだがw)

3)大江健三郎

  <生き延びて本土にかえりわれわれのあいだに埋没している、この事件(=座間味村、渡嘉敷村の軍命令による集団自決を指す・筆者註)の責任者はいまなお、沖縄にむけてなにひとつあがなっていないが、(中略)かれが本土の日本人にむかって、なぜおれひとりが自分を咎めねばならないのかね? と開きなおれば、たちまちわれわれは、かれの内なるわれわれ自身に鼻つきあわせてしまうだろう>(六十九~七十頁)

  <新聞は、慶良間列島の渡嘉敷島で沖縄住民に集団自決を強制したと記憶される男、どのようにひかえめにいってもすくなくとも米軍の攻撃下で(中略)「命令された」集団自殺をひきおこす結果をまねいたことのはっきりしている守備隊長が、戦友(!)ともども渡嘉敷島での慰霊祭に出席すべく沖縄におもむいたことを報じた>(二百八頁)

  <かれは他人に嘘をついて瞞着するのみならず、自分自身にも嘘をつく。そのような恥を知らぬ嘘、自己欺瞞が、いかに数多くの、いわゆる「沖縄戦記」のたぐいをみたしていることか>(二百九頁)

大江健三郎著『沖縄ノート』(岩波新書)

 大江はべつに変なことを言ってない、と思った。

集合体の罪という発想 のメリット

集合体の、多数個人各々が、

みんながやっていることを、自分もやって何が悪い、という

集団心理、責任を擦り付け合えると思うことによって、

個人一人であればできなかったようなひどい事をやってしまった場合には、

その責任は、集合体が背負う事によって

集団心理の責任の擦り付け合いをしても、

やはり、結局は代償は払わなければならないものになるという

罪をなす事のリスクが、確定するのだと思う。

自分が、腹を切って自決してお詫びして、居なくなって(逃げて)しまっても

自分達の子孫に罪が受け継がれると思ったら

そういうひどい事は、あらかじめ、しないようにしようと思う理由のひとつになると思う。

http://amo-ya.blogspot.com/

∵◇◆blog d’amo◆◇∵
******mi sento come fossi 線香花火*****

=集合体に、その時点と、それ以降に加わる個人は全てその罪を背負っている

かもしれないしそうじゃないかもしれないし、責任の所在も、特定しようとすれば

もにゃもにゃしているが、確実に重たい。

=だから、せめて、この重たいものをそれ以上増やすのはやめないか、と。

罪が集合体というひとつの存在によって

繰り返されているものと考えて、

痛い思いをしながらなお繰り返しているという

その愚かさを認識する   (同上)

「われわれ」の形成

たとえば、「もはや戦後ではない」と日本国内で言われ始めた前後に、軍人恩給は復活し(1953年)国家行事として行う全国戦没者追悼式は「戦争に倒れた国民の尊い犠牲によって今日の平和と発展がもたらされた」ことを記念するためだと、閣議決定され、同時に千円札の肖像画が聖徳太子から伊藤博文に変更される(1963年)。こうした動きは、1964年に戦没者受勲が天皇誕生日に「再開」したことに顕著に表れているように、日本国が戦後、戦争をなんらかの形で国民のあいだに継承させようとする意志に貫かれている。

(岡野 p172 同書)

戦死者の半分は餓死者である。つまり彼らは兵士として(戦い)死んだわけではなく、国家の当然の義務としての糧秣供給を怠ったことによる死、短く言えば日本国家に殺されたと言える。などなどといくら言っても、軍人恩給制により金が出されればそれを拒否しようと思って実行する人はごくわずかしかいないのは当然だ。そこに思想的な課題があり注目すべきだと力説する思想家政治勢力も存在しなかったわけだからね。

(参考 http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050913#p2

60年掛けてジッリジジッリ力ずくで成立させてきた日本(戦前)=日本という同一律。どうあしらったらよいものだろう?

SSID

最近は、パソコンのことを何も知らない人でも、ADSLとかにして無線でノートパソコンと繋ぐ、というのがむしろ普通なのかもしれない。ところがこの接続がけっこう難しい。知人に頼まれちょっと繋ぎに行った。難しい原因は当然ながらセキュリティ確保対策だ。モデムとパソコンの双方に二つのパスワード(と言って良いのか)を設定する。モデム側の設定方法は附属CDで丁寧に説明してあるが、パソコンについてはメーカーによって違うらしくなかなか設定できなかった。それにしてもこれだけのことのために、2時間半もかかるとはわたしもたいてい無能だね。

ところで、超初級者はせっかくのパソコンをほとんど使えていないことが多くもったいない。どうすればよいのか。もちろんパソコンなど不要だから使う必要ないと言われればそれまでだが。

自覚のクライマックスで死を与える

ぼくは犠牲たることを回避しない。自己を捨てることをこばまない。しかしそのprocessとして自己を無にすることを嫌うのだ。それを是認できないのだmartyr(殉教)ないし犠牲は、自覚のクライマックスでなされるべきだ。自己喪失の極限が犠牲たることに、なんの意味があろうか。

(林尹夫 p330『ねじ曲げられた桜』より)

林尹夫は10/30付けで紹介した佐々木八郎などと同じく「大東亜戦争」の最後に特攻として散っていった若きインテリ兵である。45年7月撃墜された。

彼が過ごしていた海軍基地では、読書そのものが禁止されるという馬鹿げた事態が起こった。上の文章はそのような情況への怒りである。

愚劣なりし日本よ

優柔不断なる日本よ

彼は資本主義と軍国主義の病に侵された日本の破滅を願った。しかし彼は「新たな日本を創るため」特攻機に乗ることをためらわなかった。

<死へとかかわる存在>においてこそ、<そのつど私のものであるという性格>の自己自身が構成され、それ自身に到来し、その置き換え不可能性へと到来するのだ。自己自身の自身は死によって与えられる。

(p96デリダ『死を与える』のハイデッガーの論理の解説の部分より)

彼一個の死を、60年も経ってから、自らを国家に捧げけたのだとして、安物の国家主義の昂進の方向へ利用してしまう奴らを叩きつぶせ!

なぜこんなに、すらすらと平気に

私は学校で、万葉の講義をしているが、時々、なぜこんなに、すらすらと平気に、講義をすることが出来るか、と不思議に思うことがある。先達諸家の恩に感謝する事は勿論であるが、此処に疑いがある。教えながら、釈きながら居る人の態度として、懐疑的であるというのは、困ったものであるが、事実、日本の古い言葉・文章の意味というものは、そう易々と釈けるものではなさそうだ。時代により、又場所によって、絶えず浮動し、漂流しているのである。然るに、昔からその言葉には、一定の伝統的な解釈がついていて、後世の人はそれに無条件に従うているのである。私は、これ程無意味な事はないと考える。

(p149-150折口信夫「神道に現れた民族論理」『全集3巻』isbn:4122002761

削除元記事

twitter の下記記事を10月12日19時30分ごろ削除しました。 

http://twitter.com/#!/noharra/status/123898355607805952

@Hideo_Ogura ネットを利用した誹謗中傷については、被害者には「裁判制度を通じた救済」を受けさせないということですね。>あなたね、公開された発言をなめてませんか? 私はそんなことを言っていませんよ。議論のルール違反ですね。あなたの信用は下がった。posted at 10月12日 08:10:44