家族なしには主体になれない

(1)

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040905 に対する、

hippieさんのだいぶ前のコメントに返事していませんでした(忘れていたわけではないのだが)。hippieさんは岡野氏の「「家族」は、わたしたちが自分を生き抜くために、「とりあえず」は自分の欲望は自分のものであると、自認できる存在となる「なる」ために、その形を変えながらも、わたしたちが必要としているひととひとの結びつきではないだろうか。」という文章に反論しています。

# hippie 『岡野さんの家族についての「わたしたちが必要としているひととひとの結びつき」という認識は私には乗れないです。甘すぎるよ。(略)』

ここで岡野氏とhippieさんとの差異は、家族に「」がついているかついていないかにあります。

岡野氏の使う「家族」とは、狭義のそれに対し範囲を少し拡大して考えるといった安易なものではない。

(2)「家族」の「 」について

岡野さんの『家族の両義性』という文章から要点だけ抜き書きしてみよう。

「公的領域においてひとは「ことばを理解する動物」で「ポリス的動物」であることが前提とされている。*1」思えばhippieさんとわたしとの間にもひとは憲法の条文を論じ合うことによりそれを改正していくことができるという前提があったはずだ。(RESが遅れたのは申し訳ない。)

「だが、そもそもどうしたらわたしたちは、そうした動物に「なることができるのか」。」

「ことばの選びによって初めて表現される自分を生きていくことができるということは、ひととしての前提というよりも、ひとと「なる」プロセスであると同時に、そうしたプロセスの結果でもある。」

「もちろんことばだけに限定されるわけではないのだが、さまざまな記号を使用することによって、自分の輪郭を描きだし、他者とは異なる存在として自分を生きるように「なる」ことは、わたしたち一人ひとりの経験から考えてみても、自然発生的にひとりの力でなし得るような営みではないはずだ。そして、わたしたちは、いかなる形態をとるのであれ、「家族」というユニットを、そうしたプロセスを通じてひとと「なっていく」場として、尊重してきたのではなかっただろうか。」

「わたしたちが自分を生き抜くために、「とりあえず」は自分の欲望は自分のものであると、自認できる存在となる「なる」ために」も、とりあえず、言葉を獲得していくプロセスは必要である。そのために「そのプロセスを見守ってくれる、すでに自分の欲望を言葉で分節化できる他者」に依存するという関係が必要である。

 岡野氏の文章は言葉や情念が未成立な混沌からかろうじてそれらを成立させようとする現場に立とうとしており、まわりくどい文体になっている。

(3)

それに対し、hippieさんは「わたしたちが必要としているひととひとの結びつき」とフレーズの持つ“甘さ”を問題にする。家族イメージを甘やかなイメージで飾り立てることにより「家族制度」というものが延命し存在してきた事実、それをイデオロギー的に糾弾するというスタンスに立っている。

 しかし糾弾とは原点に戻って考えてみると、自己身体の分節化出来ない叫びに根拠をおくものではないのか。そのとき、それが私でないとしても、不定形で不安定で泣き叫ぶしかない存在(存在未満)であるところの乳幼児からの声を、目の前に存在しないからといって無視するのはおかしい。

 現実というものを、差別の複雑な交錯として考えることは可能だ。だがそれに還元することはできない。誰にも(何にも)支配されない自由な時間をも私たちは持っている。その意識自体が既成のいくつかのイデオロギーに染められているとしても。子供は還元不可能性の喩でもある。

『こういうことを言うのならせめて主語を「わたしたち」ではなく「わたし」にして書いて欲しいです。』hippieさんには前提の混同があるようだ。ある人の人生において子供を持つかどうかは彼女/彼の自由だ。しかし現在、家族というものを考えるとき、「子育て」というテーマをは不可欠のものだ。また逆に、「子育て」を「家族」なしに行う試みも成功していない。もちろん施設で育つ子供たちもいるのだが、そっちがメインにはなりそうもない。というか、その場合でも(切実に)「必要としているひととひととの結びつき」がなければ子供は、自立した自由な主体になりえない、と岡野氏は論じているわけである。したがってその断言をくつがえしえなければ、「甘すぎるよ」はただの感情的放言になる。

「子育て」の問題を考察しないで「家族」の本質をぐいっとつかんで、論じることはできない。

関連野原表現:http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040706#p1

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040905#p1

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040916#p1

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040926#p1

*1:p128・『現代思想』

囚人の帽子(その4)

「n人の囚人に, 赤の帽子 n個と 白の帽子(n-1)個の場合 — 練習問題」

を考える。分かったらすぐに手を挙げるルール。

表記が繁雑になるので 10人の囚人に, 赤の帽子 10個と 白の帽子9個の場合を考える。

1a)Aさんが、白の帽子9個を見る>(白はそれ以上ないので)自分は赤だと分かる。

1b)手が挙がらない場合>>「白=9」ではなかったことが、全員に分かる。

(ここまでで1分掛かるとする)

2a)Aさんが、白の帽子8個を見る>(白はそれ以上ないので)自分は赤だと分かる。

2b)手が挙がらない場合>>「白=8」ではなかったことが、全員に分かる。

(ここまでで2分掛かる)

3a)Aさんが、白の帽子7個を見る>(白はそれ以上ないので)自分は赤だと分かる。

3b)手が挙がらない場合>>「白=7」ではなかったことが、全員に分かる。

(ここまでで3分掛かる)

4a)Aさんが、白の帽子6個を見る>(白はそれ以上ないので)自分は赤だと分かる。

4b)手が挙がらない場合>>「白=6」ではなかったことが、全員に分かる。

(ここまでで4分掛かる)

という風に順に進んでいき、10分間手が挙がらなかったら、「全員が赤だ」と判断できることになります。

ところが、実際には推理し手を挙げるまでの時間は人により異なっているので、上記のように同期をとることができません。

任意の瞬間に手を挙げても良いのではなく、

1分ごとに「分からない/分かった」の旗を同時に挙げる、とルールを改正すれば、この問題点は解決します。

id:noharra:20041113#p3 の(その1)の問題では、

少なくともちょっとの時間、3人が黙って考えていて手を挙げなかったことになっています。「賢者」であることがことさらに強調されているので、その間に、(2b)まで進むことができただろう、と考えることもできます。その場合、「全員赤」になります。

「Aに聞き、次にBに聞き」というストーリーの設定はこの問題には馴染まないということだろうか。

そこに言葉があるとは限らない

 概念集・3からは最初の部分、松下がめずらしくゲーテを引用している部分から引こう。*1

 ゲーテの「ファウスト」第一部で、メフィストフェレスが次のようにいう。

「概念が欠けている正にその場所に、言葉が丁度よい時に姿を現わす。論争も体系の構築も信仰も、言葉があるからこそ可能なのだ。…このような役割の言葉からは、表現された形態の微小な部分でさえも変更することはできない。」

 この箇所は、前から気になっていた。さまざまの人がこの箇所を論じているが、どの翻訳や解釈にも納得しがたいので、あらためて原文で確認し、試訳してみた。久し振りにこのような作業をする気になった理由は、納得しがたさからというよりは、私たちの情況にとって、生きていくのに不可欠な概念が欠けて久しいのに、概念ないし、その欠如を指し示す言葉はなかなか現われず、いくらか姿を見せても、不安定にゆらめいたり、消滅したりする場合が殆どである事態への関心からであろう。

(『松下昇 概念集・3』p1 より)

わたしは、わたしが生きていくのに不可欠な概念の欠如に苦しんでいるか、といえばそうは言えないようだ。概念であれ言葉であれ、それが不在であることに気付くことがまっず、なかなかできないことだろう。でもそうした事態に興味があるのでとりあえず断片的引用をしておきます。

*1:松下昇は、ハイネやブレヒトを研究するドイツ文学者から出発した。

fairとは?

http://d.hatena.ne.jp/liddy/20050120

北村肇さん(「週刊金曜日」編集長)

朝日が本質的な問題を提起したにも拘らず、問題がすりかえられ矮小化されている。問題は三つ。

o NHKが政治的に番組を変えていたこと。過去にも、島ゲジ時代にもあった。

o 番組について自民党の議員を回って釈明していること。

o 政治家本人は圧力ではないといっているが、「公平にやってくれ」と言ったと認めている。これは圧力以外の何ものでもないし、「その何が悪い」と開きなおっていること。

(北村さんおよびliddyさん、引用させていただいてありがとう。)

北朝鮮難民受け入れ

日本は北朝鮮から難民を大量に受け入れる用意があると宣言せよ!

日本国民はその覚悟をせよ。

百万人程度ならさほど混乱も起こるまい。

そうすれば金正日体制は崩壊し、めぐみさんも帰ってくる(だろう)。

排外主義者たちこそがつねに隣の独裁政権を維持し続けることを洞察せよ!

トラフィッキングとは

 最近トラフィッキングという言葉があるみたいです。

トラフィッキングとは

「国際的な組織犯罪の防止に関する国際連合条約 (以下「国際組織犯罪条約」という )の「人の密輸に関する議定書 (以下「人の密輸議定書」という )において」

「trafficking in persons (人の密輸)とは 「搾取を目的として、暴行・脅迫その他の態様の威迫、略取、欺もう、権限または弱い地位の濫用、又は他人に支配力を有する者の同意を得るために支払い若しくは利益を提供し、若しくは、受領するという手段によって、人を募集、移送、蔵匿又は収受することをいう。搾取は、少なくとも、売春その他の性的搾取、強制労働、奴隷又はこれに類する行為、隷属又は臓器摘出を含む 」。と定義されている。

http://www.gender.go.jp/danjo-kaigi/boryoku/siryo/bo14-1.pdf 

平 成 1 4 年 7 月 1 7 日 内閣府男女共同参画局 のbo14-1.pdf(application/pdf オブジェクト)によれば。

役所の文章にはめずらしく分かりやすい流れ図がついている。

【送り出し国(タイ、フィリピン、コロンビア等)】

勧誘者 :メイドやウエイトレスなど、虚偽の仕事内容を説明し、言葉巧みに日本へ行く女性を集め、運び屋に1人約50万円で売り渡す。

運び屋 :旅券(パスポート)や査証(ビザ)を用意(偽造、変造を含む )し、女性を日本へ入国させ、日本の受入者に1人約150万円で売り渡す。

【日本】  

受入者(暴力団関係):マンションの一室等の拠点に一旦女性を監禁し、様々な手段で脅しをかけた上、風俗店経営者等に約250万円で売り渡す。

風俗店経営者等:買取り代金に約100万円を上乗せし、女性に約350万円の借金を課し、その返済のため強制的に売春をさせる。一定期間後、女性を転売することもある。

日本は条約は承認したが議定書の方はまだなのかな。

 こうしたことは少なくとも1980年代からあることで、1986年には日本キリスト教婦人矯風会の人たちがはじめての民間シェルター「HELP」を作って活動を開始した。支援者が「正規の在留資格がないために日本に来て搾取される女性たちの救援活動をしている」と法務省で自己紹介すると、「日本にはそういう人たちはいないことになっています。」と言われたとのことである。

http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/pdf/2003tr_hayashi.pdf  2003tr_hayashi.pdf(application/pdf オブジェクト)

まさに窮極のサバルタンである。わたしたち市民も彼らにあまり関心を持たず、日本は「東南アジア、南米、東欧からの女性の人身取引の目的地国」になっていったわけである。

 入国の段階で、もしかしたら自分は日本で性的搾取に合うかもしれないという未必の故意を持ち、ブローカーにお金を払って不正入国したとしても、そのことによって、その人の人権が全て奪われていいということではありません。

http://www.ilo.org/public/japanese/region/asro/tokyo/pdf/2003tr_hayashi.pdf  

被害者の人権回復を中心にすえて行政は動いて行くべきだと、

上記の文章で、林陽子弁護士は論じているが、同感である。

弁護士滝本太郎さんのブログ

うし 『弁護士滝本太郎さんのブログの記事を紹介します。

私達が愛するおまわりさんのイメージとはかなり違う感じです。

ビラをまく側と批判される側のイザコザはよくあることなのに、

警察も、もうちょっと違う対応が取れないものなのでしょうか。

「罪刑法定主義・警察とは」

http://sky.ap.teacup.com/applet/takitaro/3/trackback

http://sky.ap.teacup.com/applet/takitaro/2/trackback

メタファーとしての公益

# swan_slab 『>N・Bさん

さしずめ私の着想は、「メタファーとしての公益」なのかもしれません。

でも、hikaruさんのエントリをみながら、これをそのまま使い続けると公共という言葉の意味が固定化され、公共性を再定義する障害になりかねないので、断念しようと思います。私は言語学者ではないですし、周到に考えられたメタファーを使うことはできそうにありません。

しかし、レイコフの議論は大変興味が惹かれました。

>幕末明治や「大東亜戦争期」のような危機の時代はともかく、現在「愛国心を語る」事自体には、もう、うさんくささしか感じとれない!のは確かなのですが。>野原さん

そうですね。ただ、hal44さんのところにも書いたのですが、語ることが問題なのか、それとも、それを手ごろなメディアを通じて押し付けてくることが問題なのかという問いを立ててみれば、恐らく、前者の表現の自由はたとえうさんくさかろうが誰もが享受するはずです。したがって、問題は、「君が代・日の丸」というフォーマットが前時代とあまりに連続性を持ちすぎていること。例えば歌詞が変更されていない、など。そのことによって、過去の歴史との断絶(反省)を強くモラルとして持つ人々にとっては、君が代・日の丸の意味が先鋭化してしまうのでしょう。そして先鋭化してもやむを得ない歴史を日本国は負ってきた。

私はこうした心理状態をうまく説明できないのですが。』 (2005/03/24 23:18)