イスラエルの存在の許容

 イスラエルのシャロン首相がプーチン大統領に電話した、というニュースは興味深い。結局のところ21世紀初め世界*1が血なまぐさくなった原因を作ったのはこの二人とそれに対し宥和した私たち自身にある、というのが真実だ、と将来の歴史家は判断するでしょう。

http://www.asahi.com/special/040904/TKY20040

 「イスラエルの平和を考える会」機関紙のミスターフvol8が今日は郵送されてきた。パレスチナ人政治学者アッザーム・タミーミーさんへのインタビューから引用。

ハマースがイスラエルに言うのは、「まず何よりも前に、あなたが泥棒であることを認めなさい」ということです。パレスチナ人に「あなたの土地を取ってごめんなさい。とても悪いことをしました。新しい生活を始めましょう。私たちはあなたたちと一緒に住めますか?」と。

もし彼らがそうすれば、南アフリカのアパルトヘイトが解決したように、私たちは「一緒に住めます。解決しましょう。」と言うでしょう。

 野原のブログは読者を向いていないが、ここだけは、どうしても読んで欲しいので引用した。だがわたしの真意は伝わらないだろう。「1917年のバルフォア宣言云々かんぬんそのことをいつまでも言い続けにないといけないのか。そうしたら北海道はアイヌに返さないといけないのでないか」、とわたしも数ヶ月前まで反応していたと思う。つまりここはリラックスしてゆっくり考えないといけない。土地を返せ、とここで「ハマース」は言っていないのだ。にもかかわらず、「土地を返せ」と言われたかのように反応してしまう。わたしの生活がその土地の上の数十年であるとき、そこはわたしにとって「私の土地」である。そのことの真実を他者は奪うべきでない。だが(わたしは第三者だから言えるわけだが)パレスチナ人が私の土地だ、と主張するとき、その主張は否定されるべきということになるだろうか?

 満州や朝鮮に生まれ数十年そこに育ってしまった日本人にとってそこがわたしの「故郷」であるのは事実であり、彼自身にとっての真実である。だが個人のレベルの実感と、国家間の調停の結果は違う。そしてこの問題は立場によって答えが違うといっても、わたしはわずかな勉強の成果として一応の答えを持っている。20世紀は帝国主義の時代だった。だが帝国主義を否定する価値観もあった。後者の価値観に立つかぎり「イスラエルは泥棒である」という表現は不当でないとわたしは思う。「満州国は泥棒国家だった」とわたしたちは認めたではないか。

*1:アフガニスタンやスーダンなど広い地域においてはそれ以前もそれ以後と同様血みどろだった!?

人質非難はどうかと思う(11/5)

http://book3.2ch.net/test/read.cgi/books/1094319459/375 『結局、スピンをまともに検証して本に出したのは小林だけなんだよな。

バッシャー(情報操作に引っかかった人も確信犯も含めて)達がテレビ番組や雑誌記事、記者会見、ホームページ、新聞で、あれほど人質とその家族を攻撃したのに、未だに人質を非難する内容の本を出版した人は皆無。』

「それもあるだろうけれど、前回と違って、今回は官邸からの情報操作(スピン)が無かったからね。

結局、スピンをまともに検証して本に出したのは小林だけなんだよな。」

スピンって何のことと思ったら上記のようなことらしい。で小林って誰よ。スピンとは、フレーバーなんかと同じ原子核物理学用語で、それを小林秀雄が検証したのかと思ったよ(??)高齢者にも分かりやすい文章を書きましょう。

誰が国家にアイデンティティを求めているのか

id:noharra:20041030に二人の方からコメントをいただた、もう一人の方への応答。

(この表現は不正確。10/30に野原が突然引用したのが、お二人との関係の始まり。・・・)

# homoinsipiens 『こんにちは、トラックバック頂いたhomoinsipiensです。

いきなりですが、noharraさんとはちょっと事実認識がずれている気がします。

>前回の人質の親族は、その[「米軍の力を借りた人質救出」路線]を拒否しようと、必死で、しました。それが叩かれた。

今では数多く起こっている人質事件ですが、4月の人質事件はそのハシリだっただけに、米軍による救助という話が出てくるまでに結構な時間が経過した気がします。むしろ、叩きの原因、というか騒動の発端は、人質家族が事件発覚の実に翌日、自衛隊撤退デモに参加したことではなかったでしょうか。とりあえず私の記憶では、米軍による救助はだいぶ後まで現実的なオプションとして提示されることはなく、それほど中心的な論点ではなかったように思います。

あと、いやな指摘ですが、これまでザルカウィ派が捕らえてきた人質は11名、そのうち生還者は4人です。さらに、非イスラム圏出身者の生還者は0人です。軍隊による救出作戦の成功率をパーセンテージではかるなら、必ずしもこれより低いとは言い切れないのではないでしょうか。私自身、パーセンテージの問題ではないとは思いますが、ご参考までに。

>だってそれ悲惨でしょ。

国家を批判する余裕のない人、あるいは国家の庇護なくしては生きていけない人、ステレオタイプに「国家以外にアイデンティティを持ち得ない人」。私も確かに悲惨だと思います。そして批判者を気取る私たちが現体制の下、なんだかんだよろしくヌクヌクやっているのはこの悲惨の上に乗っかってでもあります。このことへの無自覚さがjinjin5さん云うところの「『国家制度とは自分達にとって常に他者である』という[…]傲慢」と繋がっているのではないか、と私は考えます。批判を名乗るなら、その批判は自らにも向けられるべきではないでしょうか。私はある意味で反・(暴走的)自己責任論者としての自分への戒めのつもりでかのエントリを書いたつもりです。』

homoinsipiensさん

レスが遅れました。というか以下もたぶんちゃんとしたレスにならないと思います。

「政府は人質の救出に全力を尽くすべきだ」とする意見をわたしは取りません。前回の人質の場合、救出については[「米軍の力を借りた人質救出」路線]とイラク国内の穏健派などへ働きかける路線、少なくとも二つがありました。人質の家族は国家方針である自衛隊派兵の撤回を訴えたことで世論の反発を呼びました。わたしが強調したいのは、[「米軍の力を借りた人質救出」路線]を拒否してくれと主張する権利を家族は持つはずだという点です。前回家族に拒否の意志はありました。この点について当局と軋轢があったことも確かだと思います。今回面倒なので過去資料は探しませんが。

「政府なんてなくてもいい、あるいはないほうがいいなんて考え方は、彼ら市民運動家たちが実は経済的に恵まれている…からこそじゃないのか。」に対し、私は肯定したのですが、これはいま一度考え直した方が良いようです。

「国家を批判する余裕のない人、あるいは国家の庇護なくしては生きていけない人、ステレオタイプに「国家以外にアイデンティティを持ち得ない人」。」という想定の仕方は不正確です。

人質批判をした人でも(B)2チャンネルなどに自分で人質批判を書き込んだ人、と(C)テレビで大量に垂れ流される人質批判言説が自分の心のどこかに触れたため取り入れた庶民 は区別すべきです。さらに(D)新聞の1面に載るような言説一般に全然興味を示さない人々も存在するはずです。

それに対して(A)「僕の周りの連中の間では今も昔も反・自己責任論の大合唱。」を対照して見ましょう。知的にはA>B>C>Dというような階層差が存在するような気もします。

だとしても「批判者を気取る私たちが現体制の下、なんだかんだよろしくヌクヌクやっているのはこの悲惨の上に乗っかってでもあります。」というのは意味が明確ではない。

 イラクの10万人(?)の死者に対し、日本人として野原はその「悲惨の上に乗っかって」いると指摘されたらそうかもしれない。その悲惨を直視しどう関われるのか考えるべきでしょう。日本国内においても野原は階級的知的に劣位なものの上に乗っかっているかもしれない。だが階級的知的劣位であること即ち、「国家以外にアイデンティティを持ち得ない人」たちではない。

http://d.hatena.ne.jp/homoinsipiens/20041029#1099030289(これを書いとけばトラックバックになるかな)

水俣病への接近

上の文章を書いたきっかけは『下下戦記』を読んだからですが、さらにそのきっかけはスワンさんが下記のような一連の文章にあります。量が多いのできちんと読めていないのですが。あらためて敬意を表します。

ちゃんと読まなくては。

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20041121#p1

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20041020#p2

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20041015#p1

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20041014#p2

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20040613

村野タマノの叫び

67年には、公害対策基本法が制定する。

その翌年、初めて、厚生大臣が水俣を訪問する。

新潟水俣病の発生を背景に、1968年(9月22日)、熊本県天草郡出身の園田直は、厚生大臣として初めて水俣を訪れ患者を見舞った。孤独の中で闘病生活をしていた重症患者・村野タマノは激しいケイレンを起こしながら、「君が代」を唄い、「天皇陛下万歳!」と叫んだ。(パネルより)

なかでも6/13の上記の部分は印象的でした。

1945年から日本は民主主義国家になったと信じている人が多い。(小学校でそう習うから)戦前の日本だって今と同じくらい民主主義だった、ということは必ずしも無茶な意見ではない。いわゆる15年戦争において国内が危機に陥ったのは最後の2年くらいでそれまでは大衆やプチブルは(一定の範囲内で)自由と消費を謳歌していたのだ。今の日本が民主主義なんだというタテマエを皆が疑わないのはその方が楽だからにすぎない。村野氏の行為には何の錯誤もない。*1

*1:いろいろ問題はあるがわたしの文は尻切れトンボで終わる。

金文紹介のサイト

http://e-medicine.sumitomopharm.co.jp/e-medicine/komiti/

金文(青銅器などに刻まれた古代中国の漢字)甲骨文などを画像付きで親しみやすく解説しているサイトでとても面白い。

例えば、懼の字。この甲骨文のように鳥が目を左右にくるくる回して天敵の襲来を恐れる形。白川静系。

http://e-medicine.sumitomopharm.co.jp/e-medicine/komiti/kokoro_2/main.html

(提供、住友製薬らしい)

スキャンダラスな女たち

 イスラエル女性たちがヨルダン川西岸地区を勇敢にも行進し、命を落としたパレスティナの男性や女性たちのために黙祷を捧げるとき、ニューヨークのイスラエル女性たちのグループが痛ましくプラカードを掲げて、過去五年間で殺されたパレスティナ人の六ニパーセントが二一歳以下の子供たちであることをわたしたちに思い知らせ、彼女たち/かれらと母親たちのために嘆き悲しむとき、彼女たちは、裏切り者、売女、レズビアンと蔑称される。なぜなら、彼女たちは、人間である彼女たち/かれらのために哀悼することを通じて、敵とされる者たちを想像し得る限りの最悪の野獣として扱うことを拒んでいるからである。

「フェミニストの想像力」ドゥルシラ・コーネルp138現代思想200301月号

 イスラエル国家がパレスチナ民衆を抑圧し殺害しているのであってその逆ではないことについては過去何度も書いたつもりだ。アメリカのユダヤ人にもイスラエル国家の過剰な暴行に心を痛める多くの人たちがいる、それを知ることも大事だ。ただ言いたいことは、「敵とされる人たち」というのとはだいぶ違うが、かって「日本人でも白人でもない」「女性」であるという理由で沈黙に押しこめられていた人々が語り始めたとき、わたしたちは何かの理由を付けてそれを聞こうとしなかった。そこにはやはり(歪んだ?)ナショナリズムが造った境界線があろう。

 今、従軍慰安婦を主題にした「裁判」をめぐる事件が大きな話題になっているが、誰も従軍慰安婦を直視しようとはしていない。非国民と名指されるのを怖れているからであろうか。それとも最も安易な言説を行使する者という汚名を怖れているからであろうか。

「合衆国市民であるラディカルなフェミニストたちはあえて政治的に汚名を被るべきである。*1

 わたしたちは天皇の有罪を求めているのではない。わたしたちは「慰安婦」たちの意を迎えようと思っているわけではない。ただ過去の事実*2にできるだけ素直に接近しようとし、慰安婦たちの主張を聞きその上で、判断しようとしているだけだ。下に掲げるような時効を理由にした門前払いはわたしたちに何も教えてくれない。わたしたちは他者からの申し出に対し対等な者として対応する。裁判官が不当な判決を出せば再審請求するだろう。

 従軍慰安婦を直視しようとしないひとたちに対し、いくらソフィストケイトされた理由を口にしようと、スキャンダルの臨界を越えないという無意識に従っているのではないか、という疑いを野原は持ってしまう。

*1:コーネル、同上p139

*2:日本軍の犯罪的行為の膨大さ

何かの力に言葉を使わされていて、

  チェチェンとかイラクとか憲法とか、そういったものにコミットせよと言いたいのではない。私たちは自分の言葉を発しているつもりでいても、何かの力に言葉を使わされていて、また何を言ってもどこかに回収されてしまう、という情況に置かれていることを強く意識しないまま小説など書いても、それは読み物慰み物にしかならない。

http://www.hoshinot.jp/diary0410.html 星野智幸の日記0410月1日

星野さんという方はすごくシャープですね。思わず引用したくなる。

ナターシャさんからの手紙

松下さんへ

おかわりありませんか?今こうべしの方は

不幸こう人が沢山いますね,本当に可哀相で

気の毒だと思っていますがその時そとにいるなら

お握りくらい貧しい人達にもっていってあげたいと

思っていますが今の私には祈る事しかできません。

本当にごめんなさい。

そして突然お手紙とバプレットが来てびっくりしました

ので私は読んで見ましたが ところを理解する事が

できませんでしたが 青木さんにしらせて聞きました。

へんじがおそくなり申し分けありません。 なぜなら私の

日本語はまだまだ勉強ぶそくできちんとした日本語

をつかう事ができませんが 松下さんは一生懸命

又 タイの女性のもんだいをめっしんに考えて下さって

いる事にとても感動し嬉しく と思っていました。

今の私にはまだまだ勉強ぶそくでわからない

ところもありましたがもっともっと勉強 いつの日か

お手紙のないようをすべて理解する事ができると

思います。

それから 私の子供達のことですが私思うのは

うそおはいつかはばれると思いますが本当の事を

子供達に言いたいけれども 今子供達はまだ

小さいすぎるので今の事を言ってもわからない

と思います。ですから 子供達に大きくなってから

必ず自分の口で子供達に話します。

私は悪い事をしてしまい 申し分けなかった事

と思っています。リサさんの事とリサさんのお子

さんの事を私の心の中に一生忘れません

がこれから子供達の為にと貧しい人達の

為につよくいきて行きたいと思っています。

又 辛く淋しい生活の中で松下さんと

ボランティアの皆様の温かな

励まし 私が一番愛する子供達連れて

面会に来て下さったり勇気つけられました。

松下さんと皆様の応援が会った

からこそ私は頑張ってこれました。

心から感謝をしています。

誠にありがとうございました。まだ寒い

日がつづきますが風邪などひかないように

お体にお気をつけて下さい。日本語はとても

むずかしいので字のまちがいや言葉のあやまりは

ゆるしてください。又80円切手どうもありがとうござい

ました。

          ナータシャ・サミッタマーン 1995.2.22

原本は、ここ。

【G12-15】

p15 『概念集・12』~1995・3~

所得税の確定申告はお早めに

配偶者控除は全廃すべきだと思います。これはフェミニズムというより本来労働運動の問題でしょうが。これがあるためにパート労働者の労働単価が低く抑えられ労働賃金全体に悪影響を及ぼしているのは自明です。この問題についてはどのように思われますか?(ちなみに私は男性です。)(野原燐)

議論は継続する

# hal44 『長くなったので、Swan_Slabさんへの返事此方に書きました。

http://d.hatena.ne.jp/hal44/20050322』 (2005/03/22 19:59)

# index_home 『swan_slabさんの「邪悪な愛国心と正しい愛国心は観念しうるか」について、私のお答えを申せば「観念しえない」と思います。「愛国心」そのものへの疑問を持つべきかと。hal44さんの文章も読ませていただきましたが、同じようなことを書いていらっしゃると解釈しました(違っていたら申し訳ありません)

昔からよくいわれることに「愛国心」にナショナリズムとパトリオティシズムの混同されるといわれますが、「愛国心」を大衆に求める方々は依然聞く耳を持っていないようにも思えますし、逆にそうしなければ「愛国心」を植えつけられない事情がおありなのだと思っています。』 (2005/03/22 21:15)

# swan_slab 『え~と、hal44さんのところに返信を書きながら思ったんですが、公共の福祉という概念は、戦後憲法においては、明治憲法下の外在的制約的ニュアンスを取り除こう、さらには別の言葉で解釈しよう、という動きが憲法学では強かったと思いますが、こと愛国心については、案外使える概念かもしれないと感じました。

つまり、

>「愛国心」を大衆に求める>index_homeさん

というのは、つまるところ、公共の福祉に完全に合致した生き方の強制と言い換えることができるのではないかと。そう考えたとたん、最近私の+駝鳥+ http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20050316についたjuluxさんのコメントの意味が氷解していきました。【合意済みの移転を放置し続けた沖縄県は猛省すべきです。また民主的手続きによって決定された移転に反対・妨害活動を行う運動家は民主主義の敵】と述べた彼/ 彼女の背後にある思想がわかるような気がするのです。』 (2005/03/22 23:33)

# N・B 『 お久しぶりです、野原さん、以前の書き込みではひねくれてかつマイナーな書き込みをしてすいません、いくつか感想を書きます、「愛国心」の位置は国によって違うようですね、イギリスとフランスの違いは決して理論だけには還元できないようですし。ロックやバークのような多元主義はイギリスの社会の安定の実質的確保を保証する装置の存在(ロックの場合はむしろそれを作り上げる過程に関与しましたが)という前提があるのではないかと思います、バークにとってアメリカとインドははっきり違うのではないでしょうか。

 私が思ったのはこの「実質的確保」という問題が現在の「日本」の不安と結びついているのではないかということです。hal44さんはそれにはやや否定的なようですが、私はむしろ、野原さんが3/20に書かれていたように、左翼ですら日本の「自立」を前提にしていた時代と、むしろ従属(ということは私たちには「主体性」が無い)だと考える時代の落差は大きいと思います、つまりバブルの崩壊以降ですが(私は「自立」の感覚はまるでないのです)。

 

 とするとまず、私たちが共有していることといないことを分けることが必要ではないかと思います。spanglmakerさんが「論点そらし」だと最後に書き込みましたが、ブログを見る限りでは彼はネイションの一員としての教育を施すことは自明の前提だと認識しているようです。彼の発言は正直ななものだと思います。ナシオとパトリを区別することは確かに必要ですが、彼のように「自明の前提」の機能をなにがおっているかに注意しないとこの区別は意味を成さないのではないでしょうか。スワンさんが、juluxさんのコメントの意味を理解できなかった(むしろそのことに私は驚きました)のもネイションの一体性が絶対に確保されるべきという前提を強くjuluxさんが持っていることを読み取れなかったのではないでしょうか。

 私は「実質的確保」の確認の機能をなにが担っているからみると、古今のナショナリズムには一定の存在の必然があるし、パトリオティズムは実はそのような「機能」の一側面ではないかと思います。そのような「機能」は私たちにもある程度必要ですから、逆に自らがそのような「機能」を何処に置いているかその危険に対してどうやって自覚するかということが必要だと思います。おそらく「実質的正義」

という視点がここで必要になるのでないかと思います。そうなると、「実質的正義」の内実の検討が必要になります。

 私達の認識や判断を左右する「実質的正義」とそれに結びついた「モラル」のあり方や性質については、ジョージ・レイコフ「比喩によるモラルと政治」が参考になると思います、この本はアメリカを例に大きく二つに分かれる「モラル」(この本では「保守」と「リベラル」)が人々認識や判断を左右し、互いに無理解か論じています。もちろんどちらかのモラルが正しいとは決して断言できないと私は思います。(ちなみにネットにあふれる「ジャイアニズム」の問題はこのような前提の違いが大きいと思います、自らの二重基準に気づかない、もしくはそれを当然と思うのはある程度これでわかるのではと思います、特に不安に圧倒されていればそうだと思います)

 以上延々と述べましたが、現在の私たちと歴史をつなぐあり方としての振舞い方としてと(あえて使いますが)「自虐的」ナショナリストというあり方も可能なのではないでしょうか?「日本」という前提を与えられてしまったものとして自らを見直すことが、唯一の「正しい方法」が存在しない以上必要だと思います、野原さんの立場はそこに近いと思うのはですがいかがでしょう。なお、「自虐的」という位置づけの根拠は先ほど述べた「実質的正義」=「モラル」にあります、この違いが「自虐的」とそうでないものを分けると思います。

また長々と書き込み失礼しました。』 (2005/03/23 06:38)

3/22から23日にも、議論は継続しています。

N・Bさんも書き込みありがとう。

私の方は月曜日から(頭が)不調で論点整理もうまくできません。