N・B氏発言(2回目)

(1/25朝、コメント欄から上へあげて、色をつけました。)

# N・B 『 なんかわかりにくい書き込みすいません。一段落目と二段落目の関係が不明確ですね。不勉強なくせに自分の知識を前提としすぎでした。

 私の理解を元に強引にまとめると「自立した個人」の意図した行為の責任だけを問う「弱い責任理論」は、現実の世界で起こる膨大な加害・被害を免罪してしまう。それは近代社会の現実から来ている。しかし、免除された責任を問おうとする「強い責任理論」(自由主義・N・B)は、責任の範囲を確定できないため、慰安婦の「声」だけでなく、梶さんの「声」も8lこれはある程度政党です)、さらにはユダヤ陰謀論者の「声」まですべてをもとに責任を問えることになってしまう。端的にいえば、魔女狩りが起こってしまう(私が補足すれば、それは結果的に魔女狩り的「弱い責任理論」を野放しにする)。デリダとおおやさんの類似点は本人が書いていますね、デリダについての論難には賛成できないけど。』

# N・B 『 2段落目以降ですが、「歴史からの反省」とははきっりいえば、シュミット(その他多くの人々)のワイマールからナチスにいたる行動の帰結のことです、法治主義を守るよりマシな道(反共主義という前提があるとはいえ)を選んだ結果が、「総統は法を守った」(「長いナイフの夜」のときのシュミットの言葉)ですから。

 シュミットは思想としても、彼が住んでいたワイマールドイツの問題としても批判するだけではすまない問題を突きつけていると思います。まあ、ベンヤミンファンとしては人事ではないと(この二人は思想的にも関係がある)。

 梶さんが「どこにでもある関係性」を動機の一部にしていることは、文章を読む限り本人がアイロニカルに認めていると思います。

>声の大きいほうが勝つ

 これを積極的に受け入れるのが「現実主義」ですね、でも声が大きくなる理由とそれが受け入れられる理由、さらにそれへの具体的な対抗が必要だと思うのです。

「同意=正義」論も、「現実主義」という問題を抜いて考えるとやばいと思います。

 ところで、「責任と正義」の後半はこのあたりを主題にしていると思います。

>どこで実害を及ぼしているのか

 少なくとも、おおやさんを不快にさせたのは確かです、他にもそういう人は多いでしょう。「強い責任理論」はそのような人々の「声」を聞くことを排除できないでしょう。戦術上の問題もあります。ですから、彼らがなぜそう思うのかどうすべきかはをきちんと考える義務はあると思います。

>ヒステリックな慰安婦主義者

 気になるのですが、梶さんのブログに、モジモジさんがコメントしたときに、「ヒートアップしないで」と書いています、論拠なしで一方を敵に間違っている書き、その相手に単純にこう書くのはちょっと問題ではと思いました、今度の野原さんの文章を読んでも違和感を感じます、「ヒステリック」とか「ヒートアップ」のような言葉は(それが適応される相手がどういう存在かを暗黙の前提として)、それこそ魔女狩り的レッテルとして機能しているように思うのですがいかがでしょうか?

 ちなみに私も全くの素人です。でも、人文・社会科学は「専門」の境界設定がはっきりしないし、「専門家」でも意見が違うのは厄介です、どこまでが「定説」でどこからがそうでないのかわかりにくいので素人としては困ります(居直っちゃいけませんが)(笑)。

 前のコメントの3行目は、(これはある程度正当です)です。

 では、長々と失礼しました。 』

リベラル/日本の

2/6、一市民さんから次のような質問があった。*1

# 一市民 『日本のリベラルってどういうものなんですか?

左翼とリベラルの違いってなんですか?』

わたしのような無知、無手勝なものにそんな質問をしても・・・

 ちょっと面白いと思ったので書いてみよう。

リベラル、リベラリスト、リベラリズムには、日本では、時代によって異なった多様な意味がある。

3つだけ書くと。

1)戦前、全体主義(天皇制ファシズム)に抗して自分なりの思想を(辛うじて)維持したもの。

2)戦後、マルクス主義など左翼思想全盛のなかでその抑圧性を指摘した保守派のリベラル。

3)最近、その辺のプチウヨなどに影響を与えている新自由主義。

それとややこしいのは、

4)若手学者が知の基盤としているロールズ以降の?(アメリカの)いろいろな知的動向。

1)は反体制で気骨があり、ポジションとしては左翼。

2)は保守派だが体制迎合的ではない。

それに対して、“プチウヨ”とは「フロムによれば、人々は前近代的な諸々の束縛から解放されて消極的自由を手にすると、孤独や不安にさいなまれ、自由を耐え難い重荷であると感じるようになる。そうなると人々は、かえって権威者への服従を求めるようになり、実際、ファシズムのような政治体制が生まれることにもなった。(同下)」という大昔の教科書通りの有害分子。

 最近分かりにくいのは4)が増えてきて、今までの常識とどうつながるかが見えなくなっているから。

4)のイメージは次のようなものか。

 本節ではリベラリズムの再確認を、井上(1986)よりスタートする。井上(1986)によればリベラリズムとは、「善」から区別された社会構成原理としての「正義」に関する探求の歴史と、未来におけるその可能性の総体である。

http://homepage2.nifty.com/hirokisu/contents2-b.html

みんなにある正しい生き方を強制する福祉社会(管理社会)への反発が根拠にあるのか? で「正義」とか「尊厳」とかいう古いようにも感じる言葉が復権する。

http://www.econ.hokudai.ac.jp/~hasimoto/My%20Essay%20on%20Recomended%20Books%20on%20Liberalism.htm

 リベラリズム(自由主義)は自由を最大限に重んじる思想ではない。例えば、自由の意味を「解放」としてこれを重んじる思想は、マルクス主義や神学であって、リベラリズムではない。また自由を「強制の排除」とみなしてこれを最大限に重んじる立場は、アナーキズムやリバタリアニズムであって、リベラリズムの本流からは少し外れる。現代のリベラリズムにはさまざまなバージョンがあるので、「リベラリズムというのはこういうものだ」と総括しても、実はあまり理解したことにはならない。

 おおやさん、id:mojimojiさん論争も(たぶん)4)の土俵の上で為されている。mojimojiさんの(例えば2/6以降の)考察はその土俵の上での「左翼はいかに可能か?」への真摯な考察になっている。

*1:コメントは、識別しやすい固定ハンドルでお願いします。

立法が必要

http://d.hatena.ne.jp/okumuraosaka/20050221/1108980401 経由で。

日弁連が、2005年3月19日(土)被害者保護支援の法制を考えるシンポジウムを開催するとのこと。

http://wwwsoc.nii.ac.jp/genderlaw/shimpo200503.htm

シンポジウムのお知らせ

『人身売買受入大国ニッポンの責任』

~被害者保護支援の施策と被害者保護~

日本には多くの人身売買被害者が送り込まれています。しかし、加害者処罰が不十分であるだけでなく、被害者の保護支援の施策はほとんど皆無の状態でした。そのため、各国政府・国際機関・内外のNGOは繰り返し日本の対策の不足を指摘し、これらの批判を受けて、日本政府はようやく対策に乗り出し、2004年12月に「人身取引対策行動計画」を策定しました。しかし、その内容は、加害者処罰の強化については刑法等の改正を予定するものの、被害者の保護支援については現行法の弾力的適用で対処するというもので、防止対策も不十分です。

<わたし>のうちの裂け目

岡野八代『法の政治学』isbn:4791759699 を買った。とても興味深い。

菊地 夏野という方の書評が下記にある。http://www.arsvi.com/2000/031200kn.htm

以下 第三章*1の(メモになっていない)メモ。

 従軍慰安婦といった話題を聞かされるときに、ひとは「うんざり」、わたしの自由が脅かされているという反応をもってしまう。そのことを岡野は自分に即して執拗に語る。わたしとは「何ものにも先立つ自由な主体」でなければならない、という西欧の知の根拠にある前提を、わたしもまた無意識のうちに受け入れているのだ。その限りにおいて、過去からの呼び声としての責任は、「振り払わなければならない亡霊」としてわたしにとってあらわれる。*2

 すべての個人は自律的な一個の人格であるかのように扱われなければならない。もし、契約書があったからといって、そのとき隣の部屋で銃を持った兵士が待機していたかもしれない。そうであれば当然契約書は無効である。しかしながら私たちの社会は契約を基礎にしている。つまり契約書があればそれが裁判で無効とされない限り有効であるのだ。契約書に小さいとは必ずしも言い切れない血痕がついていた場合はどうか。わたしが騒ぎ立てないかぎりやはり契約は有効だ。だがわたしが騒げば無効になる可能性はある。*3現実の他者は常に自律的な他者ではない。*4最もコストを掛けずに処理していくべきゲームとして現実を捉えるのは確かに時間の節約にはなるがそれだけだ。そうではなく、「現在何が欠けているのか、あるいは、何が排除されてしまったのか、何が残余として存在し続けているのか」*5を問う余地は必ずある。

 自由が責任に先立つという前提が<わたし>という同一性を構成し守っている。だが同一性とは錯覚によって守られているに過ぎないのではないか。世界よりもむしろ<わたし>のうちに「裂け目/切断」がある、その可能性を認めなければならない。

 わたしたちはむしろ特定の物語と主題の下に主体として認められているだけだ。自由があるとすればその条件を問い返すことのうちにしかないのだ。

「<わたし>の内部で「すでにあったもの」と「欠如しているもの」の<あいだ>を配慮することが、他者と自己との<あいだ>を配慮し、より暴力的でない関係性を他者と築くことへと繋がっている」*6のだ。

 ところで、3/6に掲載したように、松下昇の発想の根拠には、「自己が依拠してきた発想や存在の様式を変換する」という強いベクトルがあるが、これは未だ無いものへの変換であるため分かり難いものである。上に書いたことはこれへの解説にもなっているだろう。

*1:<わたし>の自由と<われわれ>の責任

*2:cfp158同上

*3:以上、契約書の話は岡野の本にはない。

*4:ニッポン放送やNHKのようなエリートサラリーマンでさえ自律的でない。

*5:p168同上

*6:p171同上

崇敬・国家・ネイション

spanglemaker 『誰が教育の現場で「日の丸・君が代を崇敬せよ」なんて言ってるんですか?

それから日の丸・君が代はネイション(このコメントの流れからいうと「国」)の象徴です。』(2005/03/31 19:03)

index_home 『式典で国旗を掲げ(校旗は同じ位置に掲げない)、壇上にあがる者はそれに頭を下げて礼をし、国家を歌うときには全員起立し、声を出して歌おうとすることをすすめるのは日の丸君が代に何をするためですか?』(2005/03/31 20:39)

index_home 『それから日本語の「国」という言葉にあたる英単語はnationのみではありません。』(2005/03/31 20:42)

N・B 『>反政府主義者のほとんどは、「国」を愛する故に「国家」に反逆する人々であり、私の認識では、熱心な愛国者となるのですが……。

 歴史的にはみもふたもなくそうなのではないでしょうか。これはバートランド・ラッセルの「ロシア共産主義」に載っている話ですが、ラッセルはレーニンとトロッキーの二人に会って、トロッキーの方がロシアという国に対する傾倒があり、レーニンはむしろ「国際主義的」だったと感想を述べています。現代の発展途上国ではいっそうそうでしょう、例えばマンデラもサハロフもある種同じですね。

>誰が教育の現場で「日の丸・君が代を崇敬せよ」なんて言ってるんですか

 やはりこれは「治安維持法で処刑されたものはいない」という主張に似たミスリーディングです。それにステイトの機能を利用してネーションのへの合一化を図るのは spanglemaker さんの立場からはむしろ忌避すべきことではないでしょうか?ネイションとステイトの分離を強調するがゆえに両者の癒着を警戒しなければならないのが spanglemakerさんの立場だと思うのですが。

>ただ、普遍性とアメリカという特定の国家が用意二度生津氏されてしまう背景としては

 すいません変換間違いがそのままでした。「特定の国家と用意に同一化されてしまう」が正確です、すいません。』(2005/04/01 12:39)

noharra 『「日の丸・君が代はネイションの象徴である」なら何故、「他国の国旗を尊敬することを知らないものは」みたいな理屈の方をむしろ公式には採用しているのですか?』(2005/04/01 20:55)

spanglemaker 『誰も教育の現場で「日の丸・君が代を崇敬せよ」なんて言ってないんですね。ありがとうございます。

>>「日の丸・君が代はネイションの象徴である」なら何故、「他国の国旗を尊敬することを知らないものは」みたいな理屈の方をむしろ公式には採用しているのですか?

自国を尊重することと他国を尊重することは両立できると思いますが。自分の家族を大事にする人が他人の家族をけなしたりしないのと同じです。』(2005/04/02 08:48)

(野原)

「他国の国旗を尊敬することを知らないものは」みたいな理屈、というのは単なるメンバーシップにもとずく儀礼的敬意を要請しているということでしょう。ネーションとは区別される意味でのステートへの敬意ですね。ネーションと言うのなら、私(あなた)のうちにも生きている「兎逐いしかの山」の記憶を呼び覚ませと言うだけですむはずです。

spanglemakerさんの意見とは食い違うと思います。

君が代=国家への盲従

 ひとはいつのまにか自分という物を持っているわけで、自己と他者を分別し、他とされたものに対してはあまり関わらず自動的に生きている。通勤経路の傍らで人がうずくまっていても、そのまま通り過ぎる。生きるということはそう言うことでありそれは悪ではない。だがそのときうずくまった人が苦しそうなうめき声をあげたらどうだ。ひとは声に反応し振り返るべきだ。振り返っても何も出来ないかもしれない、云々といった(立派な/立派でない)理屈をとっさに自分のうちで作り出し振り返らないこと、それは悪だ。

 したがって、入学式で国歌斉唱と言われて着席するかどうかですが、着席しないことは悪ではない。しかし、「着席しないことは悪でない」、と言いつのったり「それが善だ」と主張することは悪である。

というか自分の疑問「なぜ日の丸君が代が嫌いなのか」には誰も答えてもらえなかった…。(風見敬吾)

1.日の丸君が代を推進している勢力(文部省の役人など)には正当性がない。

2.「自然、当然」としての愛国心は、国家への盲従に帰結する。

3.コメントスクラムとかする人々は誰からも強制されずに、国家への盲従への傾向性を示している。

4.日の丸君が代強制に反対する人は、日本人は放っておけば国家への盲従への傾向性を持っていると判断している(そうだったのかもしれない)。それはこの間の“対話の否定としてのコメントスクラム”などの経過により明らかになった。

「第二条 1  国歌は、君が代とする。」

 国家はつねに国民統合を意志し努力する。それは悪いことではない。

われらは、個人の尊厳を重んじ、真理と平和を希求する人間の育成を期するとともに、普遍的にしてしかも個性ゆたかな文化の創造をめざす教育(教育基本法)

 教育基本法の理念を高唱する既成左翼に手放しで同調していいのか、疑問もある。

「個人の尊厳を重んじ」の個人とは、ニュートラルな個人を欲望し消費し労働する個人へむりやり強制するベクトルをはらんでいるのではないか。“神のご加護”みたいな語り得ない祈りがなければ、例えば出産の減少はくい止められないのではないか?

 難しい問題だし、こう言うと左翼からは反発を受けるでしょうが野原はそう思わないことはないのです。

 「“神のご加護”みたいな語り得ない祈り」への傾向性はわたしのうちで大切に育てていきたい。だがそれに代わる物としての、「自然、当然としての愛国心」は絶対的に嫌だ。というのが私の意見です。

靖国問題

 小泉首相は靖国に平和を祈りに行くそうだが、冗談ぽい。靖国参拝のおかげで日本は永遠に米国の属国だというのに。イラク占領への加担が大東亜の大義に反さないとでも言うつもりか。

先日(5/15)の朝日新聞に、高橋哲哉『靖国問題』ちくま新書の書評が出ていた、野口武彦氏による。

 野口による論旨要約(の要約)

1)<国民感情>「戦死の悲哀を幸福感に転じていく装置」がヤスクニ。

2)<歴史認識>「A級戦犯合祀をめぐって、アジアの戦争で莫大な被害者を発生させた植民地主義との関係を直視すべし」

3)<宗教>神社非宗教論は間違いだ。

4)<伝統文化>靖国信仰を「死者との共生感」に還元するのはまやかしだ。靖国は死者を選別する装置だ。*1

5)<新追悼施設案>

どんな追悼施設も政治に反戦平和の意志がない限り、いずれ「第二の靖国」に転化するだろう、という予言。

野口は“(国民の間に多様な思いがあるが)それが感情の問題ならどれもが心情としてはもっとも、”みたいな感想をもらす。

明治2年設立以来の靖国の歴史。・・・「神聖な境内に戦場の死者の霊魂が迎えとられて永遠に眠る。この安息感は純粋無垢な宗教感情でなくて何であろうか。ゆえに首相の靖国参拝は政教分離を定めた憲法第20条に違反する」と高橋は言っている(そうだ)。

これに対して野口の立脚点は違う。(野口も靖国参拝には否定的みたいだが)

「招魂社の夜店・見世物は昔の東京名物で、例祭の日、境内にむらがる群衆には怪しげで猥雑な活気が溢れ、アセチレン燈の臭気がせつなく郷愁をかきたてていた。《靖国感情》はこのドロドロした底層から、死者と生者が同一空間で行き交う精霊信仰の水を吸い上げている。この泉に政治が手を突っ込むのは不純だ。民衆みずからがそう感じることが大切なのではないか。」

「宗教」というのは明治期に西欧から入ってきたカテゴリーにすぎない。それに対して憲法20条は、戦前戦中の国家神道強制に対する直接の反動を強い動機として成立したものである。にもかかわらずその歴史性は20条の文言には書き込まれず、「信教の自由」「宗教」について抽象的に規定されているだけだ。「国民が国家神道強制の被害者であった」という事実はなかった、または記憶から抹消されている。

<死者と生者が同一空間で行き交う精霊信仰>がわたしたちにリアルなものなのであれば。平将門に習合した北一輝を祭り上げることが早急に必要なのかもしれない。

・・・

*1:死者が神になるのなら、東条を入れて、北一輝を入れないのは何故だ。野原

(6/18追加)

# poppo-x 『こんにちは。一方で、裕仁氏と東条英機の間の個人的確執が、東条合祀後靖国へ参拝しない一因との分析もあります。

http://blog.goo.ne.jp/asaikuniomi_graffiti/e/3fede30ef997afc56ba99b7e088382e0

私の視点 靖国問題ー昭和天皇と東条の確執

Weblog / 2005-06-07 11:31:53』 (2005/06/18 06:54)

(野原)

浅井さんの貴重な文章の紹介ありがとうございました。

印象的なので一部をもう一度引いてみます。

敗戦直後から毎年ではないものの数年置きに靖国神社を参拝(正式には「御親拝」というそうな)していた昭和天皇が、A級戦犯合祀が行なわれる1978年の3年前に参拝して以来、靖国に踏み入れていないのだ。

 そこから色々調べてみると、靖国への合祀には天皇への「上奏(天皇への事情説明)」が必要なのに、靖国側はその手順を取っておらず、合祀を巡って天皇と靖国の間に確執があった事が浮かび上がってきた。

http://blog.goo.ne.jp/asaikuniomi_graffiti/e/3fede30ef997afc56ba99b7e088382e0(浅井久仁臣)

そして、14人のA級戦犯が秘密裡に合祀された。

(同上)

この「秘密裡に」は、左翼や左翼的世論に対する秘密というだけでなく、天皇や権力中央の一部に対しても絶対秘密だった、と。ある種のクーデターといえるほどのものですね。陰謀説を採っている野原としては、これを押し進めた分子の中に、米国や北朝鮮の工作員が居たのでは?という疑惑を捨てきれないぞ(笑い)。

気高く死ぬ(7/12訂正)

そういう教育」を受けていなくても、私なら飛び降りて自決するだろう。

「敵に捕まれば、男は殺され、女は辱めを受ける」と言われていたらしい。実際、その通りだっただろう。

敵軍の男に捕まるくらいなら、私は、日本人の女として、気高く死ぬ。

http://d.hatena.ne.jp/ButterflyNamida/20050627 GRAPEFRUITS+CARNIVAL – 絶壁の記憶

 この文章はわたしにとってショックでした。バンザイクリフの死者は私にとって「絶対的被害者」である、国民の(少なくとも辺境の国民が)1万人ほど死のうが生きようが余り気にしない「皇軍」というものが加害者である。したがって「国のために」なんてお題目はちゃんちゃらおかしい。むしろ皇軍の加害者性がどの程度在ったのか、正確に検証し、糾弾しなければいけない。というのがわたしの理解でした。21世紀の現在になって、「私なら飛び降りて自決するだろう。」と言い出す人が出てくるとは思いませんでした。確かに自己責任において自決していったという面もないとは言えない。同じ情況で生き残った人が半数はあるわけですから。そして現在ためらいもなく誇りを持って「気高く死ぬ」と言っている人がいる。自決した人はどんな気持ちで死んでいったのか。自決せざるをえない情況にまで追いつめられた運命を呪い、サイパンを戦場にした皇軍を呪い、降伏という選択肢があるなどと夢にも思わず死んでいったのだろう。そうではなく「 敵軍の男に捕まるくらいなら、私は、日本人の女として、気高く死ぬ。」と思って死んでいった人もいたかもしれない。だが(失礼だが何も知らないこの文の筆者が)考えるほど戦場とはシンプルなものではないだろう。自分の家が壊され、野山を砲弾を避けようとしながらろくな食糧もなく逃げまどう、「日本人の女として」という一つのフレーズがそうしたある女性の生死の総体を支えることが出来ただろうとはとうてい想像できない。

それにしても筆者が今「日本人の女として、気高く死ぬ。」と言うのなら、それは嘘ではない場合、筆者の真実がそこに掛けられているわけだ。愛がなければもちろんわたしは筆者に影響を及ぼすことはできない。