ファルージャ情勢の謎

ファルージャについては、「レジスタンスが旧市街を取り戻す」という話もあったがよく分からないと、id:noharra:20041130#p3 に書きました。

 ファルージャでは、地域の部族社会がレジスタンスを闘っているだけ、と当然わたしは思っていたのですが、id:amtさんは、それにしたら強すぎる、と見ておられます。ふーむ・・・??

http://d.hatena.ne.jp/amt/20041207#Fallujah はてなダイアリー – おもてなしの空間

イスラムメモは、外部からのアフガニスタン型の支援を認めつつも、地域の部族社会が祖国防衛戦争型で戦っているようなことをいっているが、これも信用できない。ファルージャで連中は、湾岸戦争で一台しか戦闘による損失がなかったエイブラムズを沢山やっつけている。米軍が戦っているのは、少なくとも湾岸戦争でクウェートに侵攻したイラク共和国軍よりも大部ハイレベルな連中がまじっているに違いない。こんなことが可能なのは、僕には、フセインが米軍侵攻に備えて準備した地下組織以外には考えられない。

見たくないもの

フッサールの<志向性>や「明証性」の概念は、ものごとが<私>にとってつねに意味連関-意味統一として現われることを示すが、ハイデッガーの<気遣い>の概念は、それを一歩すすめて、ものごとはつねに意味=価値の連関、統一として<私>に与えられるということを示した。

p205竹田青嗣『現象学入門』NHKブックス

わたしたちがそういうふうに世界というものを作っているのだとすると、自分の持っている価値観に適合的な物事は事実として受け取るが、そうでないもの(たとえばハイデッガーにとってのアウシュビッツ)は受け取らない、人間とはそうしたありようで存在するものだ、ということになる。内田樹が(ポスト)構造主義はアウシュビッツの反省だとか言ってたがこういうことか。

 今日はデリダ『声と現象』を読んだのですがよく分からずあまり面白くなかった・・・

快不快の話

スワンさんコメントありがとう。

# swan_slab

『こんにちは。この件については、週末にちらっと意識はしたのですが、読む分量が多すぎたのでテキトーに参考にした程度ですが、結局、快不快の話だという前提があるのでつっこみにくいのはたしかです。』

# N・B

『 あ、スワンさん。お久しぶりです、あいまいな形でトラックバックしてすいません。それでも『快不快』『好悪』が基本にあると自覚するのは重要だと思います。

 

>応答が遅れていて

 普通の人が私よりずっと忙しいのはさすがに承知してます、「今は忙しい忙しい」と書くのと同時に、やたらと長く書かれるより、一言断っていただいたほうがずっと『好き』ですよ。では失礼します。』

# N・B 『前の書き込み、「返事を長く書かれるより」、です、「返事」を抜くと意味が全く変わることに今気づきました。個人的なことそのほかで余計に書きすぎましたすいません。』

ビラをまく自由

 投票に行くことより、デモをしたりビラをまいたりする方が有効な政治的行為だと思っている、わたしは。

 去年くらいに駅構内でビラをまいてはいけないという通知がJRの各駅長宛出たという噂をきいた。

 2月24日、東京のある高校前で、ある大学生がビラを配っていたという理由で、その高校長が警察に通報した、という事例があるようだ。

 また次のような噂もある。

  また、式典会場及びその周辺においてビラまきなどがなされた場合には、「住居侵入罪」「道路交通法違反」を活用して警察力を導入せよとの校長宛指導がなされているとの情報もあり、

 道路でビラをまくことについて、警官に嫌がらせをする権利があるかどうか、前から気になっていたので、道路交通法を見てみた。

第76条 

4 何人も、次の各号に掲げる行為は、してはならない。

1.道路において、酒に酔つて交通の妨害となるような程度にふらつくこと。

2.道路において、交通の妨害となるような方法で寝そべり、すわり、しやがみ、又は立ちどまつていること。

3.交通のひんぱんな道路において、球戯をし、ローラー・スケートをし、又はこれらに類する行為をすること。

4.石、ガラスびん、金属片その他道路上の人若しくは車両等を損傷するおそれのある物件を投げ、又は発射すること。

5.前号に掲げるもののほか、道路において進行中の車両等から物件を投げること。

6.道路において進行中の自動車、トロリーバス又は路面電車に飛び乗り、若しくはこれらから飛び降り、又はこれらに外からつかまること。

7.前各号に掲げるもののほか、道路又は交通の状況により、公安委員会が、道路における交通の危険を生じさせ、又は著しく交通の妨害となるおそれがあると認めて定めた行為

 これを見る限り、「道路交通法」ではビラ撒きは禁止されていない。公務員が法的根拠なく市民の政治的自由を制限してはいけない。

もう一つの固有名

だが、ここで突然出現した「心臓」という語。わたしはそれが気になって仕方がない。南条あやの心臓、それはいったいどんなものなのだろう。南条あやの心臓を想起すること、それは許されることなのだろうか。許されるとして、それはどのように想起すべきことなのだろうか。

http://d.hatena.ne.jp/irogami/20050310 materia:materia

おとなり日記4%から唐突に引用。(引用させていただきます)

南条あやとはネットにおけるメンヘラーの中でもアイドル的存在だったが、すでに自殺しているひとらしい。政治的被抑圧者、(の代わりに死んだ)アクティヴィスト、を考える際に必須のサバルタン、といったテーマ系とは無縁の場所で死んでいった女性。わたしにはうまく考えられないのだから引用もすべきではないのだが、わたしに無縁とは言い切れないので引用しておきたい。

 ところで引用先には次のような文もあった。

ついでに言うなら、自分はアドルノやレヴィナスに与して、真に問われるべき問いは、存在の意味への問いではなく、存在者の側に、存在者という他者への問いを否応なく終わりなく呼びかけるものの側にこそあるという考えである。

 レイチェル・コリー、桧森孝雄という二つの固有名は虐殺されたもの、あるいは死を賭けたその代理人である。死んだという衝撃を政治的効果に換算するために、政治的メッセージとしてヘッダに掲げられている(はずだ)。ひとは政治的に死ぬことはできない。全体的存在の果たされていない約束でありながら死ぬことしか可能ではない。最終的に死は臓器の死であるが、臓器を想起する方法もまたわたしたちは持っていない。政治的言説は豊かな現実の錯綜する関係性を平板化するものとして昨今評判が悪い。現実の帝国主義や国家の側がひとを死に追いやっている事実は重視しないのが洗練された生き方のようだ。だが、一つの死は単に政治的ではないより大きな死であったが為に、政治的メッセージにもなる。

君が代斉唱しない。

 上の子の学校の卒業式に行って来た。最初に国歌斉唱があった。生徒に対して「強制はしない」旨の注意は一応あったようであり、生徒はあまり歌っていなかったような印象。わたしは君が代の強制には反対なので、その時だけ着席した。見渡せないので分からないが、わたし以外はあまりいなかったようだ。

 教育委員会に聞いてみた。君が代を歌わせる根拠は、学習指導要領にある。ちなみに学校教育法がまずあり、その施行規則があり、それを受けて学習指導要領というものがあるということ。

3入学式や卒業式などにおいては,その意義を踏まえ,国旗を掲揚するとともに,国歌を斉唱するよう指導するものとする。

http://www.mext.go.jp/b_menu/shuppan/sonota/990301/03122601/012.htm

小学校学習指導要領(平成10年12月告示、15年12月一部改正)-第4章:特別活動

(3)国歌「君が代」は,いずれの学年においても指導すること。

http://www.mext.go.jp/b_menu/shuppan/sonota/990301/03122601/007.htm

小学校学習指導要領(平成10年12月告示、15年12月一部改正)-第2章:各教科-第6節:音楽

わたしが聞きたかったことは、「国歌の意義」である。

口頭での問答だから正確ではないが、「他国の国旗国家に敬意を表することは必要である。そのためには日本人として自国の他国の国旗国家に敬意を表することも知らなければいけない。」みたいな非常に腰の引けた意義の説明のようだった。日本国については、象徴天皇と平和主義であり、そのシンボルとしての君が代みたいな感じか。

2.郷土及び国家の現状と伝統について、正しい理解に導き、進んで国際協調の精神を養うこと。

(学校教育法 18条)http://www.houko.com/00/01/S22/026.HTM#s1

「国家の伝統」ですね。これが何か?を確認したいわけですが。*1

 で、その担当者が言っていたことは、「最高裁・伝習館高校判決」によって「学習指導要領の法的拘束力」が肯定されたということであった。

ふーんそうなんだ。伝習館とはなつかしい。

「高等学校学習指導要領(昭和三五年文部省告示第九四号)は法規としての性質を有するとした原審の判断は、正当として是認することができ、

http://www.asahi-net.or.jp/~si8k-nmmt/98-08-07kanagawa.htm#%87V 98-08-07(平塚養護学校)

と最高裁は断言しているみたいだ。困ったね。

ところで国旗国歌法って1999にできたのか。

国旗及び国歌に関する法律

平成11(1999)年8月13日 法律第127号

(国歌)

第二条 1  国歌は、君が代とする。

2   君が代の歌詞及び楽曲は、別記第二のとおりとする。

(全部で2条しかありません)

しかし学習指導要領には1968年からあったみたいだ。

2 音楽の場合、「適切な指導をすることが望ましい」として初登場した「君が代」が六八年告示から「指導するものとする」、七七年告示から「国歌『君が代』」、 そして八九年告示から「指導すること」と極めて大きく変化してきたこと。

3 学校行事等又は特別活動においては、「君が代」が七七(七八)年告示から「国歌」と書かれるとともに、「国民の祝日などにおいて…望ましい。」との一文が が八九年告示から「入学式や卒業式などにおいて…指導するものとする。」と変化し、入学式及び卒業式での強制の方向が強まったこと。

http://www.asahi-net.or.jp/~si8k-nmmt/98-08-07kanagawa.htm#%87V 98-08-07平塚養護学校

31年間かけて国民に浸透させてようやく国歌法を成立させたわけだ。

教育委員会の職員の意見は「君が代」だからではなく「国歌」だから歌いなさいという理屈のようだ。「日の丸・君が代」を「 戦前・戦中に天皇主権下で軍国主義・超国家主義のために「活用」された」ものとして反発する勢力が先なのか、「軍国主義・超国家主義へのノスタルジーを持つ勢力」?が先なのか。学習指導要領については後者が1968年ころからヘゲモニーを取って着実に強制の方向へ進んでいるわけだ。37年前ですからゆっくりした動きとも言えますが、最近ではビラ撒き逮捕の件もあり、安心もしていられないでしょう。

 教育委員会への電話は、勉強不足で論点を絞りきれず中途半端なまま終わりました。

 あまり内容もないのですが報告まで。

*1:右翼~体制派は、教育勅語から敗戦までの国家主義的な社会~国家観をもって、「伝統」と言っているようだが。残念! 日本は1300年以上の伝統があるのだがそれを無視している。

内心の自由とは?

教育長の言っていたことで気になったのは、

「内心の自由というのはいつでもあるのですから」という発言。

そりゃ「人を殺せと命じられてそれに従っても、内心には嫌だと思う自由がある」という事態はあるでしょう。

憲法19条「思想および良心の自由は、これを侵してはならない。」というのは、そういう「自由」を擁護しているのか?

無宗教と無個性が特色の国

日本という国は、島国でほぼ単一民族、無宗教と無個性が特色の国であるわけです。

http://d.hatena.ne.jp/tetekei/20050410/p1

全く間違ったことを偉そうに書かないでください。

中世までの日本は、おおざっぱにいって神仏混淆的な宗教風土に生きていました。日本史で大きく取り上げられる鎌倉新仏教は、西欧のプロテスタンティズムに近いとも評価できるほど個人として宗教的実存を深めていきました。

江戸時代にも仏教や神道は衰退したわけではありません。

 明治後期、教育勅語体制によりさまざまな宗教を国家神道的なものに統合して行こうとする試みは、昭和の総力戦期に一旦成功したと言えます。

そのことが、保守が何年も政権を担当し続けたり、天皇家が1400年の歴史を持ってたりするのに繋がっているといえますね。つまりこれは、日本人が本来愛すべき日本の国民性で、この価値観を基準として考えることが重要だとおもいます。

 天皇家の1400年の存在を、「単一民族、無宗教と無個性が特色の国」なんて元ネタは誰か知らないが全くの誤謬と結びつけて、連続性、同一性だけを強調しようとする理解は誤りです

君が代の強制は、メチルアルコールのような人工的な質の悪い宗教性の強制であり、無神論者である私には耐え難いものです。

思想信条の自由

アンチひのきみMLより。

 立川二中の教員である根津公子さんが、今年3月の卒業式での「君が代」斉唱

時の着席で「減給6ヶ月処分」となり、今年の入学式での着席について「停職」

の可能性もあるとのことです。

今月12日に都教委による「事情聴取」がありました。28日の教育委員会の

定例会で「処分」と「量刑」が決められる可能性が強いようです。

(略)

 ◆抗議・要請先 

 東京都教育庁 人事部 職員課

  FAX 03-5388-1731

  Mail S9000013@section.metro.tokyo.jp

  TEL 03-5320-6790(藤森 教悦 職員課長)

  TEL 03-5320-6792(佐藤正吉 主任管理主事)

  住所 〒163-8001 東京都新宿区西新宿2-8-1