よくやっているなぁ

mojimojiさんから下記のコメントをいただきました。1/27の13時ころ、です。

ここの日記では、同じ主題のものは翌日以降に書いてもその日の日記の下に継ぎ足して行くという構成をとっています。1/25の日記もそのように下へ継ぎ足していったのですが、上と下20050125#p3ではかなりニュアンスが違うものになっています。下は慰安婦テーマとは直接関係のない「金正日有罪」というわたしの主張を述べたものになったのです。以下のmojimojiさんのコメントはそれを含まない前半部分へのコメントですので念のため注記しておきます。

# mojimoji 『はじめまして。先日はトラックバックいただき、ありがとう。/外国はどうか分かりませんが、日本の女性運動(も含めて社会運動全般)は、圧倒的に量が足りないと感じています。とにかく、人が足りない。そんな中でもほんとによくやっているなぁ、と頭が下がる思いです。』

# mojimoji 『前日のエントリの毎日新聞の記事ですが、あそこは割と両論併記だから、よく馬鹿な記事が載りますよ。記憶に新しいところでは、サマワの自衛隊派遣に関して高畑論説委員の記事が出て、すぐ翌日だかに布施論説委員による異論が掲載されました。今回の件も、すぐさま反論が出されることを期待したいですが、はてさて、どうなることやら。』

# mojimoji 『サマワの件での肝心の元記事がなくなっているのが残念なのですが、そのときにフォローしていたシバレイさんのブログがあります。雰囲気くらいはつかめるか、と。

http://reishiva.exblog.jp/m2004-11-01#1111392

 女性国際戦犯法廷の全記録、を見ると、規模も大きいし、法廷であろうとする努力をできる限りしていることも分かるし、多種多様なボランティアが緊急に集まった割には、ほんとうにすごいなあと感心します。

 批判すべき点があると仮にしても、まず本を読むなりビデオを見るなりして知るという努力を払うに値するイベントであると思います。

慰安婦問題は問題ではない、と思いたいというデフォルトがあるのは事実である。ただそこで自分たちの欲望に従うことが、国益にそうかどうかは別問題。国益はわたしはどうでもよいのだが、何と言ったらよいのか、「大東亜の大義」を一旦は叫んだ男たちの末裔としては最低限直視する責任がある問題だと思うが、みなさん誇りがないようだ。

無自覚になされる否認

mojimojiさん コメント欄の文章に勝手にコメントしてしまいました。

id:mojimoji 『「いくらひどい被害だったといっても、50年近く前の話である。全身に衝撃を覚えるなんて言うのは大袈裟ではないか、と傍観者的には思ってしまう。だがそうではないのだ。「誰にも語れない秘密」は誰に語られなくとも50年間彼女の心の中に生き治癒されずに傷であり続けたのだ。」の部分は、本当に余人には推し量りがたいものがあり、かつ無自覚になされる否認によって今も傷つけられ続けているように思えます。

僕自身が、こうした記憶の問題にセンシティブになったのは、岡真里『記憶/物語』の冒頭30ページくらいを読んだときですね。「洋なしのアラビア語が思い出せない、なんだったっけ」というほほえましいエピソードから記憶というものの暴力性へと反転していく記述のところ、あれほど胸を衝く記述に接したことはそうそうありません。』

 わたしの場合は、『全記録1』の何人もの証言を読んだ後で、『夕凪の街 桜の国』という漫画を読んだとき、やはりある頁で落涙してしまいました。

誰もあの事を言わない

いまだにわけがわからないのだ

わかっているのは「死ねばいい」と誰かに思われたということ

思われたのに生きのびているということ

そしていちばん怖いのは あれ以来

本当にそう思われても仕方のない人間に自分がなってしまったことに

自分で時々

気付いてしまう

ことだ

p16『夕凪の街 桜の国』こうの史代 isbn:4575297445

大きな被害を受けたものがそれ故に自尊感情をなくすこと。まさに体験しないと分からないこと。神の不条理がはっきりあらわれているという現象なのか・・・ これはヒロシマを舞台にした漫画ですから慰安婦とは何の関係もないのですが、共通のものはあると思いました。慰安婦はたった一人で耐えなければならなかった分もっと悲惨だった・・・

あるフィリピン人に私が近づかなければならない理由は存在しない。袖擦り合うも多少の縁。かすかな縁はかすかなままでも良いと思うけど、無意識にでも「否認」するのはちょっとね、と思います。

日本=ナルシズムには吐き気がする

 帰りの電車で雑誌を読んでいて、そうなのかうーんとうなずいた瞬間に、向かいに座っている男性の読んでいる新聞の広告欄に「中華人民反日共和帝国」という字が大きく躍っているのを見て、あやうく吐きそうになった。

 読んでいたのは『現代思想』2001年12月号特集ナショナリズムの変貌isbn:4791710835、という雑誌。「ホモ・ホスティリスの悪循環」という中尾知代氏の文章を読んでいた。イギリスにおける1995年50年目のVJデイ(対日勝利記念日)の狂騒を、はじめとするイギリス社会の草の根レベルの反日運動~意識の諸相について色々書いていた。Tolkienとピーター・ラビットの国*1ということでイギリスに親近感を持つ日本人の一人として、知らないことばかりでちょっとショックを受けた。国内が景気悪いのに日本の商品がどんどん入ってきて反日の素地はあったこと。日本軍と戦った退役ビルマ軍人たちなどは、対ドイツ戦(勝利)の影に隠れた半ば忘れられた存在でありフラストレーションをもっていたこと。などなど。そして「残酷な日本人」というステロタイプなイメージが繰り返される。「どの新聞も、ヨーロッパ人捕虜の頭に日本刀を振り下ろそうとしている日本兵で一杯だ。」

 さて「だがどこも、戦争が終わってから日本が、民主主義と自由な国に生まれ変わって、もうそんなことなんかしない、ということを考えもしない」わたしが虚を突かれたのはこの一文である。「民主主義と自由」とは崇高な理念でも国家運営のプラグマチックなプロセスでもない。自分たち文明人に理不尽なことをしない、野蛮さからの卒業という意味に他ならないのだ。うーんそうなのか。 では、アブグレイブはどうなるのか、云々と考えはじめた途端、目の前の新聞の「中華人民反日共和帝国」という大きな見出しを見て、わたしは気分が悪くなった。プチウヨは中国や朝鮮両国の悪口を言うけど、英米にしてみたら黄色人種が仲間割れしてんは好都合だみたいなことも気付かずに・・・

*1:「ゴーメンガースト」なんていうマイナーなファンタジーの愛好家さえいる、私だ。ハリー・ポッターなんかアメリカ人向けファンタジーに過ぎないとダイアナ・ウィン・ジョーンズのファン(私)は滔々と論じ立てるわけだが、そうした上品なインテリが唯一知らないのは、自分たちがただのイエローモンキーだということ。

TBを送ってしまいすみません>各位

わたしの文章は引用ばかりだ。そして、はてなのブログからの場合、urlかidを書くようしている。そしてある日のあるテーマの文章(やコメントとの応答)を、翌日以降もある日の日付を変えずにしつこく下に増加させていくという更新方法を採っています。それで、一度引用させていただいた方に、何回もTBを送ってしまうことになります。もうしわけありません。気になれば削除しておいてくださいませ。

では隣人とは誰か

# N・B 『 あまり考えてませんが一つだけ、ナショナリズムもレイコフによる家族のメタファーの国家への適用も、枠の問題だと考えるべきなのだとは思います。キリスト教の文脈で言えば、「では隣人とは誰か」ということです、「共約不可能なもの共生の前提」の問題も「愛国心」に代わるものの問題もそれでくくれると思います、パトリオティズムに私がやや否定的なのは枠の問題が抜けるからなのです。ちなみに、「リベラル」のモラルの最大の矛盾点は「相手が望むことなせ」という「リベラル」の黄金律が、「リベラル」が「保守」の「モラル」を受け入れなければならないという結論に至ることです。「保守」にはこの矛盾がありません。これが枠という問題とも絡むと思うのですが。どうも自分の意見がはっきりしませんですいません。』 (2005/03/26 08:11)

3/25コメント欄より

コメントスクラムの被害者を励ます

http://blog.livedoor.jp/akyoko3/archives/18605869.html K’s Room:日の丸と憲法9条

がコメントスクラムの被害を受けている。

前日のコメント欄に下記の通り書き込みました。

http://terutell.at.webry.info/200504/article_2.html 多数の一般人が少数の一般人をたたくブログ界隈 てるてる日記/ウェブリブログ

からきました。野原燐といいます。はじめまして。

前日に書き込みしてすみません。

コメントスクラムはうっとおしいですね。

日の丸が多くの日本人に好かれていない理由は、日本人にも莫大な被害を与えた「大東亜戦争」を、肯定的にズラして総括しようとする勢力(自民党+プチウヨ)に対する反感があるからだと思います。

コメントスクラムにどう対応するかは難しいですが、ほんのちょっと休憩し、その後淡々と自分に興味のあることを書き続けて行く、くらいの対応でも大丈夫かも。自分の幸せを追求し表現していけば、亡霊たちは消え去ります。(ほんとかな?)

消耗せず、お元気で!

        野原燐

この発言に対するコメントは下記にどうぞ。

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050414

小泉首相のバンドン発言

 50年前、バンドンに集まったアジア・アフリカ諸国の前で、我が国は、平和国家として、国家発展に努める決意を表明しましたが、現在も、この50年前の志にいささかの揺るぎもありません。

 我が国は、かつて植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。こうした歴史の事実を謙虚に受けとめ、痛切なる反省と心からのお詫びの気持ちを常に心に刻みつつ、我が国は第二次世界大戦後一貫して、経済大国になっても軍事大国にはならず、いかなる問題も、武力に依らず平和的に解決するとの立場を堅持しています。

ここまで言うなら当然「靖国参拝止めます」となるはずだ。諸外国もそう思っただろう。

 第二に、平和の構築が重要と考えます。平和と安定こそが経済発展の不可欠な基盤です。我が国は、これまで大量破壊兵器等の拡散やテロの防止に力を注ぐとともに、カンボジアや東チモール、アフガニスタン等において平和の構築のために努力してまいりました。今後、中東和平推進のためのパレスチナ支援や、平和に向けてダイナミックな動きを示しているアフリカに積極的な支援を行ってまいります。無秩序な兵器の取引の防止、法の支配や自由、民主主義といった普遍的価値の普及は我々すべてが積極的役割を果たすべき課題です。

アフガニスタン、イラクにおける「努力」は評価できない。「中東和平推進のためのパレスチナ支援」は現にパレスチナを抑圧しているイスラエルとを抑える努力抜きに行っても意味はない。またネオコンとヨーロッパとかの間で「自由、民主主義といった普遍的価値の普及」という言葉の意味について大きな差異があるので、どちらを選択するのかが問われる。以上のような問題点はあるがまあ優等生的な発言だ。

イザナギかイザナキか

イザナギかイザナキか、ふと気になったので、西宮さんの神名釈義(新潮古典集成)をみると「・・・「き」が清音であることが分かる」とあったので、今回「イザナキ」に直してみた。*1

hatenaではイザナミはキーワードだが、イザナキorナギはない。

*1:岩波文庫の『古事記伝』では針の先ほどのルビにギのテンテンがあるのだが

倉橋とか

chimadc 『倉橋由美子の小説確か「聖少女」でしたっけ?あれ以外にもかなりそういうの多かった時期あったような気がいまします。水玉、ホーキ含めて、合掌』 (2005/06/22 06:34)

noharra 『久しぶり!そんな言い方したら、カズコさんか誰か不幸にあったみたいじゃないですか。べつにそんなニュースないよね? わたしは「聖少女」読んでないような気がする。lonly womenがでてくるのは二人称小説「暗い旅」だったはず。それ以外にもでてくるけど。倉橋って身も蓋もないところが、chimadcさんに似てる・・・』 (2005/06/22 20:34)

# chimadc 『合掌、って最高のリスペクトを示す、という意味の言葉なのかと思ってました。存命逝去に関わらず皆法外に偉大な先達です。「暗い旅」は、確かあれも「婚約者に蒸発されて逃げられる女子」もの、でしたっけ?あれ「聖少女」の下敷きみたいですね。倉橋由美子の初期のものは大概好きでしたが、似てると言われたのははじめてです。noharraさんのところの音楽バトンが面白かったので一筆落としたくなった次第』 (2005/06/23 07:13)

(野原)

「合掌」という言葉は中島らもが流行らせた言葉じゃないかと思うんですが、使用法はちゃんとはよく分からない。「最高のリスペクト」の意と知り安心しました。水玉消防団知ってます?それは嬉しいですね。かなりマイナーですから。天鼓よりはずっと聞きやすいけど。

倉橋でわたしが似てる、と思ったのは例えば次のようなところ。

それからQはわたしをバーに誘って、そこで自分の家族のことを語り始めました。わたしにはなによりも興味のもてない話でした。男の子って、求婚の序奏に家庭とりわけ母のモティーフをかなでることが好きなんですね。その次に将来の家庭の設計をやってみせ、そこに母のかわりに未来の妻を入れてみる、そうして娘の手を握りしめるというわけね。

「蠍たち」倉橋由美子

こんな風に書いてしまったら、小説なんて書けないんじゃないか、身も蓋もない! みたいに感じました。フェミ風フロイディズムなんて今では凡庸ですが、彼女は四〇年前に独力で到達したわけで、その観念の筋肉むきむきみたいな感じが面白い。一般に評価される直前の生硬な倉橋ですね。で、chimadcさんはまた全然違うのですが、怖いほどリアルだし、でも「身も蓋もない」みたいなところだけは似てるかな、とちょっと思いました。

          排泄処理

松下昇『概念集・8(表現過程としての医療空間)』p14-15より

          排泄処理

 健康な状態の時にトイレ以外の場所、特にベッドに寝たままで排泄する、しかもだれかの助けをかりてすることを想像すると何か異質さと恥らいの感覚がやってくるが、実際に体験してみて殆どその感覚がなかったのが、むしろ不思議であった。これは逆に考えてみる方が正確であるのかも知れない。本当は健康な状態の時の想像が誤っている、少なくとも部分的な想像である、というように。これは排泄に限らず、いくつもの事柄についていえるのであるが、健康な状態の時の想像と実際の感覚の落差がこれほど大きいものはあまりない。極端化していうと、身体が弱り、排泄も自由にはできない状態のままの感覚で把握する瞬間に、任意の概念のヴィジョンが最も正確に現われてくるのではないか。

 私の場合には、被拘束空間で監視されながら排泄した体験(概念集1の〈監獄〉参照)や、幻想性の余剰の処理と格闘してきた過程(概念集5の〈資料の位置〉参照)が、前記のような考えを誘う要因になってはいる。しかし、最も大きい要因は、実際に病室で見た看護婦さんたちの仕事ぶりであった。かの女たちは、病室の患者がベッドの枕元にあるナース・コールのボタンを押すと、昼夜を問わず直ちに来てくれて手際よく排泄処理をし、尿ビンや便器をトイレへ持っていって洗い、乾かして次の排泄に備える。かの女らが、このようにできるようになるまでの、あるハードルの越え方は何事かでありうる。それは、いくらか唐突ではあるが、私に闘争に参加した者たちが初めて角材を手にして機動隊に立ち向かう瞬間のハードルの越え方を想起させた。看護帽とへルメットの類似性も。このような連想や比較は、常識的には看護婦さんたちに失礼なのかも知れない。しかし、どうしても私は同質のハードルの越え方を感じてしまうのである。さらにつけ加えると、始めてへルメットをかぶり、角材(ないし鉄パイプや爆弾や銃)を手にした人々は、患者の排泄処理と同質の行為をしようとしていたのである。ただし、かれらは殆どそのことを意識してはいなかったと考えざるをえない。していれば、闘争と同時に、また後からであれ、至る所にある〈排泄〉の処理へ立ち向かう作業に取りかかっていたはずである。私自身が、やっと最近になって取り組む必要性を感じている遅れの責任からこういうのであるが…。

 なお、かりに病院が宇宙空間のステーションに設置されているとすれば、排泄物を水洗トイレで処理するとしても、ステーションの外へ廃棄せずに再利用のシステムを作るであろう。それと同様に、巨大な宇宙空間のステーションとしての地球の個々の生活の場においても再利用を考えるべきではないか。肥料その他さまざまの物質に変換するというだけではなく、〈汚いもの〉というイメージを解体して、生命のリズムを身体と自然を結ぶ環において再把握する素材になりうるから。そうなるためには、まず、家族や職業的看護のレベルを超えて、各人が自分や他者の生理的な、また幻想性としての排泄物の処理を対等に自主的に行う共同の関係を作りだし、訓練しておくことが不可欠である。この試みは、多くのテーマに思いがけない方向から照明を当て、応用の仕方を示していくであろう。

一 住居、都市の機能における排泄処理設備の重要性。

 最初に確認・設置する必要と方法。(全員の関わり方)

 対比的に、極限的な闘争の場面でのトイレの非存在が意味するもの。

 また、監獄の服役者は決められた時間にしかトイレへ行けず、懲罰で鎮静?用の袋に 首だけ出してミノ虫のように入れられた者は、この状態で何日も食事・排泄をせざる を得ない。全ての食事・排泄する人はこの事実に注目してほしい。

二 日常的な遊び、労働、性的行為の過程でも絶えず気になる排泄の問題。

 子どもがトイレに行きたいとトイレのない場所で泣き出した場合の対処の仕方。

 犬などの家畜・ペットを散歩させながら排泄させる時の飼い主の気持。

 浮浪者と呼ばれる人々にとっての公衆便所(と、そこに住みつく人々の位置)

 入院中の絶食・点滴と排泄への影響。植物人間の排泄における〈夢〉の成分の度合。

三 排泄は処理するだけのテーマか。

 各人が数時間ごとに処理を迫られつつも直接の対象化を放棄しているテーマの象徴。

 身体状況、都市状況、世界状況を判断する素材。

 武器としての逆用。(例―皇居前広場での反天皇闘争)

 芸術の領域での扱い方。(タブー性の越え方。)

 地球の生命の生誕に異星人の排泄物やゴミが関わっている可能性。

(前記の断片的メモは、排泄に関する直接討論のテーマの一部である。テーマを補充し、意見を提起しつつ討論に参加していただきたい。文書による通信での参加可能・歓迎)