遺体により感染症が蔓延する怖れは少ない

http://www.asyura2.com/0403/jisin11/msg/931.html

インド洋津波:「遺体で感染症まん延しない」 WHO(毎日新聞) ZUMA

 同事務局(WHO)の専門家によると、感染症の原因細菌やウイルスなどの病原体は、生きた人や動物の体内でよく増殖する。仮に風土病などに感染していても、死亡後は体温が急激に下がるため病原体の多くは死滅。遺体の血液などに直接触れない限り感染の恐れは小さく、感染症を広げる恐れは、非衛生的な環境に置かれた生存者の方がはるかに大きいという。

毎日新聞 2005年1月5日 18時40分

http://www.mainichi-msn.co.jp/today/news/20050106k0000m030022000c.html

日本と中国の間に人権・人道意識の差はあるのか!

http://nyt.trycomp.com:8080/modules/news/article.php?storyid=3562 電脳補完録  拉致問題解決まで

資料 : 日本と中国の間に人権・人道意識の差はあるのか!

投稿者 trycomp(野口孝行) 投稿日時 2005-1-21 21:32:14 (273 ヒット)

「日本の裁判所で難民ではないという認定が出たので、国内法にのっとって送還せざるを得ない」

「調査の結果、難民としての身分は確認できない。人道主義を掲げるなら当該国の国内法に則り合法的な方法と手段で実施すべきである」

驚くほどの酷似である。冒頭の二つの文を見比べた瞬間、私は言葉を失い自分の目を疑った。最初の声明は、昨日20日、UNHCRよりマンデート難民として認定されていたクルド人の強制送還に抗議を申し入れた福島社民党党首に対する南野法相のものだ(1月20日毎日新聞)。二番目は、昨年中国国内で北朝鮮難民を救援中に拘束された後、中国国内で裁判にかけられた私自身に下された判決の中の一部だ。この二つの見解は、日中両国の難民に対する姿勢を如実に表している。そして何よりも恐ろしいのは、日本が難民問題という普遍的人権の問題で、あの中国とぴったりと寄り添っているということだ。いつから日本は中国のような非人道国家に成り下がってしまったのか。それとも、日本が人権・人道に重きをおく国であるというのはまったくの幻想だったのか。

法廷という形

# mojimoji 『従軍慰安婦とされたおばあさんたちが、裁きぬきの補償にむしろ怒ったこと、それでも現実生活の過酷さゆえに補償を受け取らざるをえない人たちもいたこと、そうした人たちと受け取り拒否の人たちとの間に一時的な断裂が起こったこと、しかし一人一人の生の現実を踏まえてそれぞれの選択を尊重しようという空気の中で再び団結が深められたこと、そうしたことの経緯が、(確か2000年あたりの『世界』の特集の中に)記事としてまとめられていました。「基金がもたらしたもの」だか、そんな感じのタイトル。また調べたらお知らせしますが、一読をオススメします。/裁きが求められていたことを踏まえる限り、法廷という形に拘った理由は僕には納得のいくものです。その中身がどうであったかという議論はできるとしても、むしろ現実の法の権威を疑わしめるmのとして、法の密猟としてでも、僕としてはこの民衆法廷を支持する、と考えますね。』

「女性のためのアジア平和国民基金」の話ですね。この間なんだかどさくさまぎれにひっそりと「閉じた」というニュースがありましたね。慰安婦個人の困窮の問題。支援者側の思惑。自分の範囲から出ることを許そうとしない各国のナショナリズム。色々な問題がからみあって大変だろうな、と推測します。

2000年あたりの『世界』の論文ですか。市民図書館はこのごろ雑誌をすぐ捨てるからなあ。「思想」「世界」くらいは取っておいて欲しいが。入手できたら読んでみます。

「裁きが求められていたことを踏まえる限り、法廷という形に拘った理由は僕には納得のいくものです。」うーん。わたしの問題意識は、民主主義を自称しながら日本人は「わたしが裁く」という意識が皆無なのが奇妙。まず、ガダルカナルなどで死んでいった兵士の視点で裕仁を裁き直せ。それが出来ないのなら小さな市民運動であっても、<新しい主体>を立ち上げるべきだ。というもの(かな)。すぐに大衆の支持は絶対得られない主張です。

 したがってこのような国民的問題にはちゃんとした方が、VAWW-NETの側に立って論じまくってもらいたいと思いますね。

2月3月といえば、

非正社員・有期契約ではたらく殆どの労働者にとって、契約切り替え・契約更新・あるいは雇止め(契約終了)の時期を迎えます。

「アルバイト・派遣・パート関西労働組合」の友人から送ってきたパンフの冒頭にそうあった。わたしは幸い有期契約ではないが妻はそうなので他人事ではない。3日間労働相談ホットラインを行うとのこと。わたしは何もできないので、urlを書いておきます。

http://www.ahp-union.or.jp/ アルバイト・派遣・パート関西労働組合

釈放

農産高校の逮捕者は、9日釈放されたようです。

文部科学省、教育委員会は法的根拠のない「日の丸君が代の強制」に必死になっているわけですが、組織的つながりがない警察がなぜここまで協力的なのか。石原知事の方針にも副う「日の丸君が代の強制」を自ら積極的に推進したいとする警察官が警察組織内に現れたということでしょう。「上からのファシズム」ですね。・・・

愛国と正義

3/21のコメント欄より

# index_home 『swan_slabさん>「公共の福祉に完全に合致した生き方の強制」というと、個人的には少し違和感があるかもしれません。「公共の福祉」=「愛国」ですか?と。(基本的なお考えに反対するものではありません)』 (2005/03/23 14:31)

# swan_slab 『index_homeさん今日は

話が抽象的なのでイメージを喚起するためになるべく例をあげながら書きます。

イメージとしては「公益の増進」圧力=愛国です。

>公共の福祉

これは人権一般についての制約原理として通説である【一元的内在制約説】を前提とすると完全に違和感を感じると思います。また、「人に厳しく自分に甘い」ダブルスタンダードに対する皮肉を込めた言い方でした。そのような強制をするひとは概して自分の利益が公益のなのもとに侵害されそうになると大騒ぎする、という意味を少し込めています。

さて一元的内在制約説は、人権相互の衝突局面において調整原理として公共の福祉を想定します。とするとその強制はむしろ法律を制定してまで行うべきではないか(例えば刑法など)という疑問が生じるはずです。

これはよそのブログ(例えばdeadletterさん)の「ヘイトスピーチは存在するかhttp: //deadletter.hmc5.com/blog/archives/000098.html」の議論にも通低するのですが、内在的制約説の論理的前提にあらゆることをなしうる一般的自由があるとすれば、それはやはり不自然であろうと私は思っています。自然権(しかもロックのような自然権)として殺人の自由が想定されていたとはとても考えにくいからです。例えば殺人が否定されるのは人権相互の内在的な調整原理としてではないでしょう。

私がいわんとする公共の福祉とは人権相互の衝突を予定しなくとも想定される社会公共の利益です。例えば空港や基地、ダム、原発の建設であったり、最近話題のものでいえば放送法上の公共性といったものです。放送法上の公共性を一元的内在的制約説で説明できるひとがいれば手を挙げてほしい。恐らくムリです。調べると、そもそも内在、外在といったターム自体、その履歴をたどれば、戦前の憲法理念の一元的外在的制約説への批判からスタートしていることがわかります。私は例えば表現の自由なら、手続的正義そのものを社会公共の利益として保護する必要から、それを公共の福祉の名の下に、ある種の表現や自由は制限を受けざるをえないと考えています。昨年プライバシーの侵害を明確に認定されながら差止めができなかった理由も内在的制約説からは説明が難しい。

そして、無理やり人権相互の衝突をイメージするよりも、社会公共の利益(例えば公務員の労働権の制限は、議会制民主主義の要請)という独立の原理的制限があると考えたほうがより生活実感に近いのではないでしょうか。もちろんそれだけで公共の福祉を説明するものではありませんが。

しかし、政治の領域によって実定法化・執行され、またはされようとする個々の実質的正義(例えば景観条例・未成年者の選挙活動の制限などパターナリズム、ミーガン法的立法、道路交通法の厳罰化、特定の予算・助成金の増額、ダム建設)などを想起すれば、そのうちいくつかは自分の生活上の不安に答え、利益に合致するものでしょう。これらは単純化すれば多数派の利益にこたえるものです。

私のいう「公共の福祉」はそのときどきのマジョリティの利益が含まれるという見方なんです(大型建設公共事業はその典型)。もし内在的制約でダム空港基地建設(究極的には戦争)のベネフィットを押し通せば、内在的制約説は人権侵害を隠蔽する機能を果たすに過ぎなくなる危険性をはらみます。

それでも「公共の福祉に合致した生き方の強制」に違和感を感じたとすれば、「多数派の決定に絶対従えという圧力」でもかまいません。問題にしているのは、マイノリティに対する想像力です。』 (2005/03/23 22:42)

# swan_slab 『>日本思想史において、求心的なものを求めると天皇主義しかないのか

>日本は変だと思う。戦後の日本はこの「日本人がアジア人である」という事実を隠蔽、忘却していると言いうるのであって、非常に変だと思う。

おおやさん>野原さん

もし、日本が政治的・文化的に多元的社会を目指すのであれば、求心的なものを求める必要はないし、権力バランスに細心の注意を払っていればいい楽な社会になると思います。例えば、施工会社が環境影響調査も請け負うとか、経営者ばかりが経営を監督し外部取締役の権限が弱いといったこともなくなるかもしれません。

左翼思想はなにかと同化を迫るものでしたから、みんな同じ方向を向いている限り盛り上がったんでしょう。学生であれば運動(スポーツじゃなくて)のあとフォークにつどうということができた。でも、高度経済成長のおわりごろから社会は流動性を増し、価値観も多様化した。読んでいる本もテレビも趣味もみんなばらばらになってきた。子供たちは学校以外に居心地のいい居場所をみつけるようになりあえて学校に反抗しなくとも済むようになった(尾崎豊かはいまや嘲笑すらされている/swan_slab050104参照)。

日本がアジア人であることを忘却するようになったとすればなぜだろう。

う~ん。

お互いにヘンな奴らと言い合うこと自体は、むしろ健全な方向に近づいているのかもしれません。

おおやさんのあれは論争が長すぎてついていけませんでした。

ただ田島先生の突っ込みがもっとも的を得た批判と感じました。』 (2005/03/23 23:15)

# index_home 『swan_slabさん>お考えはよくわかりました。丁寧にご説明いただきありがとうございます。いまさらですが「愛国心」「公共の福祉」についての自分のコメントに関する簡単な補足と、ちょっとだけ独言めいたものも書いております。http: //d.hatena.ne.jp/index_home/20050323#p4』 (2005/03/24 00:10)

# swan_slab 『>私達の認識や判断を左右する「実質的正義」とそれに結びついた「モラル」のあり方や性質については、ジョージ・レイコフ「比喩によるモラルと政治」が参考になると思います、この本はアメリカを例に大きく二つに分かれる「モラル」(この本では「保守」と「リベラル」)が人々認識や判断を左右し、互いに無理解か論じています。もちろんどちらかのモラルが正しいとは決して断言できないと私は思います。>

レイコフの議論はちょっとよくわからないのですが、

近代法治主義または法の支配のシステムを前提として議論していきますと、恐らく

政治の領域における「実質的正義」≒モラル(例えば携帯電話のマナーとか価値観)等と

法の領域における実質的正義=自由、平等、民主主義

の二つが観念できるのではないかと思います。

法的安定性を重視する目的から、後者の正義は法=seinの領域に埋め込むのが望ましいということがいえると思います。それらの正義は誰にとっても重要なものであるから時の多数派によってひっくり返されるべきではないからです。

仮に愛国心なる観念がありうるとしても、近代国家を成り立たせるために根本的に重要な普遍的正義なのかどうか。そんなふうに考えてしまいますね。』 (2005/03/24 00:28)

「あたりまえ」が支配する帝国

 国民だれもが納得する(すべき)理念において、愛国心が要請されるというのはフランスやUSAなど多くの国においてあることです。一方愛国心の名の下に権力者への一方的かつ全面的な強制が行われることもある。わたしたちの近い過去を、そのような全体主義だったとみなすかどうか、が論者の立場の違いになる(のでしょう)。

 さて、「日の丸君が代に格段の理念は存在しない」、という当局の見解を批判したいわけです。*1理念の不在をどう批判したらいいか?

 からくににして道という物も、其の旨をきはむれば、ただ人の国をうばはむがためと、人に奪はるまじきかまへとの、二つにすぎずなもある。……もとよりしかきたなき心もて作りて、人をあざむく道なるけにや、後の人も、うはべこそたふとみしたがひがおにもてなすめれど、まことには一人も守りつとむる人なければ、国のたすけとなることもなく、其の名のみひろごりて、つひに世におこなわるることなくて、聖人の道は、ただいたづらに、人をそしる世々の儒者どものさへづりぐさとぞなれりける。……

 道というのは儒教の基本理念です。宣長は儒教の理念を批判し別の理念を建てるのではなく、理念という物それ自体を否定してしまうきらいがあります。道とか偉そうに言っているが要は「他国を奪う」「自国を防衛する」に帰着すると。醜悪な心を以て作った欺瞞的な「道」にすぎない、と。

 かくてその聖人どものしわざにならひて、後々の人どもも、よろずのことを、己が智(さとり)もておしはかりごとするぞ、彼の国のくせなる。……

されど物のことわりといふものは、すべてそこひもなくあやしき物にて、さらに人の心もてうかがひはかるべき物にはあらねば、しひてあきらめしらんともせず、よろづの事はただ神の御はからひにうちまかせて、おのがさかしらを露まじへぬぞ、神の御国のこころばへには有りける。

人智を以て世界を規定してしまうという発想自体がいけないのだ、と。すべて、神のはからいにまかせるべきだと。

故(かれ)皇国の古へは、さるこちた(言痛)き教も何もなりしかど、下が下までみだるることなく、天の下は穏(おだひ)に治まりて、天津日嗣いや遠長に伝はり来坐り。さればかの異国の名にならひていはば、是れぞ上もなき優れたる大き道にして、実(まこと)は道あるが故に道てふ言なく、道てふことなけれど、道ありしなりけり。そをことごとしくいひあぐると、然らぬとのけじめを思へ。言(こと)挙げせずとは、あだし(異)国のごと、こちたく言ひたつることなきを云ふなり。*2

 しかし、「道」を否定する言説というものもよく考えると矛盾に満ちており自立できるのかどうか危ういところがある。つまり宣長は明らかに、他国(からくに)と自国を対比的に取り上げ、他を否定し自を肯定するために理屈をこねている。その理屈というのが、他国には「道、さかしら、言説」があり、自国においてはそんなものがなくともちゃんと治まっていた、というもの、であるわけである。しかし、宣長のそれもさかしらであり言説であることは宣長以外には明らかである。

 現在のプチウヨも執拗に「アサヒ、サヨク」を否定する。否定ではなく素直に自己の理念を語るべきだろう。

日本的政治の根本は神勅によって万世一系の天皇が統治することに存する。而してこれは宣長によれば、単なる理念ではなく、歴史的に実証されたる、また日々実証されつつある事実である。(丸山真男の宣長論の一部より)

http://www2s.biglobe.ne.jp/~MARUYAMA/tokugawa/norinaga.htm

 理念の代わりにあるものが、「万世一系の天皇」という事実である。1945年の敗戦においてヒロヒト氏が退位しなかったこと、そのことは万世一系という理念にあらざる理念を現在まで延命させている。

 わたしは日本人である*3。日本人である限り、日本の伝統を負っているそのことに誇りを持つべきだ、という人がいる。わたしはその断言に半分は賛成である。ディズニーランドなんぞでちゃらちゃらせずに宣長を読みたまえ? ただ「日本人である」ことの自明性から、国家国旗を肯定し、愛国心を肯定し、などなどという自同的論理の連鎖。これは実は、宣長に起源する特殊な言説のあり方である、といいうる。

*1:もちろんこれは今だけの言表であり、教育基本法改悪が通れば、「愛国心」の注入が大々的に行われるのでしょうが、それはそれで別の問題です。

*2:以上宣長からの引用は、子安宣邦『「宣長問題」とは何か』isbn:4480086145 のp61-66からの孫引き。だいたい「直毘霊(なおびのたま)」

*3:というのが本当かどうか?わたしは本当は日本生まれの韓国朝鮮人か中国人だがカムアウトしてないだけかもしれない、顔を知っている人でも区別はつかない

卒業式への警察出動記録

今春の都立高校卒業式における警察の出動記録

「日の丸・君が代」強制に反対する市民運動ネットワークからのメールより。

◆卒業式に関わる「110番処理簿」について一覧表

日付 区市 入電事案名 処理事案名

1/24 世田谷 その他の苦情 その他の苦情

2/2 目黒 連絡 警備情報

2/14 目黒 交通連絡 連絡

2/14 世田谷 その他の苦情 その他の苦情

2/16 杉並 交通違反 交通違反

2/17 荒川 交通違反 交通違反

2/18 板橋 その他の苦情 連絡

2/22 荒川 連絡 警備情報

2/24 江戸川 連絡 警備情報

3/2 渋谷 その他の苦情 その他の苦情

3/2 渋谷 ※上記の続報

3/2 渋谷 ※上記の続報

3/2 世田谷 その他の特別法 その他の特別法

3/3 足立 連絡 公然わいせつ

3/4 町田 応援要請 住居侵入

3/4 江戸川 警備情報 警備情報

3/5 江戸川 その他の特別法 その他の特別法

3/8 葛飾 連絡 住居侵入

3/8 葛飾 ※上記の続報

3/10 文京 連絡 警備情報

3/10 文京 連絡 警備情報

3/11 東久留米 連絡 警備情報

3/11 渋谷米 連絡 警備情報

http://tokyo.cool.ne.jp/kunitachi/kyouiku/05keibi.pdf

小骨と「自己価値化」

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050530#p1 で、

内田樹の断片的文章を引用し、自分に引きつけて「小骨系ブログ宣言」までしてしまった。

自分で<小骨>を書こうと思って書けるものではない。自分でコントロール出きるものは<小骨>ではないからである。自分が書いた文章でも、自分の意図以外の<何か>があるような気がして、それが気になって考え続けなければならなくなる。これがわたしの言う<小骨派>の文章である。しかし、一定程度のレベル以上の文章でないとそんなことを言っても無意味のような気も(自爆!)

 ところで、実はわたしは内田氏のファンというわけではない。引用した文章においても実は受け取り方の違いはあるわけで、内田氏は「小骨」を(最後には)溶解すべき物と捉えているのに対し、わたしにはそういう意識はないのだ。私にとっては自己否定あるいは(他者と相互の)自己変容が問題なのであって<小骨>はむしろその契機として歓迎されるべきものであり、溶解の対象ではない。

以上書いたのは、araikenさん(「祭りの戦士」)の次の文章、内田批判を読んだからでもあります。

http://araiken.exblog.jp/m2005-04-01/#1841994

   希望格差社会

http://araiken.exblog.jp/m2005-04-01/#1893425

   センセーそれはあんまりじゃございませんか………その1~その4

http://araiken.exblog.jp/m2005-05-01/#1958702

   センセー、やっぱり違うと思います! その1~その3

わたしはaraikenさんの批判に全面的に同感してしまった。

内田先生の文章を読んでいないのだが。

話は山田昌弘氏『希望格差社会』を内田氏は評価することへの異和感から始まる。

 それにしても、「過大な期待を諦めさせる」なんて言い方で教育について語る山田、内田、両氏のポジションはもう明らかに高みから若者を見下ろしたそれであり、人をコマのように配置する社会政策を云々するエリートの政治的な視点であることは確かだ。

http://araiken.exblog.jp/m2005-04-01/#1841994

それに対し、araikenさんが提示するのは「自らの存在の価値や意味を自分自身で創り出し」ていくことだ。

 「競争を降りる」ということは、そのような競争原理内の「優劣」や「序列」に基づき、他者との比較によって自分の価値を推し量ろうとする一切の手続きとオサラバすること………まったく一面的で、おそらくは資本の生産性の増大に好都合なように人間を管理し、最大の労働力を発揮させるためにつくられた、業績主義的な優劣だけによって人間の価値を判断するシステムから身を引き剥がすことだ。

 このような身の引き剥がしはシステムの外部への視線なしには敢行され得ない。つまり外部の異質なものに対する親和性が同時的に発生しているはずである。しかし内田氏らの言葉にはそのような親和性は見当たらず、あったのはむしろ異質なものへの排除の視線でしかない。

 私たちはシステムから身を引き剥がした瞬間に、多様な形の「夢」や「欲望」が様々なベクトルをもって疾走し、交錯し、渦を巻いている空間の中に放り出されるだろう。そこには他者となんらかの比較をすることを可能にする基準もなく、物差しもないからだ。それゆえ私たちは自らの存在の価値や意味を自分自身で創り出し、発見してゆかなければならない。それが「自己価値化」そして「自己肯定」という言葉の正体なのだ。

http://araiken.exblog.jp/m2005-05-01/#1911363