金時鐘のことば(在日朝鮮語)をめぐって座談と討論
金時鐘・松原新一・細見和之・倉橋健一
11月7日(日曜)
午後1時から開場
場所 在日韓国基督教会館(KCC)
大阪市生野区中川西2丁目6-10
電話 06-6731-6801
地下鉄千日前線今里 2番出口を出て今里筋を南へ、近鉄線高架をくぐって徒歩7分。
会費 千円
金時鐘のことば(在日朝鮮語)をめぐって座談と討論
金時鐘・松原新一・細見和之・倉橋健一
11月7日(日曜)
午後1時から開場
場所 在日韓国基督教会館(KCC)
大阪市生野区中川西2丁目6-10
電話 06-6731-6801
地下鉄千日前線今里 2番出口を出て今里筋を南へ、近鉄線高架をくぐって徒歩7分。
会費 千円
http://www.jca.apc.org/stopUSwar/Iraq/iraq_body_count.htm#dialy
イラク戦争被害の記録 から少し引用する。
わたしたちはなぜファルージャの惨劇に気付かないのか。それはアメリカ当局によるプロパガンダが成功しているからである。
街角に放置されたおびただしい死骸の画像があっても、誰も視なければ効果はない。
○ プロパガンダ
米軍の作戦は巧妙を極めた。イスラム・オンラインの論説「米はどのようにして戦争を遂行したか」において、それは3段階にわたって遂行されたと言う。
--第1段階は、メディアによるデマ・でっち上げプロパガンダである。「ファルージャは外国勢力の巣窟」「ザルカウィ」「得体の知れないテロリストの拠点」「ここを叩き潰せば治安は回復する」等々。
--第2段階は、「市内から住民はいなくなった」「ファルージャは空になった」というイラク中・世界中に流されたこれもメディアの大宣伝である。そして、市内にはまるで極悪非道の「武装勢力」「テロリスト」しか残っていない虚構を作り上げた。
--そして総仕上げとして第3段階で「皆殺し」を開始したのである。
※「Crimes in Iraq How America Wages War in Iraq」By Firas Al-Atraqchi Freelance Columnist http://www.islamonline.net/english/In_Depth/Iraq_Aftermath/2004/11/article_07.shtml
確かに米軍は事前に市内から住民に対してある程度の避難の猶予を与えた。ザルカウィと外国人勢力の多くは攻撃前にファルージャを脱出したと言われている。
○ 目的
現地に根付いていない外国人武装勢力などどうでもよかった。米軍にとっては、ファルージャ住民が最初からの標的であり、彼らの抵抗姿勢を打ち砕くこと、それでも逆らえば皆殺しにし大量殺戮することが目的だったのだ。来年1月の議会選挙に参加しない者達、米軍とイラク暫定政府に屈服し服従しない者達、独自の地域支配を続けるスンニ派の地域武装勢力--そしてこれらの「反乱分子」の最大の拠点、「抵抗の象徴」になっているファルージャ、その都市ごと、住民ごと、丸ごとを、武力によって粉砕・殲滅し、ファルージャが再び立ち上がることができないようにすること、そのために核心としての地元の武装抵抗を抹殺することが目的であった。
すなわち一つの都市が持つ一つの意思を打ち砕くことが目的である。デモクラシーの破壊である。ファルージャが破壊されなければならなかった理由は、この一点にある(かもしれない)。市民の一般意志が公正に形成されたときそれは「自警団」を含む「反占領」「反米」になる。そのことは占領に「民主主義」という衣装を偽りであってもまとわせたい(そうすることしかできない)当局にとって、自らの矛盾を明証してしまう事実だった。したがってそれはあってはならない、消滅させられた。
こうした戦略はイスラエルのパレスチナに対する戦略から大きな影響を受けている(ようだ)。しかしながらそれは前にも書いたように大きな無理がある。(http://d.hatena.ne.jp/noharra/20031125#p2)
イスラエルはパレスチナ人を予め狭い地域に閉じこめた上で、戦略を展開している、のに対し、イラクの広範な国土はまだイラク人のものでありそれをどうにかできる目処はたっていない。虐殺によって数千万イラク人の意思を砕くことができるのか?南京大虐殺はそれとは逆の歴史を示す。
○死臭
恐怖の臭気がいまだに漂っている。私たちはそれが何か、よく理解している。それは死体からの臭いである。すでに埋葬されたが、臭いが消え去ることはない。長期間にわたって私たちとともにあったその臭い。
id:noharra:20041220 を、サミズダットさんにリンクしてもらったので、200人以上の人が来てくれた。感謝。
鏡は半島にいつもあるんだよー!
そのとおり。(でもわたしも朝鮮半島のことはほとんど知らないなあ。)
ところで彼女の文章はすごいよ!!
会が終了した瞬間、不思議にも私の耳に吹き入れられた声はYes,sharing is very important.である。生暖かい風が私の意識に吹き入れられ、彼女の腕が私を抱きかかえた。最前列で号泣している私を案じてサファイアは私の質問に念を押して答えにきたのだ。自分のことを語ること、その体験を他者と共有することは必須であると。
何に。
人がひとりで、そして集団で、生きるために。
「御免なさい、女王様。御免なさい」
「謝っても駄目さ。お前は堕地獄だよほらほら」
私は天井を見た。ロウソクだけがともる暗い部屋で、私は泣いた。彼は誰かに聞いて欲しいこの物語を身体に持ち運んで生きている。御免なさいなんていうべきではない。済まないことなど何も無いのだ。そこまで出てくる言葉をのむ。悪いことなんて何も無いんだ。涙が止まらない。それを言ってはいけないという不可解なコミュニケーションだ。私は足を動かし続ける。ヒールを彼の直腸にめりこませる。彼はうめきつづける。射精はさせない。
後の引用はSMシーンである。わたしのように鈍感なものは、彼女の文章を読んで初めてSMの何かが少し分かったような気がする。
“sharing is very important.”というのはわたしの最大の弱点。
彼女の健康と幸せを祈る。
註:サミズダットとは「旧ソ連下の地下非合法出版物の総称」だそうなので、彼女のなまえじゃないです。おかしいと思ったら言ってください。
おとなり日記より
http://d.hatena.ne.jp/genonocide/20050119#p2
緊急!】クルド人二名強制送還される!
入管に収容されたクルド人家族の2名が18日?の14時25分成田発のトルコ航空機で強制送還されました。
--foursueさんとのやりとり(前史)
(1)
# foursue 『わざと難しく書く事によって自己満足しているように見受けられます。』
(2)
# noharra 『「太平洋戦争は歴史的に見れば白人に対する黄色人種の戦いであったとも見れる。」だとすれば、日本人が中国人などを黄色人種の同志として敬意を持って扱ったのかどうかが論点になります。残念ながら事実はそうではなかった。』
# foursue 『どういうふうに受け取られたのか知りませんが、残念ながらそういった論点にはなりません。』(同上)
なぜ「そういった論点にはな」らないのか、答えてください。(2/5 19時)
(その後文章を一部変更。)
について考えてみよう。
女性のためのアジア平和国民基金(アジア女性基金)
アジア女性基金は1995年、政府の決定により設立されました。「慰安婦」とされた方々への道義的な責任を痛感した日本政府が、国民と協力して、償い事業など以下の各事業を行うために発足させたものです。
基金はまた、「慰安婦」問題に関する歴史資料の収集と編集、公刊に力を尽くし、募金活動の中でも「慰安婦」問題についての認識と理解を社会に広める活動を行ってまいりました。募金活動へのみなさまの積極的な参加もあり、「慰安婦」問題についての認識と理解を高めることに寄与することができたと考えております。
「慰安婦」問題についての認識と理解は日本社会に広まったか。この十年間で慰安婦たちも皇軍兵士たちもその多くの部分が亡くなった、残っているのは1割くらいかもしれない。そうした絶対的忘却に加えて、id:noharra:20050205#p1 で引用した星野氏の文章にもあるように、「戦時中に日本が朝鮮や中国に対して行った行為についても、なかったことと見なす人が増えている。」ナルシスティックな歴史歪曲だ。慰安婦のことを自分が知らないという初期条件を無視して、NHK問題を語りうるとする鈍感さが当たり前のものとされている。NHK問題という論争的言説の根拠にはそうした倒錯があるように感じられた。そこで、慰安婦の証言をコピペしてみたわけである。id:noharra:11001201 に再掲してみた。
慰安婦の請求が法的に認められるべきかどうかという議論にはわたしは興味はそんなにはなかった。その前段階での、慰安婦の声を聞くこと、顔を見ることが大事だと思った。
「慰安婦」問題についての認識と理解を社会に広めることは、国家に準ずる団体である平和国民基金の趣旨である。したがってわたしのコピペもその方向にそったものである。ところが、下記を読むと慰安婦が強制的に送り出されたものなのかをめぐって、2003年まで長い間議論になったなんて書いてある。まあそれでは「慰安婦」制度の根本を押さえずに創った制度として、慰安婦本人たちに忌避されても当然だろう。「責任を痛感した」といくら言っても本人たちに忌避されざるをえないような向き合い方では謝罪にはならない。償いとは何かよく分からない。金をやっときゃあ良いだろうという金持ちの傲慢さと受け取られる。
id:noharra:20050211#p5 でも書いた戦争責任をどう取るかという根本が確立できず、謝罪を形にしなければならないときに答えを出そうとすると常に右よりのナルシズムによって答えの形成が妨げられてきた長い長い戦後があったわけである。「答えの形成が妨げられてきた長い長い戦後」とは右翼も言いそうなフレーズではあるのだが、でも60年の歴史を省みてみれば妨げていたのは体制派の方だ。反省の代わりに憲法9条=平和主義を全面に押し出す形で、答えの形成を先送りしたまま今まで来た。
京都大学の一部が不法占拠されているらしい。
http://diary5.cgiboy.com/0/jagr/index.cgi?y=2005&m=2#9 2005,2,1
京大の百万遍の石垣に、やぐらが立っているのだ。
(略)
うん。確かにダサいのは否定できない。いまどきヤグラなんて・・・・と思う人もいるだろう。「次世代メディアヤグラ」とか書いた垂れ幕も、正直かなり「馬鹿やん」と思ってしまう。けども、それでも、ああいった空間を作り出すことに意義があるのだ。
次世代メディア「やぐら」、は笑ってしまった。わたしたちもじつは京大の一部を不法占拠~開放していた*1ことがあった気がする!(参考:http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/a367.html)
とにかく国民の大学ですから市民に開放されるべきです。どのような回路とヴィジョンが有効かは問われます。当局と言われるものが、開放への問いに自らをさらしているのかが最大の問題。
もうなくなっているのかな?
*1:教養部A367教室
# spanglemaker 『難しくありません。教育内容に強制力を行使できないならどうやって教育の質や平等を保証するんですか?』
# swan_slab 『>教育の質や平等を保証
その要請はどこから導かれるものでしょうか。』
# spanglemaker 『憲法第26条です。』
swan_slab 『憲法26条の「教育を受ける権利」の中身の理解として、教育”内容”面の保障を含むかについては争いがあります。私は含むと考えます。結論としては
> 国家の強制によって教育を良くすることができる
場合がありうると考えています。
その端的な理由は、かつてフランスにおいてジュール・フェリーが公教育の無償化・義務化を訴えたのとほぼ同じ理屈です。共和主義のイデオロギーを日本国憲法の理念に置き換え、民主主義を加えて強調すれば、だいたい国家の教育権的要素は肯定的に評価できると思います。すなわち等しく公民的能力を確保する国民全体の利益がありうる。
しかし、それは憲法26条の一解釈です。それに尽きるものとも考えることはできません。
spanglemakerさんはいかがお考えでしょうか。』(2005/03/19 21:42)
spanglemaker 『>>国家の強制によって教育を良くすることができる
あり得ますね。公教育では、国家が教育内容にまで強制力を行使できてはじめて、児童が平等に教育を受ける権利が保証されると言えましょう。なお、強制を受けるのは児童ではなくあくまで教師です。彼らは公務員なのだから当然です。
教育は国民の共同事業です。使えるものは何でも使うべきです。国家権力は使わない、というのは合理的ではありません。教育の最低限の質と平等を保証し得る最も確実な方法は国家権力を使うことです。
>>それは憲法26条の一解釈です。それに尽きるものとも考えることはできません。
何事も疑ってかかることは大事でしょうけれど、「教育の平等を保証しなくてよい」という解釈は珍説だと思います。主観ですけど。』(2005/03/20 21:13)
swan_slab 『”平等”とは何かについても争いがあるのですが、いかなる状態を平等とお考えでしょうか。』(2005/03/20 21:58)
spanglemaker 『「平等」とは何か、という問題と国家は権利を平等に保証すべし、という問題は別の問題です。』(2005/03/20 22:13)
swan_slab 『>国家は”権利”を平等に保証すべし
という命題はどこから導かれますか。』(2005/03/20 22:33)
swan_slab 『>教育の最低限の質と平等
というのは具体的にどういう質が目指されるべきで、平等とはその質の平等も含むのでしょうか。ということです。』(2005/03/20 22:56)
spanglemaker 『>>という命題はどこから導かれますか。
日本国憲法です。
>>というのは具体的にどういう質が目指されるべきで、平等とはその質の平等も含むのでしょうか。ということです。
質とは何か、平等とは何かという問題と「教育の質と平等を国家は保証すべし」という問題は別の問題です。論点そらしにはつきあいません。』(2005/03/21 19:53)
swan_slab 『>日本国憲法です。
つまり、spanglemakerさんご自身の憲法規範の解釈をお聞きしているわけなんですが。』(2005/03/21 20:40)
(野原燐)
教育とは(少なくとも小学校の教育)とは、ちっぽけな子どもたち一人一人が主人公である。上の文章には全然書きませんでしたが、わたしの子どもを送り出してくれた卒業式には、(君が代日の丸はあったが)その基本線がしっかり貫かれており、良かったと思います。
一片の法律や通達で教育を良くすることなど出来るはずがなく、現場の先生たちが生徒とともに試行錯誤するのを、父母も協力するなかでおおらかに見守っていく方が良いと思います。実際、テレビでは、法律や規則などを逸脱気味の「ごくせん」や「金八先生」などの(ちょっと時代遅れかなみたいなテイストの)ドラマが大人気です。
国家の強制によって教育を良くすることができる、ということはないでしょう。
2 法律に定める学校の教員は、全体の奉仕者であって、自己の使命を自覚し、その職責の遂行に努めなければならない。このためには、教員の身分は、尊重され、その待遇の適正が、期せられなければならない。
(教育基本法第6条2)
公立私立を問わず非常勤講師などの不安定雇用の比重が増えています。非常勤講師の時間当たり労働単価は正規職員の1/4位のこともめずらしくありません。その待遇の適正にも配意していただきたいものです。
教育長の言っていたことで気になったのは、
「内心の自由というのはいつでもあるのですから」という発言。
そりゃ「人を殺せと命じられてそれに従っても、内心には嫌だと思う自由がある」という事態はあるでしょう。
憲法19条「思想および良心の自由は、これを侵してはならない。」というのは、そういう「自由」を擁護しているのか?
日本という国は、島国でほぼ単一民族、無宗教と無個性が特色の国であるわけです。
全く間違ったことを偉そうに書かないでください。
中世までの日本は、おおざっぱにいって神仏混淆的な宗教風土に生きていました。日本史で大きく取り上げられる鎌倉新仏教は、西欧のプロテスタンティズムに近いとも評価できるほど個人として宗教的実存を深めていきました。
江戸時代にも仏教や神道は衰退したわけではありません。
明治後期、教育勅語体制によりさまざまな宗教を国家神道的なものに統合して行こうとする試みは、昭和の総力戦期に一旦成功したと言えます。
そのことが、保守が何年も政権を担当し続けたり、天皇家が1400年の歴史を持ってたりするのに繋がっているといえますね。つまりこれは、日本人が本来愛すべき日本の国民性で、この価値観を基準として考えることが重要だとおもいます。
天皇家の1400年の存在を、「単一民族、無宗教と無個性が特色の国」なんて元ネタは誰か知らないが全くの誤謬と結びつけて、連続性、同一性だけを強調しようとする理解は誤りです
君が代の強制は、メチルアルコールのような人工的な質の悪い宗教性の強制であり、無神論者である私には耐え難いものです。