潮もかなひぬ

熟田津(にきたつ)に船(ふな)乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出(い)でな(万1-8)

額田王の歌である。宇宙のリズムとシンクロしたゆったりとした潮のうねりをそのまま表出したような雄大な名歌である。

で、何が言いたいのかというと、小泉某の「この国を想う」とやらいうコピーの悪口である。戦後保守が切望し続けてきた「自衛隊海外派兵」「憲法改正」を小泉某は手に入れようとしている。だけども、鬼畜米英のポチになることによって、それを手に入れても日本の魂は喜ぶまい。ほめ歌によってわたしたちの国を護ってくれた額田王もきょとんとしていよう。*1

*1:さてネットには、額田王同盟なるものが存在する(今知ったばかりなので内容はわからない。)http://www7.plala.or.jp/kusurigari/ 額田王が現在メジャーになった背景にはマンガ『天上の虹』がある。里中満智子によって彼女は九〇年代のフェミニスト右派のアイドルとなったのだ。

丁玲を読んだきっかけ

 残念なことに今年の4月に中帰連*1の山口光夫さんが亡くなった。彼のことはまた機会があったら書きたい。戦前の満州には多様な国籍を持つまた思想的にも右も左も色々な立場の人が混じり合って(大日本帝国による間接的支配は有りつつも)住んでいたといわれます。ただそうした満州が可能性として持っていた自由の雰囲気を実感するのは難しい。山口さんはそうした空気を吸って、そして自由であろうとすることによりひどい目に会うことがわかっていてなお行為するという決断を生涯に何度か行われた方でした。彼の年譜の1行にこうあります。

1941年夏。(17歳)南満中学堂の王維九と知り合い、自分の生き方に疑問を持ち、中国人女流作家 丁玲女史の作品を紹介され、人生観が急変する。

そのとき丁玲という名前をぼんやり覚えていたせいか、古本屋で「霞村にいた時」岩波文庫を見たとき買ってみました。(だが買っただけでまだ読めませんでした。)

  次ぎに丁玲という人名に出会ったのは、なんと『世界の名著・毛沢東』p483においてでした。毛沢東が1942年延安の文芸座談会でおこなった講演は「文芸講話」として活字化されています。延安(及び辺区)で活動していた文学者の表現がもっぱら現実の暗黒面だけを暴露したものになっていることをきびしく批判しました。「多くの小ブルジョア作家は、まったく光明をみいだすことができなかったことから、その作品は「暴露文学」と呼ばれる、暗黒を暴露しただけのものとなりました。」註によれば、王実昧、羅烽らとともに、丁玲の短評「3.8節感想」および短編「医院にて」がその代表とされた、ということだ。「人民大衆の革命闘争はかならずこれをほめたたえなければなりません」と毛沢東は言うがわたしは全く反対だ。「敵を憎め」と毛沢東はいうが、誰が敵で誰がそうでないかは必ずしもはっきりしていない。それは小説・桑乾河では「富農」や改革派富農というカテゴリーとして表現される。富農はしばしば地主よりも多くの土地を持つ。しかし彼らは毎日長時間働くことによりその財産を築いてきたのだ。しかも貧農たちと同じ出自からくる友情を失わない場合、彼らは財産家であっても、「敵」カテゴリーの例外とみなされることがある。曖昧な処理である。しかしこの曖昧さを嫌い、貧農の心情を普遍化するとポルポト主義になる。敵を憎むためには、やはり<<自己を自己たらしめるために闘い続ける>>ことが必要であるだろう。というわけで毛沢東には不満を持ったので、丁玲をそのライバルに見立てて読んでみようと思った訳でした。

 そして7編からなる短編集『霞村にいた時』を読んでみると、けっこう面白かった。そこで図書館で見ると、『太陽は桑乾河を照らす』上・下があったのでまず、上を借りてみた。という経過で、桑乾河に至ったのでした。以上出てきた三人の人物の生没年をまとめます。

 毛沢東  1893-1976

 丁玲   1904-1986

 山口光夫 1924-2004

(2)平等という前提(10/20追記)

次の通りコメントが来た。

# hiyori13 『ほほう。そんな低級な議論で納得するわけね。で、おたずねしますが、その「フィクション」とやらはみんながフィクションであることを納得しているのでしょうか? もしそうなら、それがまちがっていることを指摘してもだれも文句はないはずですね。そしてもし多くの人がそれがフィクションだと知らずに本気で信じているのであれば、それは要するに、あなたがたは知的エリートとしてそれがフィクションであることを知っているけれど、愚昧な大衆をコントロールすべくかれらにウソを教え込んでいる、ということですね。そのウソをばらすな、と。そういう欺瞞はかまわないとするわけですか。』

 hirori13さんの問題設定にそって答えられないがちょっと考えてみた。

「女の政治家や重役が少ない等」ということが「性別役割イデオロギーのせいであり」それが「不合理である」から是正されるべきだ、と言っているのです。政治家は市民の代表であり、男女が異質なものであるなら、代表を半分ずつ出すことにしても別に不合理ではない。政治家に必要な資質というものと特定の遺伝子の組み合わせが強い相関関係があるなどという主張をビンカーさんはしているのでしょうか?

さて、「フィクション」というのはわたしの言葉ではないので説明しにくいのですが、要は私たちの社会は「一人ひとりが平等であり平等な生きる権利を持つ」という前提を社会的に受け入れている、ということでしょう。いわゆる知能の差異は(たぶん)あるでしょう。だが知能の差異を量る公的手段があるわけでもなく、学問的に公正な方法があるわけでもありません。先天的な差異を強調することにより結論として何を得たいのか。その論理にはたぶんごまかしがある。

「一人ひとりの能力に差がある」から「平等」というフィクションを守るために無駄なコストを費やすのは馬鹿げているとお考えでしょうか。私としてはそれぞれの人が「平等な生きる権利を持つ」という結論は譲れない、と考えています。この点については、立岩真也氏が丁寧な議論を展開していますね。

撤兵はいつも困難だ

id:noharra:20041030に二人の方からコメントをいただきレスが遅れています。

homoinsipiensさん、レスが遅れすみません。

jinjinjin5さんへのレスを書きかけましたが、長くなってしまい、対話としては適切ではない部分が多くなってしまいました。国家の大事には違いないが、私にとってはパスしようと思えばできる問題なわけですから、熱狂的に語るのも少しおかしいしと、ぐちぐち考えてもよく分かりません・・・

# jinjinjin5 『>「テロリストの要求によって」ではない。「テロリストの要求を契機にして」もう一度国策を考え直せ!と言っているのだ。

正式な民主主義的手続きを経ずに突発的に撤退しろいう方々に述べただけです。あなたがそれに該当するかどうかは存じません。例えテロリストの要求を呑んだのではないにせよ、テロリストの要求を契機にして民主主義の手続きを無視する動きが現れその圧力がまかり通ったら結局本質的に同じだと思うんですがどうでしょう? というよりどう違うのか教えてください。

>であれば、小泉氏は~の問題などをきちんと国民に説明する義務があるがそれは果たされていない。

それはそうでしょうね。同感ですよ。ただ私が言及した方々はそれ以前の問題ですので論外だと言っただけなんですが。今回の日記からは意図的にそういった言及を避けて、それ以前のレベルに終始している論調の危うさを強調したつもりです。ですから「『多くの』ブログは」と注意書きしたんですが。』

# jinjinjin5 『イラク派遣に正義はないと思います。しかし米英と決別してなお国際的孤立を避けるならば(現有戦力では単独で防衛できないと思いますので)EU側と強調する他ありません。しかし平和主義を名乗る方々は全ての軍事同盟を否定されていることが多く、EUにも戦争の可能性がある程度残されている以上、世に謳われている平和主義は非現実的且つ国際的孤立の道に他ならないと考えています。具体策があるならともかく全くビジョンも見えない日本の平和主義に自分の家族の命を賭け金に積むのは耐えられないというのが昨今の情勢に対する率直な思いです。ベストが見えない以上ベターを選ぶ、というのが結論でしょうか。私個人としては現実の防衛課題に触れずに平和論を論じる人々は、自らの理想を重んじて現実を無視して暴走した前大戦の好戦派と同じ精神構造であると思っておりますので。

最後に。私は自己責任論についてmU8r3v D4 0i+cuD3R氏の日記を引用させて頂いただけなので政府批判やアイデンティティ云々について論じたいのであれば孫引きなどせずに堂々と氏のサイトから引用して下さい。』

わたしの失礼だったかも知れない質問を含め、誠実に応答していただいてありがとうございます。返事が遅れてすみません。

(11/2 19時追加)小泉氏の「撤退しない」意志を支持する、という意志をお持ちだということ、それが明確ならまあそれでよいわけです。国民のうちに自己の意志をはっきり持とうとせずただ流されているだけなのに、他者へ批判や否定を投げつけるひとがいるのではと思っていました。jinjinjin5さんがそういう方でないのは最初からわかっていましたが。

勝ち組を戦場に

ずいぶん前の文章ですが、

http://d.hatena.ne.jp/demian/20040707#p4  経由で

http://d.hatena.ne.jp/amegriff/20040701#1088641482

を知りました。

戦争は国益の為にやるもので、実際その損益をかぶる階層すなわち「勝ち組」が戦場に行くべきですね。

ところで、西村真悟衆議院議員は次のように言っている。(とのこと)

国のために命を投げ出しても構わない日本人を産みだす。お国のために命をささげた人があって、今ここに祖国があるということを子どもたちに教える。これに尽きる。

お前みたいな奴が日本を破滅に導き、日本中が焦土になった原因を作ったんじゃないか。これが分からないのなら、日本人は逝って良し!

デリダはアラブ系ユダヤ人

 デリダはフランス人でありユダヤ人だった。そして彼がアルジェリアから来たことも広く知られている。だが彼はカミュのように植民者の子孫としてアルジェリアに生まれたわけではない。1962年アルジェリアが独立したとき、植民者の側にカテゴライズされ離散させられたことは確かだが。デリダの父祖はイスラム化したアラプが北アフリカにやってくる以前からそこにいたのであり、本来その土地に固有の権利を主張してもよかったはずだ。

 ところで、イスラエルに外部から無理矢理移住してくるからイスラエルは無法な外部からの簒奪者になるわけであり、同じアラブの地から移住してくるならアラブ内部の移住だからそれほど大騒ぎしなくてもよいはずだ。だがシオニストは「アラブ内部の移住」という側面を執拗に隠蔽する。

 とにかく大昔からユダヤ人はイベリア半島や北アフリカを含む地中海圏全体に住んでいた。で「ユダヤ・スペイン語」、ラディーノ/ジュデズモなどユダヤ系の言語を話していた人々もだいたいアラビア語に同化していった。もちろんヨーロッパ系の言語に同化していった人々もいるでしょう。ここで、デリダの祖先たちは、つい百年ちょっと前まではアラビア語をしゃべり続けて来た。そして1870-1940くらいの間に完全にフランス化する。そのせいで、いわゆるアルジェリア人より古くから住んでいたのにアルジェリア独立の主体にはなれず、植民者=敵の側とされ、1962年以降離散せざるを得なくなる。

東アジアでいうと台湾の日本統治が長く続き、客家系で長い間中国語を話していた人が日本語しかしゃべれなくなるようなものか。フランス>アラビア>ユダヤという序列において、ユダヤ性を極端に主張するイデオロギーが自身の千年に渡るアラビア性というアイデンティティを力ずくで隠蔽し、それをなかった事にして「イスラエル」を建てていく。事実、イスラエルのユダヤ人の多くが本来アラビア語を母語としていたはずなのにそのことは強く隠蔽されています。

 エイズであったフーコーが死後「聖フーコー」になったように、デリダも死後アラブ人に成る。

(鵜飼)(略)

しかしあの追悼文には一つ大きな誤解がある。ギル・アニジヤールはサイードもそう思っていたと言うのですが、デリダの生家はアルジェリアのコロンではありません。アルジェリアのユダヤ人はイスラム化したアラプが北アフリカにやってくる以前からそこにいたのです。デリダのとくに文学関係の仕事では固有名の問いは大変重要ですが、デリダという名前が普通名詞として何を現わすかは不明です。それくらい古い名前なのです。

 ユダヤ人を一般にアシュケナージ系とセファルディ、東ヨーロッパのユダヤ人とスペイン系のユダヤ人に分けますが、さらにイラン・ハレヴィのような、PLOに合流したユダヤ人の歴史家は第三のカテゴリーとしてアラブ-ユダヤを考える。デリダの家は基本的にアラブ-ユダヤで、そこへレコンキスタの後に北アフリカに亡命してきたセファルディ系の家系が合流したということらしい。デリダが生まれるちょうど百年前にアルジェリアは植民地化されます。その段階では彼の祖先はアラビア語を話していた。一八七○年にランスの法務大臣アドルフ・クレミューがアルジェリアのユダヤ教徒にフランスの市民権を与えます。そしてデリダが生まれるまでの六○年間にユダヤ教徒の共同体はあっという間に同化されていった。デリダが生まれる前にこの出来事は起きています。デリダは生涯、アルジェリアのユダヤ教徒はどうしてこれほど簡単に同化されたんだろうということを、キリスト教とユダヤ教、そしてイスラムとの間の関係としてずっと考えてきたし、ある意味で苦しみ続けた。私たちの前で彼が、フランスがアルジェリアを植民地化せず、自分もフランスと関係なくアルジェリアで生まれていたらいまよりもずっとよかったと言ったことがあります。

(長原氏の発言 略)

(鵜飼)  そうでしょうね。いま自分が抱えているような苦しみとは無縁だったはずだと。それをどういうアフェクトで言っていたのかというところまでは、もちろん証言できませんが。アルジェリアのユダヤ教徒はデリダが生まれる前の六○年間に同化され、デリダが生まれて三○年後にアルジェリアは独立する。そのときユダヤ教徒は、コロンとアラプ人、ベルベル人の被植民者の間にいる階級になってしまっていました。デリダが何度も語ったように、フランス本土をドイツが占領した時期に学校から追放されたり市民権を剥奪されたという経験が一方ではありつつも、フランスの市民権を持っていたがゆえに六二年にはこのコミュニテイに属する人々の多くはフランスかイスラエルに文字どおり離散しなければならなくなる。アラブよりも前からこの地に存在していたコミュニティがアルジェリアの独立によってアルジェリアにいられなくなるという経験を、デリダは既に哲学的に自己形成した後にしたことになります。デリダはこのことについてルサンチマンめいたことはひとことも言わない。このコミユニテイの人たちの多くはこの出来事ののち反アラプ的になり、シオニストになっていく。南フランスの、ユダヤ人でありながらルペンに投票しているような人たちもこのコミュニテイからたくさん出ているはずです。彼のパレスチナに対する関わり方や、九○年代アルジェリアが内戦に陥った時の態度表明に、彼が抱えてきたこの経験が現れている。それは最終的には『ひとつしかない、私のものではない言語』の中であるまとめかたをされました。コロニアリズムのひとつの結果としてこの悲劇も起きたのです。

(鵜飼・長原対談の鵜飼哲の発言より 『現代思想 2004・12 特集デリダ』p102-103より)

サラリーマン長井さんを守れ!

 「私もサラリーマン。家族を路頭に迷わすわけにはいかない。告発するかどうか、この4年間悩んできた。しかし、やはり真実を述べる義務があると決断するに至りました」。そう言って長井さんは涙声になり、言葉を詰まらせ、ハンカチで目をぬぐった。

 「告発による不利益はないか」と尋ねられ、「不利益はあるでしょう」と答えてからだった。

http://www.asahi.com/national/update/0113/014.html

 サラリーマンなんていうと哀れな語感があるが、言いかえればNHKの正規職員ということであり、この日本では階層的に上位に属する。彼らに言論の自由がなければより下位の国民大衆にありようはずがないのだ。

この問題については、下記のブログの意見に全面的に共感する。

筆者は、最近のマスコミ各社の報道姿勢について「萎縮した自主規制とも思えるような」姿勢だとする。

 たまたま私のみた朝日新聞も(14日朝、33面)、NHK「圧力を受けず」安部氏「注文の事実ない」中川氏「面会は放送後」と被告発側の意見だけを見出しで強調している。*1 NHKという巨大組織が、圧力を受けていないという建前を答弁するのは当然であり、情報としての価値はない。それを見出しとして巨大な字で報道してしまうことの責任。自分の責任で一つの事実を事実として提示した長井氏に対し、報道機関がやるべきことはそれを事実として裏付けることであり、当局の反論を掲示し事実を相対化しなし崩しにしてしまうことではない!

http://blog.readymade.jp/tiao/archives/000973.html blog::TIAO: 明るみに出た報道検閲 ……NHK番組改変問題

道各社の記者諸君はNHKのチーフプロデューサを鑑として先ずは自社を内部告発する勇気を持とうじゃないか。

自らも血達磨になって尚且つ政府を追及するくらいの迫力がなければ、今この国を間違った方向へ押し流そうとする勢力に対抗できるわけはない。ことはそれほど重大なのだ。政府、財界が民間を巻き込んで推し進めようとしている国家権力の強化と監視社会はこの国を危うい方向へと舵を切りかねない。

*1:第二報だったからかもしれないが。

第2次「慰安婦」論争 1/29.10時

http://d.hatena.ne.jp/noharra/20050124#p5 へのフォローとして

dempaxさんが下記にコメントしてくださった。

引用箱付きでここに上げます。

あと、id:dempax:20050127#p2 で紹介してくれた

http://members.at.infoseek.co.jp/postx/NHK-kaizan/top.html

NHK「女性戦犯国際法廷」番組改竄問題・私家版 ここは内容豊富みたい。

(わたしの関心は法廷自体の方にあるのだが)

id:dempax

「発信箱:第2次「慰安婦」論争として 山田孝男(編集局)」をさっそく産経新聞で西尾幹二が利用しています.

……「圧力」を経た修正版にもかかわらず、「従軍慰安婦」の取り上げ方に危うさを感じた。92年1月、朝日新聞は「朝鮮人慰安婦募集に日本軍関与」の大報道を展開、直後に訪韓した宮沢喜一首相が盧泰愚(ノテウ)大統領に謝罪した。日本軍による慰安婦「強制連行」を糾弾する動きは相変わらず根強いが、強制連行を否定する実証的な反論も出ている。90年代の慰安婦報道と日本政府の謝罪が、日本に「性奴隷」(海外ではsexslaveと報道)制度が存在したかのような誤解をまき散らしたという批判はさらに根強い。……(編集局)毎日新聞 2005年1月24日 0時06分

産経新聞 2005/01/28 11面オピニオン 正論 問題の核心は変更番組の放映にあり 評論家 西尾幹二

…… さすがに毎日新聞はついていけないとみて, 山田孝夫氏の署名で, NHKのあの番組がおかしいこと, 従軍慰安婦の強制連行説を否定する実証的な反論が出ていること, 90年代の政府の謝罪は日本に性奴隷制があったかのごとき国際誤解をまき散らしたことは反省すべきだとする記事を掲載した(1月24日朝刊). 正論である.……

西尾式要約方法

山田孝男編集委員 ≪誤解をまき散らしたという批判はさらに根強い≫ → 西尾幹二つくる会名誉会長 ≪誤解をまき散らしたことは反省すべき≫

毎日新聞らしい「客観報道」として≪批判はさらに根強い≫としたのに, 西尾幹二名誉会長が≪反省すべき≫に改竄してしまった.』

無自覚になされる否認

mojimojiさん コメント欄の文章に勝手にコメントしてしまいました。

id:mojimoji 『「いくらひどい被害だったといっても、50年近く前の話である。全身に衝撃を覚えるなんて言うのは大袈裟ではないか、と傍観者的には思ってしまう。だがそうではないのだ。「誰にも語れない秘密」は誰に語られなくとも50年間彼女の心の中に生き治癒されずに傷であり続けたのだ。」の部分は、本当に余人には推し量りがたいものがあり、かつ無自覚になされる否認によって今も傷つけられ続けているように思えます。

僕自身が、こうした記憶の問題にセンシティブになったのは、岡真里『記憶/物語』の冒頭30ページくらいを読んだときですね。「洋なしのアラビア語が思い出せない、なんだったっけ」というほほえましいエピソードから記憶というものの暴力性へと反転していく記述のところ、あれほど胸を衝く記述に接したことはそうそうありません。』

 わたしの場合は、『全記録1』の何人もの証言を読んだ後で、『夕凪の街 桜の国』という漫画を読んだとき、やはりある頁で落涙してしまいました。

誰もあの事を言わない

いまだにわけがわからないのだ

わかっているのは「死ねばいい」と誰かに思われたということ

思われたのに生きのびているということ

そしていちばん怖いのは あれ以来

本当にそう思われても仕方のない人間に自分がなってしまったことに

自分で時々

気付いてしまう

ことだ

p16『夕凪の街 桜の国』こうの史代 isbn:4575297445

大きな被害を受けたものがそれ故に自尊感情をなくすこと。まさに体験しないと分からないこと。神の不条理がはっきりあらわれているという現象なのか・・・ これはヒロシマを舞台にした漫画ですから慰安婦とは何の関係もないのですが、共通のものはあると思いました。慰安婦はたった一人で耐えなければならなかった分もっと悲惨だった・・・

あるフィリピン人に私が近づかなければならない理由は存在しない。袖擦り合うも多少の縁。かすかな縁はかすかなままでも良いと思うけど、無意識にでも「否認」するのはちょっとね、と思います。

日本の民主主義を育てよう

言論の自由が無い国で、民主主義が正しく育つとは思えない。民主主義が機能しなければ中国のような中央集権的な全体主義国家に成るのかも知れない。

http://d.hatena.ne.jp/tak2001jp/20050228

韓国の一部の民衆が民主化の為に血を流して戦ったことをしらないだけでこんなことを言っているひとがいる。日本は先進国だから心配しなくともよいのだろう・・・