http://d.hatena.ne.jp/gkmond/20050726/p1 「返信」への返信が遅れています。
(今日はこれから出かけるので)明日以降になんとか応答したいと思います。
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手元に1枚の新聞の切り抜きがある。大江健三郎の、2005年8月16日付けの朝日新聞・朝刊の連載エッセー「伝える言葉」である。
「一九四五年三月、米軍が沖縄列島ではじめて上陸した慶良間諸島で、住民たちが集団で自殺したということが起こりました。渡嘉敷島で、三百人以上、座間味島で百数十人が死に(あるいは殺され)ました。」というのが冒頭の文章である。
読み進めると、「私はいま、一九七〇年に書いた『沖縄ノート』(岩波新書)での、慶良間諸島の集団自殺をめぐっての記述で、座間味島の当時の日本人守備隊長と、渡嘉敷村の同じ立場だった人の遺族に、名誉毀損のかどで訴訟を起こされています。」とある。まさにこのテーマについての当事者の一方の発言である。だからこれに触れて書いてみようと思ったのだが、なかなか書けない。
はっきり言ってあまり良い文章だとは思えないのだ。最初の方に、石原昌家という人の文章が引用されている。
「沖縄戦で住民が日本軍に積極的に協力したという基準で適用されるのが「戦傷病者戦没者遺族等援護法。認定基準の一つに、「集団自決」という項目があり、ゼロ歳児でも戦闘参加者として靖国神社に合祀されているという事実を直視すべきだ」
戦傷病者戦没者遺族等援護法というのは、「 恩給法の適用を受けない軍人・軍属及び準軍属が、在職期間内に傷病を受けた場合、その傷病の程度に応じて、本人またはその遺族に対し各種年金が支給する」ことなどを定めた法律らしい。いわゆる「集団自決」などの場合は純然たる民間人だから、上の説明からは貰えないように思える。*1
ところが実際には、「集団自決」などの場合でも貰えることがある。「集団自決」は国家の責任だから当然である。というか本来は別の論理で別の法律で出すべき筋のものである。そのような立法はなされなかった。このような場合に、行政は相手が「頭を下げてくること」を条件に恩恵的に年金を出すことがある。金を出すのだから頭下げてもらうのは当たり前って、それは民主主義国家じゃあないだろう。でこの場合の条件というのが「軍からの命令」の存在である。で曾野綾子以下の何人もの人がこの「軍からの命令」が真実のものかどうかをあげつらいはじめるのだが、これは行政にとっては大きな計算外れだったに違いない。行政にとって、この「軍からの命令」はその真偽を厳密に問うべき物ではないのだ、本来救済すべき遺族に対し救済を別の方法で与えるための便法に過ぎないのだ。
私は戦傷病者戦没者遺族等援護法の認定基準について勉強したことはない。*2しかし、本来は軍人に対する制度である援護法を適用すること自体がおかしい。というところから考えた場合上のような理屈が成り立つ。その結果仮にAさんの名誉が毀損されたのであれば、責任は「集団自決」に正面から補償する制度を作らなかった国家にあるのではないか。
このような「恩恵としての行政」の問題は、当然「自決」をどう捉えるか、軍に殺されたのか否かというイデオロギー的問題を当局寄りに解決することを伴う。
だからといって「靖国に合祀する」かどうか、は靖国神社という一神社の判断の問題であり、援護法の適用の問題とは全く無関係のはずだ。大江の(引用を含む)文章はここが全く不明確なので、悪文だと思う。
そしてさらに文章の後半では、憲法13条幸福追求権がでてくる。「すべて国民は、個人として尊重される。(略)」
戦争放棄の項とあいまって、この項は60年前の夏、戦争が終わった日に日本人が感じた解放感の柱だったものを表現していると思います。その解放感のすぐ裏側には(略)個人に死を強制する国という存在への恐怖が、なおこちらをジッと見ている、という気持ちも残っていたのが思い出されます。
確かに大江にとっての真実はここにあるのだろう。
国家は戦争の時個人に死を強制する。したがって国家を拒否できないなら戦争を拒否すべきだ。そう言われれば納得する。
ただ、大江がもっとも美しいと讃える13条には「公共の福祉に反しない限り」という魔法のフレーズが含まれている。このフレーズにどう向きあうべきなのか、大江は問題点を提示しながらその問いには答えない。
広島・長崎で、また沖縄で、人間として決して受忍できない苦しみを、人間がこうむったこと。
例えば中国大陸のある作戦で華々しく戦いながら死んでいった兵士は「受忍できない苦しみをこうむったこと」にはならないのか、と反問してもしかたないだろう。「人間として決して受忍できない苦しみ」という修辞にこだわってもしかたない。それを記憶し、伝えることが本当に可能かどうかも分からない。ただ個人的に考えてどうしたって受けたくない苦しみには違いない。そのような苦しみをなくしていくためにはどうすればよいのか考えなければいけない。
異論があっても、誰もそれを声に出して言わない時代のことである。
【宮崎学氏の発言より】
自民党、公明党が衆議院の議席3分の2を支配した。
(略)
第58条 両議院は、各々その議長その他の役員を選任する。
2 両議院は、各々その会議その他の手続及び内部の規律に関する規則を定め、又、院内の秩序をみだした議員を懲罰することができる。但し、議員を除名するには、出席議員の3分の2以上の多数による議決を必要とする。
これが3分の2の議席占有の威力である。こうなるとどうなるか。
つまり言えることは、自らに逆らうものは、実体的に殲滅するという「論理」の純化がはじまる。自民党内にとどまらず、その矛先は民主党の一部にも向かうであろう。そうするとである、議員が「職業」、つまり就職としてとらえているような意識水準の議員はひとたまりもなく寝返ることとなる。
それでも抵抗する者には、難クセをつけて議員の首を切ればいいということになる。これは法的には何ら問題はない。
こうして、平成型翼賛政治が完了する。そしてこの翼賛は、社会的にはそれぞれ内部に問題を抱える、警察、検察が下支えすることになる。
まあ、ワシはこう見とる。
http://miyazakimanabu.com/archive/2005/09/20050914.htm 憲法第58条2項 ~スターリン党への変貌~
http://d.hatena.ne.jp/claw/20051004#p1 経由
北朝鮮に拉致された脱北者、カン・ゴンさんについて、アムネスティ・インタナショナルが緊急行動を呼びかけました。彼は北朝鮮の収容所の映像を入手して日本のテレビ局に渡したことで北朝鮮の工作員に拉致されており、処刑の危機に直面しています。(kazhik)
http://renk-tokyo.org/modules/news/article.php?storyid=124 RENK東京 – ニュース
カン・ゴンは、2000年に北朝鮮から逃れ、大韓民国の市民となった。カン・ゴンは、2005年3月に中国内で北朝鮮の工作員によって拉致され、北朝鮮に連れ去られたと思われる。彼は現在、首都=平壌にある国家安全保衛部の刑務所に拘束され、拷問または処刑の重大な危機に直面しているものと思われる。
アムネスティー緊急行動文書、UA240/05,ASA24/005/2005、北朝鮮「カンゴン氏処刑危機」和文
2004年2月にカン・ゴンは、咸鏡(ハムギョン)南道の耀徳(ヨドク)管理所(政治犯強制収容所)内部の様子をひそかに撮影した映像を日本のテレビ会社に渡し、この映像は同テレビ会社により放映された。これが、カンゴンが北朝鮮工作員によって拉致された理由の一つと思われる。
カン・ゴンは、国家安全保衛部の中堅幹部であったと思われ、上記の理由により、北朝鮮へ送還された後に、極めて厳しい処罰に直面することが予想される。(同上)
参考サイト:http://www.asiavoice.net/nkorea/ 朝鮮民主主義研究センター
換言すれば、ナショナリズムや愛国心というものは、対外交流を持たない排他的国民によって産出されたものというイメージとは全く反対に、グローバルとローカルの活気溢れる交流の産物、つまりコスモポリタニズムなのである。
(p3大貫恵美子『ねじ曲げられた桜』isbn:4000017969)
戦後左翼はナショナリズムや愛国心というものを一貫して、遅れたもの、マイナスの価値しかないもの、つまらないものと見なし続けてきた。*1しかしながらわたしたちの敗戦を象徴する<特攻隊員>たちの内面をかいま見るならば、それは嘘だったことが分かる。彼らはマルクス主義を含む世界のすべての知と美を吸収咀嚼しその上で<自己を死に与える>ことに赴いた。
本書の主要なテーマとなる学徒たちは、理想の世界に住み、真実や人生の「美」を追い続けていた。書き残したいずれも数百頁に及ぶ手記は、いかに彼らが当時のさまざまな思想潮流から影響を受けつつ人生の意義を追い求めていったのかを如実に物語っている。彼らは「近代化」と「近代の超克」を同時に挑戦し、また高度に発達した西洋の文明に憧れる反面で、西洋の文化的・政治的覇権に抵抗したのである。若さに特有の理想主義の立場から、「個人」対「社会」の問題に取り組んだ結果、たとえそれが死を意味するものであっても、彼らは「社会の一員としての責任」を果たす義務を負わなければならぬと感じ、悩んだ。彼らが徴兵された時には、日本の敗戦はすでに時間の問題であった。彼らはまるで最後の衝突に向かって恐ろしい勢いで降下していくジェットコースターにむりやり乗せられたようなものであった。死が間近に迫り、自らの人生がまだあまりに短いものであったことに気付いた時、「生きたい」という願望が強烈な勢いで、まるで身心を引き裂くかのように走った。(略)政府のイデオロギー方針を支持し、自分自身を納得させようとしているかと思えば、その全てを否定しようとしている箇所も見られる。(略)彼らは知的探求に対しすさまじいまでの情熱を持ち、広範囲にわたって古今東西の哲学や文学の名著を貪り読んだ。 (同書p6)
彼らの読書リスト(著者名だけ列挙)
アリストテレス、プラトン、ソクラテス、キプロスのゼノン、カント、ヘーゲル、ニーチェ、ゲーテ、シラー、マルクス、トーマス・マン、ルソー、マルタン・デュ・ガール、ジイド、ロマン・ロラン、レーニン、ドストエフスキー、トルストイ、ベルジャーエフ、シュバイツァー・・・原書で読んでいる者すらいる
田辺元、保田與重郎、宮沢賢治・・・
(この本の巻末には40頁に及ぶ「特攻隊員4人の読書リスト」計1355タイトルが付いている。)
*1:一方で、自らの価値観=平和と民主主義にそった国家建設を推進しようとしながらも、それは愛国的とは呼ばれず、愛国的などの言葉は戦前回帰的臭いがあるものに限って使われた。
かって六甲山上には、いまの神戸大学付近と摩耶山天
上寺付近に砦があり、南北朝時代前夜の戦乱にまきこ
まれたが、六百年以上も前、東の砦へ押し寄せた六千
の六波羅軍を、摩耶山の西の砦へ逃げるとみせかけて
曲りくねった谷間へ誘いこみ、一気に襲いかかって全
滅させた。
* 第四章にむかってにじみでる〈 〉の運動をメモしていこう。
あるいは同じことだが、〈 〉の運動を展開しようと考えるときにじみ出るイメージの変移を促進しよう。この促進が通過する道の標識には、次のような言葉が書いてある。
変移の徹底化。主体や文体の不定化。可逆関係の拡大。発想の枠が交換可能になって、走りまわるようにせよ。循環、往還、ジグザグ状、ラセン状という風な運動方式の軸そのものが揺れるようにせよ。
飛び去るメモの例……
かすかにきしむ音を立てる霧につつまれはじめた油コブシ。海賊船の船先。
子宮の重量と共に増えている諸関係。何ものかのへの届出用紙。
日付の順序を狂わせても解読できる文書。非合法活動の他領域での応用。
行為の同時性だけでなく、論理の同時性を示している 接続詞indem……その誤訳。
大量の紫外線の照射をうけて、他の菌の染色体をつかんだまま亡命するヴィルス。
快活な対話者の内部で、無関係に機能している腸管たち。
海と山にはさまれた細長い都市を並行に走る鉄道の同じ名前の駅。著明な丘の反対側に位置する同じ名前のレストラン。
自分では知らないまま、暗い湾をとりまく光の帯を形成している都市下層住民の灯。
非人称の風に、ひびの入った頭蓋のようなバスからはみでた不安をさらしている到着者と土着者。
孤立しているために突入し、埋没する儀式。
街が、そのかかとで軽く踏まれるために作られた夕焼け色の靴。
統一行動に関する二派の乱闘を、それぞれの党派についても、それらと自分との対比においても、トッカータとフーガのように聞くこともできる二種類の構成メモ。
このようなイメージを、自在に、また制約されて変移させていくとき、それらが、別の時間=空間のリズムをもつ境界を訪れていると仮定してみる。異質の領域をα、β、γと名付けておくと、いまでは無意識におこなわれていたα、β、γの相互の対話や劇を意識的につくれるようになるかもしれない。
情熱の形式が変移し、所属組織が分裂し、生活基盤が複雑化するとき、たとえば
α1→←α2 β1→←β2 γ1→←γ2 と対比でき、
α1→←β0→←α2 γ1→←β3→←γ2 という風に中間項を媒介することもできる。
ぜひとも、いつか、γをあえて無視してαとβを公差させねばならなかった状況と存在をかきたい。γから切断することで、ある意味ではαとβがより深く衝撃し合い、それによってγの瞬間的位相をぐらつかせたが、γの持続性に復讐されることになった。しかし、その問題をはじめて提起しえたのは、αとβのみに賭けたからであるという逆関係の苦しみを忘れてはならない。
* ある時間=空間の重力偏差をもってα、β、γという系をつくってきたとして、それを普遍的なα、β、γの系に変移させることが必要ではないか。
また、それらの項を区分する根拠をあいまいにして放置しておく態度は、たとえば、関係としての被告団を内包する、と語っただけで放置しておく態度と同じである。おそらく、そのことが、被告になる意味であり、この非合法性をとらえかえし変移させなければならない。
そうでない限り、6・15被告団とは最も異質な六甲空間へこの発想を投げこむ意味は大きいとはいえ、発想だけで自己満足してしまい、αをβで、βをγで、γをαで批判することによって、逆に全ての欠陥を内包してしまう。
〈 〉変移のとどかない部分に光を当てよ。岬の灯台に打ち寄せる鉛色の波へ。
まず、〈 〉変移につきまとう、自己増殖的な幻想性の根を断ち切れ。その幻想性を生んだ関節をバラバラにとき放てば、その関節と同じ時間にいたものたち……
虐殺されたもの
イデオロギー的批判で組織的に切り抜けたもの
その関節を無視したもの
知らずに生活し、病み、死んだもの
なしくずしに利用しはじめたもの
叙情的に旋回しつつあったもの
などの時間的変移をさぐることによって、別の主体の運動に入りこんで行ける。
次に、この〈 〉変移の幻想性を、ここで、いま、とりかこんでいるものたち……
事実性にしがみつき判断するもの
恐れや反撥をアルコールで緩和するもの
かかわりのない領域だと無視するもの
組織活動に免罪符を求めるもの
などの空間的変移をさぐることによって、別の主体の構造へ入りこんで行ける。
そして、この操作を、ちがった関節、ちがった幻想性についてもおこない、いわばβ領域からα、γへも変移させる。
* 油コブシに〈 〉をつけはじめている……と書くとき、それは序章から第三章までに〈 〉をつけていくことと、第四章以後に〈 〉をつけていくことの二重性を含んでしまう。この二重性を、どのように越えればよいのか、まだ分からない。
〈 〉をつける箇所や、〈 〉をつけてから変移させていく方法が、さまざまに変移していくことへの不安。ある箇所、ある方法へ決断した場合、他の場所、他の方法の疎外の上に立って決断したのだという重さ。
二重性を含んだまま、〈 〉の変移を可能な限り展開していくことが第一段階。
必ず、これに対する粘着的な抵抗が生まれてくるはずだが、その抵抗力のかたちを分類し、そのまま〈 〉の変移の新しいかたちとして組み入れていくのが第二段階。
このような操作の外部から加わってくる圧力も同じようにして組み入れていくのが第三段階。
おそらく、待ちかまえている抵抗力は、序章から第三章までの空間的な表現へ〈 〉をつけるときに現われ、待ちかまえている圧力は、第四章以後を表現する時間的な契機へ〈 〉をつけるときに現われるだろう。
この予想は、いま不意に襲ってきたのであるが、〈六甲〉の表現が内部から裁かれていく過程を逆転したい。
何ものかの挑発に乗ってしまうかもしれないけれども、序章から第三章までの表現からひびいてくる時間のリズムと、第四章以後の表現から立ち昇る空間の匂いに〈 〉をつけて交差させてみよう。これが、新しい罪を、打ち寄せる波のように引き寄せるであろうことを予感しながら。
ところで、いま、虹がかかっているよ、といって通り過ぎるのは何ものか。〈 〉からはみだしていくものたちか?
* 何ということだ! 表現についやす以外の全ての力を注いでいた試み……失われた時間=空間の意味を、油コブシの見える闇の中でとりだそうとしてきた試みが、他者から舞いこんだメモによって中断されている。他者が、メモの裏側へ自己を引き離そうとして、祈りに近い決意を示したために。
完了形の胎児と未完了形の胎児が同じ運命に陥ることを怖れているのだ。
第四章へのメモをかいていく気力がない。物象が反乱する。情念が錯乱すると、物象がそのすきにつけこんでくる。
完了形と未完了形にはさまれて、いままでのメモを支える場が不安定になっている。〈 〉を用いて表現しようと試みたとき、思いもかけない方向からやってきた〈 〉が、表現しようとする意識をつつみこんでしまった。
もはや、第四章をかくのを放棄してもよいと覚悟して、他者からのメモから、完了形と未完了形にはさまれたまま、しぼりだされてくる触感や声をかきとめておこう。
最も美しいときに開かれるメモ、あるいは眼。
血族の住む洞窟へ予定より早く帰ったとき、日没までの空が、じっとりと汗ばんで、青いまま変移しない。
港内遊覧船の上で、工場廃液のしぶきを浴びながら、あえて山肌に触れない感覚を皮膚の裏側へ蓄積する。六甲は反対側へ変移しても、太陽や星はついてきてくれる。
静か過ぎる風景に吊るされたために、塔の風鐸が微かに独語する。この都市のマークは六甲の弯曲と防波堤の弯曲を交差させてつくってある、と。
傷ついたようにけいれんし、上から抑えるのでかえって異質な触感を固定してしまう手。
たぎりたち、消え去り、しかも世界の体温を未完了のまま交換してしまう舌。
中絶の時間=空間が挿入されたのは、再起と深化のためにはよいことなのかもしれない。しかし、これは地下水道からの放棄の中絶と無関係ではないはずだ。
* いままで走り書きしてきたすべてのメモにまつわりつくすべての〈 〉を払いのけたい凶暴な衝動にとりつかれている。しかも、もがけばもがくほど〈 〉が何重にもからみついてくる。
ちぎれて散らばったメモ……無人の高山植物園でも、こんな風に、まるで、ばらまいたようにタンポポが咲いていた……を拾い集めて、〈 〉を抜けだす意図を捨てたようなふりをしながら、さまざまな〈 〉の根拠をさぐってみよう。
〈 〉が生まれてくる契機は、ほぼ次の三種類に分けられる。
α、〈 〉の変移を徹底化しようとするとき。
β、αの運動に対する表現内からの不安を放置するとき。
γ、αやβの運動に対する表現外からの不安を放置するとき。
ここで用いるα、β、γの記号は、前のメモで用いた記号と同じではないが、意識的に錯乱をひきおこすつもりで同じものを用いる。
α、β、γのいずれも、何ものかが〈 〉から疎外されようとしているときの回復の衝動から発生している点では同位である。けれども、〈 〉の運動は、それなりの必死の必然性をもっているのも事実なのだ。
いま、疎外されようとしているときの回復の衝動と書いてしまったが、比喩的に次の文をかいておきたい。
α、β、γが、たとえば政治の領域において、相互に、時間的脱落感、空間的脱落感、組織的脱落感をもっているとして、これらの脱落感は同位であり、どれか一つに拠ることも、循環することも虚しい。
このような関係が、政治の領域だけにとどまらず、全ての存在をひたしはじめていることこそ〈 〉の発生の根拠であろう。
α、β、γは、どんな危機にあるのか想像してみる。
それぞれの間に、変移しない一種の双極性があるのではないか。たとえば、ある一つの事件の因子だけでは倒錯した現代史に触れられない場合のように。
双極性は、求心力と遠心力に似た、一方だけでは運動を論じられない因子をもっているらしい。
それらが統一されないことが危機なのであるが、この危機は、徹底的な模索と状況の転換が一致した場合にのみとらえられてきた。
しかし、その場合、危機がとらえられたのは、ある一つの事件によってではあっても、その危機への問いかけは、歴史的な形でなく、本質的な形をとってくる。
α、β、γが、この危機の部分をとらえていながらも、全てを自己の責任として引きうけられないまま放置することが、〈 〉の根拠であるし、このメモを超える表現が不可能になるかもしれない理由である。
遅れからの復帰は、遅れそのものの中にある時間的=空間的な責任の力学をつつみこんでくるとき、はじめて許されるだろう。逆に、そのときはじめて、復帰すべき対象が実現されるのだ。
*このままでは、生きた形象は、生まれてきそうにない。メモをかきはじめた段階と同じように、表現したい意識と、したくない意識の間隙に、あるいは、かいてきた表現とかいてこなかった表現の間隙にはさまれたままである。
第四章を書こうとする試み自体が〈 〉に入ってしまう時間がやってきた。あるいは〈 〉からこぼれ落ちる時間からはさまれている。
けれども、むしろ、その時間に突入しなければならない。そのことによって時間をひきよせるのだ。ちょうど〈六甲〉をひきよせてきたように。
第四章を展開しようとするときのメモ、この項をも含めて全てのメモに〈 〉をつけていこう。そして、六項のメモたちよ、汝らのメモ相互の間隙に生成し崩壊するドラマをかいま見よ。時間=空間の責任の力学を追求するために、自らをメモとメモをつなぐ間隙とは直角の方向へ参加させながら。
(2009.09.06UP)
id:mujigeと言う人が、へんなところで何かいってきました。
http://teri.2ch.net/korea/kako/986/986434444.html HANBoardについて考える PART12 投稿日: 2001/04/05(木) ~2001/05/21(月)からの
興味深いところをいくつもコピペしてtwitter発言しましたが、そのうちの二つをとりあえず削除してみました。
以下は資料です。
noharra 野原燐
413なんで「米津篤八」氏の名前が伏字なんですか?あの人が日本人一般の感覚からして異常な意見の持ち主であることは疑いのない事実なのだし、彼に対する皆さんの意見はまっとうなもの(彼が基地外じみた反論をするかは別として)なのだから、伏字にすることなく、堂々としていればよいのでは?
4 Dec
noharra 野原燐
435 むかし、ハンボードでキム・ググンさんが初登場して北朝鮮関連で重要な提言をしたことがありました。そのとき、米吉が本筋じゃないところで揚げ足を取って、議論を逸らし、ググンさんを消耗させましたね。ああいう奴を野放しにしておいて良いはずがない。
4 Dec
http://twitter.com/#!/noharra/status/10855611243692033
野原燐
追記
> id:mujigeと言う人が、へんなところで何かいってきました。
「へんなところ」ってどこかはっきり言ってみろよ、と言いたいですね。(bogus-simotukare)
http://d.hatena.ne.jp/bogus-simotukare/20101204/2346518907#c1291511747
です。(12月6日 7.58追記)
第三、各種資料の実証的分析(以下、『永井資料分析』という。)
Ⅰ.警察資料について
警察資料の全タイトル。このうち、1と8-2は外務省外交史料館所蔵の外務省記録に同じものが含まれており、前々からその存在がよく知られていた。
1.外務次官発警視総監・各地方長官他宛「不良分子ノ渡支ニ関スル件」(1938年8月31日付)
2.群馬県知事発内務大臣・陸軍大臣宛「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌婦募集ニ関スル件」 (1938年1月19日付)
3.山形県知事発内務大臣・陸軍大臣宛「北支派遣軍慰安酌婦募集ニ関スル件」(1938年1月25日付)
4.高知県知事発内務大臣宛「支那渡航婦女募集取締ニ関スル件」(1938年1月25日付)
5.和歌山県知事発内務省警保局長宛「時局利用婦女誘拐被疑事件ニ関スル件」(1938年2月7日付)
6.茨城県知事発内務大臣・陸軍大臣宛「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌婦募集ニ関スル件」 (1938年2月14日付)
7.宮城県知事発内務大臣宛「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ケル酌婦募集ニ関スル件」 (1938年2月15日付)
8-1.内務省警保局長通牒案「支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル件」(1938年2月18日付)
8-2.内務省警保局長発各地方長官宛「支那渡航婦女ノ取扱ニ関スル件」 (1938年2月23日付)
9.「醜業婦渡支ニ関スル経緯」(内務省の内偵メモ、日付不明)
2~7 および9は、1937年の末に慰安所の開設を決定した中支那方面軍の要請に基づいて日本国内で行われた慰安婦の募集活動に関する一連の警察報告であり、8 は軍の要請に応じるため中国への渡航制限を緩和し、募集活動の容認とその統制を指示した警保局長通牒の起案文書(8-1)および発令された通牒本体(8- 2)である。
これらの資料は元内務省職員種村一男氏の寄贈にかかるもので、警察大学校に保存されていた。1992年と93年の政府調査報告の際にはその所在がつかめなかったが、1996年12月19日に参議院議員吉川春子氏(共産党)の求めに応じて、警察庁がこの資料を提出したため、その存在が明るみに出ることになった12)。現在は東京の国立公文書館に移管されており、その一部がアジア歴史資料センターで公開されている。
Ⅱ.陸軍慰安所の創設について
①上海総領事館警察署長の依頼状についての永井資料分析(以下、『永井依頼状分析』という。)
前記史料5の和歌山県知事発内務省警保局長宛「時局利用婦女誘拐被疑事件ニ関スル件」(1938年2月7日付)なる文書中に、長崎県外事警察課長から和歌山県刑事課長宛の1938年1月20日付回答文書の写しが参考資料として添付されている。さらに、この長崎県からの回答文書中には、在上海日本総領事館警察署長(田島周平)より長崎県水上警察署長(角川茂)に宛てた依頼状(1937年12月21日付)(以下、『上海総領事館警察署長の依頼状』という。)の写しも収録されている。
この上海総領事館警察署長の依頼状は、陸軍慰安所の設置に在上海の軍と領事館が深く関与したことを示す公文書にほかならない。
軍慰安所の設置が軍の指示、命令によるものであったことは、定説である。
この上海総領事館警察署長の依頼状は、慰安所の設置を命じた軍の指令文書そのものではないが、政府機関と軍すなわち在上海陸軍武官室、総領事館、憲兵隊によって慰安所の設置とその運営法が決定されたことを直接的に示す公文書として他に先例がなく、その点で重要な意義を有する。
各種資料を総合すれば、1937年の遅くとも12月中旬には華中の日本陸軍を統括する中支那方面軍司令部レベルで陸軍慰安所の設置が決定され、その指揮下にある各軍(上海派遣軍と第十軍)に慰安所開設の指示が出され、それを受けて各軍で慰安所の開設準備が進められるとともに、関係諸機関が協議して任務分担を定め、総領事館は慰安所の営業主(陸軍の委託により慰安所の経営をおこなう業者)および慰安所で働く女性(慰安所従業婦すなわち慰安婦)の身許確認と営業許可、渡航上の便宜取り計らい、また業務を円滑におこなうため内地・植民地の関係諸機関との交渉にあたり、憲兵隊は営業主と従業女性の前線慰安所までの輸送手配と保護取締、さらに特務機関が慰安所用施設の確保・提供と慰安所の衛生検査および従業女性の性病検査の手配をすることが定められた。
さらにこの上海総領事館警察署長の依頼状から読みとれるのは、慰安所で働く女性の調達のために、軍と総領事館の指示を受けた業者が日本および朝鮮へ募集に出かけたこと、および彼等の募集活動と集められた女性の渡航に便宜をはかるように、内地の(おそらく朝鮮も同様と思われる)警察にむけて依頼がなされた事実である。
この募集活動によって、実際に日本内地および朝鮮から女性が多数上海に連れられてきたことは、麻生軍医の回想によって裏づけられる。なお、麻生軍医に女性 100名の性病検査を命じたのは「軍特務部」であり、その命令は1938年1月1日付であった22)。この記述は、上記依頼状にみられる軍・憲兵隊・領事館の任務分担協定が現実に機能していたことの傍証となろう。
さて、上海総領事館警察署長の依頼状に「之等ノモノニ対シテハ当館発給ノ身分証明書中ニ事由ヲ記入シ本人ニ携帯セシメ居ル」とあるように、軍と総領事館から依頼された業者は在上海総領事館の発行する身分証明書を所持して、日本内地及び朝鮮にわたり、慰安所で働く女性の募集活動に従事した(「稼業婦女(酌婦)募集ノ為本邦内地並ニ朝鮮方面ニ旅行中ノモノアリ今後モ同様要務ニテ旅行スルモノアル筈ナル」)。彼等がどのような方法で募集活動をおこなったかは、史料2~7の警察報告に実例が出てくるので、次章で検討するが、日本内地または植民地において女性を集めた業者は、彼女等を連れて上海に戻ってこなければならない。あるいは上海まで女性を送らなければならない。
しかし、日中戦争がはじまるや、日本国内から中国への渡航は厳しく制限され、原則として日本内地または植民地の警察署が発給する身分証明書を所持しなければ、乗船・出国ができなくなっていた。
しかも、1937年8月31日付の外務次官通達「不良分子ノ渡支取締方ニ関スル件」(史料1)は各地の警察に対して、「混乱ニ紛レテ一儲セントスル」不良分子の中国渡航を「厳ニ取締ル」ため、「素性、経歴、平素ノ言動不良ニシテ渡支後不正行為ヲ為スノ虞アル者」には身分証明書の発行を禁止するよう指示しており、さらに「業務上又ハ家庭上其ノ他正当ナル目的ノ為至急渡支ヲ必要トスル者ノ外ハ、此際可成自発的ニ渡支ヲ差控ヘシムル」よう指導せよと、命じていた 24)。
②①についての永井の解釈(以下、『上海総領事館警察署長依頼状の永井解釈』という。)
まともに申請すれば、「醜業」と蔑視されている売春業者や娼婦・酌婦に対して身分証明書の発給が許されるはずがない。だからこそ、上海の領事館警察から長崎県水上警察署に対して、陸軍慰安所の設置はたしかに軍と総領事館の協議・決定に基づくものであり、決して一儲けを企む民間業者の恣意的事業ではないことを通知し、業者と従業女性の中国渡航にしかるべき便宜をはかってほしいとの要請(「乗船其他ニ付便宜供与方御取計相成度」)がなされたのである。
よって、この依頼状の性格は、軍の方針を伝えるとともに、前記外務次官通達の定める渡航制限に緩和措置を求めたものと位置づけるのが至当である。
Ⅲ.日本国内における慰安婦募集活動について
1.①和歌山の誘拐容疑事件
内務省警保局長宛報告(前掲史料5の1938年2月7日付「時局利用婦女誘拐被疑事件ニ関スル件」)によれば、事件の概要は以下のとおり。
(該当部分参照)
まとめると、次のようになる。上海で陸軍が慰安所の設置を計画し、総領事館とも協議の上、そこで働く女性の調達のため業者を日本内地、朝鮮に派遣した。その中の1人身許不詳の人物徳久と神戸の貸席業者中野は、上海総領事館警察署発行の身分証明書を持参して日本に戻り、知り合いの売春業者や周旋業者に、軍は 3000人の娼婦を集める計画であると伝え、手配を依頼した。さらに警察に慰安婦の募集および渡航に便宜供与をはかってくれるよう申入れ、その際なんらかの手ずるを使って内務省高官の諒解を得るのに成功し、内務省から大阪、兵庫の両警察に対して彼らの活動に便宜を供与すべしとの内々の指示を出させたのであった。
大阪府、兵庫県両警察部は、売春させることを目的とした募集活動および渡航申請であることを知りつつ、しかも営業許可をもたない業者による周旋・仲介行為である点には目をつむり、集められた女性の渡航を許可した。この時上海に送られた女性の人数は正確にはわからないが、関西方面では最低500人を集める計画であり、1938年1月初めの時点で大阪から70人、神戸からは220人ほどが送られたと推測できる。
最後に、長崎県及び大阪九条署からの回答を受けた田辺警察署がどのような処置をとったのかを述べておこう。同署は、「皇軍慰安所」の話の真偽はいまなお不明であるが、容疑者の身元も判明し、九条警察署が「酌婦公募証明」を出したので、容疑者の逃走、証拠隠滅のおそれはないと認めて、1月10日に3人の身柄を釈放したのであった29)。
②①についての永井の解釈(以下、『和歌山誘拐容疑事件の永井解釈』という。)
自由主義史観派の主張するごとく、慰安所なるものが軍とは直接関係のない、民間業者の経営する通常の売春施設だったのであれば、自分たちは「軍部ノ命令ニテ上海皇軍慰安所ニ送ル酌婦募集ニ来タリタルモノ」とのふれこみで、「無智ナル婦女子ニ対シ金儲ケ良キ点、軍隊ノミヲ相手ニ慰問シ、食料ハ軍ヨリ支給スル等」と勧誘した金澤らの行為は、軍の名前を騙り、ありもしない「皇軍慰安所」をでっち上げて、女性をだまし、中国へ送り出そうとした、あるいは実際に送り出したものであって、婦女誘拐に該当する。金澤らは釈放されることなく、婦女誘拐ないし国外移送拐取で逮捕・送検されたにちがいないし、警察は当然そうすべきであったろう。
ところが、「皇軍慰安所」がまぎれもない事実、すなわち陸軍慰安所が軍の設置した兵站付属施設であったらどうなるか。国外で売春に従事させる目的で女性を売買し(前借金で拘束し)、外国(=上海)に移送するという、行為の本質においてはいささかの変わりもないにかかわらず、ありもしない軍との関係を騙って、女性をだましたわけではないので、この場合には誘拐と認定されず、逆に「酌婦公募」として警察から公認される行為に逆転するのである。和歌山県警は、金澤らの女衒行為が、もとをたどればたしかに軍と総領事館の要請につらなり、また内務省も内々に慰安婦の募集に協力していることが判明した時点で、犯罪容疑として取り扱うのを放棄した。すなわち、陸軍慰安所が軍の設置した公認の性欲処理施設であり、通常の民間売春施設とは異なるものであることが確認された時点で、警察は慰安婦の募集と渡航を合法的なものと認定したのである。国家と軍の関与により、それがなければ犯罪行為となるべきものが犯罪行為ではなくなったのであった。
2-1.①北関東・南東北での募集活動
次に、和歌山田辺の事件とは異なり、誘拐容疑で警察に検挙されることはなかったが、群馬、茨城、山形で積極的な募集活動を展開し、そのため警察から「皇軍ノ威信ヲ失墜スルコト甚タシキモノアリ」30)と目された神戸市の貸座敷業者大内の活動を紹介する。前記陸支副官通牒にも出てくる「故サラニ軍部諒解等ノ名儀ヲ利用シ為ニ軍ノ威信ヲ傷ツケ且ツ一般民ノ誤解ヲ招ク虞アルモノ」とおぼしき実例は、以下のようなものだったのである。
(該当部分参照)
上記史料1から6のうち、次の諸点については、他の史料とも符合し、大内の語ったことはおおむね事実に即していたと解される。
まず、3の「在上海特務機関」とは、最初に紹介した上海総領事館警察署長の依頼状にある「陸軍武官室」にほかならぬ。また、大内に「在上海特務機関」の慰安婦募集の件を伝えたとされる神戸の中野は、和歌山の婦女誘拐容疑事件や前記内務省メモに出てくる中野と同一人物であると考えてまちがいない。また、「酌婦三千人募集計画」の話は田辺事件の被疑者の供述にも出てくる(ただし、山形県警の報告では「二千五百人計画」に縮小している)。
これらのことから、軍の依頼を受けた中野が知り合いの売春業者や周旋人に軍の「酌婦三千人募集計画」を打ち明け、協力を仰いだとの大内の言には十分信がおける。また、4の「既ニ本問題ハ昨年十二月中旬ヨリ実行ニ移リ」や「兵庫県ヤ関西方面デハ県当局モ諒解シテ応援シテイル」との話も、既に紹介した諸史料に照らし合わせて、間違いのない事実とみなせよう。逆に大内の言葉から、なぜ神戸の中野が上海の特務機関と総領事館から依頼されたのか、その疑問が氷解する。中野は神戸で貸席業を営むほか、上海にも進出していたのである。
警察報告にあらわれた大内の言動のうち、少なくとも3、4は事実に即しており、誇張や虚偽は、かりに含まれていても、わずかだと思われる。ならば、彼が語ったとされる慰安所の経営方針(上記5)も、根も葉もない作り話として一笑に付するわけにはいかない。少なくとも、大内は中野からそれを軍の方針として聞かされたことは、まずまちがいない事実であろう。
大内が勧誘にあたって提示した一件書類(趣意書、契約書、承諾書、借用証書、契約条件、慰安所で使用される花券の見本)のうち、「陸軍慰安所ニ於テ酌婦稼業(娼妓同様)ヲ為スコトヲ承諾」する旨を記し、慰安所で働く女性とその戸主または親権者が署名・捺印する「承諾書」の様式が、上海総領事館の定めた「承諾書」のそれとまったく同一であること34)、派遣軍慰安所と記された「花券」(額面5円と2円の2種類-田辺事件の金澤は「上海ニ於テハ情交金将校五円、下士二円」と供述していた-)を所持していたことが、それを裏づける決め手となろう。
②①についての永井の解釈(以下、『慰安所管理運営の性格の永井解釈』という)
5 で述べられているのが慰安所の経営方針だとすると、慰安所は軍が各兵站に設置する将兵向けの性欲処理施設ではあるが、日常的な経営・運営は業者に委託されることになっていた。しかし、利用料金の支払いは、個々の利用者が直接現金で行うのではなくて、軍の経費(=慰安費)からまかなわれる仕組みだったことになる。これがほんとうならば、軍の当初の計画では、将兵に無料で買春券を交付する予定だったことになる。このシステムでは、慰安婦の性を買うのは、個々の将兵ではなくて、軍=国家そのものである。もちろん、軍=国家の体面を考慮してのことであろうが、実際の慰安所ではこのような支払い方法は採用されなかった。だから、これをもって軍の当初の計画だったとただちに断定するのは控えねばならないだろうが、しかし、かえってこの計画にこそ、慰安所なるものの本質がよくあらわれていると言うべきであろう。
2-2.①2-1において大内が勧誘にあたって提示した契約条件
(該当部分参照)
②①についての永井の解釈(以下、『慰安婦契約の永井解釈』という。)
年齢条件をのぞけば、趣意書の文面といい、契約条件の内容といい、公娼制度の現実を前提に、さらに陸軍慰安所が実在し、軍と総領事館がこれを公認しているとの条件のもとでは、就業地が国外である点を除くと、この大内の活動は当時の感覚からはとりたてて「違法」あるいは「非道」とは言い難い。まして、これを「強制連行」や「強制徴集」とみなすのはかなりの無理がある。
2-3.①2-1事件後の警察の対応
警察は要注意人物として大内に監視の目を光らせ、彼の勧誘を受けた周旋業者に説諭して、慰安婦の募集を断念させたが(山形県の例)、しかし和歌山のように婦女誘拐容疑で検挙することはしなかった。
②についての永井の解釈(以下、『大内事件処理の永井解釈』という。)
自由主義史観派の言うように、慰安所が軍と関係のない民間業者の売春施設であるならば、田辺事件の例と同様、この大内の募集活動も、軍の名を騙って、女性に売春を勧誘するものであるから、婦女誘拐ないし国外移送拐取の容疑濃厚であり、警察としては放置すべきではなかったことになる。
3.警察報告にあらわれた募集業者の活動は、これ以外にあと二件あり、ひとつは、史料4の高知県知事の報告に、「最近支那渡航婦女募集者簇出ノ傾向アリ之等ハ主トシテ渡支後醜業ニ従事セシムルヲ目的トスルモノニシテ一面軍ト連絡ノ下ニ募集スルモノヽ如キ言辞ヲ弄スル等不都合ノモノ有之」37)とあるにとどまり、具体的な事実まではわからない。
4.他の一件は、宮城県名取郡在住の周旋業者宛に、福島県平市の同業者から「上海派遣軍内陸軍慰安所ニ於ル酌婦トシテ年齢二十歳以上三十五歳迄ノ女子ヲ前借金六百円ニテ約三十名位ノ周旋方」を依頼する葉書が届いたというもので、警察は周旋業者の意向を内偵し、本人に周旋の意志のないのを確認させている38)。こちらでは、年齢条件が大内の条件とは異なる。警察が説諭して募集をやめさせたのは、上に述べたことから当然の措置といえよう。また、史料1の外務次官通牒に定める渡航制限の趣旨からしても、そうあるべきである。前述の山形県警察がとった措置ともあわせて考えると、当時の警察の方針は、外務次官通牒に準拠しつつ、売春に従事する目的で女性が中国に渡航するのを原則として禁止していたのだと考えてよい。
5.①まとめ
警察資料を見る限り、陸支副官通牒にあげられた3つの好ましくない事例のうち、「故サラニ軍部諒解等ノ名儀ヲ利用シ為ニ軍ノ威信ヲ傷ツケ且ツ一般民ノ誤解ヲ招ク虞アルモノ」は大内の活動およびこれに類似のものをさし、「募集ノ方法、誘拐ニ類シ警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル」が、田辺の婦女誘拐容疑事件を念頭においていることは、まずまちがいない。残る「従軍記者、慰問者等ヲ介シテ不統制ニ募集シ社会問題ヲ惹起スル虞アルモノ」は、これに該当する事例は警察報告に見あたらぬ。このことは、未発掘の警察資料の存在を示唆するとも考えられるが、「従軍記者、慰問者」とあるので、あるいは警察ではなく、憲兵隊の報告だった可能性も十分ありうる。その場合には、警察報告には見つからないはずである。
②①についての永井の解釈(以下、『陸支副官通牒の永井解釈その1』という。)
この通牒があげている好ましくない事例がここで紹介したようなものだとすると、とくに「募集ノ方法、誘拐ニ類シ警察当局ニ検挙取調ヲ受クルモノアル」が田辺事件をさすのだとすれば、この通牒の解釈について、従来の説が当然のこととしてきた前提そのものを再検討せざるをえない。
というのは、この事件で事情聴取された業者の行為は、陸軍慰安所が軍と関係のない民間の施設であれば、まったくの詐欺・誘拐行為にほかならないと断定できるが、それがまぎれもない軍公認の施設だった場合には、そう簡単に誘拐とは断じえない性質のものだからである。たとえ本人の自由意志による同意があろうとも、売春に従事させる目的で前借金契約をかわして国外に女性を連れ出すこと、それ自体がすでに違法だというならば話は別だが、そうでないとすれば、この業者の行為は、軍の要請に応じて、その提示条件をもとに、酌婦経験のある成人の女性に、先方に着いてから何をするのか、一応きちんと説明した上で、上海行きを誘っただけにすぎず、決して嘘偽りをいって騙したのではない。まして、拉致・略取などに及んではいない。考えてみれば、慰安婦の勧誘法としては、これ以外にどんな方法があるだろうか。ただ、警察から誘拐行為と目されることになったのは、軍がそのような施設をつくり、業者に依頼して女性を募集しているという話そのものが、ありうべからざること、にわかには信じがたい、荒唐無稽なことだったからに、ほかならない。
警察資料に登場する慰安婦募集活動は、いずれもこの田辺事件と大同小異のものばかりであって、詐欺や拉致・拐取は一例もない。明らかに違法なのは、大内の示した契約条件の年齢条項だけである。しかし、未成年の女性を実際に勧誘した事実は警察報告からは読みとれない。
現存する警察資料が明らかにしている事実関係からすれば、この有名な陸支副官通牒が出された際に、現実に問題となった誘拐行為は、じつは慰安所そのものが軍の施設であるならば、合法とみなされるべきたぐいのものにすぎなかった。実際には、「内地で軍の名前を騙って非常に無理な募集をしている者」や「強制連行」「強制徴集」を行う悪質な業者などどこにも存在していなかったのだとすると、この陸支副官通牒も直接的にはその種の行為を禁止するために出されたのではないと解釈せざるをえない。
では、いったい何が取締まらねばならないと考えられていたのか、そもそもこの陸支副官通牒は何かを取り締まる目的で出されたものなのか。それを検討するには、このような活動に地方の警察がいったいどうのように反応したのかを見ておく必要がある。
Ⅳ.地方警察の反応と内務省の対策について
一、当時の警察の考えと対応は次のようにまとめられよう。
1.一部の地方を除き、軍の慰安所設置について何も情報を知らされておらず、慰安所の設置はにわかに信じがたい話であった。国家機関である軍がそのような公序良俗に反する事業をあえてするなどとは、予想だにしなかった。
2.かりに軍慰安所の存在がやむを得ないものだとしても、そのことを明らかにして公然と慰安婦の募集を行うのは、皇軍の威信を傷つけ、一般民心とくに兵士の留守家庭に非常な悪影響を与えるおそれがあるので、厳重取締の必要があると考えていた。そして、実際にそのような募集行為を行わないよう業者を指導し、管下の警察署に厳重取締の指令を下した。
この警察の姿勢をもっとも鮮明に打ち出したのは高知県だった。高知県には大内は立ち寄っていないが、すでに述べたように、「渡支後醜業ニ従事セシムル目的」で中国渡航婦女を募集する者が続出し、「一面軍ト連絡ノ下ニ募集スルモノヽ如キ言辞ヲ弄」していたのである。それに対して高知県警察は次のような取締方針を県下各警察署に指示した。
支那各地ニ於ケル治安ノ恢復ト共ニ同地ニ於ケル企業者簇出シ之ニ伴ヒ芸妓給仕婦等ノ進出亦夥シク中ニハ軍当局ト連絡アルカ如キ言辞ヲ弄シ之等渡航婦女子ノ募集ヲ為スモノ等漸増ノ傾向ニ有之候処軍ノ威信ニ関スル言辞ヲ弄スル募集者ニ就テハ絶対之ヲ禁止シ又醜業ニ従事スルノ目的ヲ以テ渡航セントスルモノニ対シテハ身許証明書ヲ発給セザルコトニ取扱相成度 42)
警察としては当然かくあるべき方針といえるが、「軍ノ威信ニ関スル言辞ヲ弄スル募集者ニ就テハ絶対之ヲ禁止シ、又醜業ニ従事スルノ目的ヲ以テ渡航セントスルモノニ対シテハ身許証明書ヲ発給セザルコト」になれば、慰安婦の募集は不可能となり、慰安所そのものが成り立なくなる。軍の計画は失敗せざるをえない。このような地方警察の反応を警察報告で知らされた内務省や陸軍省としては、早急に何らかの手を打たねばならないと感じたはずである。
二、2通牒の永井解釈の詳説
軍の慰安所政策(国家機関が性欲処理施設を設置・運営し、そこで働く女性を募集する)は、当時の社会通念からいちじるしくかけ離れたものであったうえ、そのことが府県警察のレベルにまで周知徹底されないうちに、業者のネットワークを伝って情報がひろがり、慰安婦の募集活動が公然と開始されたため、このような事態をまねいたのであった。この混乱を収拾して、軍の要請に応じて、慰安婦の調達に支障が生じないようにするとともに、地方の警察が懸念する「皇軍ノ威信ヲ失墜」させ、銃後の人心の動揺させかねない事態を防止するためにとられた措置が、内務省警保局長通牒(内務省発警第5号)であり、それに関連して陸軍省から出先軍司令部に出されたのが問題の陸支副官通牒(陸支密第745号)だったのである。
内務省警保局長通牒43)は、その冒頭で、最近、売春に従事する目的で中国に渡航する婦女が増加しており、かつまた「軍当局ノ諒解アルカノ如キ言辞ヲ弄」して、内地各地で渡航婦女の募集周旋をなす者が頻出しつつあると、現状を把握した上で、これらの「婦女ノ渡航ハ現地ニ於ケル実情ニ鑑ミルトキハ蓋シ必要已ムヲ得ザルモノアリ警察当局ニ於テモ特殊ノ考慮ヲ払ヒ実情ニ即スル措置ヲ講ズルノ要アリト認メラルル」44)と、慰安婦の中国渡航をやむをえないものとして容認する判断を下した。さすがに警保局長の通牒文書であるので、軍が慰安所を設置し、業者を使って慰安婦を集めている事実にあからさまにふれてはいないが、一連の警察報告を前において読めば、「現地ニ於ケル実情」なるものが陸軍の慰安所設置をさしているのは言わずとも明らかであろう。
その「実情」に鑑みて、「醜業ヲ目的トスル婦女ノ渡航」を「必要已ムヲ得ザルモノ」として認めたこの内務省警保局長通牒は、それまでの警察の方針を放擲して、慰安婦の募集と渡航を容認し、それを合法化する措置を警察がとったことを示す文書にほかならない。先ほど言及した高知県警察の禁止指令のごとき、地方警察の取締および防止措置をキャンセルし、軍の慰安所政策への全面的協力を各府県に命じる措置だったのである。同様に、史料1の外務次官通牒「不良分子ノ渡支ニ関スル件」(1937年8月31日付)が規定していた渡航制限方針を変更し、それを緩和する措置でもあった45)。
と同時に、警保局は慰安婦の募集と渡航の容認・合法化にあたって、「帝国ノ威信ヲ毀ケ皇軍ノ名誉ヲ害フ」ことのなきよう、「銃後国民特ニ出征兵士遺家族ニ好マシカラザル影響ヲ与フル」おそれのなきよう、また「婦女売買ニ関スル国際条約ノ趣旨ニモ悖ルコト無キ」よう、募集活動の適正化と統制を並行して実施するよう指令を下した。ここで好ましからざるものとして念頭に置かれていたのが、大内のそれであることは言うまでもない。通牒が国際条約にふれているのは、大内の所持していた契約条件の年齢条項を意識してのことと推察されるからである。
要するにこの通牒のねらいは、慰安婦の募集と渡航を容認・合法化し、あわせて募集活動に対する規制をおこなうことにあり、7項目にわたる準拠基準が定められた。第1~5項は「醜業ヲ目的トシテ渡航セントスル婦女」に渡航許可を与えるため、前記外務次官通牒に定める身分証明書を警察が発行する際の遵守事項を定めたものである。具体的には、現在内地において売春に従事している満21才以上の女性で性病に罹患していない者が華北、華中方面に渡航する場合に限りこれを黙認し、その際、契約期間が終われば必ず帰国することを約束させ、かつ身分証明証の発給申請は本人自ら警察署に出頭して行い、同一戸籍内の最近尊族親または戸主の同意書を示すこと、さらに発給にあたっては稼業契約その他の事項を調査し、婦女売買又は略取誘拐等の事実がないことを確認してから、身分証明を付与すること、とされている。当時の刑法、国際条約、公娼規則に照らしてぎりぎり合法的な線を守ろうとすれば、だいたいこのあたりに落ち着くのである。
もっとも、この遵守事項がきちんと守られたかどうかは、また別問題である。なぜなら、この通牒が発令されて2ヶ月ばかり後に北海道の旭川警察署が、「醜業ヲ目的トシテ」中国に渡航する満21才未満の芸妓に身分証明書を発給した事実が知られているからである46)。
第6、 7項は募集業者に対する規制であり、「醜業ヲ目的トシテ渡航セントスル婦女」の募集周旋にあたって「軍ノ諒解又ハ之ト連絡アルガ如キ言辞其ノ他軍ニ影響ヲ及ボスガ如キ言辞ヲ弄スル者ハ総テ厳重ニ之ヲ取締ルコト」、「広告宣伝ヲナシ又ハ事実ヲ虚偽若ハ誇大ニ伝フルガ如キハ総テ厳重ニ之ヲ取締ルコト」、「募集周旋等ニ従事スル者ニ付テハ厳重ナル調査ヲ行ヒ正規ノ許可又ハ在外公館ノ発行スル証明書等ヲ有セズ身許ノ確実ナラザル者ニハ之ヲ認メザルコト」の三点が定められた。
つまり、慰安婦の募集周旋において業者が軍との関係を公言ないし宣伝することを禁じたのである。通牒が取締の対象としたのは、業者の違法な募集活動ではなくて、業者が真実を告げること、言い換えれば、軍が慰安所を設置し、慰安婦を募集していると宣伝し、知らしめること、そのことであった。慰安婦の募集は密かに行われなければならず、軍との関係はふれてはいけないとされたのである47)。
この通牒は、一方において慰安婦の募集と渡航を容認しながら、軍すなわち国家と慰安所の関係についてはそれを隠蔽することを業者に義務づけた。この公認と隠蔽のダブル・スタンダードが警保局の方針であり、日本政府の方針であった。なぜなら、自らが「醜業」と呼んではばからないことがらに軍=国家が直接手を染めるのは、いかに軍事上の必要からとはいえ、軍=国家の体面にかかわる「恥ずかしい」ことであり、大っぴらにできないことだったからだ。このような隠蔽方針がとられたために、軍=国家と慰安所の関係は今にいたっても曖昧化されたままであり、それを示す公的な資料が見つかりにくいというより、そもそものはじめから少ないのは、かかる方針によるところ大と言えるであろう。その意味では、慰安所と軍=国家の関係に目をつむり、できるかぎり否認せんとする自由主義史観派の精神構造は、この通牒に看取される当時の軍と政府の立場を、ほぼそのまま受け継ぐものと言ってよい。
三、陸支副官通牒についての永井の解釈(以下、『陸支副官通牒の永井解釈その2』という。)
陸支副官通牒はこのような内務省警保局の方針を移牒された陸軍省が48)、警察の憂慮を出先軍司令部に伝えると共に、警察が打ち出した募集業者の規制方針、すなわち慰安所と軍=国家の関係の隠蔽化方針を、慰安婦募集の責任者ともいうべき軍司令部に周知徹底させるため発出した指示文書であり、軍の依頼を受けた業者は必ず最寄りの警察・憲兵隊と連絡を密にとった上で募集活動を行えとするところに、この通牒の眼目があるのであり、それによって業者の活動を警察の規制下におこうとしたのである49)。であるがゆえに、この通牒を「強制連行を業者がすることを禁じた文書」などとするのは、文書の性格を見誤った、誤りも甚だしい解釈と言わざるをえない。
Ⅴ.おわりに(以下、『軍慰安所システムの永井解釈』という)
1.1937年末から翌年2月までにとられた一連の軍・警察の措置により、国家と性の関係に一つの転換が生じた。軍が軍隊における性欲処理施設を制度化したことにより、政府自らが「醜業」とよんで憚らなかった、公序良俗に反し、人道にもとる行為に直接手を染めることになったからである。公娼制度のもと、国家は売春を公認してはいたが、それは建て前としては、あくまでも陋習になずむ無知なる人民を哀れんでのことであり、売春は道徳的に恥ずべき行為=「醜業」であり、娼婦は「醜業婦」にすぎなかった。国家にとってはその営業を容認するかわりに、風紀を乱さぬよう厳重な規制をほどこし、そこから税金を取り立てるべき生業だったのである。
2.しかし、中国との戦争が本格化するや、その関係は一変する。いまや出征将兵の性欲処理労働に従事する女性が軍紀と衛生の維持のため必須の存在と目され、性的労働力は広義の軍要員(あるいは当時の軍の意識に即して言えば「軍需品」と言った方がよいかも知れない)となり、それを軍に供給する売春業者はいまや軍の御用商人となったのである。国家が民間で行われている性産業・風俗営業を公認し、これを警察的に規制することと、国家自らが、政府構成員のために性欲処理施設を設置し、それを業者に委託経営させることとは、国家と性産業との関係においてまったく別の事柄なのである。
3.そう考えるならば、同じように軍の兵站で働き、軍の必要とするサービスを供給する女性労働力であった点において、従軍看護婦と従軍慰安婦との間には、その従事する職務の内容に差はあれ、本質的な差異を見いだすことはできない。慰安婦もまたその性的労働によって国家に「奉仕」した/させられたのであった。
4.一連の措置により、慰安婦の募集と渡航が合法化されたことは、性的労働力が軍需動員の対象となり、戦時動員がはじまったことを意味している。それはまた性的サービスを目的とする風俗産業の軍需産業化にほかならず、内地・植民地から戦地・占領地へ向けて風俗産業の移出とそれに伴う多数の性的労働力=女性の流出と移動を生みだした。慰安婦は戦時体制が必然的に生みだした国家と性の関係変容を象徴する存在であり、戦時における女性の総動員の先駆けともいうべき存在となった。彼女たちにつづき、人間の再生産にかかわる家庭婦人が「生めよ殖やせ」の戦時総動員政策のもとで、銃後の母・出征兵士の妻として、兵力・労働力の再生産と消費抑制の大任を負わされ、未婚女性は、あるいは軍需工場での労働力として、あるいは看護婦から慰安婦にいたるさまざまな形態の軍要員として動員されたのであった。
5.しかし、ひとしく戦時総動員と言っても、そこには「民族とジェンダーに応じた「役割分担」」50)が厳然と存在し、内地日本人男性のみを対象とした徴兵(あるいは軍需工場の熟練工)を頂点に、各労働力の間には截然たる階層区分が存在していた。労務動員により炭坑や鉱山で肉体労働に従事した朝鮮人・中国人労働者のために事業場慰安所が設立されたことを思うと51)、この戦時総動員のヒエラルヒーの最低下層におかれていたのが、慰安所で性的労働に従事した女性、なかんずく植民地・占領地出身の女性であったのはまちがいない。彼女たちは戦時総動員体制下の大日本帝国を文字どおりその最底辺において支えたのである。
6.このような戦時総動員のヒエラルキーが形づくられた要因はさまざまであるが、慰安婦に関して言えば、軍・警察の一連措置が内包していたダブル・スタンダードの持つ役割にふれないわけにはいかない。すでに述べたように、軍・警察は慰安所を軍隊の軍紀と衛生の保持のため必須の装置とみなし、慰安婦の募集と渡航を公認したが、同時に軍・国家がこの道徳的に「恥ずべき行為」に自ら手を染めている事実については、これをできるかぎり隠蔽する方針をとった。軍の威信を維持し、出征兵士の家族の動揺を防止するために、すなわち戦時総動員体制を維持するために、慰安所と軍・国家の関係や、慰安婦が戦争遂行上においてはたしている重要な役割は、公的にはふれてはいけないこと、あってはならないこととされたのである。
7.国家と性の関係は現実に大きく転換したが、売春=性的労働を「公序良俗」に反する行為、道徳的に「恥ずべき行為」であるとする意識、さらに慰安婦を「醜業婦」と見なす意識はそのまま保持され続け、そこに生じた乖離が上記のような隠蔽政策を生み出すにいたった。慰安婦は軍・国家から性的「奉仕」を要求されると同時に、その関係を軍・国家によってたえず否認され続ける女性達であった。このこと自体が、すでに象徴的な意味においてレイプといってよいだろう。従軍慰安婦が、同様に軍の兵站で将兵にサービスをおこなう職務に従事しながら、従軍看護婦とは異なる位置づけを与えられ、見えてはならない存在として戦時総動員ヒエラルキーの最底辺に置かれたのは、このような論理と政策の結果とも言えよう。慰安所の現実がそこで働かされた多くの女性、なかんずく植民地・占領地の女性にとって性奴隷制度にほかならなかったのは、このような位置づけと、それをもたらした軍・警察の方針によるところが大きいのである。
Ⅵ.補論:陸軍慰安所は酒保の附属施設(『慰安所兵站施設論』の詳論)
(該当部分参照)
以上まとめると、日中戦争期につくられた陸軍の慰安所は、軍の兵站施設である野戦酒保の付属慰安施設であったのであり、その経営を受託された慰安所業者は軍の請負商人であり、可能であれば、軍属の身分を与えられ、制服の着用が許されたのだと考えられる。
追記(2005年6月12日記、2007年3月21日)
2005年6月11日に古書店で、『初級作戦給養百題』というタイトルの図書を入手した。これは、陸軍の経理学校の教官が経理将校の教育のために執筆した演習教材集である。
編者は清水一郎陸軍主計少佐。発行所は陸軍主計団記事発行部で、同部刊行の『陸軍主計団記事』第三七八号附録として刊行された。表紙の右肩に「日本将校ノ外閲覧ヲ禁ス」と書されている。なお、『陸軍主計団記事』は靖国偕行文庫には全巻揃っているそうである。
奥付がないので、『初級作戦給養百題』の刊行日付は不明だが、序文に「二六〇一年ノ正月之ヲ発意シ漸ク斯クノ如ク纏メ上ケタリ」とあるので(p.1)、昭和16年すなわち1941年に刊行されたものと推測される。
(該当部分参照)
後方業務遂行のためにも、経理将校は慰安所の業務についてそれなりの知識を有していなければ、その職責を果たせないことになるが、その要請に応じるため、経理将校の養成課程においてそれに関する教育が行なわれていたことを示す元経理将校の貴重な証言がある。
(該当部分参照)
鹿内の証言は、一九四一年には陸軍経理学校で経理将校およびその候補生に対して慰安所設置業務についての教育が行なわれ、そのためのマニュアルができていたことを明らかにしてくれている。
と同時に、当時の日本陸軍では慰安所といえば、もっぱら将兵向けの性欲処理施設を指していたことをも示している。慰安所が軍の後方施設であったことを如実に物語る証言といえよう。
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永井氏の注は、該当部分を参照のこと
いったん休んで、次回コメントは、反論の構成になります。』(2007/03/28 00:26)
倉西祐子著 『日本書紀の真実--紀年論を解く』という本が、
講談社選書メチエで5月に出ました。図書館にあったので何気なく借りて
みました。わりと面白く一晩で読めました。
戦前の小学校では、「じんむすいぜいあんねいいとく・・・」と歴代天皇
の名を暗唱させられたそうですが、今ではそんなことすら知っている人は
少なくなりました。日本書紀には、第一代神武天皇から第四〇代持統天皇
まで、それぞれの在位年数がちゃんと書いてあります。それによれば、神武
元年が持統の時代の何年前であり、西暦換算すると紀元前六六〇年である
ということも分かるわけです。ただそれは歴史的事実ではないようです。
(推古9年の辛酉の年から、1260年遡った年が神武元年とされた。)
日本書紀に書いてある年数の数え方と実際の歴史との矛盾という学問は、
江戸時代に始まり、明治時代に盛んだったそうですが、戦後は日本書紀を
軽視する傾向が強まり廃れていました。この本は久しぶりの収穫という
ことなんでしょう。
仁徳元年は313年となっていたが本当は397年だ!なんて言ってみても、
そもそも仁徳に興味がない人には無意味なので書きません。
この本は謎解き風に記述されているので、以下ネタバラシになります。
(1)倭の五王について
倭の五王とは、『宋書』や『梁書』という中国の歴史書に書いてある
一字名前の日本王のこと。この本の結論では、
賛 仁徳
讃 去来穂別皇子
珍 反正
禰 うじのわきいらつこ
済 允恭
興 雄略
武 清寧
となっています。天皇ではなく「太子」が入っているのは、
この時代(五世紀前後)、天皇が祭司権、<太子>が政治的権限を持つ
両頭的体制であった可能性が高いと筆者が見ているからです。
(この時代はまだ天皇という言葉もないし制度も明確ではなかった、
それを後世が無理矢理「天皇」という制度に合わせて捏造したわけです。)
つまり<太子>が自分の名前で文書を中国に送ったのをそのまま記述
している場合、あとで天皇位の万世一系というつじつま合わせをした
日本書紀と合わなくなって来るわけです。
年数的には、応神元年から雄略5年まで紀年上192年だが、実際は
それから120年を引いた72年間である。
(3)それに対して、
神功皇后(天皇ではないのに紀年がある)の期間は、
書記にある69年ではなく、それに120を足した
西暦201年から389年までの189年間である。ということが
結論されます。卑弥呼ないし神功皇后の名による、大なり小なり
母権性的傾向があった時代がそれだけ長く続いたということになります。
それを隠蔽するためにも年数を減らしたのか。
著者の説がすべて正しいわけでもないかもしれない。でもここに書いた
2点については正しいとすることによって興味深い理解が得られると思う。
(なおこの本はわたしの文章と違いイデオロギー臭はまったくありません。)