死刑を望むのは甘えではないか

1.グアンタナモの収容者を米軍は即時解放せよ。

参考  http://www.asyura2.com/0406/war58/msg/991.html

2.さて宅間某(宅間守氏)に対し、死刑が執行されたそうです。

わたしは死刑廃止論です。肉親とかが殺されたら犯人を憎悪するのは当然だと思う。だがその思いを国家が私に代わって晴らしてくれるべきだ、などという発想はおかしい。殺されたということは絶対的な不条理であり、宗教によって被害者の気持ちが救われることはありえても、国家はそうした問題には関与しなければいけないわけではないし関与することは不可能である。第三者が被害者感情がどうのこうのと口を出すのもおかしい。被害の絶対性に思いを致すならば、そこにひたすら立ちつくす被害者を放っておくことしかできない。

汚辱にまみれて死んでいくべき

わたしなのに。ついついごまかして普通人のふりをしてしまう。

http://bbs7.otd.co.jp/273430/bbs_plain?range=-50&base=3000 西尾幹二(日録)感想掲示板

左翼というだけで、「汚辱」と決めつける上記のようなサイトはわたしの守らなければならない<初心>を思い出させてくれる。感謝。

2985 日録の 年上の長谷川 2004/10/13 22:17

女性 広島県

トラックバックをたどっていたら

こんなところや

こんなところにたどりついてしまった。

やはり全共闘系列とジェンダーフリーと、反つくる会と、

反日自虐史観主義者?は同じ仲間であると実感しました。

「汚辱に塗れ」の(c)はミシェル・フーコー。

198 汚辱に塗れた人々の生 丹生谷貴志訳

http://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/db1990/9400fm06.htm

『ミシェル・フーコー思考集成VI 1976-1977 セクシュアリテ/真理』

聖人でなければ孤独である

詩に、悠々たる大空*1は父母だとある。とすれば、四海の内は皆この父母の子の兄弟だ。だが、この兄弟たちのつきあい(相友愛する)方を見ると、なかには性命(本性や天命)を以てつきあう者もあれば、表面的なつきあいにとどまる者もあり、またたがいに縁のない人たちもいる。熊沢君と私とのつきあいは性命を以てするつきあいであった。「徳は弧ならず必ず隣りあり」(『論語』里仁篇)と言われ、自分は孤立しないような徳をもっているとはいえないが、昨秋、有徳の隣人の訪問を受けた。(後略)*2

この文章で興味深かったのは、「徳は弧ならず必ず隣りあり」を逆に読んでいるところ。(わたしは絶対的で絶望的な孤独のなかにいる)つまりわたしは未だ徳をもってはいない。というふうに。わたしたちは幾人かのあるいはたくさんの人々に囲まれて生きる。だが、恋愛といい家族といい同志といい国家といいそれらはすべて「表面的なつきあいにとどまる」のではないか。(このわたしの孤独をわたしはどうすることもできない。)

病弱で絶えず死を意識しながら生きた中江藤樹の無意識にはそうした孤独感があったのかもしれない。であればこそ毎朝着飾って礼拝を捧げたのだろう。だが絶望感を語ることは無意味である。友人との関係を喜び、日常生活の些事に喜びを見出すこともできる。ひとはポジティブにしか生きられないものなのだ。意識など切り捨てても生きていける。

*1:コウ天

*2:p230『中江藤樹』山住正己 朝日新聞社

ファルージャの惨状

今日、「イラク占領監視センター」元所長エマン・ハーマスさんというイラク人女性の講演を聞きに行った。残虐な事実を詳細にメモも見ずにしゃべり続けるすごい方だった。本当は文学研究者。

ファルージャは30万人都市だが、その8~9割はすでに市外にでている。残った者たちを全員テロリスト(に準ずる者)と決めつけ、4方から取り囲んだ上で「皆殺し」にしようとする作戦。現在も市内に数万の市民が残っているとみられるが、家の外に出ると撃たれるので餓死さえ迫っている状態だという。

また米軍は赤新月社をはじめとする医療物資、医療スタッフが市内にはいることを拒んでいる。

もらったビラのうち1枚は次のとおり。

http://noharra.at.infoseek.co.jp/iraq1.jpg

http://noharra.at.infoseek.co.jp/iraq2.jpg

アメリカの戦争拡大と日本の有事法制に反対する署名運動 のサイトはここ。

http://www.jca.apc.org/stopUSwar/

アジア人になれるのか

だけども野原は、12/20の文章で水村を引用しながら、この結論には触れず、「日本人の名誉白人意識は揺らいでいない」という反対のことを断言しているのだ。

 日本国内で無自覚に生きている限り、韓国と出会わざるをえないという体験などしなくても生きていける、という国内体験だけで生きる人の実感をベースに語っているからだ。“なかった派”やネット上の嫌韓人士の存在を身近に感じているのも理由の一つだろう。

わたしは数年前次の文章を書いた。

http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/dai.htm「わたしたちは忘却を達成した」

日中戦争時の日本軍の残虐行為をことさらに強調したものである。わたしたちの現実というものはいくつかの忘却、いくつかの隠蔽のうえに成り立っているものでであると思う。しかしここで書き手はあるアポリアに突き当たるのだ。日本という現実の内部存在者でありながら何故、野原だけがその「忘却」に気づき、現実総体を糾弾するという外部の立場に立つことができるのか、という。

「日本軍の残虐行為」がほらこんなに存在するじゃないか、と事実とされる物の膨大さを突然提示するという方法は有効ではないだろう。わたし、日本国内で平和に暮らしているとされるわたしからその「残虐行為」への回路がわたしにとって必然であることを同時に提示しない限り、説得力がない。

 「日本国内で無自覚に生きている限り、韓国と出会わざるをえないという体験などしなくても生きていける」、という国内体験だけで生きる人の実感というのもあやしいものだ。

「今、若い人に、あなたは自分がアジア人であるのを知らないと、そんなことを教えても無駄である。」かもしれない。いずれ歳取ればわかるだろう。それでは遅すぎるのかどうか、は分からないが。

・・・

(長くなったので一応UPします。苦労した割にまともな文章が書けなかった・・・)

女性国際戦犯法廷への再審請求

http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/tokyo4.html#kyokuto

上記では、

極東軍事裁判とニュルンベルグ裁判、旧ユーゴの内戦における戦争犯罪を裁く国際法廷を、比較して検討している。

・ 旧ユーゴの内戦における戦争犯罪を裁く国際法廷が活動しており、その裁判官は非当事者国から国際司法裁判所を通じて選出され、一審でなく二審制度を採用し、判決から死刑を除外している。

3点において進歩があったと評価している。

・ しかし、この国際法廷のささやかな進歩を突破口として、かつての国際軍事裁判が審理し得なかった問題(特に、戦勝国家や国民自身の戦争責任、性的加害についての女性の視点からの追求)や世界的問題(特に、核兵器製造と実験、科学技術の環境破壌など)を審理せよと要求していくことは可能であり、それを止揚していく真の審理の場を構想していくためにも必要である。

 性的加害についての女性の視点からの追求については、松下がこれを書いてから4年後、「女性国際戦犯法廷」という形で実現した。

 この法廷は、弁護人の不在*1、被告人が死亡している、という問題点は存在しているものの、すでにある国家や国際組織による法廷を利用したのではなく、民衆が自前で実力で審理の場を形成したという点で大きく評価できるものです。

民衆法廷については、Jonah_2さんが次のように書いている。

http://d.hatena.ne.jp/Jonah_2/20050116

民衆法廷は過大評価も過小評価もしない方がいいと思う。例えば、民衆法廷は権力による正当性がないので、被告の身柄拘束ができず、もしやれば誘拐罪になってしまう。起訴状や法廷証言が名誉毀損にあたる可能性もある。民衆法廷はそのような“弱い”法廷である。しかし、それでも民衆法廷を開く意義があるとすれば、それはどこにあるのだろうか。

それは、民衆法廷でなければ裁けないものがある、ということだ。たとえば、近代刑法では基本的に個人を犯罪の主体とする。しかし、たとえばラッセル法廷では総力戦という現代の戦争の特徴に着目して、(個人ではなく)アメリカ政府の戦争政策自体を「国家的犯罪」として問題にしている。もう一つ、問題にしなければならないのは、法廷に正当性をあたえる権力、つまり国家や国際社会そのものがしばしば国際法を破るという事実があるということである。権力により正当性が付与された法廷が裁けず、裁こうともしない「犯罪」を裁くことが民衆法廷の意義だ。これらは国際法の水準によって裁かれており、「魔女裁判」や「人民裁判」とは違う。

(略)

最後に僕の感想を言えば、被告が出廷することはちょっと考えられないのだが、勝手連的な被告弁護団が参加しても面白いんじゃなかろうか

これをうけてコメント欄に何人もの人が書き込みさらに話題が発展している。

 公開性について、「一般人が潜り込む手段としては「傍聴」くらいしかないようでしたし、その傍聴でも「妨害行動、ならびに出席者や傍聴者の権利を侵害する行為をしないこと」という内容の宣誓書に署名が条件とかで、」一般人の参加は制限されていたのではないかという意見があった。無条件に公開したら法廷自体つぶされてしまうという怖れがあったのなら、防衛するのはしかたないとして、できるかぎりの公開性が目指されるべきだろう。

 前回法廷は・国際的な参加者・公平な判断 という点で評価しうると思う。一方、・広範な市民の参加 ・いわゆる右より人士の参加 を欠いたという点を指摘しうるだろう。

 この裁判には、被害者女性の救済と東京裁判の再審という二つの面があったわけだが、前者に力点が置かれた。次回は後者に力点を置いたものにしてみてもよいのではないか。

 というのは、「天皇の戦争責任問題」は国民全体の責任問題とも強く結びついている。これは国民全体という主体あるいは客体をどうやって形成するのかという問いである。天皇を含む統治機構は戦前からのものを占領軍が許し継続させたという面がある。天皇を含む統治機構の一定の優秀さと偶然は戦後の経済成長を成し遂げた。しかしそれは、国民自らが主体形成し自分たちの社会の方向性を形成していくという面では弱かった。戦争責任問題における国論の2分という問題は、押しこめられたように見えても全然解決されておらず、中国、韓国の国力増大に伴い問題は(日本から見た場合)悪化しているともいえる。しかし自民党などの側は一貫してこれを力で押しこめて乗り切っていこうとした。いわゆる右傾化にともないそれは一応成功し、現在政界の半ばは憲法改正に進もうというところまできた。ところが、今回の問題で戦争責任問題の根本にはなんら解決がついていないことが、足下のNHKから明らかになってしまった。理屈で言えばこれを解決できなければ憲法改正どころではないのである。

 ところで海外に多くの被害者がいることは事実である。彼女たちが求めていることは必ずしも金銭に換算できる賠償ではない。謝罪、あるいは承認である。民衆法廷は国家からの謝罪を与えられなかったが、彼女たちが自らの憤懣、鬱屈を言葉にする機会を与えその主張を承認した。そのことによって彼女たちはカタルシスを得た。日本国に代わって国際法廷はある程度大きな物を被害者に与えたのである。プラグマチックに考えて、日本国はこのような無形のものを彼女たちに与えて一定の満足をしてもらう方法を真剣に検討すべきである。(前提としての誠意がなければいけないが・・・)

『女性国際戦犯法廷の全記録・ 第5巻 日本軍性奴隷制を裁く-2000年女性国際戦犯法廷の記録』http://www.ryokufu.com/books/ISBN4-8461-0206-8.html

『女性国際戦犯法廷の全記録II 第6巻 日本軍性奴隷制を裁く-2000年女性国際戦犯法廷の記録』http://www.ryokufu.com/books/ISBN4-8461-0207-6.html

 裁判というのはどんな場合でも記録が膨大になり気後れするが、考えてみれば記録が存在しないよりずっとましなのである。*2記録があればどこからでも好きなところから反論できる。

 安倍晋三が「公平性がない」と文句を言ったというのも、再審請求とみなしうる。天皇有罪を言った以上、国民の多くから再審請求が出てもまあ当然ではある。再審請求を堂々と受けて立ったら良いだろう。

 例えば、双方数名の代表者を選び、インターネットで延々と討論会をやるといった形であれば、費用も掛からず、公開性も保てる。*3

 どのような形であれぜひ実現してほしいものだ。

*1:1, 「被告と被告側の弁護人がいない」⇒ 女性国際戦犯法廷は, 「日本国家の責任」を問うため, 開催2ヶ月前に全裁判官の名前で, 当時首相であった森嘉朗氏に被告側弁護人(被告代理人)の出廷を要請した. しかし, 開催直前になっても何の応答もなかった. 従って裁判官は「アミカスキュリエ」(法廷助言人)という形で被告側の弁護を取り入れた.「法廷」では3名の弁護士がアミカスキュリエとして被告側主張を行い,「慰安婦」問題についての日本政府の立場や主張を明確に紹介し, 被告が防御できない法廷の問題点を法廷のなかで指摘した.

*2:226事件の巻き添えで死刑になった北一輝などあまり記録がないでしょう?

*3:国際性を保つため英語、中国語などへの翻訳を必須とすれば費用は掛かる。

foursue発言(2回目)

# foursue 『まず、あなたが言う国際社会はようするに白人主体の社会でしたね?

次に満州国建国の前提ですが、http://d.hatena.ne.jp/ShinShinohara/20050108を読んでください。このため日本人が飢え死にしないように手を打つ必要がありますね?

石原莞爾の賭けと立証される機会ですが、賭けであるというのは予測の範囲を出ませんし、立証される機会など得られるわけがありませんね?この部分はあなたの文章にとって蛇足でしょう。

次に「南京大強かん」ですが、まず、南京というのは要塞であり中華民国の元首都であり戦場になる可能性の非常に高い場所でした。そこに一般市民を放置している中国軍にむしろ私は怒りを感じます。普通、日本軍であれば一般人を無理にでも退避させます。

次にキャンペーンですが当時も確かにアメリカなどの数誌が取り上げてます、しかしそれは戦時中であり、しかも取り上げた多くが日本にとっての敵国であり数字もばらばらです。すべてを信頼することはできません。そのだいぶ経った後キャンペーンが拡大したのは中国が外交カードとするためとも取れます。

最初に書いた国際社会が白人社会であったという事実があるので、甘ったれた事は言っているとは言えません。

誹謗中傷することで感情を満足させる行為はあまりお勧めしませんよ。

それと

”すでに「南京大強かん」を起こしてしまったのでそれは大々的にキャンペーンされ、”

から

”開戦を国民に納得させる手数は大幅に省かれた。”

の繋がりが日本語として意味を成しません。小学生でもわかるように書いてください。

最後に言いますが、私の著作物全文の半分以上を引用とは言えません。転載です。

リンクを張るだけで十分ですので読者の誤解を避けるために転載部分を削除してください。

あなたのページに多々見られますが無断転載は明らかな著作権侵害です。

著作物強姦はやめた方がいいと思います。』

応答が遅れ失礼しています。

女性のためのアジア平和国民基金(アジア女性基金)

 について考えてみよう。

http://www.awf.or.jp/

女性のためのアジア平和国民基金(アジア女性基金)

アジア女性基金は1995年、政府の決定により設立されました。「慰安婦」とされた方々への道義的な責任を痛感した日本政府が、国民と協力して、償い事業など以下の各事業を行うために発足させたものです。

基金はまた、「慰安婦」問題に関する歴史資料の収集と編集、公刊に力を尽くし、募金活動の中でも「慰安婦」問題についての認識と理解を社会に広める活動を行ってまいりました。募金活動へのみなさまの積極的な参加もあり、「慰安婦」問題についての認識と理解を高めることに寄与することができたと考えております。

「慰安婦」問題についての認識と理解は日本社会に広まったか。この十年間で慰安婦たちも皇軍兵士たちもその多くの部分が亡くなった、残っているのは1割くらいかもしれない。そうした絶対的忘却に加えて、id:noharra:20050205#p1 で引用した星野氏の文章にもあるように、「戦時中に日本が朝鮮や中国に対して行った行為についても、なかったことと見なす人が増えている。」ナルシスティックな歴史歪曲だ。慰安婦のことを自分が知らないという初期条件を無視して、NHK問題を語りうるとする鈍感さが当たり前のものとされている。NHK問題という論争的言説の根拠にはそうした倒錯があるように感じられた。そこで、慰安婦の証言をコピペしてみたわけである。id:noharra:11001201 に再掲してみた。

 慰安婦の請求が法的に認められるべきかどうかという議論にはわたしは興味はそんなにはなかった。その前段階での、慰安婦の声を聞くこと、顔を見ることが大事だと思った。

「慰安婦」問題についての認識と理解を社会に広めることは、国家に準ずる団体である平和国民基金の趣旨である。したがってわたしのコピペもその方向にそったものである。ところが、下記を読むと慰安婦が強制的に送り出されたものなのかをめぐって、2003年まで長い間議論になったなんて書いてある。まあそれでは「慰安婦」制度の根本を押さえずに創った制度として、慰安婦本人たちに忌避されても当然だろう。「責任を痛感した」といくら言っても本人たちに忌避されざるをえないような向き合い方では謝罪にはならない。償いとは何かよく分からない。金をやっときゃあ良いだろうという金持ちの傲慢さと受け取られる。

 id:noharra:20050211#p5 でも書いた戦争責任をどう取るかという根本が確立できず、謝罪を形にしなければならないときに答えを出そうとすると常に右よりのナルシズムによって答えの形成が妨げられてきた長い長い戦後があったわけである。「答えの形成が妨げられてきた長い長い戦後」とは右翼も言いそうなフレーズではあるのだが、でも60年の歴史を省みてみれば妨げていたのは体制派の方だ。反省の代わりに憲法9条=平和主義を全面に押し出す形で、答えの形成を先送りしたまま今まで来た。

「やぐら」運営中

かげm 『ゲストブック欄のかきこみありがとうございました。金時鐘のメモは読みにくいと思いますが(文脈がないと読めない)、そんななか見ていただいてありがとうございます。

「やぐら」ですが、現在も石垣★Cafeとして24時間運営されており、異様な雰囲気をかもしだしています。ちなみに「次世代メディア」とぼくは書いていましたが、実際は「新世代メディア」と書いています。そこはぼくの間違いです。カフェのHPもできているので、ぜひ見てください。』(2005/03/09 09:31)