http://members.at.infoseek.co.jp/noharra/tokyo4.html#kyokuto
上記では、
極東軍事裁判とニュルンベルグ裁判、旧ユーゴの内戦における戦争犯罪を裁く国際法廷を、比較して検討している。
・ 旧ユーゴの内戦における戦争犯罪を裁く国際法廷が活動しており、その裁判官は非当事者国から国際司法裁判所を通じて選出され、一審でなく二審制度を採用し、判決から死刑を除外している。
3点において進歩があったと評価している。
・ しかし、この国際法廷のささやかな進歩を突破口として、かつての国際軍事裁判が審理し得なかった問題(特に、戦勝国家や国民自身の戦争責任、性的加害についての女性の視点からの追求)や世界的問題(特に、核兵器製造と実験、科学技術の環境破壌など)を審理せよと要求していくことは可能であり、それを止揚していく真の審理の場を構想していくためにも必要である。
性的加害についての女性の視点からの追求については、松下がこれを書いてから4年後、「女性国際戦犯法廷」という形で実現した。
この法廷は、弁護人の不在、被告人が死亡している、という問題点は存在しているものの、すでにある国家や国際組織による法廷を利用したのではなく、民衆が自前で実力で審理の場を形成したという点で大きく評価できるものです。
民衆法廷については、Jonah_2さんが次のように書いている。
http://d.hatena.ne.jp/Jonah_2/20050116
民衆法廷は過大評価も過小評価もしない方がいいと思う。例えば、民衆法廷は権力による正当性がないので、被告の身柄拘束ができず、もしやれば誘拐罪になってしまう。起訴状や法廷証言が名誉毀損にあたる可能性もある。民衆法廷はそのような“弱い”法廷である。しかし、それでも民衆法廷を開く意義があるとすれば、それはどこにあるのだろうか。
それは、民衆法廷でなければ裁けないものがある、ということだ。たとえば、近代刑法では基本的に個人を犯罪の主体とする。しかし、たとえばラッセル法廷では総力戦という現代の戦争の特徴に着目して、(個人ではなく)アメリカ政府の戦争政策自体を「国家的犯罪」として問題にしている。もう一つ、問題にしなければならないのは、法廷に正当性をあたえる権力、つまり国家や国際社会そのものがしばしば国際法を破るという事実があるということである。権力により正当性が付与された法廷が裁けず、裁こうともしない「犯罪」を裁くことが民衆法廷の意義だ。これらは国際法の水準によって裁かれており、「魔女裁判」や「人民裁判」とは違う。
(略)
最後に僕の感想を言えば、被告が出廷することはちょっと考えられないのだが、勝手連的な被告弁護団が参加しても面白いんじゃなかろうか
これをうけてコメント欄に何人もの人が書き込みさらに話題が発展している。
公開性について、「一般人が潜り込む手段としては「傍聴」くらいしかないようでしたし、その傍聴でも「妨害行動、ならびに出席者や傍聴者の権利を侵害する行為をしないこと」という内容の宣誓書に署名が条件とかで、」一般人の参加は制限されていたのではないかという意見があった。無条件に公開したら法廷自体つぶされてしまうという怖れがあったのなら、防衛するのはしかたないとして、できるかぎりの公開性が目指されるべきだろう。
前回法廷は・国際的な参加者・公平な判断 という点で評価しうると思う。一方、・広範な市民の参加 ・いわゆる右より人士の参加 を欠いたという点を指摘しうるだろう。
この裁判には、被害者女性の救済と東京裁判の再審という二つの面があったわけだが、前者に力点が置かれた。次回は後者に力点を置いたものにしてみてもよいのではないか。
というのは、「天皇の戦争責任問題」は国民全体の責任問題とも強く結びついている。これは国民全体という主体あるいは客体をどうやって形成するのかという問いである。天皇を含む統治機構は戦前からのものを占領軍が許し継続させたという面がある。天皇を含む統治機構の一定の優秀さと偶然は戦後の経済成長を成し遂げた。しかしそれは、国民自らが主体形成し自分たちの社会の方向性を形成していくという面では弱かった。戦争責任問題における国論の2分という問題は、押しこめられたように見えても全然解決されておらず、中国、韓国の国力増大に伴い問題は(日本から見た場合)悪化しているともいえる。しかし自民党などの側は一貫してこれを力で押しこめて乗り切っていこうとした。いわゆる右傾化にともないそれは一応成功し、現在政界の半ばは憲法改正に進もうというところまできた。ところが、今回の問題で戦争責任問題の根本にはなんら解決がついていないことが、足下のNHKから明らかになってしまった。理屈で言えばこれを解決できなければ憲法改正どころではないのである。
ところで海外に多くの被害者がいることは事実である。彼女たちが求めていることは必ずしも金銭に換算できる賠償ではない。謝罪、あるいは承認である。民衆法廷は国家からの謝罪を与えられなかったが、彼女たちが自らの憤懣、鬱屈を言葉にする機会を与えその主張を承認した。そのことによって彼女たちはカタルシスを得た。日本国に代わって国際法廷はある程度大きな物を被害者に与えたのである。プラグマチックに考えて、日本国はこのような無形のものを彼女たちに与えて一定の満足をしてもらう方法を真剣に検討すべきである。(前提としての誠意がなければいけないが・・・)
『女性国際戦犯法廷の全記録・ 第5巻 日本軍性奴隷制を裁く-2000年女性国際戦犯法廷の記録』http://www.ryokufu.com/books/ISBN4-8461-0206-8.html
『女性国際戦犯法廷の全記録II 第6巻 日本軍性奴隷制を裁く-2000年女性国際戦犯法廷の記録』http://www.ryokufu.com/books/ISBN4-8461-0207-6.html
裁判というのはどんな場合でも記録が膨大になり気後れするが、考えてみれば記録が存在しないよりずっとましなのである。記録があればどこからでも好きなところから反論できる。
安倍晋三が「公平性がない」と文句を言ったというのも、再審請求とみなしうる。天皇有罪を言った以上、国民の多くから再審請求が出てもまあ当然ではある。再審請求を堂々と受けて立ったら良いだろう。
例えば、双方数名の代表者を選び、インターネットで延々と討論会をやるといった形であれば、費用も掛からず、公開性も保てる。
どのような形であれぜひ実現してほしいものだ。