靖国参拝はヒトラーの墓参だ

に賛成。

冷静に言えば、ヒトラーもヒロヒトも東条も民族の英雄(代表者)であったことは間違いない。したがってその死を悼むのは人間的に間違った行為ではない。

しかし、小泉氏の靖国参拝は政治的行為である。戦後日本は「反省」の上に成立した国家であり、自然性、自明性の上にしている国家ではないのだ。ヒトラー(の対応物)との不連続を常に確認した上にしか、国家の根拠はないのだ。日本の外を見ないという窮極の島国根性に安住するのでない限り。*1

ところで、東条は国を護る為に死んだわけではない。戦後日本を成立させるため*2アメリカが首くくったのである。アメリカが論理的に黙認し得ない筈の行為をなぜ黙っていたか。中国韓国と日本の不和がアメリカの国益につながるからである。靖国参拝賛成派の中にはアメリカの工作員が潜んでいることは間違いない、のではあるまいか。

*1:「国を護る」ことの自明性を承認した(としたら)国民の奴隷根性も問われるべきだろいう。

*2:ヒロヒトを免責するため

八木秀次を叩け

事情をよく知らないのですがチョンボがあった様子。

河野美代子さんからのメールの写し。

広島から河野です。

私の裁判に、どうしても必要で、昨日、本屋さんに「新、国民の油断」を買いに行きました。私を中傷した文にこの本からの引用があったので、必要だったのです。彼らの本を買うのはとてもいやなのですが。

あの、パンツをおろした人形の写真や、数々のうそ、でっち上げが書いてある本です。それから、女性学やジェンダーの学者さんや、性教育の実践家、総動員で個人名をあげて批判というか、中傷満載ですね。

著者は西尾幹二とあの、テレビの八木秀二です。

>

ところが、どの本屋さんに行っても本がありません。店員さんが、「おかしいな、ここにあるはずなのに」と、どこの本屋さんでもです。

そして、広島でもとっても大きな本屋さんで、丁寧に調べてくれた店員さんによると、

「出版社から回収の指示があったので、もう、在庫はおいてありません。」ということでした。もっと詳しく尋ねて、調べてくれたところによると、何か不具合があって回収、もし、あったとしても、販売をしないようにと。

それは、一昨日の夕方の連絡だったそうです。

>

そして、その不具合を直して、八月ごろにまた出版するかもしれない、ということでした。たぶん、私の考えでは、肖像権の侵害とか、そういうものだと思うのですが、でも、そこだけ削ってまた出版されたのではなんのもことやらです。私は、名指しされた人の反論や、明らかな嘘については、出版社にも当事者は抗議した方がいいと思います

今がチャンス。私は、早速、これらの根拠になっているこの本は、回収になっている、と使わせてもらいます。

小学校低学年から、コンドームの装着の実践をしている、なんて、いったい、どこの学校で?小学校の低学年では、まだコンドームがつけれる様なペニスではなく、とても無理なはず。誰が考えてもおかしな嘘満載の本です。

>     河野美代子

このメール転載可です。広めてください。

6月30日コメント欄

id:noharra:20050630

(1)

# drmccoy 『皇国・皇軍が「強制」したとおっしゃいますが、具体的にどのような方法で強制したんでしょうか?』 (2005/06/30 10:27)

(2)

# drmccoy 『あともう一点、noharraさんの考える責任の所在は「天皇」「皇軍」「当時の権力者」のいずれかもしくは、全部であり、他には無いという事でしょうか。この他にもありましたらお教え下さい。』 (2005/06/30 11:02)

(3)

# swan_slab 『サイパン島や沖縄戦での民間人の集団自決は、おそらく心理的には、投降の呼びかけに応じれば殺されないかもしれないが、恥辱を感じ、社会的信頼を失い、家族に社会的制裁あるかもしれず、それならば自ら死を選ぼうという意識があったでしょう。そしてもうひとつは、投降すれば食べられてしまうとまで考えていた人もいたなど、米兵そのものが鬼畜化してイメージされていたことががあげられます。

戦時法としての交戦規則について住民はちゃんと知らされていないうえ、敵国兵士に対する歪んだイメージを持っていた。これは国家主導のプロパガンダによる一種のマインドコントロールに近いでしょう。さらに継続的な皇国教育や精神論的な戦陣訓などが強く影響したことは否定できないと思います。そのような観点からすれば、集団自決を積極的に誘導したのは当時の権力機構そのものであったといえると思います。』 (2005/06/30 12:23)

(4)

# spanglemaker 『そしてその権力機構を選んだのは当時の日本人ですね。以下でswan_slabさんもおっしゃっているように、責任の所在は簡単には決められないでしょう。

http://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20050623#p2』 (2005/06/30 19:48)

(5)

noharra 『マッコイさん。そんなことより「(天皇がサイパンで)もうすこし頭をさげたことにどれだけの意味と意図があるかちゃんととらえてほしい。…」について教えてください。責任逃れための責任談義にもっていこうとしているだけでしょう?』 (2005/06/30 22:58)

(6)

# swan_slab 『>そしてその権力機構を選んだのは当時の日本人ですね

これは制度的にはありえないですね。当時の統治機構は国民主権原理ではなく天皇主権を前提としていました。また民主主義の大前提たる表現の自由は相当程度制限されており、国民は知るべき情報を目隠しされていたというべきです。

しかし、それでも”後から知る”ことはできる。わが子を殺し、自らも自殺する行為の悲惨さを、純粋無垢な戦争の犠牲者とだけ語り継ぐことはやはりできない。そういうことです。

>責任の所在は簡単には決められないでしょう。

かつて西尾幹二氏は「全体主義の呪い」という著作のなかで、この悩みを哲学的に表出していますね。非常に深いテーマで、私などの凡人にはにわかに答えは出せませんが。簡単な話にはならないですね。』 (2005/06/30 23:22)

(7)

# drmccoy 『野原さん、ご自身が言った事「皇軍の強制が原因」が正しいというなら、「具体的にどう強制したのか」答えてください。答えがなければ、答えられない、根拠無く説明できないと受け止めますがよろしいですか?

>責任逃れ

誰の責任ですか?まさか私には過去の指導者の戦争責任を追及する責任があるとかおっしゃるんではないでしょうね?一方的に糾弾されている彼らを弁護する責任なら多少感じていますが。

>頭をさげたことにどれだけの意味と意図

いつもそうなんですが、質問の主語がわからないので答えにくいんですよ。

「意味」とは誰にとっての意味ですか?見る人によってそこから感じる意味は違いますよ。私にとってどういう意味があるかという事ですか?

それから、「意図」とは陛下の意図ですか?それなら本人が「慰霊が目的」と言ってるますが。』 (2005/07/01 16:22)

(8)

# swan_slab 『自決と命令については、http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper11.htm参照。

私自身は、戦史のなかでは、栗林中将が玉砕やバンザイ突撃を決して指示しなかった硫黄島の戦闘の印象が強いです。

なんていうかな。まずはアジア太平洋戦争の戦記を共有することからはじめないと。』 (2005/07/01 17:46)

(9)

# drmccoy 『私にとっての意味または意義でしたらhttp://www.sankei.co.jp/news/050629/morning/editoria.htmに集約されています。

ところで、誤解されると困るので書きますが、私はかつての戦争指導者に一切責任が無かったなどとは思っていません。天皇や東条英機に一切責任が無かったと思っている人なんて希でしょう。石原慎太郎でさえ天皇は退位すべきだったとか言ってますから。

問題は誰が何に対してどこまで責任を負うか、そしてその罪はどれくらいかということでしょう。それらの検証なしにすべての責任を天皇やA級戦犯などに集約させてそれで終わりというのでは、結論を急ぎすぎではないですか?

これらを法的にも根拠のある法廷できちんと裁けていればこんなにややこしくなっていなかったと思いますよ。東京裁判だって法的に欠陥があるから、無実だったとか言い訳に利用されているわけです。』 (2005/07/01 17:52)

(10)

# drmccoy 『なるほどswan_slabさんの参照先は参考になりました。沖縄の例などからサイパンにあてはめて参考にしてみると、原因としては「天皇のために死ぬことを美徳とする皇民化教育」「軍による共生共死の一体化」、「捕虜を恥辱とする観念」、「鬼畜米英への恐怖」、「逃げ場のない追い詰められた地理的状況」などなどで、米軍だけでなく、日本軍までもが住民を追いつめた。これならわかります。おそらく軍人の質も低い人が多かったのかもしれません。地上戦という特に悲惨な状況であったとは言え、日本軍が同胞の住民を追いつめた、その責任は重大だと私も思います。しかし、すべての軍がそうでだったわけではありませんから swan_slabさんの記述はその点のバランスも配慮されて書かれている点、説得力を感じました。』 (2005/07/01 18:16)

(11)

# spanglemaker 『swan_slabさん。

>>>そしてその権力機構を選んだのは当時の日本人ですね

>>これは制度的にはありえないですね。当時の統治機構は国民主権原理ではなく

>>天皇主権を前提としていました。また民主主義の大前提たる表現の自由は相当

>>程度制限されており、国民は知るべき情報を目隠しされていたというべきです。

それってhttp://d.hatena.ne.jp/swan_slab/20050623#p

に書いてあることと矛盾するようですが。

>>天皇制こそが諸悪の根源みたいな語り方は80年代にもよく耳にしましたが、

>>ものすごく単純化した図式のなかに何かの責任を押し付けて拒絶感を表明する

>>という傾向は、戦後ず~っとあったと思いますね

それともこれは肯定的な文脈で語ってらっしゃるんですか?

国民が統治機構に関与できないというなら責任の所在は簡単じゃないですか。

戦前の日本は立憲君主制の民主主義国家です。

言論の自由は今ほど自由じゃないにしても、天皇制についても広く議論されています。

この議論から天皇の統治権は制限を受けるという美濃部達吉の天皇機関説が主流になりました。

これは今の象徴天皇制と本質的に同じです。

戦前も日本が民主主義国家であったことはちょうどsanhao_82氏が今日のエントリー論じておられますので紹介します。

http://d.hatena.ne.jp/sanhao_82/20050701#p1

だからこそ責任の所在は簡単ではないわけです。』 (2005/07/01 20:45)

(12)

# swan_slab 『>spanglemakerさん どうも

「戦前は天皇主権だったので国民は権力の末端部品だった」というのと「天皇制こそが諸悪の根源みたいな拒絶は日本人の生き様に目をつぶるものだ」という論は矛盾するように読めるかもしれませんね。両者を極論すれば矛盾するでしょう。

でも、両者の極端な値におそらく真実はないのだと思うのです。

>国民が統治機構に関与できないというなら責任の所在は簡単じゃないですか。

責任というのは、「どのように観察した場合に」という”アスペクト”で捉えなければならないと私は思います。国民の積極的・能動的自由が制限されていた状態を反省するなら、国民を悲惨な戦争に巻き込んだ責任の所在は自ずから国民ではありえません。そして、日の丸を振って地域の若者やわが子教え子を戦場に送り出した責任といったものは当事者の心の中にはありうるでしょう。

しかし、次世代についていえば、戦後の新憲法の理念を維持する責任は戦後の国民に課されたと私は思います。個人的な自責感だけではダメで制度的に固定化しなければならない、戦前の制度や考え方の何が間違っていたのかを反省し続けること、これが国民一人一人の責任だという具合に捉えています。

>戦前の日本は立憲君主制の民主主義国家です。

>言論の自由は今ほど自由じゃないにしても、天皇制についても広く議論されています。

>この議論から天皇の統治権は制限を受けるという美濃部達吉の天皇機関説が主流になりました。

>これは今の象徴天皇制と本質的に同じです。

だいたい正しい認識だと思ってかまいませんが、このあたりは多分私のほうが詳しいと思いますので、補足させていただきますと、

明治憲法が民主制をとっていたか、という問いに対しては、明治憲法上、主権の本質はやはり天皇主権とみなさざるを得ないので、天皇主権と民主制は背理します。

また「戦前の日本は立憲君主制だった」のではなく、立憲君主制モデルをもって明治憲法を解釈しようとする学説上の動きが有力になった一時期があったというふうにとらえたほうが正確です。おっしゃる美濃部の天皇機関説はその一例です。古くは、伊藤博文が憲法制定に際して、君主の権限を制限する立憲君主制を導入しようとしていたことも知られています。

つまり、まがりなりにも立憲主義を機能させようとしていた。おっしゃるように天皇にあたかもイギリスの君主のような役割を担わせようとする動きがあった。

また、臣民の間でも、英米やフランスなどの人権の概念や法の支配、住民自治について理解があった啓かれた人たちがいたことは確かです。

しかし、1935年頃から体制側から反動がくる。いわゆる国体明徴運動は古くは教育勅語(明治中ごろ)から使われている言葉ですが、より政治的意味を込めて使うようになったのは35年です。国体明徴問題についてはhttp://www.cc.matsuyama- u.ac.jp/~tamura/kokutaimeityou.htm参照。

「国体の真義によって、個人主義的な欧米文化のもたらした欠陥を是正する」と結語された『国体の本義』(1937文部省)に象徴されるように、天皇を倫理的・精神的・政治的中心とする国の在り方を根本から国民にわからせてあげなければならないという使命感のようなものが生まれていったわけです。国体明徴運動が激化してくると、文部省は上述の『国体の本義』を全国の学校・大学・図書館等に配布し、・・。

また、戦時体制が敷かれ始めると、国家の啓蒙活動は国体に限らなくなります。

とくに『厚生運動』は典型例ですが、要するに、国民の体力を増強しなければならないという命題のもと、厚生省が誕生する。厚生省はもともと”厚生省体力局”新設が主眼で、その他衛生・社会福祉・労働などの部署はついでについてきたものだったんですね。健康こそが国家に尽くす大本であって、病者や障害者は非国民扱いになってゆく。体力増強のために国立公園がやたらと山岳地域にばかりに生まれハイキングコースが整備されたのもこのころです。嫌がる商店主なんかを引っ張り出して休日に体操やハイキングをやらせていたのが厚生運動です。

まぁいわば健康を強制していたわけですが、44年ごろには完全に終息します。体操している場合じゃなくなって。

戦争で散っていった兵士の多くは、この厚生運動とか国体明徴運動の影響をもろに受けた世代だったということができます。』 (2005/07/01 23:24)

(13)

# spanglemaker 『1935年以降日本の民主主義がおかしくなったのはおっしゃる通りでしょう。

ところで明治憲法施行から1935年まで何年あるとお思いで?

コメントに書かれている日本を「立憲君主制」としようという努力は

1889年の憲法公布のさらにその前から1935年までの長い間の出来事なんですよ。

ずいぶん長く民主主義が続いていたじゃないですか。

「軍部独裁」の10年間が異常だったということでしょう。

異常とはいえ太平洋戦争が国民多数の意思を反映した政策であることは確かですし。

戦前の日本では日本国民が権力機構から疎外されていたと結論つけるのは

やはり妥当ではないと考えます。

なお、公布前に「立憲君主制」を目ざし、公布後も「立憲君主制」という解釈が主流に

なるのであれば、憲法だけ「立憲君主制」ではない、という解釈は不自然だと思います。

>>だいたい正しい認識だと思ってかまいませんが、

>>このあたりは多分私のほうが詳しいと思いますので、補足させていただきますと、

何様ですか?

>>でも、両者の極端な値におそらく真実はないのだと思うのです。

ここの記事もすごい極論なので、私に反論して下さったのと同じように、

noharra氏にも反論されたらいかがでしょうか。

なぜnoharra氏の極論には何も言わないのか不思議です。』 (2005/07/02 12:37)

(14)

# swan_slab 『>ずいぶん長く民主主義が続いていたじゃないですか。

>「軍部独裁」の10年間が異常だったということでしょう。

明治憲法下の日本を民主主義といえるかというと、いえないと私は思います。

プロイセン型の憲法を採用しながらも、民主的に(ないしイギリス立憲君主制的に)運用しようという動きがあったにせよ、そもそも制度的に民主制ではなかった。

>異常とはいえ太平洋戦争が国民多数の意思を反映した政策

それはあまり根拠がないと思いますが。

>なお、公布前に「立憲君主制」を目ざし、公布後も「立憲君主制」という解釈が主流になるのであれば、憲法だけ「立憲君主制」ではない、という解釈は不自然だと思います

明治憲法において民主的要素が全くなかったわけではありませんが、統治機構だけでも次のような欠陥があった。権力分立が不完全で、各機関は天皇の大権を翼賛するものでしかなかったこと、法の支配という観念がなかったこと、公選に基づかない貴族院が衆議院を抑制し、政府や軍部に対するコントロールが極めて弱かったこと、そもそも内閣自体が憲法上の制度ではなく、大臣輔弼制度が及ばない天皇の大権が憲法上認められていたこと、内閣が議会に対して責任を負わなかったことなどです。

そして、民主的といえる部分については、かろうじて制限的ながらも臣民の権利義務が法律の範囲内において認められていたことがあげられます。この部分が近代化に果たした役割は大きいと思いますが、上記の制度的欠陥は致命的だったとみるべきでしょう。

明治憲法の規定に、立憲君主制を読み込む、あるいは国家法人説を読み込む努力が潰えたのは国体論の台頭があったからということのほかに、根本的に明治憲法の構造がイギリス型の立憲君主制を読み込むのに適していなかったからでしょうね。』 (2005/07/02 14:40)

swan_slabさん、drmccoyさん、spanglemakerさん コメントありがとうございます。

応答が遅れてすみません。

高校生は性行為すべきでない

性教育について議論している中教審の専門部会は14日までに、高校生以下の子どもの性行為を容認すべきではないとする立場に立って性教育の指導をすることで一致した。中教審が子どもの性行為を許容しないとする基本方針を示すのは初めて。

(略)

文部科学省の学校健康教育課は「性行為を一切禁止するものではないが、性教育をする前提として、性行為を容認しないことを基本スタンスにしたい」としている。

専門部会は、高校卒業時点で身に付けているべき性教育の内容を議論。性行為について「子どもたちは社会的責任が取れない存在で、性感染症を防ぐ観点からも容認すべきではない」とした。

高校以下の性行為容認せず 中教審が基本方針 – 共同通信

http://d.hatena.ne.jp/kitano/20050718/p1 より

「性行為を容認しないことを基本スタンスにしたい」といった教師の側の主観的道徳的価値観を先立てて性教育を行おうとしても、有効ではない。そんなことは明らかだと思う。

「性行為を容認しないことを基本スタンスにしたい」を受け入れる形で日本社会は進んでいくのだろうか? 戦後日本が性行為に寛容だったことは、<武器を持ち人を殺すことをためらわない兵士になる>ことを強く否定したことと関係がある、と考えることもできる。ブッショの戦争*1を支えるための安物の宗教=道徳が、このような形で日本に上陸し社会を変えようとしている。

*1:大東亜の大義に反する

旧日本軍の人体実験

旧日本軍の人体実験、外国人犠牲者のリスト見つかる

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戦時中に旧日本軍に逮捕された後、関東憲兵司令部から731部隊に特別移送され、細菌を使った人体実験の犠牲となった外国人(「特移扱い」と呼ばれ

た)22人の名簿と資料が1日、中国の歴史研究者によって初めて公表された。犠牲者は旧ソ連の兵士やスパイ、旧ソ連のために活動していた朝鮮人スパイな

どで、旧ソ連人15人、朝鮮人6人。

名簿と資料は、旧日本軍が未廃棄のまま残し、黒竜江省・吉林省の資料館や中央の資料館に保存されていた日本語書類の中から見つかった。書類は関東憲

兵司令部司令官が署名発行したもので、外国人犠牲者の氏名・性別・年齢・本籍地・職業・身分・当時の住所・逮捕地点とその理由、各憲兵隊長による「特移

扱い」伺い、関東憲兵司令官による承認番号などのデータが、比較的完全な形で残っている。(編集NA)

「人民網日本語版」2005年8月2日

http://j.people.com.cn/2005/08/02/jp20050802_52290.html

太初に日神があって、

イザナキ、イザナミが国生みをしたのは天神の命を受けてであるという要素は、古事記と日本書紀の一書一に出てくる。

これは新しい追加要素だと思う人もいるかも知れない。けれども、このような要素は沖縄の創造型神話にもあるのだ。

p75 大林太良『日本神話の起源』徳間文庫 1990年

オモロ「昔始めからのふし」に、次のような話があるという。

 太初に日神があって、伏して下界を見ると、島のようなものがあったので、アマミキヨ、シネリキヨの二神に詔して、これを治めしめることにした。二神は天降って数々の島をつくり、日神はさらに詔して、そこに天つ民をつくらずに国つ民をつくらせた。(同上)

次に、新井白石は次のようなアイヌ神話を記録している、ということのようだ。

 蝦夷島の世のはじめに、老夫婦が来たり住み、食物が乏しいので苦しんでいた。夢に神が現れ、二人に、これをもって海をかきさぐって食物を獲よと教えた。目が覚めて、かたわらをみると、舟のかいがあった。教えに従って、それで海をさぐると、白く泡立つ下から魚がかずかず浮かび出たので、捕らえて食物としたのが始まりで、今の世までその魚が主な食料となった。ニシンがそれである。老夫婦の子孫がふえて、今日のエゾが島の人々になり、二人はその住んでいた江刺の地に神としてまつられ、老夫を恵比須といい、老婦を姥の神という。

(p76 同上)

アイヌ神話とはいっても、これは日本から入ったものだろう。「日本のオノゴロジマ神話の異伝あるいは派生物とみられる。というのが大林さんの見解。生活苦のリアルさみたいな話になっているのは作られた時代が新しいからだろうか、興味深い。

於是天神諸命以(天神の命を以て)

二神が 立天浮橋而 指下其沼矛以畫者 鹽許袁呂許袁呂迩畫鳴而 引上時、 自其矛末垂落之鹽累積 成嶋。是淤能碁呂嶋。

つまり、この三つの話においてはいずれも、「天神」とそれに命じられる神との関係は存在する。だが「海をかき回して」「島を作る」の、前半だけはアイヌにあるが、後半は古事記にしかない、ということになります。

もう一つの「女王の教室」

「女王の教室」終わりました。ちゃんと見てないけど。面白かったんですが、結論は新自由主義かい! みたいな思いもあり・・・

ところで、田島先生は、かっこいいね!

http://blog.livedoor.jp/easter1916/archives/50073630.html ララビアータ:希望

 経験のある人には実感できると思うが、ホームパーティをうまく主催するためには、ある種「女性的」といってもいいような高次の感覚が必要となる。多方面に注意を張り巡らし、パーティに出ているどの人にも疎外感を感じさせず、それぞれの持ち味を引き出すように、さりげなくエンカレジせねばならない(これは、多くの皿を回し続ける皿回しの技にちょっと似ている)。どの参加者にも、内に引きこもっているよりも、自己を(できればエレガントに)表現するほうが楽しいという気分になってもらわねばならない。また、参加者のつたない自己表現からも、その最も面白く美しい部分を掬い取り、そこに光をあてるような上演をせねばならない。知らず知らずに自己(のより美しい部分)を表現し、受け入れられ、また受け入れられたことに気付いて、あるいはそうした新しい自分に気付いて、帰途に着いてもらうようにせねばならないのである。

オペラ座の正面階段を上るにつれて、心の中が音楽の予感に、シャンペンのように泡立つ――そのような祝祭的気分がかもし出されなければ、とても社交とは言えない。(同上)

(引用しなかった部分に「女王の教室」を思わせる部分が有ったのです。)

君主の責任

君仁莫不仁、君義莫不義、君正莫不正。

(『孟子・離婁章句上』p49岩波文庫版下)

君主さえ仁愛が深ければ国じゅうみな仁愛が深くなり、君主さえ義を重んじれば国じゅうみな義を重んじるようになり、君主さえ正しければ国じゅうみな正しくならないものはない。

原文   http://chinese.pku.edu.cn/david/mengzi.html

日本語訳 http://www.h3.dion.ne.jp/~china/book8-2.html#16

君主を評価するという発想が、儒教の中には脈々と流れていたことが分かります。「天皇は神聖にして侵すべからず」に始まる国家無答責の思想が、東洋の伝統ではないということが。

戦争がなくなればそれでいい

禍津日神も戦争を憎んで、それを去らなければ戦争を下されるが、それは善人に戦争を下す神さまではない。戦争を承知しない神様である。戦争がなくなればそれでいいという神様である。ここに戦争を祓うことが可能になるべき道理がある。(略)

それが私の見た所に於いての平田先生の神道の神髄である。

(p98山田孝雄『平田篤胤』畝傍書房 昭和17年)

これは嘘です。山田孝雄はこんなこと書いていません。「禍」と「穢れ」を戦争に置き換えてみました。

 憲法9条の絶対平和主義を馬鹿馬鹿しいと今頃はみんな言うが、それはそうかもしれない。でも、<日本の伝統>に副ってないこともないのである。

憲法9条は<近代の超克>のヴァージョンアップ、いや戦争に負けたのだからヴァージョンダウンか?まあどちらにしても<近代の超克>の変種と理解しうる。憲法改正は<近代の超克>をさらに超克するといった形でしかなされえない、と思う。思想的に露骨に後退するようなことをするのは有害無益だろう。わたしは憲法9条が絶対だとも正義だとも思っていない。だが今時語られている改正案は程度が低すぎると思う。

だいたい、長い長い日本の歴史の中で最も優雅さから遠かった昭和の20年間に郷愁を持つとは、DV依存の変態か!

切断と現前のマジック

 どんなことでも、我ながら「すらすらと平気に」どんどん出来てしまうのは幸せなことだし、そこに“ある真実”があることも疑えない。しかるに、上記折口の文章ではそのことに対し「不思議に思う」とされている。

 凡庸な解釈では、行為する自己/意識する自己 の対立において後者の優位を信じるのは愚か、ということになるのだが、ここでは置いて、折口に従う。

 「上つ代は、意(こころ)も事(こと)も言(ことば)も上つ代、後の代は、意(こころ)も事(こと)も言(ことば)も後の代」と宣長は言った。*1そうだとすると、わたしたちは現代人でしかありえず、古は理解しえないことになる。しかし宣長の主張はそうではなく、古事記は「いささかもさかしらを加えずて古より言い伝えたるままに記されたれば、その意も事も言も相かなって皆上代の実(まこと)なり。」わたしたちが求めている真実はすでにここ(古事記)に「古の語言(ことば)」として在る!「上つ代の言の文(あや)も、いと美麗しきものをや」!

 宣長は上つ代を後の代から切断しながら、古事記に感動する宣長という回路だけに於いては、古はいままさに現前すると考えた。単に理解できるだけはなく現前し感動を与えるのだ。*2

 宣長による切断と現前のマジックは、弟子たちにはもはや何のパラドクスとも感じられず、だたただ古言(伝統)が勉強され研究されつづける。その流れの中で、万葉が「すらすらと平気に」読めるようになってきたのだ。

「すらすらと平気に」のまっただ中で、ひとはそれに異和を感じることはできないはずだ。なぜ折口だけが「なぜこんなに、すらすらと平気に」という疑問符を提出することができたのだろうか。

*1http://d.hatena.ne.jp/noharra/20040913#p1

*2:この<感動>が現在の靖国問題にまでつながってきた。