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「ナショナリズム否定」の是非
# hal44 『野原さん、
ナショナリズムのよい使い方って、近年の例ではちょっと思いつかないですね。議論はあるでしょうけど、拉致問題に関しては、あのナショナリズムの高揚が、問題を不必要に拗らせてしまったと私は思いますし、レイチェル・コリーの件に関しては、アメリカ世論のナショナリズムは全く盛り上がりませんでした。ジェシカ・リンチとの扱いの違いとか考察の対象としては面白いですけどね。
社会開発研究とかで、第三世界に於ける、ナショナリズムの経済発展のための不可欠性みたいな事は議論されてますが、そのくらいかな、ナショナリズムが役にたつのって。』 (2005/03/26 00:48)
(野原)
横田めぐみさんに焦点を当てることによって、「北朝鮮=悪」という排外主義が勝利するという不愉快な情勢が成立したことはまちがいありませんね。
竹島と独島は別の島だと思っていたという人が居て、そのとおり別の島ですよ、ということにしておいても、困る日本人韓国人はそれほど多くないと思うのですがね。さて。
レイチェル・コリーの名前を利用することにより「レイチェルか/イスラエルか」という問題を焦点化することができる。「テロリストか/イスラエルか」という二項対立ではなく。ただアメリカ国内ではシオニストの影響力がものすごく強いので反シオニズムは少数派にとどまっているわけですが。
ナショナリズムをどう考えるかはやはり難しい問題に成ってくるように思います。以下は、hal44さんの考え方に対する批判ではありません。
戦後の進歩派は戦争の反省から「ナショナリズムからの卒業」といった態度を取っていたように思います。彼らが反日米安保、反自衛隊と結びついているうちは欺瞞が少なかったでしょうが、60年代以降安保反対を実際に追及する勢力は少数派になりました。進歩派の多数派が実際にやっていたことは、パックスアメリカーナを困難な理想主義としての平和と曖昧に混同し、基地を沖縄に押しつけ続けるということではなかったでしょうか。「生きて俘虜の辱めを受けず」というスローガンを作り多くの国民を死に追いやった責任も、「負けに決まった戦いをさっさと終わらせなかった責任」も、アメリカに対する原爆は戦争犯罪だという告発もしてこなかった。
「ナショナリズムからの卒業」派は、中国や韓国の国家ナショナリズムに対しては寛容でダブルスタンダードかもしれない*1。現在北朝鮮の人権状況を真剣に告発しないのはまずいと思います。
「ナショナリズムからの卒業」派は自身戦争を体験しながら、自己の存在を切り裂くようにはそれを総括せず、他人事のように全否定した。加害者としての側面を持つことを否定できない兵士たちの体験と自分たちを切り離し、ナショナリズムから絶対に卒業できない兵士たちを遅れた暗い存在と見なし放置した。
ちょっと一方的な書き方になりましたが以上のような面もあると思います。
ナショナリズム否定論は正しいと(一応)思うのですが、その正しさの基準とは何なのか。最近学者とつき合って分かったことは「論文は正しく書かなければいけない」ということで、そのような正しさの基準で自分の全体(発言)を規制しているとするとそれはちょっと違うんじゃないか、と思っています。書斎で何冊かの本を読みこの考えが一番正しいと言い得たとしても、そう判断した自己は抽象的空間に存在する自己にすぎない。血しぶきを浴び飢えに苦しみ慰安婦を抱いたその体験の総体から、切り離されたところで「正しさ」を成立させてしまうことは、現実を極端に平板化させてしまうことになります。
「ナショナリズムからの卒業」というのは私の勝手なネーミングで、hal44さんの考え方には当てはまらないでしょうが、わたしが割り切れないとうじうじ感じているのはどこらあたりかを書かせてもらいました。
*1:貴重な例外として韓国民主化運動との連帯の運動があります
認めるはずもないじゃない
# KMR 『十条さん、それとおそらくnoharraさんもそうだと思いますが、
私が問題としているのはあなた方の主張する「手紙を渡す」という『目的』の
是非ではなく、「学校に乗り込む」という『手段』の方是非です。
何度も書きますが、手紙を渡すだけならば郵送すれば済むことではないですか。
あるいは、azamikoさんの娘さん・Kさんに託して渡させるとか。
学校側は式典準備(押しかけたのは予行中)で多忙だったでしょうし、
昨今の教育現場が同様の国旗君が代問題で揺れているのは
彼らにとっても懸念だったことでしょう。
その状況でまさにピンポイントに、その国旗君が代問題で都の教育行政を
批判する文書を配布することなど、認めるはずもないじゃないですか。
元々のazamikoさんのエントリーのコメント欄でも指摘しましたが、
学校に押しかけて文書を配布する行為の正当性について、azamikoさんは
充分な説明をしていません。
揺ぎ無い正当性があるというのなら主張されているだろうし、
そもそも当日警察を呼ばれても構わず主張すれば良かったのではないでしょうか?』 (2005/04/06 08:23)
# KMR 『追伸。
>校長が認めていた場合にそうなる可能性はどのくらいですか?
逆の仮定で質問する意図が掴めませんが・・・。
都立高校の校長が、構内で保護者による都の教育行政を批判する文書の配布を認たら、ですか?
それは校長の管理責任を問われることになるので、「式典が崩壊」とは別の騒動になる可能性があるでしょう。
まさか、「式典が崩壊しなければそれで良いじゃないか」という反論を通すおつもりですか?
それはあまりに勝手な主張ではないでしょうか。』 (2005/04/06 08:31)
# 十条 『>「学校に乗り込む」という『手段』の方法の是非です。
論点をずらしてますよ。校長にとって、彼女の来校という手段は望ましくなかったかも知れない。でも私が指摘した論点はそこではない。そういう状況での校長権限の「運用」が論点なのです。
今回のケースでは、来校されてここにいる、手紙だけ渡して帰ってくれたら秩序が混乱するわけではない、だから手紙を渡して帰ってくださいね、という対応(校長権限の運用)もありえるわけです。ところが手紙を渡すと秩序が崩壊するみたいに、大げさに騒ぎすぎるのは、私から見たらアホみたい。大げさに騒ぎすぎ。』 (2005/04/06 21:09)
# KMR 『その辺は、azamikoさんの言動から見て目的が「手紙を渡すこと」だけとは受け取られなかったのではないかと考えています。
azamikoさんが、教頭に預けるとちゃんと教師達に届かないのでは無いか、と危惧したのと同様、教頭の方もazamikoさんの行動を疑い何かとんでもないことをやらかすのでは、と危惧したのではないでしょうか。
まあ、azamikoさん本人はそのつもりは無かったのでしょうが、あのエントリーに書かれたやり取りを見ると、azamikoさん自身の態度が相手の硬化を招いた、いわば自業自得のように思えますね。』 (2005/04/06 23:55)
# 十条 『本当にセキュリティ上の危惧が懸念されるような状況なら、校長と直接会う、という事態は起こっていないでしょう。セキュリティリスクが生じないという判断があったら、危機管理の常識で考えたら、3人と直接会わせるわけにいかない対象は、まず「校長」のはず。でも校長は会ってますね(笑)。つまりそれは、セキュリティ的に問題が生じていない、という判断があったということですよ。
KMR さんは当初、式典破壊の企図した行為に「他ならない」と確信をもって語っていたのに、結局は「危惧したのではないでしょうか」という憶測しか根拠がなかったわけですね。憶測だけで「他ならない」と語ってしまうその軽さ、とってもミットモナイと思う。』 (2005/04/07 00:30)
# KMR 『>3人と直接会わせるわけにいかない対象は、まず「校長」のはず。
校長は学校内での最高責任者なのですから、むしろ会うべきでは?
最優先で守るべきは生徒たちでしょう。
ただ、前にも書きましたが式の予行中だったということをお忘れですか?』 (2005/04/07 00:51)
# KMR 『えーと、こちらが再反論してる状況なのに申し訳ないですが、azamikoさんの所でのやり取りで、この件について議論する意欲が失われてしまいました。
議論というのが勝ち負けを決めるものか、何らかのコンセンサスを求めるのか、それは各人によって異なるところですが、azamikoさんの所での議論を主、
こちらでの議論を従と捉えていたものを、あちらでの議論が上記のどちらも
望めないモノと判断した以上、こちらでの議論も無意味に思えてきました。
こちらの主張は全て引っ込めますので、負け犬とでも何とでもおっしゃって構いません。
どうもご迷惑をおかけしました。』 (2005/04/07 01:50)
# 十条 『>校長は学校内での最高責任者なのですから、むしろ会うべきでは?
そうですね。平時ではそうですね。ただ、リスクありと判断した場合は校長は会わず誰かが代理に立つ、となるのが危機管理の定石(式典の前日だからなおさらそう)。ところが校長が会っている。ということは「平時」状態・リスクなしと判断されたからですね。つまり、リスク発生という認識ではなかったという、なによりの証拠でしょうね。
式の予行中がどうかしましたか?3人を予行終了まで待たせて、職員室付近で会わせればいいだけの話。まさか、教師が予行の会場から直帰すると思っておるのですか?
とにかく話を大げさに、大げさにしないと気がすまないのですか?』 (2005/04/07 02:02)
日本軍は設置し運営した
日本人「慰安婦」制度の設置と運営は、当時存在した多数の国際法規範に違反している。国際法の規範には成文の条約のみならず慣習法も含まれる。当時日本が加入・批准していた条約としては、ILOが基礎をつくった「強制労働条約」と「醜業を行うための婦女売買禁止に関する国際条約」の他に、「ハーグ陸戦協約」などがあった。当時成文の条約としては存在しなかったが、国際慣習法として国際的に確立していたものとして、「奴隷状態の禁止」があげられる。
p8『日本軍「慰安婦」問題とは?』ナヌムの家・日本軍「慰安婦」歴史館
たぶん合ってる?
恥ずかしながら、エクセルのフォーム(?)。
A3に最初の人数を入れる。
G1に答えが出る。=SUM(G2:G14)を入れる。
G2に1を入れる。
B3に =INT(+A3/2)
C3に =-B3*2+A3
D3に =+A3-B3-C2
E2に 1。E3に =+E2*2
F3に =+C3*E3
G3に =IF(D3=1,0,1)*IF(D3=0,0,1)*F3
A4に =+D3+C3
B3:G3を下にずっとコピー。
A4を下にずっとコピー。(以上)
頼信紙
カフカ忌の無人郵便局灼けて頼信紙のうすみどりの格子
(塚本邦雄)
http://d.hatena.ne.jp/shimozawa/20050610 仏文学者の下澤さんのところから孫引き。
無人郵便局みたいなものが余りに一般的な物に成ってしまったので分からなくなっているが、無人郵便局というものが成立しうる<システムの底力>の存在を、否定的眼差しにおいて描き出したのがカフカ。みたいな理路だろうか。頼信紙(電報を頼む紙)という言葉の響きと紙の薄さのシンクロが印象的。
(6/12追記)
“フェミナチ”な方へ
<新しい事物>を世界へ投げ入れる可能性
http://d.hatena.ne.jp/using_pleasure/20050706/1120590416 記識の外 – モヒカン族のために。
から、「ハッカー宣言」 * 作者: マッケンジー・ワーク, 金田智之 * 出版社/メーカー: 河出書房新社 の一部の一部。
004 ハッカーは新しい事物を世界へ投げ入れる可能性を創り出す。しかし、それは常に偉大な事物であるとは限らないし、良き事物であるとも限らない。だが、とにかくそれは新しいのだ。
(略)
我々は我々が生産する何ものかを所有しない。その何ものかが我々を所有するのだ。
130 情報はコミュニケーションを上回っている。ドゥルーズによれば、「私たちはコミュニケーションを欠いていない。対照的に、私たちはコミュニケーションを持ちすぎているのだ。私たちは創造することを欠いている。私たちは現前するものに抵抗することを欠いているのだ」。情報とはこの意味での抵抗であり、情報の死んだ形態であるコミュニケーションに対して抵抗をおこなうことなのだ。
133 情報の、反復するコミュニケーションへの従属化は、情報生産者の情報所有者への奴隷化を意味している。
コミュニケーションについて一般的な理解は俗流ハーバマス主義ともいうべきものである。彼らは、物事を常にある人*1が予め理解している地平に回収してしまう。つまり彼らにとって<新しい>ことは起こらない。私たちが理解し合うとき<差異>は私たちの手により殺されている?のかもしれない。
つねに「情報の死んだ形態であるコミュニケーションに対して抵抗をおこなうこと」が為されなければならない。
つまり、モヒカン族ブームの核心は、一見ポスコロ的PCに反するかに見える「ハンドアックス」という比喩の過剰さにある。
*1:大衆?
語り得ないが存在したもの
その作戦中、私の中隊が、乳飲み子を抱いた三〇歳前後の女の人を捕まえ、お決まりのように輪姦をしました。*1
(p66 近藤一『ある日本兵の二つの戦場』isbn:4784505571)
日本の兵隊はよく女の子を引っ張ってきて強姦してましたね。わしはしていないけれど、女の子の悲鳴がよく聞こえましたな。
(p133 『南京戦 閉ざされた記憶を尋ねて』isbn:4784505474)
戦争(特に中国大陸における)を語るときしばしば出てくるのが、レイプの話である。
本やサイトでの記事の文章においては、語り手が(本来語り得ないはずのそれを)どのような苦渋に満ちた圧力を突破して<語った>のか、というその内面は一切分からない。ただレイプという事実があったとごろんとそこに記述されているだけだ。
従軍体験はわたしの父や祖父、親戚の体験である。仮に<じいちゃん-孫>という関係性の中で、じいちゃんが本当はレイプしたとして、そのことは語りうるだろうか。語り得ない。語るべきだとも言えない。
「父は子の為に隠し、子は父の為に隠す。直きこと其の中(うち)に在り。(論語・子路編)」
そこでこの「じいちゃん」という言葉をキーワードに、“なかった派”の聖典『ゴーマニズム宣言・戦争論』が生まれるわけである。*2
過半が反戦平和の立場に立っていたのに、「中国大陸では皇軍はレイプしまわっていたのに、体験者は戦後はそのことに一切口をつぐみ、歴史を偽造しようとしている!」という糾弾は戦後長い間ほとんどなされなかった。おそらく、戦後二〇年ほどは、戦争に行かなかった者はそれだけで行った者より倫理的に劣位にあったのだから、前者の立場から後者のレイプの可能性を指摘糾弾することはためらわれただろう。このようにレイプは語られなかった。しかし「ない」と思われていたわけではない。本当は「まちがいなく、あった」それがリアルに分かるからこそ前者も後者も沈黙していたのだ。
暗黙の了解に支えられた沈黙が存在した。しかしわたしたち子ども(あるいは孫)の世代になると、そうした微妙なものは時代を超えて伝えることができない。沈黙は「レイプは存在しなかったはずだ」「例えあったとしてもそれはどんなことがあっても否認しなければならないことだ」と理解されるに至る。
レイプは糾弾されるべきだ。しかしそのとき自らを倫理的高みに置きその位置から裁断することはしてはいけない。わたしはむしろ金の力で徴兵逃れをしたはずべきプチブルの子孫であるだろう。レイプした彼の罪よりも逃れた<わたし>の罪の方が大きい、と宗教者なら言うだろう。戦争体験を<読む>だけのためにわたしたちは自己を父、祖父の代に遡り反転させなければならない。それなしに戦争を理解しうると教えた平和主義者は、戦争を「戦争の悲惨」といううすっぺら概念に平板化してしまった。それをひっくり返すと、戦争のどんな部分も批判できないプチウヨができあがるわけだ。
いつどんなときも「私は有罪」ではない。
私にとって第一の関心事は、「私においてどのような表現が可能なのか?」「どのような私が可能なのか?」にあります。
「私は有罪だ。」という表現は成立可能でしょうか。不可能だと思います。有罪とは、それを言表することにより致命的なダメージを私が受けるという意味である。したがって何らかの裁判装置に私が受動的に掛けられるなら、「あなたは有罪だ」という言表は装置から発せられるであろう。もちろんわたしの内にも良心がある。良心は反省し認罪することができる。だが実行した私も、認罪した私も同じ私に過ぎない。前者ではなく後者が優越すべきだとする根拠は何処にあるだろう。戦争の時代に戦争に加担し、反省の時代に反省に加担する。それでは時流に合わせているだけですね。時流としてはまさに現在、反省への反動が押し寄せている。
わたしというものが“どこまでも述語となって主語とならない時間面的自己限定にほかならない”*1なら、反省はどのように可能なのか。
そもそもわたしがどんな罪を犯したというのか。わたしはどんな罪をも犯しはしない。仮にレイプしたとしてその対象がその直後に消滅したとしたなら、犯罪は存在したとは言えない。殺人の場合はまさにそうだろう。犯罪は発生した瞬間に消滅する。あなたが神ではないから犯罪の瞬間を再現することなどできない。すなわちわたしの犯罪などどこにも存在しないのだ。
「語りえないものの秘密を漏洩すること、それがおそらくは哲学の使命にほかならない」(レヴィナス)という非在の回路を通じてしか、「わたしの罪」は現れない。悪人はいつでも安心して眠っている。
*1:西田幾多郎