要するに、上で言いたかったことは、敗戦前と後において、主体(日本)は連続と不連続二つの面がある。しかるに、最近はその切断の体験を持つ人が極少数になったのをいいことに、日本=日本という同一性にのみ立脚して発想する人が殆どになった(ようでもある)。日本は悠久の昔からここにあった国ではなく、敗戦によって新たな国として生まれ変わった(そうせざるをえなかった)国である。それを無視するのはただのふやけたナルシズムである。とわたしはいいたい。

 ところで誰に対して「恥を知れ」と言っているのか。「ヒロヒト無罪」and「東条無罪」を支持している人々に対して、である。

(マッコイさんあてに書き始めた文章ですが、途中からそうではなくなっています。すみません。)

正しいものは自由を多く持つ

ライス国務長官

 「我々の責務は明確だ。我々は、自由の格差の中で正しい側に生きる者として、不幸にも誤った側に生まれた人々を救う義務を負う。」

この発言はむかつきますね。

自由な国と自由を欠いた国の格差に対し、幸せな余力のある国とそうでない国というのならまだわかるけど、正しい/誤ったというのはどうなんだ。自由を欠いた国を支えている国民の責任という発想か。イラク国民はフセインの時以上に不幸になっているというのが事実だと私は思うが。アメリカや日本の国民も十年前より経済的格差拡大し、自由を失っているというのが事実だと私は思う。

倫理の基準は変わっていくのか?

例えばですが、かつてひとびとは軍国主義イデオロギーに突き動かされていた、とかいったことです。そしてそのアイロニーは実質的正義によって動機付けられるとします。

その場合、戦意高揚を煽る新聞を毎日みながら、頭に日の丸のハチマキをして工場動員されたひとたち、日の丸をふって兵隊を送り出したひとたち、あるいは戦争の早期終結と被害の最小化という経済的合理性を信じて日本に空襲を行った兵士の価値観についてどう考えるべきでしょうか。これは野原さんの問題意識ともつながると思います。

この問題に答えていなかった(ですね?)

愛国心という扇動に踊らされていた個人であっても、違法性が高ければ当然責任は追及されることになる。米軍でいえば、原爆だけでなく、大空襲も戦争犯罪だという国際的常識をうち立てる方向で考えるべきだと思います。そういう価値観が成立すれば、下っ端の一兵卒であって命令に従っただけでも、少なくとも倫理的責任は発生することになる。国際的常識(それをどう確認するかは今は問わない)の確立の前と後では、個人に対して問われる倫理の質が変わってくるという理解。もちろん倫理の基準は極めて個人的なものである場合もある。しかし、戦争責任論や今回の人権擁護法案では、国民的規模での「倫理の基準」をうち立てようとしているのだ。と一旦考えて見よう。

愛国心は否定しても、「倫理の基準」はどうだろうか? 「右からの」倫理の基準は拒否するが、「左からの」それを前提とし暗黙のうちに推し進めようとしているのではないか。

現行の憲法的秩序に深い信頼と確信を寄せ、それを不断の努力によって守っていこうとする態度はひとつの愛国心といえないでしょうか。国制(Constitution)に対する信頼。

この問題にあえて愛国心という言葉を使う必要はないのではないか。戦後憲法に普遍性を見出しそれを発展させる立場ですね。

「愛国心はそもそも悪いものにならざるをえない」としても、

「不当な差別的取扱い」や「人種等の属性を理由としてする侮辱、嫌がらせその他の不当な差別的言動」を法で禁止する事は肯定してもよいのではないか。愛国心というテーマでの議論を拡散させるつもりはないので見当違いと思われたら無視してください。(人権擁護法案読んでないし。)

構成要件の明確性

(ビラをまく自由の続き)

swan_slab 『これに関連して表現の自由を制約する立法として、都道府県公安条例、破防法39条なんかが憲法問題としてしばしば論じられますね。』

# noharra 『「ビラをまく自由」を制限している都道府県公安条例があるのですか?知らないので教えてください。破防法の方は「XXを殺せ」とか書かなければ大丈夫ですよね?』

swan_slab 『道交法もそうなんですが、「ビラまき」など明確に限定してせず、例えば「交通秩序を維持すること」といった漠然とした構成要件が自治体の公安条例にはしばしば見られます。これが憲法違反(31条)ではないのかが争われることがあります。

まさに戦前の治安維持法は「安寧秩序の維持」を構成要件にして、なんでもかんでもくさいものはとっ捕まえていたわけですから、構成要件の明確性というのは重要です。』

なるほど。

漠然とした構成要件といっても、「ビラ撒き」が交通秩序を乱すことになるとは思えないのですけれどもね。

被害者は三重の被害を受ける

心的外傷に関する(もしくは歴史に関する)学究的立場から、冒険的なコミットをするというのなら、論説される通りの意味ある行為であるといえると思うのですが、例えばバウネットのような組織は学究の徒ではないですよね。もっと言えば、特定の政治的目的のために、救済の皮を被った奴らが、彼女達被害者を利用しているのではないか、という疑念が拭い去れないのです。そうだとすれば、被害者達は二重に被害にあっていることになる。

(botaro さん発言 id:mojimoji:20050210のコメント欄の文章の一部) 

なんでそういう話になるのだろうか?

慰安婦制度は犯罪であった。東京裁判以降でそれが裁かれなかったなぜか。アメリカなどの法意識が、アジア人差別と女性差別に侵されていたから、かもしれないし、そうでないかもしれない。どちらにしても犯罪であったことを公に認めて欲しいという被害者の訴えがある。犯罪被害者からのこうした訴えは認められるべきである。慰安婦制度が犯罪であった、ことを日本の裁判所が認めなかったわけではない。(時効、除斥期間、個人補償請求権の日韓基本条約等による消滅)などを適用したまでである。

「被害者達は二重に被害にあっていることになる。」このbataroさんの問題意識は、素顔の慰安婦たちの本音に近づくことが善であるという立場に立っている。bataroさんは慰安婦の発言を聞いたのだろうか。NHKも民法も放送しないから、そして自ら図書館まで足を運ぶ労を惜しむから、おそらくbataroさんは慰安婦の発言を聞かないままでこの文章を書いているのではないのか? 1/25と2/3のnoharra日記にちょっと引用していますが。

bataroさんは自らの聞きたくない権利を行使しているだけではないのか。

従軍慰安婦とは二重の加害の被害者である。一つ目はもちろん日本軍からのものだ。二つ目は戦後現地の女性差別社会において、性奴隷にされたことは汚らわしい体験であり、その汚れの責任は彼女自身が負うべきものとみなされるという抑圧である。

彼女が体験を話すと、親戚は彼女と縁を切り、夫も受け入れたがりませんでした。彼女は夫に嘆願して同居することになりましたが、妻としてでなく女中としてでした。(ヘルテルデスさんのこと)

p183 マリア・ロサ・L・ヘンソン『ある日本軍「慰安婦」の回想』isbn:4000000691

マリアさん自身は、25歳で未亡人になってから一人で子どもを育てた。ずっと秘密にしてきた。「けれども誰にも語れない秘密はいつも心にのしかかる重荷でした。(p163)」1992年のある日、ラジオで性奴隷体験者の証言を求めているのを聞いた。

全身に衝撃を覚え、血が白くなったかのように感じました。その言葉を忘れることができません。「……恥ずかしがらないで。性的奴隷だったことは貴方の責任ではないのです。責任は日本軍にあるのです。貴方自身の権利のために立ち上がり、闘ってください……」

いくらひどい被害だったといっても、50年近く前の話である。全身に衝撃を覚えるなんて言うのは大袈裟ではないか、と傍観者的には思ってしまう。だがそうではないのだ。「誰にも語れない秘密」は誰に語られなくとも50年間彼女の心の中に生き治癒されずに傷であり続けたのだ。わたしにそれが分かるわけではないがそういうことなのだろう。何十人もの元慰安婦たちが、老いさらばえ健康に不安があるのにわざわざ海を越え東京に集まったのは、「死んでも訴えたいこと」があったからだ。

bataroさんには聞きたくない権利があるのか。他者がそこにやってきた以上、声を聞いてやるのがひとの道なのではないのか。

「特定の政治的目的のために、救済の皮を被った奴らが、彼女達被害者を利用しているのではないか、」支援者には少しずつ違ったそれぞれの思惑がある。この場合各国の支援者はナショナルな枠組みから規制を受ける。だが、

支援者は被害者の救済を目的としている大枠で一致できた。

「特定の政治的目的」とは一体なんだろう。bataroさんは「天皇有罪」という判決が気に入らないのか。「天皇有罪」とは1945年までの天皇に関わり、わたしたちが親愛しなければならないのは1945年以降の天皇なのだから、わたしは別に有罪でも構わないと割り切れる。だがそうは思えない人もいるだろう。だがそれはそう感じる人が「特定の政治的目的」に立っているということなのだ。

聞きたくない権利を主張することは、サバルタンが関わる問題については、サバルタンはサバルタンのままでおれ!と既成の権力構造の側に立って、問題はないと言うことである。あるいは発言しないことによっても同じ効果を得られる。

バウネットが彼女たち自身の真実のために慰安婦に加担したことを、私は支持したい。

誇り

事故の核心にあるのは、専門職への尊敬を失った社会という問題です。

(冷泉彰彦)

小骨派ブログ宣言

学ぶとは、例えて言うならば「小骨がのどに刺さった」状態が続くことです。わからない、だから、わかりたい。この思いがどこかにひっかかっていると、人間は無意識のうちに「わかる」ために役立ちそうな情報に反応し、集めるようになります。ちょうど、小骨を溶かすために唾液の“強度”が上がっていくみたいな感じ。

(内田樹)*1

 このブログは引用が多い。上記を読んで良い言い訳を見つけたと思った。わたしはわたしにとって“ひっかかる”異和感を感じる小骨を集めているのだ。普通ひとは自分が好きな自分に身近な文章を集める、だから解説も的確で分かりやすく安心して読める。うちのブログはその反対なので、自分でもどうコメントして良いか分からず、まして読者はどう読んでいいのかとまどう。(すいません)(まあそうではない引用もあるが)

 最近では「三大考」というテキストがまさにそれで、どのような地平で受け取るべきか分からない。まあその分からなさを楽しんでいるのだ、とも云えるが、どちらかというと“小骨”であり異和感を持続的に感じているのだ。

 「8人の小人」という短い算数の問題を5/8にUPしたときもそうだった。その問題の問題性をわたしが汲み尽くしていないことがはっきり分かり、かなり苦労した。11/13の「囚人の帽子」のときもそうでしたが、数学の問題の場合、“小骨”に出会い易い。数学以外だと突っ込まれても、おそらくその論理を構成している言葉の意味を少しづつ変えたりしていくことにより、自己の破綻を(かならず)回避してしまうものなのかもしれない。

 (読者には迷惑でしょうが)これからも“小骨派”ブログとして精進していきたいものです。

*1:学び1 朝日新聞20050530

小学校学習指導要領解説

  イ 大陸文化の摂取,大化の改新,大仏造営の様子,貴族の生活について調べ,天皇を中心とした政治が確立されたことや日本風の文化が起こったことが分かること。

 この内容は,聖徳太子が政治を行ったころから京都に都が置かれたころまでの時期のうち,大陸文化の摂取,大化の改新,大仏造営の三つの歴史的事象を取り上げ,これらを具体的に調べることを通して天皇を中心とした政治が確立されたことが,また貴族の生活を具体的に調べることを通して,日本風の文化が起こったことが,それぞれ分かるようにすることをねらいとしている。

 「大陸文化の摂取」について調べるとは,例えば,法隆寺や遣隋使などによる大陸文化の摂取を取り上げて調べ,聖徳太子が小野妹子らを隋(中国)に派遣し,政治のしくみなど大陸文化を積極的に摂取しようとしたことが分かるようにすることである。

 「大化の改新」について調べるとは,例えば,中大兄皇子や中臣鎌足による政治の改革を取り上げて調べ,天皇中心の新しい国づくりを目指したことが分かるようにすることである。

「大仏造営」について調べるとは,例えば,聖武天皇の発案のもとに,行基らの協力により国家的な大事業として東大寺の大仏が造られたことを取り上げて調ベ,天皇を中心にしてつくられた新しい国家の政治が全国に及んだことが分かるようにすることである。また,聖武天皇の願いにより鑑真が来日したことを取り上げて調ベ,仏教の発展に大きな働きをしたことが分かるようにすることが考えられる。

 こうした学習を通して,このころ,天皇を中心とした政治が確立されたことが分かるようにすることが大切である。なお,ここでは,内容の取扱いの(1)のアに示すように,例えば大仏造営を重点的に取り上げることが考えられる。

 「貴族の生活」について調べるとは,例えば,藤原道長に代表される貴族の暮らしや,紫式部や清少納言の活躍などを取り上げて調ベ,日本風の文化が起こったことが分かるようにすることである。なお,ここでは学習が高度になりがちな摂関政治など,貴族を中心とした政治の特色については取り上げないようにする。

 「天皇を中心とした政治が確立されたことが分かる」とは,聖徳太子の政治や大化の改新によって政治の仕組みが整えられたことや,奈良時代に天皇を中心とした政治が確立されたことが分かるようにすることである。

 また,「日本風の文化が起こったことが分かる」とは,これまでの大陸文化とは趣きの異なった,独自の日本風の文化が花開いたことが分かるようにすることである。

 実際の指導に当たっては,例えば,聖徳太子の肖像画やエピソードなどからその人となりを調べる学習,大仏の大きさから天皇の力を考えたり,大仏造営を命じた詔から聖武天皇の願いを考えたりする学習,博物館や郷土資科館などに展示されている,十二単や貴族の服装,調度品などを見学する学習などが考えられる。

 これらの学習を通して,天皇を中心とした政治が確立されたことや日本風の文化が起こったことが分かるようにする。

(小学校学習指導要領解説 社会編 平成11年5月 文部省)

いま扶桑社の社会科教科書の採択の是非が政治的焦点となっている。それに比べて話題になっていないが、少なくとも同じくらい重要なのはこの学習指導要領の「偏向」ではないだろうか。

むしろ正しいのでないかと思われる大山誠一氏などの「太子非実在論」はこの要領においては存在の余地がない。しかも某社の教科書と違い、日本中の小学生に強制されて居るのだ。

もっと批判しないといけないだろう。それと同時に、わずか絵入り14頁で、飛鳥、奈良、平安時代を分かりやすく語りきる指導要領に囚われない新しい教科書をつくってみる事も大事だろう。歴史と国家をどのような物語の枠組みで語ろうとするのか、小学生に対して。これはとても難しい問題でもある。

責任逃れ

# drmccoy  7/03(7)

  >責任逃れ

誰の責任ですか?まさか私には過去の指導者の戦争責任を追及する責任があるとかおっしゃるんではないでしょうね?

(野原) バンザイクリフの死者たちは一方的な犠牲者だったと言われた。つまり今回のJR西事故の犠牲者なんかと同じですね。彼らのことを考え寄り添おうとすれば、何故彼らが死ななければならなかったのか、そうさせてしまった責任は誰にあるのか考えるのが普通でしょう。多くの自決者を出した原因として、「終わりを考えられない狂信的戦争観」が「生きて俘虜の辱めを受けず」という倫理を考えることができます。それに対してマッコイさんは同意しないが、反論もしていない。責任に対し「誰の責任」と特定されない責任は考えまいとする態度が、「責任逃れである」と思います。

自虐とは?

7/24コメント欄より

(削除)

noharra 『突然のTB失礼しました。

野原は「戦争を美化するな。」、という主張はしていません。

(1)「しかし自虐一色に染まる」とはどういうことでしょうか?わたしが参照先として示した、林博史氏の論文「「集団自決」の再検討」 http://www32.ocn.ne.jp/~modernh/paper11.htm の記述は「自虐的なもの」なのでしょうか?

(2)「同じ轍を踏むと思ってます。」

同じ轍はすでに踏んでいるのでは。イラクに復興支援のために自衛隊を出したが、現在のイラクは内戦状態で復興支援ができる状態ではない。ある条件のもとに出兵したが、事態がその条件に反すようになったのに兵を返せない。これは「支那事変」の泥沼化において見られたのと同じ事態です。

(3)

戦争をもう一度したいのだったら、今度は「南京大虐殺」と「沖縄における住民虐殺(あるいは虐殺への示唆)」みたいなことは一切しません、との強い信頼感を国民に与えることが必要でしょう。

「歴史は繋がってます。そこには戦争をせざるを得ない考えに至った理由があります。そこの部分をないがしろにして「悪行だから反対」と切り捨てていては」

「戦争をせざるを得ない」という主張をあなたがしているという前提で聞いているのです。「大虐殺」及び「住民虐殺(あるいは虐殺への示唆)」も「せざるを得なかった」ものだとあなたは主張しているのですね? と。』 (2005/07/26 07:31)