要するに、上で言いたかったことは、敗戦前と後において、主体(日本)は連続と不連続二つの面がある。しかるに、最近はその切断の体験を持つ人が極少数になったのをいいことに、日本=日本という同一性にのみ立脚して発想する人が殆どになった(ようでもある)。日本は悠久の昔からここにあった国ではなく、敗戦によって新たな国として生まれ変わった(そうせざるをえなかった)国である。それを無視するのはただのふやけたナルシズムである。とわたしはいいたい。

 ところで誰に対して「恥を知れ」と言っているのか。「ヒロヒト無罪」and「東条無罪」を支持している人々に対して、である。

(マッコイさんあてに書き始めた文章ですが、途中からそうではなくなっています。すみません。)

正しいものは自由を多く持つ

ライス国務長官

 「我々の責務は明確だ。我々は、自由の格差の中で正しい側に生きる者として、不幸にも誤った側に生まれた人々を救う義務を負う。」

この発言はむかつきますね。

自由な国と自由を欠いた国の格差に対し、幸せな余力のある国とそうでない国というのならまだわかるけど、正しい/誤ったというのはどうなんだ。自由を欠いた国を支えている国民の責任という発想か。イラク国民はフセインの時以上に不幸になっているというのが事実だと私は思うが。アメリカや日本の国民も十年前より経済的格差拡大し、自由を失っているというのが事実だと私は思う。

倫理の基準は変わっていくのか?

例えばですが、かつてひとびとは軍国主義イデオロギーに突き動かされていた、とかいったことです。そしてそのアイロニーは実質的正義によって動機付けられるとします。

その場合、戦意高揚を煽る新聞を毎日みながら、頭に日の丸のハチマキをして工場動員されたひとたち、日の丸をふって兵隊を送り出したひとたち、あるいは戦争の早期終結と被害の最小化という経済的合理性を信じて日本に空襲を行った兵士の価値観についてどう考えるべきでしょうか。これは野原さんの問題意識ともつながると思います。

この問題に答えていなかった(ですね?)

愛国心という扇動に踊らされていた個人であっても、違法性が高ければ当然責任は追及されることになる。米軍でいえば、原爆だけでなく、大空襲も戦争犯罪だという国際的常識をうち立てる方向で考えるべきだと思います。そういう価値観が成立すれば、下っ端の一兵卒であって命令に従っただけでも、少なくとも倫理的責任は発生することになる。国際的常識(それをどう確認するかは今は問わない)の確立の前と後では、個人に対して問われる倫理の質が変わってくるという理解。もちろん倫理の基準は極めて個人的なものである場合もある。しかし、戦争責任論や今回の人権擁護法案では、国民的規模での「倫理の基準」をうち立てようとしているのだ。と一旦考えて見よう。

愛国心は否定しても、「倫理の基準」はどうだろうか? 「右からの」倫理の基準は拒否するが、「左からの」それを前提とし暗黙のうちに推し進めようとしているのではないか。

現行の憲法的秩序に深い信頼と確信を寄せ、それを不断の努力によって守っていこうとする態度はひとつの愛国心といえないでしょうか。国制(Constitution)に対する信頼。

この問題にあえて愛国心という言葉を使う必要はないのではないか。戦後憲法に普遍性を見出しそれを発展させる立場ですね。

「愛国心はそもそも悪いものにならざるをえない」としても、

「不当な差別的取扱い」や「人種等の属性を理由としてする侮辱、嫌がらせその他の不当な差別的言動」を法で禁止する事は肯定してもよいのではないか。愛国心というテーマでの議論を拡散させるつもりはないので見当違いと思われたら無視してください。(人権擁護法案読んでないし。)

構成要件の明確性

(ビラをまく自由の続き)

swan_slab 『これに関連して表現の自由を制約する立法として、都道府県公安条例、破防法39条なんかが憲法問題としてしばしば論じられますね。』

# noharra 『「ビラをまく自由」を制限している都道府県公安条例があるのですか?知らないので教えてください。破防法の方は「XXを殺せ」とか書かなければ大丈夫ですよね?』

swan_slab 『道交法もそうなんですが、「ビラまき」など明確に限定してせず、例えば「交通秩序を維持すること」といった漠然とした構成要件が自治体の公安条例にはしばしば見られます。これが憲法違反(31条)ではないのかが争われることがあります。

まさに戦前の治安維持法は「安寧秩序の維持」を構成要件にして、なんでもかんでもくさいものはとっ捕まえていたわけですから、構成要件の明確性というのは重要です。』

なるほど。

漠然とした構成要件といっても、「ビラ撒き」が交通秩序を乱すことになるとは思えないのですけれどもね。

被害者は三重の被害を受ける

心的外傷に関する(もしくは歴史に関する)学究的立場から、冒険的なコミットをするというのなら、論説される通りの意味ある行為であるといえると思うのですが、例えばバウネットのような組織は学究の徒ではないですよね。もっと言えば、特定の政治的目的のために、救済の皮を被った奴らが、彼女達被害者を利用しているのではないか、という疑念が拭い去れないのです。そうだとすれば、被害者達は二重に被害にあっていることになる。

(botaro さん発言 id:mojimoji:20050210のコメント欄の文章の一部) 

なんでそういう話になるのだろうか?

慰安婦制度は犯罪であった。東京裁判以降でそれが裁かれなかったなぜか。アメリカなどの法意識が、アジア人差別と女性差別に侵されていたから、かもしれないし、そうでないかもしれない。どちらにしても犯罪であったことを公に認めて欲しいという被害者の訴えがある。犯罪被害者からのこうした訴えは認められるべきである。慰安婦制度が犯罪であった、ことを日本の裁判所が認めなかったわけではない。(時効、除斥期間、個人補償請求権の日韓基本条約等による消滅)などを適用したまでである。

「被害者達は二重に被害にあっていることになる。」このbataroさんの問題意識は、素顔の慰安婦たちの本音に近づくことが善であるという立場に立っている。bataroさんは慰安婦の発言を聞いたのだろうか。NHKも民法も放送しないから、そして自ら図書館まで足を運ぶ労を惜しむから、おそらくbataroさんは慰安婦の発言を聞かないままでこの文章を書いているのではないのか? 1/25と2/3のnoharra日記にちょっと引用していますが。

bataroさんは自らの聞きたくない権利を行使しているだけではないのか。

従軍慰安婦とは二重の加害の被害者である。一つ目はもちろん日本軍からのものだ。二つ目は戦後現地の女性差別社会において、性奴隷にされたことは汚らわしい体験であり、その汚れの責任は彼女自身が負うべきものとみなされるという抑圧である。

彼女が体験を話すと、親戚は彼女と縁を切り、夫も受け入れたがりませんでした。彼女は夫に嘆願して同居することになりましたが、妻としてでなく女中としてでした。(ヘルテルデスさんのこと)

p183 マリア・ロサ・L・ヘンソン『ある日本軍「慰安婦」の回想』isbn:4000000691

マリアさん自身は、25歳で未亡人になってから一人で子どもを育てた。ずっと秘密にしてきた。「けれども誰にも語れない秘密はいつも心にのしかかる重荷でした。(p163)」1992年のある日、ラジオで性奴隷体験者の証言を求めているのを聞いた。

全身に衝撃を覚え、血が白くなったかのように感じました。その言葉を忘れることができません。「……恥ずかしがらないで。性的奴隷だったことは貴方の責任ではないのです。責任は日本軍にあるのです。貴方自身の権利のために立ち上がり、闘ってください……」

いくらひどい被害だったといっても、50年近く前の話である。全身に衝撃を覚えるなんて言うのは大袈裟ではないか、と傍観者的には思ってしまう。だがそうではないのだ。「誰にも語れない秘密」は誰に語られなくとも50年間彼女の心の中に生き治癒されずに傷であり続けたのだ。わたしにそれが分かるわけではないがそういうことなのだろう。何十人もの元慰安婦たちが、老いさらばえ健康に不安があるのにわざわざ海を越え東京に集まったのは、「死んでも訴えたいこと」があったからだ。

bataroさんには聞きたくない権利があるのか。他者がそこにやってきた以上、声を聞いてやるのがひとの道なのではないのか。

「特定の政治的目的のために、救済の皮を被った奴らが、彼女達被害者を利用しているのではないか、」支援者には少しずつ違ったそれぞれの思惑がある。この場合各国の支援者はナショナルな枠組みから規制を受ける。だが、

支援者は被害者の救済を目的としている大枠で一致できた。

「特定の政治的目的」とは一体なんだろう。bataroさんは「天皇有罪」という判決が気に入らないのか。「天皇有罪」とは1945年までの天皇に関わり、わたしたちが親愛しなければならないのは1945年以降の天皇なのだから、わたしは別に有罪でも構わないと割り切れる。だがそうは思えない人もいるだろう。だがそれはそう感じる人が「特定の政治的目的」に立っているということなのだ。

聞きたくない権利を主張することは、サバルタンが関わる問題については、サバルタンはサバルタンのままでおれ!と既成の権力構造の側に立って、問題はないと言うことである。あるいは発言しないことによっても同じ効果を得られる。

バウネットが彼女たち自身の真実のために慰安婦に加担したことを、私は支持したい。

詳しく言うと(kamayanさんのコメントを読み追加した)

えーと、小選挙区で自民党が30%も増加した。

その根拠となる得票数を見ると643万票増加している。

しかし民主党も自民党には及ばないが、得票数は299万票増えている。

得票率(得票総数に対する割合)をみると

自民党 : 前回43.85%  今回47.77%  3.92%増加

民主党 : 前回36.66%  今回36.43%  0.23%減少

民主党の得票率は減少したといってもわずか0.23%。

したがって「自民党は4%の得票率の増加で、30%の議席数増を得た」と言ってもよいだろう。

比例代表では、自民党は3.23%増、民主党は6.36%減と小選挙区に比べると差は大きい。しかし比例代表では当選者数にはマイルドに結果し、小選挙区では劇的に結果する。

(昨日書いたときは民主党の得票率もっと大きく減ったと誤解していました。)

オバサンの発見

これに対して、「フェミニストの視点」の理論家たちはオバサン*1としての社会的位置をより優れた「知」の基礎にポジティヴに位置づけます。彼女たちは、現実の社会関係は抽象的で「客観的な」位置からではなく、日常世界の具体的な社会的位置から見渡せるものであると主張します。そうすることによって、オバサン*2たちは同時に社会思想における「人=男(Man)」を脱中心化します。

http://d.hatena.ne.jp/toled/20050924#p1

だとしたら、「人=男」を脱中心化するだけでは不十分でしょう。さらにフェミニズムにおける「白人の、経済的に恵まれた、異性愛者の、西洋の*3フェミニストの関心を脱中心化する」ことが必要になります。(同上)

コリンズは白人家庭の使用人としての黒人女性の位置に注目します。彼女たちは白人世界の「内部に」おり、白人の現実を見ることができました。一方で、黒人女性はアウトサイダーでもありました。というのも、「彼女たちは決して白人の『家族』に属してはいなかった」からです。このように、彼女たちはユニークな位置にありました。コリンズはこれを「内側のアウトサイダー」と名付けます。(同上)

オバサンは主婦である場合、その家庭ではインサイダーであり支配者であると言えなくもない。しかし、家族の中に要介護老人などをかかえると、彼女は労働時間と感情労働を限界なく搾取されることになる。

*1:原文:女性

*2:原文:彼女

*3:「若く知的な」が抜けている

語ること/その手前に留まること

悲しみの言語を使うことによって、わたしは当分の間、みずからの悲しみを忘れ去った--言葉の魔力は非常に強いので、われわれを狂わせ、破滅させかねない激情のすべてを、制御可能なものに弱めてくれるのである。

(p300『拷問者の影』ジーン・ウルフisbn:4150106894

語ることは私たちの心をなぐさめる、なぜならそれは[私を]普遍的なものへと「翻訳」してくれるから、とキルケゴールは記している。

 言語の第一の効果ないしは第一の使命、それは私から私の単独性を奪うと同時に、私を私の単独性から解放してくれることである。私の絶対的な単独性を言葉で中断することによって、私は同時に自分の自由と責任を放棄する。語り始めてしまったとたん、私はもはや決して私自身ではなく、一人でも唯一でもなくなってしまう。奇妙で逆説的で、おそろしくさえある契約だ。

(p126 デリダ『死を与える』isbn:4480088822

 ウルフとデリダの言っていることはかなり近い。沈黙に於いて<私>は自身を破滅させかねない激情あるいは単独性といったものに囚われている。しかし語ることによって<私>は単独性を奪われ、ある社会における交換可能な存在者になってしまう。

それでは、上記の「多くの老人たちが、黙り込むか「うーん、忘れたなあ」という決まり文句を返してくる。」における沈黙も、単独性の名において弁護されるべきだろうか。おそらくそうではない。

「言おうとしないことを許してください」の場合は、語り手の内部に「言うべき事がある」あるいはすくなくとも「言うことがあるべき」ことを含意している。言うべき事と沈黙という外面とのあいだのすさまじい圧力差が、単独性という強度を産みだす。「うーん、忘れたなあ」の場合は言うべき事のしっぽはすでにそこにあるのにそれを見ない振りをし忘れたふりをする。そしたそういう「振りをする」ことをきみは非難しうるのかよう非難できはしまい、という居直りがある(のではないか)。彼は一人で居ても単独者ではなく、何か(日本という共同性)に許されて居る。

六甲 第三章 

油コブシ。ケーブル六甲山上駅から約1キロ南の丘陵

に突出した巨岩。海抜約六百メートルで、西方の摩耶

山をこえて瀬戸内海を望む。かつてはにぎりこぶし状

に上へ侵びていたが、尖端が徐々に風化されている。

 私の中へ〈私〉たちがなだれこんだとき、〈私〉たちが見たものは、いままで私がかいてきた形象が、時間=空間の痕跡を次第に変化させながら、時間=空間の痕跡を次第に変化させながら、私の内蔵の奥深く累積している姿である。

 〈私〉たちの嘔吐の気配を感じとった私は、それを無視したいために、嘔吐の感覚から最も遠いと思われる意識を、外の風景へ投げ込もうとした。しかし、いつのまにか、私は、油コブシの尖端で眼を閉じたまま立ち上がっており、恐怖がその状態を確認するよりも早く、私は放物線を描いて、はるか下方の斜面で待つタンポポと激しく接吻しながら失神しつつある。

 私はまだ意識を回復していない。第一章=序章、第二章=仮章に続く次の章をかけない苦しみのために、意識的に意識を失ったと疑ってもよい位だ。ともかく〈私〉たちは、私が墜落したのと同時に、私の内部に、〈私〉たちの欲する限界をはみ出すまで深く墜落しつつある。〈私〉たちの突差の行動で、〈私〉たちの各々は、互いに〈 〉をスクラムのようにからませ合いながら鎖のように墜落したので、〈私〉たちの一方の端は、どこまでも奥深くへ運動するけれども、一方の端は、入口でたてまえを重んじる論点と、有効性に関する論点と、生活の単純再生産をめぐる論点にしぼられていく。屍臭のただよう三つの論点しっかりと固定されている。

 〈私〉たちは微少な時間=空間の転移のすきまで、次のように決議した。苦しみから逃れるために〈私〉たちを墜落させた私の責任を追求しよう。墜落という災難を逆用して、私の内部に食い下がり、いままで私がかいてきた形象たちの苦しみをさぐり、かれらに代わって〈私〉たちが私を告発してやるのだ。

 何よりも先に注意をひかれるのは人物であるが、未熟児か不具者に会う直前のような感じがして一種の恥ずかしさに〈私〉たちは身体を固くする。しかし眼をそらさずに下へ降りていかなければならない。最初にすれちがったのは、骨の割れ目に足をかけて登ってくる人間で〈私〉たちに気付かぬまま、荒い呼吸をしている。その次には、時計の長短針のように交差する血管にはさまれている人間。眼の機能を耳が、耳の機能を口が、口の機能を眼が果たしているので、各々の器官が死ぬほど憎みあっている。更に下へ降りる〈私〉たちは、足ぶみか跳躍をしている人間に驚いた。粘膜壁にあるいくつかの光る斑点のためにできたたてまえを重んじる論点と、有効性に関する論点と、生活の単純再生産をめぐる論点にしぼられていく。屍臭のただよう三つの論点自分の影、その影のどこかの部分を、同時に踏みつけようと試みているらしい。最後に、じっとしゃがみこんだまま、不消化な岩の破片をかんでいる人間がいるが、よく見ると岩の破片ではなく、眼を閉じている彫像の頭部で、それに話しかけている様子であった。どの人間も、年齢や性別が分らず、それらの人物たちのまわりには、さまざまなものたちが、プールにゴミ箱を投げ込んだように浮遊しているので、〈私〉たちはそれらの一つ一つをたしかめる気力がない。それに、落ち着いて考えてみると、〈私〉たちは、ほぼ直線状に下降してきたのだから、その軸のまわりの部分で何人かを見たというにすぎない。

 〈私〉たちのまわりから、形象たちをつつみこむ限界までは、どこまでも、果てしがないと思われる位に暗く、その暗さは、夜の渓谷や、濁った運河や死者の広場に似ている。せめて下の限界を、墜落しながらたしかめようと考えたとき、なぜか分からないが、下の暗さをのぞきこむ〈私〉たちは、私の口に触れているはずのタンポポを意識した。同時に〈私〉たちのつながりが、ガクンと一直線に伸び切り、これ以上、降りられないことに気がつく。

 静止した〈私〉たちが、私の責任を、形象たちの前で告発しようと意志をかため、つぶやきから弁論に変化する直前の、微妙な鼓動の律動を制御するために眼を閉じていると、いままでは〈私〉たちに気付かないまま永遠の動作を続けていた形象たちが、ふと動作を中止して、〈私〉たちの方へ注意をむけているような気がする。〈私〉たちはすぐに眼を開けてしまうと、この想像とくいちがうのを怖れ、数瞬後、どちらでもよい、と思いながら眼を開くと、形象たちは、永遠の動作を続けており、こちらに注意を払っていない。〈私〉たちは、かれらが気がつかないうちに、彼らの一瞬を想像した〈私〉たちの技巧や、待つことのうちに事態を変化させてしまう〈私〉たちの統制力に微笑しながら、次のように、告発をはじめるのである。

〈私〉たちは、あなた方の直系の血族として、六甲の空間から、この時間の底へ降りてきた。

〈私〉たちは、あなた方と同じく、存在しきれない苦しみにうめいている。

人間が存在するとき、整数の性質をもって現れてくるのを疑うものはいない。しかし、ここにいるあなた方は全て、整数からはみ出す性質をもっている。そして〈私〉たちは、その最も極端なかたちに分裂させられた。

 墜落を逆用して、〈私〉たちは、あなた方の連続性をかいま見てきた。あなた方のうち、最も底にいる形象から次第に上方へ、〈私〉たちに至るまで、丁度、枝のない幹をみるような方向が一貫している。

 あなた方や〈私〉たちを、未熟なまま早産せざるをえない時間が、かって私を襲ったのであろう。それはよいとして、〈私〉たちが告発する私の責任は次の点にある。

 あなた方や〈私〉たちの形象をつねに、外部の時間と、内部の空間との間でのみ設定したこと。従って、自己にも形象にも致命的な歪みを与えたこと。

 〈私〉たちや、あなた方の直線的なつながりは、この上なく危険な徴候だ。主体設定の変化が早すぎる。主体のりんかくが薄すぎる。

 底に近い形象ほど無意識のうち時間にあやつられ、上に近づく形象ほど無意識のうちに空間にあやつられている。だからこそ〈私〉たちは、六甲の空間から、あなた方の時間へ降りてきた、と語ったのだ。

 〈私〉たちは私に要求する。内部の時間と外部の空間の間で形象せよ。たとえば、失神という瞬間から、太陽に入ったフライを受けそこなって球が顔に当った瞬間、終電車におくれて歩いて帰ろうとし、凍った鉄橋からすべり落ちた瞬間、機動隊にむかって振り上げたコン棒の先が、後ろのデモ隊員に当った瞬間へ、なぜ連絡しないのか。〈私〉たちでない、〈 〉たちへ、なぜ入り込まないか。

 〈私〉たちは、あなた方の直系の血族である。これは、実をいうと、この上なく屈辱的なことだ。しかし、同時に、〈私〉たちの一人一人は、あなた方と存在を交換してもよいと思う位、あなた方を愛している。

 いま〈私〉たちは、自分たちの限界のために、これ以上うごくことができない。身体が不自然に伸び切っているし、窒息しそうだ。いつか必ず、もっと深く、もっと長い時間ここへ潜入し、あなた方すべてを救い出そう。

 〈私〉たちは、あなた方の誰よりも惨めな形象だが、あなた方とちがっている。そして、いましばらく、あなた方と離れていくことは、あなた方の苦しみの契機をすべて背負いこむ一ばん有効な道なのだ。

〈私〉たちが、このように、かれらにむかって語りおわったとき、いや語りおわろうとしたとき、彫像の頭部が〈私〉たちの方へ投げつけられ、次第に重量と速度を増して、油コブシのように〈私〉たちへ迫ってくる。その彫像あるいは巨岩によってひきおこされた風を受けて、〈私〉たちは、自分よりも少しでも上方にいる〈私〉たちにしがみつきながら上方へ吹き上げられていくのであるが、下降のときは円筒状の流れしか見えなかったのに、上昇のときは滝のような音しか聞こえない。

 〈私〉たちは、〈 〉を何重にも自分にまきつけたい不安と、〈 〉がズリ落ちそうだという滑稽さにはさまれながら、下方から迫る衝撃を避けようとしている。

 突然の爆発音。……黄色い閃光が飛び散って、花びらのように開く。

 内臓の底から吹き上げられた〈私〉たちが、風景への出口でぶつかったのは、タンポポであった。私が失神しながら接吻しているので、黄色い花びらは血にまみれており、そこには、いままで〈私〉たちが一度も感じたことのない、可憐な勇敢さともいうべき力が潜んでいる。

 〈私〉たちにとって、はじめての外部の風景でありながら同時に出口をふさぐこのタンポポを前にして、〈私〉たちは次のように討論する。

 花びらに映っているのは何だろう。

 いや、文字が浮きでているのではないか。すでに綿毛になった花芯がペンになって書いた文字が。

 とにかく何かが表現されているのはたしかだ。

 私がいままでかいた形象たち、かれらからこぼれおちた、あるいは欠落したものが解放されて表現されているのではないか

 私がこれからかくべきヴィジョンなのだろう。

 〈私〉たちのかかわり合いかたで、いろいろと変わった風にとらえられるのだと思う。ほら、〈私〉たちの〈 〉が映っていると思えばそんな気がするだろう。

 ふしぎなことに気がついた。花びらと〈私〉たちの意識をつなぐイメージあるいは言葉に〈 〉をつけてみると、その部分は、他のイメージあるいは言葉に置き換えても成り立つのだ。しかも、より透明な意味をひきずりだしながら。

 例えばどんなのだ。さっぱり分からない。

 それは私が、いつかやってくれるだろう。また、〈私〉たちは私に、それをやらさなけらばならない。

 いいたいことをいい切ってしまえ。とても苦しそうだから。

 任意の部分に〈 〉をつけてみると、置き換えが可能だし、そのことによって花びら全体が、さまざまに揺れ動く。そして、イメージあるいは言葉が、個体→群→全体

個体←群→全体 個体←群←全体というようなことばでしか、いまはいえないが、そのような異なった時間=空間の律動の境界を往還するのが予感できるのだ。

 自由自在にか。

 いや、ある領域内に制限されつつ自由に運動するのではないかという気がする。逆にある領域内で自由に運動するもののうち、ある一つのかたちが、この花びらに現れてくるともいえそうだ。

 それは怖ろしいことだぞ。極めて突飛ないいかただが、ここから、恒常的な存在の条件と恒常的な表現の条件の中で弯曲している何ものかのある段階の姿が導けるのではないか。

 では、この花びらの形象はだれがつくりだしたのか。

 失神している私とでもしかいいようがない。〈私〉たちは、いまのところ、私にむかって、〈 〉の根拠を明らかにせよ、と要求し続けるほかないのだ。

 手がかりはないのだろうか。何でもいいから、いってくれ。

 恐らく、いま失神している私は、あるとき自己や世界の関係を〈 〉に入れなければ生きることも死ぬこともできない時間=空間に出会ったのだ。そしていまも出会い続けているのだろう。私にとっての戦後史の軸も、世代も体験も、国家も革命組織も、家庭も風景も、みなれないと同時に致命的な二重性として映っているはずだ。ただし、自分では気づかずに。失神したときはじめて、このタンポポが、私の可能性をひきずりだしたのだ。

 花びらに浮きでたものを〈私〉たちの一人一人がメモにかきうつしたらどうなるか。……みんなで協力して統一メモを構成しよう。

 何度もかきかえていくときの基準はどうするのだ。切り捨てたり、残したり、順序を入れかえたりするときの基準は。

 切り捨てることによってしか〈 〉運動をおしすすめることができないのであれば、その部分は、別のかたちで残ってくるだろう。残るものは〈 〉運動の基盤、付け加えるものは〈 〉運動を拡大する契機、入れかえるものは〈 〉運動の有効性としてとらえられる。

 私への告発はどうなったのだ。それに一体、わたしたちは何ものなのだ。

 〈私〉たちが私によって、私が〈私〉たちによって〈 〉の意味を予感したことが、それぞれの責任だといえる。だから、私への告発は〈私〉たちへの告発になる。〈私〉たちの誤りを追求することは、この世界の誤りを追求することであり、また、この世界の誤りを追求することなしには〈私〉たちの誤りは許されない。

 〈私〉たちはこれから〈 〉をつけて表れないことを決意しよう。〈私〉たち以外の全てのものに〈 〉をつけに、再び内蔵へ下降していくのだから。

 〈 〉は消え去るだろう。しかし、〈 〉のない世界は、〈私〉たちが永遠に変革し続ける夢である。夢が恒常的な条件に限りなく近づくように! 〈私〉たちが、そのたたかいに耐え続けてくれるように!

 そのとき、私は、何ものかの嘔吐によって意識を回復し、まず、わたしの上方におおいかぶさっている油コブシに〈 〉をつけはじめている。

(1966年5月発表)

(2008.11.09~16UP)