要するに、上で言いたかったことは、敗戦前と後において、主体(日本)は連続と不連続二つの面がある。しかるに、最近はその切断の体験を持つ人が極少数になったのをいいことに、日本=日本という同一性にのみ立脚して発想する人が殆どになった(ようでもある)。日本は悠久の昔からここにあった国ではなく、敗戦によって新たな国として生まれ変わった(そうせざるをえなかった)国である。それを無視するのはただのふやけたナルシズムである。とわたしはいいたい。

 ところで誰に対して「恥を知れ」と言っているのか。「ヒロヒト無罪」and「東条無罪」を支持している人々に対して、である。

(マッコイさんあてに書き始めた文章ですが、途中からそうではなくなっています。すみません。)

正しいものは自由を多く持つ

ライス国務長官

 「我々の責務は明確だ。我々は、自由の格差の中で正しい側に生きる者として、不幸にも誤った側に生まれた人々を救う義務を負う。」

この発言はむかつきますね。

自由な国と自由を欠いた国の格差に対し、幸せな余力のある国とそうでない国というのならまだわかるけど、正しい/誤ったというのはどうなんだ。自由を欠いた国を支えている国民の責任という発想か。イラク国民はフセインの時以上に不幸になっているというのが事実だと私は思うが。アメリカや日本の国民も十年前より経済的格差拡大し、自由を失っているというのが事実だと私は思う。

倫理の基準は変わっていくのか?

例えばですが、かつてひとびとは軍国主義イデオロギーに突き動かされていた、とかいったことです。そしてそのアイロニーは実質的正義によって動機付けられるとします。

その場合、戦意高揚を煽る新聞を毎日みながら、頭に日の丸のハチマキをして工場動員されたひとたち、日の丸をふって兵隊を送り出したひとたち、あるいは戦争の早期終結と被害の最小化という経済的合理性を信じて日本に空襲を行った兵士の価値観についてどう考えるべきでしょうか。これは野原さんの問題意識ともつながると思います。

この問題に答えていなかった(ですね?)

愛国心という扇動に踊らされていた個人であっても、違法性が高ければ当然責任は追及されることになる。米軍でいえば、原爆だけでなく、大空襲も戦争犯罪だという国際的常識をうち立てる方向で考えるべきだと思います。そういう価値観が成立すれば、下っ端の一兵卒であって命令に従っただけでも、少なくとも倫理的責任は発生することになる。国際的常識(それをどう確認するかは今は問わない)の確立の前と後では、個人に対して問われる倫理の質が変わってくるという理解。もちろん倫理の基準は極めて個人的なものである場合もある。しかし、戦争責任論や今回の人権擁護法案では、国民的規模での「倫理の基準」をうち立てようとしているのだ。と一旦考えて見よう。

愛国心は否定しても、「倫理の基準」はどうだろうか? 「右からの」倫理の基準は拒否するが、「左からの」それを前提とし暗黙のうちに推し進めようとしているのではないか。

現行の憲法的秩序に深い信頼と確信を寄せ、それを不断の努力によって守っていこうとする態度はひとつの愛国心といえないでしょうか。国制(Constitution)に対する信頼。

この問題にあえて愛国心という言葉を使う必要はないのではないか。戦後憲法に普遍性を見出しそれを発展させる立場ですね。

「愛国心はそもそも悪いものにならざるをえない」としても、

「不当な差別的取扱い」や「人種等の属性を理由としてする侮辱、嫌がらせその他の不当な差別的言動」を法で禁止する事は肯定してもよいのではないか。愛国心というテーマでの議論を拡散させるつもりはないので見当違いと思われたら無視してください。(人権擁護法案読んでないし。)

構成要件の明確性

(ビラをまく自由の続き)

swan_slab 『これに関連して表現の自由を制約する立法として、都道府県公安条例、破防法39条なんかが憲法問題としてしばしば論じられますね。』

# noharra 『「ビラをまく自由」を制限している都道府県公安条例があるのですか?知らないので教えてください。破防法の方は「XXを殺せ」とか書かなければ大丈夫ですよね?』

swan_slab 『道交法もそうなんですが、「ビラまき」など明確に限定してせず、例えば「交通秩序を維持すること」といった漠然とした構成要件が自治体の公安条例にはしばしば見られます。これが憲法違反(31条)ではないのかが争われることがあります。

まさに戦前の治安維持法は「安寧秩序の維持」を構成要件にして、なんでもかんでもくさいものはとっ捕まえていたわけですから、構成要件の明確性というのは重要です。』

なるほど。

漠然とした構成要件といっても、「ビラ撒き」が交通秩序を乱すことになるとは思えないのですけれどもね。

被害者は三重の被害を受ける

心的外傷に関する(もしくは歴史に関する)学究的立場から、冒険的なコミットをするというのなら、論説される通りの意味ある行為であるといえると思うのですが、例えばバウネットのような組織は学究の徒ではないですよね。もっと言えば、特定の政治的目的のために、救済の皮を被った奴らが、彼女達被害者を利用しているのではないか、という疑念が拭い去れないのです。そうだとすれば、被害者達は二重に被害にあっていることになる。

(botaro さん発言 id:mojimoji:20050210のコメント欄の文章の一部) 

なんでそういう話になるのだろうか?

慰安婦制度は犯罪であった。東京裁判以降でそれが裁かれなかったなぜか。アメリカなどの法意識が、アジア人差別と女性差別に侵されていたから、かもしれないし、そうでないかもしれない。どちらにしても犯罪であったことを公に認めて欲しいという被害者の訴えがある。犯罪被害者からのこうした訴えは認められるべきである。慰安婦制度が犯罪であった、ことを日本の裁判所が認めなかったわけではない。(時効、除斥期間、個人補償請求権の日韓基本条約等による消滅)などを適用したまでである。

「被害者達は二重に被害にあっていることになる。」このbataroさんの問題意識は、素顔の慰安婦たちの本音に近づくことが善であるという立場に立っている。bataroさんは慰安婦の発言を聞いたのだろうか。NHKも民法も放送しないから、そして自ら図書館まで足を運ぶ労を惜しむから、おそらくbataroさんは慰安婦の発言を聞かないままでこの文章を書いているのではないのか? 1/25と2/3のnoharra日記にちょっと引用していますが。

bataroさんは自らの聞きたくない権利を行使しているだけではないのか。

従軍慰安婦とは二重の加害の被害者である。一つ目はもちろん日本軍からのものだ。二つ目は戦後現地の女性差別社会において、性奴隷にされたことは汚らわしい体験であり、その汚れの責任は彼女自身が負うべきものとみなされるという抑圧である。

彼女が体験を話すと、親戚は彼女と縁を切り、夫も受け入れたがりませんでした。彼女は夫に嘆願して同居することになりましたが、妻としてでなく女中としてでした。(ヘルテルデスさんのこと)

p183 マリア・ロサ・L・ヘンソン『ある日本軍「慰安婦」の回想』isbn:4000000691

マリアさん自身は、25歳で未亡人になってから一人で子どもを育てた。ずっと秘密にしてきた。「けれども誰にも語れない秘密はいつも心にのしかかる重荷でした。(p163)」1992年のある日、ラジオで性奴隷体験者の証言を求めているのを聞いた。

全身に衝撃を覚え、血が白くなったかのように感じました。その言葉を忘れることができません。「……恥ずかしがらないで。性的奴隷だったことは貴方の責任ではないのです。責任は日本軍にあるのです。貴方自身の権利のために立ち上がり、闘ってください……」

いくらひどい被害だったといっても、50年近く前の話である。全身に衝撃を覚えるなんて言うのは大袈裟ではないか、と傍観者的には思ってしまう。だがそうではないのだ。「誰にも語れない秘密」は誰に語られなくとも50年間彼女の心の中に生き治癒されずに傷であり続けたのだ。わたしにそれが分かるわけではないがそういうことなのだろう。何十人もの元慰安婦たちが、老いさらばえ健康に不安があるのにわざわざ海を越え東京に集まったのは、「死んでも訴えたいこと」があったからだ。

bataroさんには聞きたくない権利があるのか。他者がそこにやってきた以上、声を聞いてやるのがひとの道なのではないのか。

「特定の政治的目的のために、救済の皮を被った奴らが、彼女達被害者を利用しているのではないか、」支援者には少しずつ違ったそれぞれの思惑がある。この場合各国の支援者はナショナルな枠組みから規制を受ける。だが、

支援者は被害者の救済を目的としている大枠で一致できた。

「特定の政治的目的」とは一体なんだろう。bataroさんは「天皇有罪」という判決が気に入らないのか。「天皇有罪」とは1945年までの天皇に関わり、わたしたちが親愛しなければならないのは1945年以降の天皇なのだから、わたしは別に有罪でも構わないと割り切れる。だがそうは思えない人もいるだろう。だがそれはそう感じる人が「特定の政治的目的」に立っているということなのだ。

聞きたくない権利を主張することは、サバルタンが関わる問題については、サバルタンはサバルタンのままでおれ!と既成の権力構造の側に立って、問題はないと言うことである。あるいは発言しないことによっても同じ効果を得られる。

バウネットが彼女たち自身の真実のために慰安婦に加担したことを、私は支持したい。

一読者 『>ノーモア

>ずいぶんと「上から見た物言い」ですね。

おやおや先に上から見た物言いをされた方が逆ギレですか。

>そういうあなたは歴史学者か何かなのでしょうか。

いいえ。歴史以外の分野の学会に所属しているだけですよ。いわゆる在野ですけど。

>ではぜひどの史料の解釈がどのように間違っているのか、具体的にお答えください。でなければあなたの発言は単なる誹謗中傷です。

また人のコメントを歪曲をする。間違ってるとは一言も言ってないでしょ?強引だと言っただけで。それに、引用部分以前の言説は実証主義的資料研究の枠内にとどまろうと努力する言説だと一定の評価をしていることがお分かりにならないのでしょうか?

私のこの問題についての基本的考えは秦氏と大体同じですから、そこから類推してください。具体的に聞いてくれれば、秦氏と違う部分は違うと言いますが。

でも、あなたが私の引用部分とそれ以前の資料分析部分との間に論理の飛躍があると思われなかったとしたら、素人レベルの論理的分析すら怠っているか単にイデオロギー的な同調共感をしているだけだと思いますよ。

>平成3年8月27日参議院予算委員会での外務省の答弁です。

「これは日韓両国が国家として持っております外交保護権を相互に放棄したということでございます。したがいまして、いわゆる個人の請求権そのものを国内法的な意味で消滅させたというものではございません。」

おお、これは感謝します。私の考えは古い日本政府見解(正確には消滅ではなく放棄でした)だったのですね。ただ、締約当時の交渉文書では、日韓両政府とも私と同じ考え方だと思ったので、締約当時の公式解釈では日韓両政府とも個人請求権の放棄と解していましたよね?条約の効力の解釈は締約当時の公式解釈によるのが原則ですが、時を経て両国の公式解釈が変遷して奇しくも再び一致したという訳ですか。こういう場合変遷後の公式解釈に変わるのかな?詳しければ教えてください。

でも、日本の裁判所で個人請求権を行使しても、大審院判例(国家無答責)か消滅時効か除斥期間で結局認容されませんよね?

そうすると、外交保護権の放棄に行き着いて、結局法的責任は追求できませんね。河野談話を踏まえて公式謝罪した複数の首相の誰もが法的責任の履行はできないからこそ、アジア女性基金で道義的責任を果たすことになったのではないですか?

>「考慮されなかった」ことはお認めになりますね?

はい。

>で、その原因についてですが「慰安婦は当時の戦勝国や韓国の法意識では犯罪ではないと考えられていたと思います。」などと勝手な解釈を付け加えるならそれこそソースをお願いします。

冤罪すら処罰された。証拠不十分でも処罰された。いわんや行為当時の犯罪をや。戦犯法廷に告発されればほぼ処罰された状況で告発されなかったのは、犯罪とは意識されなかったからと考えるのが常識的推論。私の勝手な法社会学的な解釈なので、反対されるのはご勝手です。

ただ、私の考えと似た考えとして、先週末の田原耕一郎氏司会のテレビ討論番組で櫻井よし子氏が、いわゆる白馬事件に言及して、同事件の関係者が処罰されたということは同様の事件があれば処罰されているはずで処罰されていないのは同様の事件が無かったからだと思うという趣旨のコメントをされていました。

>私が記事を見た限りでは「謝罪」を勧告するというものしか見当たりませんし、日本政府も「決議されても謝罪はしない」としか言っていないので個人補償について法的責任があるといった決議ではないと思いますが。

決議案の内容については、私も再度調べますが、あなたもお調べください。

日本政府が謝罪の否定しかしないのは、決議に法的拘束力が無いから決議案の内容になっていたとしても個人補償まで言及する必要が無いと判断したからだと思いますが。

>具体性の無い誹謗するばかりで議論から逃げるだけじゃないですか。

ん?そもそもあなたの元コメントからして具体性もないし、クワラスミレポートとか上記サイトとか引用だけでしょ?反対の意見の学者の立場から見たらあなたのコメントも単なる誹謗だけですよ?

>「関与していないと思う」ことと「事実として関与していない」ことは全く違うんですよ。もう少しまともな議論が出来ませんか?

ん?当然そんなこと分かってますから、私は断言してないんですよ。それがまともな論理的な議論です。専門家ですら見解が分かれることを断言しちゃうあなたの方が傲慢です。私は政府機関が主体的には関与していないと思うが、あなたは主体的に関与していると思っている。のみならず、あなたは一学者の見解をもとに多数の反対説もあるのに関与していると客観的事実のように断言してるでしょ?全く次元の違うことを意識的にか無意識的にか知りませんが混同させてまともでない非論理的な議論をしているのはあなたの方ですよ。

>まず各国の慰安婦制度の実態がいかなるものかをきちんと述べてそれで比較検討してもらわないと。理論的可能性に固執するのは結構ですが、現段階では妄想の域をでていません。机上の空論です。裏付けをどうぞ。

裏づけはいらないでしょ?あなたがどう思いますかと私に「意見」を聞いたので、私も意見を言っただけですよ。どちらの考え方がより客観的かを争ってはいないんですから、論理的推論のみで足りるでしょう。妄想とは、客観的にありえない非現実的な想像ですから、論理的推論とは別物ですね。これも誹謗の一種だと思いますよ。私はあなたのように一方的にレッテル張りはしませんけどね。

>あなたの反論ですが、こちらにソースをソースをと要求する割には、御自分はほとんどソースをお示しにならないという見事なまでのダブスタです。お気楽なことで。

あなたのように色々と歴史資料を調べていれば、私が依拠しているだろう資料なんか簡単に想像がつくのではありませんか?ほとんど素人レベルの一般的な資料に依拠してる発言に一々ソースなんか要求しないし自分も示しませんよ。あなたのコメント中でソースをつけなかった資料についても、私が知っている資料については私が自分から言及してるでしょ?それまでの自分の知識から外れている資料について聞いただけですよ。ダブスタと感じられたのはあなたの単なる主観ですね。私は、お互いの共通認識となっているソースがあると思われればソースを要求しないという基準でどちらにも対応してるだけです。あなたもそうだと思っていたのですが、私の買い被りだったようですね。

それと、事実や資料についてはソースを常に念頭に置くべきですが、ロジックにはソースはいりません。理論的かそうでないかのみが問題です。ヴィトゲンシュタインの著作にはほとんど引用やソースはありませんが、高く評価されていますよね。

>なるほど現在の公安委員会は業者に風俗営業を請け負わせているんですね。業者を通じて売春婦を募集したりしているわけですか。「公安慰安所」なんて聞いたこともありませんが。

まあ、この点は、解釈の相違ですね。軍が請け負わせたといえるか、主体的に業者を通じて売春婦を募集したといえるか、あなたと私では解釈が違うんだからしょうがない。』

ゆーき ゆーき 『>現在の公安委員会と風俗営業者の関係とどこが違うのか理解に苦しむ実態を、いきなり奴隷制度にワープですか。

国家による消極的関与と積極的関与は別物でしょう。』

ゆーき ゆーき 『上記のコメントは一読者氏宛です。』

ノーモア ノーモア 『>おやおや先に上から見た物言いをされた方が逆ギレですか。

逆ギレとは珍妙な。あなたは歴史学者の論文に対して「強引な解釈」といういかにも知ったかぶった物言いをしたのですよ。それが「上から見た」ものでなくてなんなのですか?そこまで仰るのであれば当然具体的指摘が出来るわけですよね?まあ今回のコメントもその意味では一切具体的なソースもなく新味に書けたものだったわけですが。で、この論文にケチをつけたのはあなたであって秦氏ではありません。「強引な解釈」と評した責任は秦氏ではなくあなたが取るべきでしょう。秦氏の言説に逃げ込むのではなくてあなたが具体的に「強引な解釈」箇所を示し具体的に反論ください。ちなみに私は「軍の主体的関与」を示す目的で当該論文を提示しました。で、軍の主体的関与に関する部分においては当該論文は実証的であったとお認めになったんですね?

>そうすると、外交保護権の放棄に行き着いて、結局法的責任は追求できませんね。

だから私は「それが認められるかは別の問題だ」と書いておいたはずですが。

>冤罪すら処罰された。証拠不十分でも処罰された。いわんや行為当時の犯罪をや。

とことんソースを示して実証的に語るということが出来ない方なんですね、あなたは。他人に実証性云々を偉そうに言う資格はゼロですな。しかも推論が穴だらけではないですか。あなたの言う常識的推論によると有罪判決の数=犯罪の数なのですか?ちなみに白馬事件が発覚した背景についてはこちらをご覧ください。

http://www006.upp.so-net.ne.jp/nez/ian/#kyosei

白馬事件以外の犯罪的行為は存在しなかったという「常識的推論」が穴だらけであることはお分かりになりましたでしょうか。

また戦犯裁判のイメージにも偏りがあるのではないでしょうか。あなたはどうも犯罪は「全て」裁かれ、裁かれるべきでないものまで裁かれたと思い込んでいらっしゃいませんか?戦犯裁判はそのような単純なものではないことはあなたのお好きな秦氏も本に書かれているわけですが。

http://d.hatena.ne.jp/Apeman/20060912/p4

>決議案の内容については、私も再度調べますが、あなたもお調べください。

http://www.sankei.co.jp/ronsetsu/seiron/070311/srn070311000.htm

あなたのお好きな秦氏が述べられていることから推測するにやはり個人補償についての法的責任云々の話はないようです。つまり今のところ日韓条約云々の話はあなたの単なる先走りだと思われます。

>クワラスミレポートとか上記サイトとか引用だけでしょ?

引用もソースも示さず穴だらけのロジックしかないのを開き直られる方に言われる筋合いはありません。私が「誹謗した」というのなら具体的な御指摘を願います。

>あなたは一学者の見解をもとに多数の反対説もあるのに関与していると客観的事実のように断言してるでしょ?

見解の相違でお逃げになるのなら結構です。つまりあなたはご自分の見解の方が優位であることを示せなかったということですから(上記のサイトは少なくとも「良い関与説」&「民間業者主導説」を論破していますから、それに対して説得的な再反論が出すべきです)。つまりあなたは「軍に主体的な関与があった説」にも一定の説得力があることを暗に認めたことになります。少なくとも私はあなたの「思っただけ」の議論に付き合う必要はありません。しかも軍による主体的な関与があったと述べている学者は上記の論文を書いた学者のみではありません。例えば彼は吉見氏の議論を「補強」しているわけです。で、軍による軍慰安施設の設置し売春婦を業者に集めさせたことががなぜ主体的関与でないのか。説得的な御説明は出来ないということでよろしいですね。解釈の違いといってもあなたはその解釈の元となる史料をお示しにならないので話にならないのですよ。

>ヴィトゲンシュタイン…

無茶苦茶なことを言い出しますね。ヴィトゲンシュタインは歴史学者だったのですか?私は一度もそう思って読んだことが無いのですが。で、歴史学の議論をするのに論理的可能性のみで史料に基づかない議論をやって評価された人の例をお教え願いたいのですが。私たちは哲学の議論をしているわけではありません。ちなみに妄想と論理的可能性は両立しますよ。論理的にはありえても現実にはありえない(=妄想)なんていくらでもあります。論理的可能性を指摘したところで裏付けが無ければ妄想ですな。

>まあ、この点は、解釈の相違ですね。

最後まで逃げるんですね。で、「公安」は「慰安所」を作ったのですか?ちなみに風俗業者をなぜ公安が取り締まるのか私にはさっぱり分からないわけですが(笑)』

考えてみれば、人間の数だけ、死は存在する。

(養老孟司 11月16日毎日新聞書評欄より)

普天の下、王土に非ざるなく、

『漢文入門』*1から引用します。

 温という国の人が周に行った。周は客(他国人)をいれない。「之に問うて曰く、『客か』と。対(こた)えて曰く、『主人(そこの土地の人)なり』と。その巷(町名)を問へども知らざるなり。吏因(よ)りて之を囚(とら)ふ。」君主は(代理人を通して)之に問う。「周の人でないのに、客に非ずというのは、なぜだ?」対えて曰く、「臣わかきとき詩を誦(しょう)せり、曰く『

普天の下、王土に非ざるなく、卒土の濱(ひん)(はて)、王臣に非ざるなし』と。いま君は天子なれば、即ち我は天子の臣なり。」人の臣であって客であることはありえない。だから主人と言ったのだと。君主はこれを解放した。(韓非子 より)(漢文と訳ごちゃまぜのいいかげんな引用。)

古代中国においてはまさに王(天子、帝)はどこまでも続く地平線の果てまでの民を、自らの臣としているという発想があったわけです。王とは支配の別名ですから、朱子的にいえば「理」でありまた20世紀的には「近代人権思想」とも接続可能です。日本は戦後狭くなっただけではなく、視野が一国主義的になり外国といえばアメリカなどの欧米を意味するようになった。本来は「普天の下、王土に非ざるなく」という西欧起源ではない普遍感覚は日本人のうちにも存在していたのに。

というわけで、ここでも野原は野口孝行氏の解放を訴えているわけで、中華を名のる国家元首であるなら、どうかこのエピソードを思い出し、北朝鮮と中国の国境線によって人は印を付けられ差別されるという思想をとらず、彼らを解放してやってほしいものです。

*1isbn:4000201018 この本は1957年発行の本なのでisbnなんてついてないかと思っていたら1992年版にはちゃんとついていた。

Re:届かない言葉/端的なもの

 今日、SOUL for SALE というサイトを熱心に読んでいて、

http://www.socion.net/soul/index.php?itemid=273

「僕が今でも各種の反対運動(戦争だって輸入権創出だっていい)に対してどうしてもコミットメントをためらわざるを得ないのは、どこかで、どうしてこの人達はこんなに元気なんだろうという疑問を持ってしまうからで、」というところを読んで、私はあーあと大きくため息をついた。“オトコノコ的心性を叩くオトコノコ”の不毛性みたいなことを書いていて、非常に鋭い方だと感心していたのに。

 「動員」とか「反対運動」とかがはてな周辺でも話題になっているらしいのだが、ほとんどフォローできていない。知らないのに批判することはできない。だから偏見まじりの感じでしかないのだが、その語られ方はほとんどの場合、大きな偏差を持ったまま出発しており、そのことにあまり自覚的でない、と言えないだろうか。

 このサイトの例では、

「その数ヶ月後、大学の構内で学生運動の活動家が内ゲバで殺されるという事件が起きる。」略ある活動家は「「事の非道理さ」を訴えかける演説をぶった。「人が死んでるんですよ!」とその女性は声を荒げて叫ぶ。」この場合、活動家の方が悪い、という言い方ができる。彼女が何を訴えたのかいまいちはっきりしないが、「命の大切さ」自体は自明でありメッセージを構成しない、つまり彼女はなにか政治的なメッセージを発しながら、それを政治的言説として分節化したうえで相手に売り込むという努力をあまり払わず、「命の大切さ」という否定不可能な命題を表現し本来の政治的含意をその裏側に隠したのだ。

 わたしのこのページのトップにも「レイチェル・コリーの殺害を許すな」と言う趣旨が書いてある。「命の大切さ」を押し立てて他人に迫るのは卑怯なのだろうか。それは違う。イスラエル/パレスチナについては、どちらの側からも、「命の大切さを押し立てた宣伝」が為されている。しかし一人の命の値打ちをより高く売りつけることに成功しているのはイスラエルの側だ。そうであるかどうか見抜くことができるかどうかが問題である。漫然とテレビ、新聞を見ていたら分からない。

で論点は、このSOUL for SALEさんは、政治的課題をそれ自身として受け取ることができず、宣伝の質の高低という問題に還元してしまう、ということだ。

 “反対運動をしている人々が元気”というのはどういうことかよく分からない。確固とした価値観に帰依しているから揺るがないというソフトスターリニストも多いが、そうした人たちばかりが反対運動をしているわけではない。

 政治的メッセージはある要請を行う。「わたしの意見に反対でなければ、~~してくれ」と。それを押しつけがましいと感じる感覚はデフォルトとしては分かる。しかし、わたしたちはアプリオリに政治(強制)の中に生きているのだ。税金や保険は強制徴収される。江角マキコはそれを認めたくない奴隷たちによって過剰に叩かれるだろう。黙っていれば、それは「イラク派兵支持」であるし「テロに対して毅然とした勇気を持つ」ことにさせられてしまう。奴隷であり続けたければ自分が最初からそう望んでいた事にすればよいわけですが。

 わたしのこの文章はたぶん、SOUL for SALEさんに対してはかなり(批判として)外れているだろう。似たようなことを言うひとが多いと感じたのでそれに対して書いてみた。監視カメラ云々についての感覚はよくわかります。SOUL for SALEさんどうも失礼しました。