神と人とが入れ替わる

サイパンで神と人とが入れ替わる

  吉田茂松

朝日川柳 6/30より。

天皇の人間宣言のことを言っている。なぜ人間宣言が出てくるかというと、日本はただの戦争をしていたわけではない。日本は神国であるという絶対にゆるがせに出来ぬイデオロギーがあり、従って降伏や投降はありえないという強固な建前があった。民間人がなぜ大量に死ななければならなかったのかといえば、神=天皇に背くことである投降はあってはならないことだとされたからである。死者の時間は動かない。したがって、彼らは、神の前で崖から飛び降りた、その少し後の姿で凍り付いたまま戦後60年間を過ごしたのだ、と考えられる。いま天皇が彼らの前に立つことにより彼らの凍り付いた時間はようやく少しづつ動き出すことができよう。だがいま彼らは天皇に何を言いたいだろう・・・

要するに、上で言いたかったことは、敗戦前と後において、主体(日本)は連続と不連続二つの面がある。しかるに、最近はその切断の体験を持つ人が極少数になったのをいいことに、日本=日本という同一性にのみ立脚して発想する人が殆どになった(ようでもある)。日本は悠久の昔からここにあった国ではなく、敗戦によって新たな国として生まれ変わった(そうせざるをえなかった)国である。それを無視するのはただのふやけたナルシズムである。とわたしはいいたい。

 ところで誰に対して「恥を知れ」と言っているのか。「ヒロヒト無罪」and「東条無罪」を支持している人々に対して、である。

(マッコイさんあてに書き始めた文章ですが、途中からそうではなくなっています。すみません。)

正しいものは自由を多く持つ

ライス国務長官

 「我々の責務は明確だ。我々は、自由の格差の中で正しい側に生きる者として、不幸にも誤った側に生まれた人々を救う義務を負う。」

この発言はむかつきますね。

自由な国と自由を欠いた国の格差に対し、幸せな余力のある国とそうでない国というのならまだわかるけど、正しい/誤ったというのはどうなんだ。自由を欠いた国を支えている国民の責任という発想か。イラク国民はフセインの時以上に不幸になっているというのが事実だと私は思うが。アメリカや日本の国民も十年前より経済的格差拡大し、自由を失っているというのが事実だと私は思う。

倫理の基準は変わっていくのか?

例えばですが、かつてひとびとは軍国主義イデオロギーに突き動かされていた、とかいったことです。そしてそのアイロニーは実質的正義によって動機付けられるとします。

その場合、戦意高揚を煽る新聞を毎日みながら、頭に日の丸のハチマキをして工場動員されたひとたち、日の丸をふって兵隊を送り出したひとたち、あるいは戦争の早期終結と被害の最小化という経済的合理性を信じて日本に空襲を行った兵士の価値観についてどう考えるべきでしょうか。これは野原さんの問題意識ともつながると思います。

この問題に答えていなかった(ですね?)

愛国心という扇動に踊らされていた個人であっても、違法性が高ければ当然責任は追及されることになる。米軍でいえば、原爆だけでなく、大空襲も戦争犯罪だという国際的常識をうち立てる方向で考えるべきだと思います。そういう価値観が成立すれば、下っ端の一兵卒であって命令に従っただけでも、少なくとも倫理的責任は発生することになる。国際的常識(それをどう確認するかは今は問わない)の確立の前と後では、個人に対して問われる倫理の質が変わってくるという理解。もちろん倫理の基準は極めて個人的なものである場合もある。しかし、戦争責任論や今回の人権擁護法案では、国民的規模での「倫理の基準」をうち立てようとしているのだ。と一旦考えて見よう。

愛国心は否定しても、「倫理の基準」はどうだろうか? 「右からの」倫理の基準は拒否するが、「左からの」それを前提とし暗黙のうちに推し進めようとしているのではないか。

現行の憲法的秩序に深い信頼と確信を寄せ、それを不断の努力によって守っていこうとする態度はひとつの愛国心といえないでしょうか。国制(Constitution)に対する信頼。

この問題にあえて愛国心という言葉を使う必要はないのではないか。戦後憲法に普遍性を見出しそれを発展させる立場ですね。

「愛国心はそもそも悪いものにならざるをえない」としても、

「不当な差別的取扱い」や「人種等の属性を理由としてする侮辱、嫌がらせその他の不当な差別的言動」を法で禁止する事は肯定してもよいのではないか。愛国心というテーマでの議論を拡散させるつもりはないので見当違いと思われたら無視してください。(人権擁護法案読んでないし。)

構成要件の明確性

(ビラをまく自由の続き)

swan_slab 『これに関連して表現の自由を制約する立法として、都道府県公安条例、破防法39条なんかが憲法問題としてしばしば論じられますね。』

# noharra 『「ビラをまく自由」を制限している都道府県公安条例があるのですか?知らないので教えてください。破防法の方は「XXを殺せ」とか書かなければ大丈夫ですよね?』

swan_slab 『道交法もそうなんですが、「ビラまき」など明確に限定してせず、例えば「交通秩序を維持すること」といった漠然とした構成要件が自治体の公安条例にはしばしば見られます。これが憲法違反(31条)ではないのかが争われることがあります。

まさに戦前の治安維持法は「安寧秩序の維持」を構成要件にして、なんでもかんでもくさいものはとっ捕まえていたわけですから、構成要件の明確性というのは重要です。』

なるほど。

漠然とした構成要件といっても、「ビラ撒き」が交通秩序を乱すことになるとは思えないのですけれどもね。

被害者は三重の被害を受ける

心的外傷に関する(もしくは歴史に関する)学究的立場から、冒険的なコミットをするというのなら、論説される通りの意味ある行為であるといえると思うのですが、例えばバウネットのような組織は学究の徒ではないですよね。もっと言えば、特定の政治的目的のために、救済の皮を被った奴らが、彼女達被害者を利用しているのではないか、という疑念が拭い去れないのです。そうだとすれば、被害者達は二重に被害にあっていることになる。

(botaro さん発言 id:mojimoji:20050210のコメント欄の文章の一部) 

なんでそういう話になるのだろうか?

慰安婦制度は犯罪であった。東京裁判以降でそれが裁かれなかったなぜか。アメリカなどの法意識が、アジア人差別と女性差別に侵されていたから、かもしれないし、そうでないかもしれない。どちらにしても犯罪であったことを公に認めて欲しいという被害者の訴えがある。犯罪被害者からのこうした訴えは認められるべきである。慰安婦制度が犯罪であった、ことを日本の裁判所が認めなかったわけではない。(時効、除斥期間、個人補償請求権の日韓基本条約等による消滅)などを適用したまでである。

「被害者達は二重に被害にあっていることになる。」このbataroさんの問題意識は、素顔の慰安婦たちの本音に近づくことが善であるという立場に立っている。bataroさんは慰安婦の発言を聞いたのだろうか。NHKも民法も放送しないから、そして自ら図書館まで足を運ぶ労を惜しむから、おそらくbataroさんは慰安婦の発言を聞かないままでこの文章を書いているのではないのか? 1/25と2/3のnoharra日記にちょっと引用していますが。

bataroさんは自らの聞きたくない権利を行使しているだけではないのか。

従軍慰安婦とは二重の加害の被害者である。一つ目はもちろん日本軍からのものだ。二つ目は戦後現地の女性差別社会において、性奴隷にされたことは汚らわしい体験であり、その汚れの責任は彼女自身が負うべきものとみなされるという抑圧である。

彼女が体験を話すと、親戚は彼女と縁を切り、夫も受け入れたがりませんでした。彼女は夫に嘆願して同居することになりましたが、妻としてでなく女中としてでした。(ヘルテルデスさんのこと)

p183 マリア・ロサ・L・ヘンソン『ある日本軍「慰安婦」の回想』isbn:4000000691

マリアさん自身は、25歳で未亡人になってから一人で子どもを育てた。ずっと秘密にしてきた。「けれども誰にも語れない秘密はいつも心にのしかかる重荷でした。(p163)」1992年のある日、ラジオで性奴隷体験者の証言を求めているのを聞いた。

全身に衝撃を覚え、血が白くなったかのように感じました。その言葉を忘れることができません。「……恥ずかしがらないで。性的奴隷だったことは貴方の責任ではないのです。責任は日本軍にあるのです。貴方自身の権利のために立ち上がり、闘ってください……」

いくらひどい被害だったといっても、50年近く前の話である。全身に衝撃を覚えるなんて言うのは大袈裟ではないか、と傍観者的には思ってしまう。だがそうではないのだ。「誰にも語れない秘密」は誰に語られなくとも50年間彼女の心の中に生き治癒されずに傷であり続けたのだ。わたしにそれが分かるわけではないがそういうことなのだろう。何十人もの元慰安婦たちが、老いさらばえ健康に不安があるのにわざわざ海を越え東京に集まったのは、「死んでも訴えたいこと」があったからだ。

bataroさんには聞きたくない権利があるのか。他者がそこにやってきた以上、声を聞いてやるのがひとの道なのではないのか。

「特定の政治的目的のために、救済の皮を被った奴らが、彼女達被害者を利用しているのではないか、」支援者には少しずつ違ったそれぞれの思惑がある。この場合各国の支援者はナショナルな枠組みから規制を受ける。だが、

支援者は被害者の救済を目的としている大枠で一致できた。

「特定の政治的目的」とは一体なんだろう。bataroさんは「天皇有罪」という判決が気に入らないのか。「天皇有罪」とは1945年までの天皇に関わり、わたしたちが親愛しなければならないのは1945年以降の天皇なのだから、わたしは別に有罪でも構わないと割り切れる。だがそうは思えない人もいるだろう。だがそれはそう感じる人が「特定の政治的目的」に立っているということなのだ。

聞きたくない権利を主張することは、サバルタンが関わる問題については、サバルタンはサバルタンのままでおれ!と既成の権力構造の側に立って、問題はないと言うことである。あるいは発言しないことによっても同じ効果を得られる。

バウネットが彼女たち自身の真実のために慰安婦に加担したことを、私は支持したい。

(6)反反ジェンダーフリー

まず、最初の書評からの山形氏の文章を読み返す。

あるいは男女の性差。男と女は遺伝的にちがうし、それは嗜好にも出る。男女の職業的偏りは、社会の洗脳のせいだけでなく、遺伝的な部分も大きい。だから女の政治家や重役が少ない等の結果平等を求める悪しきフェミニズムはまちがいだし、「男の子/女の子らしい」遊びを弾圧し、性的役割分担をすべて否定する昨今のジェンダーフリー思想は、子供の本能的な感覚を混乱させるだけだ、と本書は述べる。

10/17の(5)で、山形氏に「「~と本書は述べる」と書いて、書評対象本の要約であることを明記してある部分だけ見て、そのもとの本ではなく書評者を批判するの?」と指摘された。「野原の批判対象は、ビンカーの本ではなく、山形氏の数行の文章です。」と書いたが正確には、上記で“ ”と述べる、と書いてあるその中身の部分である。山形氏はその中身の部分については責任を負わないといわれているようだ。まあしかたないか? いずれにしても、その数行の中身についてだけ検討する。なぜかというと、前批判した西尾幹二などの反ジェンダーフリー派(「フェミナチ」なんて言葉も流行ってきているようだ!)の低級な部分に受け入れられることは間違いないように思えるからだ。

えっとまず、

1.男と女は遺伝的にちがう

->遺伝か好きなら、インターセックス差別するな。

2.それは嗜好にも出る。

->差異が存在するだけなら、それが遺伝のせいか?文化のせいか?は結論付けられない。

3.男女の職業的偏りは、社会の洗脳のせいだけでなく、遺伝的な部分も大きい。

->現在の「男女の職業的偏り」が遺伝のせいとはどう言う意味だろう。「男の方が女より力が強い」を認めよう。それによる職業的適性も存在しただろう。土木は男の職場になっていたが、最近は力仕事は重機がするので、その操作の仕事は女性にも解放しなければならなくなった。それに対して、「政治家や重役」に対してはどんな遺伝子が関与しているのか皆目分からない。

4.この文章の一番おかしいところは、3行目の「だから」にある。2行目は次のように言い換えられる。「男女の職業的偏り」が、「遺伝的な部分」(による)だけでなく、「社会の洗脳のせい」でもある。であるとすれば、「女の政治家や重役が少ない等」という現状は、「社会の洗脳のせい」を修正するぶんだけ「結果平等」を求めて是正されるべきだ、という結論になる、と読む方が論理的にはむしろ自然である。であるのになぜ、反対の結論になるのか。「結果平等を求める」=「悪しきフェミニズム」というある種の人びとのステロタイプ思考との共犯関係に陥ることを知りながら回避していないからである。

  「女と男は違う」というのは本当にそうだろうか。子供を観察していると、同性同士あつまり「男の子/女の子らしい」遊びをしているという現象も確かにある。しかし入り交じって遊んでいる場合もある。「男の子/女の子らしい」遊びより入り交じった遊びを奨励する場合もあるだろう、というか共学施設で皆で遊ばせたければそうなってしまう。それに対し「弾圧」という強い言葉を使うのは、どうなんでしょうかね。著者のイデオロギー的立場の反映でしかない。入り交じった遊びをさせても「子供の本能的な感覚を混乱させる」などという指摘は見当違いだろう。それよりも「子供は無邪気である」権利を持つ、と私は良寛と共に考える。最近のテレビなどでは、少女や幼女を男性の性的視線の対象であるべき物だという視線によって撮られた、作られた映像が数多く放映されている。あんなものは弾圧すべきだ。

  さて、「平等という前提」よりも、この問題にもっと直接関わるのは「人間の可塑性」という論点だろう。これについては、「大野了佐と中江藤樹」として上に触れた。女であれ男であれ各自の間には差がある。自らの内にあるある特性が、<良知>に照らし障害であるとしか考えられなければ、是正すれば良いしそうでなければ放置するだけだろう。存在の深みに比べ、男女の差異は表面的なことにすぎない。*1

  「あなたがたは知的エリートとしてそれがフィクションであることを知っているけれど、愚昧な大衆をコントロールすべくかれらにウソを教え込んでいる、ということですね。そのウソをばらすな、と。」と山形氏が書いたときに念頭に置いていたことがどういうことなのかわからない。「人は努力すれば何かになれる」という教えは確かに「愚昧な大衆をコントロールす」るのに適当な思想だった、と言えるだろう。だが、私たちは一度は明治維新を成し遂げた。「良知即ち天命を知れば、世に工夫して成らぬ天命はなし」という思想がそれを成し遂げたと理解することもできる。

*1:そうではないという意見もあるだろうが。

北朝鮮は飢餓へ

http://renk-tokyo.org/modules/news/article.php?storyid=107 RENK東京 – ニュース

9/29の李英和講演会について上記で三浦氏が書いてくれています。

幾つかあげると。

まず、モンゴル国境で妹をかばって中国国境警備兵に銃殺された少年(RENK里子)について、李代表がテレビの報道番組のビデオを流しながら報告。この一家は当初からRENKが保護しようとしてきたが、残念な結果に終わったこと、しかし、今父親と妹は韓国におり、中国で行方不明になった母親を何とか救出するという責務が残っている事などが報告された。

さらに、李代表は、もちろん逃げる難民に対し銃を水平で乱射する行動は許せるものではないが、現場の証言によれば、中国の兵士はさらに銃剣で倒れた少年の遺体を突く行為にまで及んだ。しかも、中国政府はまるで殺された少年がテロリストでもあったかのような(武器を持っていたとか銃を奪おうとしたとか)虚偽を平然と述べており、あらゆる意味で許し難い姿勢であることを強く批判。

代表によれば、脱北者の多くは、何とか年内は持つかもしれないが、来年からは食糧事情は再び90年代危機に匹敵する飢餓が訪れると考えていると言う。この予想には数字的根拠があると李代表は言う。

北朝鮮における米の値段の推移

2003年7月1日  この時期金正日が経済の自由化、改革を発表する

           米1キログラムはこの時点で40ウオン

     9月                 180ウオン

2004年1月                 300ウオン

     3月末                400ウオン

     7月                 500ウオン

     8月初めから           700から900ウオン

     9月                 1400ウオン

最後に、「現在の中国の対難民政策に、多くの人達が抗議の声を挙げることを呼びかける」と結ばれている。

わたしも彼の意見を強く支持したい。

美しき日々

今日酔っぱらって帰ってきて何げなくテレビを見てたら、韓流のドラマをやってた。数人の若い男女がもつれあいながらドラマがどんどん進んでいくようで、演技とか上手くない俳優も多いし、吹き替えの声はそれ以下で何だか今ひとつ紙芝居っぽいんだけど、でも場面の転換が早く、10人以上の登場人物のどの組み合わせにも秘められた過去があるようで、つまり、ヘテロな恋愛だけじゃなく兄弟愛や親子愛、友情などすべての引き合う力の強さが張り巡らされており、とても面白かった。

http://www3.nhk.or.jp/kaigai/beautiful_days/

美しき日々 Beautiful Days

石垣りん死去

 詩人の石垣りん(いしがき・りん)さんが26日午前5時35分、東京都杉並区の病院で死去した。84歳だった。

 20年、東京・赤坂生まれ。34年に高等小学校を卒業して日本興業銀行に入り、75年の定年まで勤めた。

http://www.asahi.com/obituaries/update/1226/003.html

 ひたすらに心に守りし弟の

 けさ召さるるとうちひらく

 この姉の掌(て)に照り透る

 真珠(まだま)ひとつのいつくしさ。

(石垣りん「眠っているのは私たち」・ちくま文庫『ユーモアの鎖国』p265)

昭和一八年七月、彼女の弟に召集令状が来た時の詩。

彼女は当時そうしなければならなかったとおり「おめでとうございます」と言って彼を送り出した。

この発語は彼女が生きている限り、過去のものとならなかった。

 とうぜんの義務と思ってあきらめ、耐え忍んだ戦争。住んでいた町を焼かれても、人が死んでも国のためと思い、聖戦も、神国も、鵜呑みに信じていた自分を、愚かだった、とひとこと言えば、今はあの頃より賢い、という証明になるでしょうか。私の場合ならないのです。

 戦争当時とは別な状況。現在直面している未経験の事柄。新しい現実に対して、私は昔におとらずオロカであるらしいのです。

 もう繰り返したくないと願いながら、繰り返さない、という自信もなく。愚か者が、自分の愚かしさにおびえながら働き、心かたむけて詩も書きます。

 ………………

 戦争の記憶が遠ざかるとき、

 戦争がまた

 私たちに近づく。

 そうでなければ良い。

 八月十五日。

 眠っているのは私たち。

 苦しみにさめているのは

 あなたたち。

 行かないでください みなさん どうかここに居て下さい。(「弔詩」より)

(同上 p267)

2004年自衛隊はイラクに派兵された。小泉首相の態度は最悪の無責任だ。死者たちはいまも、「苦しみにさめている」のだろうか。死者たちの言葉を聞く者たちは死に絶えつつある。大義のない戦争は継続している。